2004年1月・2月・3月


2004年3月27日

「つぼみ会」閉園。

かつて自分が通っていた幼稚園「つぼみ会」が閉園した。

阿佐ヶ谷キリスト教会『阿佐ヶ谷誘覧』31参照)付属の幼稚園であったが少子化に耐え切れず、遂に50年弱の歴史に終止符を打った。

今年の卒園者は僅か8名。とはいえ、もともと少数保育の園だったので創設以来の全卒園者は850人程だという。

その閉園に合わせてOB、OGを集めた感謝の会が開かれたので出席してみた。

卒園してから40年近く経つのだが、卒園後暫くは日曜礼拝には通っていたし、家から駅までの道沿いにあるので今でも身近な教会だ。20年ちょっと前に礼拝堂等新築したので、当時の面影はないが、その「場」としての懐かしさは心の奥底に残っている。

会に集まった卒園者は200人程か?7割近くが女性。年配者が多い。

初めて入った新しい礼拝堂は見事なもので、本格的なパイプオルガンまで備えられている。ステンドグラスも美しく、暖かな春の陽射しにキラキラ輝く。

同窓生や当時の先生も出席されていた。自分が忘れているのに向こうがこちらを憶えていたのは相当手間の掛った園児だったせいか?

久しぶりの礼拝は奇妙な感覚だ。幼少の頃はこれが「宗教行事」なんて意識などまったくなく、自然に受け入れていたものだが、「大人」になった今となってはクリスチャンでもない自分が賛美歌を唄っている情況はとても妙だ。それでも幼い時に経験した事は身体で憶えているのですぐに賛美歌の節が蘇ってきた。

振り返って憶うに、この教会の「空気」が無意識的に自分の生きる基礎に影響を与えていたのだろう。

自分の誕生日がクリスマスであることも重なって、このキリスト教会で過した幼い頃の経験は小中学校時代よりも深く心に刻まれている。

それはさておき、この「つぼみ会」の名の由来は、蕾に秘められた大いなる可能性から名付けられたと記憶している。

ここから巣立った子供達はやがて大人になってその可能性を開花させるのだと。

本日会った同窓生や先生は、すでに子や孫を設け、人生の可能性を成就させている。

それと比べ、自分はどうか?

今だ自分の可能性は「つぼみ」のままではないのか?。この歳に及んで開花しないようでは人生おしまいだ。いやそもそも可能性を秘めた「つぼみ」など自分には元々存在しなかったのではないか?

「つぼみ会」すべての卒園者が可能性を開花させている訳ではない。立ち枯れて花咲かせぬまま朽ちる者もいる。

暖かい春の陽射しが降り注ぐ中、うだつの上がらない自分の人生を朧げに振り返るのであった。

我が人生に幸いを。

アーメン。


2004年3月25日

火星の大平原

火星探査車『オポチュニティー』から送られてきた火星の大平原のパノラマ写真

これまで調査してきたクレーターを出ていよいよ「大海原」へ進み出した探査車。これまでの研究結果によるとこの辺りはかつて渚である可能性が高かったとのこと。無論、今は海水は干上がって砂漠しかないのだが、この映像をみると遥か昔、ここが海だったことを彷彿とさせる。

創造力を喚起する火星の大平原のパノラマ写真。

このような偉大な映像が火星から毎日送られてきているというのに、大半の人々は知らないでいるのだ。

愛知万博する費用があれば火星探査用にロボットを作って送り込んだ方がよっぽど有意義だ。


2004年3月21日

反戦デモ。

20日に開催された「イラク戦争1周年反戦集会」なるものを見学してきた。

みぞれまで降る寒い天候の日比谷公園。傘で歩くのが邪魔になる位の人出。各々の「市民グループ」や「反戦団体」が幟やプラカードを掲げ、至る所でアジテーションやカンパ、ビラ配りをしている。あまり統一性はない。参加者は概ね40〜60代の男女が同比率で中心を占め、若年層は少なめ。「市民運動」という趣味の団体が年に何回か集うお祭りという感じ。

集会に続いて行なわれたデモ(主催者はパレードと称していた)も見学してみたが、決められたルーチンを粛々とこなすがごとく、整然と歩くだけ。シュプレヒコールはあるが、とりあえず音頭取りに合わせているという感じ。警備の警官も退屈そう。信号に合わせて一旦停止するのは興醒め。銀座界隈を通過している時も一般の人はデモを気にかける事もなく歩いている。天候のせいもあるのだろうが、とにかく「寒い」。

1960年代のようなジグザグデモ、投石、火炎瓶投てき、機動隊の一斉検挙なんて風景は一切なし。

そんな血沸き肉踊る写真が撮れるかとデジカメを持っていったのだが無駄であった。

今日の「反戦運動」は、生きていく上での切実な要求がある訳でもなし、40年前のような10〜20代という若いエネルギーの放出でもないから盛り上がりを期待するのは無理か。もう少し経つと老人クラブの集会になるかもしれない。

やっぱりこれも趣味同人のお祭りなのだろう。

東京駅八重洲口前でデモから分かれ(寒くて限界だった)東京駅地下でラーメンを食って帰る。


2004年3月15日

『イノセンス』

昨日、新宿へ押井守監督作品『イノセンス』を観に行く。

最終の19時の回だったが日曜日とあって結構満席に近かった。客層はカップル、若者一般が多く、時間帯もあってか子供や親子連れは殆ど見当たらず。一方でいかにも「秋葉系」という客もそんなに多くなかった。まあ普通の洋画の客層とたいして変わらず。

映画の方は物語の描き方が自分の波長に合っているので十分楽しめた。CG云々は敢えて語るまでもない。表現の手段として受け入れられるかは、個々の感性次第だろう。慣れてくるとCGとセルアニメの融合も気にならない。

ただ、いずれにせよこの作品は『攻殻機動隊』の続編として作られているようなので、それを観ていない者からすると消化不良を起こす。これは『パトレイバー』の時も同じ。

あと、過去の押井作品に出演した声優が何人か絡んでいるので、そこも気になるところ。

完全なるオリジナル作品として制作出来ないのは、やはりある程度、前作の知名度が高くないと企画が通らないからなのだろうか?

観る側からすると独立したオリジナル作品で制作して欲しいとは思うが。

それはさておき、やはり映画は映画館で観るものだ。それもたくさん客が入っているロードショー公開直後がよい。より多くの人間と同時体験することによって、その映画がいろいろな意味で記憶に焼き付いてくる。誰と観たとか、隣の客が煩かったとか、映画の後どこで飯を食ったとか・・。そんなどうでもよい事も含めて、その映画が人生の一体験として刻まれていく。

しばらく経ってレンタルビデオやDVDで観たとしても、もうその頃には、余計な予備知識とか「ネタバレ」状態によって興味も削がれる上、集中力も失せた自室のモニターでは、幾らその映画に感動したとしても、おそらく半日経ったらあっさり記憶から抜け落ちてしまうだろう。

この歳になると、映画そのものよりも、その時の情況の方が貴重に感じたりするのだ。

『イノセンス』上映後、映画館を出ると新宿のネオンの灯りがやけにキラキラしていた。ショーウインドの中のマネキンがいかにも飛び出して来そうな錯覚に囚われて、バーチャルと現実の境が曖昧になっていることに苦笑する。

そんな映画の残像こそが楽しいのだ。


2004年3月13日

「ひきこもり100万人」

NHK総合テレビで「ひきこもり」青年を集中取材した番組が放映されていたのでちょっと観てみる。

まず感じたのは、この取材を受けていた青年がはたして本当に「ひきこもり」なんだろうかという疑問だ。

髪を染めて風貌もそんな汚くもなく、その上遠路遥々、新潟の「ひきこもり」メイトの女の子の処まで会いに行ってしまうなど、いわいる「ひきこもり」の行動にしては妙に積極的に動いている。

無論、これはテレビの取材番組である以上、かなりの「演出」がされているのだろうが、なんか変だ。

「ひきこもり」の定義というものが一応あるみたいなのだが、その範囲があまりにも曖昧で、数も「50万人から100万人」といういい加減な勘定がなされており、これを見る限り、取材する側が「ひきこもり」というものを正確に把握しているとは思えない。

この番組でスポットをあてられた青年も、「ひきこもり」というより自殺願望の強い対人恐怖症な印象が強く、いわいる昨今語られる処の「ひきこもり」とは違うんじゃないのかと感じる。このような人まで「ひきこもり」と判断すべきなんだろうか?

これでは「近所付き合いの出来ない世間様に恥ずかしい失礼な若者」を、とりあえず「ひきこもり」と呼称して大人が叱咤し社会復帰させるという旧態依然な図式しか見えてこない。

語られるべき「ひきこもり」というのは、従来にない環境下で、一切の対人関係を断ち、バーチャルな世界観の中で新たな悟りを模索する「ニュータイプ」「覚醒人」としての「ひきこもり」ではないのか?

「ひきこもり」を否定せず、むしろ「ひきこもり」こそ我が人生の正しき道だと信じる若者をなぜ取材しない?

社会のお荷物的ネガティブな視点から「ひきこもり」を語るのではなく、これまでに存在し得なかった「超人」として語らなければ「ひきこもり」の真の姿は見えてこないだろう。

もし、彼が部屋の中に置かれた美少女フィギュアと延々とぶつぶつ語り合うシーンが続いていたならば画期的だったのだが。

そういう意味では、このNHKの番組は「ひきこもり」に対する洞察がまったく欠けているのだ。

リアル世界の女の子とコミュニケーション出来る「ひきこもり」など論ずるに値しない。


2004年3月9日

三島由紀夫の本。

本ネタが続く。

これまた、ある本屋で平積みにされていた文庫本。昭和40年代に初版が出た三島由紀夫のエッセイ集。当時の世相を鋭く抉った文章が心地よい。あの頃は学生運動華やかなりし時代で、それに関してもなかなか面白い感想が述べられている。

曰く「あれはただの革命ごっこだ」とか「命を賭けてる奴などいない」「デモ隊のヘルメットの群れはまるでテントウ虫の行列だ」等など。

若年層が社会の中心を占めて猛烈なエネルギーが渦巻いていた1960年代は、三島由紀夫が主張する生死観みたいなものも、メディアで盛んに取り上げるメジャーなテーマだったのだろう。

逆に当時は、老後の年金なんてあまり話題に上らなかった。何故ならば働ける現役年齢を過ぎれば、程なく生涯を終えるのが普通だったからだ。動ける時に精一杯動いて、後は次世代に託せばよかった。

男は如何にして死ぬか?死の拠り所を論ずる場があったのだ。

そんな、三島の本の横をみると、例の『負け犬の遠吠え』本が大量に置かれていた。三島由紀夫の文庫の隣にフェミニズム本とはこれ如何に?

だがこの二冊の本を立ち読みして、なんとなくその理由が解った。

『負け犬〜』には永遠だらだらと独身女性の老後の不安が嫌になる程綴られていた。その上まったく結論がなく堂々回りの内容なのだ。子も身寄りもないまま「孤独死」しか待っていない情況に、唯一あるのは恐怖のみである。未来へ何を託すかなんて何一つ論じられていない。

三島由紀夫の鮮やかすぎる程の「死の拠り所」論と「死」を恐れるだけで生き恥を曝す事に終始するフェミニストの戯れ言。

少なくとも、男には誇りある死に場所を選択する権利がある。たとえ妻も娶れず子も残せなくともね。

一方、女性は結婚を否定し子も産まず、育むことすら拒絶したまま歳をとると、もう老い朽ちるのをたった一人で過ごすしかない哀れな存在と化すのだ。

その点だけを考えれば、男に生まれてよかったと思う。

さて、では如何に自分は、このうだつの上がらない人生に決着をつけるか?

三島由紀夫は45歳で自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した。自分もその年齢に近い。

妻も娶れず、子も残せないならば、そろそろ「死の拠り所」を真面目に捜す活動をしなければと思う。

ある意味、「死の就職活動」か?

リクルートからそういう情報誌は出ないものだろうか?

『週刊JIKETU』とかね。

需要はあると思うのだが。


2004年3月5日

番(つがい)のカラス。

先日の日記にも記したが、カラスが庭の樹木に住み着いて激しく鳴いている。どうやら番(つがい)のようだ。

まだ暗い内から2羽揃って「カアカアカアカア」喧しい。いったい何をそんなに鳴いているのだろう。

童話ではこんな歌詞だった。

「カラス何故鳴くの?カラスは山に可愛い七つの子がいるからよ。

可愛ー、可愛ーとカラスは鳴くよ・・・。」

だが、庭に居るカラスからはそんなイメージとは程遠い。

むしろこんなふうに聞こえる。

「カラス、何故鳴くの?カラスはここに、結婚出来ない男がいるからよ。

哀れー、哀れーとカラスは鳴くよ・・。」

これはただの幻聴である。ただ、あまりにも喧しく近くで鳴くものだから、何か嫌がらせで「カアカア」喚いているのだという錯覚に囚われる。更にそのカラスがテレパシーを使ってこちらの脳に電波を送り込んできた。

こんなふうに。

「俺達夫婦はこれから繁殖期に入って、たくさん卵を産んで子孫を残すんだ。お前はどうだ?お前は妻も娶れず何も残せぬまま、そこで朽ち果てそうだな。でも安心しろ。お前を俺達の餌として食ってやる。カアア」

そのメッセージを受信すると、一目散に万年床へ逃げ込みガクガクブルブル震えながら命乞いをする。

カラスは賢い動物だから、こちらの絶望を感じ取って攻め立てているのだ。

恐ろしい。


2004年3月4日

人に関心があるか?

知人から「面白いよ」と貸してもらった本の中に「ひきこもり」と自閉症の差についての興味深い記述が論じられていた。

それによると「ひきこもり」は、他人に関心があるがコミュニケーション能力に欠けて人と上手く付き合えないために対人関係を避けているのだとか。

一方、自閉症は、対人関係を避けているのではなく、元々他人に関心がないのだそうだ。また脳の一部に障害がある事も原因らしい。

自分はどちらであろうか?

幼少の頃、殆ど人と接する事を避けていた自分は、一時期自閉症と疑われ妙なテストを受けさせられた記憶がある。結果はよく解らなかったが、いずれにせよ現在に至るまで社交的とはいえない。基本的に独りで出来る亊を優先させている。

実際、自分以外の人間に深い関心を寄せた記憶がない。

もちろん、親族や友人関係、仕事趣味関係での人的交流はあるし、生きていく上での最低限のコミュニケーションは取っている。だがあくまでそれは最低限で、より深い人間関係や他人に対する興味を広げようとする意志はまったくといってよいほどない。

その理由は、やはり対人関係において越えられない壁があるような気がする。それは一種のコミュニケーション能力の欠如だ。これがある限り、通常可能な意思の伝達が出来ず、相手に理解されなかったり、相手の意思を理解出来なかったりするのだ。その水準が平均より遥かに低いのだろう。

だがそれはいわいる「ひきこもり」とは違う。

この歳になると、経験や訓練では克服出来ない「何か」があることに気がつく。対人関係において100%履行不可能というコンテンツがある。これはおかしい。

それを認識出来ないということは、おそらくソフトではなくハードの問題だ。

ハードがいかれていては如何ともしがたい。人間の脳はHDDの交換のように修理は出来ないのだ。

最近の「ひきこもり」の増加は、単に引き蘢っていても生活出来るから、そういう人が増えたように感じるだけで、むしろ環境に適した健全な情況を示していよう。

だが自分のような「自閉症的」要因がある者は、そんな時代背景とは関係ないだろう。

そういえば、幼少の頃から「自分捜し」ばかりしていたような気がする。

人生の最大の関心事は「自分」なのだ。

「自分国自分王」以外に何があろうか?信用に足るのは「自分」だけである。

だからといって、それを否定するつもりもない。否定したからといって他の選択肢がある訳ではないのだ。

故障した「脳」を騙し騙し使いこなす以外、生きる道はなかろう。

それもまた愉し。


2004年3月3日

火星に塩。

アメリカの火星探査車が火星表面の土壌から硫酸塩を検出したという。これでかつて火星には大量の水が溢れていた直接の証拠になるとか。

まさに人類科学史上の大発見。

前にも述べたが、今回の一連の火星探査はオリンピックに勝るとも劣らないビッグイベントとして報道されるべき事業。にも拘らずなんと寂しき扱いか?

一昨年のサッカーワールドカップ、昨年のイラク戦争よりも建設的、発展的な希望に溢れたプロジェクトだというのに優先的に報道されるのは女子供が喜ぶ下世話な痴話ばかり。

このような忌々しいメディアが支配する時代に生きている自分は本当に不幸だ。


2004年3月2日

卑しき書。

最近、『負け犬の遠吠え』というフェミニズム本が話題になっているそうだ。

帯の解説にはこう記されている。

「どんなに美人で仕事ができても30代、未婚、子ナシは『女の負け犬』なのです」だとか?

要するに未婚高齢女性の自虐的自伝らしい。

例によって著者は美人だそうだ。この時点で、もはやこの書がいかに欺瞞と差別と見下しに満ちているか解る。

もし著者が醜い器量でぶくぶくに太っていて身体障害者であれば、まだ説得力はあろう。実際それはもう「いらない人間」であり、だからこそ、そこに綴られた「心の叫び」は人々に感銘を齎す。

しかし、著者は美人で仕事も出来るという。何にも困っていないのである。それどころか生まれながらの美貌と才覚を持ち合わせ、この世の春を満喫出来る地位を獲得しているのである。

そんな女性が「負け犬」だと?

冗談も程がある。

未婚なのは結婚出来ないのでなく、自分がしないだけの結果。その気になれば、いくらでも結婚は出来るのだ。言い寄ってきた男性など腐る程居ただろう。仕事だって選べる。選択権はすべて自分にある。無職とて誰かが貢いでくれよう。食うにも住むにも着るにも困らず、何人もの無垢な男性を傷つけても責められる事もなく、人の気持ちなど何とも思わず、したい事し放題が許される地位にいながら「負け犬」だと?

この書の真の目的は、特権的階級にいながら、自らを矮小化し、「社会的弱者」を装おって更なる権利を獲得しようと画策するところにあるのは明白だ。

ここまで露骨な悪意と欺瞞に満ちた書は例がない。

その煽りを受けて、迫害を受けるのが、またもや真の「被害者」である絶望独身男性だ。

こちらは真に救いがない。結婚したくとも出来ず、仕事も選べず、無職即ち「いらない人間」だ。選択権は剥奪され、女性からは蔑視の対象とされ、メディアはそんな無垢な男達を被害者どころか「犯罪者予備軍」と決めつけ、社会的迫害を公然と行使する。誰も救ってはくれない。

「男は自立して、経済的に女性より勝っているのが当たり前だ」と世間は言う。ところがそんな前時代的な恩恵に預かっている男性などもう少数派だ。大半の若年男性は、異性にも仕事にも生き甲斐にも恵まれず、酷い仕打ちを受けながら絶望の淵に生きているのだ。その上更なる男性差別法たる「男女雇用均等法」「男女共同参画推進」等々により彼等の迫害は加速されつつある。年間3万人余の自殺者の大半はこういった迫害を受けた男性が大半。だがそんな絶望独身男性の訴えは、最初から「なかったこと」にされ、彼等の「心の叫び」はメディアによって全て抹殺されてしまう。

絶望独身男性は、一貫して迫害されなければいけないのだ。

一方で、『負け犬の遠吠え』という悪意に満ちた書は公然と出版され、何者かの意図によってメディアを通じ民を洗脳する道具として大量に発行され続ける。

結局の処、無知で利用しやすい婦女子にペンを握らせた時点で文化、秩序の崩壊が始まったのかもしれない。

こういった婦女子は何時の時代にも誰かに利用され続けるのだ。

ある時は男根を握らされ、ある時はこうしてペンを握らされる哀れな生き物としてね。

「芥川賞」然り、「だめんず・うぉーかー」然り・・。

いったい誰が握らせているのかは大方予想はつく。この國を滅ぼそうとする邪な影がこの書に見て取れよう。

この書の著者は自覚すべきだ。

この本によって、何百万人もの絶望独身男性を迫害し、憎悪を増幅させている事に。

報いを受けてからでは遅いのだよ。


2004年3月1日

アカデミー賞。

TVでアカデミー賞関連の報道を観ていたら、『男はつらいよ』の監督らしき人物が写っていた。どうやら外国語映画賞とやらにノミネートされていたとか。

それでその監督らしき人がインタビューに答えてこんな事を言っていた。

「日本映画を代表して挑んでいきます」

今更、「サムライ」「人情」をメインとした映画を日本映画の代表なんて語られても・・。

案の定、この監督の作品は落選したらしい。

派手なタキシードを着て、のこのこアメリカまで乗り込んで落選とは惨めな醜態。

別にアカデミー賞受賞作が素晴らしい映画とは限らないが、いかにも虚栄心丸出しで賞を渇望しながらの落選は失笑を買う。

昨年の長篇アニメ賞を獲得した宮崎駿『千と千尋〜』とは好対照だ。

もともとこの監督が描く人情臭い映画は堪え難かったので、落選したのは幸い。受賞して変に増長されたら日本映画はますます鬱陶しいものになったろう。これでよかったのだ。

今時、「男はつらいよ」的人生観で人が救われると思うのか?

勘弁願いたい。


2004年2月29日

「グシャグシャになりたい」

電車のつり革広告で見たコピー。何かと思ったら、例によって予備校の宣伝だ。

合格した後、喜びでグシャグシャになろうという意味が込められているのだろうが、正直忌々しい。

この時期になると決まって予備校の宣伝やらセールス電話がうるさい。受験生の子息どころか結婚もしていない自分の処にまで、しつこく電話が掛ってくる。

「お前の歳で受験生の娘息子がいてもおかしくないだろう。なに?結婚すらしていないのか?この人生の敗北者!」

まるでこんなふうに詰られているようでムカムカする。

これからの時代、たった1回の受験で人生の安泰が保障されるなど誰も信じていないのに、予備校の宣伝文句は、ある意味「詐欺商法」に近い。

数年前、中学時代のクラス会に出席した時、当時やたら受験技術にだけ長けていたクラスメートが性格の悪い親父になっているのを見て辟易した記憶がある。

受験亡者というのは、自分よりも成績や学齢の低い連中を見下して悦に入るのを、人生最大の喜びにしているらしい。

ラジオでDJがこんなことを言っていた。

「時代が覚悟を要求する」

これからの時代、現実社会で役に立つ技術、能力を身に付けなければ生きていけないだろう。

学習ドリルよりもAK-47等の銃器の扱いをきちんと学んだ方が得策だ。

学歴とか、受験能力だけで「人生勝ち組」なんて思い込んでいると、いずれ報いを受けるような気がする。

銃で頭を撃ち抜かれ「グシャグシャ」にされないよう気をつけよ。

せいぜい騙されない事だ。


2004年2月26日

徒然なるままに本屋に赴く。

雑誌以外の書棚は久しぶりだ。

大塚英志氏の書いたヲタクの遍歴を考察した著書が平積みされていたので、ちょっと立ち読みしてみる。

興味深かったのは、氏が徳間書店の『アニメ−ジュ』編集部で働いていた当時の模様を記した章。

時は1982年頃。

ちょうど、その時、此処に原稿を持ち込みしたのでよく憶えている。この記述を読むと何故自分がこの時『リュウ』誌にてデビュー出来たのかという諸々の事情が、なんとなく分かったような気がした。

これはある意味、絶妙なタイミングだったのだろうな。

「ヲタク」なんて言葉すらない時代。漫画で新たな表現を模索しようと志した今で言う「創作同人系」漫画家の卵達が、何人もこの新橋の編集部に足を運んでいたらしい。

それにしても、あれから22年も経ったとは。

次に手にとったのは、珍しく漫画。

滝沢聖峰氏の最新刊

たしか、模型雑誌に連載されていた作品か?

B-29、陸軍登戸研究所・・諸々興味深い題材にわくわくする。

漫画本をじっくり立ち読みしたのは半年ぶりだろうか?

最後に手にした本は、話題の芥川賞作家の本。

どっちの人の作品か憶えていないのだが、第一印象としては

「字が大きい本だな」

であった。

ぱらぱらと捲っても、興味を引く活字を見い出す事が出来ない。なんか、電車の中でOLが打ってる携帯メールの文章が視界に入っただけという感じ。

もう、これは単に趣味、嗜好の問題で、自分にはまったく合わない小説なのだろう。

30秒でその本を置き店を出る。

17時というのにまだ明るい。


2004年2月22日

コミティア67来場感謝。

2月とは思えない程の生暖かい天候の中、東京ビッグサイトに向かう。途中、りんかい線内で老舗の同人サークル『楽書館』メンバーの漫画家さんに会う。『楽書館』といえば、1970年代初頭から精力的に活動していた創作同人サークル。著名な漫画家さんも多数寄稿していたのを記憶している。最近、久しぶりに新刊を発行したそうだ。メンバーの平均年齢は40〜50才だとか。現在の標準同人世代からすれば非常に高い。だが『楽書館』を見ていると、創作漫画の原点を垣間見るようで、妙な安心感と懐かしさがある。

それにしても、同人イベントで自分と同世代の知り合いと会話するのは非常に新鮮。いつしか自分達の世代は漫画同人界で最も古株に属している事を改めて認識する。ただし、見た目は皆若いので何ら違和感がないのだ。

さて、スペースには24日発売の新刊単行本も飾っておいたので、観ていかれる方も多かった。その中で興味深かったのは、昨年出た単行本『晴れた日に〜』を知らない方が結構居らしたということ。コミティアに来場するお客さんや参加者レベルなら、皆商業漫画にもある程度詳しいと思っていたので意外だった。ネット社会といえど、結局はメディアが大々的に扱うもの以外、人々に知れ渡ることはないのだ。

さて、前日遅くまでコピー本を作っていたので寝不足が祟り、15時頃には自分のスペースでうたた寝してしまい、お客さんに起こされるという失態もあったが無事終了。

生暖かい南風の中、ワンフェス帰りの客に紛れて家路に就く。


2004年2月21日

あびゅうきょ単行本新刊『あなたの遺産』完成。

2/24発刊の単行本新刊『あなたの遺産』が送られてきた。

とにかく厚い。300ページを超えているので時刻表並の厚みがある。

表紙カバーはエンボス調の紙で質感がよい。昨年の『晴れた日に絶望が見える』のカバーは、同じ紙ながらビニールコーティングされていたので雰囲気が違う。本文印刷もB6サイズでこれだけ出れば十分なレベルだ。特に「JET STREAM MISSION」は初刊のコミックスが酷い印刷だったのでやっと救われた感じ。

誤植等は100%完璧校正とはいかなかったが、まあ仕方ないレベル。雑誌、初刊等で初刷りされた時に発覚する誤植はよく憶えているので修正箇所を担当さんに伝えておく事が可能だが、フィルム版上での修正(版下は校正されているが生原稿上の文字は誤植のまま)部分は、原稿を注意深くチェックしないとなかなかみつからない。今回はそれがあったので、ちょっと残念。なにせネームの量が膨大故、チェックから漏れてしまうのだ。しかし、この程度の誤植はどんな本にもある。

いずれにせよ、なかなかよい本に仕上がっているので是非買って頂きたい。この出来とボリュームで850円は決して高くはないと自信を持って提供出来る本だ。

尚、明日のコミティアにて『あなたの遺産』発刊記念コピー誌を頒布予定であるのでよろしく。


2004年2月17日

「愛知万博ポスターは模倣?」

朝日新聞16日付夕刊にこんな記事があった。

要するにデザインがアメリカのノーマン・ロックウェルの作品と似ているというらしい。

例によってどうでもよい事なのだが。

それにしても模倣じゃいけないのか?

確かにレイアウトとかポーズは似ているが、ポスターの方は写真だし、アメリカ人作家の作品はイラストで媒体が違う。服の模様も違うし、このどこがいけないのか?そもそもこのポーズがそんなに独創的と言えるか?

アメリカ人作家のこのイラストだって、もしかすると新聞に挟まっていたスーパーのチラシの写真を模写して描いたかもしれないぞ。著名な浮世絵師も無名絵師の作品を元に描いたというし。

そんなことを言い出したらキリがない。

著名な作家の模倣が許されないとしたら、ディズニーの「ライオンキング」はどうなる?

明らかに手塚治虫の「ジャングル大帝」の模倣じゃないか?いや、それ以上だ。

ディズニーが「ライオンキング」を作る際に手塚プロにお伺いを立てたか?

否。

そんな話は聞いた事がない。

この程度で「類似性」云々で「二次的著作物」に該当なんていわれたら、何も創造出来やしない。

こんなことにケチをつける輩は「芸術の源はすべて白人にあり」とでも言いたいのか?

そのうち「人間を描くのは白人の専売特許だ」とか言い出すんじゃないだろうか?

創作の源は模倣にあり。

一番それを知っていたのは、もしかするとノーマン・ロックウェル自身かもしれない。


2004年2月16日

カセットテープの整理。

300本近く溜まったカセットテープを整理する。

これまで約12年分程録り溜めた深夜放送やら海外放送やら大きな事件事故ラジオ報道等のカセットテープを部屋の隅に無造作に積んでいた(音楽テープは一切ない)ため、いざ聴き直そうとしても探し出すのが大変。メモ用紙に録音内容を記してケースに挟んでおいただけなのですぐには出てこない。さすがに限界を感じてカセットレーベルにデータを書込む作業に着手した。

それも手書きで。

今の時代なら、カセットテープの録音音声ををHDDとかDVDに落してデータベース化すればよかろうが、手元にそんなソフトも機材もない。それに作業量も膨大になる。だからせっせとフェルトペンでレーベルに内容を書込むしかないのだ。

まるで「FMレコパル」時代の整理法である。

それでも世代的にはこれが一番馴染むので違和感はない。1976年当時のカセットテープでも問題なく再生可能なのでまだまだ使える。昔はノーマルテープとかクロムとかメタルとかいろいろあってオーディオブーム真只中に居た頃は、いろいろ試してみたものだ。その後、DATとかMDとかいろいろ録音媒体が増えたが使った事がない。今じゃカセットのヒスノイズさえ貴重である。アルファ−波でも出ているのだろうか?

カセットテープとDVD、30年後はどちらが再生可能?

あんがいカセットテープだったりもする。デジタル記憶媒体は移り変りが激し過ぎてついていけぬ。

音声録音はカセットテープで十分だ。


2004年2月13日

「球体関節人形展」

東京都現代美術館で開催されている「球体関節人形展」を観に行く。

都内だというのに交通の便が悪い。最寄りの地下鉄駅から15分も歩かねばならぬ。砧公園にある世田谷美術館も同様にアクセスが悪い。なぜそんな辺鄙な所に美術館を作るのか?そんな場所しか作れないのか?

それはさておき、美術館本体は豪華でバブリーな建物。金曜の昼だったので、それほどお客はいなかったが、たまにゴスロリ風の服を着た女性がウロウロしている。会場内はたくさんの球体関節人形の少女たちが佇み、奇妙な雰囲気。どれも目線が定まっていない。こちらの視線を逸らすのだ。人形にまでシカトされるとは情けない。

そこで人形に話し掛けてみた。

「こんにちは。僕は絶望独身男性だよ。結婚して」

しかし、少女たちは無視しつづける。

人形だからこそ、こちらの気持ちを察してくれると思ったのにダメであった。悔しい。

さて、なぜか押井守監督最新作『イノセンス』のプロモ映像も会場内で流されていた。ドールを扱った作品として紹介されているのだろうが、どうもミスマッチのような。

ミュージアムショップでも押井関連のグッズや漫画、フィギュアが売られていたが馴染めない。

靖国神社で小林よしのりの本を見た時と同じ感覚だ。

芸術は大衆に媚びてはいけない。

漫画は芸術になりうるかという議論は別にして、大量生産、薄利多売で成り立つ漫画、アニメ創作物を美術館で扱うのはちょっと違和感がある。もし扱うにしても、秋葉原辺りで売ってるようなものではなくて、シリアルナンバーのついた手作り品にしてもらいたい。

それにしても、「現代美術」っていかにも1960年代的な響き。


2004年2月12日

「携帯電話人間」

大学時代の知り合いが、携帯を購入したそうだ。

といっても、職場で必要だということで渋々導入したらしい。だから私用ではまったく使わないと。自分から発信しないので、毎月の通話料はゼロだそうだ。

メールをやっていると、自分の細胞膜が破壊され壊疽していくような感覚に捕われる。メールのやり取りが身体に染み付くと、常に誰かのメールを待ったり、発信していないと不安になる。一種の禁断症状みたいなものか?

こうなると、自分自身が「電話化」されたのも同様だ。昔、NTTパーソナルのCMで「お前を電話にしてやる」みたいなキャッチフレーズがあったが、正に「日本電話人間化計画」の体現である。

しかし、この情況に及んでもなお不十分らしい。

最近のNTTのCMでは「もっと通信を」「通信が足りない」「孤独は敵だ」みたいなことを喚いている。そんなネットワーク過多された情況に押し流されると、「自分」という存在が希薄になり、常に通信業者の規格に組み込まれた、ただの「中継機」のように化すのではないか。

通信業者の究極的目標は、孤独と独創を抹殺することだ。

独り静かに瞑想したり、思考、想像に耽る時間を奪い去ることだ。

そして常に、通信業者が決める価値観と規格で顧客の脳思考を上書きし続けることだ。

麻薬と同じだな。

「携帯電話人間」になる位なら、世捨て人のほうがまだマシかもしれない。


2004年2月11日

牛丼。

アメリカの「BSE」騒動で牛丼チェーン店から牛丼がなくなったと大騒ぎ。

そんなに牛丼が日本人にとって死活問題なのか?

別に「吉野家」から牛丼がなくなったって誰が困る?

そんなに食いたきゃ自分で作ればいい。

スーパーには国産その他の牛肉は売ってるし、玉ネギも売ってる。その気になれば誰だって作れる。フランス料理じゃないんだから。

嗜好の差はあれど、自分にとっては「牛丼」=「残飯」にしか思えない。

そんなものを有り難がって食ってるサラリーマンや学生は、他に食い物を知らないのだろうか?

いっそ、デパ地下で余ってる賞味期限切れ高級惣菜をトッピングした方がよっぽど旨そうだ。

「デパ地下残飯丼」として新メニューに加えたら如何か?

それなら食べてもいい。いや、牛丼よりこっちの方が食べたい。

怪しげなアメリカ産牛肉を使った「牛丼」を旨そうに食ってると、ますます欧米人に馬鹿にされるだけ。

「はなまるうどん」でしばらく我慢だ。

所用で秋葉原の「ヤマギワソフト館」前を通る。

祭日のため、秋葉系男子が大挙して燃えた店鋪前を行き交う。

まるで葬儀の参列者のごとく。

あの店と隣接するドーナツ店はよく利用したので妙な気分だ。

アソビットシティーも閉店するというし、今年は秋葉系男子にとって受難の年なのか?


2004年2月10日

冬山遭難。

福井県の冬山を縦走していた大学生グループが雪で身動きが取れなくなり、無線で救助を要請。49時間振りに無事救出されるというニュースを観た。

最近の遭難といえば決まって中高年であったが、これは珍しい若者グループ。この時代でも気骨な大学生はいるものだ。世間ではやれ「無謀」だとか「遭難救助費用が無駄」云々とうるさい輩が騒いでいるが、冒険を志す者に水を挿す言動はどうかと思う。

冒険に危険は付きものだろう。だからこそ無線を用意したり、ビバークする技術をマスターして危機に対処していたのだから大したものではないか。それでも自力で危機を乗り切れなかった場合に警察や自衛隊が存在しているのだから救助に行くのは当たり前。

それを安全な所で何にもしない輩があれこれ言う資格などあるまい。

それにしても、こういった情況にアマチュア無線は役に立つ。というよりロマンだな。

一方こんな山奥で、もし携帯が繋がったらロマンも糞もない。

遭難し、生死を彷徨ってる間、四六時中迷惑メールやセールス電話が掛ってくるのだ。

救助隊からの連絡だと思ったら「お墓のセールス」電話だったりする。

所詮、携帯は女子供の玩具だ。ロマンとは無縁。

人跡未踏の場を目指す男ならまず携帯を捨て、アマ無線を持て。

これが冒険者の鉄則であろう。


2004年2月5日

「一番欲しいもの」

最近、テレビのCMでこんなのがある。

カップルの男性の方が恋人らしき女性に「二番目に欲しいものをあげる」と囁くと、その女性は納得いかないような表情で目をクリクリさせて「普通は一番欲しいものだろ」というようなモノローグが入るストーリー。

このCWを観る度に激烈な憤怒に駆られる。

なぜ「二番目」ではいけないのか?なぜ一番欲しいものが貰えることを当然のように考えているのか?この男は二番目に欲しいものをプレゼントすることに恋愛の哲学を見い出しているのかもしれないのに、この女性の無慈悲で無頓着で傲慢な態度に猛烈な怒りと恐れを感じるのだ。

たかがCM、そんなものに目くじら立てたところで何の得にも成らぬ事は解っている。

しかしながら男性の優しさを「一番欲しいものをプレゼントしてもらう事が当然」のごとく振舞うその女性の表情を見るにつけ、無垢な男性に対する見下しと蔑視が露骨に現れているのが許しがたいのだ。そんなものを平気で公共の電波に流しておきながら、その一方で「男女共同参画」やら「男女雇用平等」などという悪平等を強要し、無垢で弱い立場にある男性を死に追いやるキャンペーンを平然と展開するメディアには辟易する。

少なくともこのCMに出てくる女性は、すべての男性から王侯貴族のように扱われるのが当然と考えているのだ。哀れなのは力のない男性や恋愛不適格男性。そんな女性の前では、もはや家畜以下にしか扱われないだろう。

かつて「一番欲しいもの」を欲する女性は卑しいと諭された。

むしろ「二番目に欲しいもの」を強請る女性の方が謙虚で美しかった。それが美徳というもの。

だが、今の時代、そんな嗜みをよしとする女性などいない。

「男女平等」を標榜しておきながら、金や力のない男は人間以下の家畜として見下される時代だ。何を言っても負け惜しみと片付けられるから男の方もおろおろするだけ。そしてますます女性から蔑視されるのだ。

哀れの極みであるが、そういう時代なのだから諦めるしかない。

貢ぐ事すら出来ない恋愛不適格男性は、もはや女性と会話する事さえ許されない。へたをすると存在する事自体、女性から犯罪者として告訴される対象になろう。

こうして哀れな恋愛不適格男性は今日も「吉野家」の牛丼ならぬ豚丼を独り啜りながら、自分の惨めな人生のロウソクが短くなるのを眺めるしかないのだ。

「一番欲しいもの」どころか「一万六千四百二十六番目に欲しいもの」すら手に入らぬ人生を呪ながらね。

最近は、このCMに遭遇しても怒りや恐怖はない。その代わりテレビの前に三つ指ついて土下座し、こう呟く。

「あいすみません」

これがこれからの恋愛不適格絶望独身男性の美徳であろう。


2004年2月3日

予告ページ。

2/24に出る新刊『あなたの遺産』の告知ページを制作。

昨年、同時期に出た『晴れた日に絶望がみえる』と似たような感じで作ってみたが如何であろう?

これまた重いページになってしまったが興味ある方は是非。


2004年1月30日

入稿終了。

2月に出るコミックスのカバー絵と口絵を入稿。

今回の作画は難義であった。同じ部分を繰り返しカット&トライしていたら無限ループに陥り、収拾がつかなくなってしまった。どうやってもダメな時はその部分を放棄して別の局面からアプローチするのが早道なり。

そのコミックスの告知が今月のコミック・バーズに載っていた。使われていた絵は、おそらく昔の単行本からそのままコピーしたもので些か不鮮明。元になった単行本の印刷もあまり良くなかったから仕方ないが、それにしても20年近く前の自分の絵を見ると冷や汗が出る。

当時は印刷を前提とした絵が描けず、無駄に労力を消費していた記憶が蘇った。

ベタで済むような箇所を、到底印刷に出ないような異常に細かい掛け編みで作画していたのだ。

ベタであれば5分で墨塗りが終わる部分を半日かけていたのである!

こんな調子だったから、自分の絵が印刷されても殆ど線が潰れて台無し。いつもがっかりしたものだった。

あれから20年近くが過ぎ、漫画刊行物の印刷技術もかなりレベルが上がったので、原画の線は当時より鮮明に出るとは思うが・・。

それにしても、当時の無駄な労力も一種の無限ループに陥った結果なのだろう。

一枚の原稿に丸ペン20本を費やした事さえある。16ページに換算すると360本だ!

極細の丸ペンでさえ太いと感じていたから、もはやこれは「病気」であろう。

だが無駄と分かっていても、ひたすら従来の作画法に固執したことで見出せるものもある。

いつかは原画展を催し、「壮大な徒労」たる原画を観て頂きたいものだ。


2004年1月27日

『オポチュニティー』

アメリカの火星探査車2号機『オポチュニティー』が着陸に成功し、新たな火星の風景画像を送ってきた。

これまで火星探査機は5回着陸に成功しているが今回の火星の風景は、今までとまったく違う細かい砂丘と露出した岩盤が写っている。

おお、何という空想力を誘う光景だろうか!

レイ・ブラッドベリーの「火星年代記」を彷彿とさせる。

遥か火星の砂漠に佇み、物憂げな午後の風に吹かれてみたい。

いずれにせよ、こんな現場に立ち会えるNASAの職員が羨ましい。

不調の1号機『スピリット』の修理も低速度データーのやり取りで、トラブルを克服しようと格闘している姿はすばらしい。

少なくともそこには「希望の21世紀」がある。

未知への探究心を滾らせ、未知の大地に赴くことは、生きる原動力だ。火星にこそ未来への扉が待っているのだ。

だがこの日本では、火星関連のニュースなど殆ど報道されない。

テレビも新聞も夢とロマンを喚起するどころか田舎の痴話ばかり。これはもう苦行以外の何ものでもない。

今後新たな火星ロケットの計画もなく、「夏への扉」も開かない。

その代わりにパチンコ屋とサラ金と中古車展示場と100円ショップと牛丼屋の陳腐なメリーゴーランドがあるだけ。

そんな気の滅入るメリーゴーランドに乗って、死ぬまで同じところをグルグルグルグル回わされるのだ。

まるで百貨店のペット売り場でよく見るハムスターのごとく。

アメリカの火星探査車の名は『スピリット』と『オポチュニティー』。

直訳すると、それぞれ「精神」と「好機」という意味らしい。

火星の風に吹かれ、未知なる大地に佇む探査ロボットのほうが、今の日本人よりよっぽど「人間的幸せ」を獲得しているんじゃないかと錯覚すら覚える。

ホンダの『ASIMO』も「早く火星に行きたいよ」と泣いているかも。


2004年1月20日

時間の感覚。

最近日時の感覚が麻痺してきた。

頻繁にカレンダーを見る習慣もなく、スケジュール表も手帖もつけないので今日が何日か忘れてしまうのだ。この不定期日記でさえ、日付けを間違える時がある。こんな調子だから大切な約束の記憶がすっかり抜け落ちる場合があり、人に迷惑をかけてしまう。

元々が徒然なるままに生きている性格なのだが、先天的にコミュニケーション能力に欠けている事もその要因だろう。これは性格というよりは脳の情報回路にどこか欠落があるのかも知れぬ。

困ったものだ。

コミックス表紙カバー絵を製作中なのだが、これが煮詰まって思うように描けない。

CGで新海誠氏風の空を描いてみるのだが全然だめ。

『ぺインター』で試行錯誤してみるのだがどうも上手くいかない。一日中あれこれやってみるのだがツールが使い切れていないのが原因なのか、まったく思い通りの描写が出来ない。仕方なく『フォトショップ』で処理してみるがいまひとつ。3日位同じ事の繰り返しでうんざりしてくる。

これじゃ、まだ手描きの方がマシに思えてきた。

CGはもっと学習しないとだめだな。


2004年1月19日

芥川賞。

新聞やテレビが大きく取り上げるから、きっとハイレベルな賞なのだと思う。

で、受賞したのが19歳と20歳の女性。

メディアを通してしか窺い知れないので、実際の「文学的才能」とか「人間的成熟度」云々を考察しても意味がない。

受賞作品を読んだ訳でもなし。

元々、最近は小説の類を読む習慣がないので芥川賞云々と騒がれても、その本を手にする事すらない。

だから、新聞で紹介されている二人の写真やコメントを見ても何の興味も湧かないのだ。

だが今回は、別の意味で気になることがある。

何故に19歳と20歳の女性なのか?

受賞者の二人は結構美人で可愛いから、世間に対して歪んだ感覚や反感も大して抱いていないだろう。生死を彷徨うような体験もあるようには思えないし、憎しみや怒りに燃え、恨み辛みを文章に綴る衝動に駆られた訳でもなさそうだ。

実際、本当にそういう体験が受賞者の女の子になかったかどうかは知らない。ただメディアに流れた情報ではそんな印象は露とも感じられないだけ。

媚びたような風貌に自信過剰とも思える記者会見。

他愛のない「ちょっと個性的女の子のアブノーマルな日常」という、いわば「椎名林檎」風文学と形容したくなるようなレビュー。

日記サイトで検索すれば無数に出て来そうな「女の子のヒミツの日常記録」。

それで獲れるのか?芥川賞。

多分、選考者は書いた内容より書いた人物が商業的に受けるかどうかを重要視したのだろう。

まあ文学も商業活動の一環であるからして話題性は重要だ。

だが、自分にはどうしてもこの受賞者二人の女性が生理的に受け付けられぬ。

もし、受賞者の女の子が記者会見の場に現れず、写真も公開せず、自らの執筆した作品のみで世に問うのであれば、何かしらそそるものがあろう。だが、最初にそのルックスありきのような対応(本人の意思に拘わらず)には、「気持ち悪さ」が先行して耐え切れないのだ。

二人の姿を見ていると「生理2日目」の血の臭いが漂ってくる。

つまり、今回の芥川賞には「生理2日目の臭い」が選考基準として必要だったといえよう。

「生理2日目」の臭いの前には、どんな希有な体験を綴った大作だろうが、戦場を潜った決死の手記だろうが、勝負にはならないのだ。

ただ「可愛い女の子が一寸変わった日常」を綴るだけでよい。あとはアンニュイな生理日を待つだけで良いのだ。

偉大なり。芥川賞!


2004年1月15日

カラス。

最近、早朝にカラスがやたら騒いでいる。

何事かと眺めてみると、集団で木の芽を突いているのだ。

たぶん飢えているのだろう。ゴミ処理の管理が厳しくなって餌にありつけなくなったのか?

たまに、生きた鳩を襲って食べているという話も聞くから、カラスも生きるのに必死だ。

明日は我が身か?


2004年1月14日

『漫画に「わいせつ性」認定』。

朝日新聞13日付け夕刊にこんな記事が載っていた。

なにやら成人向け漫画を販売した出版社社長に東京地裁が有罪判決をを言い渡したとか。

街中に高利貸や賭博パチンコ店が溢れているのに、今更漫画のわいせつ性云々説いたってどうなるというのだろう?

いずれにせよ、少子高齢化で硬直した社会にはもう表現の自由を容認する余裕がないことをまた一つ証明しただけの話。

別段驚くには当らない。

それより気になったのは、有罪判決を受けた出版社社長のコメント。

「これで漫画を描く事を恐れる人が出て、漫画が衰退するのではないかと危惧している」

なんか変だな。

いったい何を恐れるんだ?

そもそも漫画家なんて、生活の安定とか将来性等考えて就労する職業じゃないだろう?

空想世界を現実化させるための手段として漫画を描くんじゃないのか?そのためには危険を顧みず、ただひたすら自分の信じる表現活動に殉じるのみ。誰が何と言おうと、自己表現活動のためには描くべし!描くべし!

それでも自らの創作活動が抑圧される時は。ペンを剣に持ち替えて玉砕すべし。

それがクリエーターとしての王道だ。

昨日、NHKテレビを見ていたら作家の大江健三郎が出演していて、なにやら若者に対し説教じみたことを語っていた。

「新しい人」云々・・。

だが氏の説く若者へのメッセージは抽象的過ぎて何を訴えたいのかよく解らない。

何かと言うと、自分の知的障害の息子を引き合いに出し希望を説くが、ノーベル賞作家の特権的環境で育った息子を例にされても普遍性に乏しい。

大抵の知的障害男子は厄介者扱いされているのが普通だろう。

そのような「真実」を説かず、机上の空論を振り回されるのは迷惑極まりない。

全国で、苦悩する知的障害男子や絶望独身男性を真摯に思うのならば、如何に楽に死ねるかを説かねば嘘になろう。

最近、有名作家が若者に対し、やたら説法する著書が流行っているらしいが、はたして作家ってそれほど若年層に影響を及ぼせる地位にあるのだろうか?

否。

漫画、アニメ、ゲームクリエーターに比べれば、矮小な存在に過ぎない。


「文壇」とかいう安全な地位に胡座をかいて、高見から見物するような姿勢で若年層を説法しても、誰が信じようか?

猥褻性を問われ、自己表現を抑圧されているエロ漫画家の方がよほど説得力があろう。

自己表現の為に闘争しないクリエーターに存在価値なんてないのだ。


2004年1月13日

300ページ。

コミックス本文の全原稿を幻冬舎に入稿。

大きな手提げ袋に入れて幻冬舎のある代々木まで電車と徒歩で運ぶのだが、これが重い。

一枚の漫画原稿用紙は軽くても300枚となるとけっこうな重さになる。

単なる重量だけではない。

そこ描かれた300ページ分の「魂の叫び」がずっしりと手に食い込むのだ。


2004年1月12日

西の夢。

よく西の夢を見る。

自分の部屋から見える西方角の風景夢だ。はるか地平線の彼方が見えたり、あるはずもない空想の世界が広がっていたりする。

幼い頃から見る夢なので、なにか西の方に自分の求めるべきモノが存在する暗示なのだろうか?

はたしてそれは何処なのだろう?

あるいは西に運命の人がいるのだろうか?

すぐ西隣の家なのかもしれないし、大阪なのかもしれないし、あるいは中国大陸シルクロード辺りか?いや、もしかすると遥か西の地平線に没する月面上なのかもしれぬ。

だが、ここに至って答えは未だ出ていない。

時として、西からやってきた人に運命を感じる時がある。しかし結局は自分の思い込みで終わってしまう。

自分にその西に果ての地平線を超える力が不足しているのであろうか?

先日もそんな西の夢を見た。

なぜが西の方角に巨大なサッカー競技場が出来ているのだ。

こんなの「夢判断」にも出てこないな。

ふと、目が醒めると雨戸の隙間からフルムーン過ぎの月光が自分の顔に降り注いでいた。

まるで脳をスキャンされているというか、夢を覗かれているようで不思議な感覚。


2004年1月11日

ピチョンくん。

電車内広告その2。

先日、JR山手線に乗っていた時の事。

目の前に立っていた若い女の子が突然叫んだ。

「あっピチョンくんだ!」

見ると車内広告用液晶画面に「ピチョンくん」が映っている。

ピチョンくんとは某エアコンメーカーのマスコット。

テレビコマーシャルでこんなふうに唄っていたのを憶えていると思う。

「求められて、捨てられて、もうどうにでもしてー」

たぶん、この無抵抗さが女の子に受けるのだろうか?

ピチョンくんの携帯ストラップもよく見かける。

先日も、女性の携帯からピチョンくんがぶら下がっていて、こちらに向かってこう語りかけてきた。

「おい、そこの絶望独身男性。ボクは女の子の人気者ピチョンくんだ。ボクは求められ、そして捨てれれるが文句一つ言わない。なぜなら人生悟っているからさ。だから優しくなれて女の子から好かれる。

お前みたいな未熟者は一生妬みと焦燥感の中でのたうちまわって苦しめ。そして孤独の中で死ぬのだ。それがいらない人間の定めだ」

ふつう、携帯ストラップは喋らない。

生き物じゃないからね。

しかし、確かにピチョンくんはそんなメッセージを私の脳に電波で送り込んできた。

それを受信すると自分は一目散に電車から飛び下り、全速力で高田馬場のホームを駆け降りた。

背後からは空しく「鉄腕アトム」の駅チャイムが響く。


2004年1月10日

反芻。

電車のつり革広告にふと目をやると漫画雑誌の広告が視野に入る。

山上たつひこ作『ガキデカ』。

澱みと沈滞の時代を象徴するような広告。

下水の逆流のような、牛の反芻というか・・。

一度食べたものをまた食べて美味しいのか?一度「消化」したものだぞ。

当時の「少年チャンピオン」は確かに面白かった。『マカロニほうれん荘』、『エデンの戦士』、『ブラックジャック』、『青い空を白い雲が〜』等。

『ガキデカ』もその中にあって人気作品だったな。

つり革広告のそれがどんな作品にリニューアルされているのかは知らない。

でも誰が読むのだろう?懐かしさに駆られた当時の少年か?

少なくとも自分には反芻の趣味はないので遠慮しておこう。

詰まった下水管に閉じ込められた感覚に囚われたので、すぐに視線を車窓の向こうに外した。

厳寒の街並が物憂げに過ぎていく。


2004年1月7日

火星の風景

アメリカの火星探査車から送られてきた火星の風景が心地よい。

午後の陽射しに照り返される赤茶けた平原にロマンを感じずにはいられない。

最初の火星探査船バイキングが着陸に成功したのは1976年。当時、高校生だった自分は夢中になってその「バイキング」号の新聞記事を切り抜いて保存していた。以来、火星探査船が火星に近づく度に血沸き肉踊る。本棚には火星に関する本で一杯だし火星儀も3種類持っている。

不思議な事に火星表面の風景は月面と違って何かとても懐かしいような衝動に駆られる。

地球と同じく大気がある惑星の風景に親近感が湧くのだろうか?いや、他に何か理由があるのかも。一説によると地球の生命の起源は、火星からの隕石によって齎されたという。火星に行くということは、一種の里帰りなのだ。

火星に対する妄想は尽きない。

電子書籍『風の中央鉄道』の中でも火星を描いた作品がある。バイキング号から観たクリュセ平原の風景に海が広がっている空想画だ。

記念に宇宙関連のリンクページにそのコマを置いてみた。

火星の風景写真を眺めていると何故かポール・ウィンターの楽曲が聞こえてくる。


2004年1月6日

ペーパーセメントの劣化。

2月発刊予定の単行本に収録予定の原稿をチェック。

古いものになると20年近く前の原稿なので写植を貼り付けたペーパーセメントが劣化してぽろぽろ剥がれ落ちてくる。

つくづく時の流れを感じてしまう。原稿用紙もやや黄ばみぎみ。

一方でインク等の劣化はなく、丸ペンで描いた細かな線は当時のままだ。ひたすら原稿に向かってペンを走らせていた記憶が僅かに蘇る。

20年前、徳間書店の季刊「プチアップルパイ」に描いていた頃の方が今より切実で緊張感溢れていたような気がする。それは自分が年齢を重ねたという理由だけではなく、世の中全体が次第にぬるま湯のような情況に変化していった現れかもしれない。

コンビニで食玩を求める「大人たち」の姿がむしろ当たり前になるなんて、20年前では考えられなかったからなあ。

ペーパーセメントの劣化はそれだけ時が流れてしまったという証しか。


2004年1月2日

『ほしのこえ』

遅ればせながら新海誠制作アニメ『ほしのこえ』をレンタルビデオで拝見。

予告編はアニメ雑誌の付録CDRで観たのだが、全編を観賞するのは今回が初だった。

空、雲、雨、陽射し、そして鉄道の描写は実に素晴らしい。ワンカット一つ一つが「絵画作品」として十分成立するほどの完成度だ。

これを作り出せる感性っておそらく若い頃の僅かの期間にしか存在し得ないだろう。

特にこの青臭いほどの「切ない」ストーリーは、ある一定期間を過ぎるととても気恥ずかしくて堪え難くなるもの。純粋無垢な恋愛物は、自分が現実社会で経験を重ねるにつれ、空しさと嘘に染められて絶望に変換されてしまう。

そうなる前に公の場で十分評価され得る作品を描き切れるかどうかが、その作家の価値観を決定付けるのだ。

おそらく新海氏は幸運にも恋愛に関しては無限の希望を抱ける経験しかないのだろう。だからこそ『ほしのこえ』のような世界を描けたような気がする。

かつて女性を「純粋無垢な優しい女神様」と信じて疑わなかった10代後半。自分も『ほしのこえ』に類似する切ない「恋愛妄想」に夜な夜な耽っていた時期があった。当時流行ったSFアニメの中に自分を置き、切ない恋愛ロマンを貪っていた記憶がある。

そんなものを薄汚いノートに記して自己満足に浸っていたのだ。

『ほしのこえ』の切ないストーリーを観ると、そんなどうしようもない「ダメ人間」な若い頃の自分が思い出されて堪え難くなったりする。

当初は新海氏自身が主人公のアフレコをやっていたと言う事を聞いて、なんとなくその気持ちは解るのだ。そこまでやってしまう「恥ずかしさ」に耐えられる感性は偉大ですらある。

でももしかすると、この『ほしのこえ』は、孤独な主人公の壮大な妄想に過ぎないのかも。

クラスでひとりぼっちのヲタクな少年が、お気に入りのクラスメートを勝手に自分の恋人に仕立て上げ、その子が「宇宙戦士」に選抜されて離れていってしまう妄想だとしたら。

いや、逆に孤独な少女が憧れのクラスメートの少年に恋をしたが憶い伝わらず、それが高じた挙げ句、自分は「宇宙戦士」に選抜されて地球を離れねばならないという事実に至れば、彼は自分に振り向いてくれるに違いないと妄想しているのだとしたら。

そしてメールは実は、自分が入院した精神病院から発せられているのだ。

嗚呼、夢もロマンもないストーリーだな。

こんな妄想しか出来なくなった自分に乾杯。


2004年1月1日

謹賀新年。

旧年中はお世話になりました。今年もよろしく。

昨年に続いてコミックスも2月に発刊予定ですので、より一層の応援宜しくお願いいたします。 

年々、年末年始の感覚が薄れてきた。

「ハッピーマンデー」制度で連休が増えて長期休暇の有り難みがなくなったというか、年がら年中惚けているような状態になったのが原因かもしれない。一方で年末年始も営業する店鋪か増えた。かつての暮れ正月の雰囲気は過去のものになりつつある。

大晦日の夜、なんとなくテレビを灯すと放映しているのは歌謡ショー系と上半身裸の男が絡み合っているプロレス系ばかり。

どちらも趣味ではない。

とはいえ大晦日にテレビを消すと部屋が寂しくなるので仕方なくNHK教育に合わせて放置する。いつから地上波テレビはこんなにも選択の余地がない限定された番組ばかりになってしまったのか。この年末、唯一興味深く観た番組は、NHK総合の「映像の世紀」。何回も再放送された番組にも拘わらず、最も新鮮に感じてしまうのはどういうことだろう?

「ヒトラーの野望」の回は今のテレビが最も避けている要素が詰まっている分、面白すぎる。

タブーばかりで雁字搦めの現行TV番組には大衆を引き付ける魅力はもうないのかも。


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