新刊歌集/歌書Cores2009〜2010年

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新刊歌集から

蛇足ながら抄出歌は著者の得意分野を引いているとは限らない。むしろ、頁主との共感度に因っている。

活気ある歌集に関する情報を切望します。頁主までMAILください。

⇒2000〜2003年刊行歌集

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新刊歌集/歌書Cores2010年

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七宝の輝き

このタイトル、「疾風の囁き」に触発されている

■聖地巡礼 □福島久男歌集

2010.12.24 ミューズコーポレーション

 

心には太鼓がひとつ宿りゐて遠き祭りにばちを合はせぬ

土俵際ふんばるぞなほふんばりぬ行事はやばや土俵を去りぬ

躁の富士鬱の富士あり凩の季節となりて朝の占ひ

狼に狐・狸もほのぼのと人間顔に定年の日は

還暦はそろりと過ぎぬ太宰にも三島にもなれず荷風の落葉

孔雀ゐて今にも羽を拡げさう立ち去りがたき鷲宮かな

若き日に呑みたる酒の徳利が隊列組みて闇夜に躍る

わたくしは世代的には泰樹・久男両福島氏のちょうど中間に生れている。

もともと同世代の紐帯とはむしろ忌避に近い疎遠を通してきた人生であったが、

こうして久男さんの歌集の中に埋没すると同世代という事実は覆うべくもない。

ひとつはディテイルに見えるいわゆる小道具であり、もうひとつは無形の大道具、いわば空気である。

なお、福島さんの聖地は親しい魂のねむる〈鷲宮〉のような地という。

福島さんは「開放区」のメンバー、本集は『チャンピオン』に続くその第3歌集である。


■薄い街 □佐藤弓生作品集

2010.12.10 沖積舎

 
本著には「作品集」とも「歌集」とも銘は打たれていない。
冒頭に散文詩的評論を据えているのがこう呼ぶことにした。
ここでの多くの作は、単に「あれ見た・こうした」の書き写しではなく、
対象の文字化・音声化を、佐藤さんの意識に引っ張り込んだ上での脳内醸成の産物である。
 

空に痣ちりゆくごとく桜蘂ゆるるたまゆらむらむらとせり

ヒロインの悲鳴は長い 流氷はぼくが死んでも氷だろうか

討ち死にのカモメのような波がしらあつめてけさも何食わぬ浜

脱げなくて死ぬ蛇のようわたしたちころがりまわるばかりの夏野

夕立のあとなまぐさくなる街にきみの傷からかけのぼる虹

あわたしいついびつな星をのんだろう冬の脇腹わずかに熱い

こころざし。はにかみながら青空に砂鉄をさぐるひとのひとこと

1頁4首見開き8首の140頁建てはなかなか。

これらの間を遠泳のように泳ぎ、目の高さに波また波を見る楽しみがある。

上記はその目だった波の秀と言ってよい。

佐藤さんは多数の詩集を持つ、「かばん」のメンバー。

本集は『世界が海におおわれるまで』『眼鏡屋はゆうぐれのため』に続く第3歌である。

 


■幻月 □長谷川と茂古歌集

2010.12.20 ながらみ書房

 

音もなくずいと上りし水重くわが頭の中を占領したり

さまよへる月こそあやし変幻の熟して遊女とがりて(やいば)

石塀の上に茶トラの猫がをりににんと笑まひたりしが消えず

耐へ難きを耐へたる後のトーキョーにミニスカートの乙女ら弾け

よどみたる池の底よりのつそりと鯉が出て来てぽぷんと云ひき

呵呵呵呵と乾いた音で明け暮れを葱刻みをり ひとり/ひとり

かたつぶりほどけて駆ける白き獅子ちりぢりの(うを)生みたり 雲よ

個性的な作品が多いが、わけても、オノマペを含む描写に本領がある。

描写ということばには万人共通のような響きがあるが長谷川さんのものは決してそうではない。

「前言語状態のものを脳内の租借地に一旦ストックして咀嚼してから作品化する」ことこそが

今求められていると思うがそれを地でいく構えである。

たとえばミニスカートにとつにしても、過去の心理的文化的な抑圧の反作用と見ている。

長谷川さんは「中部短歌」のメンバー、その第1歌集である。


■水鏡 □岡田恭子歌集

2010.8.26 角川書店

 

ひそかにも私の髪に舞い墜つるたてがみのような童話生まれる

鶏頭の花火のように朱く咲く夕焼けの中残りたるもの

野の原に響りわたりゆく草笛に一つの周期顕たせて二月

眼つむれば睫毛のかげにあらわれるしろき浮氷のようなる「時間」

日輪が赫々うつる均衡がたちまち揺れて傾斜する空

挫折などなかった杳い日はありやパスタの赤の燃える夕どき

長き夜のゆめの一瞬顕たしむる散華のごとし秋空の蝶

ものを見詰め続けているとその中に別の姿が浮かんでくる。

二次的にみえてじつはそれが本質であることが多い。

その1首中の変容・推移がわたくしを楽しませてくれる。

「変化を含んだ四次元的な世界を見せてくれる歌集である。

岡田さんは「餐」のメンバー、その第一歌集である。


■透明な刻 □吉田惠子歌集

2010.7.7 ミューズコーポレーション

 

讃美歌がうたわれ始めみどり児は柔らかき声発しゆきたり

戦場の兵の認識票のごと身分証首より下げるおとこら

今朝のニュース枕としたる文珍の落語の笑えぬことに笑えり

首長きガラスの花瓶に彼岸花すとんと挿せば水のあふるる

ふるさとの盆踊りの輪に入りたるはたった一度の少女の日なり

一階と二階ではなく中二階という距離のほどよき

ここ幾年何に拠りきて生き来しか透明な刻たっぷり重ね

寸を測るとき、線を引くとき人は対象に定規を当てる。

吉田さんの定規には吉田独自の目盛りが厳密に刻まれているようだ。

だから、一首の中に「小さな必然性の結実」の見える作品が多い。

みどり児の呼応、落語の枕の抉りの鈍に見える鋭さ、茎の体積と水の容積の必然的因果。

拾えばかぎりなく面白い。

吉田さんは「開放区」のメンバー、その第5歌集である。


飛火野  □上田倫子歌集

2010.9.23 ながらみ書房

 

(くづほ)れし神戸見ぬまま逝きし父を幸せだつたと思ふ日もある

褐色の縞目濃肌ひかりつつ朝の車道を滑るくちなは

demonと英文パンフに訳されし「黒塚」の鬼女の小さきすり足

われらには終の犬なりあたたかき小犬の命大切に抱く

明日夫の動脈に入るステントの蛇皮のごときに怖れつつ触る

咲きのぼる桜の力をいただかむ風やはらかき花矢倉に立ち

狂ほしきばかりに燕ひるがへり餌を欲りする雨後の飛火野

上田さんはもともと神戸のお人だがその後30年以上住み着いた奈良にも思いが深い。

作風は対象のどれにも居つくことなく自然体で受け入れる構えだ。

自然体で受け入れるが対処はことごとくひとつひとつ違う。

暖かい対象、つめたい対象。それぞれの静と動、その動のなかの緩と急。

精緻なできばえである。

上田さんは「ヤママユ」のメンバー、その満を持しての第一歌集である。


(ゑん)  □黒沢忍歌集

2010.11.11 ながらみ書房

 

うすぐらいL号棟の階段をのぼりつめたら雨のにほひだ

水面をすれすれにゆく青鷺に見えてゐるのは憂ひのかたち

おほいなる白菜かかへて女立つ危険物ゆゑ落とすべからず

ぷつちりと皮膜裂けたる葱坊主(ランプ、何処までゆくの)

オニユリは花色(くわしょく)火の色きりぎしにかなしき体を風に揺らせり

杉の木が七百年を生きるとはかういふことだ  天辺何処(てっぺんいづこ)

黒屋根の来た紅梅を(ほしいまま)白雨駆けたり  美少年なり

 

自在にコトバを走らせることは難しい。

どうしてもブレーキをかけねばならないという不安に支配されがちだ。

黒沢さんは、遠くを望むのがすきで、集の名をこのように決めたようである。

そのぶん、歌が自在になったようである。

ふりがなの名手であり、題名にまで及んでいる。

黒沢さんは「日月」「りとむ」のメンバー、その第2歌集である。

 


■魚尾 □清野ちえ子歌集(せいの・ちえこ)

2010.9.11 砂子屋書房

 

何気なくつけしテレビに「魚尾」といふ言葉を一つ教へられたり

丸ごとの吾をさらして向き合へば鬼の面がうつすら笑ふ

足美人などと言はれし日ははるか人に遅れて石径くだる

そよりともそよがぬ木々をそよがせてみんみん蝉が鳴いてをります

金箔の月照る夜道コーヒーを飲んでゆくかと不意に言ふなり

愛用のめがねと紅と巾着をさんや袋に姉は旅立つ

身にそはぬ飾りをひとつづつ外し初冬の陽ざしに素顔をさらす

 

冒頭1首は集題とさりげなく出会ったことを惜しみなく告白する。お人柄だ。

だからこの集はすべてが、正直真っ当ストレートである。

「さらす」という作を2首引いているがこれがそれぞれ本当の自然体。

歌を《作る》のではなく、歌を《残す》という作歌姿勢はすがすがしい。

清野さんは「たんか央」のメンバー、その第1歌集である。

 


■秋の言の葉 □岡田衣代歌集

2010.9.23 ながらみ書房

 

頭上にはタップ踊れる雲がいて目眩むほどに明るき日曜

夕映えに無花果うれてあかあかとかなしきものが口あけている

湧いてくる淋しさ爪ではじきつつ母と聞きいる遠き春雷

いまわれに声をかけるな赤肌の魂をふるはせ脱皮している

わが肩に触れてゆきたる風の手が思い惑いて吹きかえしくる

風が繰る白きノートの頁より発ちてゆきたる秋の言の葉

晴嵐にまぎれて木々の間を行けば内臓(わた)もつことのやましさが湧く

 

上掲中ほどにあるお袋さまを送られる悲しみがピークを形成する歌集である。

もともと内面を流麗に展開する作風の作家であるが

このような状況ではとても痛々しい。

岡田さんは「桜狩短歌会」のメンバー、本集は『終章の夏』に続く第3歌集、ほかに詩集もある。

 


境界(シュヴェレ) □中根誠歌集

2010.10.30 ながらみ書房

 

腕まくりすればことしの腕細し春の畑の土を起こして

餌を乞ふこころならむにわれを見る狸のまなこ卑しくあらず

四股名より山、川の名の消え去りて地霊帯びざる力士相()

山腹に人の付けたる境界のあらはや杉と楢の芽吹きと

ランナーに水の補給を果たしたるペットボトルの転がりざまよ

われよりも顔の筋肉少なければ笑はず泣かず犬の従きくる

花火のやうにどんと生まれてこの()の子この世に花をひらくかどうか

中根さんは《境界》に深い思いを持つ。境界領域には《異人》が棲み

防衛や緩衝に機能するが多くは《兵士》の宿命を負うという。

山岳地帯も秋葉原のような繁華街も南北に分かたれた隣国の境界も。

本集での中根さんの視線は山川草木、その祖霊、小さい家族、

さらには小動物から小さい日用品にまでくまなく及ぶ。

中根さんは「まひる野」編集委員、その第4歌集である。

 


■狩の角笛 □崎井貫歌集

2010.6.30 ミューズコーポレーション

 

この歌集は、医師の意思にコントロ−ルされた作品集として読む方が刺激を楽しめる。

 

(じんちゅう)の長さ二三ミリは「英雄好色」といふには遠し

新型の流感対策の騒ぎ過ぎ朝蠅暮蚊(てうじょうぼぶん)のファックス日々に

心エコー撮ると女医さん横臥位(わうがい)のわれを(かか)ふる()かるるこころ

(くさ)らされクサリいるかと思ひきや納豆(なっと)は納得しつつ意図ひく

「目」は横にできぬかこれは猫の目ぞヒトの形はむしろ「四」の字

わが胸のここには言ひ難き不調律あり調べむいまは

前頭葉(ぜんせん)は劣勢告げ来大脳(しれいぶ)の決断、抗生剤つめしミサイル

「歌は畢竟自己中心が大原則」と豪語する82歳の連射の迫力は十分に楽しい。

自己中心的な読み方も許されようというもの。

生活色の出ない知的遊戯の世界、語彙も自在、発想も奔放ということになる。

崎井さんは「韻」の代表、その第4歌集である。

 


■初めての<青> □苅谷君代歌集

2010.6.8 角川書店

 

わたくしはいつも孤りといふやうに冬樹は枝を天に張りゆく

執心のあらはに鬼となるときのわれはかなしき目をしてをらむ

執刀の医師の握れるメスの先ほのかに見えて切り開かるる目

水晶体の濁りを砕きしのちの()に映る空あり初めての<青>

「ナツワ ウミエ ワタシワ イッタ」神経の芯が疲れる点字の表記

活字なき日々はつらかりこの夏を本一冊も読まずに逝かしむ

草むらを幽かによぎる(けだもの)の気配は中島敦の虎か

第3歌集以降20年を経過しているが、その間は「眼の病」との闘いと宥和の日々であったと思われる。

上掲でも第3首目〜第6首目の主題となっている。

短歌という容器になみなみと感情を満たす作風は読むにつれて苅谷さんの心境に引き込まれてゆく。

おちついた悲哀を表す歌を多く引いたが、やはりこの域に本領のある、ずしりと重い一冊である。

苅谷さんは「塔」のメンバー、その第4歌集である。


■とこはるの記 □武藤ゆかり歌集

2010.6.6 南天工房

 

ここなんか楽な方さと吹かしてる唇縫ってさしあげますか

手袋と手との間に汗がある逃れられない宿命がある

軽々(けいけい)に比喩となしたり流産や生みの苦しみ知らない性は

あいづちの前に一秒沈黙し微妙な気分伝えています

あげひばり何で鳴くのか尋ねれば主語で話さぬ近さと答える

我が胸のすだれ動かし吹いてみよ源の風そこにあるなら

嬌声の正しい出し方知らなくて憧れている場末の夜空

おしどりの和魂洋才ふたつがい引き継いでゆく小鳥あるべし

 

武藤さんは写真撮影の名手だ。写真集もある。そのことと恐らく関係があるが

武藤さんの短歌の眼にはフィルターが装着されている。かつ、そのフィルターは一様ではない。

さらに、レンズにも望遠も広角も取り揃える。

どのうたにも知的処理がほどこされていて「ぼんやり歌」は全くない。

心と心のギャップを解題して見せたり、微妙な心理を読み手の心中に再現させたりする。

クリティカルな視線の持ち主であるがおだやかなラッピングの成果であろうとげとげしさがない。

集の名は書斎の「常春庵」に因む。おだやかさを求めての命名であろう。

武藤さんは「短歌人」の同人、その第5歌集である。


■長夜集(ちょうやしゅう) □小高賢歌集

2010.9.20 柊書房

 

われを見てまた眼をつむるもてあますほど長きかな猫の一日

太極拳に励む老々男女にも四人組いて手抜き組なり

東京の上着なじまぬおのこらがむすっと生えてざわざわ群れる

手をつなぎ信号を待つ両国の日光翁月光媼

終幕よりみれば衣冠のちがいなど「ちいせいのう」と声の落ちくる

もういいと思うことありもういいという理由など語る気はない

いきるとは生きのびること 大石をさけ小石蹴り生きのびること

 

小高賢さんの第8歌集である。前集、『眼中のひと』以来、3年間の作物438首の集成。

あくなき創作パワーに敬意を表さねばならない。

生の激闘後のゆるやかな時間を宝玉を爪繰るようにいとしむかのような視線を

脚光を浴びることのない世界に及ばせての作は、前集よりもさらにおだやかである。

しかし、温顔のなかにも無論、ジンジャーもペッパーも山椒もそれぞれ潜んでいる。

小高さんの近著として、本サイトには評論集の

『上田三四二の生と文学・この一身は努めたり』『現代短歌作法』がある。

 


■メチレンブルーの羊 □川井怜子歌集

2010.10.20 砂子屋書房

 

メチレンブルーの羊のわれは混みあへる路線バスに乗りつつじ見に行く

文旦の黄の明るさを抱へをり軍場(いくさば)なえば御首(おんくび)ひとつ

やくざごころ兆せるゆふべ歌集とは文字(もんじ)すくなしたちまちに読む

わが娘ならぶつ飛ばしたき黒色のスリップドレスの女、目のまへ

むらさきの鉢巻亭主助六なり なべて荒事われがしごとで

この国のをとこは何処に行つたのだらう七階フルーツパーラー満席

わが生に敵と呼ばるる時あらむや滴こぼして白桃を食ふ

質量の大きな言語を操るに足りる強い結合組織がしっかりと備わっている。

「やくざごころ」、「ぶつ飛ばしたしき」、「この国のをとこは何処にいった」

など見ると、「待てよオレの歌集か?」といいたくなる。

が、川井さんのは遙かに上等、その前後の《こなし》が効いている。

これこそが強靭な結合組織と言わしめる由縁。

川合さんは「短歌人」ひさびさのヤンチャっ子。

その光輝ある第1歌集である。


■百年猶予 □石川幸雄歌集

2010.11.10 ミューズコーポレーション

 

逝きにしを如何に表現しようかと思考はじめる短歌莫迦たる

「牛たちはわが子のようなものです」と泣く畜産家はこどもを売るか

極上の牛革使いしde(デ・) sede(セデ) のソファはわれより偉そうである

ゴキブリが尻を光らせ飛んだなら「(ごきぶりび)」とう季語が生まれん

生きるとは罪なり余程永くとも百年猶予 のちには死刑

たましいも傷も焼かれる一一〇〇℃どうせ燃やしてしまうものなり

「第二歌集」なんとも控えめなる響き 二番手二着二号ともども

石川さんの第2歌集制作の道程は、鑿と玄能で掘り進む青の洞門の作業場を想起させる。

鑿が削り出す岩片は彼自身の「時」と「魂」である。

本集に一貫して「馬力」という通低音がある。天性のものだろう。
前集にまして積み上げられた要素は、一に営々たる観察であり、二に吐露性の顕在化(これが馬力)である。
石川さんは「開放区」のメンバー、先の歌集に『解体心書』がある。
 

■「聖水伝説」ほか□長澤ちづ歌集

2010.9.4 砂子屋書房

 

風立ちぬ男のくびのネクタイの鎌首あげてこちら見ている

神さまがいるちと思わず生きゆけよいっとき野良と目が合いにけり

耳かきに掬えるほどの光もてわたりゆくものまいまいの角

こんなにも遠浅なるを知らざれば濡れし砂浜羞恥に似たる

死期近き父の老躯と宿す身もいずれもいずれも美しくなし

亡くなりし時の仔細を語ること儀式のように客に向かいぬ

わが上にあれば燕はひるがえり線となりつつ翔びゆきにけり

「現代短歌文庫」シリーズで、長澤さんの既刊『海の角笛』以下の歌集が収められている。

ここでは、それ以前の歌集からのきらめきを。

人生のスポットスポットを取り上げて丁寧に磨きをかける作風が持ち味。

自身の、相手の心の中に忍び込んでゆくような丁寧さが魅力となる。

いっぽう、父君の死に対してもここに引くよう名な

おごそかな側面を見せている。


■夏母natsubo □大野道夫歌集

2010.8.15 短歌研究社

 

金属の味するコップで水を飲む昼下がる昼痺れゆく舌

朝夕に遺族満ち引く大広間木魚は泳がず叩かれ続け

>手袋を>外そうAよ>八年間>世界から指を>絶ちし灰色

一昨日(いっさくじつ)昨日今日今日(コピー)複写(コピー)複写(コピー)複写(コピー)今日今日明日明後日(あさって)

夜の駅手首、指、やがて掌を握りてゆかな 年齢差の段

僕に垂れる七・七(しものく)が嫌いな君に会う夜の道に遠く春雷は鳴りて

蚊帳を通る風手造りのアイスの貨腕の光へ呼びぬ夏母(なつぼ)

2000年刊行の「冬ビア・ドロローサ」以来の歌集であるが、頁主はその変貌を刮目して眺めた。

エリートの突然変異は、守破離の「破」か、序破急の「破」か、好ましい繚乱。

名詞を動詞にコンバートする、木魚を泳がせようとする、強引に次ぐ強引。

後半の女性のおもかげちらほらも捨てがたい。

大野さんは「心の花」のメンバー、その第4歌集である。


■エンドロール □三田村正彦歌集集

2010.9.29 青磁社

 

エンドロールから見始むるミステリー映画のやうな会議であつた

海中(わたなか)をすべる鰹の群れのごと動く組織を夢想だにせず

みづからを複写するなく複写機の光が含羞むやうにはみ出る

争はず空の果たてをゆく雲と雷はいきなり無をぶちかます

春雨の夜の果てまで降り続く 音の区域にのみ覚めてゐて

鈍色の肌をさらせり雨の日のモータープールに隣接の倉

水無月の滑り台にてわづかづつ動く砂 まだ踏んばつてゐる

スケールの大きい、キレのよい作品が目立つ。

正統にして巨大な組織の構成員が〈最初に結論ありき〉の会議の感想を集題にする度胸に恐れ入る。

このことを以て破天荒な逸材と呼ぶのは早計かと思われたが、何の何の、その後に引き続く作品がその路線を涼やかに立証した。

端倪を許さない境地まで昇り詰めるのだろうか。

「無をぶちかます」「音の区域」「隣接の倉」には《伝統芸能》とは無縁の光彩があって頼もしい。

三田村さんは「飛聲」のメンバー、その光輝ある第1歌集である。


■玉門関 □武馬久仁裕句集

2010.9.1 ふらんす堂

 

現代俳句の鬼才、ぶま・くにひろ氏初の《俳句紀行》である。

句と散文を織り交ぜての工夫の境地であるが、ここでは句のみを引く。

以下はその意味では「陸のみあって海のない地図」の恨みがある。

 

沙州とは全ての星の降るところ

星降る夜硬貨五枚を地に落とす

 

戈壁砂漠或る夜烈しく飛天堕ち

彼の女舌翻す戈壁砂漠

 

蝋梅密かに惹かれている私

偶像となった魯迅に狼狽し

 

玉門関月は俄に欠けて出る

 

昼顔がひそひそひそと誣告する

忠烈祠炎天軍靴雅語飛天

 

パイナップル爆弾のようないやらしさ

マンゴスチン食べて眺めて久保純夫

 

薺咲く道に来て故意に恋する

ボヘミアの離れ離れの雲に乗る

 

先頭から2句ずつは相前後して配されている。

明らかに2句カプリングの志向がある。

沙州(敦煌)での、戈壁(ゴビ)での大自然との抱擁、ロウバイの遊びもいわば旅心。

7句目以降で従来本来の境地が滲み出るようだ。

本来のゾリストが紀行文とのコンチェルトを奏するごとし。

このあたりは別項でゆるりと述べたい思いが強い。

武馬さんは『雑技団』等のメンバー、本集は『獏の来る道』に次ぐ第3句集である。


■二月生まれの三月ウサギ □野一色容子歌集

2010.6.20 ミューズコーポレーション

 

時空とは如意棒のごとく縮むものむかしと同じ笑ひの声に

あれやこれ読みちらかしてすね者は夜雨を悦び外出したり

紺色の蓋の失せたるティーポットわが家の<March(三月) hare(ウサギ)>は使ふ

もちあがる愉快なことは彼のせゐ二月生まれの<三月ウサギ>

父病める家に時計を忘れたりいまごろへなへな時刻みゐむ

わが書の師はればれと紙に(むか)ふなり率意(そつい)即興(そっきょう)、ソリストさながら

「生きてゐるのに飽きちゃった」と言ひ母は死すありがたうとわたしが言ふまえ

頁主にとっては「開放区」でおなじみながら歌集は初見。

「三月ウサギ」の正体はを明確に説明するなど詠法はストレート。

父も師もそのまま。母堂をお送りするのも歌の上では淡々。知性派に徹する姿であろうか。

本集は野一色さんの第二歌集である。

 


■薔薇図譜 □三井修歌集

2010.7.21 短歌研究社

 

薔薇図譜に薔薇溢れいてわが兄はこの冬深く眠りていたり

死の渚いま越えたるかモニターの指標がなべて(たいら)になりぬ

なきがらの兄を送るとホールには水鳥のごとナースら並ぶ

全予定記せる手帳紛失しわれはこの世の迷い子となる

舟型のおみなの靴よいずこより船出してきて玄関にある

ねずみ年なれば小心?脇腹を(つつ)く鞄に抗議の出来ず

金木犀零るる上をこの夏に生まれし仔猫が慎重にゆく

 

「薔薇図譜」はその豪奢な名称の一面で、令兄の脳のCT写真の映像を示している。

続く葬送の作品に三井さんの深い情愛がにじむ。

ばりばりのグローバルビジネス時代の気負いとは異なる成熟美がまぶしい。

三井さんの小春日と呼んで経緯を表する。春爛漫ならぬ秋凛凛の新境地である。

三井さんは『塔』のメンバー、その第7歌集である。


■蓬歳断想録 □島田修三歌集

2010.7.30 短歌研究社

 

水銀(みづがね)のキャデラック・ドゥビル(はし)りぬけ黄昏(くわうこん)ふかし極楽交差点

たかが豚漢(でぶ)の痩せゆく始末を書きつらね阿呆といふべし読みたる俺も

はんなりとしてぼんじゃりとしたるとや京都の模糊にいらだつ俺は

喧嘩売らむほどに近くをかすめ飛び嘴太鴉(はしぶと)あそぶ飛ばざる俺と

おいそこの学部長、寝てんぢゃねえよとわが言はざれば静かなり会議

昇降機にふたつあるドアの裏側のドアより出だされ(かばね)の母は

人体の内外に弁やいくつある嗚呼べら坊めゆまりとどまらず

 

正に怒濤の決意から放たれる土石流の奔放さ。『オレオレ短歌』は健在。

しかしよくよく見るとそれぞれにこの作歌の《思惟》が見える。

《思惟》の根底には《ブランド》《権威》が見据えられている。

かかる知的生産のなかでの末尾の伝法はひときわ光彩を放つ。

島田さんは『まひる野』のメンバー、その第6歌集である。


沖縄(うちなー)耽溺者(ジャンキー) □南輝子歌集

2010.5.3 ながらみ書房

美しく物質として黙深く辺野古にからむてつでうまうは

青 あをあを 空 底ぬける わが死後の泉へつながる斎場(せーふぁー)御嶽(うたき)

海人の貧しさがある 青空がくるつてゐますさたうきび畑

凪ぎわたる きよらかすぎて命から剥がれてしまつた青といふ色

戦後つてなんだ沖縄 昭和の骨と骨が青うち揺する

無頼の兄つひに一生の波瀾万丈残波蹴たてて

襤褸儲(ぼろまうけ)丸投(まるなげ)孫発注(まごうけ)曾孫発注(ひまごうけ)ハウスメーカー儘情地想做(やりたいはうだい)

南さんは、歌集、詩集、詩画集、絵画展、音楽CDなど

あらゆるジャンルにわたる神戸を本拠とする堂々の発信体である。

頁主は本歌集にのみに与るがなみなみでないバイタリティは享受できた。

言語エネルギー横溢、作者自身の心情のバーブレーショは超刺激的。

「モンキートレイン」でおなじみながら歌集は初見。

南さんは「眩」「紅」のメンバー、その第3歌集となる。


 

■ペルセフォネの帰還 □水原茜歌集

2010.6.30 砂子屋書房

左右対称(シンメトリー) 秒針ほどに狂はせてひなぎくの赤ひなぎくの白

あやまたず子と離りゆく鳥獣  子のゆきしことひとには告げず

ゆすりても動かぬ時間の棲むやうな森の出口を裸木に訊く

迷走ののちの春なりペルセフォネの帰還をまねてみどりをまかむ

二百種のダリアの首はひんやりと夢の重さを受けとめてをり

黄金の鱗のうおを棲まはせる冬陽のちからを見てゐる真午

野をかける風をみてゐる駆けのぼり駆けくだる風の搬びくるもの

 

ペルセフォネはギリシャ神話の女神、その帰還は喪われた春の再帰を物語る。

わたくしがこ歌集に見るものは水原さんの絶えず自然を一方に、生物を一方に配する構図≠セ。

かつ、「子」との別れもその中に織り込まれている。

この複合性ゆえにこの歌集の彫りは実に深い。
水原さんは「短歌人」のメンバー、その『パンセの森』に次ぐ第2歌集である。

 


■天意 □桑原正紀歌集

2010.8.12 短歌研究社

 

公園を見おろす位置に車椅子すゑて指さす木々の芽ぶきを

正直を言はばこのごろ人類の<>をうたがへり<>のもつ牙を

猫の手を握りし手もて妻の手をとれど告げ得ず猫病むことは

三毛猫のなきがら挟み一匹と一人が夜半を(もだ)ふかくゐる

妻を看るこの生活をいましばし続けよといふ天意なるべし

<これまで><これから>もなき一瞬の輝きが今わが身つらぬく

仮の世といへどいとしき仮の世に仮の姿(なり)にていつくしみ合ふ

 

前集に続く夫人の看護を中心とする日常からの出詠である。

病む妻が愛するその猫がまた病むという、哀切の日々の中で

桑原さんはしっかりと世を時を見据える。

さらに二匹の愛猫がつぎつぎと喪われてゆくという、いいようもない悲しみの中での本集には

ひろく桑原さんの思いが積算されるが、つきつめるところ、『天意』の名が示すごとく、この創痍の日々に生み出された《恩愛》と《真理》の集の趣きがある。

桑原さんは「コスモス」のメンバー、本集は2007年刊行の妻へ。千年待たむ』に継ぐ第7歌集である。

 


■山鳩集 □小池光歌集

2010.6.28 砂子屋書房

 

春よ来い、ぐいぐいと来い「フヮイトォ!」腹筋を絞りつくして叫ぶ

だしぬけに箪笥のうへに舞ひ上がるこのいきものはさつきまで猫

鳥目(てうもく)鳥目(とりめ)とはちがふ(さかな)の目(うを)の目とちがふ魚目(ぎょもく)は俳人

緊褌(きんこん)のみづみづしさにひとたびは阿修羅吶喊してたたかひし

島国が海に没するなぎさにてましろき貝をひとつ拾へる

人間はこころのへりに長押(なげし)あれ朱塗りの槍を懸けおくところ

なめくぢのすきとほる身にほのぼのと懺悔のごとくともる腸

 

蜘蛛手十文字という。頁主が膝を打つ作品にはおのずとその傾向もあるが

本編では全巻に渡って作風の突出方向が正に多様・自在なのである。

このことは既に『時のめぐりに』に見る小池光の硬式性でも挙げているが更に展開が加えられた。

さて、1首目の音声描写は朗読に値し、3首目に類する言語薀蓄教養の諸説は一巻に横溢する。

4首目は勢力争いに完膚なきまで惨敗した愛猫への賛辞。

以下、歌ごころと雄ごころのぶっちがいが紙背まで浸潤する。

小池さんは「短歌人」の編集人、本編は『滴滴集』『時のめぐりに』に続く第8歌集である。


■プリーズ・コール・バック □田中律子歌集

2010.7.17 砂子屋書房

東京をしばし去りますあなたへの退職願ひは青き便箋

挙手をしてレスキュー部隊帰りゆくたつた今まで生きてゐた父

授業参観でわたしがいつもしたやうに母は振り返りわたしを探す

菜の花のサンド買ひきて食べる雪の夜 好きになるのは明日にしよう

十三夜コスモス畑の上に浮く月はなかなか帰りたがらず

一年越の約束だからお花見をしませう猫と月とを連れて

秋空へ向けて携帯鳴らしたり「PCB」お父さん、電話ください

高杉晋作は「おもしろきこともなき世をおもしろく」と今は≠ノ歌ったというが

田中さんの作を見ると「うつくしきこともなき世をうつくしく」詠もうとしているかに見える。

商社のビジネス第一線に身を置き、ハードな月日を送りながら、折にふれ、パティシエのように歌を造る。

集中、肉親との永訣(祖母の歌は割愛した)やら介護やらにうちまじり

恋人との関係やら、オフィスでのお夜食やら、ふとしたお花見やらなかなか装飾的である。

この軽快にして過剰ぎみの装飾主義とリアリティの拮抗がこの集の生命、田中律子さんの本領である。

田中さんは「塔」それから「現代短歌舟の会」のメンバー、本集は『四季の迷路図』に次ぐそのひさびさの第2歌集である。


■瑠璃色世紀 □江畑實歌集

2010.7.14 ながらみ書房

証券街を風吹きまよひ中世の終りの日日に似るきのふけふ

瑠璃色の二十二世紀ヒトらその脳と脳のみにて愛しあふ

神馬(しんめ)立ちわが存在の根元へいたる黒曜石のまなざし

白蟻の塚わらわらとくづれこの終末の雛形

晩夏(おそなつ)の蚊をただむきにとまらせてうつとり(おも)ふ輪廻転生

恍惚と炎の舌になめられてジャンヌ、この服装倒錯者(トランスヴェスタイト)

微熱()む耳底に前世よりのこる言葉「又、會ふぜ。瀧の下で」

 

江畑さんには幼少時から《終末観》や《末法思想》に感応する部分があるという。

本集全編にその趣は漂っている。現代に中世を重ね、未来を見通す。

しかし、このことは、一旦世俗を離れて、言わばなかぞらからの視点で、現代の人界に浮遊するものを掬い取って見せてくれる貴重な作品を生み出す。

最後に引いた作は、無論、三島由紀夫が「豊饒の海」で第一主人公に自己の転生を予言する言辞であり、

この集の本質を響かせている。

江畑さんは「玲瓏」のメンバーである。

 


■淡緑湖(たんりょくこ) □都築直子

2010.7.1 本阿弥書店

目陰(まかげ)してのぞくガラス戸 地下域のレール照りつつ下りへむかふ

傘下げて夏の階段のぼりゆけば空の手前で左へ折れつ

みづからの(ジー)にあるいは耐へかねて大いなる日はビルにめりこむ

明日受精せむ者たちよこの星に汝ら居らぬながき時ある

あるときはおのが頭のふた取って刷子(ブラシ)ではらふ脳味噌のひだ

たつたひとつの虚空に刺さるビルの穂を仰ぎみたりぬ鉛直下より

五十九階より見れば朝もやの都市は静かな淡緑の(うみ)

都築さんには不思議な視線がある。理屈を添わせながらものを見る視線である。

《本質視》と呼ぼう。都市の景観を、上下左右という自己の座標との観点から捉え、

おりおり、『G』であり『鉛直』である位置関係として捉え直す。

大きな視座から、あるいは時間軸を超えた詩精神に頷きながら、ときに首を傾げながら、読み進んでいいた

都築さんは「日本歌人」所属、その第2歌集である。

 


■ナナメヒコ □村松建彦歌集

2010.4.28 ながらみ書房

炎天下白日大道広無辺ゆらり逃げ水ふらり人の子

ねえ夕陽あしたの朝に東から顔を出すのはほんにおまえか

あまりにも月しろきしろき道ゆえにいたちのおやじ草間にたじろぐ

無名骨の坐骨粗面がしびれゆく午後三時いまだ終わらぬ会議

鼠けい部の上辺あたりをかいまみせるようなファッション恥じらいあらず

「コ」がつけば女みたいとからかわれタテヒコヨコヒコナナメヒコ泣く

太陽の力うすれる晩秋の野に風は吹く ママンは死なず

 

村松さんは「塔」所属、その第1歌集である。

「ナナメヒコ」なる自身の名をもじっての集名にふさわしい、奔放逸走軽妙洒脱の歌い口には類例がなく、飽きることもない。

当節、「人を食った歌」は枯渇状態であるので、この泉からの清水には、大いに癒やされた次第である。

炎天下白日大道広無辺」に代表される《連綿調》がことに心に残る。

 


■大空を探しに □合同歌集(序文佐伯裕子)

2010.5.20 北冬舎

留守電に「ゼロ件です」と告げられて見失いゆくわたしの居場所飯尾睦子

うつむきて過ぎゆく人の頭の重さ量りておりぬ青山通り向後陽子

どこにでも絡みつく性いんげんは己に巻きつき身動きとれず平野邦子

はじめてのヨーガに伸ばす背なかにはステゴザウルスの骨がはりつく永楽美智子

我が田にはオタマジャクシが万余いて一歩進めば千余が騒ぐ入沢正夫

半開きうつむきがちに海棠はものを想って想わせて咲く蘇武治子

海音が半音階ほど華やぎて私の中に「SEASON」は始まる秋山彩子

かさなりてなお重なれる山脈の渓の静寂を青あおと聴く北村邦子

いびつなる今宵の月を用意して深山の空は星をあそばす西村澄子

この9人は「未来」で佐伯裕子さんの選歌欄への投稿者にして

同じく佐伯さんの「学習院生涯学習センター・短歌教室」10年の成果、とある。

各人50首、計500首は圧巻。それぞれの厳選によっている。

 


■乳房雲 □田中教子歌集

2010.5.12短歌研究社

 

神の手に乳房落としし我が姿 慣れるしかないひとひらの鬱

火喰鳥(ヒクイドリ)の赤い肉垂れながながと愛すと言ひし人も幻

ストッキングのやうにうす皮ぬぎすててガラスケースに眠る蛇あり

ざらざらとながれこぼれる日の下に生き直すための道の一筋

三百の胎児をその身に宿しつつジンベヱザメの母体がゆらぐ

秋の午後しやぼんをたつぷり泡だてて胸の削ぎ傷消さむとしたり

誰もゐない駅のガラスのぬばたまに月影ふたつ割れて浮かびぬ

the long red flesh

of a cassowary, dangling

illusory also

the man who said he would

love me a long, long time

 

shedding its skin

like a stocking,

the snake

sleeps on

in its glass case

 

英語短歌は By Ameria Fielden and 小城小夜子

 

田中教子さんの第2歌集であるが、著者のことばは半言もない。

潔いと感じたが、このことは上掲のような極めて自在は作風と深く関わると見る。

上記冒頭からの2首は短く刈り込んで自己を語り、じめつきと別世界を形成する知性の世界。

シリアスな伴奏部を持ちなららも放縦な比喩、意表の語のカプリングが踊る。

なお、全作、英語短歌とのダブル掲載である。

 


■愛しき者 □福島信雄歌集

2010.4.21本阿弥書店

()にとりてセラピドッグなる「さくら」母も知らずに六歳を暮らす

菜の花どき生れし豆柴犬の「奈々」、吾の次女となり膝にまどろ

山百合の咲く頃生れしポメラニアンゆえに「リリー」と名付け愛しむ

「かあさんができるかも知れないよ」小首かしげる犬の()きらり

ライラック咲く頃生れしポメラニアン、「リラ」と名付けて末娘(すえむすめ)とす

平均的寿命思えば犬達との別れ四度(よたび)と気付く淋しさ

仲秋の月は照れども犬達は空も見ず、犬は月に吠えず

 

福島さんは「日月」所属。『薔薇』に次ぐ第2歌集であるが、

本集はうってかわって福島さんの手放しワールド。4頭の写真も少なくない。

無論、歌集である以上、短歌の《高み》を志向する作もあるにはあるが

弊サイトではわんちゃんとのじゃれ合いを照らすほうに意義が高かろう。

 


■葡萄の香り、噴水の匂い □大田美和歌集

2010.4.20北冬舎

降り始めた雪を着て出る「夜中にきみに話しかけたかった」と言われる前に

願わくば大田の失態として記憶せよ女の教授の失態でなく

ダマが出来たら木杓子を網にこすりつけそっと押し・・・・・・てももう戻らない

詩はボール 投げて拾って受けとめて笑って息を呑んで驚く

戦後はじめて兵を送ったドイツには反アメリカの気骨があるぞ

「おっ」「おっ」「おっ」蕾はじけて嬉しそう高校四年生みたいなもんだ

開かれた足の間に今朝産んだ真珠のような詩のひとしずく

 

大田さんは「未来」のメンバー。著作は多岐に及ぶが歌集としてば第4歌集となる。

この本は多面体で、可憐な相聞あり、シャープな社会スケッチあり、

当意即妙の機知・臨場詠も光る。さらに、茶目っ気も魅力。

ここに引かない歌も含めて通読すると「ジェンダー」に関する強い見識も見える。


■呂宋へ(ルソンへ)□関根和美歌集

2010.5.26短歌研究社

関東の根元と説ける書のありて関根のルーツたくましきかな

ぱかと割りほくとふくめる飴炊きの胡桃入り最中を抱きてかえる

足利の丸二の家紋捨てざりきたとえ名を変えここに住むとも

荒城の今宵の月をしのびつつ食す半月満月の菓子

ひらきたるルカ十九章たちあがり「人々黙せば石叫ぶべし」

汗ばめる肉もつわれら呂宋というひびきの島の陽を仰ぎたり

今の世に右近を恋う者おりますとマニラの空に放つ日本語

 

関根さんは「地中海」のメンバー、その第4歌集。

出自への矜恃に支られた自我意識も集のひとつの柱をなしている。

無論、日常の肌理の細かい感覚も見逃せない佳作を生み続ける。

宗教的自我探求も含めて、呂宋へ高山右近を追う一連は圧巻である。


■朱い実  □大崎瀬都歌集

2010.4.26ながらみ書房

しやりしやりと夕焼けを剥ぎ食べてゐるセイタカアワダツサウの花叢

近寄れば近き順よりおもむろに億劫さうに飛び立つ鴉

側転をしながら道を駆けてゆく風の中なる落ち葉を見たり

雪の日の回転木馬そのかみは中折れ帽の似合ふ父ゐて

正しいのは()の言ひ分と思へどもなほ言い掛かりをつけて争

いつしんに舞台のひとを見つめをり穴のあくほど煙立つほど

雨のなか枝の小鳥が銜へたる小さき朱き美を奪ひたし

 

大崎さんは「ヤママユ」のメンバー、その第2歌集。

正に我が目で捉えたスケッチには全て銘が入りうるほどの出色。

かつ「穴のあくほど煙の立つほど」のように忘れがたい言い切りもある。

家族も風景もみな大崎さんの愛される対象なのだ。つまり、慈愛の人。


■男って、かわいそ。□凜久(りんく)

2010.3.3短歌研究社

散々に泣かれたあとに初あんよ 嘆き喜びごちゃまぜ涙

あぐあぐあ〜 まんままんま あぶあぶあ〜君語の通訳まだ見習い中

むずがって投げて砕ける哺乳瓶一回きりで懲りました?パパ?

父≠ニいう響きは自分の父にだけ? 父になってる自分はどうよ

男なぞ女性の添え物なんですよ 識者のおコトバ言い得て妙ね

泣いてやる君が泣くなら泣いてやる君とは違うひでぇ涙で

境目の無い成長を見続ける見逃している貴方は哀れ

凛久さんは「レーベ」会員。その第1歌集である。

作詞作曲活動家でもあるとのこと、恐らく抄出の超口語体の源流はそこにある。

上記はドラマ仕立ての全編の論旨に沿うて抄出してみた。

夫君を一般化して「男」と表現する口吻にも独特のものが見えてほほえましい。

 

 

 

 

 


 

 

 


■水の容体 □長谷川富市

2009.12.16不識書院

 

山の木の幹のめぐりの雪とけて窪みまぶしき春は来にけり

きぞの雪矩形の水と変わりいてゆたゆた揺れる屋上揺れる

大戦のなければ吾も酒蔵の四代目杜氏となりておりしか

今日の水は流れいるか問う我に年々異なる者が答える

つちの子という蛇ありやあるならば楽しき蛇の顔をもつらん

浮世絵のびっしりある部屋抜けてきて石頭並ぶ室に至りぬ

わが脱ぎしスリッパ二つ黄色の虫のごとくに内を窺う

長谷川さんは「短歌人」編集委員、その第3歌集である。

よくよく存じ上げるが某会には極めて珍しい、上品な挙措の持ち主。

ごらんのごとく《尖らない知》がその本領。さてこそほんももの知性であろう。

最終抄出の破調にも角隠しのなかの冒険心がちらり。


■サンボリ酢ム □田中槐歌集

2009.11.30砂子屋書房

 

た、た、た、た、た、全ての過去が「た」になりてのつぺらぼうの未来は来り

先延ばしされる「死」の先にゐるモノガタルわれ 後ろ向く膝

みんみんのだんだん浪花節調に聞こえ始めて夏は終わりぬ

こめかみの痛む朝からくるぶしの軋む夜までほとほとひとり

左手(ゆんで)にはジャーナルといふ雑誌あり右手(めて)のパンチはさておきさておき

そこにある変なかたちの壜なれば変な形に酢は蹲る

長袖のわたしを包む湿度から逃れるやうに弱冷房車

田中さんは「未来」所属、その第3歌集である。

わたくしににとっての田中さんの最大の魅力は

抄出のような《自己を軸とした作法》である。

膝もパンチも浪曲の感受もそれゆえにきわめてすぐれて《自在》である。


■こぐらや □津田典男(つだ・ふみお)

2010.1.吉 アルファー

 

粉雪を花芯にうけて白梅は香りはなてり月光の中

何時しかに木の芽ふくらみ春めきぬリズムにのりて喜寿の身かるし

咲き垂るる藤の花房揺らしつつ猛々しき蜂みつ集めいて

和歌の浦に小魚の群れ押し寄せて波は無惨に打ち上げて退く

さざなみの海くろぐろとしずまりて地平を染めて陽の昇りくる

こぐらやを護り続けて二百年余日限(ひぎり)地蔵堂墓地中央に

母眠る柩に結いしさらし木綿女人等引きて霊柩車まで

津田さんは「レーベ」同人。集名は生家の屋号とある。

日本画家でもあり、丁寧編集な写実が本領。

喜寿を過ぎ、矍鑠の第1歌集である。


Spreading Ripples〔命のさざなみ〕 □Anna Holley〔結城 文〕歌集

2009.11.28 万来舎

 

高熱にうなされし七歳の悪夢なり目の赤き八岐の大蛇に追はれし

a seven-year old child

runs a high fever

an eight-headed snake

with gleaming red eyes

nightmare

 

夏終はる北半球の雨にぬれひまはりの花の首は傾く

Wet with rain

in the Northern hemisphere

summer is ending,

sun flowers turn

their necks downward

 

野外コンサート始まるまへの調弦の音を春風の運びきたりぬ

before

the outdoor concert

begins,

the spring breeze carries

the sound of tuning strings

 

大いなる静寂やぶり水の谷ゆく鷹の鋭声こだます

breaking the vast quietude,

echo the keen cries of

a halk

soaring over the valley

where everlasting water flowers

 

still bound

by a single string

to the earth kite

I long to set free

ひとすぢの糸につながれなほ昇る凧放たむとひたに思ひし

 

A cock calls

for light at dawn,

not knowing

the sun in my heart

has already set

雄鳥は光もとめて明けに啼くわが心の日が沈みしを知らずに

 

like pieces

torn from my heart

at maple scatters

red leaves in wind

別れゆくわれの心のかけらのやうに紅葉は赤き葉散らす

 

このコンビはCold Waves以来2集目である。

上記のTANKAと短歌の配列は先に書かれたものがオリジナル

後に書かれたものが翻訳である。

つまり、■(短歌→TANKAはオリジナル&英訳が結城さん

  (TANKA→短歌)TANKAHolleyさん日本語訳が結城さんである。

味わわれたい。


■極圏の光 □中沢直人歌集

2009.12.25本阿弥書店

 

極圏の光を連れて飛来するカナダ・グースが告げる立秋

出世したい男の汗はぬめぬめとしてわがタオルうみうしのごとし

黒ずんだ俺はこんなに孤立してバルコンに撒き散らす空しさ

お互いに仕事が大事 面倒な豆腐ぬぷりぬぷり崩れてゆきぬ

乗り継いだ普通電車の空席に牙持つごとき海うさぎ笑う

よく書けた答案のことごとく薄し 湿地に無性化した鰐

もういいよ。俺はと思う十二月We regretだけ読みたたむ

中沢さんは「未来」の編集委員、その第1歌集である。

まさに堂々たる意思表示を短歌の姿で実現した。

多くの《独自物》を歌に潜入させてそこで放光させている。

堂に入った《俺》もひさびさで味わえた。《骨格》の際だつ歌集。


■東京モノローグ □宮田長洋歌集

2009.10.4短歌新聞社

 

街角に顔覗かすることもなし首都に逐われし野のかなしみは

リフレッシュサロンのみ地下は薄暗く青白き足さすられありぬ

超高層ビルはぼかして副都心筆圧つよくおのれを描く

「行商人みたいなもんです」言えば驚く「慶応大学出たってのに」

振りかえり人訝しむ鷺ノ宮駅までひとりごとやまざる我を

ステージに踊り子ありてBGMハーレムノクターンうら悲しかりき

淋しきかげにもさびしよ片膝をつきて向かいの橋を描けば

宮田さんは「短歌人」のメンバー、その第3歌集。

『時の杯』より6年を経た。

まさしく都会の住人にて、その宮田的都市性の哀楽を実に独自に表現する。

つまり、都市風景の描写がつねに内面と密接に結びつくゆえに

いつもいつもすぐれて宮田長洋的なのである。


 

■花 □西村澄子歌集

2009.7.15北冬舎

 

枷ひとつ剥がれし冬をふはふはと頭蓋の奥に雪虫の舞ふ

天蓋を離るるはなのひとひらも己が重みを持ちて散りくる

たはむれに買ひて放ちし風船の空の涙となるまで見つむ

パンジーの多色ひらひら陽をはじく明るきものの軽きてざはり

わが影は立ち上がりたり声もなく呆と座しゐるわれに先立ち

嗅げば臭ふ川の真中に風ながれ光となりて立てり白鷺

ふんはりと苔をやしなふ寺庭に素足しづめてよぎる白猫

西村さんは「未来」のメンバー、その第2歌集。

「平明な歌」を心がけたとあとがきにあるが

花の舞うさま、小動物の動きは「平明」を心がけねば見えない境地である。

われよりも先にわが影が立つ様にもなかなか出会えないものだ。


■綾を育む □秋葉静枝歌集

2009.8.24ながらみ書房

 

量感を際立てて白を盛る雲を分くればあらん起死回生の策

夕映えをなぞるがに鳶の一羽()ぬ死とは余光に吸わるることと

崩壊のかたち優しく鎮めおり妍を競いて‐咲きたる花火

否応なく煮え湯、苦汁を嘗めきしも時空は永遠の優しさ伴侶

人類の居らざる星に誘うや秋の夕べの胡弓の響き

太平洋の日の出まるごと身に溜めてこの後の世の力となさん

水滴零さぬ地球を如何に見る大気存在せざる月輪

秋葉さんは「白南風」のメンバー、その第4歌集。

吠える犬はかまない、鳴く猫は鼠をとらないと饒舌は警戒される。

秋葉さんの作は、いわば「音無の構え」真理に直裁に迫るのは例示の通り。

生・宇宙・つまり時空と直に接するストレートさが身上である。


■平成おとぎばなし □清水篤歌集

2009.7.17ながらみ書房

臨終に立ち会はざれば父の死は銅鑼を鳴らさず往きし帆船

殴りかかるまねして大声あげしのみまだやって行けるやうな気がする

叱られておぢいさんは川へ洗たくに精霊とんぼ群れゐる淵へ

浦島の酒池肉林のものがたりその始まりは情あつき亀

パソコンに雨だれのおと打ちこめば定型の水いつしか溜まる

ペット小屋にとろんとした眼でよこたはる小犬それぞれ優秀(エリート)ならむ

とめどなく風車を廻すマウスにも似て追ふ時間追はるる時間

清水さんは「まひる野」のメンバー、その第1歌集。

2〜3首目の作には「平成おとぎ話」の章題がある。

この「ひとねじり」された寓意にこそ清水さんの社会眼がある。

歌に対する情熱も見え隠れする。


■夏の堰 □阿部節子歌集

2009.9.1日本平版印刷

白濁の汁厭いつつ食みし実の無花果は遠き 晩夏の姉妹

撓むほど百合の莟はくちなわの頭に似て翳るわが夏の堰

憎いくつおさめてかなし春の身ぞ闇に馬酔木がこぼす白花

川底の青き蛍に逢うために漆黒の梯子われは降りゆく

からからと鯉の矢車からまわりしんじつ憎いひとは誰なの

オリオン座の煌めくひとつを掌中に渡るべし銀河コトノハ銀河

阿部さんは「現代短歌の会『漣』のメンバー」。その第1歌集である。

同人誌と新聞歌壇で二十数年、まさに鍛えた歌境には全く隙がない。

自己観察の「詩に迫るもの」が課題目的とあとがきにある。

が、その萌芽も無論、見てとれる。


■或る晴れた日に □秋山律子歌集

2009.8.10北冬舎

               しろじろと春の雲行くゆくえには幾つの国の春の日の影

断念の断念の断念に()くオリーブのあぶら透くとも

仰向けるひたいは虚空のようだから桃の葉擦れが来て通り過ぐ

電柱の影一本に下りてくる月光の指鳴るかと思う

木椅子は孤島であればからだごと打ち上げられて眠ってしまう

飲み干すに朝の牛乳しろじろと霧噴くように臓腑に翳る

ミモザの黄吹き上げ来たる氾濫のどうしようもなき春の輝き

秋山さんは「未来」の編集委員、その第4歌集である。

2首目断念の歌は初句8音、4句欠落と読んむ。

抄出全てに細工あり、個性のない作はない。

一巻堂々たる威風が漲る。

 


■サルペドンの風斬る朝に □足立尚計歌集

2009.7.18六花書林

スサノオの(すさ)びに遭いて息を吐く神の唸りを堤防に聞く

鉄橋が落ちた。線路も断ちました。足羽川は暴れん坊です。

越へ来てみいんなここで逝きました。義貞勝家お市秀康

他人の創った人生を我が人生とすること拒み不幸道行く

日本海の悲しき町に流れ来て荒ぶる神となるのか俺も

さらば旧姓そして新姓どのような出自であれど皮むけば俺

寂しければ酒の相手をいたしましょう山神様と今日二人宴

足立さんは「短歌人」同人。その第2歌集。1〜2首目は郷里の福井豪雨に取材。

土地と自身の肝を結びつける「土着的抒情」は固有のもの。

サルペドンは青条揚羽。

歌界にあっては無頼神職の幣が乱舞する。

 


空庭(黒瀬珂瀾)2009.6.5〔ながらみ書房〕

2009.9.19

 

第一歌集『黒曜宮』からはや6年。

前集は華麗さと瀬を走る奔流の快をが読み手を楽しませたが

本集では質量を増した感が確実に見て取れる。

ゆふぐれは裸樹のみを立たしめて自らの名をgoogle(ググ)る毎日

あられ降る間際砂場にをさな児が脇目もふらず築く須弥山(しゅみせん)

遅くない、さう俺たちは 残されし時を魚影で飾り微笑む

たとえば、「ゆふぐれ」と「google(ググ)る」のカプリング、

「間際」と「脇目もふらず」のカプリング、

「さう」と「俺たち」の直結。これらは見ようによれば、あるまじきカプリングであるが、

最初の例では高さと広さを文字通り縦横に開き、

第二のケースはスナップショットを重ね合わせるごとき手配り、

第三のケースはソースに砂糖をかけるような意表がよい。

いってみればクレイジー・シュガーの手さばきである。

いま君の葬列を踏む花ひとつ、ふたつ輪廻の葉陰にひらく

ナイフ、フォークきらめきながら音たてぬ夜を()が眉は鮮明すぎて

渋谷スペイン坂からあふれ出る海、また海の深すぎる青

アレッポの石鹼をもて流しゆく夏の汚れも愛のさざめき

朝焼けは植民地にも絢爛と来て世界中朝焼けだらけ

匿名のままに罵倒を残しきてネット切るとき水にほひたつ

君去れば飲まれぬままに薄まれるコ−ヒーに浮く氷片ぼくは

花火らは精子のごとくいつしんに天に向かひて弾け散りたり

霊魂を捕らへつつ夜を立ち尽し桜は君に永遠(とは)の背景

上記のように環境に対し、下記のように自己を見つめる。

同胞よ霧たつごときすばやさに攻め立ててくれ夏の目覚めを

サビだけが歌へる歌を(世界とはそのやうなもの)雨をながめて

いつの間に僕らは大人になつたのか 塔を登つた記憶はないが

造りが一様でないいわば凹凸の排列から、詩的活動の志向が読み取れる。

この鍬づかいの開墾を楽しみたい。

 


向こう側(光栄尭夫)2009.6.1〔ながらみ書房〕

2009.9.9

 

光栄さんの関心はかねてから

《実在と非在の領域の相克》なるテーマにある。

仄白き花としたたる水音がいざないてゆく向こう側へと

ガラス戸に手を差し込めば向こう側へと届く気がする晩春の午後

ひとすじの闇の裂け目を指をもて辿れば境界線を越えたり

雪の上の足跡は不意に途絶えたり境界線は見当たらずして

半開きの扉の中に吸われゆく雪を見ているこちら側より

向こう側、こちら側、境界はそのキーワード、味わいどころだ。

 

さらに不思議な立ち居振る舞いのキーワード。

もう一人の我はどこにも出没す例えば八月の淵を覗きに

空席の一つはあれど坐らずに過ぎてゆかんか今年の夏も

高層の薄明地帯をもとおれば()の奥底へ降りてゆきたり

隣る世へゆく春ならんきらきらと光を吸いて崖を落ちゆく

自らが穴となりゆく感触にひたされており交差する地に

でも基本は、自然体での季節折々の静観からの作が多い。

溜息をつきては微笑する以外すべなき今日梅雨に入るらし

ビニールの紐に付きたる水滴は膨らみ続け透きとおりゆく

遠雷を聞きつつまどろむ旅の夕夢のすきまに花火開けり

不思議な感覚はますます不思議さを加速し、神域めいたものまでが形成されつつある

身中の皮膜や筋が躍動し地も逆流す啓蟄の朝

春蘭の匂い染みたる指先を洗わぬままに還り来たりぬ

魂の肌肉にしんと沁み透りくるもののある花冷えの宵

光栄さんは「桜狩」の代表、その第6歌集である。

 


医局の庭(菊野恒明)2009.5.30〔北冬舎〕

2009.9.6

 

秋田の医局からの第2報は

前集『北の医局』以降8年の成果物である。

階段をのぼりてここに来たるかなくだりて来たるとも思いけり

わずかなる余白のごとき窓あれば双眼鏡を医局におきぬ

当直の夜のしじまのコーヒーを口に含めば母の死に顔

耐えて来し十七年と濃く思う冬のその日は君と過ごさむ

裏の野の花の名前を知りたくて当直明けに二枝を切る

医局生活の《断層写真》、いわゆるCTスキャンの画像をみるようである。

というのは、

単なる撮影に見えながら、その焦点に《微細な「変」》を捉えているからである。

いわゆる、知的処理の光沢がある。

この地下の水脈はときおり地表に噴出する。

ときには、ある種の自己診断として。

契りたり二十五年をちぎりたりフムフムヌクヌクアプアアあああ

アトリとはa burd かも指さされ初心者われは真面目に思う

リモコンをぽんと布団に投げやって高き精神(こころ)はわれにはあらず

菊野さんの歌は歩みと共にある。

死者の香がほのかににおう回廊を歩みて病める生者のもとへ

正常と狂気のあわいを行き来してときには作り笑いもするさ

吐血せし患者のカルテ数行を書きたるのちに花押を添えぬ

列島の海岸線を目でなぞりあのでっぱりはあの時のこと

やさしさの発信基地となりたかり太き秋刀魚にかぼすしぼりて

酔客はときおりわれを的確に言い当てるなり昨夜の女も

二人から相反したる指示を受け二重束縛説もただなか

団塊の世代の心情もほの見える。

若かりし体と今の心とをミキサーにかけ空を飛びたし

おおかたを医局で過ごす毎日に定年間近き立夏の雨が

菊野さんは『未来』のメンバー、その第2歌集である。


一天紺(桑原正紀)2009.4.25〔柊書房〕

2009.8.30

本集は2007年刊行の前集『妻へ。千年待たむ』に先行する時期の作品集であるので

実質的にはこちらが第5歌集、『妻へ。千年待たむ』が第歌集となるという位置づけである。

 

世は暗愚われも暗愚よ見あげれば一天紺の秋の朝ぞら

あらためて見れば世も人も我もまた矮小

という境地がこの凛凛しい集題の元に実を寄せているというところである。

さて、いくつかの特質を掬おう。

トンネルを抜け出でしとき灰色にずんと重しも雪国の景

こいのぼりゆるらに泳ぐ口先にくわつとあかるき五月のひかり

黄金を「わうごん」と表記するときにわつとあふるる光ありたり

ロリコンの「コン」にこもれる屈折のその深闇は思ひみがたし

まどろみの識閾(しきゐき)あたり螺旋やうの音うづまくは蝉と知りゐつ

このあたりは、もう、桑原さんの薬籠中のもの。

なかでも、3.4首目の言語に対するものの見方の持ち味、

5首目の前意識レベルの描写は特に心を引く。

みごとなるこのわがままよわが腕を掻き寄せて猫が枕に貸せと

子宮筋腫は「至急禁酒」の意味なりと戯れごろ言へ妻笑はず

この頃は月が三つに見えることなぜか妻には言いそびれをり

こやつらは子鬼なるらむアメとムチまだ必要な小角(こづの)もつもの

愛情世界。

ネコのノロケは自然体、奥方や生徒さんへの愛情はスライドぎみの変化球。

雨の降る朝の校舎に入りにしが()の校舎出て月光に遭ふ

つぎの代に手わたす何も持たざれば胸びれのごとくさむき両の手

鴉はも きらはれ鳥のきらはれてますます(こは)くなる性ならん

「お母さん、二十五年ほど老いました。二十五年分ちかづきました」

ブッシュ家の女らはいかに思ふらん父ブッシュ子ブッシュ(いくさ)好むを

ずっしりと堪忍袋が重い日を歌詠んですこし軽くなりたり

    信号を待ちゐし犬が人波に少し遅れて歩み出したり

自己凝視あり、社会批評あり、日常記録あり。

暗愚といいつつも、充実、完成期の男性像が現出されている。

この群の1首目の作は集の劈頭にあるが

単に一日ではなく長いレンジの比喩を負うものであろうとも読める。

同じ場所で切り取られた過去と現在の照合によって醸されるものは、世代的な共感も深かろう。

わたくしも深く味わったひとりです。

 

桑原正紀さんは「コスモス」の編集委員である。

 


(うみ)の夕映(宮本登久)2009.4.20〔本阿弥書店〕

2009.8.20

暮れなずむ街を流るる川筋のさびさびとして一条の白

きゅるきゅると頭上過れる鳩のいて母の衣ずれふとしも思う

高処より見るビル街は墓所めきて(はたて)に光失せたる夕日

あな不思議霧は海面を膨らまし並べての音を消してしまえり

心重きこと重なりている昼を思うまま咲く小菊が匂う

置き去りは淋しとぞ咲く鬼百合か空家の庭に花片反らす

真赤なる花片あつく反り返り透し百合ひたに生を楽しむ

                                                   

諍など無きや水鳥水脈かさね連れ添う二羽に吾は見とるる

訪い来るとう娘を待ちて過ぐる刻日向の猫が大欠伸する

みずからの命測るか花の上蝶は黄の翅閉じまた開く

木になんぞ居れぬと蝶は唐突にとび来て網戸に勢い鳴きいる

丹念なスケッチの中に発見を書き込むというのが宮本さんの得意とするところ。

冒頭のグループには完成された世界がある。

一転して植物に目をおくときにその気持ちを汲み取っており、

第3群は小動物への愛情が覗く。

風船は舗道すれすれさ迷える臍の緒のような紐を引きつつ

宮本さんは『白南風』のメンバー、本集はその得得の第1歌集である。


風花のやうに(青野昭子)2009.4.20〔美研インターナショナル〕

2009.8.20

さみどりの新芽出でくる茶畑に光はそよぎいのちは溢る

雨傘をいろげて干せばひとひらの梅のはなびらはらり落ちくる

葱の皮剥けば顕はる葱坊主「おはやう」とばかり朝の厨に

水道の水は湯のごとく出でにけり外の温度の厳しさを知る

向日葵の花に足止め友と見ぬ歌会帰りの道の片方に

白壁に楓の緑色映えて味はふ大正を夢二館にて

あきあかね飛ぶ陽の中を日傘さし医薬求めて清しき道ゆく

石楠花の葉は一葉づつ散りゆきぬ澄む青空に鵯は鳴く

カマキリはゆつくり這ひつつ移動せり三角あたまを動かしながら

枇杷の花冬日に向きて咲きんにけり師走の道を通りつつ見る

母逝きて九年経ちにち霜月に淡色菊を活ける今宵は

緋牡丹に夕日一筋射しくれば花はたちまち火の色に似つ

全編を『春』『夏』『秋』『冬』に分かった構成としたおり、

それぞれにその季節にふさわしい作品を収めている。

よって、作品は丁寧な季節の描写となっており、世のささやかな動きまでをやさしく救い上げている。

青野さんは『響』のメンバー、本集は『黍の風』に次ぐ第2歌集である。


上田三四二の生と文学・この一身は努めたり(小高賢)2009.4.5〔トランスビュー〕

2009.8.20

 

絵画はおそらく描けるだろうけれども彫刻はできないだろう、

同様に唱歌の作曲はできても交響曲の譜面は書けないだろう、と自分について思う。

だから、全歌集は読むけれど、全人生を調べ、熟考し、論術するなどわたくしには思いもつかない・

かつ、

呑気の要素と傲岸の要素が主因で「教養のために読書をする」という習慣がないので

上田三四二については知識も関心もほとんどなかった。

であるから

小高さんというベアトリーチェの手引きを得てこの大きな存在に触れることができたのは遅まきの僥倖であった。

かかる分野で、わたくしというすっぽんが、月である小高さんについて述べるのもどうかと思いつつ

一点だけ書いてみる。

本編中の出色は『論じにくい理由』というパラグラフである。

5冊の創作集を持ちながら小説家として上田が論じられたことが極めて少なく

その割には晩年多くの賞をつぎつぎと受け、賞の選考など枢要な役務に与ったことに触れ、

『周縁の存在を余儀なくされた作家』『敬遠された作家』であるとしている。

肝要なのは、ここまできて小高さんが「晩年の受賞」に対して再度触れ、

『どのように解したら良いのだろうか』と力強く結んでいるという点だ。

さらに、短歌の世界でも上田には回想はあるけれど評論が少ないことに話を及ばせ、

『幅広い仕事に歌人たちがついてゆけないこともあるのではないか』としているのも鋭い。

要するに、大きな譜面を書く事については、みんな及び腰なのだ。

うまいことちょろまかしているに過ぎない、

とまではお書きになってはいないが、それを嗅ぎ取る読み方も可能だ。

「俺がやらねば」という小高さんの意識。

この一著をここまで読み進んだときに文字活字は金色に色めき立ったのである。

おれは、何と情緒的!

小高さんの近著には『眼中のひと』『現代短歌作法』がある。


ドームの骨の隙間の空に(谷村はるか)2009.3.25〔青磁社〕

2009.8.19

 

川はいつも黒く光って見つめるのだ簡単にひとりを失うたびに

色がない 違う、六十年前の色がここには永劫続く

死は現象そこに行きつくまでのこの皮膚、肉、声の六十年間

いま道に吐いているのは折り合って生きて壊れたわたしの内部

神様が何かひとつをくれるなら度胸がほしいまたみぞれ降る

河豚食べてふたりは笑う笑いあうところまでならうまくいってた

降るままに降らせおく雨、夜の路地を濡らす 逃げたいんなら逃げな

髭剃りのしくじりの傷撫でてやるほかのだれぞがしてくれたかよ

動揺を見せて平気な男だな 助手席の窓わずかに開ける

チャチな背中に弱ささらして気づかない男みたいだこの町のビル街

男だったら自分のことを俺と呼び人前で泣き死相で眠る

東京のつばめは昇る昇る昇るそこまで昇らねば苦しいか

柴犬が甘く見上げるこの道の上ほだされていよこのままこのまま

濃密な歌集である。

その中から、ここに引いたく意図は、先ず、本集のひとつの主題となっている「ヒロシマ」、

本来ならここにフォーカスして社会性に重点を置くべきかも知れない。

しかしここでは、その次にわたくしがおいた《自身像》、

さらにその次の《恋愛の局面像》、

さらにその次に《男性像》。

3面から見直したが「思いつめることの切実な美」が現出されている。

「八つとセ、優しい心もないじゃない」生き物の歌も添えます。

手の切れるようなこの作風を《斬空体》と呼ぶ。

谷村さんは『短歌人』のメンバー、本集はその斯く確たる 赫赫たる第1歌集である。


疾風の囁き(村田馨2009.3.25〔六花書林〕

2009.8.18

麻ぼらけ馬の吐息はしろじろと(たてがみ)までもかしこきほどに

手綱から馬銜(はみ)へと伝う我が意志を汲んで走れよ青鹿毛の馬

八倒のあげく微塵も動かない天に召されぬ芦毛の馬は

飲み口の欠けた切子のタンブラーあふれるほどに夏そそがれる

サイフォンの冷たき水が珈琲に姿を変える時の滴り

月影が見え隠れしてほの青き額紫陽花(がくあじさい)のささやきを聴く

貫ける背骨のごとく隧道は北と南をつなぎ止めている

台車カバー、パンタグラフの遮音板、騒音(おと)と戦う武器となるべし

ひとすじのアークまたたく架線(がせん)からパンタグラフへ意志伝えんと

弾直軌道 消音バラスト 対策は効果的なりこの結果から

こま犬()≠アま犬(うん)≠ェ見つめあう月の雫がふりそそぐなか

肩口を襲ふ鈍痛統べゆきてまもなく尽きるわがいのちかな

冒頭の3首は流鏑馬の歌、つまり村田さんは弓馬両道のお人である。

次の3首は村田さんの日常の顔。

続く4首は職業詠、つまり村田さんが鉄道技師である側面が示される。

なお、最後の2首は散文にとりこまれた歌で前者は現代の男女の会話のシナリオの周辺の作、

後者は村田さん書き下ろすところの史劇中の吉田稔麿の辞世代作である。

かく、多彩な模様が《高雅体》をもって収められている。

村田さんは『短歌人』のメンバー、本書はその巍巍たる第1歌集である。


団塊の世代(福井有紀)2009.3.18〔山本印刷〕

2009.8.18

テレピン油庭ににほひてあるときに可能性(キャパシティ)にむく体勢をとる

「女ヘン」の数知れずゐてなせる(わざ) 言語遊戯の思索にありき

如才なく母性かかげてエンタシスの爪をぱちりと切りて安らぐ

ひまはりの巨大迷路を歩みつつ正義たつとぶ肉体は()

平成を装ふわれにや窓辺なるカフェの席にてただに黙しぬ

屈託もなき談笑の真幸くて剰余のこころにカモミール飲む

ラリック作アール・ヌーヴォーの視野占めて人徳に見る接点のこと

事実婚ストレートにて語られて神がかりなるキャリアの愉しさ

木枯らしが吹きぬけてゆき風格に抱へてきたる砂糖菓子また

サークルの健康談義にはな咲きて幸福感のくすぐつたいよ

イヨカンをふたりしづかに分けあひてフルーツの気骨あたためあふも

運気また突拍子もなくたかなりてパラソルのはな駅までつづく

福井さんは恐らくしばしば長考する。

そう思いたくなる作品群である。どの作にも「キーワード」や「言い回し上の工夫」が

顕著に見て取れる。

尖ろうとする詩心を同じ手で整形しているのが手に取れるようだ。

わたくしの実感ではこの団塊の世代こそは

今や完全に全部門で男性どもを圧倒しつくした女性たちが

「わずかハナの差で男性にハナを持たせていた時代」のように思える。

そう思うとき、「団塊の世代」を章題とする30首のうちの次の一首はよく言い得ている。

熟年のおみなの意地の口笛にとんがるかたちの唇ゆかい

福井さんは『短歌人』のメンバー、本集はその得得の第3歌集である。


砂糖の鎧(小坂恵)2009.2.28〔本阿弥書店〕

2009.8.18

前歩く人からふわりフリージア匂った気がした否、気のせいか

ある日非常階段に出た 涼やかな空気を感じた 夏は終わった

立ちくらみスノードームに似た景色頭蓋骨の中ラメの雪降る

心にも鎧着せよう棘々の金平糖のように砂糖で

不機嫌が放電寸前雷の直撃受ける犠牲者は誰

音立てるたぷんたぷんと悲しみが目から鼻からこぼれそうだよ

真実は堅固というよりしなやかに世をすり抜けて微笑むのかも

われは何か間違えたらし 考えず誰かの後に従うべきかも

鳴り止まぬ鈴の音 耳は麻痺してもどこかで次第に苛立ち募る

切子屋の実演の前で足止める 従順に削られる硝子よ

間違えたらよく見るとたばこの煙で遊ぶ振りして溜息を吐いているな、君

短歌にも《魔球投法》は確実にある。

小坂さんの作にはストレートも無くはないが、多くは

カーヴ、スラーダー、フォークなどの魔球群である。

本集の楽しみ方はしれへの目での追尾である。

縫い目の綾をさまざまに見せながら飛行するさまは本集の魅力である。

ただ、特筆すべきは、全てがストライクゾーンに収まることであり、

ナラズ者の読者の中にはもう少しアレダマを望む向きもなくはないのではなかろう。

ちっぽけな青い樹脂片、私にはなくてはならぬ目の鱗です

コンタクトレンズの批評が冴える。

レンズは社会への通用口であるが同時に目のウロコになる宿命を持つ必要悪となる、という次第。

小坂さんは『日月』のメンバー、本書はその喨喨たる第1歌集である。


未来山脈選集(2009年版)2009.3.25〔未来山脈社〕

2009.8.18

 

矢のように事件が飛び交う 青一色の秋空にゆらりと飛行船浮く  梓志乃

降り出した雪をヘッドライトでたしかめる 判れてから一人---   井口文子

地吹雪のどよめく朝だ 黙然とぴん助(むし)って焼酎飲む   泉司

満開の桜に浮く天守閣想いは遠く過ぎた日のこと 丸い月を仰ぐ   三枝弓子

スライスした玉葱ひときれの月 シチューを煮込む窓に覗く   関アツ子

後期高齢者の天引領収書が届いた 長寿高齢者殿とあがめられて   立野行男

とうとう前歯が抜けてきたらしい 口の周りが蕾になる父   藤森あゆ美

砂が飛ぶ蝶が飛ぶ水が飛ぶゆくりゆっくり廻る白い風車   光本恵子

まだ生きていたのかと言われそうだがこの通り生きている   宮崎信義

はいはいそういうことでして、はい、わかりましたいつもありがとう   村田治男

2009年版アンソロジー。出詠184氏は壮観。

光本さんの「あとがき」で、本編編集中に宮崎信義氏がなくなられたことに関して

「宮崎さんの歌と人」の紹介がある。

そこから一首。

腰をおろして考える 人間以上の動物はもう現れまい


麹の匂い(松崎美穂子)2009.2.23〔ながらみ書房〕

2009.8.18

降りしきる梅雨に打たれてなお赤く枝ふるわせて花ざくろ咲く

狭き村にひとは我が身を話題にす見ざる聞かざるとただ黙すのみ

刈られゆく稲田の中に現れし蛙の肌の寒々と赤し

鎌先の身に触れるまでに子を守り居たる親雉子の草むらをたつ

子が農を継がぬは故郷を捨てるかと身近なる人の我に言い寄る

一人居の昼の静けさ雪解けの雫は囃子の如く明るし

唐黍の葉擦れさやかに夕されば狐は狙うその熟れし実を

穂首まで土砂に埋もれて熟るる稲に雀はひねもす寄りて啄む

稲の葉に螢火揺るると声弾ませ少年のごと夫走りくる

舐めるごと火は地を這いて抱卵の雉子飛び立たす春の野焼きは

二斗の米研ぎて麹にする技も五年を経れば易々となす

松崎さんの歌は自然・農業を背景とする

充実したジャストミーとの匂い立つ作品群である。

1983年以降の集成であれば当然ともいえるが、

幅と厚みにおいても広く社会を捉ええており

一首一首の彫りも深い。

啄木鳥の木を穿つ音ころころと大気ころがす梅雨空の下

彫りの深さの一例。啄木鳥の木を叩く音の描写に専念して

絶妙独自の小世界を形成している。

松崎さんは『歌と人』の、メンバー、本書はその森森たる第1歌集である。


二月のひまわり(高橋禮子)2009.2.17〔角川書店〕

2009.8.17

 

水無月のかろきたわむれベランダを占めて私もひとひらのくも

私のライフワークはこれだった歌集刊行またもやめざす

あああれは雁の群れなり雁飛べば石亀さえも地団太踏むか

田をわたる風よまよわず吹きぬけよ両手あげいるわれもさみどり

私がわたしでるということをどう示そうかことしも半ば

無造作に靴の三足脱ぎおけばそこに家族が顔を出しそう

赤き円白き曲線描かれて黒地の眩しかさの内側

そそそそと寄りゆくわれの息遣い察知されたかトンボ飛び去る

あら私まだできるのだ玄関の屋根に上がって窓ふいている

橋さんの作品には、

総じて元気の良さ、スピード感、躍動感があふれている。

躊躇することのない筆致が身上である。

かつて、《水戸のエクスプレス》と呼んだ自在性は相変わらずである。

大きめの眼鏡をかけてみたくなる六月なかばの小さなひらめき

これを見なさいといわんばかりの対比の妙。

衒いも逡巡もない言い切りが本集最大の魅力である。

咲くまでの辛抱こそが華なりとわれに告知す二月のひまわり

高橋さんは『まひる野』のメンバー、

本集は『リオの海鳴り』『ガラスのクッキー』

につぐ第12歌集である。


天よりの声(衛藤弘代)2009.1.19〔ながらみ書房〕

2009.8.17

坂多き街にもいつしか住み慣れて自転車引きゆく君の家まで

アルバイトのわれの行く先定まらず今日はポンポンダリア咲く家

翼振りて鴎過ぎたるサンビーチ海光はあまねく吾らに人に

ある夜の切羽詰まりしひとの声重たく暗く胸にまつわる

ほたすらにマルコ伝読み土曜日を過ごしぬうたかたに過ぎしもの脱ぎて

宙吊りのこころ身を削ぐ思いにていつもの椅子にダージリンティー飲む

朝なさなラジオ体操を慣いとし職退きし夫とリビングの隅

猫の子を飼わんと思い揺らぎたるこころのことも忽ち忘る

歌を詠む(えにし)にながく関わりて個性それぞれの自己紹介す

いまさらCradleでもない。

Partの破綻的状態を恥じています。

本集は衛藤さんの18年ぶりの第二歌集。

生活感のなかでロマンを織り上げる作業も堂に入っている。

ま盛りといえる言葉の形容にかがやく一樹 黄落の丘

言葉を一旦摘出して再度埋め込む実験をみごとに成功させている。

ことばの再確認は日々の心を丁寧に保護氏見つめる衛藤さんであればこそ際立つ。

衛藤弘代さんは『未来』所属である。