2005年刊行歌集

 

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LIST

薔薇は紺青(五十嵐裕子)2005.4.11〔角川書店〕

猫の舌 Langue de chat(西村美佐子)2005.12.14〔砂子屋書房〕

風に向く(武田素晴)2005.12.20〔ながらみ書房〕

月と自転車(栗原寛)2005.12.7〔本阿弥書店〕

彷徨(水井千恵子)2005.12.8〔ながらみ書房〕

東京遊泳(野口恵子)2005.12.19〔ながらみ書房〕

弱弯の月(久山(くやま)倫代)2005.12.1〔本阿弥書店〕

蒼き水の匂ひ(北神照美)2005.12.1〔本阿弥書店〕

プーさんの鼻(俵万智)2005.11.3〔文藝春秋〕

十三月の空(吉田千枝子)2005.11.3〔ながらみ書房〕

リオの海鳴り(高橋禮子)2005.10.29〔本阿弥書店〕

渡河(釜田初音)2005.9.20〔北冬舎〕

八瀬の里(丸山愛子)2005.10.23〔短歌研究社〕

街路(丸山三枝子)2005.10.5〔ながらみ書房〕

桃太郎の歌(海津耿)2005.9.15〔短歌新聞社〕

蓑虫家族(前田えみ子)2005.9.10〔雁書館〕

鈴木英子歌集=実質は「油月」(鈴木英子)2005.8.10〔邑書林〕

木強(萩岡良博)2005.8.10〔北冬舎〕

モビールの魚(大湯邦代)2005.3.25〔角川書店〕

ウィル‘WILL’(北久保まりこ)2005.3.25〔角川書店〕

槿花窈耀(山本りつ子)2005.3.20〔短歌研究社〕

野原のひびき(村松直子)2005.2.5〔不識書院〕

5メートルほどのはてしなさ(松木(しゅう))2005.3.5Book Park

未生(寺島博子)2005.6.1〔角川書店〕

黒砂糖(今井千草)2005.4.6〔ながらみ書房〕

真夜中の鏡像(小笠原魔土)2005.1.30〔北冬社〕


薔薇は紺青(五十嵐裕子)2005.4.11〔角川書店〕

2006.12.1

 

昨年刊行である。この集の作品に触れてまず感じたのは、

五十嵐さんが常に作者自身を対人関係・対社会関係に位置づけて詠んでいるという点である。

第1の特色である。

寂しさは嚥まるるもなく鵜のごとく或る日はわれの(のみど)を満たす

我が耳に柳さやりてよみがへる内耳の奥のやさしきことば

人の世の負の荷積みゆくごとくにて駅を出てゆく貨車重々し

皓々と冬の月あり孤独とふ連帯感にこの夜は見上ぐ

繚乱のさくらの幹に寄り添へばわが身を出でて咲けるごとしも

◆◆◆

第2の特色は

そういう視線は当然、対象にも及ぶ。

この中に登場する対象物はそれが《静物》であっても、

生き、喜怒哀楽を抱えているかのように作中に見えているという点である。

これも特質は見落とせない。

ワイングラスにワイン注げば涼やかに個体が抱く夏の透明

陽を受けてボヘミアンカットの花入れが発光体のごとく膨らむ

白き花なだりに群れてどくだみはどくだみとして風に揺れ合ふ

器より今溢れんとする水のかかる危ふき均衡さびし

◆◆◆

出色は、一歩、カメラアイを引いたときの作で、

このときには、特殊なレンズが装着されている。

あるときは、非日常語を用い、自然科学の視野に立つ。これらが立ち上がるときに

現代女性の視野としてのたたずまいがあります。

今消えし虹いくばくの時を置き追伸のやうに再び立てり

夢のなかに遠く過ぎにしひとのゐて一つのifにしばし捉はる

静電気するどく受けて物体としてのおのれを思ふひととき

背信はひそかなるべし一年に三十八ミリ離れゆく月

◆◆◆

五十嵐さんは「運河」「泱」に所属。第1歌集である。

飛ぶ鳥のその空のうへ霊長の矜持のごとく飛行機がとぶ


猫の舌 Langue de chat(西村美佐子)2005.12.14〔砂子屋書房〕

 

そそぎゐる水はコップにあたらしく水的存在となりてゆかむ

触れるたびぴくりと動く風があり 空間といふずんどうの柱

指先の華奢なるに黒くオイル染みたるはまつすぐにわが官能を刺す

蛇行してゆく? もしかしたら背景が捩れるのかも知れない、夏の水は。

感官のかゆきところにとどくまで言葉の指にさぐりてゆかむ

耳の中にもうひとつ耳があるのだらう日暮れ 萩の群れ大揺れ

眼の奥に鋏あらはれ花の首切り落としたり はりがねのこゑ

ことばを詩としてリリースする手際は尋常ではない。ことばに作品ごとの使命を与えて

未踏の境地に見知らぬ歌として吹き付ける手並みに瞠目した。ここに「感官詩才の火柱」を見る。


風に向く(武田素晴)2005.12.20〔ながらみ書房〕

 

混沌をかかえ悶える森 かくも地上に繁ることの営為は

「人間」は死語となっても森の血は赤むらさきに流れ続ける

噴水の落下を受ける器にて池の水面の美しき乱

陽も揺らぐ真青なる空 熟したる果実も落ちるために朽ちゆく

男たる影を装いきたれども流れる万華鏡のきらめき

即断を迫られてためらうときの眼には斜面のいさぎよい峰

どのあたりが腹かわからぬ愛らしき一升瓶の首持ち上げる

一首一首彫が深く、正に、《彫琢》というコトバを実感させる一巻である。

どの作も必ずといってよいほど余韻が後を引く。この歌人は正に「考えさせる人」である。


月と自転車(栗原寛)2005.12.7〔本阿弥書店〕

 

粘膜の増殖しゐて交はしたる言葉の骸つつみゆくなり

一滴の闘争心を希釈すれば本能を呼びさます朝焼け

かつて吸ひこみし音色をかき鳴らして雪どけ響くわが脳裏にも

透明な硝子のやうに冬が降る瞳にも髪にもその黒さにも

湖にうつれる月をつりあげて君に贈らん今夜のうちに

神のをらぬ季節のはざま われらふたり 昼は白白 滞りゐる

白糸のからまりてゆくわが黒き心のなかの頑なな弦

 

若さは凄さ、自然に若い、その臆面のなさが好ましい。

ぐいぐいと迫ってくる若い感性の自在さが一冊の中でうねりを形成している。「硝子の20代」


彷徨(水井千恵子)2005.12.8〔ながらみ書房〕

 

ひまわりの種大量に入荷しました リスさまウソのみなさま

さぽさぽと残り少なき白樺の葉を打つ雨の柔らかき夜

この年に見し海の数 大西洋・北海・東シナ海・太平洋・さがみ湾

吾が為に体調整うる人ありて愛されていると思うひととき

吾が死ねば死ぬしかないという君に死にたいなどと口には出せぬ

言うべきを黙して君と別れ来し夜の更け胸に満ち満てる思い

雷のドンバリバリと轟きて大粒の雨降りはじむ夕

ストレートな歌い口ながら、大きな振幅で揺れている。この揺れがこの作家の持ち味であり、

歌集にふくらみを持たせている。「武蔵野の熱気珠」の遊覧と呼ぼう。

 


東京遊泳(野口恵子)2005.12.19〔ながらみ書房〕

 

天界にあふれる音符おちてきてそらに満ちゆく球体の雨

希望とはこんなものかと大空にホースの水で緩い弧えがく

太陽を捕まえようか青空にオレンジ色の浮き輪を投げる

どう猛な夏の到来おし倒し中性になる梅雨時の空

こつこつと太陽光にゆすられて膨らんでいく西瓜の果肉

てっぺんに昇り酸素を補給するパレットタウンの大観覧車

仰向けに倒れし吾を受けとめて桜の花がみゅうみゅうと泣く

持ち前のおおらかさ、明るさはこの作家の「花」である。

若いだけの作家は珍しくもないが、明らかに一線が引ける。得がたい資質、この人は「大空の私有者」である。

 


弱弯の月(久山(くやま)倫代)2005.12.1〔本阿弥書店〕

 

 弱弯の針ほどはかなき弦月に夜道を君と引かれてゆきぬ

わが思慕に似るミズクラゲかろうじて溶けぬ濃度の(たい)ゆらめかす

青色のアジサイの鉢届けられ婚に至らぬ恋が始まる

新緑のさやぐ季節を待ちながら刀傷とう言葉に惚れる

ファスナーを上げれば人魚 夏の夜を呼び出だされて逢いにゆくなり

濃く逢いし証はひとつその人の皮脂にさびしく眼鏡曇るも

婚姻の制度以前の恋からの危うき生還遂げし春の夜

全編をさしつらぬくのは、医師としての良識ある生活の中での

真摯な恋愛から導かれる《清愁》である。作家自体が「純愛のおだまき」になっている。


蒼き水の匂ひ(北神照美)2005.12.1〔本阿弥書店〕

 

胸深く石灰質の針あるを風に凍れる百合と思はむ

夢七月、ここは死角になるからとくるり抱かれて彦星つかむ

みずまるくなほ盛り上がり震へをり 張力破られ崩るるまぎは

また同じ間違ひをせしわが眼こころが先に間違へたれば

ほんたうはかたちなきもののんでゐる酒を飲むとき暗き目をして

水鳥の水掻き蛙のみづかきうつくしかれと月光が降る

言葉砕く諍ひあればいさかひが撥条(ばね)とならむに 綿菓子なめる

前集の「情感」の世界から一転。作品に「知」が封じ込められている。

視野が広角であり素材もゆたかである。名づけて主知のスターマイン。


プーさんの鼻(俵万智)2005.11.3〔文藝春秋〕

 

ぽんと腹をたたけばムニュと蹴りかえす なーに思っているんだか、夏

我が腕に溺れるようにもがきおり寝かすとは子を沈めることか

うしろから抱きしめられて眠る夜 君は翼か荷物か知らぬ

きぬさやのこいのさやあてにんじんはたけのここいしいしいたけきらい

通り雨のような口づけ もっとちゃんと恋をしてからすればよかった

「はる」という敬語使えぬ国に来てわが日本語のしましま模様

「これもいい思い出になる」という男それは未来の私が決める

自在な発想である逆に、定義の達者という側面も際立つ。

しなやか軽妙にしてその実きわめて骨太。真紅の独立峰である。


十三月の空(吉田千枝子)2005.11.3〔ながらみ書房〕

 

目の前が急に開けて浮き上がる雲の写真集買って帰ろう

空半分濃き肉色に染め上げてごう然といく夕日あっぱれ

一念にピューマとなりて駆けにしを月光背負いひた走りしを

逆上がりに泣いた遠い日いま恋の逆上がりして大空を吸う

絶え間なく循環器の音する傍らに誰かの悲鳴聞いた気がする

ふり向くも見えない影を待ち続け師走の街にむ、む、む蓑虫

たのしんで悪意に遊べばよかったね春のガラスに雨が流れる

フットワークのよさの中に捕捉性の高い知性がある。

清潔感な印象も含めて、総の国の白鷺と呼びたい。


リオの海鳴り(高橋禮子)2005.10.29〔本阿弥書店〕

 

咲くことを知らぬがゆえにゆるるんと茎を伸ばすや踊る葉牡丹

上京もさし控えたしJRの警備がちらちら目につくもんで

ほっとけばよかったものを片付けて肝心のときにゆくえの知れず

奥久慈の闇にドーンと浮き出せる花火に夏山どんと応える

鎧うものすべて放棄すよく晴れたリラの頂きばんと仰ぎて

電線が雲の動きを知らせます地上の人らよ見のがすなかれ

マイナスをプラスに変える瞬間であるやもしれず転ぶというは

ときおり頁を飾る独特のさばさばした語り口はなかなかのもの。

自在な日々から掬い取られる風景は多彩である。水戸ロマンエクスプレスと呼ぶ次第。


渡河(釜田初音)2005.9.20〔北冬舎〕

 

はじめからうらがえりたるポケットと思えばさとしわたしの双耳

とっておきの雲にしあらん高空に打ち出し模様の銀の大杯

七色のあぶらのごとく月は差し後生殖期(ごせいしょくき)果てしもあらず

われもまた人界羽族雨戸鎖す音におどろき翔びたつける鳥よ

北風の何に生れたる秋の日のへちまはへちまの垂線を引く

おおいなる遠心を恋うているらしも鯖雲は白き体もゆるらに

河ならめそも海ならめとことわの水の臨海 膠色なる

時に沈着、時に奇異、そしてときどき華麗。変幻自在といったところ。

日ごろの知的好奇心に支えられ続けた《暗黙知》のたまものであろう。知的作業の職人芸である。


 

八瀬の里(丸山愛子)2005.10.23〔短歌研究社〕

 

あの山が武甲ですねと念をおし再び仰ぐ輝く武甲

多国語の賑わいの中スマートな猫何匹ものびのびと寝る

「好きでした」娘四人が紅させば母よみがえりたり あ あ かなしも

時により堪忍袋も緒が切れる重き言葉は乾燥機に入れ

ジベタリアンあっちこっちで見かけます若者この頃どうなってんの

審判のカウントアウトにいらだちて今のはセーフだ辛いぞ審判

青きバラ見んと地図もち小走りに人が群がり白きバラ見る

丹念、冷静な作歌態度が一貫している。日常のスケッチの中にストレートな感情が交錯する。

その転換点がみどころ。称して入間のカーブドミラー。


街路(丸山三枝子)2005.10.5〔ながらみ書房〕

 

ゆっくりと首を回せば首がなるわたしの中のいびつな何か

まっすぐに立っていた向日葵がだんだんやけくそになってくる

いきいきと悪口雑言()くははのこころゆきまで悪人殖やす

東京駅遺失物係員に執着心が詰め寄っている

首すじから腰までまっすぐ軸が通っているような背中だ

くさむらに蹲りいる黒猫の背中がどうせそうさと言えり

この中のひとつぐらいは言葉など喋らないかと鯉を見ており

あとがきにも「自然体の歌」とあるが、ところどころで自由な発想が

《ぴかり》と光る。少しアブナ気なアヤが楽しい。さては「我孫子樹陰のほの光」。

 


桃太郎の歌(海津耿)2005.9.15〔短歌新聞社〕

 

みずからの一つの顔にもどりつつ口に紅ひくさるとりいばら

ねむれねむれ女よねむれゆたかなる水平線のようなお尻よ

昨夜の夜の嵐の雨の花渚立志の思いはるかなるかな

つやめくや壮年のわが恋力寒鰤の頭おし切りにけり

和魂も荒魂もいとすこけやし甚平(じんべい)ふわりはおりたりけり

ごきかぶり玄関走りいでにけり満月を負いもどり来にけり

おそろしき小響(こゆるぎ)の波ここすぎて骨壷しゅぽぽかえる日あらん

あとがきにも「時代の」「無垢」と「純粋」とあるが、正に、純純常常の境地。

VIVIDな女性観察歌もあるがこれも純の証。「蒼穹の白昼白鳥座」と呼ぶゆえん。

 


樹皮(小塩卓哉)2003.4.10〔本阿弥書店〕

 

本来は猛獣なれど笹を噛む牙の疼きも鎮まるものか

#♭(こっけん)が多いと憂鬱な練習の合間にほおばる苺大福

腹の下に入って仰ぎ見るごとし冬の終わりの大きな雲は

忍月と呼びて二月を耐えゆかん二日少なき逃げ月なれば

青空が苦手だなんて言えなくて海の向こうのような顔する

凹凸を言えば凹なる気持ちです焦点合わぬ毎日なのです

壮年の我に流るる電流をそっと放ちぬ地下鉄の闇に

「自分の目」と「自分の精神」を信頼し、統御しているようだ。

「独特の着想」と「述懐」のコンチェルトは広角打法につながる。おお、「奇想の一角獣」


蓑虫家族(前田えみ子)2005.9.10〔雁書館〕

 

よりきたる猫の胸毛を梳きやればかなしもよ母音を短くもらし

たまたま吾の踏みしかばほこり茸しらすしびれの胞子をとばす

雨風にころがる骨の折れし傘あれはたしかに苦しんでいる

お犬さまへ愛想笑いをしつづけてほとほと顔面筋肉疲る

雨にマケ風ニモマケテ野ざらしの冬瓜落魄のうたうたうなり

脚ほそき老いぼれ男と見ていしがドシラソファミレ階かけ下る

白猫のムー太郎こそ愛しけれ顔うら返すほどの欠伸の

自在な屈託のなさが身上だが、よく見ると人界の機微が投影されている。

自称「無印良品」だが、頁主には「下総の回遊魚」に見える。


鈴木英子歌集=実質は「油月」(鈴木英子)2005.8.10〔邑書林〕

 

わが子ゆえ殺めたのだろう ひとの子に厚きにくしみかけられはしない

見せかけのような青空しょいながら兎も亀もじっとり歩む

子とふたり時もてあそぶかたわらを連なり(がお)の母たちがゆく

誰にでも抱かれるおまえの大きさがしんと(とも)しい 花火が上がる

いらっしゃいわたしの海へ ずぶ濡れのあなたもあなたもここでは軽い

わかっています私はわかっているのですちらちら見ずに見据えてください

油月 月よそんなに無防備にさそうなさらすなさゆらく性を

視点のずれずらしが作品を際立たせる。小さな屈折が大きく作品に投影される。

奇でいて正のような、硬質のようで軟質のような、この作歌の胸中には「鴇色のプリズム」がある。


木強(萩岡良博)2005.8.10〔北冬舎〕

 

樹のひとつに数へられてゐむ血がしたたるやうな夕映えをみつめゐたれば

激湍(げきたん)に破れかぶれの急をつぐこゑをあげをり岩をかむみづ

風神は(いか)りてゐるか鉄塔も恋もぐにやりとへし曲げにけり

過剰なる思ひ湧く日なり褐色の実をつけし杉、風に鳴りゐて

やはな観念棄つるに如かず素心もて歌の曠野をまどひゆくべし

地に生くる木強なれどなればこそ空に伝えへめ地の脈動を

「われ」などはなんぼのもんじや蹌踉と酔ひてただよふ夜霧となりて

「木強」とは言いも言ったり、新陰流さながら、斜の構えから繰り出される

打突は虚虚実実、作者の体感を伝えてくる。息づく雄心を鬼籠手で受けて見た。


モビールの魚(大湯邦代)2005.3.25〔角川書店〕

 

心底(しんてい)を知らず訣れき楡の樹を振り向きざまに(いた)む胸骨

しろがねの寒満月より水溢る溺れえざれば()単刀(ひとふり)

白木蓮(はくもくれん)を犯す鵯むしゃむしゃむしゃむにゃむにゃ 先は惣闇(つつやみ)

泥濘を銀泥となす薄月夜 針千本を呑まねばならぬ

風冴ゆる白木蓮の葉ばさりばさばさりばさばさ われ婆沙羅髪

耳底につね風が吹く愛語 冷語迷語(めいご)(そよ)がぬむるき風吹く

声高に制されること容れ難しじくじく降る雨なほ容れ難し

のびのびとした歌い口は時にやんちゃでさえある。独自の感覚で集めた語句、

その繋がりには「頁主」の共感を呼ぶものが多い。或る種、魔笛のようだ。


ウィル‘WILL’(北久保まりこ)2005.3.25〔角川書店〕

 

星を観にゆくのも良いな誰だつて傷つくために生まれてはこぬ

「自意識」は全部()の音ひつぱつてひつぱつてゆく急な登りを

わが爪はちひさき悲鳴をあげしのちわれからはなれ自由になりぬ

母の手はあたたかなりき時の尾をたぐり寄せつつ眠りにおちむ

憎しみを溜めて開きし唇のごとしも はりりと白百合の咲く

生死などほんの少しの誤差かとも ほつそりと長き神のゆびさき

言ひ分けは聞きたくはなし怒りまでいたらぬやうに枝毛をさがす

自意識・認識・内省の人。自己に問い、かつ、応える。

自我を支えつつ繰り出す作品は多様である。成程な、と、頁主でさえ、首肯させられる。共感!


山本りつ子(槿花窈耀)2005.3.20〔短歌研究社〕

 

長歌《山姥》

晩春の 逢魔が刻は 山姥の 往き交う頃か 桜花 散り敷く夕べ そこかしこ

まがまがしくも 手賀沼の 暗き淵より 現れて (ばら)のかんむり 掲げつつ

宿世の嘆き 言うわれに 重々しくも 厳かに 鎮かに立ちて 謡うなり

今しばらくは これの世に ありてつとめよ 人として 手負いの大地 荒れ果てて

手賀の真水の 枯れんとも 水無月の露 あかつきに 山姥ありて みどりなす

草生(くさふ)()しき 沙羅のはな 落つる(あした)を 清らなる ま乙女なして 化身せん

此岸彼岸を 跳び渡り 鬼になりても 山姥の 衆生済度 祈りつつ

菩薩の慈悲も 祈らんと 宇宙の摂理 謡いつつ 山また山を 駆けめぐり

手賀沼淵に 透けて消えたり 手賀沼淵に 透けて消えたり

長歌をところどころに忍ばせている歌集。

長歌の呼吸、字句の流れは短歌作品にも会い通じている。流麗!


村松直子(野原のひびき)2005.2.5〔不識書院〕

 

薬ゆび発芽のような高まりをもてり時計の針にさされて

湖にて星を眺めている魚の寂しい視力を我ももつなり

いま見えるつきの光の激しさを言っても嘘だと思われるだろう

死に際の子猫を野原に置きにゆく苺つぶつぶ花散っている

空までの非常口なり巴旦杏(はたんきょう)の木の裏側をすり抜けゆけり

なあんにもしてこなかったただ赤い兎みたいな目をしただけで

魚酔亭(ぎょすいてい)主人は呼び名を「すう」といい酒八合を適量とする

のびのびとした抒情が不思議な余韻を残す。その余韻は軽くない。

明滅する自己主張を陸奥の白蛍と呼ぶことにする。明滅!


松木(しゅう)(5メートルほどのはてしなさ)2005.3.5Book Park

 

悲しいと思えばすぐに悲しめるさあこの機会をお見逃しなく

ひとすじの飛行機雲のあかるさは世界を絞める真綿のように

相聞歌まずは相手を探さなきゃ空気よ空気おまえが好きだ

あなた誰ですか私は誰だろうそしてすっとんきょうにたそがれ

入口も出口も壁につけるもの壁が消えれば両方消える

「ねつ造」と「捏造」表記の問題についてあれこれほざけ(10点)

永遠と気安く言うな永遠は永遠にはじまりもせぬもの

発想は無碍・自在、大振りにして広角打法、頁主を飽きさせない。

が、もっと・さらに傍若無人に進化できないものかとさえ期待したくなる。Bonus武人


寺島博子(未生)2005.6.1〔角川書店〕

マニキュアを落とす晩春の夜の更けに内なる蕊が剥落をする

わたくしの胸乳のかたちかうなのと囁きがほに睡蓮がひらく

草木(さうもく)は悲しみを秘めしかと立ち人間(ひと)が触れればわけまへをくれる

乳癌と告げらればうと眺めたる()はみんなみに聳やかなりき

地球といふわがままなる子を授かりて銀河系は(たい)(よぢ)らむ

水底より見れば古りたる歳月もあざやかに産毛はやして飛べり

鏡には見なれぬ左の耳がありそこから太古の海原が見ゆ

常に作品の中央に自分がある。そこからそれぞれの歌に自在な機知を発信する。

ほんとうの意味での自己中心、なかなかできる到達境地ではない。自信の所産か?自己中!


今井千草(黒砂糖)2005.4.6〔ながらみ書房〕

アメリカのハローキティは日本のそれより少し色っぽい、なり

あきる野の畑ののらぼう(・・・・)ぼうぼうと緑みなぎる春ののらぼう(・・・・)

言葉尻、尻尾の先の穂のあたり途切れた言葉はさまようばかり

ふくよかな母の手の甲ぼこぼことマウスのごとくにダブルクリック

わたくしの脳はま白き冷や奴あまりのことにはついて行かれず

ちく(・・)たく(・・)の間合いをうまくとれなくて時計内時間は狂い始める

イカロスはこんな形に落下して果てたるものか立ち枯れの松

言葉の選別に独特のフィルターがある。潔癖感が窺える。

作品の発露といえば比喩のバットコントロールは極めて自在。イチロー!。


小笠原魔土(真夜中の鏡像)2005.1.30〔北冬社〕

私の記憶はどれもモノトーン 猫の前世の(カルマ)だろうか

曇りない一枚ガラスに鉄球をえいっと投げ込みすっきりしたい

明日が今日のコピーであることが幸せであるご時世である

別れぎわに人差し指と親指の微かな力で引き留めてみる

泡となりあなたの前に浮かぶから嫌ならパンと叩き割ってね

私はすでに学んだ不用意な笑みは不幸の引き金となる

憎しみは猛獣のよう一回は服従させてもまた暴れ出す

「われ」ということばを避ける潔癖な時代意識を有する。およそ常識が嫌いなのであろう。

潔いつっぱりが産み出す諧調を頁主は大いに楽しんだのである。最高!