暗譜に関するひとこと
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本稿は2004年9月に断続的に書いた暗譜に関する私見をまとめたものである。ただ、こういった事柄を書くのに体系的である必要があるのかという疑問と単に時間がないという理由から「更新記録と日記」から一部修正加筆して抜き出したものになっている。御意見御批判感想頂ければ幸いである。 |
暗譜は必要か? 記憶 暗譜のコツ? 補足1 補足2 補足3 ![]() |
先日ピアノ好きの方から「リヒテルは暗譜しなくてもいいと言っていますけど本当なんですか?」というようなことを聞かれました。暗譜については思うところあるのですがなかなか書く事ができずにいます。ここではリヒテルの言葉に対する私の考えを書いておきたいと思います。リヒテルのドキュメタリーを見ているとやはり暗譜についての問答が出てくるのですが、リヒテルははっきり「楽譜の全てを覚えられるかい?」と暗譜演奏を否定しています。
しかし、私は絶対暗譜はすべきだと思います。 少なくとも自ら表現者であると自覚するのであれば暗譜はするべきです。 ただ、暗譜演奏にこだわる必要はありません。暗譜しておいて楽譜を置いて演奏することを一概に悪いことであるとはいいません。リヒテルの言葉についてですが私がリヒテルの意見に追従しない理由の一つは私はリヒテルではないからです。リヒテルほどの驚異的な記憶力、キャリアを持った人間が老境にいたり記憶力の低下を悟り、暗譜演奏などするべきではないというのと、私がリヒテルが暗譜しなくていいといっているから楽譜を見ていいよ、というのでは根本的に問題が違います。楽譜を見て弾けるようになったから暗譜する手間を省くなどとはリヒテルは言っていないのです。リヒテルの言葉は老境に至った芸術家の自戒と諦観から来たものであることを忘れてはいけません。私の友人「ピアニストの苦悩」の山崎さんはこう書いています。「(楽譜を見て演奏する)そのようなことを言う人は、ピアノ演奏を分かってないか、本番に間に合わなかった言い訳だろうと思う」私もこの意見に賛成です。「不器用であるというのは練習をしない人の言い訳である」という警句があります。 |
さて暗譜の話の続きなんですが、人間の記憶いうものは実にいい加減です。今見たことでさえ覚えていないのですから吃驚しますが、人間は大体4つか7つぐらいまでしか瞬時に覚えられないようになっているのだそうです。中には一目見ただけで全て覚えてしまうような超人的能力を持った人もいますが大多数の人は多くて10くらいしか記憶できないそうです。なぜかといわれると、そうなっているからだとしか答えようがないのですが、これは経験的にわかります。例えばはじめてかける電話番号などは覚えられる範囲の限界で(私には出来ないのですが…)、かけて相手と話し出したら今かけた番号はすっかり忘れているのが普通です。これを「感覚(短期)記憶」というらしい。一方自分の家の電話番号はいつも意識している訳ではないけれども思い出そうとすれば思い出す事ができます。これを「長期記憶」というらしい。この長期記憶には2種類あって「宣言的記憶」と「手続き的記憶」があります。「宣言的記憶」は所謂知識です。最近流行のトリビアではないですが、一行知識なんていうのはこれです。つまり「言葉(記号)で表すことの出来る」知識です。一方「手続き型記憶」はピアノの演奏や自転車の乗り方のように「言葉で表せない」知識です。単純に言えば暗譜演奏は楽譜(記号)を覚える(宣言的記憶)と演奏(手続き的記憶)の両方をさす訳です。 さて、記号論で言うところの「スキーマ」という言葉あります。「枠組み」などと訳されるものですが、これは今までの経験、記憶によって我々の行動を判断するものです。例えばピアノで言えば結構長く弾いている人であればモーツァルトぐらいの作品なら初見である程度弾く事ができる。これは今までに弾いてきた「調性」のある音楽の和声感がスキーマを形成している結果であります。初見が早い人でも現代曲は初見で弾けない人がいます。これは今までに培ってきたスキーマから外れた作品(簡単に言えば調性のない作品)であるからだといえます。中にはいかなる作品でも初見で弾けるという超人的能力を持った人もいますがそういう人は少数の例外で大多数の人はスキーマによって無意識のうちに行動を判断しているのです。このスキーマは「スキーマ依存エラー」という事を犯します。少し捻った和音進行の箇所などでつい規範的な和音へ間違えて弾いてしまった経験はないでしょうか?これはスキーマが十分に形成されていると起こる間違いです。逆に言うとピアノのうまい人に見られる現象であります。 つまり、長期記憶によって形成されたスキーマが大きければ大きいほど上達している状態にあるわけです。プロのピアニストは新しいレパートリーに対して恐れを見せません。それは今まで培ってきたスキーマによってカヴァーできる自信があるからです。ではどのようにすればスキーマが形成されるのでしょうか?それは「理論」と「暗記」によって形成されると思われます。和声を習っていない人でも長年ピアノを弾いていると大体和音がどう進行するか予想がつきます。これは経験的に「理論」(和声学)と「暗記」(様々な曲の演奏によるパターン化)によって生じた結果であるといえます(先ほどの例がそうです)。すなわち意識的に暗譜することはこのスキーマを形成するためには絶対必要なことなのです。 ここで思い出されるがショパンの言葉「なるべくはやくから音楽理論を学ぶべきである」という言葉です。小さい子供は理論もなくそのまま覚えてしまいます。しかし、これには限界があります。何の音楽的理論(和声、形式、オーケストレイションなど)を知らずにマーラーの巨大な交響曲を丸暗記するのは無謀であり、無意味です。あくまでスキーマは「宣言的記憶」と「手続き的記憶」の相互によって形成されるのであってどちらか片方ではないのです。 最も能率的な記号体系である言語を見れば納得していただけるでしょうか。英語を学ぶとき色々な方法がありますが、結局「理論」(文法)と「暗記」(単語、文章の暗記)によってスキーマが形成された結果「英語が使える」状態になります。「習うより慣れろ」という言葉がありますがこれも結局先の長年ピアノを弾いている人の例と同じ意味になります。だからといって文法も知らず英語で書かれた本を丸一冊暗記して英語が使えるようになるでしょうか(南方熊楠のような超人は例外です)。 以上ざっと私の私見を書いてみました。非常に乱暴な書き方であるので読む方が読まれると稚拙な部分や大きく省略した部分もありますが如何でしょうか?。結論としては私にしてみれば暗譜無用論者はスキーマをまったく無視した発言であるといえます。先日も書きましたようにピアノがうまくなりたいなら暗譜する手間を惜しまないのが私の自論です。ただ暗譜演奏についてこだわる必要はないというのは、本番で譜面を見ようが見まいが演奏そのものには関係ないということです。 しかし、当の本人が暗譜するのが嫌いだというので困ってしまうのですが…。次は暗譜の方法論について書いて見たいと思います。 |
暗譜のコツ、などとたいそうな大層な題名を付けてしまいましたが、これを読んで面白いように暗譜できるようになる訳ではありません。そんな方法があるなら私が教えていただきたい。 さて、人間の記憶には2つあって短時間だけ限定的に覚えている「感覚記憶」と普段は思い出していなくてもいつでも知識が引き出せる「長期記憶」があると書きました。更にこの「長期記憶」には「宣言的記憶」と「手続き的記憶」があり、この二つの相互によってピアノにしろスポーツにしろ言語活動にしろ上達していくという事を紹介しました。この「長期記憶」というヤツは必ず「感覚記憶」を通らねば形成できないのは言うまでもないことでしょう。視覚的、嗅覚的、刺激的、味覚的、触覚的…あらゆる事象は全てこの「感覚的記憶」から始まります。そしてこの感覚的記憶は反復することによって長期記憶へと変化します。英単語を覚えるとき何回も書いて読んで覚えた人がほとんどではないでしょうか。勿論一目見て全てを写真のように覚えてしまう超人的能力を持った人もいますが大多数の人は反復によって長期記憶を作り上げます。そして、長期記憶は知識が蓄えられた倉庫のようなものですから、新たに入ってくる感覚記憶を効率よく長期記憶に変える(所謂コード化というヤツ)働きもします。英語で例えるなら派生語、動詞の名詞形、形容詞形、副詞形などは元の一つの単語覚えていると比較的楽に覚えられます。そして近年の心理学では何より覚えようとすることに興味を持つ事が有効であるとされています。 ところで、この「感覚記憶」というヤツは精々7つほどのことを数秒から数分しか覚えていないという記憶です(ワーキングメモリなどといわれます)。つまり一度にたくさんのことを覚えようとすると大変な労力を必要とし、かつあまり効果が無いという訳です。言い換えるなら効率よく覚えよう(「長期記憶」に変えよう)と思うならまず短いものを対象にするといいということです。そしてその短く小さな有機体を「長期記憶」に貯蔵することによってスキーマを形成させる事が上達への必要条件であるといえます。 以上のことを踏んで私なりの暗譜のコツを取り出してみましょう。 ・暗譜用の楽譜は一つに決める。 さて、一つづつ補足していきましょう。 「全曲を楽譜を見て演奏する」、これは所謂「譜読み」ですね。いくら感覚記憶が少量しか覚えられないとはいえ、一つの曲を形成している細胞の一つである訳ですから全体を把握することは絶対必要です。勿論音符だけでなく表示記号などもしっかり読みます。 「曲を細分化する」。「感覚記憶」を定着させ「長期記憶」へとコード化するための準備作業です。この段階では所謂アナリーゼ、楽曲分析に相当する部分であると思います。人によっては譜読みをする前にアナリーゼをするという方もいますがそれは個人的な問題でしょう。ここでは個人の音楽的知識、和声、対位法、楽式等の知識があれば更に効率よく進める事ができます。 「細分化した楽節を回数と時間を決めて暗譜に取り掛かる」。これは次の項目とも関わりがあるのですが、一度に覚えられる量は個人差はありますが限られています。特にピアノの演奏のような「手続き的記憶」の重要度が高いものは一度に大量に覚えられない。結局コツコツ覚えていかなくてはならないのです(この辺が譜読みの早い人は暗譜が苦手というのにつながっている)。それであれば一気に覚えようとせず、時間を決めて10回なら10回、20回なら20回、細分化された部分を反復練習してみる。最初は音を覚えるだけに集中しても構わない。それをクリアできれば更に表示記号を丁寧にさらっていく。勿論最初の段階から表示記号を守るのは当然のことですが「この小節のこの部分はppである」とかといった細かなことまで一気に覚えようとしなくてもいいということです。 「心理的負担をなくす」。前項でも述べましたように今日はここまで完璧に覚えよう、等といった心理的な負担をかけないべきです。複雑で長い曲になると前日数時間かけて完璧に覚えたと思っていた箇所が今日は全然暗譜で弾けないということがあります。そんな時、今日も同じところを弾いて覚え直そうという心理的な余裕が必要です。私自身暗譜に関して自分の記憶力、頭の悪さを歯噛みし前日の努力が全て水泡と化したかのような苦痛を何度も(今でも)味わっています。そんな時は10回弾いて覚えられなきゃ20回弾こう、それでダメなりゃ50回弾こう、というくらいの軽い気持ちにならないと練習自体が苦痛となります。ただ無意識に指を動かす反復練習は何の効果も得られません。心理的に余裕を持って、じっくりと覚えるのが暗譜の早道であるといえるでしょう。 「全曲暗譜した時点から楽譜を見て演奏する」。昔、映画「シャイン」を見ていると主人公がラフマニノフの協奏曲を練習中、先生が「速く覚えて」「速く忘れろ」というシーンがありました。これは暗譜した楽譜を「宣言的記憶」として読み上げるのではなく「手続き的記憶」を感情によってコントロールする段階を示唆しているように思います。人間の記憶はいい加減です。楽譜からの情報は覚えることによって強化され、更に新しい発見を齎します。それを確認するのは楽譜を見て演奏することです。暗譜できた、と思った時点で楽譜を見て演奏する作業は非常に重要です。私は、これこそがリヒテルの言うところの暗譜演奏の否定ではないかと思っています。 「暗譜しようとした曲を弾かない時間を作る」。これはまた矛盾したようなことですが、スキーマを形成する段階では有効であるという実験結果が得られているようです。弾かないからといって放ったらかしにしておく訳ではなく、レコードを聴いたり、頭の中で曲を反復してみたり、鍵盤から離れて指の感触を考えてみる、所謂「肉体的」な面から曲を開放してみる段階です。この頃になると今まで聴いていたレコードから気が付かなかった所まで聴こえてきたり、楽譜から新たな発見があったりします。よく外国語の堪能な人の発言に「ある時点で突然視界が開けるような感じで理解できる瞬間がある」といいます。ピアノの演奏においても突然視界が開ける瞬間があります。これは暗譜という作業を経ていないと至れないところであると思います。 「なによりも暗譜しようとする曲に興味を持ち、その作曲家に興味を持つ(好きな作曲家の好きな曲を取り上げる)」。これは前提的なことですが、よっぽどの事がない限り練習していくうちにその曲への共感が沸いてきます。曲への共感、それは作曲者への共感でもあります。これは楽曲分析、細密練習を経た後で得られる共感です。私はかつてマルク-アンドレ・アムランに「発表するしないは別として作曲はするべき。それは作曲家への共感につながる」といわれた事があります。小さな小品であっても作曲家がその細かな一音に込めたバランスを追随することは重要なことであり、また容易なことではありません。アムランの言葉は非常に示唆に富んでいると思います。 「プロの技術にあてられる」。これだけは実際に体験しないと判らないことかもしれません。しかし、現在は雑誌、テレビもラジオも発達しています。プロの発言を聞き分けるべきです。プロフェッショナルの発言は示唆に富んでいます。それを妄信するのは危険ですが、少なくともキャリア、才能ともに優れた先人の言葉を聞き、更に読み解く事ができるのは良いことしょう。まして実際にその存在に実際に触れるのはこの上ない幸運であるといえます。 「いろいろなことに興味を持つ」。ホロヴィッツがこのようなことを言っています。「音楽だけでは無くその当時の文学、絵画、詩に精通していなくてはならない」。現実問題それほどの教養を有することは相当の努力を用いなくてはなりません。しかし、好奇心という押さえがたい衝動を持つことは必要なことでしょう。ある作品、例えばモーツアルトのピアノソナタでもいい。その作品を弾くときモーツアルトが他にどのようなピアノソナタを書いているか、他にどんな作品を書いているか、その当時の他の作曲家はどんな作品を書いていたか、当時は貴族社会が翳り始めオペラがどのように変遷していたか?、そもそもソナタとはハイドン、バッハどのように形成されたのか?、しいては社会的背景(フランス革命はベートーヴェンには多大な影響を齎したがモーツアルトには?)、ゲーテは、シラーは?…疑問は山のように出てきます。その一つ一つに明確な回答を出すことは不可能に近い。しかも歴史は恣意的に作られたものであり、必ずも教科書に出ている事が正解であるとは言い切れません。ロラン・バルトではありませんがニュートラルな(対立項のどちらにも属さない)立場と好奇心、それが必要であるのではないでしょうか? 以上暗譜のコツについて脱線しながら書いてみました。到底コツとはいえないものですが、皆さん暗譜する際大なり小なり以上のことを踏まえて行っていたのではないでしょうか?これがベストの方法であるとは言いません。しかし大量暗記は絶対必要なものであることは確かです。チェスの世界では有名な対局を最初の一手からチェックメイト(王手)まで覚えているアマチュアはザラにいるという事です。実際、碁や将棋では名対局などはマニアであればみな覚えている。それは無規則な動きではなく対戦者同士の戦いの記録であり、知性の記録であるから意味ある動きとして覚えられ、その一手一手に感動さえ覚える訳です。私たちが対象としている音符、オタマジャクシもそうではないでしょうか?故井上直幸氏は「演奏する曲への感謝」という言葉を書かれていました。大仰な表現であると思いますが、暗譜という作業を経た状態であれば井上氏の発言も決して感情的に発せられたものではないものであると私は思います。一つの音符を書くことに作曲家が下した判断を我々は楽譜を通じて共感できるものであるからです。 |
「プロの技術にあてられる」という項について暗譜とは関係ないのでは、というメールが来ましたので、補足しておきます。プロ、中でもキャリアの長い人はスキーマの形成によって情報処理が明快に出来ている場合がほとんどです。実際に演奏家にちょっとした指示を受けただけで、驚くほどうまくなる人がいます。それは完全でなかった情報処理能力がプロの一言で、ある解法を見つけ出すからであると思います。それは言葉です。長期記憶の手続き的記憶は言語で表現できない記憶です。味や匂い、歩行、ピアノの演奏といった記憶は「これは〜である」という言い方には出来ません。しかし、それを無理にでも一度言語化することによって、記憶と情報処理にプラスになる事があります。人間の思考は言語によってなされるものということは以前に書きました(下記参照)。つまり手続き的記憶を無理に言語化することによって記憶に定着しやすくなるのです。そして、スキーマの形成がなされたプロの演奏家はその感覚的、体感的なものを的確に言語で示唆する事ができる場合が多い。これはピアノに限ったことではなく、楽器の演奏や舞踏、スポーツ、自動車の運転など手続き的記憶がウェイトを占める割合が多いものに共通しています。初心者に「いい先生に習え」といいますが、これは事実でしょう。教え方や教育法は様々ありますが、このちょっとしたアドヴァイス(実はこれが最も重要である)によって記憶を整理する可能性は大いにあります。 後、補足として |
補足32008/5/3追記
池谷裕二著「記憶力を強くする」「進化しすぎた脳」を読む。はじめ「新化しすぎた脳」を読み興味をもって「記憶力を強くする」を読みました。どうも題名がハウツーもの風で敬遠していたのですが脳科学の分野から記憶とそのメカニスムについて書かれた本で「簡単に覚えられる」といった本ではありませんでした。記憶に関しては題名どおり「記憶力を強くする」の方が詳しく書かれ「新化しすぎた脳」は脳と心の問題、更には死生について考察された本でやや哲学的な内容を含みます。 上記「暗譜」の文章は私の経験から「なんとなく」導かれた部分があります。まさか暗譜することなしにピアノが上手になると言う人はいないとは思いますが、その根拠というのはやはり経験上から来るものであると思います。この「覚えることによって上達する」というメカニスムを池谷氏は脳科学の分野から解き明かしています。また年齢によってその「覚え方」にも差があること、魔法のようには覚えられなくても効率よく覚える方法なども論じられています。 私は上記の文章で「暗譜演奏にこだわる必要はありません」と書いています。これは私が比較的現代作品を演奏する事が多かったことから来ています。現代作品のような極度に音の秩序がないものや対位法の錯綜したもの(これはバッハの作品なども当てはまります)などは暗譜演奏によっておこる「事故」や心理的不安によって演奏がかえって萎縮してしまう可能性を考えたものです。しかし一流の演奏家はバッハは勿論ブーレーズやクセナキスのような作品も暗譜演奏しています。池谷氏の著書に「覚えられない」のではなく「覚える努力をしない」更には「覚える気が無い」と大変厳しい事が書いてあります。「暗譜演奏にこだわる必要はない」というのはまったく弁解の余地無く私の「逃げ口上」であると言わざるを得ません。 結局覚えることは「努力」しか無いのか、というとその通りではあります。そのことは池谷氏の著書にも書いてあります。しかし、覚える情報量が増えることにより記憶は強化し更には効率よく覚えられるようになってくるということです。暗譜演奏を否定していては結局覚える能力は向上しない訳です。そして上達も望めないということです。 やはりピアノが上達したいと思うのであれば暗譜する努力を惜しまないという当たり前と云えば当たり前の結論になるようです。 |