2001insight

Suica改札機のインターフェースやロボットのデザインなどで知られる工業デザイナー山中俊治氏は、アートとテクノロジーの出会いがデザインだと話す。プロトタイピングによって構想される製品は、機能と使いやすさ、そして優美な造形が融合したオブジェとなる。そうした山中氏の作品を余すところなく活写した写真家・清水行雄氏撮影による作品集『機能の写像』(リーディング・エッジ・デザイン発行)を機に開催された、「LEADING EDGE DSIGN展 機能の写像」(2006年5月13日〜28日)の会場である六本木アクシスギャラリーを訪ねた。


自然と芸術の出会い

そもそもデザインとは、 アートなのでしょうか、
あるいはテクノロジーなのでしょうか?


 自然を観察して何かがわかったとき、それを誰もが利用できる知識として蓄えていく活動が自然科学です。人間はそうやって得た知識を使って、自分たちの都合のいいように自然を改変してきました。たとえば、木の実が落ちてそこからまた木が成長するのを観察し、実を集め植えることから農業が始まりました。それはもう自然の状態ではありません。環境を改変したことになるわけです。また、石を使うと効率よく動物を殺せることがわかり、棒の先に石をつけて殴ることから道具の進化が始まります。このように自然を観察し知識を蓄えるのが科学、それを使って生活環境を作っていくのがテクノロジーです。
 もう一つ自然との接し方があります。人は、自然を眺めて感動したり恐れたり、感情を呼び起こします。しかし、そうした感情はうまく知識として伝えることはできません。「きれい」といってもそれを体験しなかった人にはよくわからないのです。そこで、絵を描いたり詩を作ったりして、他人の心にも同じような「きれい」を呼び起こすことを試みます。作品を創ることによって様々な感情を伝えていく。それが、アート(芸術)だと思います。
 芸術も科学も自然から得たものを他人に伝えようとする行為ですが、方法がまったく異なります。自然科学では実験と検証が欠かせません。そうやって確かめられた知識だけを記述します。一方芸術においてはそんなことは無意味です。個人の能力を磨き、作品という形で主観を先鋭化させて訴えるのです。それが人々の共感を呼べばその作品は成功です。この2つの方法が産業の上で交わるのがデザインです。
 デザイナーは芸術的感覚を訓練した人間です。しかしそれを使って色、形を決めるだけでは、人類の知的活動の片方の応用でしかありません。実験や検証も行ってもう一方の知的財産であるテクノロジーの成果も確認し、きちんと両者を製品の上で同居させることが、デザインだと考えています。


いいデザインはいったいどんなものなのでしょうか?

 よくデザイン優先といいますが、それが、色やかたちを性能よりも優先するという意味ならば、言葉の使い方を間違っていると思います。科学の成果と芸術の成果、具体的には性能や安全性と、見栄えや手触りなどを両立させることこそがデザイナーの仕事です。見栄えを優先させて安全性を無視した製品があったとすれば、それはやはり悪いデザインなのです。
 モノと人間が接するあらゆることがデザインの対象になります。いいデザインとは、見栄え、性能、使いやすさ、安全性、コスト、環境への配慮などをぴったりと一致させるように、高度なパズルを解くようなものです。かつてのデザイナーは、応用芸術家にとどまり、性能や安全を考えることを応用科学者(=エンジニア)に任せていました。しかし、それでは現代の高度なマシンをうまくデザインすることはできません。今デザイナーに求められているのは、芸術の枠に閉じこもって技術者とけんかしたり妥協したりすることではなく、自ら最適なピースを見つけて完成させること。デザインは自然科学と芸術の両方を使って美しいソリューションを見つけることなのです。


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アナログとデジタルの境界線

アナログとデジタルではデザイン感覚は違ってくるのでしょうか?

 元々の意味で言えば、デジタルは「数えられる」ということですよね。世界を構成する物質は原子でできているので、コンピュータの中だけではなく実世界も実はデジタルだということもできます。我々がいま、様々な生活シーンでアナログだ、デジタルだといっているのは、解像度の違いでしかないように思います。粒子が細かくて私たちには連続しているように見えるものをアナログと呼び、ドットや数字で表現されたものをデジタルと呼んで来ました。しかし、情報密度が分子のサイズに及ぼうとしている現在、それをデジタルと呼ぶのは少々時代錯誤のような気がします。
 また、昔ながらの道具と、情報技術を使った道具の差もあまり重要なことではなくなりました。電子データを基本とする道具は、確かに移動やコピー、バリエーションの展開などが楽です。一方昔ながらの道具が、私たちの未解明の身体能力になじんできたことも間違いないでしょう。しかし、今やコンピュータも充分私たちの潜在能力を引き出してくれますし、古い道具で製作された作品をデータ化することも簡単になりました。音楽を聞いても、写真を見ても、もうアナログかデジタルかはあまり意識しないでしょう。その差があからさまだったのはデジタル技術がとても稚拙な時代のことだったのです。
 作り手である僕にとっては、道具がデジタル・データを使っているかどうかよりも個々のデザインの善し悪しの方がよっぽど重要なので、ただ概念的にアナログがいい、デジタルがいいというようなことを議論する意味はあまりないと感じています。


シーケンシャルに考えるのがアナログ、
ぶつ切りの状態で考えるのがデジタルとよくいわれますが・・・。


 それも一時的なことだと思います。デジタル技術によってコンテンツがネットワーク化され、それぞれタグがついていて情報整理を楽にはしてくれましたが、それにあわせて、思考法を変える必要はありません。アナログの世界でもあっても、KJ法(※1)など、カードをタグとして活用することで“デジタル的”に情報を整理することは、多くのジャーナリストや科学者もやってきたことです。

では、デジタルクリエーションやアナログクリエーションに
本質的な違いはないということになりますね?


 デジタルで描いた絵はツルツルしてつまらないといいますが、それも初期のコンピュータの限界に過ぎなかったようです。たとえば、僕もペンタブレットを使って絵を描くのですが、今やパソコンで描かれたものと、紙に書かれたものの本質的な差は感じなくなりました。
 ただ、今でも道具としての特性の差はありますよ。例えばコンピュータ上で手書きタッチの直線を引こうとすると意外に難しい。そこでどうしているかというと、ペンタブレットの上に定規を置いて線を引いている(笑い)。自分の感覚にぴったりくるように道具を使えば、それでいいと思うのです。
 ハンドリングの差は確かにあります。設計者との打ち合わせも大半がメールでできるようになったし、スタッフと同じデータを頻繁に交換しながら作業を進めることもできるようになりました。おかげで、八王子の山あいに住んでいても仕事が続けられています。でもそれで自分のデザインが変わったとは思えないなぁ。


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2次元と3次元とギャップを越える

2次元と3次元の間には大きなギャップがあると思いますが、
3次元思考を鍛えるにはどうすればいいのでしょうか?


 デザイナーやエンジニアの卵には、スケッチを描かせています。CGでリアルに表現できればスケッチを描いたりする必要ないと考える人もいるようですが、それは写真があるから絵はいらないといっているようなものですね。スケッチというのは頭の中のどろどろしたものをかき混ぜるツールであり、自分の空間感覚を研ぎ澄ませるためのものだと思うのです。
 デザイナーにとっては、瞬時に明快な3次元像をイメージできることはとても大切です。将棋や囲碁でもそうですが、どれだけ先の手を読めるのか、それもしらみつぶしに考えるのではなく瞬間的に多様な手をイメージできることが強さの秘密だといわれます。CADを使えば誰でも自分のアイデアを3次元で見ることができますが、それは一つの指し手を盤上で試してみているに過ぎません。どれだけ高速に美しい3次元イメージを大量に想像できるかが、デザイナーのアイデア構想力の鍵になります。
 一本の曲線にも、かたちや構造、あるいは性能のイメージを込めることができます。人は複雑なものを抽象化して記憶しますが、生み出すときは抽象的なところからスタートし、徐々に複雑にしていくのです。いまのところ3次元 CADは厳密な定義を要求するので、抽象的なイメージ操作には使いにくい。だからかたちを自由に構想するには、スケッチが重要になるのです。もちろん、最終的に製造工程に形状を伝えるは、3次元データの方が丁寧なスケッチよりもはるかにちゃんと伝わる。しかし、最終形状を定義することと、クリエイトすることは、根本的に違うことなのです。


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デザインを依頼されたときに、
山中さんはどのように形を作り上げていくのでしょうか?

※1:KJ法
文化人類学者川喜田二郎氏(元東京工業大学教授)が考案した創造性開発(または創造的問題解決)の技法で、川喜田氏の頭文字をとって“KJ法”と言われる。ひらめきや思いついた事柄をカードに記入し、関連する記事をグループにまとめ、創造的なアイデアの展開や問題の解決の糸口を探り出す手法。コンピュータが普及する以前のアナログの世界でもあっても、カードをタグとして活用することで“デジタル的”な思考ができることがわかる。
 よく知っていると思っていたものも、実は知らないことが多いのです。ですから、観察することが大事です。私はデザインを依頼されたとき、工場に行って製造プロセスを見るようにしています。同時に使われているところを観察する。そうすると、その製品の本質的な構成が見えてくる。
 ハイテク製品のデザインは、様々なパーツを配置して作る彫刻です。それぞれのパーツが、そうした形になっている理由やその大きさが必要な理由を考え、作り方と使い方との接点がイメージできるまで観察します。製造の基礎知識が、感覚的なものにまで昇華されたとき、必要な部品を正しく美しく配置することができるようになります。
 はじめにかたちありきで、そこに機能を押し込もうとすることも、先に機能設計があってそれをきれいなかたちで覆ってしまおうとすることも良いやり方とは思えません。いろいろなところに無理がでてきて、結局使いにくいものや醜いものになってしまう。
 そこで一人で両方を考えます。といっても最初に話したように自然科学の方法と芸術の方法はまったく違うから同時にはできません。一人で技術者になったり芸術家になったりしながら頭を切り換えつつ考えていく。最初はあちらを立てればこちらが立たずで苦労するのですがあるとき両方を突き抜けるようなアイデアがぽんと生まれて一気に決着します。


一方、商品化を前提にしないプロトタイピングも行われていますが、
それはどういう理由からでしょうか?


 東大で先生をしていて、田川欣哉という学生に出会ったのがきっかけでした。彼がある身障者用キーボードのアイデアを持って相談にきたとき、僕はとにかく試作品を作ることを勧めました。人が手に触れる機器はとにかく作ってみないと評価できないからです。そのときは簡単な予備実験ができる程度のものを想定していたのですが、半年後に彼が持ってきた試作品を見て驚きました。見栄えは悪いですが、ほぼ実用に耐えるものになっていたのです。
 その彼が僕の仕事場に通うようになった頃から、一緒にプロトタイプを作ってみるようになりました。お金は儲からないかもしれませんが、理想を動くモノにして人々の評価をダイレクトに確かめたくなったのです。彼の友人のプログラマー(本間淳)も参加して、まずは両手親指キーボードの完成型「Tagtype」(※2)を発表し、次にヒューマノイド・インスタレーション「Cyclops」(※3)を作りました。
 プロトタイピングは、先端技術の夢と芸術の美意識が直接に出会う場所です。デザインは産業の上で成立する行為ですが、商品化の際の制約を取り払う、つまりいったんお金儲けから離れることで、現在の工業製品が見失っていたものを再発見できるような気がしたのです。
 プロトタイプは、この世に数台しか存在しません。しかし、私たちのこうした試みはマスコミを通じて非常に多くの人に知られるようになりました。たくさんの人からメールやお手紙の反響をいただきます。プロトタイプを作り、マスコミを通じて新しい技術思想やライフスタイルを提案すること。私たちはこれを、新しいタイプのデザインの普及であると考えています。


ディテールに想像力を込める

設計製造.com★ではヒューマノイド・ロボット・デザインコンテストを開催しています。ヒューマノイド・ロボットとそれ以外のロボットではどんなところが違うと思われますか?

 工学的に見ると、ヒューマノイド・ロボットは実用性が決定的に欠けています。ロボットは実用性から積み上げていくと人間型になりません。まあ、人型のロボットがほうきを持って掃除をするより自走式の掃除機の方がずっと上手に掃除をするでしょう(笑い)。
 海の中で生まれた生き物を祖先に持つ人間は、体の3分の2が水です。そのために私たちの体はなめらかな水の袋になっています。手足の長さなどもそういう柔らかい体をうまく動かすようなかたちになっています。そのかたちは、乾いた素材を使い、電気エネルギーを使う機械にふさわしいものではありません。無理に人に似せることはできますが、目的に応じて合理的に設計すれば、人間のかたちにはならないのです。
 にもかかわらず多くの科学者がヒューマノイドを作るのには別な目的があります。それは「学び」です。人間を機械とみなして研究することでいろいろなことがわかってきました。それは科学知識として多方面に応用されています。
 また、大昔から人は彫刻や人形や肖像画など、様々な人のかたちを作ってきました。それは人間の根源的な欲求でもあるのでしょう。そうしてみると、ヒューマノイド・ロボットを作ることは、自然科学と芸術が直接に出会う場所、つまりまさしくデザインであるということができるのかもしれません。


クリエイションの面白さはどこにあるのでしょう。

※2:Tagtype
ポリオの後遺症による重度の肢体障害を抱えながら、時代小説を発表している時代劇作家えとう乱星氏のために工夫された両手親指キーボード。商品化のめども資金援助もなかったが、バリアフリーツールを越えたものに発展するのではないかという夢を膨らませ、動作するものを実際に制作し発表した。山中氏のプロトタイピングの原点となった。


※3:Cyclops(サイクロプス)
人と同じような構造の背骨と、一つの目を持つ人型マシン。球体関節を重ねた背骨の周りには空気圧で駆動されるエア・マッスルが30本配置され、エアチューブで台の下の電磁バルブに接続されている。頭部に搭載されたCCDカメラの画像を解析して、人のサイズの動く物を抽出し、それが視野の中心にくるよう、電磁バルブを介して姿勢を制御する。


★:設計製造.com
2002年〜2009年12月まで株式会社ユニゾンで運営していた、日本のモノづくり応援サイト「設計製造.net」では、2006年に学生を対象にヒューマノイド・ロボット・デザインコンテストを開催した。
 デザインは、技術の夢と芸術の理想に対する壮大な視点が必要となります。双方の領域には、それぞれ人が一生かかってもどれだけも身につけられないような知識とノウハウがあります。しかし想像力はそうした壁を軽々と乗り越えるのです。想像力はとても小さな部分にも込めることができます。スイッチ一つといえども、確かな工学の知識とかたちに対する鋭敏な感覚がなければ創れません。想像力がそれを可能にします。どんなディテールにも想像力が宿る、それがクリエーションの面白さでしょうね。

山中さん今後の展開は?

 ドンキホーテかも知れませんが、今までデザイナーが関与しなかった場所、宇宙、バイオ、ナノテクなど最先端の分野でもプロトタイピングを展開したいと考えています。でも一方で、非常に身近な分野でもきちんと科学と芸術の出会うところを探して行きたいと考えています。
 最近、大根おろし(※4)を作りました。大根をおろしていると、滑ってうまくおろせなくなることがあるでしょう。歯が前後に規則的に並んでいるとそれがレールみたいに作用してああいうことになります。実は、職人が手で目立てした昔ながらのおろし金ではそんなことは起こらない。そこでCADとNCを使って歯並びを意図的にランダムに並べたものを作りました。使って見るとはっきり違いがわかります。どこにでも科学と芸術があらためて出会う場所はあるものですね。 (2006年6月)

文:佐原 勉/写真:伊吹青児

※4:ダイコン・グレーター
既存の大根おろしのデザインにとらわれず、科学的な方法で設計。おろし金に並ぶ歯の高さと角度、並び方、穴の大きさなどをCAD上で最適化し、精密NC加工機で制作。歯のデザインの鍵は乱雑さ。意図的に歯の位置をずらすことで、目詰まりしない大根おろしが完成した。全周のゴム製のスロープも、卓上に押さえつける機能的なかたちだ。

プロフィール
山中俊治(やまなか・しゅんじ)
工業デザイナー/リーディング・エッジ・デザイン代表
1957生まれ。東京大学工学部卒業。日産自動車デザイン部を経て、91年から94年まで東京大学工学部客員助教授を務め、現在、リーディング・エッジ・デザインを主宰。時計、カメラ、乗用車、鉄道車両等幅広いプロダクトを手がけている。「テクノロジーと人間をつなぐデザイン」活動により2004年毎日デザイン賞受賞。代表的な作品に「インフィニティQ45」(日産自動車)、「O-Product」(オリンパス)、「Suica改札機インターフェース設計」(JR東日本)、「TRY-Z」(JR東日本)、「Morph3」(北野共生システムヒューマノイドプロジェクト)、INSETTO(イッセイミヤケ)、「TT」(ウィルコム)など。 主な著作『フューチャー・スタイル』(アスキー出版)『人と技術のスケッチブック』(太平社)シリーズ全3冊

リーディング・エッジ・デザイン
http://www.lleedd.com/


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