不思議な感覚だった。いや、本来はこれが正常な自分にあるべき三次元世界の認識のあり方であって、長門有希という名のヒューマノイドインターフェースとしてのあり方の方が常とは異なるのだ。

 長門有希である間は、知覚が定点に固定されてしまうが、今は広く拡散し複眼的にいくつもの視点を同時にかつ俯瞰的に知覚することができている。犬の散歩をする親子連れ、サッカーをする小学生、喫茶店で談笑するカップル……。久しぶりに感じる全方位に拡散した知覚に、人間で言うところの乗り物酔いのような不快感を覚えていた。

 今自分がこうしているということは、長門有希はどうしているのだろうという疑念が浮かんだとき、一つの光景に意識が一気にフォーカスされた。涼宮ハルヒを見つけたのだ。他のSOS団のメンバーも一緒だ。

 今が盛りと咲き誇るソメイヨシノの並木道を、それぞれが様々な表情を見せながら歩いている。終始ご機嫌な涼宮ハルヒ、それに突っ込みを入れたり呆れて見せたりと百面相に大忙しのキョン、一歩下がって戸惑ったように微笑んでいるが、時折ハルヒの標的になると途端に狙われた小動物のような表情に変わる朝比奈みくる、そして常に変わらぬ穏やかな微笑を浮かべている古泉一樹。

 ……そこに長門有希はいない。

 いつもなら、古泉一樹の隣には、それとなく寄り添う自分の姿があるはずだ。己の意識が今ここにこうしてある以上、それは当然のことだったが、それは何とも奇妙な感覚をもたらす光景であった。その感覚を人間の定義に当てはめれば、「不快」と呼ばれるものであった。

 意識を一気に古泉一樹に寄り添わせる。いつもと同じように、ともすれば手と手が触れ合う位置にまで近づく。しかし、古泉一樹の体温を感じることはできず、彼もまた自分の存在に気づくことはない。声を掛けても聞こえない。触れようとしても触れられない。それはとてもとても「イヤな」感覚だった。

 こんなにも「イヤな」気持ちなのに、今自分のすぐそばにいる古泉一樹は、自分がいない現実をいつもと変わらぬ顔で生きている。涼宮ハルヒの戯れ言に苦笑し、キョンの突っ込みに冗談とも本気ともつかない相槌を打つ。そのことがとても「気持ち悪い」。自分の意識の中に、人間というこの星の生命体に特有の「感情」というものが芽生え始めているのを感じている。初めは己のプログラムに生じたバグとしか認識できなかったが、次第にアディッショナルなプログラムとして取り込むことができるようになった。そもそも、人間の持つ「感情」というものも、脳という臓器内で生じている電気的信号にすぎず、言うなれば無機的な活動なのだ。

 まだほんの数種類にすぎないが、例えば「うれしい」とか「楽しい」とか「気持ちが良い」といった感情をもたらすのは、古泉一樹しかいない。その他の人間の言動に対しては、あくまで無機的に、それに相応しいと判断した対応をしているにすぎない。一方、古泉一樹の言動に対しては、感情という名のワンクッションが生じることが多くなっていた。そしてそのことが、ちっとも「イヤ」ではなかった。

 しかし、今眼の前にいる古泉一樹には、自分の不在によって何某かの情動の変化がもたらされているようには見えない。実際彼の意識は、どれだけ探ろうとも平生と変わるところはなかった。

 有希は、自分の意識の中に生じている情動と、サンプリングしてある人間の情動とを突き合わせて、それが何なのかを突き止めた。これは「淋しい」という感情。「うれしい」などといったものとは正反対で、とてもイヤな感情。一刻も早くデリートしたい感情。しかし、それは澱のように意識の底に沈み、消えそうもない。

 通常時ならば、いつまで見ていても一向見飽きることのない彼の微笑を空しく見つめながら、有希は思う。これはわたしの知っている古泉一樹ではない。こんな自分が置いてけぼりにされている、「淋しい」世界はウソだ。こんなところにはいたくない。本来いるべき世界に帰りたい。そして、わたしの知っている古泉一樹に「会いたい」!

 意識が一瞬ブラックアウトし、直後にホワイトアウトした。それが、人間を模した眼球内の虹彩が、一気に飛び込んできた光に耐えきれないせいだと認識するのに数秒を要した。
「お眼覚めですか」
意識が完全に回復するより早く、とても「気持ちの良い」音声が飛び込んできた。それをキーにして
、全ての状況を瞬時に認識した。
「あなたでもうたた寝をするんですね。新鮮な驚きです」
彼は「会いたかった」笑顔を満面に浮かべて、心底楽しそうにそんなことを言った。

 ここは春の陽うららかな公園のベンチ。古泉一樹と並んで本を読んでいて、いつしか無意識のうちに睡眠状態に陥っていた。
「この陽気では、誰でも眠たくなってしまいます。『春眠暁を……』というやつです」
「あなたは起きていたの」
「僕は、あなたの寝顔をずっと見ていました。とても可愛らしかったので」
そう言って眼を細める彼の言葉が、とても「うれしかった」。この感情は決してバグなんかではない。自分の中に今やなくてはならないプログラムのうちの一つ。

 有希はたまらず口を開いた。
「夢を見ていた」
「『夢』ですか」
古泉はいつもより少しだけ眼を見開き、驚いた素振りを見せたが、先を促すようにそれ以上は何も言おうとしなかった。
「わたしは本来の姿に戻り、あなたに触れることができなかった」
見上げた視線を、古泉はしっかりと受け止める。しばらく何も言わずそうしていたが、不意に右手を伸ばし有希の小さな両手を頼もしい力で握りしめた。
「でも、今はこうして触れることができますね」
有希はコクリと頷く。その確かな温もりが「気持ち良い」。先刻意識の内に刻まれた「不快な」感情が溶けていくのを感じた。理由は分からない。彼のそばに在るという確かな実感が、ただ「うれしかった」。

 古泉は顔を寄せて囁くように言った。
「悪い夢は、幸せなときに見るものです。こうなって欲しくないという気持ちの表れです。大丈夫、あなたが心配するようなことは起こりませんよ。あなたは現に僕の眼の前にこうして居るのであり、僕はあなたを手放すつもりは毛頭ないのですから」
古泉の手に、心持ち力が加わった。一人の人間の力なんてソメイヨシノの花弁を散らすそよ風よりも頼りないもの。しかし、今自分の手を握る力は、この世界の何よりも確かなものだと思えた。

 もっと古泉一樹の存在を確かに感じたくて、ぴったりと寄り添って肩に頭を預けた。古泉がちょっと戸惑ったように瞳を泳がせるのが分かった。

 一つの新しい感情が生まれるのが分かった。それは、改めて己の内のデータベースなど照会しなくても分かるものだった。
「大好き」
その感情を、有希は言葉にした。古泉はまた少し眼を丸くして、そして自分の肩に手を回して身体を更にぴったりと寄り添わせた。耳がちょうど彼の心臓のあたりに当たって、その規則的な鼓動が伝わってきた。そのテンポは、一般的な成人男性のものよりも幾分か速いものだった。

 古泉はほとんど呟くように言った。
「僕も、大好きです」
有希は、これが「幸せ」であることを新たに認識した。

(了)

2008/9/6 23:30 寝台特急「はやぶさ」4号車内にて脱稿

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