ハリー・ニルソンの肖像 (continued)






 「うわさの男」には、もうひとつ、ニルソンのその後を予見させる要素が読み取れる。映像に絡んだ曲、という点だ。ニルソンは映像がらみの作品を数多く残している。『真夜中のカーボーイ』とほぼ同時期、68年にはオットー・プレミンジャー監督の映画『Skidoo』のスコアを担当したし、69年にはテレビのシチュエーション・コメディ『The Courtship Of Eddie's Father』の主題歌「ベスト・フレンズ」および劇中音楽も手掛けた。70年には自ら脚本も担当したアニメ特番『オブリオの不思議な旅』のサントラも発表。この時期、ミュージカルにも手を出そうとしていたらしい。74年にはリンゴ・スター制作による映画『吸血鬼ドラキュラ二世』に主演。もちろんサントラも担当した。80年に手がけたロバート・アルトマン監督による『ポパイ』の映画音楽もなかなかの仕上がりだった。

 ニルソンの場合、コンサート・パフォーマンスを一切やらないことでも知られていたわけだが、その辺を無意識のうちに補おうと映画/テレビに積極的にアプローチしていたのか、あるいは映像と音楽との緻密な融合にのみ興味があり、だから一過性のコンサートに消極的だったのか。本人は明解なコメントを残していないけれども。そういえば1973年、RCAのお偉方とともに突如来日を果たしたときの記者会見で、なぜコンサートをやらないのか? と質問された彼は「コンサートじゃ間違ったからといってテープを止めることはできないからね。それに、スタジオでならぼく一人でビーチボーイズのハーモニーを作り出すことだって可能だし」と発言していた。完璧主義者なんだなぁ、というのが当時のぼくの感想だったけれど、前述した映像への徹底したこだわりなどと考え合わせてみると、要するにスタジオ作業にどっぷり魅せられた極度のオタク野郎だった、と。そう解釈したほうが、なんだかニルソンらしい。



 と、この辺まで、つまりアルバムで言うと『パンデモニアム…』から『ランディ・ニューマンを歌う』あたりまでがニルソンの第一期。さりげなくポップで、どことなくノスタルジックな味わいの楽曲を、時に優しく、時に渋く、七色の声で歌い分けるセンス抜群のシンガー・ソングライターとして、わりとクロウト受けしていた時期だ。が、続くアルバム『ニルソン・シュミルソン』(71年)から方向転換。敏腕プロデューサー、リチャード・ペリーにプロデュースをゆだね、ポール・バックマスター、ジム・ゴードン、ジム・プライス、クリス・スペディング、クラウス・ヴーアマン、ゲイリー・ライト、ジム・ウェッブら豪華なメンバーを従え、ハリウッドで2曲、残りをロンドンでレコーディング。このアルバムに、かの特大ヒット「ウィズアウト・ユー」が含まれていた。ニルソンの活動第二期は華々しく幕を開けたのだった。続く『シュミルソン二世』(72年)も、その名の通り、続編的な内容だ。やはりプロデュースはリチャード・ペリー。ヴーアマン、プライス、バックマスター、プライン、スペディングといった前作同様のメンバーに加えて、リンゴ・スター、ジョージ・ハリソン、ニッキー・ホプキンス、ピーター・フランプトンらも参加。この2枚のアルバムでニルソンは、それまでの一見ほのぼのと優しい肌触りを捨て、徐々に持ち前の諧謔性を前面に押し立て始めた。わざとノドをつぶしたような歌い方で、どことなくひねくれたロックものを多く残している時期。ある意味では第一期よりもわかりにくい音楽性へと突入したわけだが、「ウィズアウト・ユー」の大ヒットや、豪華なバックアップ・メンバーに支えられて、この時期、「ジャンプ・イントゥ・ザ・ファイア」「ココナッツ」「スペースマン」「リメンバー(クリスマス)」とヒット・シングルもかなり生まれている。

 が、なかなか一筋縄にはいかないニルソン。『シュミルソン二世』のラス曲「世界のなかで最も美しい世界」のエンディング、壮麗なストリングス・セクションに乗って“シー・ユー・イン・ネックスト・アルバム”と彼は叫んでいるのだけれど、それが予告編であったかのように、今度はなんとベテラン・アレンジャーのゴードン・ジェンキンズを起用し、1920〜50年代の名スタンダードを全編ストリングス・オーケストラをバックに歌い綴った傑作『夜のシュミルソン』(73年)をリリースした。なんでも、タイニー・ティムのアルバムの中に同趣向の曲が入っており、それに触発された企画だとニルソンが何かで語っていた記憶がある。このアルバムで彼はふたたびシンガーに徹し、その類稀なヴォーカルの力量をぼくたちに思い知らせてくれた。とともに、70年代前半という時代にあえて超オーソドックスなスタイルでスタンダードを歌ってみせるという、これまた大いなる諧謔の精神を実にポップな形で提示してみせたわけだ。マジと大バカの素敵な共存とでもいうべきか。この“シュミルソン三部作”が彼の第二期だろう。ポップな感覚と諧謔性がいいバランスで融合されていた時期だ。



 が、その後、諧謔性ばかりが先走りするようになる。歯止めがきかなくなった。74年には、一時期オノ・ヨーコと別離し半ばアル中と化していたジョン・レノンと一気に親交を深め、彼のプロデュースで『プッシー・キャッツ』という異様な喧騒に満ちたアルバムをリリース。リンゴ・スター制作の映画『吸血鬼ドラキュラ二世』のサントラがリリースされたのもこの年だ。以降、今度はヴァン・ダイク・パークスを重要なパートナーとして起用した『俺たちは天使じゃない』と『眠りの精』(ともに75年)、R&Bやドゥワップ、カリプソからジョージ・ハリソンやランディ・ニューマンの曲までカヴァーしまくった『ハリーの真相』(76年)、RCAからの最後のリリースとなった『クニルソン』(77年)とアルバムをコンスタントに発表。これが第三期にあたる。この時期の作品はハマるとすごい。ぼく自身、こうした一連のアルバムに聞かれるニルソンのすさまじい屈折具合やねじれたポップ・センスのトリコになったものだ。今でもときどきこの辺のアルバムを引っ張りだしては、ヤケクソ気味に盛り上がったりするのだけれど。が、冷静な視点で見れば、やはりこれは混乱と衰退を象徴する作品群なのだろう。酔っぱらいの気まぐれのような楽曲が多いことも事実だ。他人のアルバムにちょくちょく参加するようになったのもこの時期だけれど、リンゴ・スター、ジョン・レノン、キース・ムーンなど、ほとんど酔っぱらい仲間のような人脈の作品ばかり。ニルソンの本格的な活動期は、ここで終わりと考えていいだろう。

 日本では1980年にビールか何かのテレビCMに「うわさの男」が使用され、ちょっと再注目されかかったこともあったけれど。その後のまともなアルバム・リリースといえば、同年、マーキュリーから出た『フラッシュ・ハリー』くらいのもの。スティーヴ・クロッパーがプロデュース。MGズのメンバーや、リトル・フィート、ドクター・ジョン、リンゴ、『モンティ・パイソン』でおなじみのエリック・アイドル(曲も提供!)、チャーリー・ドアなど、これまた豪華なバックアップを受けての1枚だったが、楽曲はたぶんRCA後期のボツ曲中心。全盛期のひらめきを取り戻すことはできなかった。その後は81年にリンゴ・スターとバーバラ・バックの結婚式に出席したというニュースが伝わった程度で、ほとんど音楽活動をせず、映画の分野で活動。80年代後半、カリフォルニアに映画配給会社を設立し、そこでの仕事に没頭しているとの噂を聞いた。


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●リチャード・ペリー Richard Perry
 キャプテン・ビーフハート、タイニー・ティム、リンゴ・スター、バーブラ・ストライザンド、カーリー・サイモン、レオ・セイヤーらとの仕事で知られる名アメリカ人プロデューサー。ニルソンとは1968年、フィル・スペクターがタイニー・ティムのために開いたパーティの席上で知り合った。ニルソンはタイニー・ティムのアルバムの大ファン、ペリーはニルソンの初期のアルバムのファン、ということで意気投合したらしい。
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●ポール・バックマスター Paul Buckmaster
 エルトン・ジョンなどとの仕事で知られるアレンジャー。ニルソンの「ウィズアウト・ユー」や、エルトンのアルバム『マッド・マン』などで聞かれるような、低音弦をフィーチャーしたダイナミックなストリングスのフレージングが特徴だった。
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●クラウス・ヴーアマン Klaus Voorman
 ビートルズとの親密な交流でおなじみのドイツ生まれのベーシスト。パディ・クラウス&ギブソンを経てマンフレッド・マンにも在籍。ベーシストとしては、ニルソンをはじめ、ジョン・レノン、リンゴ・スター、ルー・リード、カーリー・サイモン、ピーター・フランプトンらのアルバムに参加している。イラストレイターとしても才能を発揮しており、彼が書いたビートルズの『リボルバー』のジャケットは66年度グラミー賞ベスト・アルバム・カヴァーを獲得。ニルソンのアルバムでも、『眠りの精』のインナー・ジャケットのイラストや、『クニルソン』のジャケット・デザインなどを手掛けている。
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●ゴードン・ジェンキンス Gordon Jenkins
 ネルソン・リドルとともにフランク・シナトラのオーケストラ・アレンジを手掛けていたことでも有名な名アレンジャー。作曲家としてもすぐれた曲を多く残している。『夜のシュミルソン』に収められた「ジス・イズ・オール・アイ・アスク」は彼の作品。
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●タイニー・ティム Tiny Tim
 ウクレレを弾きながら震えるファルセットで歌う、という妙なスタイルで60〜70年代にかけてノヴェルティ・ソングを歌いまくっていた白人シンガー。1968年に全米17位まで上昇した「ティップ・トー・スルー・ザ・チューリップ」はリチャード・ペリーのプロデュース作品。
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●ヴァン・ダイク・パークス Van Dyke Parks
 60年代、テリー・メルチャーやブライアン・ウィルソンと知り合い業界で活動を開始。ビーチボーイズの幻のアルバム『スマイル』は彼とブライアンとの共同作業によるものだった。66年にワーナーにスタッフ・プロデューサーとして入社。67年以降は自らアーティストとしても活動している。ニルソンのアルバムには『俺たちは天使じゃない』(75年)から『フラッシュ・ハリー』(80年)まで、ほぼ全作に参加している。やはり80年の『ポパイ』でも編曲および指揮を手掛けた。
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●キース・ムーン Keith Moon
 ザ・フーのドラマー。75年にソロ・アルバム『トゥー・サイズ・オヴ・ザ・ムーン』をリリースしている。78年に他界。
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●スティーヴ・クロッパー Steve Cropper
 メンフィスを代表する白人ギタリスト。ブッカー・T&MGズのメンバーとして、多くの傑作R&Bをバックアップしてきた。
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