●歴史文献にみる「山鹿」のルーツ
「山鹿」の地名は250年ほどきかのぼった奈良時代の文献に出ています。奈良時代
和鋼6年(713)に書かれたと推定される「釈日本記」に「肥後国山鹿郡荒爪山」という
記述述が見られ、西暦720年頃の平地京跡で発見された木簡にも「山鹿郡」として登場
しています。
●歴史文献にみる「山鹿温泉」の登場
平安時代の承平4年(934)に書かれた「和名抄(わみょうしゅう)」の中にも肥後の
国山鹿郡の「湯泉郷」として出ています。山鹿はすでに奈良時代には肥後城北部の郡で
中心的な役割を果たしており、平安時代になると中央の人たちにまで温泉場として、知
られていたことが分かります。
●宇野親冶公
保元の乱に敗れて下ってきた宇野親治が保元2年(l157)、「山中で鹿が湯浴みして
いる」のを見て温泉を発見し、菊池六代九郎隆直公ヘ願い出て湯主となり繁昌しまし
た。
●たっぷりの湯量を誇る山鹿温泉
ヨヘホ節(一75P)のなかで、「山鹿千軒たらいなし・‥」と唄われています。巨昔
は温泉で洗濯もしていたほど温泉の湯量が豊富で、たらいが要らなかったことに由来
しています。
●一度は枯れてしまった温泉
文明5年(1473)3月、山鹿の宝である温泉が突然枯れてしまったことがあります。
その時、金剛乗寺の住職、宥明法印が薬師堂を建て、温泉復活の祈願を行なった
ところ、同年12月20日の夜中、再び以前にも勝るお湯がこんこんと湧き出てきました。
以来、宥明法印は温泉復活の大恩人として敬われ、逼泉の再湧した12月20日を湯祭りと
して法印の功を讃えてきました。現在この日は、温泉復活感謝祭として祈とうが行われ
ています。また、湯祭りは「温泉祭」として4月の桜の時期に行われるようになり
ました。
山鹿温泉の移り変わり
●豊前街道第一の宿場町・山鹿
山鹿は古くから交通要衡の地として栄えてきましたが、中世の菊池氏や宇野親治の
子孫とされる隈部氏(菊池氏の旧家臣)によって温泉地の拡大や浴場の増設が進め
られたため、湯の町として、また市場集落として機能し始めました。さらに江戸
時代に入ると藩主細川公の加護により、豊前街道第一の宿場町として繁栄していき
ます。
●温泉番付に登場
明治初期につくられた全国の温泉番付にも上位にはいっています。
●明治3年の大改築
藩政改革を機に山鹿の先覚者江上津直と井上甚十朗が藩主細川護久に財産全部の目録を
藩公に奉還したいと願い出ました。しかし、護久はこれを受理せず、その誠意を町方
公共事業に尽くすようにさとしました。そこで、二人は私財を投じて今までの温泉を
取り壊し、近代的な公衆浴場を新しく建設することになりました。
●明冶31年の大改築
明治29年、山鹿鉄道株式会社が発足し、山鹿町政財界の期待もにわかに高まり
ました。そこで、山鹿鉄道が完成したら温泉利用客は激増すると見込んだ町の有志たち
は温泉の大改築に踏み切りました。新館の設計には四国道後温泉を手がけた大工坂本
又八郎を招き、3年7月に完成しました。しかし、期待を集めた山鹿鉄道は実現せず、
当初見込まれた浴容の激増には至りませんでした。
●松風館(しょうふうかん)と洗心閣(せいしんかく)
山鹿温泉の繁盛は入浴料による収入ばかりではありませんでした。入浴料は今ほど
きちんと支払われていなかつたのです。温泉の周囲にたくさんの貸家をつくり、その
賃貸料でかなりの、収入をあげていました。その代表格が松風館です。町内外の有力者
や高貴な方々の会議場・宴会場でもあり、一種サロンの風を呈し、情報の発信源
でした。経営は民間に任せ、施設・設備の修理改築、襖の新調、畳替えなどは、
その都度、議会で決められ、町が行っていました。松風館は明治36年(1902)の大火災
で焼失、その後再建されましたが、昭和9年(1934)にはさらに、威風堂々たる建物に
建て替えられ、名も洗心閣と改めました。翌年には宴会場も完成しました。
●現在の山鹿温泉(平成)
現在、山鹿には、再開発により近代的なビルに変貌をとげ、かつての桜湯のころの
面影はなくなりました。ただ、温泉を楽しむ為に大勢の人が訪れています。また、
銭湯前には温泉が飲める湯のみ場があり、入浴客だけではな(市民や近郊の人々にも
愛飲されています。身体の内からも健康になれる名湯を求めてやってくる人が後を絶ちません。
時代が変わって建物が変わっても山鹿のお湯だけは絶えることなく湧き続けている
のです。