COLUMN

仕事のこと、家庭、趣味など、物事について考え方をまとめました。
中年オヤジの独り言です。
 
 1      プログラマーとしての寿命は?
私が情報の世界に入ったのは、昭和の終わりごろでPC8801MKUとかFM 7のZ80系が主流で、幸か不幸か、職場が大型汎用機での開発で言語はCOBOL、PL1、アセンブラーがメインでした。
紙カードにタイプで穿孔し、1Kステップで20cmくらいのカード束で読み取り機にかける時に落とすとステップがバラバラになって大変でした。
炊飯器のような磁気パックDKを自分でセットしSYSレジやSYSOUTを作成して夜中にデバックするのが日課で、今思えばのんびりした開発でした。
マシンも3代の代替わりで性能も飛躍的に向上し、プログラムステップ数よりわかり易さが主流になり、マクロやシェル、関数になりドキュメントがソースになるとGOTO文ばかりでさっぱりソースが追えなくなりました。
今でも勘定系プログラムは昔のソースがそのまま使ってある(恐ろしくて新しいソースを入れられない)のを多く見ます。
銀行の統廃合は開発者から見るととても困難な仕事ですね。
仕事は開発からシステム運用に変わっていき、プログラム割り込みの原因調査やシステムの応急復旧など、昼夜関係なしの時間との勝負で、緊急呼び出しが頻繁にあり電話が鳴るのが怖かったです。
あのころは、アボートコードやダンプリストから不具合箇所を突き止めて、復旧する手順書を作るのが怖いけど自分のスキルが試されて充実した時間に思えました。
3年前に四国88箇所を自転車で回る機会があり、機械に追われる生き方を疑問に思うようになりました。
4代目のマシンにリプレースを機会に職場が大きく変わり情報の世界を去るのを期に25年勤めた会社を辞めることとなりました。
汎用機プログラマーが、クラサバやUNIX機を軽視した大きなしっぺ返しだったのかも知れません。
 
 
 
更新日時:
2006/03/03
 2      萱葺き屋根との出会い
銀行系汎用機のマシン保守をしていた関係で泊まり勤務で、平日昼間の休みが多く近所で萱葺きをしていたのを眺めていたのが始めての出会いでした。
萱の束がどんどん積まれていき、形となっていく様がとても面白く思え、萱を上げるのを手伝いさせてとお願いしたのが、今の師匠との出会いです。
会社員であったころは萱葺きを手伝うことが休暇の有効なすごし方で、まさか本職になるとは夢にも思いませんでした。
 
 
更新日時:
2005/03/05
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Last updated: 2006/6/23