'70 TOKYO RACING CAR SHOW
第3回東京レーシングカーショー
 '69 JAPAN CAN-AM WINNER "NEW TOYOTA 7"
 第3回東京レーシングカーショーは、近来まれに見る興奮に包まれていました。前年日本グランプリを制した“ニッサンR−382”を筆頭に、日本CAN−AMにおいて念願の優勝を果たした“ニュートヨタ7”などが一同に顔を揃え、会場を埋め尽くした入場者の異常なまでの興奮を私は昨日のことのように覚えています。
 '69 JAPAN GP WINNER "NISSAN R-382"

公式カタログ健在です!!
当時入場料 150円 安い!!
 若き日の現東京都知事 石原慎太郎氏を名誉会長に置き、「モーターファン」誌や「AUTO SPORT」誌の三栄書房が東京レーシングカーショー事務局となってスタートした同レーシングカーショーも第3回を数えますますモータースポーツファンの注目となっていました。私も例にもれず1970年3月7日か8日(記憶があいまいです…)に晴海の貿易センターに友人“ハマ”と喜び勇んで出かけました。そしていつものように私は、アサヒペンタックスSPを片手に撮りまくっておりました。ショー会場の見取り図は、公式カタログに載っておりましたので、それを引用させていただくと次ぎのようなメーカー及び各レーシングチームの配置となっておりました。
 (1)CAN−AM用トヨタニュー7がカッコイイ!!
 69日本グランプリ優勝車“ニッサンR−382”のリヤタイヤがなぜか細い?!高校に入ったばかりの私は、あの幅広タイヤを履いて30度バンクを走り抜けていったカッコイイニッサンR−382の姿をこの会場で見ることが出来ずガッカリしてしまいました。何かの理由で当時の日産自動車内部にあのファイアストーン・タイヤがなかったために止むおえず細いタイヤで出品したのではないかと思われます。しかし、イメージダウンでした!!さらに、出品車両は、優勝した黒沢元治のNo.21ではなく、2位に入った北野元のオレンジのNo.20であったのも頂けませんでした。
 一方のトヨタ自動車は、2年連続で日本グランプリで日産に敗れはしたのですが、69年11月23日の日本CAN−AMレースにおいてなんとか川合稔のドライブで優勝することが出来た記念すべきマシンを今回出品しきたのでした。本当にカッコ良かったなと何枚もシャッターを押していた私でした。
 (2)PRE・カスタムカー・コンテスト
 第3回ショーの特徴としては、若き日本のコンストラクター(バックヤード・ビルダー系)のマシン出品が多く、コンテストに出品するがのごとく争って宣伝し合っていたのが、特に印象に残っています。それは多分に、前年の「エバ・カーズ」の成功(?)に刺激されてのことだと思われます。

左は、林みのるの意欲作「マクランサ・くさび」、そして、69日本GPにも出場した「カーマン・アパッチ」。
 左は、なんと“ロータス・ヨーロッパ”改造の“ナカムラ・スペシャル”であります。エンジンは、エラン・レーシングのロータス・ツインカム1,594cc。右は、ちょっと記憶にないのですが、たぶん、“EDG―WA”というカスタムカーだと思われます。エンジンは、空冷ホンダ1300用を使用し、当時のCAN―AMで話題をさらっていた“AVSシャドー”を意識したスタイルが印象的でした。
 今回とても輝いていた若きコンストラクターが、この写真のマシン“エバ・タイプ3AF−Jr”を作り上げたデザイナー「三村健治(後にMANAやMAKIF−1などで時の人となる)」でありました。
 (3)いすゞの心意気!!
 69日本グランプリに、美しいベレットR6クーペと醜い(?)いすゞR7を出場させたいすゞ自動車は、同ショーにおいても沢山のレーシングマシンを出品させていました。

 いすゞは、ボディをリフェインしたR7とR6を展示して、沢山の入場者の喝采を浴びていました。
R7は、ローラT70のシャーシーを利用し、6.3リッターシボレーV8エンジンを積み、69日本CAN−AMでは、6位にはいる健闘を見せていました。R6は、浅岡重輝のドライブにより69日本グランプリにおいて、バンク付き6kmフルコースの1周“2分06秒”を記録し、1,600ccクラスとしては、驚異的なスピードを誇りました。後に、スパイダーボディとなり、1971年から始まる富士グランチャンピオン・シリーズに挑戦することになるのでした。
 また、ベレットMX1600(第16回東京モーターショーで発表されたミッドシップ・ショーカー)も展示されていた。
 (4)R380〜381&Z432
 ニッサンR380−3改とR381を持って来た日産は、なぜか記念すべき優勝マシンをどこかほかに展示しているのか、R381は優勝したNo.18北野車ではなく、砂子車No.19を展示していました。私は、そんな日産に対し何か疑問を感じずに入られませんでした。しかし、R380の発展型であるR380−3改は、1969年11月オーストラリアで行なわれた“シェブロン・グランプリ”で、フェラーリ250LMや330P4を押さえ、見事優勝したばかりの現物車が展示されており、感動を覚えたのを記憶しています。
 また、発売されたばかりのフェアレディZ432も同時に展示され人気を博していました。

 (5)ポルシェ908とフォーミュラカー
 左は、1969年日本CAN−AMにおいて4位入賞という殊勲をたてたポルシェ908スパイダーです。日本グランプリでは、田中健二郎が7位となりその高性能ぶりを示しました。右のミツビシ・コルトF2Cは、69年JAFグランプリにおいて、トップタイムをマークしていた生沢徹がリタイヤした後、加藤夾平が個奮健闘しなんとか3位に入賞したマシンを展示しており、とても好感が持てました(左奥に、我が友人“ハマ”が写っておりました。元気にしているのでしょうか)。
 以上で、第3回東京レーシングカーショーの体験記(?)を終わらせていただきますが、なんともメーカー色の強いショーでありました(でも、当時は興奮しておりましたが…)。しかし、相次ぐ日本グランプリ不参加を表明している日産、トヨタが主役でいられるのは今回が最後であり、いよいよこのレーシングカーショーも、海外並みにマシンコンストラクターの発表の場になることが今回のショーにおいても“エバ・カーズ”や“マクランサ”等の活躍により約束されたように思われました。
(つづく)


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