2019/3/6一部追記

時の経つのは本当に早いもので、村下孝蔵さんが46歳の若さで急逝されて今年(2019年)でもう20年なります。ご存命なら60代半ば、同じ年代やさらに上の年代の歌手がまだまだ活躍しているのを見ると、本当に惜しい方が早世されたことに改めて深い悲しみをおぼえます。

最初に聴いた歌

私が村下さんの歌を初めて知ったのは1989年頃でしょうか、たまたま見ていたテレビから流れる「踊り子」が最初に耳にした曲で、その透明な歌声、哀愁を帯びたメロディーに一瞬で強く惹かれました。


初めて生の声を聴いた96年の七夕コンサート
その後、毎年夏に行われる「村下孝蔵七夕コンサート」があることを知って96年から通うようになりました。初めて行った96年のコンサート当日は雨でしたが、会場のメルパルクホールのまわりには入場を待つ長い行列ができており、改めて村下さんの人気の大きさに驚きました。

その時出会った大阪から出てきたというある青年の話が今も印象に残っています。彼は若くして難聴に悩まされ、医師からはいずれ聴力を失うと言われているのだそうですが、村下さんの熱烈なファンで、耳が聞こえる限りコンサートに通うと言っていました。
雨で入場整理が遅れ、帰りの新幹線の時間を気にしながら「コンサートではいつも最前列に座るんです」と言っていた彼は、村下さんの死を今どのように受け止めているのでしょうか。

 
97年の七夕コンサート
97年のコンサートの時、ちょうど私は病気を抱えていました。最終の診断が下る前の不安な気持ちの中で村下さんの歌声を聞きました。コンサートの後、数日して「異常なし」という診断結果をもらい、ほっとした気持ちでアンケートを綴って送ったところ、忘れた頃に思いもかけず村下さんのサイン入りCDが送られてきました。
手紙には「すべての内容を村下孝蔵が拝見した結果、数名の方に直筆サイン入りCDを・・・・」とありました。このCDは私の一生の宝物です。
 

実現しなかった「村下孝蔵シルバーコンサート」
村下さんはその頃の七夕コンサートでは、日頃あまり耳にしない曲をあえて選んで歌っていたように思います。村下孝蔵の固定的なイメージを変えようとしておられたのでしょうか。

しかし、私のような普通のファンにはやはり「花れん」「レンガ通り」「ゆうこ」など悲しげな曲がもっともぴったりくるように思います。私の一番好きな曲は歌詞もメロディーもすばらしい「夢の跡」です。
97年のコンサートの時に村下さんは「定期的なコンサートをいつの間にかやめてしまう人も多いが、自分は歌える限り七夕コンサートを続ける」と言っておられました。
そこで私はアンケートに「年をとったら是非毎年9月15日に村下孝蔵シルバーコンサートを開いて下さい」と書いたのですが、それも「かなわぬ夢の跡」になってしまいました。



98年の七夕コンサート
98年のコンサートの頃、私は左耳が原因不明の低音域難聴となり、医師からは大きな音を聞くことを止められていましたが、どうしてもこのコンサートには行きたくて耳栓をして恐る恐る聞きました。

その時解りましたが、異常のある左耳だけ耳栓をしても、バランスがとれないためか右の耳に強い圧迫感、違和感を覚えました。そこで、異常の無い右も耳栓をして何とか聞ける状態になりました。

それにしても大きなスピーカーを何段も重ねたバンドの音はものすごい大音量です。膝に置いたバッグがビリビリと震えるほどなので、非常に不安でしたが何とか最後まで聞くことができました。そして・・・・・・・・それが最後のコンサートになってしまいました。



99年6月24日 訃報

本当にショックでした。もちろんチケットを買ってあった七夕コンサートまであと10日くらい。「何で!」「うそでしょう!」という思い。でも現実でした。心からご冥福をお祈りします。