ここに当時“林みのる”自身が書いている「ぼくのレーシング・マシン回顧」がありますので、第3回東京レーシングカー・ショーカタログから引用させていただきました。
“(前半部省略)
 浮谷(1965年鈴鹿サーキットで練習中事故死した伝説的ドライバー浮谷東次郎のこと)さんが事故死してから、ぼくは、この世の中がはかなくなって、一時レーシング・マシン作りも億劫になったことがある。だが、第3回日本グランプリのレギュレーションに接してみると、故人の霊を慰めるためにもと、T−3の製作にとりかかった。第3回日本グランプリに矢吹圭造選手がドライブして出走した<TOJIRO−T3>がそれだ。
 最初は、FRPツィンチューブのフル・モノコック・ボディを考えていたのだが、結局、お金の都合がつかず、ホンダS800のスタンダード・シャーシーに架装できるボディを作ることになってしまった。
 どうせ金がないのだから、シャーシー・マウントのボディでも、どのくらい軽量化が出来て、空力的に優れたボディができるかをトライしたのが、マクランサT−3である。
 のちに、日本のカスタム・レーシングマシンの元祖的存在となったマシンだが、流体力学、冷却、スポイラーなどの実験を行なった苦心の作である。
 第4回日本グランプリから、69年日本グランプリまで、3年の間、寿命を保ってくれたのは、われながら出来すぎだと思っているが、<**スペシャル>と名前が変わり、ボディ形状もさんざん手を加えられたマクランサ・バリエーションを見ていると、自分の創り出したマシンだとは、どうしても思えないのがおかしい。

 マクランサ・くさび スタイル画
(C) Illustration by Takuya Yura.
 マクランサT−3以来、僕の創作活動もしばらく中止した。マクランサ・バリエーションに対するいろいろな助言から、昨年(昭和42年)は、エバ・カーズの発足メンバーに加わって、第2回ショーをいろどった三村健治君の作品<エバ・アンタレス・タイプ1A><エバCAN−AMタイプA>の創作を手伝っていたからだ。
 だが、69年日本グランプリが迫るにつれて、またまた僕のマシン作りの虫が頭を持ち上げてきた。
 CAN−AMシリーズで有名になった“くさび型”の究極型に対する構想がようやくまとまってきたからだ。
 シャーシーはアメリカのレグランド社製MK−4(ピート・ブロックのサムライ・プロトのシャーシー)、エンジンも初輸入されたアルファ・ロメオGTAの1600cc、コンレロ・チューンを積むことになっていたが、シャーシーの入荷が遅れて、ついに日本グランプリの出走には間に合わなくなってしまった。
 グランプリ後も製作を続け、11月末には鈴鹿でテスト・ランを行うまでに仕上がった。
 ホンダ1300、カローラ、S800、ロータリー・エンジン、いずれも搭載可能だが、エンジンのパワーと重量によって細部を変更出来るようになっている。サスペンションは鋼管スペース・フレームに前後とも4リンク型式を採用している。ブレーキは前後輪ともディスク。
 以上が、私のマシン作りの遍歴である。とかく道楽的な色彩の強い製作態度であったが、昭和45年からは、私も、このレーシング・マシン作りを天職と心得て打ち込むことを決心した。
 会社名は、<マクランサ・カーズ>。
日本にもレーシング・カロッツェリアにふさわしい企業が生まれてきたし、やはり組織の力でマシン作りを進めたほうが、能率的という理由から発足に踏み切った。”
 以上で、若き“林みのる”決意がこの文章からも分かると思いますが、その後の彼の活躍ぶりについてはあえて説明する必要もなく、文中の熱意が嘘でないことを証明しています。


 
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