2003年10月・11月・12月


2003年12月30日

コミックマーケット65来場感謝。

今回も寒い中、我がスペースまでお越し頂き御礼申し上げる。

今回はお手伝いの手配が付かず、一人参加のため大変慌ただしい対応になり申し訳ない。

開催時間中、一歩も自分のスペースから出る事なくひたすら頒布に専念するのみ。一般的にサークルの主催者たるはスペースの背後に構えて来客との雑談や「スケブ」に応じ、頒布は売り子に任せるのが理想であろう。描き手かつ主催者が、いくら個人サークルといっても一人で本を頒布しているというのは、いささか格好が悪い。

それでもなんとか無事乗り切る事が出来た。特に数年ぶりに遥々我がスペースに訪れて頂いた旧友や同人作家さん等に出会えたのは収穫であった。感謝申し上げる。

とりあえず来年もよろしく。


2003年12月29日

コミックマーケットあびゅうきょサークルの御案内。

すでに最新情報等でもお知らせしているように、明日30日コミックマーケット65(12/28〜30・東京ビッグサイト午前10時〜午後4時)にて、今回もあびゅうきょサークルが出店します。

販売スペースは東4ホール「ム」08b。

7年前に発刊した『目覚めよと呼ぶ声が聞え』(「新世紀エヴァンゲリオン」アンソロジー・評論集)をリニューアル再版。新作描き下ろし作品も掲載。

また、夏に作った別ペンネーム作品『フタナリ姉妹とネコ人間』の第2巻も新刊として頒布する。コピー誌新刊も販売予定。内容は現地にて御覧いただければ幸いです。

また来年2月に出るコミックスの告知ペーパーも配布する予定。

会場の東京ビッグサイトへはJR山手線大崎駅経由りんかい線国際展示場駅下車が便利です。

お誘い合わせの上、御来場いただければ幸いです。


2003年12月27日

あびゅうきょコミックス新刊情報

すでに漫画書店の2004年2月のコミックス新刊情報に記されているが、1987年発刊『彼女たちのカンプグルッペ』と1995年発刊『JET STREAM MISSON』の収録作品を一冊にまとめた新たなあびゅうきょ作品集が幻冬舎コミックスから発刊される。

誌名はまだ確定していない(書店の2月売りリストには『JET STREAM MISSON』となっているがこれは仮のタイトル)が、『彼女たちのカンプグルッペ』に収録されている短編のタイトル『あなたの遺産』にしようかと考えている。総ページ数は300ページを超す分厚い本になるだろう。

8年ぶりの新刊『晴れた日に絶望がみえる』発刊から僅か1年で新たなコミックスが出せるというのは、自分の漫画家歴では異例の事。とはいえ、普通に連載をこなす漫画家であれば、年に何冊もコミックスが出るのが当たり前なのだが・・。

いずれにせよ、2月に発刊予定の新刊に御期待頂きたい。


2003年12月24日

『奥様は魔女』

35年位前の海外テレビドラマ。5〜6年毎に何処かの地上波テレビで再放送されているようだが、TBSの「奥様劇場」でまた放映していた。

さて、このドラマのオープニングでこんなフレーズがある。

「ごく普通の結婚をして〜」

そう、35年程前、結婚は「ごく普通の」事だった。

この「奥様」は魔女であると同時に「専業主婦」だったと記憶しているが、今や「専業主婦」は魔女と同じくらい希有な存在と成りつつある。だからこのドラマを観ると魔女であることよりも「専業主婦」であるほうが吃驚させられる。「奥様」は旦那様を毎朝仕事に送り出して家事に専念、旦那様の帰りを健気に待つ・・なんていう情況が魔法よりも不可思議に見えてしまう世の中になってしまったのだ。

いや、「専業主婦」という存在自体が、もしかすると「魔法」の一種だったのかもしれぬ。

21世紀になったら、もうそんな魔法は使えなくなってしまったので、「奥様」は外へ出て働かなければならなくなったのだ。

現実はドラマよりも奇異なり。

最近のクリスマスイブは、以前程「恋人と過ごす大切な日」という習慣が薄れてきているようだ。新聞によるとイブのホテル宿泊予約がめっきり減ったという。

そういえば、バレンタインデーもあまり騒がれなくなった。

若い女性に恋愛する熱気がなくなり始めているような感じもする。女性は別にイブに釈迦力にならなくとも、都合のよい日にいつでも異性は獲得出来るだろうし、何も焦る理由はない。

一方、男性はただでさえ「恋愛難民」が大多数。にも拘わらずイブの行事まで女性に飽きられてしまっては、もはや恋愛するきっかけすら失ってしまう。恋愛不適格男性はますます落ちぶれて路頭に迷うのだろうか?

山下達郎の「クリスマスイブ」が流行った時代が懐かしい。


2003年12月18日

冬型天気。

北西の季節風が続き、真っ青な空が広がる。どんなに寒くても関東の冬晴れは心地よい。

夕暮れ、西の空には宵の明星金星が輝く。今年は、南天にずっと無気味に赤く光る火星が居たので金星を見るとなぜかほっとする。

阿佐ヶ谷某BARにて開店3000日記念パーティーが開かれたので出席。

炭火で蟹を焼いて食す。ボイルしたものとは趣きが違う食感。蟹味噌に清酒を注いで飲むというのも一興。

食といえば最近、大阪産のモノが旨いということを実感。多分、水が関東と違うのだろう。

東京からめったに出ない自分にとって、関東圏以外の食はまさに「秘境の珍味」かもしれない。

食玩で海洋堂が制作している「赤毛のアンヴィネットコレクション」がよい出来。

窓辺で物憂げに夢想に耽るアンの表情を見ていると、女の子は得だなあと思う。

中年の男が同じように窓辺に佇んでいたら「挙動不審者」として110番されかねない。

アンは女性に生まれて正解だ。


2003年12月10日

永遠の刻印。

日本の火星探査機『のぞみ』が火星軌道導入を断念というニュースを聞いて思う事。

実は衛星のプレートに名を刻み付けるという企画に自分も応募していたのだ。27万人分の著名の中に自分の名も記されているはずだ。

今後『のぞみ』は太陽を中心とした惑星軌道を半永久的に回り続けるという。多分、自分の残した痕跡としては最遠最長の存在になろう。

その意味だけを考えれば、このミッションは成就したことになる。

それはさておき、火星探査船が成功する確率は低い。これまでも米ソが何回となくチャレンジしているが成功率は5割に満たないはず。

要は数多くチャレンジすること。

ところが日本の宇宙ロケットは打ち上げ頻度がアメリカ、ロシア、ヨーロッパに比べ極端に少ない。これでは満足なミッションは何一つ完遂出来まい。

何事も正副予備の3系統あってこそお互い補完しあって目的が達成されるもの。

人生もまた同じ。

それがない人間は最初から成功など望むべくもない。

「一発勝負」と考えた時点でその人は、人生失敗しているのだ。


2003年12月9日

JR阿佐ヶ谷駅南口イルミネーション。

このシーズンになるとJR阿佐ヶ谷駅南口広場に聳えるメタセコイヤがクリスマスツリーのように電飾される。せっかくなので広場に面するパスタ屋で食事。

凛と澄み切った空には満月。

やっと冬らしい北西の季節風が吹き始めた。

夏から冬にかけての生ぬるくて雨の多い、陰鬱な気候に精神も凹みかけていたので、この寒さも清涼剤に感じる。


2003年12月8日

コミックマーケット会場での入場者誘導の事。

コミケカタログのマンガレポート等にも指摘されていたが、りんかい線国際展示場駅から東館サークル入場誘導路の問題について。

前回の開催時、普通徒歩で行けば10分程で辿り着けるルートがなんと1時間近く掛ってしまったという。途中の信号がネックになって著しく人の流れが阻害されてしまったらしい。雨も影響したかと思うが、実際自分も3日目にこのルートで入場して非常に非効率で不便だと感じた。

せっかくりんかい線が大崎と繋がって便利になったというのに、これでは何の意味もない。どうしてわざわざ信号機のあるルートを設定誘導したのか?

結果として列を作るがためのルート設定としか思えない。コミケット会場では各所で列が見られるが、サークル入場時にまで列を作らせる参加者誘導方法はいささかやり過ぎであろう。サークル入場誘導路は、いかに時間内にサークル参加者を会場内に収容するかが重要で列を作る事ではない。これでは本末転倒だ。

要するに入場ルートとゲートが狭すぎるのだ。

「混雑を避けてなるべく早い時間に入場を」というのは理解出来るが、ピーク時を考えて会場設定しないと不慮の事故を招きかねない。もっともこれほど大規模なイベントを安全に運用するには厳格なルールも必要な訳でスタッフの苦労も忍ばれる。

臨機応変な改善を望みたいところだ。


2003年12月7日

コミックマーケット新刊情報。

コミックマーケット65(12/28〜30東京ビッグサイト)では7年前に発刊した『目覚めよと呼ぶ声が聞え』(「新世紀エヴァンゲリオン」アンソロジー・評論集)をリニューアル再版する。新作描き下ろし作品も掲載するので新しい本として生まれ変わる。

また、夏に作った別ペンネーム作品『フタナリ姉妹とネコ人間』の第2巻も新刊として頒布するので宜しく。

最近、同人誌界の間では、皆が総じてパロディーにしたがる作品が喪失しているという話を聞く。考えてみればインパクトのあるエポックメーキングなアニメ、漫画を耳にしなくなって久しい。一部マニアックな作品はあれど、共通の話題になる程ブレークしない。TVアニメに限って言えば、その手の作品は深夜帯に限られ、普遍性を欠いているのが原因かもしれない。

それはさておき、アニメではないがドラマでブレイクしている作品がある。

それはテレビ朝日系で毎週木曜21時から放映されている『トリック』という作品。仲間由紀恵と阿部寛が主演している推理ドラマ。3年位前に始まったTVドラマで映画にもなっているそうだ。実はこの前までまったく知らなかった。

知り合いに奨められて時たま観るのだが、それなりに面白い。比較的若い世代に受けているようだ。

はたして実写ドラマが同人誌パロディー題材として成立するか難しいところだが、アニメ、漫画にパロディー対象が乏しい現状では『トリック』もその候補に挙げるしかないかも。実際、今度のコミケで『トリック』コスプレをやろうと考えているコスプレイヤーの話を聞いた事がある。

だが実写ドラマの場合、実在する役者やタレントを対象にする訳だから肖像権の問題等が発生し、パロディーとして大ブレークすることは難しい。アニメや漫画の場合はオリジナル側もパロディー対象とされる事で相乗効果を得られるとして黙認している訳だが、実写の場合、そういった慣習はない。

ただ、パロディー対象が広がるということは、同人誌の創作視野が新たなステージに入る可能性を示唆している訳で悪い事ではあるまい。

もう実写と絵を分ける時代ではないようだ。


2003年12月5日

死ぬタイミング。

イラクで殺害されたという外交官の遺体が無言の帰宅をしたのをテレビで放映していた。

悲しみに暮れる遺族。儀仗隊が棺を運ぶ。

これを観てふと考えた。

確かに異国での死は無念であったが、公務中の殉職だし、遺族にも国から年金は出るだろうし、そういう意味では無駄に死んだ訳ではない。

それに最も重要なのは、この二人には妻も子もいる。

つまり自分の遺伝子をすでに残している訳だから、何の悔いがあろうか。

これから人生の下り坂として老い朽ちるのを待つ必要もない。

男として死ぬタイミングは抜群であろう。よい人生である。

それに比べ、結婚出来ない低所得絶望独身男性により良い「死のタイミング」はあるであろうか?

そんなものはない。

生きてる事自体、無駄みたいなものだから何時死のうがその死に価値はない。誰も悲しまないし、何も残さない。

願わくば、最低限、人に迷惑をかけない死に方を考える事位であろうか。

40近くになって独身のままの低所得及び無職男性は肝に命じるべきであろう。


2003年11月30日

雨。

陰鬱で憂鬱な雨。

今年の11月は雨ばかりだ。妙に湿っぽくて霧の日が多く、変に蒸す。

今年もあと一ヶ月。季節感を失ったクリスマスイルミネーションがまるで痴呆男の徘徊のごとくピカピカ光っている。20年前、この時期にクリスマスの準備をしていたら確実に頭がおかしいと思われていたろう。

いっそ門松やバレンタインデー、豆まきなんかの準備も始めては如何であろうか?

日本人皆頭がおかしくなり始めたので、文句をいう者もいるまい。


2003年11月27日

くだらない世の中。

庭の樹木の一部が伐採される。

杉並区に在る自分の実家には、物心付いた時からずっと薮のような深々たる樹木に覆われた庭があった。

子供の頃、大きな栗の木が二本生い茂っていて、秋になると大量の栗の実が収穫出来た。他にもフキ、山椒、柚子、ビワ等が収穫できた。草花も豊富で梅、椿、ボケ、ショウブ、アジサイ、薔薇、キンモクセイ、百日紅等季節を彩った。無論、それが同時期にあった訳でなく、この半世紀近くに渡り、繁っては枯れ、盛衰を繰り返してきた。そんな「聖域」たる庭がこの杉並区には沢山あったのだ。自分の実家だけが特別だった訳でもない。

しかし昨今の憎むべき行政の策によって、このような庭は尽く破壊されていった。そんな破壊の魔の手が遂に実家にも襲い掛ってきた。

結局のところ自分には実家の庭に対して何か権限がある訳でもない。その土地を管理するには莫大な費用がかかる訳でその権限を持つ親族にとってしてみれば、木を伐るのは忍びないとはいえ、何らかの対策をとらざるを得ない。行政が考えた理不尽な税制に対処するには望まなくても宅地化するしかないのだ。

先日、そのために庭の一部の樹木が移植、ないし伐採された。出来るだけ木を残す努力はしたのだが、それでも庭の真ん中にポッカリと何もない空間が出現した。

この半世紀、一度たりとも存在しない空虚な空間が。

チェーンソーで木を伐採するのだが、自分にはその伐られる樹木の悲鳴が聞こえた。

「グギャーーー!」

「ギエーーー!」

「タスケテクレエエーー」

だが自分は黙ってその「大虐殺」を眺めるしかなかったのである。

ただただ無念で空しく無力な自分はこの数十年身体の一部のように感じていた樹木を守れない無力さに恥じていた。

押井守原作のアニメ映画『人狼』の中でこんなシーンがある。

主人公の恋人、元テロリストの女が再開発で壊された宅地を指差し、こんな事を言った。

「ねえ、あの角、あそこって前何があったんだっけ?憶えてる?そういうもんよね。みんなすぐ忘れちゃうの。初めから記憶なんかしていないのかもしれない。一日経って更地になっちゃえば初めからないのと同じ。人間だって死んじゃえばそうかもしれないわ。何だか寂しいと思わない?」

そう、すべては忘れ去られる存在だ。

樹木が取り払われた庭の中心に立つ。

少し前まで鬱蒼とした薮があった場所。おそらく宮崎駿の『もののけ姫』に出てきた森の精が住んでいたであろう部分には、建設される家の位置を示す白いロープが張られていた。腐葉土の良い香りが漂っている。だがこれもやがて新建材のいやな臭いにとって変わるだろう。

自分がここまでとりあえず健康に生きてこられたのも、この樹木繁れる庭から分泌される森の成分を毎日無意識に摂取出来たからかもしれない。

だがこれからはそれもない。

形在るものは必ず喪失する。

だが新たな希望や創造はどこにもない。

在る物は消え、そして得るものは何もない。

自分はこの空虚な場所に立ち、思わずこう呟いた。

「くだらん世の中だ」

大切で貴重で神聖なものがどんどん失われ、下らない禍々しい汚物が流れ込んでくる。

こんな「くだらない世の中」に生きていると思うと反吐が出る。

まったく下らない。


2003年11月26日

『オナニーマシーン』

先日、ラジオから流れてきた楽曲の中に心を打つ詩があった。

その詩を奏でるバンド名は『オナニーマシーン』。インディーズバンドの中では結構注目されているらしい。2年ぐらい前から活動しているとか。

どの曲も刹那的で悲哀に溢れ、共感せずにはいられない。ここ20年で最高の詩を作るバンドだ。

どんな詩か関心のある者はネットで調べてみるがよかろう。

絶望独身男性にとってはバイブルに等しい詩である。

だが、この手の詩を奏でるインディーズバンドはきっと日本中に無数あると想像出来る。深夜の駅前で独りギターをかき鳴らしながら、自分の人生を呪う無名のミュージシャンが『オナニーマシーン』の曲を聞き、悔しがっている事だろう。

「これは俺の曲だ」とね。

だが結局はどんな絶望ミュージシャンでも名声を得るのは一握りだ。石の下のダンゴ虫にも順列というものが存在する。

ダメ人間でも売れるダメ人間と売れないダメ人間がいる。ダメ人間の中のダメ人間はいくらダメダメな曲を作ってもダメなのである。最下層のそのまた最下層でのたうちまわるしかないのだ。そんな最下層ダメ人間は今日も深夜の駅前で誰も聞いてくれない自分のダメ楽曲を絶望にうち震えながら奏でるしかない。

さて今日、NHK紅白歌合戦の出場者が発表されたらしいが、残念ながら『オナニーマシーン』はエントリーされぬという。まったく選考委員の目は節穴か?

結局、今年も「紅白」を見る亊はないだろう。


2003年11月25日

女性の車掌。

最近JRの車内放送で女性の声を聞くことが多くなった。なんか妙な違和感を覚える。車掌や駅員が女性で勤まるのだろうか?万一の時、ある程度体力がないと臨機応変に対応出来ないんじゃないかと心配になる。もっとも昔、ワンマンになる前のバスの車掌は殆ど女性だった訳で考え過ぎなのかもしれないが。

一方で男性の看護士や男性機内サービス(スチワート)が増えているというが、これも違和感がある。メンタルな部分で男では不快になる職種もある訳で勘弁願いたい。

こういった職種に就く男性には「男のプライド」というものがないのだろうか?いや、女性の繊細さや母性あってこその職域になぜ男が就くのか?女性の聖域を犯す事に恥を感じないのか?

古い考え方だとかセクハラになるとか非難されるかもしれないが、とにかく性差を否定した「悪平等」は堪え難いのだ。性別問わず一芸に秀でた者は幾らでも居よう。だが一方で稼ぎのない男性に価値を見い出す女性は殆ど居ないのも確かだ。男が「主夫」になったからといって社会がそんな男を認めるか?女性が諸手を上げて求めるか?

否。

そんな事例は例外だ。

包容力も稼ぎもない男は何時の時代にも「いらない人間」でしかない。

いくら優しい男であっても、社会的地位なき男は女性から必要とされない。男性の医師と男性の看護士、どちらが女性から求められる職種か言うまでもなかろう。同時に女性の看護婦と男性看護士を比べても患者にとって求められるのは圧倒的に女性看護婦だ。機内サービスも然り。

理由は簡単だ。

女性には甘える事が出来るが男性には甘えられない。この絶対的性差「母性」の有無によって職業は自ずと男女別々に成らざるを得ない。

それが人間として自然であろう。

最近、専業主婦を侮辱する論調が多いが、専業主婦ほど尊く神聖な職業はないだろう。子を生み育てる事程崇高な仕事はない。税が免除されるのも当たり前だ。更に妻を働かせずに稼ぎを一手に背負う夫もまた男性として優秀な証ではないか。

最近、栄養ドリンクCMでこんなのがある。

夫が職場でピンチになっているのを見た妻がバズーカ砲で夫の所へ栄養ドリンクを届けるという内容。妻は一言夫に「働け」と呟く。

まさに其処には夫婦間の絆が見て取れ、羨ましい限りだ。

一方で別メーカー栄養ドリンクCMで共働きバージョンというのもある。プロゴルファー扮するサラリーマンが妻と一緒にロケットに乗って出勤するという内容だ。

この家庭、いったい誰が家を守るというのだろう?子育ては誰がするのか?これは本当に夫婦なのか?共働きしなければ生活出来ないなどというのはやはり不幸なのだ。

「今時、共働きなんて当たり前だ。この結婚すら出来ない人生の敗北者が!」と罵倒されようとも不幸なものは不幸なのだ。

今日も車内で女性車掌のアナウンスが響く。そして思うのだ。

「なぜこの女性は電車なんかに乗って喋っているのだろう?なぜ結婚し子を産み、育てないのだろう」と。

まったく大きなお世話であろうが、やっぱりこの世界はどこかおかしいのだ。


2003年11月19日

「未来少年コナン」特集。

今月の『ダ・ヴィンチ』で「未来少年コナン」の特集記事があったのでちらっと読む。NHKで初放映されたのがもう25年も前。さすがに記憶の彼方に過ぎ去ろうとしているというか、新たな創作物に上書きされて当時の感動を思い起こすのに時間が掛るようになった。

たしかに自分と同世代のクリエーターはこの「未来少年コナン」の影響を大きく受けている者が多いと聞く。

当時、家庭用ビデオはまだ高価で普及率も低い。だから放映時間までに何としても家に辿り着くしかなかった。それにテレビは一家に一台がまだ普通。チャンネルを確保出来るかも解らない。またバイトとかの都合でその時間帯に家にいなければ観る事さえなかったろう。そんな過酷な条件の下、26話ほぼ全編を一回も逃す亊なくリアルタイムで観たあのエネルギーは何だったのだろう?

宮崎駿なんて名前すら知らず、いやだからこそよかったのかも知れないが、そういった事前の情報なしにダイレクトで作品と接する事の出来た「よき時代」だったのかもしれない。

当時は本放送を見逃せば再放送されない限り、永遠に視聴は不可能だった。だからこそ必死になってテレビ桟敷を確保し、録音したりして記憶に留めようとした。

現在では、ビデオ、DVDといくらでも媒体はある。なにも必死になる事はない。ただし一方で余計な情報も洪水のごとく流れ込んでくる。もし当時インターネットというツールがあったならば「未来少年コナン」も熱く視聴することはなかったかも。某巨大掲示板の有象無象の書込みを読んで一瞬にして醒めたかもしれない。

ネットはある意味「神話」を否定する。それは同時に「創造」の否定だ。

ネットは人間の創造力を更地にして雑草すら生えなくする。

おそらく現代の環境下ではもう「未来少年コナン」のようなインパクトのあるTVアニメは出現不可能だろう。

複雑な気分である。


2003年11月18日

パソコンと人の人生。

パソコンが修理から戻ってきて数日。やっと現状を取り戻しつつある。

起動の際、数十秒だけ「?」マークのアイコンが点滅して起動するのに時間が掛っていたのだが、単にアップルメニューの中にあるコントロールパネル内「起動ディスク」で内蔵ハードディスクがちゃんと選択されていなかっただけのこと。

ワンクリックのみであっさり解消。

こんな単純なトラブルでも気が付かなければ永遠に解らないまま。更には同じ操作をしているつもりでも僅かなタイミングや順番の違いによってトラブルが解消されたり、逆に酷くなったりする。大抵のトラブルは単純な操作ミスなのだが、殆どのユーザーにとってパソコンはブラックボックス。トラブルの原因を適格に把握することなど不可能だ。

「?」マーク解消もネットでたまたま適切な対処法を記したサイトをみつけたお陰なのだが、そうでなければいつまでたっても試行錯誤を続けていたことだろう。

そう、考えてみれば人の人生もパソコン内の膨大で複雑渾沌としたプログラムの海と似たようなものかも知れぬ。

仮に全知全能の創造主がいたとしてこの世界をプログラミングしたとしよう。

そのプログラムに適切に対応していればなんのトラブルもなく生きていける筈。いやそれどころか、不老不死や世界支配のソフトだって埋め込まれているのかも。

人はそれを知らないだけだ。どこかにその起動アイコンが隠されている。

毎朝通う駅の13番線ホーム喫煙コーナー灰皿の裏に毎朝3秒だけ、そのアイコンが出現しているとしたら。それに触れるだけで全ての悩みや不安から解消されるアプリケーションソフトが起動するのだ。

あるいは人生再起動アイコンもあるかもしれぬ。いやな人生をリセットし直し、億万長者様になれるソフトが。その人生再起動アイコンが「吉野屋」牛丼の器のどれか一つに仕込まれているとしたら。

だが人はそれに気が付かずに生活し、日々の苦悩を嘆き続けるのだ。

すぐ目の前に幸福への扉があるというのに。


2003年11月17日

コミティア66

東京ビッグサイトで開かれたコミティアに参加。

来場感謝。

11月にしては温かい日。ハイネックのセーターでは汗をかく程だ。同会場では「ネイルエキスポ」とかいう美容系のイベントも行なわれており、同人系の参加者とは対照的な人の流れが出来ていた。

最近はビッグサイトのイベント後、最寄りのカフェで独りぼうーっと外を眺めているのが習慣となった。例によって携帯ラジオからはTBS『伊集院光/日曜日の秘密基地』が流れる。

その番組で以前から気になっている事がある。伊集院のアシスタントとして時々喋っている若手芸人らしき男性。やたら声が大きくて耳障り。話す内容も面白くない。テンションの高さだけで場を繕っているので聴いている側はしんどい・・というか気の毒にすら思えてくる。

少なくともラジオ向きの芸人適性はまるでないように感じる。にも拘らずラジオにレギュラーで出演出来るのは何故だろう?おそらく世渡りが上手いのだろうな。伊集院に気に入られているのだろうし、周りにも気を使っているのだろう。こういう世界で生き残るには芸達者なだけではダメなのだろうが、それにしても職業の選択を間違えていると心配するのは自分だけか。

人生いろいろだ。


2003年11月16日

パソコン修理。

パソコン(Macintosh G3)がついに先週の5日に壊れた。

故障箇所はハードディスク。異音が続いた後、遂にハードディスクはクラッシュ。認識すらせず起動不能。仕方なく修理に出す。ソフマップの5年間保障ワランティーに入っていたので修理代は無料なのだが、期間は当初3週間かかると言われて焦ってしまう。この間、メールもHP更新も自費出版制作も出来ないとあって頭を抱える。

幸い、1週間で戻ってきたが、データーの復帰に猛烈な労力を有す。重要なデータはバックアップしていたのだが一部ネット関係のデータは復活出来ず。確かにバックアップしてあったデーターが読み込んでくれない場合も。以前のフォーマットは「MacOS標準」だったのでそれが原因か(修理後は「OS拡張」になってフォーマットされていた)。

ハードディスクを丸ごと交換したみたいだが、なんか以前より作動音がうるさい上にすぐにディスクを認識しない(起動時にしばらく「?」マークが点滅する)。本当にこれで安定してくれるのだろうか?


2003年11月12日

『月は無慈悲な絶望の女王』

幻冬舎コミックス月刊『コミックバーズ』12月号(11/12発売)に『月は無慈悲な絶望の女王』が掲載された。

32ページの「大作」。印刷も良く、申し分ない出来だ。

微細な部分でちょっとした修正要があるが気にする程のものではない。

刮目して読んで頂ければ幸いである。


2003年11月3日

32P商業原稿入稿。

めったに描く事のない32P一括掲載原稿がやっと仕上がる。気の遠くなる作業だったが何とか完成まで漕ぎ着けた。詳しい掲載情報は後日。

使っているパソコンのハードディスクにアクセスする音が少々おかしい時がある。機械的なトラブルの前兆だろうか?このパソコン(マックG3)を使い始めて満4年。

ハードディスクの寿命もそろそろ考えねばなるまいか?

頭が痛い。


2003年10月23日

ソニン『合コン後のファミレスにて』と吉井ロビンソン『TALI』

何となく聴いていたラジオから流れてきた曲。

この曲を唄っている歌手には何の関心もない、というか知らない。ソニンは名前なら何処かで聞いた事があるのだが、吉井ロビンソンに至っては誰なのかさっぱり解らぬ。ネットで調べれば出てくるのだろうが、そんな気も起きない。

で、両方の曲ともひと昔前のフォーク調の歌詞なのだが、ソニンの方は何だか鬱陶しいモテない女子の愚痴みたいで、なんというか女子トイレの汚物入れを引っ掻き回して喜ぶ女性みたいなイメージを彷彿とさせる。その堪え難い感覚が妙に気になって聞き入ってしまう。

一方、吉井ロビンソンの歌詞も堪え難い。ここに語られる男の生き方は同じ日本男子からして受け入れ難い。一秒たりとも同調出来ない忌々しいモノを感じる。

ただ一ケ所興味深い歌詞があった。それはこんなフレーズだ。

「あっちの人も失敗だ。こっちの人も失敗だ。失敗をバケツに担いで歩いてる」

聞き流しただけなのでおそらく正確ではないが、こんな歌詞があったように思う。

ネガティブな鬱陶しさがこの上ない不快感を増長させて妙に気持ちがいい。

たぶん一週間も経てば忘れてしまう曲だろうが、こういった泥臭い唄がラジオから流れてくると「嗚呼この國ももうおしまいかなあ」と感慨に耽る事が出来て楽しい。


2003年10月21日

「オールナイトニッポン・エバーグリーン」

この10月頃よりニッポン放送で午前3時から始まったリクエスト番組。

35年程前、深夜放送黎明期のパーソナリティー斉藤安弘が再び担当して懐かしい曲を掛けるというもの。

NHK第一ラジオ「ラジオ深夜便」に対抗する主旨だろうか?

波長が合うのかいつの間にか聴いている。一瞬35年前の「オールナイトニッポン」を再放送しているのかと錯覚するほどの雰囲気。しかしよく聴くと、リクエストにメールで応募と告知しているので生放送であるという事を確認する。

実に奇妙である。

1967年から始まった『オールナイトニッポン』。

この頃の自分は、まだラジオの深夜放送に親しむ年齢ではなかったので斉藤安弘のDJは妙に新鮮だ。団塊の世代が青春を謳歌していたエネルギッシュな時代、若者はこの「深夜の解放区」に集い、理想と夢を語ったのであろうか?


2003年10月16日

中国、有人宇宙船打ち上げ。

テレビで見る打ち上げシーンは理屈なしに気持ちがよい。

エクスタシーというか、宇宙空間に飛び出す様は恰も射精のようだ。ロケット打ち上げシーンに感動出来ない者は、即ち「枯れて」いると言っても過言ではないだろう。

久しぶりに「21世紀的映像」を見た気がする。アメリカ、旧ソ連から遅れて41年。その間、他の国は有人宇宙飛行に挑戦しなかった。コストパフォーマンスやリスクを考えればあえて有人飛行にこだわる必要はないのも確かなのだが、しかし人が宇宙空間を飛行するという事実は特別な意味がある。

モンゴロイド初の有人宇宙飛行映像は近未来SF映画の一シーンのよう。あるいは『オネアミス』的な・・。

それはさておき、宇宙飛行士が管制施設にいる妻子と交信する映像を見て、あることに気が付いた。

宇宙飛行士を選抜する時、独身ではなく、あえて既婚者を選ぶそうだ。

なぜならば、既婚者の方が生きようとする意欲が独身者より優っているからだという。つまり、子を設けた男子はその子供のためには簡単に死ねないからだ。アクシデントが起こった時、最後まで諦めない気力を必要とする宇宙飛行士に最低限求められる条件とは「生きる意欲」らしい。

40歳前後の男子にとって妻子が居るか居ないかでは、生命力は雲泥の差であろう。

この中国宇宙飛行士もたしか38歳だったか?そして息子は8歳だ。

「生きる意欲」の発露はやはり子供なのかも知れぬ。

TBSラジオ夜の番組で年金のバトルトークを放送していた。

その中で1960年代に青春を過ごしたコメンテーターがこんなことを述べていた。

「自分が若い頃は年金が受け取れるかどうか心配すらしなかった。そんな老後の事など考える暇もない。年金制度がマトモに機能したのは日本の歴史の中でここ20年だけだ。今後そんな制度が継承される保障は何処にもない。だから考えても無駄だ。」

宇宙開発が飛躍的に進んだエネルギッシュな1960年代はそれでもよかったかも知れない。年金がなくとも夢と希望があったのだから。

しかしこれからは、夢も希望も年金もない時代がやってくる。

ただ老い朽ちていくだけの時代。

中国の有人ロケット打上げは、かつての夢と希望の僅かな残滓なのかも。


2003年10月15日

ワニブックス『コミックガム』読者プレゼント用テレカ

2001年から2002年にかけて月刊『コミックガム』で執筆していたカラーイラストの読者プレゼント用テレカ残り2種類分が今頃送られてきた。

3枚並べると絵柄が全然違う事に改めて気が付く。下絵は同じ筆記具なのだが色付け方法が違う。

左から「ぺインター」、「フォトショップ」、そして手描きの透明水彩。一長一短あってどれがいいのか解らない。最近は「フォトショップ」で色付けするケースが多くなったが、単に無難に仕上がるという理由だけで面白みに欠ける。むしろ「ぺインター」で色付けした方が味が出るようだ。

それはさておき、「読者プレゼント」アイテムとしてテレカはもう過去の素材らしい。最近はQUOカードとか図書カードに素材が移行しつつあるようだ。

携帯電話が普及してテレフォンカードそのものを見かけなくなってきた。

テレカは収集アイテムとしていつまで成立するのだろう?


2003年10月12日

「鉄腕アトム」

最近、地上波民放で「鉄腕アトム」の新作アニメが放映されている。ちらっと観たのだがキャラクター達が皆やたら眉間に皺をよせているのが気になるね。アトムもヒゲおやじも神経症みたいだ。

それはさておき、その番組内のスポンサーCMでこんなのがある。

親子がタイムカプセルを掘り出している。どうやら父親が子供の頃(1960年代)埋めたものらしい。その中から出てきた「21世紀の自分への手紙」みたいのを父親が読むのだ。そこに鉄腕アトムの絵があって、感慨に耽った父親が金属製の鉄腕アトムを日曜大工風に作り出すというストーリー。

世代的に同じなので気持ちはよく解る。しかし、この男は立派に結婚し子供もいるではないか?真っ当な人生を歩めた幸せ者だ。

世の中には「アトム」はおろか、結婚も出来ず子供も設けられない哀れな40代男子がゴロゴロ蠢いている。

「夢」にも裏切られ、「現実」にもついて行けない「人生の敗北者」「いらない人間」達が・・。

テレビのアトムがこう自分に囁く。

「2003年になったけど、あなたは独りでテレビの前ですか?」

勿論、そんな台詞はない。でも確かにアトムはそう囁いた。

その瞬間、自分はブルブルッと震え、慌ててテレビを消し一目散に布団の中に逃げ込んだ。

布団の温さだけは2003年になっても変わらない。


2003年10月11日

恋愛不適格男性。

先日のTBSラジオ『荒川強啓デイキャッチ』で、ゲストコメンテーターの宮台真司氏がこんな事を言っていた。

「最近の連れ去り事件の犯人に共通するのは異性との付き合い方が解らない男達の暴走が原因。」

昨今の女性連れ去り事件多発に関してのコメントらしいが・・。そもそもこんな事件報道自体が胡散臭い訳で語るに値せず。このような犯罪の原因はむしろ個人の資質に起因がある。

しかし、宮台氏が言うように「異性との付き合い方が解らない」「恋愛が出来ない」男性が巷に溢れかえっている事は事実だ。

思うに、異性との関りを持つ上で何故「恋愛」をしなければならないのだろう。

男性全てが恋愛適格者という訳ではない。どうしても恋愛行為が苦手という男も多いはずだ。いやむしろそちらの方が多いのではないか?

恋愛は猛烈にエネルギーを必要とする意思疎通作業だ。ただでさえ結婚適齢期の男性が剰っている上に、女性の社会的地位が向上し、男性への要求条件が厳しくなった今日、男性が恋愛という手段で女性を獲得することは並み大抵のことではない。

一部の恵まれた男性を除いては、全精力を行使して女性に奉仕しなければならないだろう。そんな男性はもう精神的肉体的にまったく余裕がなくなる。更にそんな全精力を賭けて恋愛したとしても成就するとは限らないのだ。

かつて恋愛は結婚への一手段に過ぎなかった。成人男性の99%が結婚していた時代、その多くは「お見合い」で結ばれていた。そのため恋愛不適格者であっても夫婦生活を営む事が出来たし、子も設けられた。男達は煩わしい恋愛行為に振り回される事なく、文化的創造的活動にエネルギーを使う事が出来たのだ。今日の中産階級が嗜んでいる多くの文化はこうして華開いてきた。

ところが今や恋愛以外で結婚する事はほぼ不可能な時代。よって恋愛の苦手な男性、恋愛不適格な男性はその時点で結婚や子を残す事を諦めざるを得ない。

だが健常な男性であれば女性と結ばれたいと欲するのは、ごく当たり前の事。

そんな恋愛不適格男性が女性を獲得しようと行動すれば、自ずと無理が掛ってくる。意思の疎通が上手く出来ないのだから交際などお伽話の世界。

よって本来社会はそんな男性をケアするべく適切な施設及びアドバイスを施す必要があろう。恋愛不適格男性は、ある意味コミュニケーション能力に著しい欠陥がある「障害者」と同じだから公的機関が手厚くフォローしてあげるべきなのだ。

ところか社会はそのような「障害」男性をケアする気がないらしい。

それどころか、メディアを通じて「犯罪者」「邪魔者」として扱う。これでは恋愛が出来ない男性即ち人間に非ずと言われているようなものだ。

こうして恋愛不適格男性は、世間から常に「いらない人間」として排除、差別の対象としてスケープゴートされる。

これを絶望と言わずして何か。

いつから恋愛が結婚する上での必須条件となったのだろう?

いったい誰が決めたのだ?むしろ恋愛は忌わしくて野蛮な行為ではないのか?

恋愛ほど面倒な行為はない。いくら努力しても報われなければ「無」しか残らないのだから。

恋愛不適格男性にとって恋愛行為は徒労以外の何ものでもないのだ。

それを強要する「恋愛必須主義社会」とは何なのだ?

生まれる前から「許嫁(いいなずけ)」が決まっていた時代の方がマトモだった気もする。

もし「許嫁」が「連れ去り」と同じ「人権無視の犯罪行為」であるとすれば、結婚制度自体が犯罪になってしまう。

そもそも結婚なんて、ある意味緩やかな合法的「連れ去り」みたいなもの。

結婚の手段である恋愛は「連れ去り」行為そのものなのだ。

「連れ去り」に長けた恋愛上手な男は希有である。

それを社会が代行して何が悪い。昔はそれで万事上手くいったのだ。

恋愛が苦手な男性を排除する一方で、それをケアしないような社会では、ある意味「少子化」は必然だろう。

この日のTBSラジオ『荒川強啓デイキャッチ』では聴取者から「あなたの娘さんを連れ去りから守るために何をしていますか?」というアンケートを実施していた。

リスナーからの返答の中にこんなのがあった。

「娘を異性と絶対に触れさせません。男性から道を尋ねられても無視するよう言い聞かせてます」

恋愛不適格男性に未来はなさそうだ。


2003年10月8日

花の香り。

今年は8月の天候不純で百日紅の花が咲かなかった。

その一方で、キンモクセイは例年通り独特の香りを漂わせ始めた。

キンモクセイの香りはトイレの芳香剤を連想させるという人もいるが、これだけ存在感のある香りを放つ花もあるまい。

人も花も存在感があってこそ。

目立たぬ生涯は寂しいものだ。


2003年10月1日

32ページ。

現在製作中の次回商業誌掲載作品は全32ページ。

一括掲載で32ページというのは自分にとって天文学的ページ数だ。32ページを前後半に分けて描いた事はたまにあるが一括32ページは漫画家生活21年の中でもほんの数回だろう。

ストーリー漫画において最もオーソドックスなページ量を描き上げるのに、何故こんな苦闘しているのか?自分が果たして漫画家に向いているのかと改めて考えてしまう。

だが、うだうだ言っても始まらない。

ひたすら描くべし。

掲載はいつの事やら。


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