山鹿の歴史

山鹿の歴史

豊前:街道に沿った町部の沿革



               

●古代から交通の要衝


「山鹿」の名称は、奈良時代『釈日本紀』に引和された『筑後風土記』の記述にある「肥後国山鹿郡荒爪山」が最初である。約1260年前西暦713年(和鋼6年)頃の記録と推定される。その近く720年頃、平城京跡から出た木簡にも「山鹿郡」の名が出ている。
 平安時代、900年代初めに書かれた『和名抄』に山鹿郡に郡の中心で山鹿をさすものと思われる「温泉郷」(ゆごう)を含む10の郷があったと記されている。

 以上のことから、奈良時代には肥後城北部の郡で中心的な役割を既に果たしており、郡家(役所)があり、郡司がいたと思われ、郡の中心的な役割を果たしており、平安時代には県下で最も古い温泉場として登場していることがわかる。

 しかし、もっと古い時代に山鹿の都市の性格付けがされていた。それは多くの古墳と古代の道の存在である。古墳があれば人間があり、人間がいれば集落があり、集落があればそれらを繋ぐ通があったはずである。山鹿市の古填は多くが400年から600年の古墳時代中・後期のものである。国指定史跡の方保田東原遺跡は話題を呼んでだ佐賀県の吉野ケ里遺跡にまさるとも劣らない規模ではないかとも言われる。
 また、太宰府に至る古代交通路を示す「車路」(くるまじ)の地名が小字として桜町と鍋田に残っていることも、古代の官道が山鹿を通過していたことを思わせる。加えて、山鹿燈龍の由来となっている景行天皇伝説は古代から菊池川が交通の手段として利用されていたことを物語っている。

 集落があるところ道があり、物産と文化が生れ、交流がある。
 山鹿市は地理的に古くから交通の要衝であった。
 中世になると、混沌とした荘園時代から、菊池氏の支配下となった。16世紀前半、菊池氏の没落後、1587年(天正15)に農臣秀吉が制圧するまで、九州の戦国時代が続いた。  この時期、市場町としての性格付けがされたと思われ、南北朝時代(1336〜1392)に確認されている上市城(山鹿城)がある上市(うえち)、八千代座がある九日町の町名が残っていることが証明している。

 1587年には肥後国衆一揆が起り、山鹿も戦場となった。肥後の新しい領主となった佐々成政が強行した検地により、隈部親永などの国衆が不満を増大し、一揆は肥後国全体に及んだ。同年12月、秀吉により滅ぼされた。

 近世になり、国衆一揆後は加搬清正が山鹿を含む九郡の領主となり、土木事業で大きな功績を残した。

 徳川の時代になると、山鹿に山鹿手永と中村手永が置かれた。・伝統的紙工芸品として有名な燈能が2代将軍に献上されたこと、山鹿温泉の整備が進められるなど現代につながる出来事の記録が残っている。

 また、速世から明治時代まで続いた、山鹿の特色である菊池川の水上交通の要で物産の集散地として発展する兆しを見せている。現在の山鹿大橋の100メートル下流に昔の船つき場があった。
 陸上交通では、1649年(慶安2年)に幕府命令で作製された『肥後国大絵図』に見ることができる。
 「大道筋」(大きな道路)として、豊前街道つまり小倉街道が「筑後国境関町ヨリ、薩摩国境迄道法、但、薩摩領切通村之内涼松ニ出ル」としてあげられ、「小道」として湯町を起点とするものは広野村を経て筑後領大淵村へ出る道、庄村を通り、筑後領かや木村へ出る道などがあったとされる。


●豊前街道は山鹿のメインストリート


 豊前街道は小倉路、または小倉街道と呼ばれた。藩政時代は熊本の城下と豊前の小倉を結んだ主要道路であった。熊本から大津、内牧を経て鶴崎に至る豊後街道とともに、参勤交代のルートで豊前街道に沿う鹿子木町(現在の北部町)、味取町(同植木町)、広町(同鹿央町)、湯町(同山鹿市)、肥猪町(同南関町)、関町(同南関町)の六町は街道筋の休息所または宿場があった。

 そのあと、街道は肥後を出て、瀬高・久留米(筑後)、冷水峠・飯塚(筑前)を経て、小倉に至る。小倉からは船に釆り、7日から9日間瀬戸内海を通って、播磨(兵庫県)の室津に上陸、山陽・東海道を通って江戸に出る。約一カ月の行程で総勢千名近くの大移動であったという。

 参勤交代のルートではあったが、肥後の大名細川氏は豊前街道より豊後街道を多く使ったようだ。細かい記録はないが、細川家の筆頭家老の松井氏、隣国の薩摩の島津氏が豊前街道を多く使って参勤交代をしたことが残っているとはいえ、細川氏にとっては重要な街道であった。なぜなら、加藤氏が失脚したあと最初に肥後に入ったルートだったからである。1632年12月に小倉を発ち、南関を経て、山鹿湯町に泊り、9日未明山鹿を発って熊本入りしたことを考えれば、細川氏にとって肥後国で最初の一夜(ある意味で非常に不安な)を山鹿で迎えたことは大きな意味がある。その後山鹿に御殿湯をつくり、宮本武蔵などを呼ぶなど別荘のように使った裏には細川氏と山鹿との深い因縁を考えることもできる。

 参勤交代により街道は整備され、宿場町としても栄えることで、参勤交代帰りの江戸の文化を受入れる交流点になった。

 藩政時代、山鹿は在町(ざいまち)であった。制限つきで商業を許された小都市であった。在町では塩、地酒、農具、魚などの商品経済が許され、山鹿では豊前街道筋に商店が集中していた。

 江戸時代、山鹿の経済は豊前街道に沿った町並みの現在の下町・中町・九日町・日吉町・上町・西上町、豊前街道から分岐する菊池往還沿いの現在の温泉通り・花見坂・大宮通り、兼松往還沿いの現在の松坂町が中心であったようだ。このことは1763年(宝暦13)の『山鹿湯町絵図』にはっきりとでており、約500戸に及ぶ町家の地割、寺社、・会所、茶屋が詳細に描かれている。

 町屋のほとんどは短冊型で細長く、奥行は10間から12間と一定しているが、間口は上町、下町では2〜2.5間と比較的小規模、中町、九日町、日吉町では4〜5間、広いものは6間以上のものがある。江戸時代中期から明治年間の郡村図の町の規模とほとんど一致する。山鹿は町の規模を拡大することなく、120年以上集中的にこの地区のみに資本を投資してきたことになる。

 しかし、道(豊前街道)に沿って発展し、繁栄してきた町はまた、道によって変わっていく運命にあった。


●八千代座建築当時の山鹿


 明治時代の山鹿は熊本県北の商工業の中心的都市であった。

 水陸交通の要衝で物資の集散地、屈指の温泉場として繁栄していた。
 明治三大改革は、3年の山鹿温泉大改築、29年の山鹿鉄道株式会社(後の鹿本鉄道。植木と山鹿を結ぶ)創立、43年の八千代座建築と言われる。

 これらの事業の中心となった人々には、肥後藩の悲運の政治思想家で明治維新に西郷隆盛等に大きな影響を与え、実学の思想を唱えた横井小楠の門下生が含まれる。繁栄の背景には、ほかにも多くの優秀な人材があったことも理由の一つであろう。

 明治10年(1877年)の西南戦争のとき、桐野利秋が率いる薩摩軍約3000名が陣を構えた。鍋田などの豊前街道沿いで、植木の田原坂に劣らない激戦があったにもかかわらず、町家が戦火を免れたのは、このような人々が中立の考えを実行した結果であった。

 商工業面では、養蚕、製糸生産が有名で、県内でいつも上位にあった。また、温泉場としても3年〜6年の入浴客数は、八代の日奈久温泉に次ぎ、2位。熊入温泉を合わせるとトップである。42年の大阪岡本増進堂発行の「温泉番付」では、西前頭5枚目で日奈久を抜いた温泉場として成長している。

 当時の繁栄を物語るものとして、電話がある。山鹿の電話創業は41年で、熊本市の34年に次ぎ県内で2番目に開始された。電気の一部送電開始が大正3年。照明などのエネルギー源の電気より、通信設備の電話が先に入ったことは、商工業面で、中央と早く連絡を必要とする産業が多かったことを示している。八千代座の44年1月の開業式(こけら落し)の奉納額の係名のところには、電話掛りとカーバイト掛りになっている。

 このほか、年間5万本の生産を誇った山鹿傘(和傘)、製本、酒造業でも知られていた。

 教育面でも、寺小屋、家塾が多く、県下に先駆けて小学校教育を始めるなど、人材育成に務めていた。

補足


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