ひとりごと
 
     8月15日の近況    09/8/15
 去年1年悩まされた白内障の手術 多焦点レンズを入れた左目が日を径るごとに悪化し粘膜で覆われている感じが強くなり、無理して見ようとするからひどく疲れた。 年が明けた2月9日レンズ入れ直し手術をした。 多焦点から単焦点に、半年の間に4回の手術。この時点で7ヶ月が経っていてレンズは眼球にくっついていて取り去るのに苦労したらしい。しかし手術後に起こった「復視」といって物が2重に見える症状はレンズを入れ替えても改善しなかった。
 4月に矯正用の眼鏡を作りやっと物が2重に見える困難から救われた。しかし眼鏡が無かったら温泉に行ってもシャンプーとリンスの表示も読めない。
 「復視」=「2重に視える」、というのがどういう状況で起きるのか知らないけれど少なくても手術前の私の眼には無かったことは確かである。 ここにきて手術の責任を問うても仕方が無い。
 しかしもっと早く患者の訴えを聞いて延々と悩まさないでほしかった。一日10数件も手術をしている大病院の医者なら「ああ、この訴えは複視が起こっているな」と早い段階で気ずいているはず。
 しかし眼鏡無しの10ヶ月間にくらべたらとても幸せを感じている。眼鏡を作った4月、この辺りで白内障騒動も一件落着になったようだ。
 新型インフルエンザ騒動で赤ちゃんから老人まで一億総マスク顔になった5月の日本。そんなあわただしい中を5月、広島と宮島を訪ねた。
 原爆資料館を見学、原爆ドームをスケッチ。64年前、人類で始めて核爆弾を投下された広島の地。その悲劇,罪深さ、核を今も無くせないという生物の愚劣さ。つくづく考えさせられる。  その核を持つことこそ対等に大国と立ち向かえるという人がいることに驚く。玩具のように核爆弾をもてあそび感情に任せてひょいと何処かに落とす。核爆弾を作り続けることは誰にでも容易に手に渡ることだ。隣のやくざなスネおやじが核爆弾を手に入れた。それなら家でも手に入れてやくざなおやじを脅かしてやろう。対等に立ち向かうために。そしてあちらでもこちらでも人間の手に負えない悪魔の兵器を持つ。広島と長崎のよりももっと殺傷力の強い威力を持ってしまった爆弾。再び地球上にあってはならない地獄だ。そうでなくとも自然破壊で地球を壊し続けている人間。
 各地から来た修学旅行の小学生たちが「貞子の像」の前で誓いの言葉を読んでいた。
 「私たちの世代にはこんなおろかな戦争は無くします」どの学校の生徒たちも真摯な思いで力いっぱいの言葉。聞いていると胸が熱くなり涙が出てきた。64年前の自分がダブる。
 アメリカのオバマ大統領の「核爆弾を無くす」という4月のプラハ宣言には久しぶりに「希望」という忘れていたフレーズがよみがえった。みんなでサポートしたい。特に広島、長崎を持つ日本からは大きな声を上げたい。原爆の地獄を見た人々はもうわずかしか生きていない。
 すぐ近くの広島美術館に立ち寄った。ゴッホ、シダネル、マチス、ピカソ、日本の画家では牛島憲之、鈴木信太郎などに強く惹かれた。もっとゆっくり観たかった。

       
アンリ・ル・シダネル「離れ屋」  広島美術館
 6月、四国へ行く。琴平、金比羅さんの785段の階段を一気に上る。次の予定が控えているからとせっかちな連れ合いに叱咤されて上ったら直ぐに又、一気に下る。翌日、道後温泉から松山城へ行き、丸亀の猪熊弦一郎美術館で開催中の「色彩の詩人脇田和展」を観た。今回の旅の目的でもあったが大規模な素晴らしい展覧会だった。
 7月は、9月の第1週から開催される日曜画家展と平和美術展。その作品を30号で描きだす。いつものことながらああでもない、こうでもないと構図を変えたり、色を変えたり、 塗りつぶしたり結局7月いっぱいで3枚描いて納得しないままで筆を仕舞う。
 第56回日曜画家展 9月2日(水)から9月6日(日)まで。岡崎公園内の京都市美術館別館。9時30分から5時まで。(最終日は午後4時)
 第58回関西平和美術展 9月1日(火)から9月6日(日)まで。天王寺公園の大阪市立美術館。9時30分から5時まで。(入館は4時30分まで)
 昨日はヨーロッパの夏を思わせるからっとした湿度の少ない日であった。気になっていたヴェランダの整理をする。 きれいに咲いて沢山楽しませてくれたチュウリップ、テッポウ百合、カサブランカ、ミニトマトの土を整理する。深植えの大型の鉢なので結構な量の土。夏の陽に当て苦土石灰を撒き土を再生させる。ついでに室内の胡蝶蘭2鉢も水苔を使って植え替える。
 今、ヴェランダのゴーヤ2本と朝顔はきれいな緑のカーテンを作ってくれている。ゴーヤの青い実が幾つもぶら下がっている。その中に朝顔が咲いているのは何となくユーモラスだ。風呂から上がって生き生きとした緑のカーテンで覆いつくされているヴェランダを見ている。この上ない幸せ感に包まれる。64年前、理不尽な戦争で死んでいった多くの人々にもささやかな日常を幸せと感じる日々が待っていたはず。今私が包まれている 「何でもない平凡な日常を過ごせる幸せ」が。 戦争の無い64年間を送れた幸せが。 「平和が一番、憲法9条」 今日は敗戦記念日、世界に類無い平和憲法の下で生きてきた幸せをかみしめる日です。09/8/15

   
 2009年の幕開けです
 年末年始は寒かったのであまりアウトドアーはしないでもっぱら編み物にいそしんだ。

 夫にも帽子を編んでやりたいが直ぐに無くしてしまうので止めにした。
 フランスに出張する次女にも帽子をプレゼントしたが帽子掛けに残っていた。

 このカーディガンは白内障のレンズ入れ直し手術の前日出来上がった。
季節の終りにバーゲンで買った安い毛糸。10玉ぎりぎりで2メートルほど残っ
ただけ。我ながらギリギリという点は評価。猫の爪を気にしながら翌日から着ている。
 この辺で編み物を止めて春を待とう。


 阪急電車で前に座った人が着ていたざっくりした手編みセーターが素敵だったのでモヘアのよく似た糸を買って編んでみた。でも大阪で着るのには少し暖かすぎるようなので信州で介護の仕事についている姪に着て貰いたいと今日送った。

 寒い戸外のスケッチにかぶったらと思い古いセーターをほどいて
蒸し器で蒸して伸ばし2本取りでざっくり編んだ。被りながらゲージを確かめ
編み進めたのできつくもゆるくも無く心地よい。
 帽子は被り心地が一番、とても快適でお気に入り。



 髪の毛が白く薄くなり帽子が離せない。ウールだけれど縒りがきついので少し暖かい室内でも被れそう。
 本当はベレータイプにしたかったがもう一度別糸で挑戦してみよう。



 もともとはネックウオーマーとして作ったが(しわ隠し)少しゆるかった。ターバンとしてならちょうどいいので怪我の功名か。
09/1/19

          29 白内障の手術に振り回された2008年
 今年の私の最大の出来事はなんと言っても念願の白内障の手術だった。2月に手術を申し込み5月に手術前検査があり,やれ嬉や直ぐ・・と待ち構えた。が2ヶ月半過ぎた7月も終わる頃ようやく順番がきて、利き目である左目の手術、1週間置いて8月に右目の手術になった。
 野外スケッチが楽しみな私は最近日本にも入ってきたという多焦点レンズを選んだ。これは保険が効かない。ケチな年金者にとってかなりな高額を自費で支出することになるが目が快適ならばお金には換えられない。 10年近くも目が眩しい、頻繁に眼鏡を変えても見えにくい、1年足らずで眼鏡を替える、を繰り返してきた。55歳からずっと遠近両用の眼鏡をかけてきた。
 術後翌日から目の覆いをはずし視力検査がある。そして5日目もまた視力検査で、8日目にはもう片方の右目の手術。そして翌日から又視力検査。眩しい。目を開けていられない。世界中真っ白になった眩しさ。手術前の眩しさにも耐えてきたがこれは薄暗い色が付いているだけましだった。横断歩道の白線の眩しさ。街中に白いビルがこんなに沢山あふれていたとはいまの今まで知らなかった。ギラギラと目に突き刺さってくる。
 物を見ようとするとぼやけて滲んでテレビの画面は2重に見える。テロップを読むともう一段あるので同じ文句を2度続けて読むことになる。パソコンを開くと真っ白な画面で目を凝らしていると5分と持たない。
 「多焦点レンズはなれるのに時間がかかります、初期に眩しいのも特徴です」と言われ、後1ヶ月、いやもう少し待ったらと祈るような気持ちで待った。2ヶ月、3ヶ月。読書が出来ない。新聞もまともに読めない。絵を描こうという気持ちになれない。美術館に大きな絵を観にいっても全体像が把握できない。もどかしい。絵画展のはしごどころか打ちのめされて帰ってくる。
 私の個展も予定されていたので仕方なく夫に飾りつけを頼み、一月の間に2回ほどしか行けなかった。
 とうとう12月に入ってレンズの入れ直し手術が決まった。怖い。入れたレンズを取り出して別のレンズを入れるなんて。12月1日、片方のより視力の出ない右目をやり直すことに。
 そして・・確かに変化はあった。10月頃から延々と長引いていた頑固な肩こり、整骨院に通っていたが何故これほどガチガチにした?と首を傾げられるほどの・・それが直った。
 それと同じように喉の風邪で微熱あり肩こりと同時進行してだるく寝たり起きたりぐずぐずしていたがこれも直った。見えにくい目を凝らして必死で視よう、馴れなくてはいけないと自分を叩いてきたのだった。そしてあの強烈な眩しさもずっと楽になった。
 それらの辛い症状がみんな目から来ていたなんてまさに目からうろこ。入れ直した片方は単焦点の遠視用のレンズ、もう一つは多焦点レンズなので両目で見るとき違和感がある。このままで様子を見ましょう、と言うドクターと一カ月後の診察を待っているところだ。17年前に作った眼鏡をかけて久しぶりにパソコンの画面に向き合ってご無沙汰していたお詫びを打ち込んでいます。
                                    08/12/11


         28   セーターの話二題
 
2年越しでセーターを一枚編んだ。2本取りのモヘア糸とまぜたらあまり編み進む気乗りのしない呆けた色になってしまった。それと6号針という比較的細い毛糸だったので、まあ気の向いたときに少しづつ編んでいたがやっと完成した。 襟元に鮮やかな色のスカーフを持ってきて引き締めたら少しは何とかなるかなと思っている。(上)

 
 もうひとつは3月のバーゲンで買ったもので秋の終わり取り出して着てみると何と右の襟と身頃に爪楊枝でつついたような穴があいている。(下)
 一度も着ていないし半年ほどしかたっていないのに何事?購入した高島屋デパートに持っていった。
 虫に食われた穴です。そちらの保管の仕方の問題で収納時に虫に食われたのでは?といわれた。そんなことはないはずだ。他のウールものは今まで虫に食われたことがない。
 セーター類は家人のものも含めて沢山持っているが、今日までまで虫に食われたと言う記憶はない。
 
そう言うと一度お預かりします、というので預けて帰ったが後日、穴は修理もされないまま送り返されてきた。顕微鏡で調べた結果やはり虫に食われた穴で保管方法が悪かったのではという。もはやマニュキュアなどでの修復は出来ないくらい穴は当初より大きくなっていた。納得できないまま泣き寝入りである。バーゲンで買ったものは帰って直ぐ着て見て隅々まで調べなくてはと改めてうかつな自分を反省した。一流のデパートにしてこんな対応だから嫌な思いをして以後そのデパートには足が向かない。
(08/3/4)


     27
   猫と亀とバーゲンセールと
 築35年の私の住む集合住宅は今外装改修工事の真っ最中。もっと穏やかな時期にやるはずでしたが細かい事案でもめて一年中でいちばん寒い季節にずれこんでしまったのは残念です。
 いつもの今頃なら日光が部屋の真ん中まで差込み暖房いらずのこの季節なのですが1月から始まった南面工事で穴倉の中に閉じ込められたような毎日です。 ヴェランダ側にも廊下側にも足場が組まれ一面にシートで覆われて冬眠生活を強いられています。11月から3月いっぱいもかかるそうです。
 さて今年も、フランスのアングレムに行く次女の家に2匹の猫と1匹の亀の世話をしに行く日々がやってきました。今ではわたしの年間スケジュールに組み込まれてしまったようです。
 国際漫画フェスティバルが開かれるこの時期、次女は生徒さんたちを連れて毎年フランスに出かけます。もっと暖かい気候のいい時期に行ったらいいのにと思うのですが国際漫画フェスティバルというのはずっとこの時期に開催されるので都合よくは行きません。厳寒のパリは日本と逆に今年は何故かとても暖かかったといっていました。いつもお土産はくれませんが迷子になった生徒を探し回ったエピソードなど面白い土産話に事欠きません。
 留守を預かる私は朝8時半のバスで25分、次女の住むターミナル駅で降りてデパートの地下をぬけて飲食店とおばあちゃんが植木に水遣りする家と崩れそうな寺とモダンな新築中のビルのごった煮のような町に着きます。ぽっかりと静かな空間です。昔から人が住み営みを続けていた土地の匂いがします。管理人さんがじっと見ているなかで玄関の鍵を開けエレヴェーターに乗り部屋に着いて鍵を回す。シャリとサスケ、 2匹の猫が出迎えてくれます。おっとなかなか用心深い猫ではじめはじっと様子をうかがって出てきません。 「おはよう。バーちゃんだよ」と言いながら水道を少しの間出し放しコートを脱ぐ。人間は猫の言葉を理解できませんが猫はちゃんと人間の言語を理解できているのです。暖かい空間にほっとしてしまいます。ホットカーペットは猫のためにつけっぱなしにしておくように頼まれています。 寒い日ばかり続くこのごろなのに太陽は部屋の中程まで射しています。この部屋に来るといつも大の字になって寝転びたくなります。広いからか圧迫感がない。なんだかふーわり暖かい。強いて難を言えば緑が見えないこと。
 大好きな猫と暮らすために部屋の中にはいろんな工夫がされています。
 米原万里さんの本を沢山読んで猫好きな人の心理が少しは分かるようになりましたが私はなかなかそうはいきません。まず掃除機をかけて猫の抜け毛を掃除してしまうほうの人間です。白猫のシャリはもうかなりな年です。まだ若い猫だった頃、娘がフランスに出張のときは私の家で預かったこともあったのですがそこいらじゅう飛び回り「えっ何であんなところに」という隙間に入り身軽で精悍な猫でした。高いところが好きで天井近くまで上り人間の驚く顔を楽しむように思いがけないものをひとつづつ降らせてきたりしました。いたずら好きなこの猫が帰るとほっとしたし、寂しくもありました。あの同じ猫と思えないほど今はのったりと太っています。もう1匹のサスケは若い猫ですが太り具合は同じで、家にいるペンパから見たらかなり太めです。
 今では飼い主がしつらえた日当たりのいい高い棚の上に飛び乗って終日日向ぼっこをするのが唯一の楽しみです。 娘が描き置きしていった漫画入りイラスト「餌やりレジュメ」に従って空っぽになっている器に数種類の餌をやり、水をやります。シャリは直ぐに食べ始めるのにサスケは隣の部屋から用心深く見ています。
 亀はりんご、ミニトマト、小松菜、レタスなどを細かく刻み、水もあげる。やれやれ。
 ほっとすると直ぐに行き届いていない掃除が目に付いて掃除機を持ち出し、カーペットクリーナーで猫の毛を取っているばーちゃんです。最終日、コートを羽織って帰りに
「今日は美樹ちゃんが帰ってくるからね。明日からばあちゃんは来ないよ。二人ともおりこうだったね」というと二人?行儀良く並び前足をきちんとそろえたきれいなポーズでじっとひたむきに私を見ているのです。
 「えっほんとに?うれしいなあ」といっているのがわかります。驚きと嬉しさが隠された顔です。大事な預かり物を今年も無事でバトンタッチできた。1週間ほど気を張り詰めて猫と亀の世話に通い、通路になっているデパートで日課のようにバーゲン売り場を漁って帰る日々でした。
 やれやれそしてもう直ぐ春分の日です。今年の冬はとても寒い。部屋の中に洗濯物がぶら下がり、電灯の下で2年越しのスエーターを編んでいます。実はヴェランダにあるブロックを持ち上げようとして左足の甲の上に落として負傷しているのです。最後の猫と亀の餌やりが終わってほっとした日の夕方の出来事でした。「あっ痛たた・・・・」08/2/2

       26     近況  07年から08年へ
 偽装の「偽」の字が1年を象徴する漢字に選ばれたほど偽物がざくざくと噴出した2007年だった。 報道カメラの前で数人で頭をさげている様子が連日のように繰り返され日本人ってこんなにいい加減で品性のない人種だったのかとつくづく肩身の狭い気持ちがする。
 閣僚の自殺、首相の突然の辞職、官僚と軍需産業の癒着、社会保険庁のいいかげんな管理で宙に浮き記録されていない年金が5千万件もあるという突然の報道。
 子供の世界も大人が造りそこなった社会を反映して例外ではなくインターネットに書き込みのいじめなんていう信じられない世相が現れた。いたいけな幼児を虐待する親、親を殺す子供。高齢の親のわずかな年金まで取り上げ餓死させた男もいた。 格差社会のなかで独立できないパラサイトシングル。インターネットカフェに寝泊りせざるをえない若者たち。もう朝晩のニュースを見聞きしたくないと思った。 46億年前に生まれた美しい惑星に生きる動植物とわたしたち。だがここ100年ほどの人間の環境破壊で気温が上がり種の絶滅も相次いで起きている。生存の根本まで危うくしてヒトという種は戦争をやめない。使い切れないほどの富を私物化することをやめない。
 見知らぬ方々がこのつたないホームページを見てたびたびメールを下さったが、そんな善意のメールも閉鎖しなければならなかった。 低俗なメールが沢山入るようになり辛うじて維持している精神の均衡に耐えられなかったから。
 こんななかで少しでも何かに希望をつないで一日に一度くらいは微笑む種を見つけようと連れ合いと自分の老いに向き合って生きてきた。 老いて逝くだけなら万人の通らなければならない道だから受け入れようがある。でも若い人々にこんな世界を残していくのかと考えたらつくづく胸の中にかさかさと乾いた音がなる。 希望、希望、希望・・・・つぶやいてみる。何て遠くなった言葉。
 ペシミストの私でも少しはいいことも探さないと生きていられない。あった。もともと一人がちっとも苦痛ではない。自然の中をよく歩きに出かけた。 絵を描いているときだけは無心でいられる。月に3回の野外スケッチ会には、やりくりをつけてほとんど出かけた。あの猛暑の夏も。春は岡山県頭島、秋は長野県駒ケ岳の一泊写生会。日帰りスケッチ会には京都、神戸、奈良、和歌山、滋賀、もちろん大阪には・・・ 最初はおっかなびっくりだったがぽっかりと嘘のように70台に踏み込んだ私に健康は寄りそってくれた。 平和美術展、日曜画家展、労美展、と展覧会にも出品した。自分らしい絵を描けたというのが何よりよかった。
 展覧会を観に来てくれた十数年も前の職場の友人たちや、(今も現役の若い友人も含めてなんと4人も・・)何年も会ってない姪やその娘にも展覧会を口実に会えた。孫のあかりちゃんは性格が優しく可愛く年齢に応じた利発さでときどき大笑いの種をくれる。 身長が伸びてくれるようにばあちゃんは切に祈っている。
 近くの大念仏寺から聞こえてくる穏やかな鐘の音をききながら今年もあと15時間後には新しい年を迎えることだろう。  (2007/12/31)

25    捨てる
     ちいさな住まいだから
     物はいつのまにかあふれている
     そしてあるひ 物たちを捨てる
     ひとへやを占拠していたすべての本
     世界と日本のぶんがくぜんしゅう
     てつやして読んだ「チボー家の人々」も
     キャンヴァスに描いた油絵
     何十枚何百枚
     額縁やイーゼルや油絵の具
     家具や皿や衣服や布団
     こどもたちの絵やおもちゃ、ぴあのも捨てる

     ちいさな心だから
     想い出たちを収納できない
     そしてすこしづつ捨てていく
     ふるさとの川原や夕焼け空
     ひもじかったせんそうをはさんだ幾年
     わら草履、つぎあて衣服
     父や母や兄姉のぬくもり

     東京の下町のにおいと霧
     片恋のひとつふたつ
     あすは今日より明るいと疑わなかった
     「あのころ」も捨てる

     たいせつな友情さえ捨てはじめた
     でんわのうけこたえがおっくう
     てきとうにはなしている
     あいてがやさしすぎるのでなんとかつながっている

     ねむれないよるがつづくと
     本は捨てないほうがよかったかと悔やむが
     としょかんでかりてきてよむ

     捨てられないでつきあっているものもある
     あるこーる依存ぎみのつれあい
     30だいから描きだした絵
     不眠、冷え性

     ひとはみんなそれぞれのものがたりをつむぎ
     ちきゅうの上に捨てていく
                       (07/11/1)

 24    近況  06晩秋
 今年の春から夏にかけて珍しく元気でこのまま2006年が終わってくれればいいなと思っていたところ11月の声を聞いて間もなくだるくて熱っぽくてゲボゲボと嫌な咳がではじめました。
 今日は楽しみにしていた曽爾高原への1日スケッチ旅行ですがバスの中で咳がでたら皆さんに迷惑だと思い残念ですがキャンセルしました。10月末に夫が手術をして10日ほど入院しました。その留守の間、彼が引き受けているもろもろの公的な雑役を私が代わったり、手術に付き添ったりして疲れたのだと思います。当事者である夫は「腹に傷持つのは誰かいな」とばかりどこ吹く風と早起きして曽爾高原に出かけました。退院5日目だったら普通の人は止めておくと思うけれど・・・私も思い出したように咳こむのを除けばもう7部どおり直ったようです。若い頃から咳と言うものに縁のなかった私が、昨年突如咳の出る風邪を引き、咳き込むことが意志の力で抑えられないと言う体験をしています。咳き込む風邪は喉の痛みがないのが特徴で肺のほうに炎症があるように思います。
 ともあれ今年はおおむね元気で過ごせて嬉しかったです。
 11月には法輪寺の秋を描きに好きな大和路を歩き、10月には信楽への一泊旅行も元気に参加、信楽スケッチも3,4枚描きました。感動が消えないうちに帰ってすぐ10号の作品に描き直し、ついでに30号でもう一枚の信楽スケッチを描き起こしました。30号の絵は久しぶりに労美展に出品しようと思い搬入しました。これはちょっと静かでさびしい風景になってしまいました。現場でのスケッチはもっと躍動感があるのですが・・描いているうちにどんどん「きれい」に整理されてしまいます。手を入れたかったのですが体力の限界でそのまま搬入しました。ありきたりの風景をそのまま展覧会に出すのは私らしくないのですが今回はそれしか出来ませんでした。審査があるので落とされるかもしれませんが。でも絵を描ける気力と体力がまた戻ってきた自分を嬉しく思っています。
 10号の「信楽」は会員展に出品します。会員展は11月17日(金)から22日(水)までエル大阪で。
 労美展は11月18日(土)から28日(日)までアピオ大阪で開催。(ただし20日、24日は休館)
 またこのHPでも公開します。06/11/12

     23  惜別
 まだ3月も終わっていないのに今年に入って続けざまに知人の死を知らされて落ち込むことが多い。 親しく人生の一時期を共有した大切な人たちだ。
 地球の何億年もの時の流れの中で一刻とも思える生を受け消滅を繰り返している生物が、すれ違い交差した特別な人や動物たちとの別れになぜこうも心が揺れ動くのか。
 瑣末な日常に追われて年賀状のやり取りくらいしかしてこなかったけれど、ご家族の方から訃報をいただくことでもう声の届かない場所に行ってしまった人をしのぶことも多い。

 世界の”旅のエキスパート”のような浮田さん。1960年代から国外の旅を続けていらした。穏やかな笑みを絶やさない人で奥様といつも一緒だった。このHPにも入れたイタリアへの初めての家族旅の時、同じ飛行機でゆくりなくお会いした。長女が京都の大学で教えてもらった先生で偶然が重なりイギリスのホテルも同じだった。家族4人で写したたった一枚の写真、それが浮田先生が撮してくれたスナップである。(イタリア4) 克明な調査と事実で検証した旅の著書を出版するたびに送っていただいた。
 暮らしの手帳に私のギリシア旅行のエッセイが載ったとき、色のあるスケッチを見たいと冬の最中わざわざ京都から拙宅まで車を走らせて奥様と見に来てくださるような茶目っ気と行動力を持つ人だった。最後になった旅の写真入りの年賀状には穏やかな笑みをたたえた先生がいる。ガンの治療をしながら最後まで旅を続けた。年賀状をいただいて間もなく先生はもう帰らない遠い国に旅立たれたことを後から知った。

 まだ日本に希望と言う言葉が飛び交っていた青春時代の数年をオフイスで共有した長さん。
 今年の賀状には抗がん剤による治療中であること、来年からは新年の挨拶は欠礼すると言うこと、来し方の礼をこもごもと述べ、実り多い人生を満喫して欲しいと残る者への心配りが書かれていた。
 てきぱきとした仕事ぶりと男の子のような、さっぱりとした性格の先輩だった。きっちりとした彼女らしい最後の締めくくりだった。つらさと潔さがこめられた賀状だった。2月11日に亡くなったと当時の友人から電話で知らせがあった。赤穂生まれだが夫の転勤でほとんど横浜に住んだ。新年の大学駅伝中継で権太坂という地名を聞くたびにこれからも長さんをずっと思い出すだろう。

 絵描き仲間でも
特に親しく話し一緒に描いたようにおもう新居さん。体調を崩していた私は葬儀に行けなかった。あのすばらしい絵を描いた人がガン細胞にやられて横たわっていることを想像しただけで怖くて見舞いにも行けなかった。しかし気力を振り絞ってガンと闘いながら描き続けた。亡くなった後も何かにつけて意識の中を通り過ぎている新居さんである。企業戦士として責任ある立場と仕事をこなし何よりも精力的に絵を描き、旅もした。アトリエにも伺った。鋭く対象を見つめて今も何処かで絵を描いているような気がしてならない。

 大内さんは私が55歳まで勤めた会社の当時の課長だった長身でかっこいい人がガン細胞なんかにやられて細く小さく見えた。15年ぶりの再会だったがポール・ニューマンに似ている目だけはそのままだった。もうガンがあちこちに転移して3月9日に見舞ったが27日に亡くなった。
 しりごみする弱虫の私を明石まで見舞いに誘い出してくれたのは今も現役で仕事を続けている年下の友人だった。もうホスピスのことも夫人は考えていた。意識が薄れる時があるそうだが私たちが見舞った1時間近くの間、楽しそうに話してくれた。「またね」と病室から出るときは何気なく手を振って別れた。暗くなく辛くなく笑って手を振った。またいずれ近いうちに私もまいりますよ、その時は先輩としてよろしくという思いを込めて。 まだ若くこれから仕事以外の人生を楽しむ年齢だった。
 今や男性の二人に一人女性の3人に一人がガンで亡くなっているらしいが、私の親しい人々の死因もみなガンであった。安らかにお眠りください。この地球の上で偶然にもめぐり合い別れた特別な人々。(06/3/28)

22 つるつるスッテン床暖房、後日談
 床暖房の話をHPに書いてから「その後はどうなったか」と心配してくれる人が何人もいて嬉しいのと同時に感激している。もっと早くに報告すべきところ、いろいろと身辺多事で報告が遅くなってしまった。
 結局つるつる床材を交換するために工事のやり直しとなった。
 まさかまた1日かけて工事やり直しという事態になるとは思っていなかった。
 滑り止めワックスをかけるなどという姑息な手段ではどうしようもないということを知っていたのは他ならぬメーカー側のみで私はその間なけなしの気力と知力を総動員していた。あらゆる情報をインターネットで集め、図書館で調べ、消費生活センターに同じような事例がないか確かめ、教えてもらった東京の方の建材相談メーカーやワックスメーカーに問い合わせた。メーカーサイドは2度も期日をずらして何とか説得しようと思ったのか何人もで来てくれたが目の前で見るのはスケートでも出来そうなツルツル滑る床という現実だった。2度ともメーカー側の時間と労力の無駄だった。
 「ハードタイプは滑りやすいと施工業者は言っていませんでしたか?」などと責任転嫁をするにいたってはあきれてしまう。誰が最初から滑りやすいフローリングを選ぶ年寄りがいるものか。若者だっておなじだと思う。 結局、床ワックスは現実に起こっている事態になんの効果も現さないことを2度の訪問を通して納得せざるを得なかったらしい。張替え工事というのはこの寒空に避けたかったがでもそれしか選択肢はないという。費用は全額メーカー側の負担で地元の施工業者には負担なしという事に落ち着いたらしい。
 床暖房とフローリング工事のやり直しが終わったのが3月7日。結局、フローリングのハードタイプという一番硬質な床材が熱を持つことによってつるつるになることを認めたようだ。
 選べる仕上げ材は3種類しかない。これまで敷いていたハードタイプは3種類中一番単価が高い材質だったが今度は25%安い中間タイプのピュアタイプというものを敷いた。これで滑りはほとんど収まった。
 猫も安心して足を伸ばして伸びをしている。とんだフローリング騒動だった。

 とても親切に対応してくださったインターネット関係の千葉エアコン様、東京の建材インテリア相談の方、ワックスメーカー、リンレイの方、有難うございました。
 なかでも消費生活センターの方は電話で「失礼ですけどもう、これから足腰は衰えるばかりですよね。そんなフローリングは危険です。最終的にはやり直しの方向でこれまでの経過を全て文書にして残し、話を進めてください」と相談を締めくくってくれました。
 結果としてメーカー側のほうからやり直しという話になったのですが、途方にくれていた時点でとても心強いはげましをもらいました。エネルギーは要りますが、年をとっても理不尽なことには怒り、泣き寝入りをせず粘り強く交渉することの必要を痛感しました。
(06/3/20)

21  つるつるスッテン床暖房
 電気カーペットからガス床暖房にしたのはよくよく考えてのことだった。
 すぐに扁桃腺がやられるので毎年風邪ばかり引いている。それまで冬は何年も電気カーペットを使っていたが循環床暖房にしたら喉の乾燥が少しは和らぐのではと考えた。築30年を過ぎた老朽マンションなのでこれまで何度もリフォームは経験している。床はいつもコルク材だった。
 生活時間のほとんど過ごす部屋を季節はずれの6月に大阪ガスの「ヌックはやわざ」という床暖房に替えた。  敷いていたカーペットをはがして出来上がった床暖房の設備を敷き詰めて出来合いの床を貼り付けるという工程だ。4,5人の職人さんが1日でやってくれた。出来上がってから床がこんなもにピカピカですべりやすいことをはじめて知った。それまで2度の床リフォームはいずれもコルク材を選んでとても満足だった。
 滑りを止めたいと何度か水雑巾で床拭きをしたりしてみたがすべりには全く効果がない。猫が何度もすべっているのを見たが或る日、留守中にすべってどこか傷めたらしく脚を引きずって歩きだした。娘からの預かりものの猫なので心配したが1ヶ月ほどかかっってやっと直った。
 歩き始めた孫も何度かスッテンと転んだり、滑ったりするので危なくて仕方がない。何かいい方法はないものかと施工業者にいろいろ相談もしたが一向にはかばかしい返事がない。
 年が明けて孫のあかりちゃんが来ていた或る日、日常と違う動作をしていて、私が床にあった薄い敷物の端を踏んだ。
  途端に滑ってステンと後ろに転んだ。よりによって膝ほどの位置にひっそり隠れているソファーの飾り木に後頭部を打ってしまった。丸いツルツルした小さな飾りだが、そんな所に頭を持っていくとは我ながら今でも信じられない。みるみる大きなこぶがもりあがってきた。血管が切れでもしていたら、今頃のんきにキーボードを叩いていられなかっただろう。松の内の災難だったが大きなコブで済んだのが不幸中の幸いだった。コブは1週間ほどでひいていった。しかしその時、尾てい骨を打っていたらしく、20日以上過ぎた今もまだ痛む。
 かくなる上はこのいまいましい床を一刻も放っては置けない。床暖房の大阪ガスに直接電話で交渉した。
それまでも施工主になんども言ったはずだが、言葉を濁すばかりだった。滑り止めはないものかと、かくかくしかじかと事の顛末を話す。一度見せてもらってからと、後日来てくれた。
 その折、「滑り止めワック」スなるものを持参してくれてそれを塗ると滑りはどうやら一時的には止まった。 というのは2日ほどするとまた滑りやすい箇所が出てきて日がたつにつれて面積は拡大している。
 こんなことは私だけではないはず、と言ってもメーカー側は途端に無口になるが、話を継ぎ合わせると苦情はかなりあるみたいだ。それはそうでしょうよ、家にだけ特に滑りやすい床を敷いたとは思わない。「滑りを止めようと床に傷をつけたらどうかとやってみたが、これではうまくいかなかった」、と言っていた。私もそこまで考えて施工主に以前提案したが、床に傷をつけるのは床暖房の場合よくないと止められた経緯がある。
 安物の床板なんか選ぶからこういう事になると言われるかもしれないが、みんな似たり寄ったりの色見本を見せられてどれにしますか?と聞かれて一番値段の高いのを選んだら間違いないだろうということくらいだった。
 有害物質ホルムアルデヒドのこと、下の階への衝撃音はないかなどしか頭になかった。テレビコマーシャルでさんざん見せられているが「ヌックはやわざ」滑りやすいので注意なんて言っていなかった。床暖房は敷物を敷かないでそのままの状態で使いましょうと宣伝している。床暖房の上で誰がスケートをしたいと思うだろうか。  何より言いたいのはつるつる滑る床は暖房によってより増幅されていることは確かだと思う。
 暖房が敷いてない場所はハードタイプ専用ワックスなるもので今のところ安定しているのを見ても暖房によってワックスが効かない、或いは効果がなくなるということははっきりしている。
 こういうものを作って口をぬぐって売るほうに重大な問題がある。それにしても半年前からさんざん交渉していたのに、あわや大怪我になる所であった。掃除をし過ぎるのではないかとか、水雑巾を掛けるせいかも知れないとか掃除の道具や回数のせいにしないで、命にかかわること、もっと良心的に取り組んでもらいたい。
 この年まで生きてきて腹のたつことが多すぎる。自分だけ儲かればいいという風潮が日本全体を覆っている。
(06/1/31

 20  2005年病気総決算(きわめて個人的なメモ)
 あと少しで2005年も終わろうとしている。今年の暑さは格別だと周りの人が音を上げる頃になって私の体調は落ち着きを取り戻してきた。
 05年1月を過ぎる頃から食欲がなく胃腸の調子が悪く、おかゆやうどんなどを食べていた。
 年賀状で「ふるさと小包」が当たった。「こいつは春から縁起がいい」と喜び「蔵王のステーキ肉」を選んで送ってもらったがこれがスルメみたいに硬い肉で痛みかけていた胃腸を徹底的に打ちのめした。
 2月半ば恐れていた扁桃腺の痛みから風邪の症状が現れた。2月、3月疲れて寝たり、思い直して元気をだして見たりしたが体重は3キロ減って胃腸の調子はよくならない。
 それでも少し調子のいい時をみはからって城陽の方までしだれ桜を見に行ったり展覧会を見たりした。 
 4月から待ち焦がれていた保育園の定員が出来て長女が職場復帰できることになった。無菌状態だった孫のあかりちゃんは早速登園3日目に風邪の菌をもらってきて、共稼ぎの夫婦に代わって私が小児科に連れて行ったり、たまには迎えに行ったりする羽目になった。
 もともと喉からくる風邪を直ぐに引く私のこと、移ったのも早かった。急な喉の痛みで診療所に行く。
 孫は「慣らし保育」といってお昼までしか見てくれないので、ばあちゃんの私が2週間ほどだるい体を持ち上げるようにして迎えに行く。この間、娘がぎっくり腰に。それにしてもだるくてしんどくて肝機能の数値が悪化しているんだろうな。 5月はじめ、扁桃腺だけでなく喉頭の方が痛くなっていて嚥下痛がある。これがずっと続いた。 昼も夜も濡れマスクが離せない。寝るときは加湿器もつけているのに何故?
 孫は38度の熱があると保育を断られて、マスクを離せないばあちゃんが面倒をみることになった。使い捨てマスクも50個を使い切った。喉が痛くて、歌が大好きな孫と童謡を歌うことも出来なかった。
 かかってきた電話で 2,3分の間、話すことさえつらく痛みをこらえる始末だった。
 耳鼻咽喉科で吸入。診療所の薬で一向に治らないので漢方の医者に変える。漢方薬のせいか唇が腫れ、続いて顔のあちこちに湿疹が出始める。
 咳と痰が出始めたのは6月の半ばからだった。それも体が裏返しになるような盛大な咳き込みが終わり、いかにも菌がうようよしていそうな汚い痰が出るまでが長い。
 胃カメラ検査。耳鼻科でファイバースコープ。紹介なしでの大きな病院で胸部レントゲン、喀痰検査,CT検査、3割負担で1万円札が6、7月だけで何枚消えたことか。しかし結局苦しい喉頭の痛みの原因がわからない。
 こんな最中、健康そのものの夫が、定期健診で前立腺がんが見つかって手術をした。
 1ヶ月以上続いたあのひどい咳と痰が最後になったのがなんと夫の入院に付き添って初めて行った病院だった。 咳の発作が来てあわてて病院のトイレに。例のようにゲボゲボと内臓が飛び出るほどの長い咳をして最後にコロコロした痰が3,4個でた。
 そしてこれが二カ月も私を悩ませた咳の終焉だった。あれ以来コン!とも言わない。
 それにしてもいったいあの咳は何だったのだろうか。私は今まで咳というものを経験したことがほとんどない人間だった。かぜを引いて咳をしている人をみると何てけじめのない人、咳なんて我慢すれば出ないものではないだろうか、といつも思っていた。自分で経験してみないとわからないものだ。隣近所にさえ聞こえてしまう強烈な咳き込みの発作をとめられない苦しさ。
 ただ咽喉頭の鈍い痛みは10月ごろまで折に触れて自覚した。今ではすっかり直って童謡も歌える。口内炎も今のところ直っている。何十年ぶりという12月寒波も今の私にはそれほど苦にならない。
 夫は3週間入院して7月の終わりに退院した。もともと 健康な人なので今では何事もなかったように普段の生活に戻っている。
 ああ、2006年は扁桃腺が無事で桜の季節を迎えられますように。
05/12/28

 19 再びパソコン騒動記、ウインドーズ98よ,有難う!
 新しいパソコンの前で、一年ぶりの独り言を打ち込んでいます。
 ホームページをつくるきっかけになった<ウインドーズ98>のパソコンは5年間、私の人生にさまざまな驚きや怒りや喜びや、失望や達成感などを与えてくれました。でも5回目の再セットアップもむなしく11月の始めに、ついに力尽きて動かなくなりました。
 「もう寿命だから買い換えろ」という声には耳を貸さず、大事に大事に使ってきたパソコンです。
 何よりも私は物を無駄にすることに罪悪感を持つ世代です。できたら死ぬまで使い続けたかったのですが、修理代の見積もりが5万数千円ということでやむなく廃棄することになったわけです。
 壊れた時期が時期で年賀状が迫っています。早速、梅田の大きな家電量販専門店に行き同じメーカーの新しいパソコンをチェックして帰宅しました。
 しかしあまりにも多機能で、使わないものが沢山入っていることに今更ながら驚きました。
 操作にゆきずまったときお世話になっているパソコンメーカーのサポートに電話で相談しました。
「もっとシンプルなパソコンが欲しい」と。それならばとその時にサポートの人に聞いた日本橋のメーカーを訪ねました。

 ここでは30代のお兄さんが親切に、<わがままばあさん>の相談に乗ってくれました。
 私はこれと、これと、これをしたい、またはしている、パソコンでテレビは見ないからそういう機能はいらないなど・・・。  日本橋の電気機器街は量販店に押され一時寂れかけたと聞いていましたが、おっとどっこいそんなことはありませんでした。
 大企業の量販店マニュアルではとても受けられない個人の希望に沿ったきめ細かい会話ができ、納得して店頭にあったウインドーズXPを選びました。私の必要とする物だけが入っているシンプルなパソコンです。
 値段は量販店の3分の1で8万1千円でした。

 折りしも我が家は風呂など水周りのリフォームと、水疱瘡で保育園に行けない孫を預かっていて、てんやわんやの大騒動を繰り広げている所に届いたパソコンです。
 出来なくてもともとと、片手間でひょいひょいとポートを差込み、電源を入れ、パソコンのスイッチを入れてみました。
 ブワーンと直ぐに立ち上がり<ウインドーズXPにようこそ>という画面が出たときは大感激でした。
 ひょっとしたら私は魔法の手をもっているのではないかと恐れたくらい早かったのです。ウインドーズ98を、何時間もかけて立ち上げたのと何という違いでしょうか。
 わたしのマジックハンドのせいではなく、5年間のパソコンの性能の進歩のせいでしょう。

 でも実はそれから周辺機器(プリンター、スキャナー、デジカメ、MOなど)へのインストールが大変でした。
 ウインドーズ98以前には対応していますがそれ以後発売された新機種へ従来のソフトの読み込みが対応していないのです。それと大切なCDに取り込んであったものが半分も取り出せない事態になりました。
 98とXPとの互換性がないということですが同じメーカーで何故こんなことが未だにやられているのか疑問です。

 電話にしがみついて、それぞれのメーカーに必死でサポートを受け、周辺機器だけは新しい物を買わないで済みそうです。何とか乗り切りました。やれやれです。
 ただひとつ、ウインドーズ98のCDドライブの中にはいったままの年賀状ソフトが取り出せないことを除いては。
 300人を超える住所録が壊れたパソコンの中に入ったまま廃棄処分の運命にあります。この住所録を有効にするのには新しい年賀状のソフトを買わなくてはいけないようです。
 その他もろもろ壊れたパソコンの中に入った最新のデータは取り出せないまま何処かに消えていくパソコンの運命やいかに・・どうか悪意のある人に利用されないようにと願うばかりです。

 パソコン・パニックの時いつも感じることですがメーカーのサポートは人によって極端に知識の差があるようです。
 的確に質問を聞き取って素早く対処してくれる人と、マニュアル通りにロボットのようにしゃべって実は中身がなく、「この人何も技術的な知識がないのでは?」と思う人とがいます。
 壊れないパソコンを作って売ってくれたら一番いいのですが。
  再セットアップを繰り返さないですむXPであることを祈っています。そして長いこと傍らにいてくれたウインドーズ98よ、どうも有難う。
05年11月24日

18、台風と新潟地震と
2004年、10個という未曾有の数の台風が日本列島に襲い掛かりました。
テレビでリアルタイムの映像をみています。嵐に翻弄される人や町や自然をこれでもかとばかり映し出しています。氾濫する水の渦中に観光バスが取り残されています。命からがらバスの屋根までたどり着き、救出を待つ人々の様子。川があふれ、山が崩れ水の中に屋根だけ見せている家々。そこにも多くの助けを求める人々がいました。集中豪雨が収まりバスの屋根からずぶ濡れの全員が無事で救出された時はほっとしました。

京都や兵庫の日本海側を中心に荒れ狂う23号台風が大きな爪あとを残して去りました。
泥海と化した日本海側に比べ瀬戸内海側の港は穏やかでした。今年の1泊写生旅行は台風の去った土日の休日でした。しかし心は鬱屈していました。ボランティア活動に駆けつける人がいるのにのんきにスケッチなんかという心の翳りをおさえられません。しかし団体申し込みをキャンセルするのは迷惑がかかる。仕方が無い行こうかという心境でした。

台風一過の晴天のなか瀬戸内海のこちら側では白い漁船がのどかにたゆたっていました。鬱々としていた気持ちも少し忘れスケッチの仲間たちと夢中で筆を走らせていました。その夜、新潟で大きな地震があったことを知りました。

朝ホテルを出るとき、震源地は夫の故郷にごく近いということを知り重い石が体の中に落ちてきた感じでした。もちろん電話は通じません。その夕刻、家に帰るまでこの地震の深刻さについてなるべく考えないようにしていました。帰宅してから親戚に電話して全員無事を確認したときは心からほっとしました。4日後にやっと連絡が取れました。雪が深い地方なので家もそれに耐えるように造られていました。しかし地殻の変動は空から降る雪の重みとは別の次元でしょう。夫の実家も姉の家も倒壊はまぬがれました。1週間後、家屋の診断士が入って集落の家々を診断してくれたということでした。幸い余震さえ収まれば入居できるということですが、余震が絶えないので今はガレージに寝起きしているということでした。

10月に入って、続けざまの自然災害です。いつなんどき襲い掛かるかわからない大自然の荒ぶる力に圧倒されました。小さな豆粒のような人間をおもいしらされました。

四季の自然に癒される美しい山河がある日本です。しかしこれからも、はるか南の海に発生した台風が予定されたコースのように日本の山河に襲いかかるでしょう。
地下深い日本海や、太平洋プレートに四方から押し続けられる国であることは変わらないでしょう。
それが日本列島。これからもそこで生きていくのです。自然への畏怖を忘れずに他の動植物と一緒に生をまっとうしていくしかないと思います。04/11/3

 17、鳥インフルエンザ
 その問題がおきるまで私は20万羽という規模の養鶏場が存在することを知らなかった。鶏というよりも人間に操られるマシーンだ。物価の優等生といわれてきた鶏卵だけれど利益優先で捨てられているものも沢山あると聞く。半年も前の卵が市場に出回っていることも驚きだった。現にあれだけの鶏が死に、処分という名前で鶏の大量殺戮が行われてもパニックにもならない。卵の値段が変わるわけでもなく、スーパーの店先には事件中もその後も変わらない商品が豊富に並んでいる。鳥インフルエンザは人間が造りだしたものだ。
責任に押しつぶされて経営者の父母が首をくくって亡くなったのはショックだった。私と同じ年齢の方だった。生き抜いて狂乱の時の収束を見極めてほしかった。
 鶏小屋を覗いては暖かい産みたての卵をを宝石のように掌に包んだ感触を肌で知っている世代だから。
 日本人が口にするものは今、大量に無駄にして捨てられているが、いつかそのことに強烈なしっぺ返しがあるのではないだろうか。
生命を維持するために他の生命を食べるという食物連鎖。飢えを満たしてくれるものへの感謝の気持ちや、戴く命を最小限に留めることへの謙虚さを持ちたい。他の生命は人間に食べられるために存在するなどと思い上がってはいないだろうか。

 そしてイラク戦争は、サーズは、アフガニスタンの子供は、パレスチナとイスラエルの終わりを知らない民族間の憎しみは・・
戦争、報復、テロの限りない連鎖の中にある現代。加えて地震大国日本には大規模な地震のサイクルが近づいているらしい。まるで頼るべき何にも無い八方ふさがりのブラックホールではないか。

 こんな時代に、私には縁が無いものと思っていた孫という、いとしい生き物をさずかった。赤ん坊、何と言う無垢な生き物だろうか。ほんの少し手を滑らせたら壊れてしまいそうな感触。天使と言う言葉がこれほどぴったりくるものが他にない。40年前の子育てが参考になればと育児日記を取り出してきた。42日間しか一緒にいてやれず、招かれざる職場に出勤せざるを得なかった辛い日々もつづられている。
 子や孫にはもう少しマシな世の中をと願って生きてきたつもりだが、日本は逆の方向に進んできたような気がしてならない。どこかで方向転換をしなくてはこのままの日本をいとしいものに手渡すわけには行かない。貧しいけれど希望も人情もあった日々が本当に懐かしい。04/4/12 
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 16 2003病気、総決算
 「お前さんは大量の破壊兵器をどこかに隠しているンだろう。白状しないと攻め込むぞ」
昨年からアメリカ大統領ブッシュ氏は言いつづけていました。
「まさか、国連をないがしろにアメリカも無頼漢のような真似はするまい」と思いつつ不安な中で開けた2003年でした。
 しかし3月、ついに不安は現実になりました。国連がイラク国内の査察を行使している最中にです。世界中の「戦争反対」の声を無視してアメリカとイギリスはイラクに攻め込みました。この頃から私、体調を崩しました。
@ まず上顎の口内炎らしいものが前奏曲でした。1日2日直って直ぐまた出るの繰り返し。
A次に食欲なく、体だるく、掌が熱っぽい。喉も痛く、寝ていても濡れマスクが手放せない。それでも肝機能のために薬を飲みたくないので休養と栄養で乗り切ろうとしていました。
B そんな日、就寝前から左胸の上部ににぶい痛みが続き、朝起きてもなお痛む。2,3年前からたまに経験している症状ですが、たいていはしばらくしたら直っています。痛みのある時に一度診て貰おうと近くの診療所へ出かけました。心電図、肺のレントゲン、血液検査。特に異常はありませんでした。痛みもその日の午前中には消えました。この日胸部の痛みに気をとられ風邪の症状を訴えずに帰って来てしまいました。
 心配する程のことではないとのこと安心して2,3日花の植え替えなどをしました。
喉の痛みは、どんどん進行して1週間後、また診療所へ行くはめになりました。
C このときは掌の熱感、首筋痛、頭痛、喉が白く化膿、声が全くでない、の症状でした。しかし熱は36度3分。私は平熱が5度台しかないのです。抗生物質処方。10日後、薬止める。寝たり起きたりで結局、5月半ばに完治するまで1と月半もかかった風邪でした。しかしこの風邪で思いがけない嬉しい副産物がありました。1年近く痛めていた足底筋の痛みが消えていました。寝たり起きたりでほとんど歩かないでいたせいだろうと思います。
D 風邪とオーバーラップしながら5月頃から手指の先が薄くなりだしました。右手中指の第一関節と第二関節の間は、少し皮まで剥けだしました。皮膚が薄くなったせいか左手中指の先に、針で刺したような痛みが走るようになっていました。
 最初はたかをくくって「主婦湿疹」と自分で診断を下して売薬を塗りました。次はごく近くに出来たばかりの皮膚科へかかり2ヶ月も空費しました。結局、超がつく程、混雑を極めているいつもの皮膚科に行きました。
 「こんなになるまでどうしていたの」と聞かれ思わず「売薬で直そうとして」と答えていました。「新しくできた皮膚科へ」とは患者は言いにくいものです。
 指紋が無くなるほどの指先がみるみる改善していきました。いつも的確で明快な診断をくだす医者です。1月もかからずにほとんど全快しました。
E 7月、花の手入れ中にギックリ腰。3年半ぶりに不覚を取り1週間寝てしまいました。
ギックリは若い頃から思い出したように不意に訪問してきます。
F 9月、旅行中にホテルの明るい鏡に映った自分の顔を見て驚きました。
サングラスをいつもしている目の周りを除き、顔一面に茶色のシミが覆い尽くしているのです。しみじみと自分の顔を見なくなってもう何年も経っていますがそれにしてもこの顔はなに?一部、皮膚の色が白く抜ける老人性白斑のようなものもある。ぞーっとして例のY皮膚科に行く。
「ストレスや疲労からもシミは濃くなる」と3種類の錠剤をくれました。
その薬は全く意外な効果を発揮してくれました。
「自己免疫性肝炎」という持病のことはこのページの「4、再びパソコン騒動と絵と風邪と」で触れましたがあれ以来、漢方薬を煎じて毎日飲みつづけていました。2年になります。ともかく疲れがひどいのです。rGTPの数値もなかなか改善しません。

 このシミの薬を飲みだして間もなく、「あれ」という感覚に襲われました。あの長年馴染んだだるい疲労感が消えているのです。
 最初はまさか、何で?と信じられない気持ちでした。夕方になると顕著だった体のだるさが消えています。インターネットでこの薬を調べましたがもう一つたいした薬では無いようなのです。もちろんステロイド剤のようなものは入っていないようです。
 ただのビタミン剤のような気もしますが私の体がこれを欲していたのは確かのようです。肝心のシミの方は相変わりませんが疲れがとれて何かをやろうとする意欲が出てきたことは確かなのです。

 まだ3ヶ月なのでもう少し時間をかけて確かめ無くてはと思います。
はたして皮膚の薬で何年も悩まされていたあのだるさが消えるものかどうか半信半疑で2003年を送ろうとしている私です。

 年明け早々、また心を暗くすることがあります。遂に自衛隊が海外に出て行く。
 60年近く大事に守ってきた世界に誇る日本国の平和憲法「戦争放棄」は風前の灯火です。暗い戦争の足音がずんずん響いてくる気がします。これでまた一つ私の病気が増えるのではないかと心配です。03/12/28
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   15・さようならの季節
 2003年も後わずかになりました。年賀状の準備をしています。11月に入ってから年賀状を欠礼しますという喪中はがきが目立ちます。天寿を全うされた人生にはたいてい年齢も書き添えてあって母が、義母が96歳で・・という 90代半ばで人生を終える女性が目立ちます。一方男性は70代80代の死亡通知が目に付きます。
 今年、美しい梅の賀状をいただいた画家の小渓さんは、新年に亡くなられる前日までアトリエにおられたとか。亡くなる数日前には酸素ボンベを引いてレンブラント展を鑑賞されたといいます。

 4月に偶然天王寺美術館でお会いして、こもごも話をした亀崎さん。幾何学的な大きな絵を精力的に描く方でした。10月に夫人の人形展と一緒に二人展をやると言っていたのに・・
 6月にはもう還らない人になってしまいました。いつも所属する団体の公募展の入場はがきを送っていただきました。

 こんなふうに近しい人の訃報を知らせる賀状を取り分け「南無阿弥陀仏」と手をあわせながら心をこめてお別れします。何十億のこの世界中の人々の中から、自分が言葉を交わし、心を通わせた選ばれた人たちにお別れするさようならの季節でもあります。(03/12/7)
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   14.足の痛みが消えました
 気がついたら1年近く悩まされた足の裏の痛みが消えていました。
 友達の展覧会を観て、帰りにデパートで買い物をして帰ったのに痛くありません。
 日記帳を繰ってみると6月ごろにはもう痛みがなくなっていたようです。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といいますが、つらいときは痛い痛いと騒いでいても痛みが治癒したときには気がつかないものですね。
 気がついたのは偶然、今朝の新聞記事にあの痛みが再現されていたからです。
 私を長いこと苦しめた痛みが「足底腱膜炎」と言う名前であることを始めて知りました。
 整形外科や内科など幾度もお医者さんを訪ね、レントゲンも撮りそのときは病名がわからなかったのです。でも今でも痛みは記憶のなかに鮮やかです。
 外出して帰ってきた日、痛みと熱感のために夜眠れない日も幾度もありました。

「足すっきりシップ」も山のように買って使いました。あれは熱を取りとても気持ちがよく眠れます。足底を保護するゴム状のクッションも、窮すればなんとやら、探して売っているのを見つけました。
 整形外科医院にそれが置いて無いのは不思議です。かかとにクッションを入れると痛みが緩和されてずいぶん楽に歩けるからです。左足のかかとをかばって杖を持つことを真剣に考えたほどです。今「足底腱膜炎」という病名がわかったのはうれしいことです。

 土踏まずを支えている足底筋と、かかとの骨を結ぶ腱の膜に炎症が起きて、小さく断裂したために起こると言います。やはり歩きすぎが原因でした。大体私は出不精で外出が好きではありません。だから観たい展覧会や友人知人の個展などがあると、まとめて、はしごして回るので帰っって来ると疲れきってしまいます。そんな生活習慣がよくなかったのでしょう。

 積極的な治療法が無く、直る時期は個人差があるそうです。春に引いた長い風邪で、ほとんど寝ていたことで断裂した腱がくっついたのでしょう。人間万事塞翁が馬と言う言葉を思いだしました。

   03年の春
 2003年の春は風邪でダウンしました。このごろ季節の変わり目をうまくやり過ごせ肺炎SARSのニュースも驚きです。現代社会がこれほどウイルスの脅威にさらされるとは。
 核爆弾やクローン人間を作る人類が微生物に勝てないのですね。
 私の体などこのウイルスに遭遇したら多分何の抵抗も出来ずに地上からさよならだと思います。

 今年も3階の部屋のヴェランダに桜吹雪が舞い込んできました。咲き誇る桜の大樹が目の前にあります。
それも寝ている間に青葉に代わりました。その向こうには杭全神社のクスの鬱蒼とした茂みがあります。
赤い譲り葉がワッという勢いで地上に落ちると、見る見る若草色の新芽がすごい勢いで伸びてきて、
もう若葉にとって変わっています。
老いて免疫力の落ちた人は自然の生気に体を蝕まれるのだろうかとおもいます。
春の自然の移り変わりの激しさに絶えられないような体力になっている自分を感じました。
寝ていてもヴェランダに植えていた優しい花たちが次々に咲いて心を和ませてくれました。
ポピー、水仙、パンジー、チューリップ、冬を越した真紅とパープルのペチュニア、スイトピー、クリサンセーム、ローズマリー、小さなヴェランダに植えた花たちが弱い私に勇気をくれました。
私は土いじりが好きなのです。
花が終わると土を乾し、ふるいにかけ石灰や肥料や腐葉土を混ぜて、土を再生させてまた使います。
今、カサブランカとカンパニューラがすごい勢いで伸びています。
少しずつ体を馴らそうと1日おきに近くを散歩しました。
目と鼻の先にある杭全神社。
歩いていても適当に静かで適当に人の気配もあり、大楠があり、緑豊かです。
近くにこんな場所があることをいつも幸せに感じます。
次の日ははゆっくり歩いて5分の大念仏寺。
ここにも大楠の保存樹があります。勢いのある木です。
圧倒されそうな幹に腕をまわし、その生命力を一滴、いただこうと目をつぶってしばらくじっとしていました。
樹齢600年といわれる杭全の神木の楠よりもここの楠の方が勢いがあります。太い根が露出しています。

小さなスケッチブックを持っていって久しぶりに一枚描きました。広い敷地内ですが描いていると、どこかで見ていたのか、声をかけてくる人もあり世間話もします。
まだゆっくりですが長い風邪の季節をようやく脱したようにおもいます。
徳島のTちゃん、北京のTさん、日画のMさんHさん、メル友の皆さん、メールをいただきながらお返事も出さずにごめんなさい。パソコンの前に座る元気も無かったのです。
もう時効になってしまいましたのでお詫びを言っておきます。03/5/1

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   12、戦争と私
映画、THE PIANIST、「戦場のピアニスト」を観ました。
 終戦まで生き延びたのが奇跡のような主人公のピアニストです。声高に主張する人でもなく、上手に変化を泳ぎきる人でもなく、ごく平凡に生きる一人の男。
その人の上に戦争がどんなに理不尽に襲い掛かったかを余すところ無く見せてくれます。
自分だけ生き延びようとしてナチスに取り入った人も、死を賭して抵抗運動に加わった人も等しく、ギシギシと音を立てる戦争の巨大なキャタピラの中に押しつぶされていきます。
戦争は人間を悪魔に変えてしまう、今更ながらその正体を確かめる思いです。 
1939年、ナチスドイツは隣国ポーランドやチェコ、オーストリアを侵略して、とりわけユダヤ系のポーランド人を虐殺したのです。 
廃墟となったワルシャワの大通りが写しだされます。
鉄骨のビル群がこのように破壊し尽くされるものか、と鳥肌が立ちました。
このシーンは私にとって感慨がひときわもの深いものがありました。
1990年、ワルシャワの美しいあの通りに、旅行者とした立ち寄ったことがありました。
現地ガイドさんがその時、力をいれて何度も語ってくれた事を思い出しました。
ワルシャワ市民は、完膚無いばかりに破壊された街並みを細部に亘ってできるだけ忠実に復元したというのです。戦後の貧しい懐からそれを成し遂げるのがどんなに大変だったかを語ってくれました。
今にして分かります。街のあちこちに戦跡のモニュメントが建っていました。
10数年前のあの時、私がこの映画を見ていたらもっと別の目でワルシャワの街を見ていたでしょう。
その時、強制収容所にも立ち寄りました。
人間の尊厳などはかけらも無い家畜以前の移送列車で死に赴いた大勢の人、人。
 厭戦、反戦の思いが観終わったあとも深く胸の中に居座って動かない映画です。

ショパンのノクターンのピアノの旋律が鳴り響いています。
変ホ長調のノクターンは青春時代の思い出のある曲で私もときどき口ずさむことがありますが、
この映画で、主人公が演奏するのは嬰ハ長調のノクターンだそうです。
敬虔なクリスチャンだと自称するアメリカのブッシュ氏にこそ、今この映画を見て欲しいものです。
 この冬が特別に暗い冷たい冬だったのは「戦争をやるぞ、イラクに攻め込むぞ」と叫びつづけたアメリカの為政者のせいだったと思います。
広島、長崎に原爆を落とし、ヴェトナムに攻めこんで大勢の人民を虐殺し、湾岸戦争をして劣化ウラン弾で生まれてくる子の身体にただならぬ状態を出現させている。
これが超大国アメリカのやってきたこと。
「お前はどこかに兵器を隠しているんだろう。早く出せ。出し惜しみするなら直ぐ攻め込むぞ」
そう云い続けている張本人は、一番沢山の兵器や軍事力を持っていることの理不尽さ。
「へーい、ご無理ごもっとも」
と頭を下げている日本は人類史上まれに見る核兵器、原爆の洗礼を受けた唯一の国です。その時からずっとアメリカの顔色をうかがっているのも解せないのです。
 テレビをつければ中道を装ってあっちを見、こっちを見、自分の保身しか考えない顔ばかり。
一体ほんとのところどうなの?この辺りでもう一度戦争をやりたいの?

したり顔の解説者や訳知り顔の政権党人に聞きたい。いらだちがつのります。
終戦の時、小学校4年生だった私。食べ盛りに飢えていました。
私たちの世代が体力的一番に脆弱だという統計結果があるらしい。
骨格ができる年齢に食料が無く雑草やサツマイモで飢えをしのいだからさもありなんと思います。
20世紀は戦争の世紀だった。その反省の上に21世紀に希望をもった私。
人として地球上の全てのものが安心して生きられる世紀であったといえるようにしたい。理不尽な戦争で死ぬなと云い続けたいと思います。(03/3/16)
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    11、もう結構です!この辺で地球を汚すのは止めましょう!
すったもんだがありましたが私も昨日フレッツADSLに回線を変更しました。
思えば華々しく宣伝されたフレッツISDNなるものに変更してやれやれと思ったのが昨年の9月でした。
まだ一年しか経っていないのに、気が付いたらもう時代を席巻したISDNはすっかり影が薄くなっていました。
短い命でした。そしてコマーシャルはさかんに<ADSL!>と叫んでおりました。どちらにしても、無機質なローマ字です。意味のない無味乾燥なな記号文字が不消化のうちにもう次が現れてきています。

安くて早い、と聞けば今までの回線を使っているのが損なような気がしてくるから不思議です。デジタル回線からアナログ回線に戻すのがADSLらしい。ISDNでデジタルにしたのに逆行しているんじゃないの?と考えるのは私だけでしょうか。

何よりもパソコンのデスクトップを開けてランボードなる物を差し込むという素人離れした作業から始めなければならないのがADSLの特徴でした。
幸いメル友のご主人が来て、この作業とモデム接続のややこしい仕事をやってくださいました。もう傍で見ているだけで私には出来なかった、と納得しました。でも今すぐ同じことをやったらあるいはできるかもしれませんが。

一人でやってみようとして前から電気店でランボードやランカードなるものを調べて、イメージは出来ていたのですが、頭で想像していたことと全然違うものでした。
デスクトップに差し込み式のランボードなる物は900円で、彼はそれ以外の一切のお金を取ってくれませんでした。
「いいメル友を持ったね」と羨ましがられました。
私は幸いにもこんなに親切な友人にめぐり合って、簡単に変更できたのですが、出張してやってもらうと2万円という話も聞きました。

今まで使っていたターミナルアダプターは新しいモデムの入った箱にぴったり収まるゴミになりました。重くて大きなこんなゴミがこの瞬間にも日本中でどれだけ出ているんだろう、とつくづく考えてしまいます。

ちょっと体裁を替えて売る。何の不足もなかったそれまでの商品はゴミとしてはじき出されて、どんどん、どんどん地球は取り返しのつかないゴミ捨て場に変わっていく。

この朝、ラジオを聞いていたらある電機メーカーでもっと早くて便利でいろいろな機能を持ったモデムを来春2月に売り出す事を発表したとトップニュースが流れていました。
「もう結構です!この辺で地球を汚すのは止めましょう!」
思わず声に出して叫んでしまった私です。(02/12/7)

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10、初冬の奈良
後、1ヵ月で2002年も終わります。
去年の今日は2週間の入院生活から開放されて退院したんだっけ、と感慨も新たです。
健康で普通に生活できる日常生活の幸せは何ものにも代えがたいものですね。
何はともあれ、美しいこの星に生きられた幸せを感謝いたします。
私のHPを見てメールを下さった皆様にも、心からお礼を申します。
年をとって始めたパソコンですから若いメル友さんとのおつきあいもちょっと億劫なもので、ぶっきらぼうな返信を差し上げるだけですみません。この機会を借りてお詫びとお礼を言わせてください。

昨日はメル友のお一人Mさんの関係するキルトの作品展を拝見しに奈良へ行きました。奈良までは30分で着きます。お昼頃作品展の会場を後にして久しぶりにスケッチ道具を持たない奈良をぶらぶらしようと思い、何処へ行こうか迷いました。
一番初めに来たバスに乗ることに決めて、バスを待ちました。「般若寺」方面行きのバスでした。

般若寺で降りると間もなく寺の塔が見えてきます。しかしこの寺は見えているのに寺の入り口までは大回りをしないとたどり着きません。足のかかとをかばってあまりハイキングをしたくなかったのですが・・
般若寺には日曜画家協会の写生会で、もう幾度も来ています。コスモスの色はまだ鮮やかで生きいきとして残っていました。しかし紅葉黄葉が華やかさを競うこの季節、コスモスは鮮やかなだけに、どこか場違いな雰囲気でした。観光客の姿は何処にもありません。13重の塔と笠塔婆は鎌倉時代のものだそうです。
人気のない寺の中に立っていると羅生門の世界に入っていくようでした。
帰りにバス停のそばの小高い丘を登った所から大仏殿を見ました。
幾度かスケッチに来た場所です。
この岡の上にイーゼルを立てて油絵を描いたのを思い出しました。スケッチもどこかにあるはずです。
ありました。これです。2002/12/1


9 真夏の近況
私の自己免疫はけったいなヤツで、異物と感違いして自分で自分の免疫を攻撃しているらしい。
自己免疫性肝炎と最近になってやっと正式な名称をもらった。
A型,B型、C型などの型番なしで20年も前から肝機能検査にひっかかってきた。
アルコールなんて正月にわずかしか呑まないのに。
ERCPという体中がひっくり返るような検査をやっても肝機能検査は全てシロだった。
しかし血液検査をするとほとんど肝機能の数値が高くて引っかかる。
今年も3月頃まで疲れがひどかった。
漢方薬を変えたのがよかったのか、季節がよくなったからか4月頃から目に見えて元気になった。
暖かくなるといつも生き返ったように快調になる。
あー、生き返った、と日曜ごとのスケッチ会にも参加した。
奈良や兵庫のスケッチ候補地の幾つかを夫とリュックを担いで歩き回った。
日曜画家協会は間もなく50周年を迎える。
記念事業として<関西の写生地>を発刊する事を皆で決めた。
そのプロジェクトの責任者を引き受けた夫。
まだ見知らない候補地を探し歩いて、純粋にスケッチを楽しむゆとりがない。
私は私で健康状態を過信し過ぎて歩きすぎた。
5月ごろからだったか、椅子から立ち上がると足の裏がしびれて痛くて歩行がしばらく困難になる。
でも歩いているうちに自覚しなくなる、の繰り返しだった。
今では歩くと左足裏のかかとが痛い。
それでも骨量も落ちていることだし、できるだけ歩くんだ、と思ってよく歩いた。
6月の終わり、痛む足をかばいつつ奈良の稲渕へ夫と棚田を描きに行った。
そこから程近い祝戸という大和平野を見下ろす山に一人で登った。
不気味なほど人っ子一人通らない山の展望台だった。
たまに通りかかる人がいると、こんなおばさんでもギクッとする。
描いたスケッチは1枚きり。
「もしもし、足が痛いし先に帰るからね」
どこかで棚田を描いている夫に電話して、ここから一人で帰ることにした。
私たちが携帯を使うのはこんな時くらいだ。
来るときはタクシーを使ったが、帰りはタクシーなんてこない山の中。
石舞台のほうに降りて、足をかばいつつ岡本のバス乗り場までテクテク歩いた。
それからほとんど引きこもっている。
なるべく歩かないようにという消極的治療法を守るしかない。
パソコンの前に座ってやる事は山ほどある。
<関西の写生地>の編集の仕事。
プロジェクトで決めた候補地別に会員からスケッチを提供してもらう仕事。
スケッチを府県別に整理し、写真やスキャナーで取りこみ、編集し、プリントし、
提供してもらった大切なスケッチを安全にお返しする仕事。
素人の日曜画家でしかできない仕事だと思う。
絵画技術はプロ顔負けの人から駆け出しの人まで200名の会員さんがいる。
できるだけ大勢のスケッチを載せたい。しかしできるだけレベルの高い作品をだしたい。
この矛盾にやりくりをつけて<関西の写生地>が姿をあらわすのはまだまだ先。
そして8月の日曜画家京都展がまた来る。
展覧会主催者としてのもろもろの事務的な仕事も待っている。
30号をを2枚描かなくてはならない。
イメージがまとまってこないまま描き出すので構図も色ももう一つで描き直しの連続。
こんなふうにして7月は過ぎていった。
( 2002/8月1日)
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8  友の死
その日、十数年ぶりの東京にいました。
前日、東京在住の友達から電話で、Eさんが危篤状態という知らせがありました。
白血球が減少していく病気でここ1年入退院を繰り返していました。
私の体調さえ良かったらとっくに見舞っていたはずの先輩でした。
私たちに会いたい、と彼女も言っていました。
清瀬という駅で降りて10分ほどタクシーで走る間、右も左も病院ばかりの町でした。
葉の落ちた雑木林に囲まれて、あっちにもこっちにも病む人たちが闘病する施設が見え隠れしていました。
「こんな静かな場所で入院ができてEさんは幸せね」同行した夫と話しました。
大阪市内を早朝5時台の電車に乗ったのに、その病院に着いたのはもう昼近くでした。
知らせを聞いて次々駆けつける友人たちのことを、もう判らないほど高い熱で苦しんでいました。
でも翌日の朝に見舞ったときは、まるで別人のように元気で、よくおしゃべりしてくれました。
赤ちゃんのようなふっくらした白いほっぺに触らせてくれました。
「髪の毛が乱れているでしょう。パーマかけなくちゃ」としきりに気にするのでコンパクトの鏡を近づけると
手にとってじっと見て満足そうに、にこっと笑いました。
いつもとろけそうに優しい笑顔の友でした。
帰る時、どうしてもさようならをいえなくて「食堂で食事をしてから又くるね」
と心ならずもウソを言うというと
「あたしもこの上にコートを引っ掛けてすぐに後を追っかけるから・・・」
元気なときの調子で本気らしくいうので面食らいました。

彼女と知り合ったあの頃、日本は大きく揺れ動いていました。私は20歳を過ぎたばかりでした。
九州で炭鉱労働者たちが大争議を闘っていました。
国会デモで警官隊と衝突した女子学生が死にました。
日米安保条約の締結をめぐって国会を取り巻くデモは日本中を揺るがしていました。
職場のある大阪の御堂筋でも、道幅一杯に手をつなぎ、フランス・デモでシュプレヒコールを繰り返しました。
所属する労働組合は右寄りで、このフランスデモの中に入るのはとんでもないことでした。
しかしいつの時代も誰によっても個人の思想や信条まで縛ることは出来ません。
歌声や、文学や、演劇などサークルが沢山生まれました。
若く未熟な頭脳で考え、苦しみながら、「60年安保」と後に呼ばれる歴史の真っ只中に生きていたのです。
それでも確かな明日への手掛かりのようなものを感じ取れる時代でした。
Eさんはこんな時代を共有した先輩でした。
いつも穏やかで、やさしい言葉で一本気な私を諭し、力になってくれました。

大阪に帰って間もない、満月の日、Eさんは逝きました。
<いたずらに延命措置はしない、遺体は献体する、葬式はしない>
クリスチャンのEさんは身近な友人にきっちりと死後のことも言い残していました。
私も1年程前電話で聞いていました。Eさんのそれぞれの人生にかかわった東京近辺に住む4人の友人たちがローテーションを組んで闘病する彼女を支えました。
大切な友達が一人いなくなりました。(2002年3月7日)
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 7 With・・・若き女性美術家の生涯」を観ました!
1月13日(日)ドーンセンターで上記映画の試写会がありました。
新年になって始めての映画鑑賞です。
私はテレヴは見逃したのですが娘たちは二人ともドキュメンタリー番組をすでに見ていたといいます。
若き美術家佐野由美さん、1975年神戸に生まれ、長田区で大震災に遭遇して命だけは助かるものの自宅は全壊。
避難所、仮設住宅、隣り合わせの人間の生と死。美術学生だった彼女の人生観を変える出来事だったに違いありません。
NGOからの派遣教師としてネパールで1年間、美術を教えるという選択もそんな彼女の日常から出てきたのではないでしょうか。
カースト制度の強い地区で、ただ生きるのが精一杯といった人々。その子供たち。
時には貧困や無知の厚い壁に、蟷螂の斧のような無力感を日記に書きなぐる彼女でした。輝く子供たちの顔。同じ顔がほんのわずかで別人のようにやつれているのをみて家庭訪問。
「明らかに彼女は病気ですよね」母親に詰めるよる由美さん。
「広場の清掃で1日50円を稼いで3人の子供を養っている。いったい私に何がしてやれるのか」
と逆に問い返される由美さん。
薬を何種類か買ってきて渡す由美さん。しかしこんな日常は其処此処に転がっているのを知っってしまう彼女。無力感はいっそう強くなるばかり。
それでも気を取り直し、遊び、教え、描き、たちまち土地の言語を覚え人々の信頼を勝ち取っていくのです。
その明るさ、エネルギッシュな活動の源はどこからくるのでしょうか。
1年の任期を終えて後、数日で日本に帰るという日、交通事故に遭って由美さんは突然帰らぬ人になってしまうのです。
命がキラキラ輝いていたようなあの人が、冷たいムクロになって横たわっています。
日本から駆けつけたご両親が対面するその映像も映し出されます。
こんなどんでん返しがあっていいものなんでしょうか。
映画の上映が終わって榛葉監督の講演がありました。そして、会場の片隅にいた由美さんのお母さんが壇上に上がって挨拶されました。
こんなすばらしい娘を育てた人。そして失ってしまった人をみたら涙があふれて止まらなかったのです。
気丈にもお母さんはりんとして涙を見せず落ち着いて挨拶をされました。
会場を埋めた500人の人人がほとんどが涙していたにもかかわらず。
短いけれど輝いて生きた佐野由美さんをたたえて会場の拍手は長く続きました。
以下はHPから抜粋しました。

★プロフィール★
PROFILE

●佐野 由美●
sano yumi/さの ゆみ
1975年11月29日、神戸市長田区生まれ。
1998年3月、大阪芸術大学美術学科首席で卒業。
同年4月〜翌年3月、NGOの長期先生派遣事業に参加。
1年間ネパール・パタンに滞在、ラリット福祉小学校で美術指導を行う。
滞在中、美術作家として精力的な創作活動に取り組む。
2001年4月、ギャラリーほりかわ(神戸)で
滞在中の作品を中心とした個展が開催された。
著書/「神戸・長田スケッチ 路地裏に綴る声」(六甲出版)
   「ネパール滞在日記・パタンの空より」(シーズ・プランニング)

●榛葉 健●(監督)
shiba takeshi/しば たけし
大阪・毎日放送のプロデューサー。
記者兼ドキュメンタリーディレクター。
1963年11月、東京生まれ。1987年、毎日放送入社。
報道局を中心に事件取材、自然紀行、
スポーツドキュメントと幅広い番組制作に従事。
プロデュース作品も多く手がけ、数多くの賞を受賞。
1995年以降は、阪神淡路大震災の検証ドキュメンタリーシリーズ、
世界最高峰チョモランマに関する番組の取材、制作の他、
悪徳商法等のドキュメントを制作。
長期、徹底した取材に定評があり高い評価を得ている。
「with…若き女性美術作家の生涯」は、海外でも絶賛され
中国やアジア各国でも放送された。
http://www.with-ambitious.com/
(2002年1月14日)    topへ戻る

6  初けんか
暮れの31日、紅白の裏番組で、一人の感動的な人間像を見ました。
アフガニスタンで献身的な医療活動に励む中村哲さんというお医者さんです。
聴診器をつるはしに持ち替えて井戸掘りまでやっている人です。
私は久しぶりに家族4人がそろった新年でした。
娘たちは新種の機能を持ったノートパソコンに買い換えるという話で夢中です。
マッキントッシュのことでもあり、病後のことでもありパソコンの話題から意識して遠ざかっていました。それにしても理解しがたい会話。
40万とか言っています。これは黙ってらんないぞと会話に口を出します。
「確かノートパソコンを買ってまだ2年ほどしか使っていないんじゃないの。何のために買い替えするの?」と私。
「授業の教材を作るために必要なんや」という。
「それなら必要経費として学校が買うのが当然じゃないの」
OLといわれる世界で大半の人生を送った私です。
かねてから娘を見ていると教員という職業が公私混同をしているように思えてなりません。自宅の高速印刷機で、真夜中まで教材のプリントつくりに熱中しています。
大方、用紙代も全部持ち出しでしょうが。
教材としての本代だけでももびっくりしているほどなのに・・
それを言うと
「数学の先生は何十年も変わらない公式を教えていればすむけど、世界史の教師は日々刻々と変わる世界情勢を勉強しなくちゃならないのよ。んでもって、生徒には最も早く理解しやすいように写真やイラストを入れて教えなくちゃ駄目なの」という。
「今使っているのは少し調子が悪くなってきたし、もっと性能のいいのが出たから買い換えたほうが得やねん」
「そんなら調子の悪い個所を修理したらいいんじゃない?」
「今はそんな時代じゃない。お母さんは時代に遅れている」という。
何十万円もした機械の調子が悪かったら、修理に出すという感覚は時代遅れか。
学校のために使うものなら学校経費で調達するのが当たり前ではないの。私がどこかおかしいか?
それでなくとも私生活時間のほとんどは学校の仕事のために使って、これでは結婚や子育てなど出来るわけがなかろう。
というところまで私の不満が行き着くものだからたいていは喧嘩になります。
私には非日常を生きている娘たちが別の星から来た妖怪のように思うときがあります。
新しい物をどんどん作って売りまくり、無駄なものを買わされ、地球を取り返しのつかない姿にしているのでは・・・
そんな人間の片棒を担いでいるのではないだろううか。と眠れない夜があります。
一方、アフガニスタンのように最低限の命さえ保証されない貧困にあえいでいる多数の人間が同じ地球に並存している現実。
「パソコンを1台、買い換えるお金で、アフガニスタンに井戸が何個掘れるやろねー」
「それはそれ、コレはコレ、支援活動は私もいろいろやってるやないの」
痛いところを突かれると思わずヒステリックな声を出す彼女。
彼女がこのドキュメンタリー番組をみようと提案し、昨夜いっしょに深い感動の時間を過ごしたのでしたが・・・
人間は命にかかわる危機感にさらされなければ生物としての本来の生き方を忘れてしまうものでしょうか。(2002年1月7日)
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5  只今入院中です
風邪がなかなか治らないのと、ひどく疲れやすいのは私の甘えのせいかと、気力を奮い立たせてきたような気もしますが、どうやらそればかりではなかったようで、しばらく入院する羽目になってしまいました。
入院といえばちょうど20年前、卓球中に右アキレス腱断絶で入院したきりでどんな生活が待っているか少し緊張しています。
私のホームページを見てメールを下さる皆さん、お返事を出せないで、失礼をいたしますが、あしからずお許しください。
早く元気になって入院顛末記をパソコンで公開したいと思います。その日までごきげんよう。
(2001年11月17日) 

4  再びパソコン騒動と絵と風邪と
夜中に鼻から呼吸をするのが苦しくなってつばを飲み込む。
するとのどの奥にかすかな痛みと不安の兆候が。翌朝起きてみるとのどが赤くはれています。
うがいをしてもこうなったら私は遅いのです。最近、季節の変わり目に不意打ちのように風邪を引きます。
<ファイルシステムを最適化する>という作業を定期的に行わないといけない、と聞いたのは9月、ちょうどパソコンを立ち上げて1年が経っていました。
早速ドライブCを右クリックして、プロパテイ、ツール、最適化する、詳細を表示と進みました。グラフ用紙みたいな画面が出て延々と続きます。
2時間半ほどたった頃、画面がフリーズしているのに気が付きました。 
強制終了しかありません。再び立ち上げて続きが終わったのがまた2時間ほどたっていました。
しかし最適化したはずのパソコンがこの日を境に、たびたび動かなくなりました。
スタート、プログラム、スタートアップ、中のものを捨てて軽くする、という作業もやってみましたがどういうわけかスタート画面までおかしくなって、最大化ボタンを押さないとインターネットが開かないのです。
最適化したはずの、私のパソコンは最悪化してしまったようです。
この上は再セットアップしかない、と皆さんが言います。仕方がない、やろう、度胸を決めました。
まずマニュアル本を開き大事なものの、バックアップを取ることから開始しました。
CD-RWと念のためにMOにもコピーを取りました。
それから周辺機器を全部はずします。
プリンター、スキャナー、MOドライブ、USBハブ、スマート・メディア、絵描きタブレット。
最難関はターミナル・アダプターです。デスクトップにねじ込み式になっているのを知らずに私の非力で取れないと思い、汗だくで引っ張りました。ネジ込みを引っ張っているなんて漫画です。この7つで私の周辺機器は全てです。
1年前の悪夢がよみがえり祈るような気持ちでした。
もろもろのしがらみを切ってすっぴんになったパソコンと向き合い、マニュアル通り無事に再セットアップのインストールを完了したのでしたが。去年買ったばかりのまっさらのパソコンになったのです。
バックアップしておいた、マイ・ドキュメントの中身を移していきます。
別のドライブに移したお気に入りは無事でしたが、メール・アドレスはすっかり失われていました。その後が問題でした。フレッツISDN、プロバイダーに繋がりません。
プリンター、スキャナー、ターミナル・アダプター、がインストールの手順で動かないのです。あの小さなスマートメディアまで反乱を起こして、コントロールパネルのデバイス・マネージャーの中で、マークやマークを黄色に光らせている始末です。
一度電話で次女に助けを求めましたが「お母さんならやれるよ」と冷たくあしらわれてしまいました。
こんなときは出張お助けマンみたいな人が、来てくれたらどんなにか助かるでしょう。
器機メーカーやプロバイダーへの電話は、半日かけつづけていても通じないことがあります。
それでも、何とか1週間かかって私の再セットアップ騒動記は終わりました。
もうこりごり、死んでもやりたくない、という思いと、今もう一度やればもっと上手くやれるだろう、という気持ちが交錯しています。新しいことを覚えるのはいつでも気持ちがいいものです。
しかし本当はこんなことで貴重な時間を費やしていられなかったのです。
秋の展覧会の絵を描かなくては。 
散々酷使した左脳から右脳に切り替えて、イメージをつくり50号の油絵に取り掛かりました。搬入までに油絵の具が乾くだろうか、10月半ばに何とか完成しましたが不満が残ります。もっと直したいところがあります。もう一枚描きたいのです。でも私の体力の限界はここまででした。
ちょっとした風邪、と最初は思っていました。すぐ直ると。今の私には休養と栄養だけは十分に保証されているからとタカをくくったのは間違いでした。だらだらと熱っぽさとだるさを引きずって一ヶ月。
後半めずらしく食欲まで無くして、3日間も点滴のお世話になりました。
今日はやっとパソコンの前に座るゆとりが出てきました。
お酒を飲まないのにγGTPの数値が高く、精密検査でもどこに原因があるのかわからないまま、20年間が過ぎました。自己免疫が自己を攻撃しているらしいのです。
こんな体質が風邪を長引かせるのだと思います。
それにしても落ち込んでいた私にも昨日うれしい知らせがありました。展覧会の絵が入賞したというのです。入選も覚束ないつもりでおりました。
ウッソー思わず叫びました。これで長い風邪とも縁を切りたいものです。  
(01/11/10)
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3、ずり落ちズボンの少年たちへ!おせっかいおばさんからの苦言
 今年の夏は格別に暑かったようです。もっとも毎年そんなことを言っているような気もしますから、年をとるごとに暑さ寒さが応えてくるのかもしれません。
 それでも8月の後半からめっきり秋らしくなってくれたのにはホッとしました。
 9月になっても8月から続く熱帯夜を更新している年もよくあることですから。
 所属する絵の団体、日曜画家協会の展覧会はいつもこの季節にあります。
 京都まで「見に来て」、と友人知人に、はがきを出すのもためらわれる例年の暑さですが、今年は期間中、心地よい気候に恵まれました。
 私も京都まで2度足を運びました。その後も友人たちの展覧会を見るため、久しぶりに外出する機会が増えました。
 そして新学期の若者たちの異様なファッションを目にして驚きました。
 二学期が始まって、連れ立って登下校する男子高校生たちのズボンのことです。
 ベルトは脚の付け根の辺りまで下げて、股上の位置は膝の辺りに来ています。
 当然、だぶ付いた股下の布は、靴と地面の辺りでとぐろを巻いています。オムツを当てて歩いているようです。
 乗換駅で見る殆どのグループがみんなそんな格好をしているのす。
 もちろん特定の学校だけの流行ではなく、それぞれ制服の違う少年たちの集団が、です。
 そのだらしなさ、みっともなさ、滑稽さ。
 そうでなくとも十分に短足の民族である日本人の少年たちが、何を血迷ってそんな格好をしだしたのか、
 まじめに聞いてみたいと思いました。でも彼らは問い掛けても答える言葉をもっていないでしょう。
 人がやっているから、合わせているだけ、自分も仲間に入らないと仲間はずれになる。おおかたそんなところでしょう。
 より短足に見せようと思ってポリシーをもってやっているわけではないでしょう。
 ちょうど脚をより太く見せる女子高校生たちの、ズルッとしたあの、ぶ厚いハイ・ソックスの流行のような感じがします。
 あの靴下も一時の流行で、直ぐ廃れると思っていたのですが、意外と息が長く、まだ続いているようです。
 男子高校生の、ズリ下げズボンもこれから何年も見なくてはならないのでしょうか。
人がしていることを、無批判に受け入れる。勢いの強そうなものに直ぐなびく。同調しないものを仲間からはずしていく。
 彼らが今考えていることは、現在自分を取り巻く友達関係だけ。その狭い世界の中で仲間はずれになることを極端に恐れている。
 これでは個性なんて育ちようがないではありませんか。
 ズリ下げズボンの隣に座りました。見ると顔がなんだか変です。眉毛を細くし、抜いてわざと薄くしています。
 気の抜けた夜明けの街灯のような顔をしているのに、自分で気がつかないとでもいうのでしょうか。この年代は、眉も髪も新緑が萌え出すように勢いがあるはずの年頃です。
 チェコの列車のコンパートメントで出合った、高校生たちの考え深い瞳を思い出していました。日本のイメージを聞くと、ヒロシマ、ナガサキと即座に答えてくれたあの少年たち。
 きちんと身に付けた制服の白さがすがすがしかった。
 私はテレビのワイドショウなるものを見ませんが、洗脳され、誘導され、首相まで人気スターのようにつくりあげる恐ろしさと、日本の少年たちが無縁でいられないということは分かります。
自分の信念をたやすくころっと変える。強いものに簡単になびく。勢いのありそうなものに擦り寄っていく。官僚の地位を利用して何億もの公金を騙し取る。過去に犯した都合の悪いことに目をつぶってしまう。
そんな節操も品性もない大人がニュースにならない日がない今の日本です。
当然、しなやかな世代が影響を受けるなという方が無理です。
でも世界は広い。地球は日本人だけの住家ではない。人間は君の周りの友達だけではない。
眉を抜いている暇があったら、一ページでも、いい本を読もうよ。いい本は君に考える力をつけてくれるはずです。
青春期に与えられた考える力は、生涯、君の強い味方になってくれるはず。
ほんと日本人はこのままでは世界中から置いてきぼりですよ。(2001/9/3日)
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  2. ケータイ幻想
 ふと見ると、目の前に座った男性が2人、携帯電話でメール交換に夢中です。
 大きな荷物を両手に下げた70代の女性が乗車してきました。
 たぶんつめてくれるだろう、と思ったらしく、老婦人はおにーさんたちの前に立ちました。
 ケータイのおにーさんたちはそれぞれ2人分の座席を占領して座っていたのです。
 左側の男性は気配を感じたらしくわずかに体をずらしました。でも、きちんと座りなおしたのではなく、左右は開いたままです。
 しかし右に座った男性は気づいているのかいないのか、掌の中のケイタイと向き合ってみじろぎもしません。
 メールの向こうの世界としか交流しないバリアに包まれているようです。
 何だか不気味です。だってその男性は何処にでもいる、ちょっと感じのいい部類に入る若者です。2人のうちどちらかが体をずらしたら、疲れて荷物を持って立っている老婦人が、座れるに十分なのです。
 「わしは電車の座席は必ず2人分占領する」といったガンコな信念を持っているタイプでもなさそうです。10年ほど前まで、そんなタイプの人たちが、よく寝たフリをして腕組みをしていたものです。  バブルに踊り狂っていた壮年の姿がおもに浮かんできます。でも寝たフリをするのは、立っている相手を意識して、かすかに良心の痛みを感じていただけましだったのかもしれません。
 今の彼らは、異星人のように全く周りを意識してないみたいです。
 同じ電車に乗り合わせた<人間> の方には関心を向けずに、ひたすら親指を動かし続ける人は不気味です。
 カシャカシャと周囲にノイズを撒き散らしていた、ヘッドホーン、イヤホーン族が忽然と消えたと思ったら次は・・・「もしもしー」突然場違いな、音楽と一緒に大音声が車内に響き渡った、ケイタイ前世代。そして今、掌にかくれる小さな物体をつかんで、親指の速さを競っている後期ケイタイ世代。
 これだってわずかまたたきのの間でしょう。次の金儲け戦略にやすやすと取り替えられるに決まっています。
 <便利なもの><速いもの><流行っているもの>にしか価値を見出せず、息を切らして追っかけている人間たち。儲かりさえすれば、死の商人もいとわない政治家や企業家に踊らされて。
 このめまぐるしい変化についていけないものは、勝手に野垂れ死ねといわんばかりのスピードです。地球の上にどこまでゴミを積み上げたら満足するのでしょうか。
もっとゆったりと流れていた時間を知っている世代は、今や怖れさえ感じています。
大きな荷物を持った女性はターミナル駅で私が降りるまで、ずっと出入り口の近くで立っていました。
 1.   絵の好きな私
 私の中に絵画が大切な場所を占めるようになった日。
 それは、月光荘とソ連領事館、大使館が共催した「現代ソヴィエト絵画展」を観たことだったように思います。1973年でした。
 御堂筋線の吊り広告のポスターで知って、会社の昼休みにすっ飛んでいったのを覚えています。
 ほとんどの絵が、リアリズム絵画でしたが、その中の一枚の絵の前で、何故だか涙が出て止まらなくなりました。
 あの時の図録を見返しても、その一枚がどの絵だったか、今では思い出せません。
 多分、観ていった一枚一枚の絵の感動が、あの絵の前で堰を切って溢れたのかもしれません。
 乾ききっていた心と体に、良質の水が注ぎこまれたような経験でした。その感動が恥ずかしいほど眼から溢れ出てとまらないのです。
 共稼ぎ、子育て、仕事上でも、私生活でも覆いかぶさる、その他もろもろの雑事。若さだけが頼りだったあのころ、心の中はかさかさに乾いていたに違いありません。
 そのときから自分でも描いてみたい、と強く思うようになりました。カルチャーセンターに通い、当時、好きな絵を描く絵描きにつき、4年ほどそんなことをしていました。
 それからは、私以上に絵が好きだと分かった夫と、自由に、気ままに描いていました。
でも夫は、私の絵の欠点をあげつらうだけだったから、嫌気がさしていたのです。

 十年ほど前、新聞の紹介記事を見て、始めて<日曜画家協会>なるものに参加しました。それ以来、先生と呼ぶ人がいない、日曜スケッチ会の気楽さに引かれて、絵を描く楽しさを知りました。
 合評会と呼んでいる、スケッチ会の後の批評会で、先輩たちから自分の絵を評価してもらった嬉しさ。「えっ、私の絵でもいいところがあったんだ」
 何からも自由に、とらわれない自分らしい絵が描きたいと思っています。
 レーピンの揺るがないリアリズム、ロマジンの柔らかな空気、ゴッホの重厚な絵の具、マチスやディフイーの明るさ、ロートレックやモネ・・・・
 「みんな違ってみんな好き」なんです。(2000年9月)
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