「オマールさんを訪ねる旅」より,写真提供・広島の中村千重子さん(この写真のコピーは要許諾)
       オマールさんの話
広島修学旅行へ向けて,広島原爆のことなどを学習し始めています。
 この広島原爆でなくなった方のお墓が,京都市左京区一乗寺の地にあるというのを知っていますか。
 蔓殊院通りを東に,白川通りを横切って,下り松をこえて,詩仙堂へいくすこし手前の道を北におれて,土壁の倉を左に見て,すぐ右に,「円光寺」というお寺があります。
 石畳の階段を少し上がると,見事な庭園に入ります。洛北で一番古いといわれる池があります。その池をまたいで,奥にはいると墓地になっています。その一角に,他の日本風の墓石とは違ったお墓が目に入ります。「SYED OMAR」(サイド・オマール)。
 これは,だれの墓で,どうしてここにあるのでしょうか。
このオマールさんこそ,その人,広島原爆でなくなった方のです。マレーシヤの方です。
 18才の若さで,この京都でその最期をむかえられたのです。
 どうしてマレーシヤの方が,ひろしまの原爆で,そしてこの京都で,それもこの一乗寺の円光寺に。
 
 マレーシアは,1941年12月8日の真珠湾攻撃と同じ日に,日本陸軍が攻めた国です。そして,42年には,日本の植民地となりました。
 オマールさんは,マレーシアの王さんの親類の子どもでした。
 そのころ日本は,植民地にした国の王や大統領などの子どもを「留学生」として日本に連れてきて,日本人としての教育をしていたのです。
 オマールさんは,16才で日本につれてこられ,18才でなくなったのです。
 
 1945年8月6日午前8時14分,人類史上初の原子爆弾が,広島市上空で,さくれつしました。一瞬,何万℃の熱が発生しました。太陽が落ちてきたのといっしょです。屋根瓦も焼けるほどの熱線。
 オマールさんは,その時広島大学の寮にいて被爆したのです。半身大やけどをおいました。自分の傷や発熱にもかかわらず,日本人の友だちを助けたり,8月中頃まで広島にとどまりました。マッカーサーの命令で,帰国できることになり,東京へ向かいました。
 ところが,放射線にやられたオマールさん体は東京までもちませんでした。京都で下車して,治療を受けることになったのです。
 その時の京大病院も,戦後の混乱もあり,原爆症に対する治療も分からず,ただ輸血だけに望みをつないだのです。その時まだインターンだった浜嶋元京都女子大学長が自分の血で輸血を続けたのですが,望みかなわず9月3日,帰らぬ人となったのです。
 
 
オマールさんの短歌
   「母を遠くはなれてあれば
      南にながるる星のかなしかりけり
                  サイド・オマール
                昭和20年8月25日記」
 
 戦後ずうっと南禅寺の大日山に人知れずほうむられていたオマールさんの遺骨,昭和33年の週刊朝日の記事がきっかけで,八瀬の平八茶屋のご主人が,お墓づくりに力を尽くしました。全国の皆さんの寄付もあって墓石はできましたが,墓地がない,そこで八瀬と関わりのあった円光寺の尼さんが境内の墓地に墓所を提供されたということです。
 
 円光寺のご住職は,オマールさんの,人をわけへだてなく,だれにでもやさしくする,その心,人を信頼してやまないその心,を学んでほしいとおっしゃっていました。