ハリー・ニルソンの肖像

by Kenta Hagiwara (March, 1992)






 ニルソンは1941年6月15日、ニューヨークのブルックリン生まれ。本名はハリー・エドワード・クリストファー・ネルソン三世。1958年、両親が離婚し、母親と姉とともに南カリフォルニアへ移住。やがてLAのハイスクールに通うようになり、野球とバスケットボールに明け暮れていたそうだ。卒業後、あれこれ身の振り方を模索。いったんニューヨークに戻ったという説もあるし、家を出てヒッチハイクしていたという説もある。5年ほどそんな日々を過ごしたのち、LAで劇場の座席案内人の職を経て、サン・フェルナンド・ヴァリーの銀行に就職した。

 このころ、すでに音楽業界で働きたいという夢を抱いていたらしい。1977年にミュージカー・レコードから突然リリースされた『Nilsson : Early Tymes』というアルバムに彼の初スタジオ・レコーディングが全11曲収録されているが、クレジットによるとヴォーカルは1960年の秋、ハリウッドの小さなスタジオで録音されたとのことだ。これは作曲家/ギタリストのスコット・ターナーが自らの楽曲をニルソンに歌わせたもの。某音楽出版社に単身売り込みに出向いたニルソンは、そこではじめて出会ったターナーに、自分が作曲もでき歌も歌えることを伝え、それを証明するためにまず歌ってみせた。ターナーはその瞬間のことを「彼は間違いなく、これまで私が聞いたうち最高のシンガーだと確信した」と述懐している。次は作曲ができることの証明だ。その夜、ターナーとニルソンは早くも「ア・トラヴェリン・マン」という新曲を共作(ニュー・クリスティ・ミンストレルズやスリム・ホイットマンがレコーディングしている)。この若き才能にすっかり感服したターナーは、何日か後、ニルソンを引き連れてハリウッドのスタジオに入り、『Early Tymes』に収録された11曲を録音した。ニルソンの自作曲は収録されていないのでファンには物足りないかもしれないが、なんとジェームス・バートン、レジー・ヤング、ジョー・オズボーン、ハル・ブレイン、ハーブ・アルパート、レオン・ラッセルらも参加していると言われる豪華なバンドの演奏をバックに、19歳のニルソンがすでにテクニック抜群のヴォーカルを聞かせているのだ。今聞いても「彼はどの曲もほんの5分で自分のものにしてしまった」とターナーを驚愕させた卓越した音楽センスは十分に確認できる。



 が、こうした売り込みもあまり功は奏さなかった。ニルソンは結局、銀行員としての仕事を継続。60年代半ばにはコンピュータ開発部に身を置き、32人の部下をさばきながら仕事をしていたという。このころの経歴を取り沙汰して、70年代、日本ではよく“アメリカの小椋桂”とか、バカなキャッチコピーを冠されたりもしていたっけ。銀行員として勤めながら、同時にピアノやギターや作曲の腕を磨くことも忘れなかった。銀行の仕事は夜勤でこなし、日中はスタジオに出入りしたり、音楽出版社やレコード会社を回ったり、ラジオのCMソングを歌ったり。銀行員としては“ハリー・ネルソン”、音楽家としては“ハリー・ニルソン”。名前を使い分けながら地道な創作活動にはげんだ。この時期の成果としては、かのフィル・スペクターの目に止まり、ロネッツに2曲、モダン・フォーク・カルテットに1曲を提供したことや、のちにニルソン自らのアルバムにも収録された「カドリー・トイ」をモンキーズが、「テン・リトル・インディアン」をヤードバーズが、それぞれ取り上げたことだろう。自らシンガーとしても、タワー・レコードに何枚かのシングル、そして67年にはアルバム『Spotlight on Nilsson』を残した。共作を含め自作曲が6曲、カヴァーが4曲。バリー・マクガイアばりに声を振り絞ったフォーク・ロック系のものから、ロックンロール系、R&B系、スペクター的なアンサンブルのもの、ノスタルジックなものまで。すでに柔軟でアイデア豊かなソングライティング・センスと、それらをすべて見事に歌いこなす素晴らしいヴォーカリストとしての力量が記録されている。



 そして、ようやく長かった二重生活にピリオドを打つときがやってきた。67年、RCAがニルソンと長期に渡るソングライティング/パフォーミング契約を結んだのだ。モンキーズの「カドリー・トイ」がラジオでかかったことにも勇気づけられ、これをキッカケに68年、長年つとめた銀行をやめて本格的な音楽活動へと足を踏み入れた。実質上のデビュー・アルバム『パンディモニアム・シャドウ・ショー』は67年暮れにリリース。プロデュースがリック・ジャラード、アレンジがジョージ・ティプトンとペリー・ボトキン・ジュニア。ビートルズ・ナンバー2曲、フィル・スペクターもの1曲のカヴァーも含む充実した1枚だった。「カドリー・トイ」、「テン・リトル・インディアン」などの自演ヴァージョンも収録されている。本盤は70年まで日本では紹介されずじまいだったため、評価も何もなかったが、本国アメリカの評論家筋でのウケはやたらよかったようだ。《ロサンゼルス・タイムズ》のピート・ジョンソンなど、3オクターブの声域、カメレオンのようにくるくる表情を変えながらもアイデンティティをけっして失わない声質、完璧なフレージング、たった一人で複雑なハーモニーまでこなすテクニック、ずば抜けたイマジネーションなど、もう手放しで絶賛している。そして、もうひとつ、このアルバムに関しては有名なエピソードがある。当時、ビートルズのアップル・レコードのプレス・オフィサーに新任し、LAからロンドンに向かったデレク・テイラーがこのアルバムをビートルズのメンバーに聞かせた。特にジョン・レノンは大いに感激。36時間、本盤を聞き通し、国際電話でニルソンにその感動を伝えた。

 “It's John...John Lennon. Just wanted to tell you that your album is great! You're great!”

 というのが、そのときのジョンの有名なセリフだ。アップル・レコードがニルソンを傘下に加えようと交渉したというエピソードも残っている。このアルバムはセールス的には失敗に終わったものの、ニルソンの豊かな才能を業界にアピールするうえでは大きな成果をあげたわけだ。本盤の作品をカヴァーしたアーティストは多い。トム・ノースコットとビリー・J・クレイマーが「1941」を、ブラッド・スウェット&ティアーズ(アル・クーパー)、ジャック・スコット、ハーブ・アルパートが「ウィズアウト・ハー」を、そしてケニー・エヴェレットが「ひさしぶりの口づけ」をそれぞれのアルバムでカヴァーしている。ニルソンへの評価は、まず才能豊かなソングライターという形で確立された。



 68年にリリースされた『空中バレー』は発売当初たいした反響も呼ばなかったものの、翌年に入ってかなりの売り上げを記録した。収録曲のうち、「トゥゲザー」がサンディ・ショーによって、「ワン」がスリー・ドッグ・ナイトやアル・クーパーによって、それぞれカヴァーされたせいもある。特にスリー・ドッグ・ナイトの「ワン」は全米5位に達するヒットを記録。これによってニルソンの知名度も上昇。本人のヴァージョンによる「ワン」もアメリカでは大いにエアプレイされたそうだ。が、それよりもアルバムのB面トップに収録されたフレッド・ニール作の「うわさの男」が映画『真夜中のカーボーイ』のテーマに使われ大ヒットした影響が大きい。同シングルは69年に全米チャート最高6位まで上昇。ニルソンはこのヒットで、グラミー賞の最優秀コンテンポラリー・ヴォーカル・パフォーマンス男性部門も獲得している。

 実のところ、ニルソンはこの映画のテーマとして自作の「孤独のニューヨーク」(アルバム『ハリー・ニルソンの肖像』に収録)という曲を用意していた。が、これがボツ。代わりに取り上げたのが「うわさの男」だった。『空中バレー』の収録曲中唯一の他人の作品だが、この皮肉な初ヒットのおかげで、当初は優秀なソングライターとして業界内で固まりつつあったニルソンのパブリック・イメージが徐々に姿を変えていった。歌のうまいシンガーとしてのニルソン、と。そういうことだ。自らソングライターとして卓抜したセンスを持ちながら、大ヒットするのはシンガーとして他人の曲を取り上げたときだけ。71年から72年にかけて、彼にとって唯一の全米ナンバーワン・ヒットを記録した「ウィズアウト・ユー」も、バッドフィンガーのピート・ハム&トム・エヴァンスの作品のカヴァーだった。こちらも72年度のグラミー賞最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス男性部門を受賞。ニルソンの代表的ヒットというと、すぐに思い出すのが「うわさの男」と「ウィズアウト・ユー」だが、そのどちらも他人のペンによる作品であり、グラミーにおいても“シンガー”としてのみ賞を与えられているわけだ。そういえば、日本でのデビュー盤にあたる大傑作アルバム『ハリー・ニルソンの肖像』(69年)がそこそこ話題になって、新しいタイプのシンガー・ソングライターの誕生だ、さあ、次のアルバムは…? と期待していたところにリリースされた『ランディ・ニューマンを歌う』(70年)でも、ニルソンはシンガーに徹し、敬愛するニューマンの名曲をあたたかく、淡々と歌い綴るばかりだった。もちろん、たとえば「デイトン・オハイオ1903」に「ムーンライト・セレナーデ」の一節をコーラスで見事に重ね合わせてみたり、センスいいアイデア・マンとしての側面もそこそこ強調されてはいたけれど。この辺のもろもろがニルソンに対する一般の評価をあいまいなものにしている大きな原因なんじゃないかと、ぼくは思う。(次ページへ)


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●スコット・ターナー Scott Turner
 アメリカのセッション・ギタリスト、作曲家。オーディー・マーフィーと組んで作曲した「シャッターズ・アンド・ボーズ」(ジェリー・ウォレス、63年のヒット)や「ホエン・ザ・ウィンド・ブロウズ・イン・シカゴ」(ロイ・クラーク)などが代表作だ。ニルソンと出会った60年当時は、「ティーンエイジ・クラッシュ」などのヒットで人気を博していたシカゴ出身の俳優/歌手、トミー・サンズのバック・ギタリストをつとめていた。
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●フィル・スペクター Phil Spector
 何の説明もいらない60年代を代表するアメリカの白人プロデューサー。彼がフィレス・レコード時代に取り上げたニルソン作品のうち「ジス・クッド・ビー・ザ・ナイト」(MFQ)、「パラダイス」(ロネッツ)は去年リリースされたボックス・セット『Back To Mono (1958-1969)』にも収録されている。ロネッツによるもう1曲のニルソン作品は「ヒア・アイ・シット」。ニルソンは録音オタクの先達としてスペクターをかなり尊敬していたようで、彼が『パンディモニアム…』でカヴァーした「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」はスペクターがプロデュースしたアイク&ティナ・ターナーのヴァージョンのフル・コピー。『プシー・キャッツ』の「ラスト・ダンスは私に」も彼なりのスペクター・サウンドだろう。
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●ペリー・ボトキンJr. Perry Botkin,Jr.
 50年代から活動するアレンジャー。カスケーズやロビン・ワードらとの仕事もポップス・ファンにはおなじみ。ジャック・ニッチェの後任としてフィル・スペクター配下のアレンジャーをつとめたこともある。76年には元バリー&ザ・タマレーンズのバリー・デヴォーゾンと組んでリリースした「妖精コマネチのテーマ」を全米8位にランクさせた。
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●ビートルズ The Beatles
 ビートルズとニルソンの関係は深い。ニルソンは「ユー・キャント・ドゥ・ザット」や「シーズ・リーヴィング・ホーム」といったビートルズ・ナンバーをカヴァーしているが、それに刺激され、ポール・マッカートニーが『ホワイト・アルバム』にニルソンっぽい「ハニー・パイ」を収録した、という説もある。が、特に交友が深かったのはジョン・レノンとリンゴ・スター。リンゴが73〜74年にかけて全米1位にした「ユア・シックスティーン」でニルソンの素晴らしい一人多重コーラスが聞けるのをはじめ、曲提供を含めてニルソンはリンゴのアルバムに大いに貢献している。リンゴのほうも『シュミルソン二世』に“リッチー・スネア”名義で参加したのを皮切りに(同アルバムに“ジョージ・ハリーソング”名義で参加しているのは、もちろんジョージ・ハリソン)『眠りの精』あたりまでドラマーとして連続参加。そしてジョンだが、本文にも記したように、ヨーコと一時別居している時期、特にニルソンと密な交流をしていたようだ。74年には二人で酔っ払ってLAのライヴクラブ《トルバドール》から放り出されたことまである。
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●デレク・テイラー Derek Taylor
 デイリー・エクスプレス紙の記者を皮切りに、ビートルズのプレス・エージェント、ザ・バーズの宣伝担当、A&Mレコードの社員などを経て、68年、アップルのプレス担当に。『空中バレー』のライナーを書いたり、『夜のシュミルソン』のプロデュースをしたり、ニルソンとも深い交流を持っていた。
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●スリー・ドッグ・ナイト Three Dog Night
 60年代末から70年代にかけてダンヒル・レコードから大ヒットを連発した7人組グループ。ニルソンをはじめ、ローラ・ニーロ、ランディ・ニューマン、ポール・ウィリアムス、ホイト・アクストン、レオ・セイヤーなど、渋好みのソングライターの曲を発掘してはビッグ・ヒットに結び付けていた。世界中にニルソンの名前を広めた最大の功労者だろう。ちなみに、上記アーティスト以外にニルソンの曲を取り上げているのは、メリー・ホプキン、デヴィッド・キャシディ、ハーパース・ビザール、ルル、タートルズ、グレン・キャンベル、山下達郎など。
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●フレッド・ニール Fred Neil
 フロリダ出身の白人シンガー・ソングライター。12弦ギターの名手でもあった。60年代前半、グリニッチ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ブームに乗って活動を開始し、ジョン・セバスチャン、フェリックス・パパラルディらと交流しながらアルバムを出していたが、ほとんど不発。ニルソンによるカヴァー・ヒットで知名度を得た。以降、ジェファーソン・エアプレイン、ホセ・フェリシアーノ、ティム・バックリー、ヤングブラッズ、イッツ・ア・ビューティフル・デイ、ロイ・オービソンらも彼の曲を取り上げている。
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●バッドフィンガー Badfinger
 “ビートルズの弟分”として、69年、アップル・レコードからデビューした4人組。リチャード・ペリーによれば、彼らの名曲「ウィズアウト・ユー」をレコーディングしようという計画以外、『ニルソン・シュミルソン』のレコーディングに入る段階では何ひとつ具体的に決まっていなかったとのこと。かつて来日したときの記者会見で「ウィズアウト・ユー」を取り上げた理由を聞かれたニルソンは「あの曲なら売れると思ったからさ」と答えていた。残念なことに、作者のピート・ハムは75年に、トム・エヴァンスは83年に、それぞれ自殺している。
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●ランディ・ニューマン Randy Newman
 ニューオリンズ出身のシンガー・ソングライター。アルフレッド・ニューマン、エミール・ニューマン、ライオネル・ニューマンといった著名な音楽家を親戚に持つ。60年代初盤からフリートウッズやジャッキー・デシャノンに曲提供したり、アレンジャーとして活躍したりしたのち、68年に自らシンガーとして本格デビュー。『ランディ・ニューマンを歌う』では自らピアノでニルソンをバックアップしている。ニルソン以外にも、ジュディ・コリンズ、ニーナ・シモン、ペギー・リー、スリー・ドッグ・ナイトらが彼の曲をカヴァー。77〜78年にかけて、シングル「ショート・ピープル」を全米2位に送り込んだ。
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