2006年7月・8月・9月
2006年9月30日
観劇、観賞諸々。
気がつけば9月も終り。
前半猛烈に仕事した反動か、後半少々気が抜けた。現在次回作絵コンテ思案中で頭が痛い。
コミックバーズ11月号が送られてきた。
印刷は文句無しだったが、少々誤植というか台詞の入れ違いが一ケ所見つかる。『絶望戦争』3P目右下のコマの「よし、ついてこい」と「は・・はい、たぶん」の吹き出しに入れる台詞が逆。これでは影男とその上官である暁剣の人間関係がおかしくなる。まあ、ミスは此所だけだったので読み進めていけばその辺りは問題ないのだが。
影男が人に「ついてこい」なんて言ったら影男のキャラクターではなくなるし・・。
それはさておき、最近観た映画と演劇。
『時をかける少女』を先日渋谷で観賞。なかなか面白かった。
『ゲド戦記』ほど宣伝されていなかったせいか、余計な雑音も入らずに純粋な気持ちで観れた。
重厚な背景画を担当した山本二三氏(『未来少年コナン』の頃から注目していた人)とシンプルな人物画とのミスマッチが最初違和感を感じたが、ストーリーに集中できたので途中から気にならなくなった。
原作小説も原田トモヨ主演の実写版映画も観た事がなかったのでリメイク作品という感覚もない。
この作品には「モテモテ男子高生」二名が出てくるが、自分の高校生時代はこんな陽の当るポジションなど無縁の世界にいたので絵空事のよう。
でも主人公の女の子設定は興味深い。彼女のようないつも男子グループに混じって遊んでいる女の子っていたよなあ。あれは何か不思議だった。大抵女子は女子でグループを作ってその中で行動するのが普通。性格が男っぽい女子って必ず異端視されて、女子グループから弾かれていたのが理由なのかもしれないが。
男子の遊びの輪に入ってくる女子はやっぱり変わり者が多いのかも知れない。
あと、今週お芝居を観た。
「双身機関」という劇団演じる「カッコー’sネスト」
この芝居は夏のコミケット新刊の時にお世話になった大学後輩の名古屋在住ライターI氏が関っており、その伝手で拝見させて頂いた。
劇場が分かりにくい場所だったため、かなり遅刻して入場。途中から観劇という大失態。だが精神病棟を舞台としたストーリーでなかなか共感出来る作品だった。劇中の「僕らはいらない人間なんだ」という台詞はビビーンとくる。全編観る事が出来ずに惜しい事をした。
観劇後、そのI氏と、同じく大学の後輩ひとりをを加え三人で神楽坂界隈のロシア料理店で飲む。I
氏は遠方に住んでいるのでこうして三人揃うという機会は稀で貴重な時間だ。
後輩の一人が大学サークル時代のアルバムを持ってきたので、それを肴に話が盛り上がる。
もう25年前の記憶を掘り返して、ああだこうだと当時を語る。青臭い学生時代を捉えた写真も四半世紀を超えた今では貴重なアーカイブス。剥がれたタイルが埋め合わされるかのように当時の記憶が蘇る。
もう、皆40半ばなのだ。
結婚して親父になった者もいれば、時間が止まったように全然変わらない者もいる。
ふと、アニメ映画「時をかける少女」を思い出した。
この頃に戻って何かをやり直したらどうなるだろうと?
25年前のサークル合宿の夜に突然戻って、自分の人生をやり直すのだ。
だが、結果はきっと変わらないのだろう。いや、もしかすると今の自分は、何回も時を遡ってやり直した結果なのかもしれない。
まあ、そんなどうでもよい妄想で夜も更けていく。
この日のお酒は妙に旨かった。
2006年9月27日
「東京カワイイ★ウォーズ」と「ニート援交」
冴えない毎日を悶々と送っている絶望独身男性にとって、どこぞの世界の話だと頭を抱え込みそうな奇々怪々なるTV番組を観た。
まずはNHKスペシャル「東京カワイイ★ウォーズ」。
エビと称されるカリスマモデルが登場し、日本のファッションシーンはそんな「普通っぽい女の子」が発信するのだという内容。
その合い言葉は「カワイイ」。
「カワイイ」が世界を征するらしい。
デパートのフロアが婦人向けファッション店鋪に支配され、哀れな独身男性を追い払って、「金余り」な若い独身女性の財布から「カワイイ」という呪文で散財させる戦略を、わざわざ「天下」のNHKがこと詳しく「分析」していることにどれだけの意味があるのかは知らぬが、これも「男女共同参画」イズムの為せる業であろう事は容易に想像出来る。
己の容姿を装飾するだけに血道を開ける婦女子の営みをそこまで仰々しく取り上げ、そんな婦女子を嬉しがらせたところで、彼女達が社会貢献に目覚めるという訳でもあるまい。
「渋谷109」とか「東京ガールズコレクション」とか「リアルクローズ(real
clothes)」などという「呪文」が世界を変革する重要なキーワードになると囃し立てても誰が信じるのか?
女は常に己の美しさや可愛さを磨く生き物であって、この世界をより発展創造する役割は担っていない。もはや出産、子育てすら放棄した彼女達にとって「カワイイ」は自己完結な世迷い言でしかない。
そんな世迷い言を、まるで革命が起きたのごとく大袈裟に伝えるこのNHKスペシャルはどこか狂気じみている。
時代錯誤のブランド経営者や欧米気触れなファッションデザイナー、そして日本のコンテンツ産業等ヲタク趣味を卑下するような輩を登場対比させて、さも「カワイイ」至上主義の素人女の子が時代を切り開くかのような印象を与えているが、所詮は巨大アパレル資本の手の平で踊らされているだけの話。
気紛れに見える婦女子の流行も緻密に計画された故に遷ろうのであって、そこらに歩いている女一人の発想に因って産まれるのではない。
実は女性自身がその「真実」を一番よく知っている。
よってこの番組に在るのは、恰も「素人女性が世界を作っている」かのように見せ掛ける茶番と欺瞞だけだ。
結局の処、こんな番組を根底で支える「男女共同参画」なる思想も同様に怪しいのである。
さて、この番組に更に環をかけて胡散臭かったのはTBS「ニュース23」で取り上げていた「ニート援交」なる婦女子のレポート。
ニートで引き蘢りな20代女性が「援助交際」によってのみにしか生計を立てることが出来ない「気の毒」な情況を、これまた胡散臭い女性作家や女性弁護士が「支援」するという内容。
まずタイトルからして破綻している。
「ニート援交」とはなんぞや?
「ニート」というのは、いわいる無業者で職業訓練も受けていない者を呼称する時に便宜上使う言葉であった筈。また「引き蘢り」は殆ど部屋に閉じこもって外部との関係を断つ者を呼称するのではなかったかな?
ところがこの番組に登場する「ニート援交」さんは立派に外へ出て「仕事」をしている。月18万も稼いでいるというではないか?
この何処がニートで引き蘢りなのだ?
「援助交際」等という欺瞞極まる言葉を使ってはいるが、実質売春である事は明白で売春だって立派な職業ではないか?
だったらソープ嬢もニート、引き蘢りなのか?
この女性はニートでも引き蘢りでもなく、ちゃんと職業を持った女性であり、その職業が恥ずべきものかどうかは個人の問題であって社会がどうのこうの口を挟むべき事柄ではない。
そもそもこれをニートや引き蘢り問題とクロスオーバーさせるところに胡散臭さがある。
基本的に自分をニートや引き蘢りと称する女性は殆どが勘違いしている場合が多い。
自称ニート引き蘢りの女性に限って恋人が居たり援助交際相手が居たりする。外部に精神的肉体的経済的支援を期待出来る異性が存在していれば、もはやニートや引き蘢りではない。
実際、女性に純粋なニート、引き蘢りは存在しないと言ってよいだろう。「ちょっと変わった女の子」までニート、引き蘢り対象にされて保護を受ける「可哀想な社会弱者」として扱われているのはどう考えても異常だ。
一方、真に保護されるべき対象の独身男性たるニート、引き蘢りは常にマスコミから疎外される。
彼等がメディアから注目されるのは決して保護される立場としてではなく「犯罪者予備軍」、「社会の敵」として攻撃の的にされる時だけだ。
いや、健常者の男性すら常に痴漢、買春、セクハラ加害者としてメディアから「社会の敵」と糾弾されている訳だから、ニート、引き蘢りとなれば尚更だろう。
「ちょっと変わった女の子」が売春という職業を選択すると「気の毒な保護すべき社会的弱者」としてメディアは同情一辺倒だが、やむおえず無職で家に引き蘢もらざるを得ない独身男性には、何もしていなくとも「犯罪者予備軍」として監視せよと怒号を上げる。
そんな番組ばかりを垂れ流すメディアの根底には常に「男女共同参画」というプロパガンダが存在している。そのプロパガンダによって、日々迫害を受け、絶望に陥っている日本男子に救いの手は誰も差伸べない。
「カワイイ」も「ニート援助交際」も迫害対象の男子にとってはどうでもよいことだ。
「革命ごっこ」や「不幸ごっこ」は何処か余所でやってくれ。
2006年9月21日
雑誌アンアンのつり革広告とドラマ『結婚出来ない男』
キンモクセイの香る季節がやってきた。
此所数年、なぜかこの花の匂いが気になる。かつては気にも止めなかったのに不思議だ。歳が往くごとに季節の折り目を確認したくなるのだろうか?
そんなこんなでボケッと電車の中で虚ろ虚ろしていた時に視野に入ったつり革広告。
「知りたい。恋愛読心術!ああ男の気持ちが解ればどんなにいいか!」
例によって女性誌の特集宣伝文句である。
恐ろしい!
此所で語られる「男」というのは、おそらくペ・ヨンジュンか阿部寛かジョニーディップかジャンレノか、あるいはSMAPメンバーレベルの「男」を指すのであって間違ってもそこら辺にいる自分を含めた「どうでもよい雑魚男」ではないのだろう。
読者対象の女性にとって「雑魚男」は男ではなく、3m以内に立ち入る事すら許したくない「汚物」でしかない。
ならばタバコの注意書きのようにこの広告も配慮すべきなのだ。たとえば
「此所で対象となる男性は年収1000万以上、ルックスはジャニーズ系以上とさせて頂きます。それ以下の男性は含みませんので御注意下さい」
まあ、勘違いする男性も居るとは思えぬが、間違っても「もてない男」は女性が気に病む「男の気持ちが解ればどんなによいか」などという悩みの対象外だから安心しよう。
彼女達にとって「恋愛対象外の男」は一言
「キモイから向こう行け!動く汚物!」
で済む訳で実にシンプル。
ただひたすら逃げ回って接点を持たないようにするのが女性に対する「雑魚男」達の最低のエチケットであろう。
ゴミたる「雑魚男」に気遣いされても女性からすると迷惑なだけなのである。
それはそうと、同じ電車で阿部寛が出ている広告も見かけた。
つい、先日までテレビドラマ『結婚出来ない男』の主人公をやっていたのが記憶に新しい。タイトルが気になって何回か観たのだが最終回は見逃してしまった。
高収入、高身長、ルックスもよいのに結婚出来ない男を演じる阿部寛。自分のような「ゴミカス男」からすると阿部寛のごときイケメンが「結婚出来ないと悩んでるふりをしていますが、俺はホントはもてるんだよ〜ん」的な穿った見方しか出来ないのだが、それはさておき、ドラマでは女性に対して何時も「余計な一言」を発してしまい、女性の怒りを買ってしまう男が演じられている。要するに「女の気持ちが解らない」マイペースな男なのである。
さっきの女性誌の特集記事とは逆なのだが、異性の気持ちを察するのは異星人とのコンタクトを計る以上に難解で理解しがたいと思われる。
逆に言えば、解らないから「男と女」なのであり、安易に理解できたら恋愛とか結婚も成立しないのではないだろうか?
結局は「察しと思いやり」であって、そういった行為がマメに出来る人間がコミュニケーションにも長けて恋愛も比較的上手くいくのかもしれない。
己を優先する人間は所詮、相手の気持ちを察する事は出来ない。恋愛とは相手の気持ちになって行動する事なんだよ・・そんなことを訴えたいドラマであったような気がする。
もっとも阿部寛みたいな男はどんな無愛想だろうが冷血漢だろうが、男として優位な外観を有している訳だから、ほっといたって女は勝手に寄ってこよう。
このドラマの主人公は「結婚出来ない」のではなく「結婚しない」のである。
女性誌の対象になる女性読者も「恋愛、結婚出来ない」のではなく「恋愛、結婚しない」だけの話だ。ちょっと切羽詰まってきたから、そろそろ最終就職先でも見つけるか程度の乗りであって、どっちみち生死に関る事でもない。よい男が見つからなければシングルでも構わないという余裕が見え隠れする。
ドラマ『結婚出来ない男』もアンアンの特集記事も所詮は余裕のある男女が
「ちょっと悩んでみるポーズをしてみましたが何か?」
的レベルであって、結局の処「洒落」なのだ。
その気になったら、いつでも恋愛結婚OKという男女が「そろそろ本気でも出しますか」というサインにも受け取れる。団塊Jr.も「これまでのようにシングルばかりが人生じゃないし、タイムリミットもあるし」と気がついてきたのかも知れぬ。
出生率が僅かに上昇しているのも、これらドラマや女性誌特集と無縁ではなかろう。
一方、相変わらず無縁なのは絶望独身男性。
半永久的に恋愛や結婚の対象にもされず、真の意味でどう足掻いても「結婚出来ない男」たちは、ドラマの対象にも女性誌の特集にも上らない。
そりゃそうである。
彼等の情況は「洒落」ではないのだから。
仕事も人生の生き甲斐もなく、ましてや恋愛結婚の対象にすらされない「いらない人間」絶望独身男性。
飢餓難民と同列で語られるべき真の不幸な人々であるにも拘わらず、やれニートやら引き蘢りと非難されるだけ。なぜなら不幸な人として取り上げてしまったら「保護対象」として扱わねばならず、やっかいなことになろう。だから真の「結婚出来ない男」は世間から「存在しない事」「いらない人間」にされているのだ。
たぶん何兆円もの「男女共同参画」予算はその「厄介払い」のために存在していると確信する。
ドラマの対象にも雑誌の記事からも無視されて底辺を彷徨うしかない絶望独身男性。
不幸此処に極まれりであろうか?
恐ろしい。
2006年9月17日
『サザエさんをさがして』
朝日新聞の付録「be」に『サザエさんをさがして』というコラムがある。
昭和30〜50年当時の世相をよく現していた朝日新聞連載四コマ漫画『サザエさん』(長谷川町子作)を題材に当時の出来事を振り返るといった主旨なのだが、結構面白い。
そこに描かれていた世界観は正に自分の子供時代そのものであり、紛れも無い「生きた証」であった。
その「証」を克明に描いていた『サザエさん』はやはり偉大だと感じる。
前のめりに生きてきた高度成長期、今日よりも明日が「未来」だった頃。手塚治虫が漫画の神髄と唱えた「批判、風刺」が何の躊躇なく描く事の出来た時代だから『サザエさん』もこの上なくリアルでありのままだ。
朝日新聞という公の代表みたいなメディアの紙面に、四コマながらも当時流行した物品やらファッションが思いのほか細かく描かれていたのには吃驚する。
だからこそ、今振り返っても貴重な時代の記録として色褪せる事がない。
奇妙な事に、現在掲載されている朝日新聞の四コマ漫画を観ても『サザエさん』が持っていた「時代のリアリティー」を感じる事が出来ない。
しりあがり寿氏にしてもいしいひさいち氏にしても克明な描写を避ける作風が影響しているのか、絵を観ても何時、何処の世界を描いているか解らないのだ。
昨今、話題になっているミクシー、飲酒運転、秋篠宮家男子生誕等という世相の話題を端的に現した新聞四コマがあったか?
あまり記憶にない。
たぶん10年後に現新聞四コマを読み返したとしてもこれが2006年に描かれたものか判断出来るかどうか甚だ疑問だ。
おそらく『サザエさん』との大きな違いは「固有名詞」の表現度合いだろう。
個人情報保護とかで風刺する対象が絞れない。だからピンぼけみたいな四コマばかりになる。これでは読んでも面白くないのは当然だ。
世相を端的に表せない創作物は虚しいし、表現者からすると受難の時代でもあろう。
ある意味『サザエさん』の時代は表現者にとって大いに恵まれていたのだ。
今は何を描いても空虚が付きまとう。
あらいる規制や保護が創作物から魂を奪う時代に新聞の四コマ漫画は存在意義を失っている。気がつくと「検閲」に匹敵する程の規制で雁字搦めではないか?
いっそ現代世相の風刺描写なんかやめて、希望の昭和時代に生きた人達の訃報を四コマにした方がいいんじゃないかと思う。
訃報四コマ漫画。これなら描けそうだ。
依頼が来ないかな?
2006年9月16日
「電灯線通信」に神罰を。
自然との対話が本当に可能かは知らない。
が、少なくとも自分は自然現象の一部である気象や大気、宇宙からの様々な現象を観察するのが好きだ。
ガイアという、いわゆる地球全体が一つの生命体である説に賛同するし、その鼓動である風や大地や電磁波のうねりに「宇宙」を見い出せる希望がある。
ところがその希望を破壊せしむ醜悪な情況が進行中だ。
最近、新聞誌上で「電灯線通信」解禁というニュースを聞く。
この「電灯線通信」というのはコンセントからでもインターネットが繋げるというシステムだ。つまり電灯線が電話線を兼ねる事が出来る。一見便利なように思えるが、これには重大な弊害がある。
電灯線がアンテナのような振舞いをしてしまい、送電線から相当なノイズをばらまいてしまうのだ。
このノイズによってラジオ放送(短波帯)や電離層を介する無線通信、更には電波宇宙天文学、非常緊急通信等が著しい妨害を受けてしまい、事実上使用不能となってしまうのだ。
電離層を介する無線電波は即ち、地球上層大気の鼓動を聞くのと同じ。その鼓動から地球そのものの「声」を知る事が出来る。
それは未知との対話でもある。
それが「電灯線通信」によって失われてしまうのだ。
「電灯線通信」はあらたな環境汚染であることは紛れもない事実だ。エーテルの中に忌わしいノイズという汚物を垂れ流し、ガイアとの対話を阻害する。
こんな悪行は即刻中止させねばならないだろう。
しかし、利益追求だけを急ぐ通信業界は「利便性」を謳い文句に、その実用化を急ぐ。天文学会や無線界から多くの反対を受けているのにこの愚行は歩みの度を速める。
電話線のみならず電灯線までネット漬けにしてどうするというのか?大気にノイズをまき散らしてまでネットに優先権があるとは思えない。
ネットの9割はゴミである。
毎朝、メールチェックをすると大半はスパムメール。そのゴミを捨てるのにどれだけの労力がいるか。汚物溜りと化したネットに更なる電灯線というゲートを与え、今度は汚染物質たるノイズを神聖なる地球大気にまでまき散らそうというのだ。
これは正に神に対する冒涜に値しよう。
俗欲に溺れた誘惑や女子供の下らない戯れ言で溢れたインターネットは電話線という「下水道」の中でのたうちまわっていればよい。
「電灯線通信」によって神聖なガイアとの交信手段を失えば、人は宇宙を知る術を無くした盲と同じ。
天に唾する「電灯線通信」に神罰を。
2006年9月15日
『新世紀エヴァンゲリオン』再映画化
先日の新聞に『新世紀エヴァンゲリオン』再映画化の記事が載っていた。オリジナル総監督の庵野氏やプロディーサーの大月氏も絡んでいるようだが、高揚感も何も感じない。
「ヤシマ作戦」で描かれた日本全国が停電していくシーンをリアルにリメイクするという記事があったが、それがこの作品にとって如何程の意味があるというのか?別にそんなシーンがリアルに付け加えられたところで観たいとも思わない。
最近「エヴァンゲリオン クロニクル」という雑誌も発刊されたがどうも触手が動かない。
そもそもこの作品は1996年当時の世相を反映したフィクションともノンフィクションともつかない「映像の濁流」であって、その時代背景無しには存在し獲なかった「魂の叫び」だった。
特にオウム真理教事件との暗黙のリンクがあったからこそ、この存在意義は大きかったのだ。
単なるリメイクばかりが流行る時流に乗っただけの再映画化という「商品」に高揚感を獲ようとしても無理な話だ。
もっとも2006年現在の世相を反映した新作を制作しようにも、表現を許される環境はすでに失われ、過去のブランドに縋って食い繋いでいく以外、今のクリエーターが生き延びる術は無いのかもしれない。
最近、たまに企画意図の解らない映像作品を見かける。
なにやらオオサンショウウオの縫いぐるみが出てくる邦画がCMで流れていたが、一昔前なら大学や高校の映研が面白半分で撮っていたような「素人」風味の作品が大々的に宣伝されているのを観て、もはや制作基準が何処にあるのかさえ解らない。
人の趣味各々と言ってしまえばそれまでだが、これでは余りにも虚しいのではないか?
才能ある表現者が日本にたくさん溢れているのは紛れもない事実だ。
だがそれらの者達を取りまとめ、適格にプロデュース出来る人間は恐ろしく欠乏している。これは絶望的でさえある。
怪しげな米国産の牛肉で「一日限定牛丼祭り」を企画出来る人間は居ても、日本の次世代基幹産業と言われるコンテンツ分野で戦略的にプロデュースする者はまったく居ない。
結果、才能あるクリエーター達は愚にもつかない馬鹿馬鹿しい仕事でその能力を削ぎ落されて朽ちていくしかないのだろう。
・
再映画化する『新世紀エヴァンゲリオン』には新たなエンターテイメント志向なラストが用意されているという。
いっそ、主人公碇シンジがパチンコで破産してサラ金に追い立てられ、橋の下で野垂れ死ぬというラストはどうだろう。
その死亡保険金の行方は何処に?
少なくとも2006年の世相を反映しているから納得するファンも多いのではないか?
これなら観てもよいかも。
2006年9月14日
商業原稿完成。
8月から最大戦速で作画してきた新作がやっと脱稿。
締め切りに何とか間に合う。
睡眠時間も犠牲にして仕事に集中していたのでホームページの更新等全く出来なかった。
よく考えてみると、ネットに費やす時間など昔はなかった訳で、つくづくネットというものが仕事時間を食い潰す「化物」になっている事が如実に解る。
気候はいきなり残暑から20度底底の涼しさ。
ついこの前まで半裸で平気だったのに長袖が無いと寒い。あまりのギャップに身体がついていかない。
それにしても9月の長雨は憂鬱だ。雨の降り方も長く激しく質が悪い。
近年は梅雨時よりも9月に豪雨被害が著明なような気がする。
此所数年「爽やかな秋」というイメージは何処にも無い。
・
この夏のコミケット新刊が漫画専門店『とらのあな』でも扱って頂いているのでこちらでも購入可能です。
お試しあれ。
2006年9月5日
気がつけば9月。
最大戦速で商業原稿ペン入れ中。
毎度の事ながらちまちま細かすぎる下書きにひたすらペンを入れている。
これを片付けるまで日記更新滞りがち。
御容赦。
2006年8月27日
コミティア77。
創作同人誌イベントコミティア77も無事終了。
参加者お疲れ様でした。
この日、ビッグサイトでは別の同人誌イベントも開催されていて入場ゲートが分かれておりちょっと戸惑う。
今回は通路側から見て左隣のサークルが欠席で妙な感覚。すっぽり隣が空いているというのも気になる。
午前10時過ぎの入場だったので準備に慌て余裕無し。今回は会場内に久々に飲食販売ブースが入ったが、ドリンクは紙コップの氷水だけ。これではブース内に持ち込みづらい。
結局場外に出られずドリンク無しで過すしかなかった。それでもお知り合い等の協力により何とか独り参加でも乗り切る事が出来た。
この場を借りて感謝。
このコミティアで8月の週末イベントも完了。
去る夏を惜しむようにビッグサイトを後にする。
帰りの中央線、車窓から高円寺阿波踊りをちらりと望む。今年は見物には行けなかったがこの遠雷のような高円寺阿波踊りの歓声が風に乗って聞こえてくると、もう夏の終り。
今年もあと4ヶ月。
2006年8月19日
テレビ番組感想諸々。
商業誌原稿の締めきりが切迫してきたため、なかなか日記更新も間々ならぬ。8月は日記で述べたい事やイベントがめじろ押しなのだが、それを全てやっていると原稿を落しかねないのでかなり自制モード。
それでも今日、どうしても外せぬ所用があったので仕事を終えた後、徹夜状態で外出。
徹夜で35度の体温に近い外気温で炎天下を歩くのは危険だ。朦朧としてきたので早めに帰宅。
部屋に戻ったら室温が40度。
洒落にならない。
・
先日、NHK総合で『宇宙へ』という米ソ宇宙開発競争のドキュメンタリードラマを放映していた。イギリスのBBCが製作したものだが、これがなかなか良く出来ていた。アメリカのアポロ計画を担ったフォン・ブラウンや旧ソ連のコロリョフという宇宙開発担当者の生い立ちがリアルに描かれていて思わず見入ってしまった。
ちょうど終戦特集番組が数多く放映されている中。旧ソ連の発射台に据え付けられた超SF的ロケットの神々しさに靖国神社をダブらせてイメージしてみると感慨深い。
実は靖国もサターン5型ロケットも本質は同じ処にあるのではなかろうかと。
そういう崇拝の対象を失った文明はむしろ虚しいんじゃないかと考えさせられる。
戦争で酷い目にあったというが、酷いと言うならば昨今のフェミファシズムによって抑圧されている独身男性の情況も目を覆う惨状とも言えよう。戦争のように物理的被害はないから分かりにくいが、かなり深刻である事に変わりない。
メディアが語るべきは61年前ではなく、今日の禍をどうするかが先決であろう。
2070年頃に少子化、人口減、そして男性の希望と未来を奪った今日のフェミファシズム禍を反省する番組を作っても遅いのである。
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『アド街ック天国』が阿佐ヶ谷特集だったので暫し視聴。
飲食店の大半は「知る人ぞ知る」なので永年地元に住んでいても知らない店が多い。「灯台下暗し」というか、むしろ阿佐ヶ谷に3ヶ月位しか下宿していない住人のほうが飲食店の知識は豊富かも知れない。
あと「家族で居酒屋に行ける街」とか紹介されていたが、そんな習慣はなかったなあ。『一番街』などは子供の頃、近づいてはいけない場所のひとつだったような。阿佐ヶ谷でのジャズの祭典も馴染みがない。阿佐ヶ谷在住の芸能人もたくさん出てきたが、誰一人見かけた事がない。もっとも自分がほとんど家の中に引き蘢った生活している訳だから当たり前か。
『うさぎや』とか『ねじめ』とか有名なお店は別として、普段何気なく通り過ぎている店とか場所が紹介されていると、それぞれの歴史が垣間見れて感慨深い。
でも税金対策や土地の有効利用とかでぶっ潰されている阿佐ヶ谷の緑地や庭の惨状レポートは一切なし。阿佐ヶ谷は南北に広いので駅周辺ばかりでない阿佐ヶ谷紹介番組があってもいいじゃないかと思うが期待するだけ虚しいか。
2006年8月14日
コミックマーケット70来場感謝。
暑中、当スペースまで足を運んで頂いた紳士淑女各位に御礼申し上げる。
前日の大雷雨でどうなる事かと思ったが、当日は安定した夏空が広がり正にお祭り日和。
思えば今回でサークル参加連続24回。干支がひと回り。
人的交流も増え、このイベントが一つの「世間」のような感じもする。
一般社会から孤立して引き蘢っていた者が、この夏冬2回の祭典に這い出してきて、一瞬の「世間」を構成する。
乾燥した砂漠に雨が降り、その一瞬だけ花畑と化すかのよう。
さて、今回は増え過ぎたアイテム対策に卓上カタログスタンドを用意しスペースもかなり効率良く使う事が出来た。午前中、自分一人だったのでちょっとバタバタ。もしかするとお釣の計算間違いがあったかも知れぬ。申し訳ない。
午後から売り子さんが来てくれたが終日自分のスペース内で過した。昨年の夏もそうだったが午後2時を過ぎると人の数が減るのが早く、撤収するサークルも目立つ。晴海の花火大会がこの日に順延されたのも影響しているのだろうか?午後からゆっくりやってくる参加者が減ったのかもしれない。
一方、参加年齢層も幅広くなってはいるが、みなルックスが「年齢不詳」の人が多く、いかにも30代40代という風貌の人は皆無。この辺りが特殊な人々の集まりを物語る。
ところでアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』がブレイクしたというが、そのキャラクターコスプレをスペース周辺で見かける事はなかった。ちょっと残念。
13回放映の短いアニメ作品ゆえに人気上昇中に終了してしまい、更なる知名度の拡大が見込めないのが原因だったのかもしれない。自分もこれから本格的に視聴しようと気合いをいれたらいきなり最終回。結局マトモに観たのは2回の放映分のみ。
『涼宮ハルヒの憂鬱』は、今回のコミケカタログサークルカット応募時はまだ放映前だったし、次回のカタログ応募時にはもう放映終ってしまっているという痛いタイミング。同人誌ネタとしては如何ともしがたい。やはり少なくとも26話、半年分の放映でないと大きなムーブメントになってくれないか?
それはさておき、コミックマーケット70も無事終了した。
帰り道、振り返ればビッグサイトに入道雲。
また冬に再会を。
2006年8月12日
コミックマーケットあびゅうきょサークルの御案内。
すでに最新情報等でもお知らせしているように、明日13日コミックマーケット70(8/11〜13・東京ビッグサイト午前10時〜午後4時)にて、今回もあびゅうきょサークルが出店します。
販売スペースは13日(日曜)東地区”モ”26a
新刊は
『多摩モノレール堰場幻影』。及び他既刊オフセット、コピー本等頒布予定。
会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。
お誘い合わせの上、御来場いただければ幸いです。
2006年8月9日
夏祭。
8月に入ってから、やっと首都圏も夏らしくなった。
大平洋高気圧が東日本まで張り出して夏空が広がった。7月はずっと曇り空が続いていたので特段眩しく感じられる。
大平洋上に3つ台風が並び、相対的に日本上空の高気圧の勢力も高まって猛暑が続きそうだ。
夏と言えば祭。
それも夜。
夏の思い出は夜、作られる。
華やかな浴衣が目立つ昨今、考えてみると都心での花火大会やお祭りが妙に盛り上がっているのも近年の特徴。
高度成長期の東京では、そもそも夏祭自体の存在感が薄かったと記憶する。隅田川の花火大会も川の汚染で姑くの間、開催されていなかったが、それで不自然さを特に感じる事は無かった。
それにお盆時期になると「都民」は大挙して帰郷し、祭りはその帰郷先で楽しむものという概念が強かったのかもしれぬ。
下町を除いて東京の夏祭りはほんの一部の地域商店街が客寄せイベントとして催す位のレベルだった。そのような場に華やかな浴衣姿の娘の姿など皆無に近かった。
更に当時は今と比べ「自由に行動する女子」の範囲が極めて狭かったから、祭や花火大会に若い女性が大勢やってくる情況は考えにくい。
あの頃は親子連れの中に、母親と娘しての「女性」しか存在しえなかったのだ。
だが2006年の都内の祭は、華やかな浴衣姿の女子を含めて異様な盛り上がりを感じるようになった。
東京が故郷の人口が増え、お盆時期でも都内に留まる人が増えたのもその理由かもしれぬ。
自分の地元で毎年8月に開催される『阿佐ヶ谷七夕祭り』も今年で53回目。妙に活況だった。
飾りの張りぼて等が昔と比べ減っているのは、それを製作していた商店主の高齢化が原因だそうだが、皮肉にも見物客には若年層が増えたように感じる。多分以前よりも広範囲から若者が集まってくるようになったのだろう。
東京に生まれ育った世代が増えると山の手でも夏祭りが「故郷の拠り所」として機能し始めたのだろうか?
ただし、親子連れや子供の姿は圧倒的に昔と比べ少ない。今、若い女性の浴衣姿が目立つのは、本来「母親」になっているはずの年齢層が独身のまま自由を謳歌していることを如実に表わしている。
これから数十年後には、「東京の夏祭り」はどうなっているのだろう?
2006年8月3日
滅びの序章。
プロ野球巨人軍栄光の立て役者である「世界のホームラン王」が窶れた姿でテレビに映っていた。
一方、新聞を見ると小説家吉村昭の訃報が載っていた。
若い時にテレビや本棚を賑わした著名人が次々と病に倒れ、鬼籍に入る。
人は寿命が決まっているからいずれこの世を去るのは必然だ。何もおかしい事はない。
しかしこの今の日本に漂う静かな恐怖と絶望は、もう一つの必然が存在しない事を物語っている。
少子化、出生率低下。結婚しない婦女子。
あらたな生命が産まれないのだ。
命は数珠のように未来に受け継がれていく。たとえ己の寿命が尽きても、子孫がその意思を受け継ぐ。
そうやって星霜の時を我々は旅してきたのだ。
その永遠の旅が突如尽きようとしている。
先日、NHK 総合で恐竜と哺乳類の生存競争みたいなドキュメントを放映していた。
それによると、恐竜全盛期、巨大恐竜はその巨大さゆえ100年、200年もの寿命を獲得したという。一方で当時の哺乳類は小型で夜行性、身体も小さく寿命も数年程度だったという。
だがその短寿命ゆえに環境への高度な適応性と多様化を獲得し、後の繁栄へと繋がったらしい。
つまり新陳代謝だ。
新たな環境に適応するには不要な身体を捨て魂を新たなステージへ昇華しなければいけない。それが世代を継ぐということであり、健全な子孫繁栄を約束する。
たとえ恐竜のように200年の寿命を獲得したとしても、それは単なる停滞を意味しよう。
王貞治が200年生きたとしても「栄光の巨人軍」が復活する筈もない。
我々が生き残り、繁栄していくためにはあらたな価値観、多様性を獲得出来る次世代に託すしかない。
しかし、現状は悪夢に近い。
何千年と長きに渡り、ついこの前まで概ね2子、3子以上設けていた日本女性がいきなり現世代において出産を一切拒絶し始めたというのは明らかに種として異常な状態だ。
これはもしかすると増え過ぎた群が適切な数を保つためのアポトーシス現象なのかもしれない。
種を存続させるために自らの未来を断つ。
そんなステージに僕らは直面しているのだとしたら、我々は未来のための生け贄と同じだ。
それが事実なら、僕らは進んで滅びを受け入れる覚悟をしなければいけないだろう。
だがメディアはそんなことは一言も告げず、今日の悦楽に溺れる事ばかりをまき散らす。
出産、子育てから「解放」された婦女子は、代りに獲得した自由な時間とお金で物質的欲望を満たせと駆り立てられる。メディアはそんな婦女子の購買欲を煽り、ますます出産期を逸するような情況を作り出す。
原油や地価の上昇も滅びの序章だ。
かつて高度成長期もインフレ、狂乱物価と騒がれたが、当時はそれで滅ぶ者はいなかった。なぜなら1960年代前後は大多数の者が正職に就き、結婚し、子を設け、全てが右肩上がりの成長の中にあり、物価が上がっても、それを凌ぐ程の収入の増加や物質的人的繁栄が見込まれたからだ。
しかし、この少子高齢化、出生率低下、婚姻率低下、無業者男性の爆発的増加の時代に、物価上昇が起きれば、多くの者が生きる手段を奪われ、滅んでいく事は必至だ。
最低限の生活費も獲られず、住むところを追い立てられて死を待つのみ。
そんな「元中流階級」の子息が絶滅の道を歩むだろう。
昨今の婦女子や子供に類する過剰な報道も多様な価値観を排し、一部権力者の既得権益保護のために為されていると考えてよい。
子供や女を「被害者」に仕立てた欺瞞的報道で多くの無実な男性を「犯罪者」に仕立てる事で既得権者を脅かす「志ある者」「多様性」は消されていく。
こうして、種としてのアポト−シスは実践されていくのである。
「いらない人間」、後退する種の存続に不必要な存在は淘汰され、未来を奪われる。
子供の頃、当たり前のヒーローだった王、長嶋もいずれこの世からいなくなる。
だがその栄光を継ぐ者は決して現れない。
何故なら「栄光の巨人軍」のTV中継を堪能した中流階級は絶滅するからだ。
やがて来る家畜並みの貧民が貴族階級に搾取されるだけの中世暗黒時代に「家族の団らんで観るプロ野球中継」など必要ないだろう。
そんな絶望的未来のために僕らは消え逝く事を強要されているのだ。
2006年7月31日
梅雨明け。
30日、やっと関東甲信越の梅雨が明けたらしい。
とはいえ例年とは違い、梅雨前線が北上して夏の大平洋高気圧に覆われたのではなく、逆に北のオホーツク高気圧に覆われたための梅雨明け。
だから風向きも北東で妙に涼しい。
関東で北東気流というと悪天を呼ぶ場合が多いが何故か晴天。これまた奇妙。
30日の日曜日には航空自衛隊の百里基地で航空祭が開催された。首都圏唯一の戦闘機部隊が駐留しているため、F15等の機動飛行が見学出来る。しかし渋滞や悪天で酷い目に合わされ続けた鬼門の場所でもあるので、迷ったあげく今回はパスしてしまった。
そんなパスした時に限って、なぜか好天に恵まれ、渋滞も酷くはなかったという。
青空の下、戦闘機の爆音を浴びて日々悶々とするストレスを解消出来る絶好のチャンスだったのにと悔やむ。
最近はどうもこういったタイミングや運に見放されぎみ。張り切って出掛ければ、悪天にアクシデント。逆に家に留まっていると好天に恵まれコンディション最高。
近年、自分が出掛けた航空祭は天候に恵まれないケースが多かったので尚更行くべきだったかと自分の決断を責める。
もっとも商業原稿を早急に進めなければいけない情況のため、あまり遊びに行ける余裕はない。8月は週末毎に数々のイベント予定が詰まっていて、その分7月は頑張らねばならない。
・
先日、浅草橋の店鋪用品店で折り畳み可能な5段卓上カタログスタンドを購入。
B5の同人誌が程よく入るため、同人即売会のスペース有効利用に役立つ。本の種類が多くなるとこのようなスタンドは必須アイテム。
・
やっと蝉が鳴き始めた。例年よりも10日遅いか?
以前は、まずハルセミが鳴き始め、それから油蝉、ツクツクホウシ、ヒグラシ、ミンミンセミというパターンだったが、最近はハルセミは聞かれず、いきなりミンミンセミだ。数も少ない。
2006年7月25日
コミックマーケット用自費出版本入稿。
やっと新刊入稿終る。ここ数日これに掛りっきりだったため、日記の更新は10日振りか。
例年なら、入稿と同時に梅雨明けするパターンが多かったのだが、今年は北極渦の偏西風蛇行で寒気が北から流入しやすく、大平洋高気圧が張り出してこない。
このぐずついた天気はいったいどの位続いているのか?
首都圏は激しい雨は振らなかったものの、ずっと曇り空続きですっきりと晴れ渡った青空を暫く見ていない。
思えば去年12月頃の寒気流入による豪雪も、今と同じ偏西風の蛇行が原因。つまり9ヶ月経ってもこの傾向がずっと続いている訳で奇妙である。
冬らしい冬の年は、夏も暑くなるパターンが多いが、今年は冷夏のまま8月に突入するのだろうか?
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それはさておき、今回の同人誌入稿はちょっと手間取ってしまった。
表紙の紙をどうするかで悩み、けっこう印刷所の受付の方に御迷惑をかけてしまった。入稿前にちゃんとリサーチしてくればよかったものの、いつもの調子で入稿の段階で紙を選ぶものだからなかなか決まらない。受付の方も初めてだったので戸惑った事も確か。今後は事前に表紙の紙を選んでおけるように見本を貰ってきた。
なんだかいつも悩んでいる割には毎回同じような紙ばかり選んでいるような気もするが。
いずれにせよ、本の入稿時はいつも緊張する。
ネットだと公開した後でもすぐに修正出来るが、一方、印刷物は一度刷り上がったらもう直しは効かない。
だから印刷を前提とした原稿入稿は猛烈な体力がいる。何回も誤字脱字をチェックし、ミスがないかを調べる。
だからこそ出来上がった時の充実感も大きい。
やはり質量のある紙媒体の重みはネットの比ではない。
2006年7月23日
『女の快感大研究』
先日、新聞を読んでいたら全面広告でこんなのがあった。
・
「人生に”気持ちいい”は大切でしょ!」
「女の快感大研究!ちょいエロな女で夏!!」
「ボディに瞳に、目が釘付け!”ちょいエロ”ミューズ降臨」
「アウト、セーフを厳しく判断。エロのさじ加減はオトコに聞け!」
「男がグっとくる7の秘訣!ほどよい色気を醸すパーツ演出法」
・
ざっとこんな具合。
どうやら女性雑誌の広告のようだ。
この手の雑誌は読む機会が全くないため、どんな事が載っているのか全く知らなかったので吃驚。
要するに日本女性を総露出狂化させるための記事が満載なのだ。
どおりで最近の女性の夏服が気狂いじみていたのはこのせいか?
それにしてもおぞましい。
・
女の快感を際限なく看過するということはどういうことか?
それはこの世の終りを導く事である。
女性は穢れた存在として太古の時代から神聖な領域には立ち入れないとされていた。これまではその理由が余りにも抽象的過ぎたため釈然としなかったのであるが、昨今の女性を顧みて実に納得が行く。
女性は元来、恐ろしい存在である。
底しれない恐怖だ。
理不尽で、不可解な行動で男を惑わし、地獄へ招き入れる。
その魔の手に罹って人生を破たんさせられた男は数しれない。
だからこそ、先人の賢者はその邪な女性の力を封印せんがため聖域から遠ざけていたのであろう。
「男尊女卑」は差別ではなく、この世のバランスを計るために必要不可欠な不文律なのだ。
その邪なる穢れし「女」という存在を「神の檻」から解き放って自由を与えたらどんな事になるか、今我々は身を持って後悔している。
その「パンドラの箱」を開けてしまってから、滅びが始まった。
出生率を見てみよ。婚姻率を見よ。
彼女達は、女性の唯一な神聖なる行為、すなわち受胎と出産、育児を放棄して自らの快感のみに生きるようになってしまった。
彼女達は決して子供など設けず、ただ自分の快楽と悦楽だけに浸る化物と化すだろう。いや、もう化しているのだ。
街の雑踏を垣間見るだけでよい。
電車の中や、街の中には10代とも30代ともとれる年齢不詳の艶かしい婦女子で溢れんばかりだ。
いつからこうなったのだ?
一昔前ならよく見かけた乳飲み子をおぶって育児に追われる若い母親の姿など何処にも居ない。みんな欲望に塗れた膣肉の塊のごとき露出女ばかりが視界を過る。
こうなったらもうおしまいだ。
彼女達はすでにおぞましいモンスターだ。
昨今、支離滅裂で理解不能な事件がたびたびニュースを賑わす。
育児放棄して子供を殺す母親。痴漢を捏造して善良なサラリーマンを破滅に追い込む女子高校生。芸人を誑かして罠にかけ、芸能人生を破綻させる自称17歳の女など。
かつては封印され、断罪され、無視され、火にかけられ、十字架に吊るされ、裁かれる運命の邪なる女が間欠泉のごとく、この社会に無秩序に吹き出してきた。
そんな禍を齎す悪魔たる「女」が自由に、誰からも咎められずに闊歩出来る世の中になってしまったのだ。
たとえ穢れた罪を犯しても、彼女達が裁かれることはない。
フェミファシズムという恐ろしい「文化大革命」吹き荒れるこの日本において彼女達は紅衛兵のごとく「造反有理」なのだ。
これが恐怖でなくして何であろうか!
この恐怖政治の中で真っ当な男達は日々迫害を受けて苦しんでいる。
蒸し暑く茹だる繁華街。
気狂い露出狂と化した「紅衛兵」たる日本婦女子はその欲望の欲しいままに自らに毒を塗り哀れな男をその毒牙に掛けんと虎視眈々と身構えている。
少しでもその婦女子に触れたり、不愉快な言葉や行動を取ったりしたものならば、その男は社会的に抹殺される。
「反フェミニズム分子」として人民裁判所たるマスコミに曝され処刑されよう。
この理不尽さはなんだ?
それは慈悲とは程遠い残酷な仕打ちである。
恐ろしい!恐ろしい!
恐ろしい!!
・
「ちょいエロな女で夏!」
女のエロは底なしだ。
やがて女達は、自らの欲望と快感に溺れ、下着同然、いや性器すら露出させ、犬のように四つん這いで徘徊しはじめるであろう。
そしてその淫らな日本婦女子の上にニタニタ笑う白人男性が背後からのしかかり、「公然交尾」が至る所で繰り広げられるであろう。
それでも彼女達にとって底しれない快楽の壺を埋めるには足りないのである。
この時、新聞広告にはどんな宣伝文句が踊るであろうか?
「陰毛露出を競え!あの子に差をつける陰毛トリートメント!」
「男達が恐怖で失禁!こうすれば出来る痴漢えん罪テクニック!」
「渋谷で白昼ワンワンスタイル。イケメンとちょい交尾するテクニック!」
こんな女性雑誌の記事に踊らされ、女達は犬畜生の階層に堕ちていくのである。
遂に世界は狂い始めた。
2006年7月15日
日本ハレンチ学園化計画。
先日、阿佐ヶ谷某BARにて常連のお客である公立小学校の図工教諭と話す。
最近、小中学校教師が盗撮等で捕まる事例が多いとのこと。
しかし考えてみれば、教師も人間。それも若い男性であれば尚の事。昨今の発達し切ってハレンチ極まる制服私服の女子を連日相手にする環境下にいれば、自ずとその艶かしい女子の姿態を撮ってみたいと考えるのも無理はない。
むしろ、何の反応も見せない男子教師のほうが不気味である。
この不自然な情況を打開するには、むしろ性リビドーが溜った男子教師のために「逆授業」を設けるべきではないか、と考えた。
つまり盗撮ならぬ「公撮、おさわり授業」である。
この時間だけは、女生徒が教材となって逆に男子教師にパンツやブラジャーを見せたり、触らせたり、撮影させたり自由にさせるのだ。
常に抑圧されている男子教師からすればこれ位の慈愛はあって然るべきだ。
こうすれば盗撮などという姑息な手段に訴えなくとも欲望の捌け口にはなろう。
どう考えても昨今の若い婦女子の露出過多な夏服は異常である。いや、もう狂気の領域である。
自らが狂気を曝している訳だから、その狂気を相殺するためにもこのような逆授業が必要不可欠だ。
私がこれを先生に提案すると渋い顔でこう応えた。
「う〜ん。それって『ハレンチ学園』の世界ですね」
そう!正に永井豪の漫画『ハレンチ学園』そのものである。
いまの婦女子の夏服はそれこそこの漫画の世界観を具現化している。
超ミニスカート、キャミソール、スリムGパン、ローライズパンツ等でお尻や下着を曝して公の場を闊歩する様は、まったく以てハレンチ王国城下町の様相だ。
こんなハレンチ極まりない情況はとなれば男だって狂う。
その狂気を男だけの責任と決めつける現代の情況こそ狂気の狂気。
この狂気を是正するためには、この日本全体を『ハレンチ学園』化しなければならない。
2006年、またハレンチな夏が来た。
2006年7月13日
忘却の巨人戦。
まったく忘れていたのだが、そういえばプロ野球のペナントレース開催中だった。
巨人が何連敗しようと、まったく巷の話題にすら上がらなくなったのはいつからだろう?
かつては、巨人戦の行方がそれなりの挨拶代わりになった時代があった。
「巨人大鵬卵焼き」の頃を過ぎても、姑くは巨人戦がアンチ巨人も含めて「夏の風物詩」の地位を保っていたものだ。
ところが今はどうだ?
巨人というプロ球団の存在すら忘却の彼方に去ろうとしている。今年は特にサッカーワールドカップの影響もあろうが、今春に野球のワールドカップがあったにも拘わらずまったく盛り上がらない。今、巨人軍メンバーの名を思い出そうとしても誰も出てこない。クリーンアップすら知らない。
野球自体は面白いスポーツであるのにここまで退屈にしたのは、プロ野球のシステムに原因があるのだろう。
もうそれを是正しようとする者も居ないし、その気もないらしい。
あらいる文化、スポーツが細分化、個別化していく時代になったから、かつてプロスポーツの王道を誇った巨人戦もその波には抗えない。
それにしてもこの衰退振りは目に余る。
巨人V9時代の選手達が老い朽ち、病や死を迎えるニュースが相次ぐ。
これは必然であり避けられない事だ。しかし、彼等の死や病が大きく取り上げられるのは、後を次ぐ者が居ないからに他ならない。
後身を育てず、過去の栄光ばかりに縋った当然の結果であろう。
巨人だけではない。
あらいる芸能、芸術、文化の担い手であった者が次々老い朽ち死んでいく報道が氾濫し始めた。
これからはそんなニュースばかりが洪水のごとく流れるだろう。
かつてメディアを賑わせた著名人は程なく全員鬼籍に入る。
巨人戦もまた忘却の彼方に消え去る記憶の一つでしかない。
そして誰も居なくなるのだ。
合掌。
2006年7月6日
「戦線から遠のくと楽観主義が現実にとって変わる。
そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。
戦争に負けている時は特にそうだ」
・
先日、メディアにこんな記事が流れた。
大平洋戦争末期1945年4月6日、沖縄特攻「菊水作戦」出航直前の戦艦大和の姿が米軍の偵察機によって撮影されていた。
捉えられたこの大和の艦内にはこれから死地へ赴く何千人の乗組員が存在していた訳で、なんとも感慨深い。
その翌日、同じ新聞テレビは北朝鮮のミサイル発射の記事で埋め尽されていた。
1945年から61年も経って、日本人が変わっていくのは当たり前としてもなんだかどうしようもなく人間としてみっともない領域に堕ちてしまったなあとも思う。
2世3世議員の閣僚が判で押したようにテレビに出てきて「国際強調」を宣うが、それは同時に自分の国だけでは何の解決も出来ないからで、では国際協調が日本の国益に合致するかと言えば、そんなこともないのだ。
他人頼りの逃げ腰癖が身に付いた世襲閣僚には国難を打開するイニシアティブはとれないだろう。
冒頭の台詞は押井守の映画『パトレイバー2』の中で語られた台詞の一つだが、1990年代のバブル崩壊以降、少子高齢化、人口減、成人男子ニート化を見ても明らかなように日本という国が崩壊の助走を始めているにも拘らず、その責任を顧みようともしない今の行政府にとっても同じ台詞が当てはまる。
「戦線から遠のくと楽観主義が現実にとって変わる。
そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。
戦争に負けている時は特にそうだ」
楽観主義とは闘争を避ける欺瞞でもある。
闘争しない国に未来はない。
日本がやっている事は闘争ではなく、逃避だ。
その観点から言えば、まだ北朝鮮の方が国家として態を為していよう。
結局の処、この情況において得をするのは、アメリカの軍産複合体。日本に対し法外な価格で更なる弾道弾迎撃ミサイルシステムを押し売りする絶好のチャンスになろう。
そんなシステムが役に立つかなんて事はどうでもよいのだ。
イニシアティブをもてない国は常に人の言いなりで動くしかない惨めで卑屈な存在でしかない。
61年前、決死の覚悟で、負け戦と解りながらも出撃した戦艦大和の写真と、一方でアメリカからの情報を鵜呑みにしてメモを読み上げる世襲閣僚の覇気のない記者会見の映像の対比は、この61年の歳月で失ったこの国の魂を如実に物語っている。
生命を賭けて闘争する姿と他人頼りの逃げ腰外交。
いずれその結果は出よう。
だが、気付いた時にはいつも遅すぎるのだ。
2006年7月1日
少子高齢化世界一。
ニュースを観ていたら日本が世界で最も少子高齢化が進んだ国になったとのこと。
常識的に考えたら国家存亡の危機なのだから国家総動員法を施行してでも全力で情況を打破すべきなのに、何をするでもなし。少子化対策担当大臣(こんな閣僚がいる事自体知らなかった)が無意味な記者会見だけして終り。
まるで他人事。
まあ堕ちるところまで堕ちている日本なのだから、別段驚く事もないか。
それにしても日本女性の25〜29歳の未婚率が59.9%なのは正直吃驚する。
5人に3人が結婚していないのだ。
30年位前までは、女性が25歳を過ぎたら「売れ残り」とか言われた時代があった。ところが今や25歳までに結婚する方が少ないのだ。正に隔世の感。
根本的に婚姻制度がすでに機能しなくなっているのだろう。
それにしてもあまりの急激な非婚傾向はもはや社会的動物としての最低限の生殖レベルを超えていよう。
当の未婚女性は現状をなんとも思っていないのだろうか?
このまま未婚未出産で老齢期を迎えても何ら後悔はないのだろうか?
実に不思議に思う。
・
先日、テレビでアメリカのシングルマザーのレポートを観た。
精子バンクで優秀な家柄、才能、容姿を持つ男性の精子を購入して体内受精で子供を設けるというのだ。
結婚は嫌だが子供は欲しいという30〜40代の独身女性がこのような方法で子供を産むケースが増えているという。
シングルでも経済的に余裕があるから、夫無しで十分子育ては大丈夫だという。
日本でもあと数年経てば、このようなケースが爆発的に増えると予想出来よう。
日本も傾向は同じ。
ダサい低収入の日本男と結婚するよりはイケメン白人の精子を買って子を設ける方が合理的だと。
一度流行るともう止めどなく広がっていくのが日本女性の典型的な傾向であるから、「白人イケメン男の精子を買ってイケメンハーフの子を作ろう」が30〜40独身女性の合言葉となる。
まるで終戦直後のパンパンが進駐軍の白人米兵の腕にぶら下がるがごとく、白人男の精子買い漁りが始まる。
白人男の精子を購入し受胎させる事が、30代以降の独身女性の常識となろう。
突如として街中に白人ハーフの子供を連れたシングルマザーが大出現する。
携帯電話に変わって女性の腕に抱かれるのはハーフの子供だ。
でも子育ては大変な労力に変わりないから、育児等の下の世話は、厄介払いの対象であった日本独身男性に押し付ける。そこで、そのための「育児下男」が大量に雇用されるかもしれない。
「育児下男」はあくまで下男であるから、親権もなくただ世話係として低賃金で酷使されるだけ。「主夫」にすらなれないただの「使用人」である。
日本独身女性にはいろいろな選択肢があるが、低所得独身男性には何の選択肢も権利もない。
日本独身男性はどう転んでも惨めな未来しか待っていないだろう。
白人ハーフの子を宿すシングルマザーの台頭で日本の少子化に歯止めがかかるかは解らない。でも必ず、こういった出生率には揺り返しが起きるものだ。
・
そのアメリカのシングルマザーレポートにはオチがあって、最後に精子バンクに自分の精子を提供した男性が出てくるのだ。
彼はまさにエリート。イケメンアングロサクソンで身長は190cm以上。職業は小児科の医師。正に申し分ない最高の「サラブレッドの種馬」である。
むろん彼は結婚していてちゃんと美人妻がいる。
その妻がいるエリート男の精子を買った複数のシングルマザーから彼の子供が産まれているという訳だ。
彼の精子を買ったシングルマザーは、その彼にとっては一種の「妾」「側室」のようなものかもしれない。
はたしてそんなシングルマザーは本当に幸せなんだろうかと考えるのである。
だが、どんな形にせよ子供を設けられる事には違いはない。
一方、どう転んでも日本の大多数のニート、フリーター低所得不細工独身男性には遺伝子を残せるチャンスはない。
常に不必要な存在なのだ。
「少子高齢化世界一」は同時に「低所得独身男性虐待世界一」でもあるのだ。
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