山鹿の歴史

八千代座の調査報告書

昭和50年の調査報告書から


               

1.外観

 八千代座の外観を最も特徴づけているのは、正面に櫓(やぐら)を備えて白漆喰で塗込められた破風を持ち、平瓦を張付けな腰高の箱棟をのせた、巨大な切妻の瓦屋根と、ほとんど対称的に構成された重厚な正面の造形に集約されよう。それをさらに強調するように、大屋根と直角方向に配置された正面2層の入母屋屋根と、その左右両端から前面に突出した2階喫煙室(大正期消防法により増築)の入母屋部分は、建物に一層の落着いた風格と安定感をもたらしている。この2階喫煙室部分は大正期の増築とされているが、これがなかった当初の外観は、前にも述べた通り、熊本の大和座正面に非常に共通した点が多い。僅かに相違するのは、大和座の3層に対して八千代座は2層である点ぐらいではなかろうか。全体的なプロポーションもよく似通っている。設計者が大和座を特に参考にしたということも、充分に理解できる。

 なお、大屋根の箱棟部分には、平瓦4枚おきに、以前は換気口であったと思われる痕跡が殊っている。現在では外側をトタン板でつぶしてあるが、かつては箱棟が換気用モニターの機能を来していたものであろう。特異な方法ではある。

 また2階正面の映写室は、戦後の増設かと思われるが、仮設的な仕上、外観であって、正面の古典的な造形をおおいに損なっている。

 正面1階出入口は、直接外部に面した吹放ちの板床となっているが、上部に6枚の絵看板が掲げられ、華やいだ雰囲気をつくる。正面扉一枚に、2ケ所の切符売窓口があけられて、その右が鬼木戸、左が出口となる。

 その他一般の仕上としては、真壁白漆喰に腰は押縁下見、開口部は板戸あるいは格子となっていて、古風な趣を残している。これが一見地味では あるものの、一面では飾り気のない簡素な和風建築として、地方劇場の健康的な好ましさを見る人に訴えかけるのであろう。


2.客席廻り

(1)公共部分

 明治期以前の劇場は、場杓に現在見られるような観客用の公共部分がなく、客は小屋周辺の芝居茶屋の施設に依存していたと考えられている。

 明治期に入って、同5年守田座に便所、11年に庭園が設けられるようになり、明治22年新築の東京歌舞伎座において、遊歩廓、休憩室、売店等が次第に整えられ、44年の帝国劇場においてそれらの施設が一段と完備されるに至った。八千代座の建設も同時期であるため、売店(飲食物提供)、便所、歩廓、庭園等に相当のスペースを割いている。

 ア.玄関広間

 ほぼ中央の表側扉に切符売場窓口があり、木製で可動の切符売ブースが置かれている。広間両側には2階桟敷(さじき)への階段、さらにその奥両側に別棟売店が続く。東側階段下は床面より一段上って、畳敷の茶子溜りとなる。広間正面の客席との仕切は、前面にラ漆喰の舞良戸が立てられている。

 イ.売店、便所、庭園

 広間左右より続く別棟の売店は、ほぼ対称形をなして庭風に突き出している。現在まで貸屋その他種々の目的に使われてきたため、模様替が甚だしい。

 観客用便所も東、西南側に別棟として張り出し、売店と共に庭園を取り囲んでいる。両方の便所はそれぞれ、男女別に分けられてはいるが、内部は全く同様な形式であって、男、女に分けた意味をなしていない。おそらく取締規制に対する便宜上の措置ではないかと思われる。低い中仕切で向合う男用小便器の配置は、いかにも地方の小屋らしく面白い。

 売店と便所に囲まれた東、西の両庭園は、それぞれ植樹され、池が掘られているが、東側庭倒、つまり舞台上手の方がはるかに本格的である。以前は庭をはさんで、劇場事務析等(現在貸家)があったためではないかと想像される。それぞれの庭園に面した客席両側の歩廓は、現在では腰壁が施され、上部のみ雨戸による開口部となっているが、以前は腰がなく、床は直接雨戸が立てられ、縁側として庭に連続していたらしい。

 ウ.2階喫煙室

 表側入口両脇にある下足預りの真上に設置され、2階正面壁面線から突出しているが、大正期に増築したものと云われる。前面はそれぞれ堅(たて)格子になっていて、建物正面を造形的にも引きしめ、より一層安定感を強める効果を.持つ。増築の理由は不明であるが、あるいは取締規則施行に伴って設けられたのかも知れない。

(2)客席

 ア.平土間

平面は弊10.359mX横9.190mの前下りの勾配床(2段勾配)で、すべて畳敷の桝席となっている。現在、竪仕切として3本の歩み板と1本の仕切棒により、4.5コマに分割され、それと交叉して8本の横仕切が組み込まれている。さらに竪仕切4コマ分の中間のそれぞれに、もう1本づつ竪仕切が架けられるように横什切に掘り込が見られるから、1桝の大きさは約950mmX約1,070mm程度になる。この一横仕切の前後に、番号札が1桝当り2枚づつ張り付けてあるから、1桝4人語と見られ、このことから4人×81桝=324名が平土間の定員である。なお、平土間下の地盤も土を掘り出して勾配がつけられている。平土間床面最高部は仮花道と同じレベルとなり、玄関広間レベルより約150mm高い。

イ.下桟敷、追込場

 平土間両側の観客席(下桟敷)は、ほぼ左右対称で、それぞれ3段に分かれ、前2段の 高土間部分と最上段の下桟敷(ウズラ)との間に、障子が立てられて仕切ることになっているが、現在は建具は残っていない。ウズラと外側歩廓との間は舞良戸で仕切られている。東側上手高土間2段分の大半には、半間毎に仕切棒の掘込みが見られ、約1,350mm大約950mmの枡席となっているが、後方高土間で表よりの柱3間分は、2桝分相当の1間毎の仕切しか見当たらない。また西側高土間には枡席の仕切がなく、表寄りの柱2間分のみが一段と高くなり、他から仕切られている。この部分の隅は、以前、巡査の臨検席が設けられていたと言われている。

 追込場は平土間後方正面と東下桟敷後方の隅角部に設けられ、他の部分より一段と高くなっている。

 なお、東、西、正面の桟敷には、2階桟敷を支える鋼管く¢約80mm)支柱が2本づつ、計6本が独力こ柱として立てられている。

 ウ 上桟敷

 2階桟敷のうち、東西の上桟敷は2段になっているが、東上桟敷のみは桝席となり、半 間おきに仕切棒を落し込むための掘り込みが残っている。桝の大きさは約900mmX約1,300mmである。舞台正面の向う桟敷は、前船、中船、跡(後)船の3段に分かれ、跡船へは2階歩廓よりさらに小階段で上ることになる。現在では跡船のみに、臨時の椅子席を.設けてあるほか、すべて客席は畳敷である。向う桟敷中央には、後年の改築によって設けられたモルタル塗の映写室が配置されているが、造形的には全く不似合で好ましくない。前船東側の隅からは、天井裏へ上って外部正面の櫓(やぐら)へ抜ける、簡単な通路が設けられていた。

 2階桟敷(さじき)の張出部前面3方には、朱漆塗の手摺勾欄がめぐらされ、その直後の桟敷との間には、もう一重の低い仕切手摺がある。東西上桟敷の背後は歩廓となり、その間の仕切は舞良戸が立てられていたらしいが、現在では取除かれている。また東、西上桟敷前面上部は天井から垂れ壁が下っているが、それぞれ7コマに分割され、平土間上部前面の格天井や、舞台前面のプロセニアム上部垂れ壁と同様、格子組の間には広告パネルがはめ込まれ、一枚一枚が丹念に彩色されて、客席全体の雰囲気を華やいだものに盛り上げている点、非常に効果的である。中央の劇場には見られない特異な様相を呈しているのが、八千代座の特色のひとつであろう。


3.舞台廻り

(1)舞台各部

 ア.本舞台・側舞台等

 舞台全体としては間口30.580mx奥行10.502mであるが、この中で本舞台部分は間口17.211mx奥行10.502mとなる。大臣通り間口は10.538m、プロセニアムの高さは4.256mである。舞台床前前には厚30mmの桧板が張られている。

 本舞台中央には直径8.426m、人力操作、下廻しの廻り舞台が設置され、さらにその中に、人力操作で1.485mXO.600mの迫(せ)りが1ケ所、その他切穴や定式穴が数ケ所設けられている。廻り舞台寸法としては、比較的小さい。

 大臣柱は普通の柱とほぼ同様なものを用い、その外側を板囲いによって取り囲み、大きな寸法に見せかけているが、材料は粗末である。上手大臣柱の外側には2層の義床が置かれ、2階は畳敷となっている。下手反対側には、ほぼ対称的にお+子が配置されているが、内部には配電盤の設備が設けられ電気配線が集中していて、実際どの程度のお+子の機能を持っていたか不明である。

 側舞台下手は小道具置場、控室(中央に囲炉裏)のほか、網元、馬立が配置され、同じく上手には馬立と大道具置場が設けられている。

 なお舞台背面は直接楽屋廊下に接していて、その一部から奈落(ならく)へ通じる石段が.設けられる。

 イ.花道、鳥屋(とや)

 花道は両花道形式であるが、本花道の方は幅1.304m、長さ13.396mで、舞台より3:7の位置に人力操作のスッポン(1.184mXO.704m)が設けられている。廻り舞台下の奈落より花道下の通路を経て、鳥屋へ階段で連絡する。鳥屋と花道との出入り口には、掲幕の設備は残っていない。

 

ウ.葡萄(ぶどう)棚

 舞台床面より高さ6.55mの位置で、太さ60〜90mm、間隔300〜400mmの丸竹で格子に組まれた葡萄棚が、トラス陸梁上面に載せられている。そこへの昇降には舛台上手後方の梯子を使用し、葡萄棚とトラス繋ぎ梁には、20数個の滑車が配列されて吊物を支えている。

 エ.奈落(ならく)

 廻り舞台下一本花道下一鳥屋を連絡するもので、約1.2mの探さに地盤を掘り下げ、周囲を4段の間知右で積み上げている。床は廻り舞台下の一部を除くほか、すべて土間のままであって、花道下通路部分は板張すのこ敷になっている。

 廻り舞台下は舞台に合わせて円形平面となり、その中央には廻り舞台支柱を支える十字型平面のコンクリート基礎が設けられ、周囲には廻り舞台ローラーを受けるレールをのせるための台木が廻らされ、それを支える支柱が円周に沿って立ち並んでいて、菱組のつなぎ材が取り囲む。廻り舞台の盆下部には、舞台を廻すための押し棒が3ケ所に取り付けられ、残る1ケ所の位置に迫りを操作する枠組が設けられている。舞台支柱を中心として、押棒および迫りが旋回移動する部分の床面のみが、円周状にコンクリート叩きとなる。

 廻り舞台の構造は、十字型コンクリート基健の上に軸受が取付けられ、その上に短い支柱がのる。支柱はさらに1本の大梁をテンビン状に支え、大梁と直角方向に教本の小梁が架けられ、その小梁が盆および周囲の枠を支えている。円周状の枠には等間隔で23ケ所のローラーが取り付けられ、奈落周囲こ廻らされた台木上のレールにのせられて、重量を分散させているわけである。

 また花道下通路には、スッポンを人力で上下させる枠組がほどこされているが、迫りとスッポンを上下させる機構はほとんど同様である。

(2)楽屋

 舞台裏には2層の楽屋がある。1階は大部屋(13畳)1、小部屋(4・5畳、西端は小道具部屋、末端は床山)7、計8室の畳敷の楽屋と、東、西2ケ所の便所からなり、以前は東側便所の先に浴室があったそうであるが、現在は撤去されている。この浴室前から渡り郎下を経て、事務所や賄いと連絡していたらしいが、事務所等の別棟部分は現在貸家に模様替されている。

 2階楽屋は畳敷6畳で廊下沿いに9室が並ぶ。以前は、西端が座長室、東端が副座長室であったと云われている。


4.調査結果要約

 かつては民衆娯楽の代表的存在であった芝居小屋が、時代の変遷と共に消滅したり、模様替によって以前の面影すらとどめていない今日、現存する貴重な遺構は全国的にも極めて僅かである。琴平の金丸座(天保6年)がその中で最も古いと考えられているが、これについで、現在、犬山の明治村に移築された呉服座(明治初年)を除くと、地方の芝店小屋としてほとんど建設当時の状態を残している明治の劇場は、当山鹿の八千代座が挙げられる位であろう。同じく飯塚の嘉穂劇場(昭和6年)は、桝席を残して興行が続けられ ている珍らしい例であるが、時代的にはかなり新しくなる。また呉服座の場合は、一時映画館に使われたため平土間が椅子席となっており、現在まで復原されていない。

 このような点から比較した場合、稀少価値として八千代座の占める位置は、全国的にも非常に高いものと見られよう。これは何といっても、八千代座の持つ最も顕著な基本的特色をなすものであり、同時に地方における芝居小屋の典型的造形を充分に具備している点で、他に劣らない秀れた建築といっても過言ではない。そのおもな特徴を示せば、次の諸点に要約される。

・近世の伝統的劇場に直接つながる古典的様式と、簡素で重厚な造形

・桝席で構成される平土間および桟敷

・客席格天井の広告板による色杉的効果

・伝統的な舞台機構

・客席廻りの余裕ある空間配置

 以上のほか、八千代座を取り巻く環境全体の持つ景観的寡囲気、つまり伝統的な町屋のつらなる家並の中で、古い芝居小屋が一体的に存在するという意義が有するメリットは、温泉を抱えた観光都市としての山鹿市にとって、他に代え難い有利な都市条件であろう。

 少くとも現在では眠っているような、これらの都市資源の持つ潜在エネルギーを、都市発展の上で如何に活用するか、建築と町並の保存にかかわる問題として、今後の検討に*たねばならない。

(資料)

・明治43年2月起 書類綴 劇場建設組合

・八千代座組合決算報告書(明治44年〜昭和47年)

                       熊本大学工学部建築学教室

                     福原昌明研究室 調査報告書抜粋

  + と * 修正必要です。


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