西南の役と山鹿
西南の役と山鹿
●山鹿と西南の役
西郷隆盛率いる薩軍と、それを鎮圧するために南下してきた官軍が戦った日本史上
最後の内乱、西南の役は1877(明治10)年2月19日、熊本城の炎上を横にその火蓋が
切られました。
山鹿は、もともと、交通の要衝で、岩野川に沿う街道(山鹿街道)が、北は、福岡、
南は熊本に通じています。そのため、西へは、菊池川沿いの街道が南関に通じ、南関
から北は久留米へ、南は瀬高に通じています。
そのため、薩軍は、熊本城を落とし久留米にでるため、熊本から植木にで、北上して
山鹿通り、西に進んで南関から久留米に至るか、植木から田原坂に向かい、菊池川を
渡り西に向かい高瀬にで北上して南関を通り久留米にでるかの何れかの方法がありまし
た。山鹿方面での戦闘も田原坂と同様に最前線に位置しておりし烈な戦闘がおこなわれ
ました。
●山鹿口における24日間の攻防
西南の役の主な戦場としては田原坂が有名ですが、その田原坂の戦闘と並行して山鹿
でも2月26日から3月21日までの24日間、薩・官両軍の激しい攻防が繰り広げられていた
ことはあまり知られていません。
しかし、南下してきた官軍が田原坂に次ぐぐ第二のルートとして山鹿から熊本にぬけ
る豊前街道を選んだことは当然であり、そこで行なわれた戦闘が激しさの極みであった
ことは容易に想像できます。
陸軍少将三浦悟楼率いる官軍と勇将桐野利秋を擁す薩軍、熊本協同隊の平川惟一らが
鍋田で初めて衝突した2月26日が山鹿口の戦いの幕開けでした。
●田原坂大敗は「誤報」
26日早朝、官軍はその軍勢を本・支隊二つに分け、陣をしいていた鍋田車坂から攻撃
を開始。第一次戦は薩軍、熊本協同隊の圧勝に終わりました。
3月3日、薩軍は第一次戦の大勝を足掛かりとして南関進出を図り、官軍が堅守してい
た車坂を突破し、長野原、腹切坂を征服。
さらに、夕刻には下岩、中老、下津田に進み、長い戦いの未これを破り、坂楠、十丁
まで進出します。しかし、翌3月4日、これまで優位に戦闘を進めてきた薩軍に不運な出
来事が立こります。田原坂方面に行った偵察隊が長野原の薩軍本営に帰ってくるなり
「田原坂大敗」と告げたのです。あわてた薩軍はただちに全軍を撤退させて山鹿に戻り
ます。
かたや官軍は事情を飲み込めないままそれを追撃。盛り返して形勢を一気に逆転させ
ます。山鹿に戻った薩軍を待っていたのは「田原坂大敗は誤報」という信しられない
知らせでした。騎馬で伝令を送っていたことがこの誤報に関係するのかどうかはわかり
ませんが、いずれにせよこのために薩軍の南関占領は失敗、その後の戦局に大きな影響
を与えました。
兵力を増強した官軍の山鹿方面軍は本部を岩村の光行寺に置き、3月12日、山鹿進撃
を開始します。その時すでに両軍の兵力は逆転し、官軍3900に対し、確軍は田原坂に
援軍を向けたために2500に減少。官軍の山鹿突破は時間の問題と誰もが思いました。
しかし、薩軍の反撃はすさまじく、官軍本隊も容易には落とせません。官軍は平山
から兵をおこして、城、城原方面、さらに一部は津留正円寺の陣を占拠し、鍋田東に
まで進出。しかし、本隊の攻撃がはかばかしくないことを知るや、兵を平山に引き上げ
させ、この日の作戦を反省し、次の戦闘の準備を整えていたのです。
●山鹿口最後の激戦
3月15日未明、鍋田の西に本隊を構える官軍は、鍋田東の丘陵に陣を張る薩軍に総攻撃
をしかけます。これに対し薩軍も抜刀隊を組織して官軍にくらいつき、その陣地を奪回
するといつたような一進一退の激しい攻防が繰り返されました。
この日の戦闘は壮絶を極め、官・藩両軍だけの被害でほ収まらず、被らの放った砲弾
や銃弾が古墳や墓石を削リ、放った火がたくさんの民家を燃やしてしまいました。その
時に削られた砲弾跡が、今も錬肥隊奮戦の地として東鍋田の丘陵南部の墓地に残されて
おり、この戦闘の激しさを物語っています。
3月20日、降りしきる雨の中、ついに西南の役最大の戦地、田原坂が官軍の手に落ち
ました。それを受けて山鹿を死守していた薩軍も、熊本に侵攻しようとする官軍を食い
止めるために撒退を始めます。山鹿の官軍は菊池川を渡り、岩倉、小原へと進み、薩軍
を破って山鹿に進出しました。ここに山鹿口の戦闘に終止符が打たれます。
山鹿は政府の統治するところとなり、後には24日間の激しい戦闘の生々しい傷跡だけ
が残って、山鹿の人々はその復興に努めなければなりませんでした。
●1カ月だけの民権政冶
西南の役が始まる前より、山鹿の地では、「戸長征伐」の問題がとりだたされていま
した。この時期の戸長は明治政府により徴税官的な役割を担わされており、民集の不満
がかさなり。この戸長を民選によることをもとめて、明治10年1月28日、山鹿の光専寺
にて、一万以上の人民大集会というものも開かれました。
このような雰囲気の中、ちょうど薩軍の進行とともに、一種の無政府状態が生れ、「
民権」政治が行われることになりました。
当初は、薩軍と熊本協同隊が山鹿を無血占拠した当初、戦いを恐れた住民の大部分が
近郊の村に疎開しました。しかし、慣れるにつれ豪に帰ってくるものが多くなり、薩軍
に協力する傾向も出てきました。
それは、協同隊が理想とする民主主義政治(ルソーの民約論の影響によるところが大
です)の形態を山鹿の統治に取り入れたためで、薩軍が山鹿を退去するまでのわずか
lカ月の間でしたが、山鹿では日本初の民権政治が行なわれまた。
協同隊は地元出身の野満長大郎(宮崎八郎の植木学校への参加者でもある)を民政官
に選び、自由民権とは何だということを山鹿の人々に説かせ、普通選挙法による人民
総代を選出させました。選ばれた総代たちは食料の購入、人夫の撤廃、野戦病院の選定
などを合議で決め、大きな成果を上げました。
戦闘が激しくなり、田原坂が官軍に落ちて山鹿から薩軍が撤退すると同時に官軍が
山鹿を占領し、その短かかった民権政治も終結しました。
追加参照 司馬遼太郎 翔ぶが如く