新刊歌集/歌書Cｏｒｅｓ
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新刊歌集から
蛇足ながら抄出歌は著者の得意分野を引いているとは限らない。むしろ、頁主との共感度に因っている。
活気ある歌集に関する情報を切望します。頁主までMAILください。
（200８.1.13）
異なこと。帯文に
『この五年間、私の脳裏をよぎる一節があった。
「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて」という『近代秀歌』の有名な一節である。
そんな風に歌っていきたいものだと思ったのだ』
とある。
一大事につき、本集は以来長期間にわたり繰り返し読んだ。
☆
さて、概観しよう。
やはり、揚言に対応する風格がところどころ見え隠れしたのは事実。
俗にやつした知者或いは治者のおもむきあり、乱暴に纏めれば『暴れん坊将軍』といったとこころであろう。
やはり、暴れはあるのだ。
この作家はこうでなくてはなたない。
で、先ずは『高き姿』の実態から入ります。
しづかなる媾曳のごとし朽ちのこる杙ふたつ見え干潟のゆふべ
この週余おもへば蕎麦のみ啜りゐてさらに思へば春かたむきぬ
この国に仁も義も恕もほろびむを見るべし綺語のうたびと俺は
ことばもて自我語らざる東洋の寥けき秋や厠に来てゐる
世のたたずまいを詠ずるというのは自己をしずめることにほかならず、
自己を控える姿勢はおのずと高き姿に近づこうというもの。
『綺語』の作は自己の規定を明らかに限定して『高き姿』を提示した集中の霊峰といえる。
かような地味な進攻はいわば《匍匐前進》にて目標拠点攻略のためのいわば王道であろう。
☆
しかりとはいえども、本編のもうひとつの《覇道》はこれもますます健在。
まず、豪腕ぶりをほとほとそのまま見せつける歌ぐさも多数ある。次はその一部。
乾物のにほひただよふ抜小路に煮しめしごときスピッツ繋がる
秋鯖のずしりと重きをあがなへば夕餉は華やぐ房事のごとし
十年をわがべらばうの暴圧に耐へたる椅子もおのづから軋む
シャツのボタン三つまではづしゼミ室を出で来し講師にわが眼とばす
生殖にまつはる噂の七重八重九重にしげりぬくとしこの冬
☆
さらに、世間へのビンタも相当に効いている。
剛腕健在。
反骨というよりは既に重鎮たる島田さんにあっては侠骨と呼ぶべきなれども。
白も黒も然らずも一字にこぞりつつ発奮する国 てゆーかマジかよ
いづこにも利権にさとき爺はゐて聞いてねえなと言ひにけらずや
戦闘機の機能まづしくうら嫩く古きグラビアに蜉蝣のごとし
すめろぎに精神主義のみいくさは土蜘蛛のごと撃たれて止みぬ
「鼻にかかるずうずう弁」もて一生終へし茂吉の屈託に与せず俺は
薄幸さうなる社民党シンパふらり訪ね来たりき剣呑剣呑
しかし、白刃の方向は右へ左へ天へ地へ。
☆
加えては、敢えて一線を越えんとするセクハラもどき。これは快挙かあらざるか？
三越に美人店員をりしころの日本の貧は卑しからざりき
ああ言へばかう言ふ屈強助教授の唇より紅は逸脱したるも
困憊の俺のひだりをかすめつつ地下にぞくだる乳のふたふさ
傍らの美形はいわば巻き添え、いつもながらお気の毒。
わたくしに希望はないとほざきつつまた三越に往きたるらしも
でもこのあたりは愉快に近い。
☆
さて、島修ぶしの起伏を観察する。
総じて、以下のごとく展開される島修ぶしだが地紋自体が起伏に富む。
ときおり、矮小化、敗者風の役作りがあり、結構なり切った世界を醸している。
二日ばかり喜怒哀楽の波たたず孑々あそばせ水たまり俺は
たくましく淪落しさうな学生と売春の是非あげつらひ敗る
月よみのひかりあまねき露地に来て給与明細を読むひと俺は
おのづからわが生きむ埒も定まりて三越に寄れば乾酪をもとむ
ほがらかに月の浮かべるひむがしの天あふぎつつ父は感傷す
ひたぶるの怒りに遠きぬかるみは俺に凝りてぬくときゼミ室
境涯といふにはゆるき俺の日々うつかり過ぎて夏逝かむとす
寝ねぎはをマントラといふ梵語よぎりマントラ万虎あはれ虎まみれ
そうはいいつつも、惻隠の情ゆたかなるところは、花も実もある島田武士。
苦痛堪ふるこゑかと聴きしが夜の露地を「唐獅子牡丹」の唄声は過ぐ
ほんたうのことは言わぬが花ならむ依願退職といふ春霞
夕焼けは愚かに抒情し続かねばならぬ不幸をテレビは見せず
さて、残るは、いわば、地とも素ともいうべき、一見韜晦風の作。
だが、これは見ようによれば冒頭の自己を鎮めた高き歌に近接しているのが判る。
つまり、冒頭ことあげされていた本質は既にこの作家の胸底にあったのである。
ゆふかげに臙脂おびたる爛漫の桜あふぎて虚しくもあるか
朝な朝な水菜を噛みで在り経れば顎門くたぶれむかつく水菜に
両切りのピースくゆらし夕暮れを俺はかそけく回想する人
☆
全巻を通じて恐るべき歯ごたえである。
読者の口答えを許さない勢いと、凛、いや傲然としたところが本領だ。
☆
島田修三さんは『まひる野』のメンバー、その第５歌集となる。
本サイトリンク。
評論集『「おんな歌」序説」』2006年
歌集『シジュフォスの朝』2001年
歌集『島田修三歌集』、2000年
ヒカリトアソベ（池田裕美子）2007.8.30〔砂子屋書房〕
（2008.2.8）
つくづくと、《利発》ということばを思い出したのである。
わたくしはかねて、『朱鳥』の代表歌を
大鴉バサとおりきて月窓寺五月の月を喰わんとするか
としてきたが、その本質はさら磨かれているといえる。
つまり本集では、
《凝視》に端を発して《思い入れに駆られた知性》が対象に注入がされると
対象から《生気》が立ち上がる、
ということを多くの作品によって示しており
これを称して些か成人にはご無礼かもしれないが
あえて《利発》と表現したのである。
さて。少し個別に。
☆
無量光樹はとうめいになみだして皐月男ちちの遺骨を抱く
知識人にあらざる双耳すがすがと直角に生き七転び八起き
父君の挽歌にわたくしは衝撃をを感じる。
悲哀も勿論あることであろうが、それにも増して本質の回想がありはしないか。
『皐月男』『双耳』に収斂されつくした父を見送る。
まさに硬質の愛、送別である。
☆
うつくしき六六魚の雄がひったりと背に吸いつく長月の恋①
荒川が海にあこがれ出るところ落日をいれ金銀朱なる鱗もみあう②
魚の表現もまたvivid。①の『六六魚』は鯉、
②の『鱗』無論、波を示すが、影に魚をほのめかす。
このあたり正に絢爛、にぎにぎしい歌をわたくしが好むことを度外視してもけだし類のない絢爛。
特に水には絢爛が似合う。
☆
ひよどりが喰いつくすまで熟れ柿をとろかしておく障子戸の向こう
遠巻きに餌をまちている白鳥の首ほそほそしプライドかかげ
こちらは鳥。
同様に、観察の末か直感か、役割が実にうまくあてがわれている。
☆
ありあけのなかぞらに浮く花暈のさくらは冷えて時なきがごと
満開というはおそろし はな姥が恍とおとめの精を吸いあぐ
木瓜の実のいびつは熟れて若猫にあらざる体はひがな眠りつ
曼珠沙華ふいと跨ぎて老年のモンローのごとマリが歩み来
鬼柚子を木にふとらせて荒し男の師走の雲がずんずんと行く
ひのくれのあてどのなさに呼ばれおり 叫ぶざくろや通草のあくび
ものいろの舌ゆらゆらと地表より五センチがほどのしのぶもじずり
しかしながら、本編の本筋は植物群。
こちらは正に繚乱の眺め。
要するに、植物の本質あるいはその外延を、巧みな言辞とのカプリングでそれぞれを作品に仕立てている。
こここそ本領で、このような場面場面での神経の投網の成果はまさに大漁である。
☆
金星を抱かんとして右弧月の月の腕のさやさや明る
寒夕映え退きてしんと耳立つる繊月辛く世紀は移る
寒のそら二層に明けて朱を離るるみずのひとみのみひらきてゆく
さかほこの天の力士が大沼を放り投げたる夏の雷かな③
天空の歌にも工夫がただよう。
こちらは総じて大柄で力づよい。
作品から風圧を感じる系列である。
中でも③は数少ない池田さんの《荒事》である。
類例のない歌こそわたくしが待つものである。
☆
ははという範疇われになきことの秋海棠はさみしき眸する
黄と赤のパプリカきざみ元気づく頭蓋の重さかたむけながら
さびしさは鈍器のようだ夫と妻ふたつの椅子が気まじめに対き
さて、最後は作者周辺の歌。こちらはひっそりと物静か。
知者は自身のことにはしんするものなのかも知れない。
☆
池田裕美子さんは『短歌人』のメンバー、『ヒカリトアソベ』はその第２歌集である。
出向（三平忠宏）2007.4.25〔ながらみ書房〕
（2007.12.29）
三平さんは工業化学を専攻し化学会社で仕事を全うしたエンジニアである。
本集はその最近６年の集積。
出向とそれに引き続く４年間の九州での工場責任者としての生活と、
故郷の千葉に戻っての第二の出発点までの２年間の日々夜々の心境が細緻に描かれている。
わたくしのこの頁は《二次的著作物》を自認しているので、原著のそのまま転載は避け続けてきているが
この『出向』に限っては編年を崩さず提示したい。
このように克明に書かれている背景は、恐らく、この集の制作期間が短期間であること、
セミコンビジネスという変化に富んだ日常であることにも拠るが、
三平さんのいかにも技術屋らしい観察癖・記録癖に導かれるところが大きかったのであろうと結論づけられる。
子会社へ出向告ぐる電話受く金曜午後の出張先にて①
幾たびも訪ひし会社の発祥地なるも出向の不安が過る②
定年を三年後に控えゐて思いもかけぬ異動の来たり
楽しげに妻の添ひくる梅雨の街単身赴任の品々買ひに
目のみ見ゆる若きをみながしなやかに機器の狭間に立ち働けり
総身を白衣に隠して忍者めく半導体を閲する乙女
向かひ合う執行部員は皆若し張り詰めし顔にジョーク投げ掛く
Ｖの字が頭上に解けて降り始む鶴らは夕べの空戻り来て③
どうしやうもないよいまさら昨年の設備投資が過大と言っても
風蘭の三百余鉢が咲き満ちて夜の温室に白く浮き出づ④
血痕と矢弾の傷ある陣中旗天草四郎に天国ありしや⑤
採用時の顔をつぎつぎに思ひ出す契約解除のリストを見つつ
甲高み声をあげゐしかの乙女今はいづこに働きゐるや
賀詞に添へ誰も不況を嘆くなりこの市の新年交歓会にて
屋久杉の森より下る林道の視界開けて海の紺見ゆ⑥
交代を予期せるやうな眼差しで社員ら迎ふ長なるわれを
ドッグイヤーを実感しつつ半導体の技術文書をシュレッダーに通す
若きらに知識と経験伝へよとプラント技術の講義頼まる
海外のコストに負けしと冷めて見る理性が嘆きの情に勝れり
①②は集冒頭の２首、この内示ぶりからみても如何に急な決定だったかが偲ばれる。
あるいは急な代打人事だったかも知れない。
あとの、工場経営者としてのビジネスライフは書かれた如くの日々。
③⑤はその間の地域見聞、④はクロウト級の風蘭栽培の一面。
☆
筑紫への道は遥けし防人の発ちし上総の丘に萌え始む⑦
そこここにおほき綿菓子抱くやうに桜咲くなり里見城址は
私語消えて学生たちに見詰めらる採用試験の経験語れば
高千穂の神楽を思ふこの安房の祭囃子に三拍子聞き⑧
半導体の今と未来を覗かむとメッセへ向かふ人込みのなか
ウエハーの微細線路は市街めくナノメートルの世界美し
面長に細目の娘と丸顔の婿殿前に笑ひをこらふ
契約書の乙に名を書き捺印し技術顧問の仕事始まる
ブランクの二年ありしがひと月で半導体の世界に帰りぬ⑨
台風のうなりの中にまとめをり復帰後初の技術レポート⑩
故郷へ戻ってからも、九州への思いは熱い。⑦⑧
そして、巻末は⑨⑩の再出発の入り口で閉じられている。
人生、正に、一本道である。
☆
三平忠宏さんは『未来』『稜』のメンバー。
その第１歌集である。
マニキュア（八木明子）2007.11.1〔角川書店〕
（2007.12.26）
あとがきを引いて歌集を語るのは上策とはいえないが、本編にはそれが必要なように思われる。
八木さんは意識的に『現代の相聞を作りたい』として作歌を続けているのだという。
その間９年。
入念に爪の手入れをする夜は明日に会う人をすでに捕獲す☆
踏み込んで来てはくれぬか遠き君この均衡をこわしたくあり
充分に効果計算して微笑みを送れば君をすでに捕獲す☆
なにげなく視線をやればなんとなくこちらをみつめるひとを無視する☆
とっておきの笑みを送れば彼のテーブルに殊更無表情はすでにわが囚
マニキュアの剥げた指先噛みながら前に座れる君をいたぶる
黒革の手袋のままティーを飲む 女は獲物狙う眼をして
わが標的を誘惑せんと完璧に装いて不敵に微笑む鏡の女☆
ここで起用される語は『捕獲』であり『均衡をこわした（い）』であり、
『無視』であり『囚』であり『いたぶる』『獲物』『標的』である。
無論、わたくしの採りようもあるが、
これを現代の相聞歌として実地に形成して見せる志を大いに評価したいところである。
こう書くと著者はオヤジ一頭捕獲と言うのだろうか。
☆
相聞の現代的特質を上記の「ラブゲーム」あるいは「マンハンティング」におおむね絞り、
その域内でお気に入りの語群を跳ね回らせる企画にわたくしは目を細める。
というのも、これら相聞の裾野に大きな《おしゃれ質》を認めるからである。
注ぎたる時の赤色思いつつワイングラスを選ぶ小樽ガラス工房☆
わが髪に指を差し入れはらはらと乱す美容師「ああ快感」★
みられてるそんな気がして振り向けばカラーコンタクトのごとき夕月☆
ストローに写し取られし口紅を会話の途中に気づきてより不安☆
投げやりに書きたる「堕落」という文字を見つめひとりのミントティー飲む
マニキュアの塗りの斑を見つめつつ聞いている「君とは暫く逢わない方がいい」☆
寂しさか気乗りのしないパーティーに既にパールのマニキュア塗り入る☆
席を立つ女の細き足首に一瞥を投ぐ頑な踝
物欲は即ちおしゃれおしゃれとは異性を意識することならん
この《おしゃれ質》はやはり現代そのものであり
その圧倒性を知るがゆえに、
わたくしが『辻斬り』やら『乱連射』のそれこそ『標的』として強く意識してきたものなのであるから。
☆
さて、自在な構想と自由な語り口は八木さんの本質。
上記の作品の後ろの星印は破調、☆は過多、★は過少である。
下句での字余りが多いのは、下流域で破堤する暴れ川のように、エネルギーを蓄積しながら読み進む風があるのだろう。
それに、恐らくは八木さんが妥協を得意としない短歌的資質の持ち主であることに拠るのだろう。
☆
むろん、やさしい相聞も同梱されていることを付け加える必要も感じている。
ゆくりなき時の悪戯かおもて参道の階段上がれば日の照る中に君☆
本当は息子に見せたくて夫が呼ぶその声にわが行き月蝕ながむ☆
白薔薇の濡れ咲く園に分け入れば君との空気密度を増せり
動揺を隠さんとして指先に触れし黄水晶のイヤリングゆるる☆
八木明子さんは『泱』『風の会』『日本短歌協会』のメンバー。
その第１歌集である。
秧歌（佐藤千代子）2007.11.18〔ながらみ書房〕
（2007.12.23）
秧歌（おうか）は中国に伝わる田植え歌だという。
☆
佐藤さんは見つめるお人である。
見つめながら、素材に水を与え、綿密に捏ねるかのような作法である。
木を伐れば胴吹く若芽反骨の必死の生を我に見せたる
日輪を背負いて立てば向日葵は黄金の髪振り黒く微笑む
つんつんと尖りし心そのままに固めし髪を陽がやわらげる
日の差せば山の緑の浮き立ちて五月の空を圧し上げて行く
信号に止められながら親指にまだ夢の先探らせている
踏みしめる我が足下に目をやれば名知らぬ白き花の呼び合う
風に乗る君来るを待つ花びらはこれ見よがしの震えを見せて
つまり、それぞれの作品には佐藤さんの感想がこもっている。
ことばを変えれば、作者と作品はこういう形で一体となるのだ。
客体と主体の混合であり融合である。
☆
それの配合が、ときどきは、ぐんぐん主体に近づくときがある。
表現はさらに思い切りのよい形に切り替わり、
歌は自立する。
宝石をざらりと海に投げし夜ネプチューン驚きて立つ
首こりり腰はぎりりと音立つる我が我が肉叢も苦楽をうたう
春草の泣虫毛虫いじめられ青葉若葉の闇にさ迷う
☆
高校の教員、学校相談員という眼での作品もある。
君達の目は口ほどにものを言う目線の先のカンニングペーパー
ひたすらに押し黙りいる女生徒の小さく震える肩のささやき
かの夕べ十七歳の「さようなら」理由なんぞは知りたくもなし
☆
社会へ向けられた眼。
やわらかき春キャベツ食むさっくりと歯ぐきに甘く平和かみしむ
ご破算で願いましてはいつだって算盤じゃらと鳴らす選挙カー
キノコ雲その傘の下生れたるを二十世紀の悲しみとせん
☆
自身の抒情はひっそりと。
ときにはおふくろさまの思い出もある。
横ざまに膝を抱えて湧き上がる憎悪の尻尾を引きもどす夜
行くあての無くて鏡に向かう午後我いち人のための化粧す
騙すより騙されるが良し亡き母の口ぐせ真似てでんぐり返し
くるくると母のパラソル夏の日の白き風生む思い出の中に
☆
充実した大人の姿が見える。
佐藤千代子さんは『歌と観照』のメンバー。
その第３歌集である。
蝋梅坂（鎌家さきえ）2007.12.16〔六花書林〕
（2007.12.3）
老眼鏡かくるまなこに出る涙おさえて蝋梅坂を帰り来
蝋梅坂は鎌家さんの住む東京国分寺の坂である。
生国は三重県、従軍看護婦の経験もある大正ギャルである。
このギャルという物言いがわたくしの敬意に発する。
わたくしは疲れましたよ世に斯くもわが歌集読みくるる人いて
冒頭の作は第１歌集上梓勅直後のもの。
歌を軸とする生活が偲ばれる。
そして次の作は近作
然れども思うこの頃このわれゆ「うた」とればただの婆となるべし
☆
ベースにあるの平穏な日常での起伏を回想を交えつつ詠われる境地である。
日常詠は丁寧であり、正に日々を刻むというに相応しい。
ひとり居にもろもろ思うこと多し亡父が投げたる投網の広さ
玉かんざしの擬宝珠四方に咲きいたる天山山脈ひたに恋ほしも
神戸にて音信なかりき友と逢うためにわが行く八十路を過ぎて
なぜ東京に、なにゆえ神戸に、それぞれに握る手熱し久々の逢い
家近き池のほとりに犬を曳くわれの生活のこれもよろしき
生と死の瞬の間見たる動悸あり町いし蝋梅ひと枝落とす
疲れました。人生どうでもいいけれど草木育てる跡継ぎが欲し
医師の妻に教わりている、籠植えの寄せ合い花の管理その他を
☆
しかしその観察はしばしば《特異》であり、そのストレートな展開が
この歌集に多くの的確な人物像を提示している。（無論、わんちゃんも同様です）
孫の嫁語尾長く引き「眞吾ォー」とその夫を呼ぶ憚らず呼ぶ
デデポッポ鳴いてらぁと隣家の嫁が言うらし声きこえ来ぬ
隣家の嫁はいずこに行き来しや楽しげに嬉しげの面に帰り来
一日入院に男看護師の言葉やさし、優しき言葉少し気味悪
「ロミ」散歩、くるくる回り、尻尾振り、靴下持て来、お手、お座りと
☆
特異といえば、鎌家さんは特異な語感を持つ。
食いたしよ松阪牛肉世界一あの刺しの味、ふるさとの味
これやこの鳥の不覚か炎天の舗道に落ちて青虫ひとつ
そして、ト記に、元気いっぱいの言葉づかいとなる。
大正ギャルの面目や駆除というところ。
葉ッピーの一葉かずかず芽を出しぬ三人子おもふ梅雨の夕暮れ
修理不可、頭脳回線損傷を片辺に置きて今日も置きいる
今年の炎暑すとんと落ちて今朝の風 萩のつぼみの穂先を揺らす
☆
鎌家さんは『日月』のメンバーその第２歌集である。
（2007.11.23）
小高さんは前に『現代短歌作法』でやわらかい歌を成すことを身をもって提唱しておられいたが
正にそれを地で行くかの作法である。
自我の本体は水面下に沈め、恰も潜望鏡で事故の視野を占められる作風がくっきりと見えている。
これらは、大いなる自然体であり、短歌そのものの有する特質に自然に適合しているかに見える。
耳ふたつ小鳥にあずけしばらくは冬のひなたの影がともだち
自然死のほかにカラスに死はあらぬ墓地を住処に夜がしのびきて
この世から出でてゆくやら出さるるやら春の日射しは透明なれど
さりげなくわが背を押しこそばゆし夢のもつれのような春風
飽食の夜は終わりてていねいに謝罪するごと歯をみがきあぐ
われという容器に生きて逃れえぬ独生独死独去独来
さりげなく後ずさりする選択に大いに味方する冬の雲
いかなる老いの来るにやあらん耳ピアス三つ下げたる金髪男
古猫の背負いを誘い布団ほすような日和がベランダに振る
日本語にあらぬはげしさ夜の灯に声の漏れくる電話ボックス
これらは、ともすれば、誰もが思い当たるようなことの作品化である。
つまりは偉大なる代弁者・代理人を自ら任じているのだろうか。
☆
だが、こと家族に及べばこれは格別。人物描写は一段と精度を上げる。
日曜にむすめが居間にいるだけで家は渋谷のようなざわめき
他人の眼をうとみて杖を使わざりきわかる気がする母の矜恃は
傘張りの浪人のごとパソコンを前に動かぬ彼が長男
逝く前にわが犬鳴かず数滴のなみだをこぼしかなしかりけり
悪く悪く妻は予測し逡巡し寝しなに動悸止まぬもあわれ
☆
そして、老境への接近に沿いながら、その歌境は自然体ながら具体化される。
むらぎものいずこも澄んでくることのなくて茫々六十歳間近
脚ながきホントに長きおみなごをうしろから眺る老いさびる目に
「老人まぢか」大松達知にいわれたるまぢかのわれのひるの鯖塩
佐太郎は柊二の老いの歌清し虔しかりし生の微動は
病院のベッドにみずから治療薬調べる同僚のその「知」かなしき
☆
しかし、この集の中には、人間の本質への問いかけがひっそりと沈められている。
目立たぬが目立つ。
間違いなく小高さんのメッセージだとはっきりと感得できるのです。深い切り込みである。
叩かれし鯵のからだをこりこりとするといひつつにんげんは食む
あたたかき骨壷に従きさざめきて生者は向かうおきおよめの席
わたくしが、ただ私が大事です社会主義なる明かり消えれば
☆
小高賢さんはかりんのメンバー。その第７歌集である。
また、本集は角川「21世紀歌人シリーズ」の一連である。
天蓋天涯（三井ゆき）2007.10.29〔角川書店〕
（2007.11.14）
不思議な巡り会わせである。
この間まで、高橋みずほさんの『りん（亠＋回と書かせていただく）』を読んで、
一巻、正に思弁と観察の成果ぎっしりで、抒情の片鱗さえ見えないことに感嘆していたのに、
こちら『天蓋天涯』は、うって変って、驚天動地の怒涛の抒情。滾滾と起り、満満と集い、ひたひたと寄せてくる。
流れゆく水音空にひびかしめ何が来ようと背負ってみせる
能登往還（三井ゆき）1996.3.3短歌新聞社
かねて、わたくしは三井さんの《女侠的》側面を讃え、
画像で言うなら、永徳筆の一対の獅子のいわゆる女獅子、右の鬣の小さい方、というイメージで捉えていたのだが。
さて、本集でのその抒情の質である。
☆
運行との対峙の際に
人には、時の、世の運行ということをいやがおうでも考えさせられるときがある。
そういう切羽つまった状況は人を思考に誘う。
幾つかの、定義・規定がその結果として生まれてくる。
そしてこれ自体が実に切ない抒情でもある。
春の胸みつればのぼる揚雲雀帰らずあれよ雲間を抜きて
たまゆらと永遠とはたぶんおなじこと丘にあまねしやよひのひかり
その人のもてる記憶ももろともに 消ゆるといふはさういふことか
ゐた、ゐない、ゐるとふ在り方合歓の花ほはりと咲くは再生ならむ
うちひらく花火消えゆくときのまを人群れさらふがごとき音立つ
☆
喪失感への直面
その前に先ず、本集には、無論、手放しのさみしさがある。
これは、まず、圧倒的である。
生活の底流が哀しみそのものなのである。
ただ一度のことなりければ落命は生きゐる人をかくなげかしむ
しだれつつ肉食むごとき糸ざくらわれはカリリと白骨噛まむ
帰らむよ夫なき家のしづかさは言ふべくもなき海原の底
われがわれにかへれるまでにたつぷりと使ひし三年半分は酒
☆
事物と不即不離の情感、これぞ抒情
無論、上記の《合歓の花》も《花火》も出発点はここにある。
紅しだれ昏きがなかに鎮まれり天蓋天涯旅びとは過ぐ
沙羅の花朝ごと散りゐる石畳捨て身といふを知らざるわれに
小さき悪みにくかりけり大き悪卑しかりけり紫陽花が咲く
脚のべてゆく白鷺の飛翔力山河の露は山越えにけり
薄明に立つ木蓮の常ならぬひかりや遠きこゑのごとくに
ほふられしにはとりの羽散りゐたる竹の根方をおもふことあり
☆
抒情のトーンを抑えたスケッチには、
薄め薄めされているけれども、最終的には作家の思いが浮き出てくる。
無論、猫は別格である。
入りくみてこんぐらかりて堤よりなだれて咲きて水のあかるさ
淺川に佇む五位の怒り肩天下睥睨の六月の朝
みづからの形をいかに思ふらむ伸縮自在の猫の縮の背
ベランダに猫と見る月 猫やわれかたみに黒き影を従へ
☆
日々の感懐
ここに抄出した作品の形相はさまざまだ。
決して《その他》ではなく《括れない本質》がここにある。
悲調哀調ただようもの①⑤、矜恃の見えるもの①、
再起を自身に促すもの②④、心の機微をとらえたもの⑤、となろう。
その若さ経験ずみさわれはいま終りのことを考へてゐる ①
口あけて笑ひゐるわれみづからは今宵空より墜ちて来たりき ②
一、二度は通ひたりしが耳鼻咽喉科画数多き看板が嫌 ③
ハンカチーフにアイロン当つる快さ春が迎へにきてゐるやうな ④
「産休は三人目」といふ声ののち緊張はらむ沈黙があり ⑤
☆
三井ゆきさんは短歌人の編集委員。その第７歌集である。
本集は角川「21世紀歌人シリーズ」の一連である。
（200８.1.26）
鶴田さんの歌は大柄でいて、スキが少なく、肌理こまかい作風である。
天与のカンの紡ぎ出すところだろう。
ファの音でひらきし夏の花たちを見上げる人はラの演奏で
変わらないものなどないという君の言葉に蜂は羽音ひびかす
☆
視野をズームアウトした作品がいくつかある。
高くからとらえ直す自己、遠くを見通す自己。
客観的な保存を試みるかのようである。
自然、時空の軸が伸びる。この大らかさは間違いなく鶴田さんの美質だ。
水満ちてわらう地球の我の上 るななるなるな月はうたえり
はるかはるかそらのかがみにうつるのはだれもさわれぬひとりのわたし
かなうなら琥珀に眠る虫のごと三千万年貫く思い
百年の眠りがほしい誰からも傷つけられず傷つけもせず
☆
ときおり、理科のにおいのある語が起用される。
この手法は日常のことがらを当然引き締めるが、これは作者の心を反映しているにちがいない。
離れればたちまち淡くなりてゆく水溶性の愛を淋しむ
ハッサクにずんと爪立て傷つけしものの香気に清められおり
細胞の分裂の音聞きながら夏の木々より我は艶めく
感官をひらきてわれは蝉よりも声を限りに鳴かねばならぬ
☆
その延長線上に位置することになるが、自己の器質に即して歌う作品も特徴を見せる。
冒頭とうってかわったズームイン。
愛恋の歌も含めて、集の重要な中核をなしている。
抱き合えばさざなみの立つ身体持つ我ら水から生まれしものは
ほの白き卵いくつも産みたしと夜半の寝床に座り直せり
月の子は太るやせるを繰り返しわたしの中で人となりゆく
たんぽぽの花に目線を合わせんとしゃがみこむとき傾く羊水
☆
日常詠には思い切りにぎにぎしいいわゆる若書きや
反面の落ち着きなども見え多彩。スキのない現代短歌がある。
たんたんとすぎゆくときにびゃんびゃんとびどろを吹くしかできないよ
吾の中に潜む裂け目は見せまいと黒豆ふくりふくり煮ており
わが顔は二枚の耳にはさまれて缶コーヒーを不器用に飲む
☆
そして母性。
次の１首目は謙虚であるがゆえにとても新鮮である。
土台、母性は謙虚にほど遠いので。
産むということばの不遜わたくしは子を運び来し小舟にすぎず
子宝というより子俵ずっしりと眠れる吾子を抱えて歩く
まだ小さきけものの吾子は甘噛みを覚ゆふふんと笑いを含み
ひたすらに求められたる恍惚に発酵し始む母性というは
☆
鶴田伊津さんは『短歌人』のメンバー、その第１歌集である。
亠
回
（2007.11．8）
『りん』の字体の表記はWORDでは難しい。《稟》の上半分を書かなければならないのであるから。
今夏、初めて接することのできた前集『フルヘッヘンド』は
相当に刺激的な歌集であったが、わたくしは再読の際に次の一首を残した。
落下するへび紫陽花に触れにけり高橋みずほはふわりと読まん
蛇はたまたまの実景だが、高橋さんの作品は《ふわり》と読みたかったのである。
ちょうど、設計に万端、思考の凝らされた橋に対したときは、その背景の力学などは度外視して《ふわり》と見ることになるように。
思い切りあけられた目は割かれゆく身につきながら離れてゆけり①
望遠鏡で海をまるめて波ばかり波ばかりとうたゆたう光②
ともに、観察の成果。①は調理される魚の歌、②は海を眺めての歌、いずれも非凡な観察である。
☆
ところが、この集は実に多くの作品が破調なのである。
短歌形式は詠みてと読みての貴重な《架け橋》であるのでその基本を侵すということは
ともすれば読み手との大切な絆に傷をつけはしないかと心配になる。
さて。
くもり陽に蓑虫ゆれて山椒の葉の枯色を糸に吊る Ｅ
しばらくをつまみ上げたる草の根を見上げるほどに放り投げ Ｅ
解体という音のする錆釘の抜かれるまでの穴の音 Ｅ
手にとれぬ光の線を描き出す絵かきの嘘も額のうち Ｅ
しんたいをまわしてしまえ耳穴のうごかぬまへのへこみかな Ｅ
この末尾のＥは第５句に「字足らず」のある作品であるという符号である。
この形式は実に多い。
ところが、いかがだろうか。続けさまに読むと、結句５音に慣れてきて
「なるほど」と思い始めてくるのだ。
不思議なリズムである。
赤い血がかたまりながら皮膚となるひとの外郭 Ｅ
この作品は第５句を欠いている。
以下、Ａは第１句、Ｂは第２句とルールを念頭にご覧頂こう。
からまつの野の一列森から森へ雪影をひき Ｃ
これは第３句を備えない作品。
するり白肌幹くねり寺の真中に鐘の音す Ｂ
これは初句なし。
金華糖かそかに割れる糖の音 のとける舌 Ｄ
これは第４句。
☆
全くの欠落（というより、不起用）というのではないが、各句それぞれにいわゆる字足らずが多い。
さらに、変形の著しいものはＸとして分類している。
これらを数値処理すればいくつかの論点も立つであろう。
高橋さんもあとがきで『定型の意味』を考えている、とあるので。
しかし、わたくしは《ふわり》と読んでいる。
その方が味わえるのだ。
☆
化粧の顔の隙間に皮膚みえてとろりまなこの支える瞳 Ａ
ロッキング・チェアゆれてめもはなも女のかおのうちでつらなる Ｂ
冷酒をくいと飲む喉元に皺の動きも男のなかの Ｃ
空も海も溶け出して ひとり 顔を押さえて内を守れり Ｃ
雪積もる前の夕闇空気の粒が ひとつひとつ消え Ｃ
秒針の刻む足元うすら春陽のまとわりついて Ｃ
背景がうねりの波となりて人らにぶつｌかる まるく空く目 Ｃ
つながれている犬の鼻先に角ぶつかって道は奥まる Ｃ
☆
霧のあけてひろがる港の街に岸辺のとがり海のとがり Ｃ Ｅ
人型にひとは眠れり闇にとどむる息の深さ Ｃ Ｅ
☆
こうしてヒマラヤ杉のてっぺんが宙を飛んで土に死んだ Ｘ
月の欠けて流れる地球の果 ひとひとりをたたずませ Ｘ
ここより曲りとなる線路どこまでか はなたれる音 X
朝顔の種の枯色 は じ け て ゆ け り X
しずけさは花の香のもとのひとの終わりに雲ひとつ X
むかし、「頭を良くする秘策」というのを書いた本があって、
その中に「ものを食べる前に必ずその食品の匂いを嗅げ」という項目があったのをはからずも思い出した。
高橋さんはきっと、５句それぞれに対してかならず、詩形の確認をしているのだろう。
ほとんどが字足らずであって字余りは稀だという事実は意味深い。
吟味の果てに切り落とした、と見るべきであろう。
果たせるかな、この様式観の中で《絞込みという修羅場》を経た筋肉質の作品は傾向的には一貫して冷徹な観察と思弁である。
抒情とはきわめて遠い位置に詩弾は放たれている。
そのなかで、もっともふわりとした作品。
海原に引かれた線と空の果て交わればほらかなしくないさ
高橋みずほさんは３人誌『BLEND』のメンバー、その第２歌集である。
（2007.11.3）
わたくしにはない幻想を紡ぎ出す酵素を松平修文さんに多量に持っている。
あるいは、日本画家の本領か。
全編、大いなる幻想の海溝の観がある。
先ずは偉大なる幻想から。
夢のなかのことにすぎねど轟々と落ちる瀑布やがて血の瀑布となる
「幽霊とは、夏の夜に散る病葉のことです」とその街路樹の病葉が言ふ
夢破れて詩は成るものか かたはらの紅蓼を蹴る風の足裏
ゆふぐれの林檎園はミステリアスで、金色の霧ざわざわ流れ
花なのか何なのかとそのかたまりを掴めば「悪意だよ」とそのかたまりが言ふ
ムラサキツユクサの染色体数とわたくしの年齢は同じですのよと言ふ
ゆふぐれの人よ、と少女子が窓を開け水を一束下さるといふ
桜森の石階を降りて来し幻の犬よ きみは去年の夏に死んだんだよね
☆
奥行きの深い柔構造の作品は、指で撫で、さらに瞑目して指で撫で直し、咀嚼を重ねながら再読することになる。
特に光るのは心の襞の動きから、作者が生命体そのものであると感じさせる歌である。
「聞きたかったことがあるの」ときみが言ひ、問ひかへさざりき 後に苦しむ
生くるに倦みしと思ふことあり水性草原に棲む魚たちを思ふことあり
精神を立てなほさむとして苦しみき 青春といふ時間のあとに
生は無意味にあらざるといふ確信を一生をかけて得むと思ひき
☆
驚嘆は膨大な《父恋》の歌である。
東西、或いは古今含めてこれほどの境地を知らない。
下記はそのほんの一部。
父が逝きし日のゆふぐれの屋上に黒き犬ゐて吾を見おろす
人に告ぐることならねども吾はかつてかくも美しき死顔を見ず
行きどまりオトコヘシの花咲き残り、荒草は亡父とわれとを隔つ
明けがたの青きひかりのなかで会ふ「何をしてゐるのか」「亡父よ、あなたこそこんな森で」
亡父のこゑがどこからして 満開の桜花みづいろに染まりて
父はもうゐないのに酸実咲く野に高原にともに行かむと思ひしよ ああ
父がゐたころはこの世もそれなりにいいところだつたやうな気がする
引戻すことかなはざる〈時間〉 その暗きもの父を連れ去る
父の死ののちに思ひき 少年の我はその過剰なる愛情を怖れき
☆
本領は自然に目を凝らし、耳を傾ける天然詩人の心の傾向が示される。
山脈の空に懸かりゐし虹消えてふたたびの雨すざまじくなる
樹も暗し草も暗しと慨嘆す 水駅さむき山のみづうみ
白墨で描いたやうな森ありて北風のほか誰も通らぬ
夜の空を塞ぐポプラを仰ぎをり 父とふ名の風景として
その花がかつて好きではなかつたが、いま見れば利口さうな雛菊
背後で森が騒いでゐた その上を黒い雲団がとほり過ぎて行つた
野盗のやうな黒い雲たちじやんかじやんじやんじやかじやんじやんと造成地の空渡りゆく
火の粉混るごとき凍雲たてがみ混るごときの疎林に疲れぬ
☆
最後に、やや異風の生活感を。
ディナーを食つたことにして新しい画布を買ひ新しいモデルをやとふ
窓といふ窓を閉め都市の騒音を断ち、わたくしに戻らむとする
単純化して言へば、都市とは複雑なる音響に過ぎざるものを
☆
貴集か『蓬』は松平さんの１２年ぶりの第４歌集、自由なフィールドでの作家活動であり
本編４３１首の内の８割は書き下ろしである。
弧を描く星（多賀陽美）2007.9.20〔北溟社〕
（2007.11.1）
多賀陽美さんの歌集は、既に、『結氷期』『地震過ぎて』の両集を見ているが
その都度、作品は無論であるが、その美しい氏名にも注目したものである。
多賀さんの陽美（はるみ）、わたくしの仁美（よしはる）という類似の語感、
さらには近くに美陽（よしはる）という人がいたこともあり、ほの懐かしい。
余談は、ともかく、20数年ぶりの第３歌集である。
花房を垂れつつ紅きさるすべり夕立のあと雫しており
雨止みしとつぶやきし太夫は幕陰に目を閉じ立ちて神となりゆく
新年の挨拶終えてふり向けば虹消えており街屋根の上
多賀さんは、アララギ脈のきちんとした歌法を修めた、いわゆる金筋の《歌人》である。
切り取り方にムリ、ムラ、ムダがない。
３ムの山のようなわたくしには実に清清しい。
☆
子燕を巣に戻さんと両の手に包めばじっとしており温し
もてあそびし蝉を食むネコ見つめつつわが少年ら声もなくおり
焼牡蠣の殻の熱きをこじあけて太りしその身を吹きつつ食めり
薄黄なるひとすじの液垂れており羽化せしばかりの揚羽の殻より
この作家がもっともとのパワーをじわりと見せつけるのは
素材が《生命》におよぶときであろう。
ときにはユーモラスに。
裏口より入り来て猫の残飯を平らげてゆく太っちょ狸
時には子を従えてくる太っちょ狸このごろ母に嫌われている
そしてこれと地続きの農の歌。
猪 猿 たぬきの被害を語りつつ村の人らは笑顔絶やさず
☆
２０年を超える作歌期間の驚きをご覧頂こう。
西瓜の花の交配せんと屈みたる瞬時を胎児は痛きまで蹴る
矢継ぎ早やに叱れば少女はわれの目を見つつ黙せりわれも黙しぬ
少女子の作りし凧の揚がれると声あげしときくるくると落つ
両の手に包みて重味確かむる子のホームラン打ちし白球
☆
シャープな感性、その耳目。
夕暮れに忙しく洗い漬けし小かぶ夜更けてしなうかすかなる音
アキアカネもハグロトンボも見えぬ野に眼凝らせば糸とんぼおり
跳ねているハゼを押さえて刃を入るる夫の表情を見てしまいたり
枯松の倒るる音らし裏山より風強き日は幾たびも聞く
射しそめし朝日に染まる鷺の群幼鳥も魚を獲る姿勢して
桜散る池より今し石の上に上がりたる亀花まみれなり
☆
さらに目を上げれば、
多賀さんは広島の星の奇麗な町にお住まいなのである。
ナイター練習より帰り来し子が玄関に星見に来よとわれを呼ぶなり
はじめて撮りし夜空の写真に声をあぐ美しく孤を描きたる星
☆
多賀さんは『短歌２１世紀』のメンバー、また、本編は北溟社《シリーズ現代短歌５００首》の一巻である。
暗室に咲く白い花（武藤雅治）2007.8.30〔ながらみ書房〕
（2007.10.26）
武藤さんは歌誌『あらくさ』は勿論、俳誌への寄稿『ぶるうまりん』のほか
写真によるトライアルなど多方面での活躍が気に懸かる存在だが
本編は1991年から2001年までの作品に限って収めている。
一入の思いがあるのだろう。そこを尊重してわたくしなりに大切に読んだ。
作品の傾向は明らかに、最近の『あらくさ』誌上の作品とはあきらかにその質を異にしている。
かなかなのこゑ怖ろしきゆふまぐれ 暗室に抱く白きうつしみ
暗室に咲く白い花 盲ひたるまなうらのなほ恍かに明く
☆
一巻に分け入り、印象ぶかい奇花の数々を胴乱に収めた。
花々の呼吸の不思議さが心に残る。あるもの花が周辺に露をまとい、或いは光をまとう。
ひとふさの黒き葡萄よ ほのぐらき光をはなつあまた眼よ
はつなつのひめごとひとつみづからをあざむく悪のうたうらの花
見おろしてゐるがごとくに天井の節穴がある誰の眸ならむ
くろぐろとこころのそこにとぐろまくわがくちなはのまなこがひかる
ひとふりの盬に弔ふ他人の死のやがておのれの死とならむ日の
☆
武藤さんの視野には《見えざるものが見える》のか、ありうべきものを《付加補正して見直す》のか、
いずれにしても歌となった武藤さんの世界は断じて可視のものだけではない。
さらに、一歩すすむとこれは、仮想の域に到達する。
留守をするそんな感じでひつそりと一度は死んでみたくはないか
ピストルがあれば私は撃つだろう標的のない明日の空を
叢に寝てゐるわれの肉体のどの部分より蛇になるのか
☆
無論、日々の苦悩のストレートな表現もある。
悔しみをこころにふかくしづめつつ歩むに泥む日々を生きなむ
敗走をつづける夢が 抽き出しの中には釘が光つてをるぞ
足ちぢめ首をちぢめて丸くなり長考無限ぼくの芋虫
そして、風景。いずれも思いの隈取が濃い。
さやうなら、またあしたなど来ぬやうな大きな月が浮いてゐました
あかねさす白昼の梅林 風吹けばびりびり空は痙攣をする
そして、周囲の人々。
公園の池に浮かんでゐる鴨よ 学校へ行かない少女ヒロ子よ
とほくより見る少年の茶髪こそ 小ライオンのごと美し
大根の首をざつくり斬りおとすきみの鋭きゆふべの視線
自転車の荷台に鍬をくくりつけ畑にかよふ草かをる母
そして、身体的存在としての自身。
右の耳と左の耳を、右の目と左の目を、使ひ分けたし
かがまればまだはきさうな俺の背を風がさすつてくれたのである
井の底に声を落とせばいつまでも木霊してゐるわたくのこゑ
☆
坂道を登り来る犬 なんといふ真面目な貌をしてゐることか
現代の異峰、武藤雅治さんは『あらくさ』代表、その第４歌集である。
霧笛橋（中川佐和子）2007.9.20〔角川書店〕
（2007.10.21）
中川さんはその持ち味の《雅び》《奔放》をさらに深めつつある。
☆
先ず、自身の思いを率直に捉えようとする追究だ。これはいやおうなく、切ない像を結ぶ。
やすらぎは来ないのだろうしろがねの刃より鋭く言葉のたちて
水辺より出でて水辺へ帰りゆく想いのありて葉月曇天
ほどけゆくしだれ桜の薄紅の一切合切夢をこぼせり
あるままに海鼠の形の感情が中野をゆけば押し寄せて来る
☆
力づよい描写もこの集の生命線、力づよいと言ってもその視線の及ぶ対象は無論硬軟自在にして融通無碍。
踵から力おさめてただ黒き欅並木の道を戻るも
ソーセージ、はみだすレタス、大瓶のマスタードもまた薄ら陽のなか
横須賀の薄日の差せる錆色の海確かめて高速をおりる
それぞれの足の形にかかえこむ空気も並ぶ売り場のブーツ
とまるたびざっざざっざと人を呑む六本木ヒルズのエレベーターは
長き雨われも想いをとじこめてほわいとあすぱら無駄にやわらか
☆
その中にはそら怖ろしいものへの気づきもある。
鼬、栗鼠、兎の毛にて整える貌あることのおみなおそろし
鉄砲百合咲けば日ごとに傾きて傾くことを空想と呼ぶ
今日のこの土壇場に来て思い出す鴉が山茶花うちて飛ぶ音
☆
また、人との思い出やご自身の感情、そして来し方への思いは万人にあるものながら、ここでも強い光彩を放つ。
歯をくいしばり歌わざる俗あることを教えたまいき歌会の席に
コンテンポラリーダンスの舞台を終えたればシューズを捨てて帰りきわれは
色の濃きひょろひょろ長き茶樹きのこ怒りもともに煮含めており
夏薊うてる速雨ひとりの死おもう心が立ちあがりくる
霧笛橋過ぎて諦めふりこぼす切り岸に似るこころ定めて
☆
ちょとばかりやんちゃぶりの覗く言葉遣いとその対象の妙味ある結びつきが今回はほの見えた。
差し詰め《新あじ》と呼ぼうか。
ぐうたらの蓮もまじっているならん不忍池並み立てる蓮
だだっぴろき田のなか並びて動かざる鶴もまじりて一面の鶴
パソコンのなかにデータを捜す間に遊び人の猫 庭を行き来す
☆
真骨頂は持ち前の体感の提示。
不思議なれども不思議にも追随可能。
黒鞄さげて帰るに根のあらぬ体の先っぽ冷たくなりぬ
スカーフのように〈かつて〉を巻きながら光の射抜くビル街歩む
耳、というなまなましきを思いつつ携帯電話にふたつにたたむ
ぬばたまの内ポケットへしまわれて わたしがwalletであればいいのに
面長き享保の女雛のまなじりにやどれり春の破れた力
☆
桜島まっすぐ仰ぎ九州のひとの心を盗む心地す
中川さんは『未来』編集委員、『卓上の時間』、『朱砂色の歳月』に次ぐ、第４歌集で角川短歌叢書、
ほかに『選集セレクション歌人中川佐和子集』がある。
鳥は鳴くⅡ（若林のぶ）2007.10.25〔六花書林〕
（2007.10.16）
若林さんとは歌会でも何度かご一緒したが、
ご無礼ながらどこやら、大久保彦子さんの威風がおありで、
水野十郎左きどりのわたくしとはそれなりの親近感があった。
父はつねに欄外の人物なりき晩秋の雨上りたるメトロを出づる
☆
きっぱりした心根から繰り出される作品には
明確なコンセプトが立ち現れ、年齢の流れの中で左右を睥睨する視点にぶれはない。
先ずは80歳宣言。
茂吉の墓に詣でたりけり哲久の記念館へ行く生誕八十歳のわれ
明治十五年茂吉誕生大正の十五年のぶ生るる緑陰したたる
☆
矜持にみちあふれた作品は燦と独自の光彩を放つ。
寂しさに頭を下げるな頭上げよ若林のぶが生きゆく日だまり
高瀬さんに「一流だ」と言はれ有頂天に今にし思えば「一流なのか」と
ふつふつと葱、蒟蒻の煮えてよりいまだ終らぬ晩年のあり
☆
さびしさの独白もしんみりはしているがしょぼしょぼはしていない。
束の間の秋のたかぶり束の間の命知らざり金木犀の
生くるとは漂ふことか人去りて海より秋の近づきてくる
断末魔の呻きといふを演ずれど呻きにならず嗚呼、断末魔！
人の世の胸突き八丁も過ぎにしをれんげが誘ふ輪廻みち
束ねたるひかり揺りおこし夏至を待つとことん夜半にさびしき一人
八月はこぼるる花の見当たらずゼラニウム低く咲かせゐる家
八月は赤かりいつの頃か懸命といふ日日のありたり
今生の別れのことば言ひ合へる人間それぞれに挽歌のひかり
俯瞰する春明けの町は音無くてわれを運べる白き川のみ
わが窓の湘南の海の夕茜神の領域に近づくごとし
☆
口一杯春の日射しを享けをりぬ一色海岸砂に寝ころび
☆
あとがきは１首で書かれている。
のぶちんが馬から落ちて落馬して天国行は着払ひとす おしまひ
この『おしまひ』が短歌生活のおしまいではなく、本編のおしまいであることは自明である、
と、そう読んでいる。
若林さんは短歌人を離れ、ただ今フリー、その第９歌集である。
世界露 せかいづゆ（豊岡裕一郎）2007.4.9〔ながらみ書房〕
（2007.10.14）
わずか、２点で全視界を支えるメガネがある。
それに倣い、本集を支える２首をごらん頂く。
瞬後には溶解しゆく都市だろうすべての電線が朱に感ず応する①
餌鉄のイルカを駆りて坂上にボディを浮かせば夜ヘすべりこむ②
両首の残す印象は鮮明である。
① は類例のない《夕日の提示》である。《描写》ではない、豊岡さんが我が物とした
或いは付加価値をつけた夕景の正に《提示》なのである。
② は都会をクルマで疾走する人物の《提示》である。
夕日とはいわない夕日、クルマと呼ばないクルマ。
静と動の世界、好一対である。
☆
豊岡さんの起用する語の多くはいわゆる短歌短歌したものではない。
玉と問われ世界露たち光芒す無用の事物こそしんじつ道具と
娘らに天使顔させた一瞬の夏の光を振り返らないと
曇たちの忍耐ぶかさよ夜の海に翠に染められ未来をみごもる
冬はその刑を執行しおえたとささめきあえる日なたの枝たち
☆
それあるゆえに、ときどき見せる真摯な《短歌的補正》は可憐でさえある。
窓という標本箱には雲の尾やたまさか化石のきれはしの月
粘球をはきだしているモウセンゴケ幾秒かがここより羽ばたきゆくも
☆
豊岡さんの語群は、ときに自然科学に接する。
それが、それぞれ、現代を匂わせる。
《今日》は、社会現象や風俗で捉えなくとも捉え得ることを知っているのだ。
物質はビッグ・バンより生まれたと歓びさびしく花火は歪む
回帰への設計図として果実たち銀のナイフはうつくしく磨かれ
石壁をひかりの粒子撫でており楽園よりはここまで直線
地バッタは跳ぶために定めたりしずかに過ぎゆけこの間氷期
楽音の消えゆく場所よりさらにゆけわたしの中のちいさな蝸牛
個もまた血の系統樹ゆっくりと時間をかけて宙をながめゆく
肉体は肉体の影おもいだす深海にても闇の粒子にても
☆
ひそやかな思惟はひそやかに着地する。の世界。
饅る金魚は一点を‐占めうごかぬに聴いているのだ地球をまるごと
花をまつ桜の幹に坐る鳩はどうしてそんなにひとつになれる
諸機能は女のトルソーのなかに充つわずかほほえむ緑の脳髄
ふしぎとは坂上郎女嬢火の愛このポロ世界ひそかに痩す
☆
豊岡さんは今フリーだが、お育ちは『かりうど』、弊サイトの初期にもその頃の１首がある。
高柳蕗子全歌集（高柳蕗子）2007.8.1〔沖積舎〕
（2007.10.13）
ちまちました雰囲気をかけらも見せない高柳さんであるが、ここで全歌集である。
無論エッセイも含めた完全収録版で書き下ろし18首が付加されている。
僅々８行のあとがきには『評論に夢中になって、かれこれ、六年短歌を作っていない』とある。
ふーむ。
☆
とまれ、一応のピリオドなのである。いずれは、第二楽章をお作りなのだろう。句か詩も狂歌もいいなあ。
評論のような、ガリ勉向きのものが性にあいますかねえ。
☆
さて、第一楽章は、あらためて見ると、その八百面六百臂の面目遺憾なし。
面六ぴ 無人島へ携行する一冊としたいところだ
何とも特徴的なのはいわば、資料編であって、
巻末に《書き出しのあいうえお順配列》
《キーワード検索を》２つながら備えているという点だ。
この趣向には《客観的な研究的側面》と《ナルシスティックな側面》とが共に見て取れ、
これは、掛け合わせれば、もう、爆発。
☆
ミワク的な書き出し８字からから作品に遡ってみると
高柳さんの１首中の展開ぶりがあらためてトレースできる。
おごそかに応射されくる心音のひたすら僕へと古びるちから
お手本の蜜柑を前にまた少し小さく座りなおすおばあちゃん
巻積雲 けちょんけちょんで毛脛から煙たてて去った賢者のあたり
次の作品は、原典を見られるても、諸賢ご自身であとづけても楽しかろう
金波っぱ銀波っぱ・・・
鉄砲雨に手柄顔す・・・
一人は円一人はう・・・
☆
さて、キ－ワード
些か 不思議にも思えるが「女」に該当するのは１首だけ、「男」は４首しなかい。
その交点にある歌。
むかいあい後悔を注ぐチュ－リップ男は狼女も狼
第一歌集『ユモレスク』、ビターだがすこしおしゃれな乾杯の場面と、今のわたくしには読める。
「俺」も１首。
もっともっと草原情歌 俺は胸に固い子鹿がつかえている
「霧砲」というキーワードには注意を払わねばならない。
☆
さて、プレイバック。
力戦奮闘は再読でまた立ち上がる。
『回文兄弟』でのごの自在な起用、
『あたしごっこ』のバ行連打での《卑》へのニアミスなど、高柳さんはつくづく《決行》のお人だ。
『ユモレスク』
文献は焼かれあるいは散逸しどの星もみな地球をなのる
『回文兄弟』
絶望より脱帽だよと一郎は禿に虹たて「浦和で笑う」
貧乏ゆすりに銀歯ゆるめつつ六郎がときどき化ける「奇抜な椿」
イレーユの幽霊のように白い背が冤罪の石に打たれる広場
ナルメナの神殿裏の乙女らは「穴姫」の名を尊称とする
長い肉 蛇たぐり食うおもしろさ尾を見るころは気のふれかかる
『あたしごっこ』
合唱だ！合掌じゃない 頑固さはがらんとうゆえ頑張れ骸骨
◆
罰として爆弾男の晩年は薔薇の話とばば抜きばかり
びっくり箱のびよよよよんから憫笑は尾骨までしびて戻りくる
文語というブラジャー取ればぶら下がる不気味な心に分度器あてる
べそかいて弁解するべーべー言葉 便座はあなたを別人にする
亡霊はボサボサ頭 棒立ちの坊やの膀胱ぼんぼり光る
『潮汐性母斑通信』
はるめらのはてなの兄は育雛器発明せり（潮汐性母斑通信）
あぶだぶる電柱の兄横たえて検温すれば花野かだぶら
『漂流トランプ』＝書き下ろし
夕潮の浜に並ばせ 選ばれた順に漂流トランプとなれ
手があれば胸をこうしてばってんに押さえてとびたつだろう飛行機
上記のとおり、第５歌集である。第４集は『潮汐性母斑通信』、評論に『雨よ、風よ、雪よ』がある。
（2007.10.9）
全巻が、福島さんの亡き妻女への哀悼に包まれている。
かつ、その哀切は、日々の生活と密接不離であるのでさらに響く。
ホスピスの庭に咲きたる百日紅散りゆく前に妻は旅立つ
山荘の留守を守りていてくれし妻が遺影の中で微笑む
深々と嬬恋の里は雪のなか愛も泪もみんな埋めて
オペ終えし医師は吾に言う「第三期進行癌、リンパ節も取りし」と
近親にしずかに別れ告げしのち安らかに逝きし五十二歳（平成九年九月三日）
病む妻と最後の旅にならんかと心塞ぎてローマに発ちぬ
☆
白き花、妻のみ墓に手向くれば、虚無、虚無、虚無、粉雪の降る
墓参り三月怠り来て見れば雑草茂る妻の墓のべ
本集には福島さんの思いの綴られたエッセイも多数あるが、
ここでもご妻女の面影の濃い『ホスピス再訪』『妻とラグビー』など佳作が心に残る。
☆
また、ひとり暮らしのスケッチ。
定年のわれに自由の愉楽あり朝餉食して臥所に戻る
元朝や妻なき膳にお屠蘇なく冷や酒を飲む鰥正月
ゆきゆきて人を恋うれど喧噪に疲れて孤りの小径に戻る
君逝きて七年経つに抽斗ゆ診療券の出ずる悲しさ
恙なく生きるは真の幸せか何かが足りぬ心の内部
☆
愛犬たちとの生活の作品には福島さんのやさしさが滲み
本集にもうひとつの丘を築いている。
犬もまた煙草を止めぬこの我に受動喫煙の害を受くるか
愛犬を両手に抱き川の字に寝る夜はたのし安らぎている
犬用のケーキ買い来て犬達とローソク灯しイヴの夜更かす
犬の感情繊細なれば平等に愛を注ぐは骨折れること
☆
福島信雄さんは『日月』のメンバー、その第一歌集である。
エチカ（徳橋兼時）2007.7.11〔青磁社〕
（2007.9.24）
著者名にはあたかも、南北朝期の将がの趣きがあるが、本著は、
さながらその一騎駆けの馬上で豪刀を揮うかのごとき、
詩心の閃光がある。印象深い一著というべきであろう。
☆
『エチカ』はスピノザを髣髴させる。
その時代巨匠レンブラントをりレンズ磨き職人スピノザがゐる
ああ、エチカ、全くもっていま僕は性格に様式が必要なのです
☆
徳橋さんは本集で「章題」一切廃している。
すべて、2006.10というように制作年月によって排列しているのである。
このことは、連作、群作との訣別を意味する。
無論、内容的に、連作、群作となっている部分もあるのだが、
題に統合される一連を潔しとしない、１首を以て立たせようとする意図は明確に見て取れる。
車中にてやをら取り出すコンパクトあなたの魔法はもう効いてゐない
はじきだす場の倫理に弾かれてひじやうにさびしい磁石となれ
粘性の組織の中に取り込まれ〈複雑系〉に初蝶を見る
☆
全篇に横溢するのは試行心である。これが身上であり、中核であり、全コンセプトである。
思い切りの良さは《ぶっとんだ》表記も含めて相当に自在である。
六月の改札口を圧しひろげははなるバスト街へ出でゆく
鳥は啼きゆふ子は歌ひいま花は萌えんと欲するのでございます
耳とふはつまみあげむがためなると双耳壺三耳壺はたまた四耳壺
耳の毛が異様にはやく伸びるゆゑ鋏で耳を切ってしまへり
ぬめぬめと春を小川はながれをりめそめそ柳も風にふかるる
毛虫にも毛虫のうたふ歌があるうつふおうつふおと青葉のうへを
よく晴れた菊の香しるき秋の日は湿った脳を乾かしてやる
白いスカートひらひらさせて女ゆくロラン・バルトの変異項かも
☆
反面、徳橋さんは固有の《短歌的完成》も随所に実らせている。
甃の石の継ぎ目に歩を添へて歩くをとこはさびしきものぞ
たばしれる滝のいはほに逆巻きて白き龍にや馳せのぼる見ゆ
重力にあらがひあがる花火ならあざらけくあれ落ちゆく刹那も
吊り革に縋りつつある冬蠅はおみなのごときため息をする
綿雲は地表の影をひきつれて斜面にくれば斜面のぼり来
☆
痛快な社会風刺から３首。
できるだけ遠くへ飛ばす遊びなどさみしくないか北のキム、キム
〈日出天子致書 日没天子 無恙〉無恙訝
職安をハローワークといふのなら斎場はグッバイパークと呼ぶのであらう
☆
はては、短歌への危機意識。
歌詠みがみな善人に見える日は一度痛めつけてやらねばと思ふ
短歌的言語ゲームの恣意性は〈家族的類似〉だヴィトゲンシュタイン
でももう短歌なんてやつてられねエよな、どう見たって世界とかけ離れちやってサ
☆
どこやらに哲学的思弁がある。
前出の《奇抜》の下部構造であろう。
信号は差異でしかない<赤色は禁止の記号>と学ぶ以前は
夕ぐれの川面に全きビル灯り圧倒的なキュビズムとなる
融通無碍・自在の歌の発信原・徳橋さんは『白珠』の所属、その第１歌集である。
みずうみ（佐伯裕子）2007.8.1〔北冬舎〕
（2007.9.17）
佐伯さんのノリには凄まじいものがある。
僅々半年前刊行の『ノスタルジア』に継ぎ、息つくまもない上梓である。
例により、一～五の五部立てで、その三はエッセイ＋作品という構成、
さらに、長歌もあり、意欲凛乎たるものがある。
☆
佐伯さんの視野の広さは相も変わらず、歌材も多彩だが、本集には《経年》を多少意識したかの歌風があり、
読むわたくしには鋭く食い込んでくる。
また秋が、来たね、と妹に言いかけて歳月は唇に襤褸のようだ
首筋にただひと吹きに霧ながれ歳月は流れ秋の腐食画
歳月の淋しさを言いほおと開く口腔の中海ほたるいて
天上へ雲雀するどく揚れるをどんよりふたり老いるのはいやだ
☆
この境地、決して暗くはない、暗くはないが、歳月の重量が読み手の掌に伝わる。
おそらくこの重みは、集題の「みずうみ」にも相通ずる。質感も似ている。
確かに、みずうみは、人々の日々夜々の特に哀楽を潜ませているものだ。
何ものかの放つ粒子を浴びている幾千の窓は涙のみずうみ
帰国者のメガネの奥のみずうみを窓とし明日を覗かんとする
☆
さて、《喩》はもとより、本集の《花の形成》に一役買っている。
踊る女うたう女が星になり生命の合図をふと送りくる
債務とて即刻払え支払えとミニバスが来るほほ笑みながら
さて、ここで、極めつけを２首。
日本国を何と《ひなあられ》だという。軟弱脆弱貧弱に陥らんとする我が国を言いえて妙、
正に、振袖の下の寸鉄である。
桃の日のあられのような島なれば速やかならん壊滅の日も
「同盟国」のテロップ流れ春ならん人が静かな馬のようなり
☆
わが身への凝視もまた圧巻。このあたりは佐伯さんの独壇場でもある。
それぞれの器官器官に話しかけて、問いかけて共存の確認をとるかのようである。
いまひとつの自我との交信のようなものが味わわれる。
精神的自我の裏づけのような認識があるのであろう。
おのずから肋は折れるものならん春のからだの夢の夢図夢図
あからひく胃の噴門のあたりにて騒がしきかも歳暮の酒は
自立しない神経叢を抱きつつまぶしい春の街を歩めり
とめどなき三半規管の砂の音かすかに白く花の降りつむ
武蔵野を走り過ぎたる雨に濡れゆらりゆらりと双眼は春
☆
さてさて。スケッチも忘れてはなるまい。
昇りゆく大観覧車ひとつずつ港の空は箱に詰まりて
道幅を白い夏陽に覆われて坂がすっぱり断ち切れている
☆
さてさてさて。人生の本来の意味を考えながら、本来的な人生を転がしてゆくとでもいう境地であろうか。
クルマの好きな連中がクルマを《転がす》といいますが、あの感じです。
手を引けば愛執の罪が義に変るその境界の菜の花畑
恋のように花蜂ふるえ神園の八月十五日いちどだけ泣く
カンナ鶏頭キツネノハナに囲まれる遠きわたしの髪は緋の色
身のうちにオレンジジュースを湛えつつ林に憩えばしずかなり恋
右へ５回左へ５回 まわす首 天動説なら生きられそうで
そして。
かなかなの声湧き立ちて六十年父祖がわたしにぶつかりてくる31
こういう作を見ていると今は死語となった《烈婦》という言葉も思い出される。
☆
佐伯さんは『未来』の中核、その第６歌集である。本サイトには『寂しい門』もある。
夏の記憶（木下孝一）2007.8.15〔短歌新聞社〕
（2007.9.2）
木下さんは傘寿を超え、日夜短歌と共に社会活動にも深く関与している。
作歌スタンスはきわめて明快で『健やかな老いの歌』である。
曰く、『老いの歌は老いの生き方、在り方に左右される。その生き方の鍵は心と体の健康である』と。
☆
まずは、旅の歌。
ひとたびも妻と箱根に来ざりしを嘆くこころに芦ノ湖見放く
「蛛道」とふほそき道つづく笹生のさやぐなだりを分けて
雪残る山毛欅の林に歩み入り延齢草の花も見出でつ
☆
日々の歌は着実な措辞に行き着く。視線が追えるようである。
地に低くあかまんま乱れ咲く上に倒れかかりて吾亦紅幾つ
日蝕を懼れ啼きたてしペンギンら蝕甚のとき声を納めつ
レントゲン写真にかくも顕にて脊椎すべり症わが身の現
亡き妻がいまはの日ま使ひゐし杖をけふ持つ足動かねば
乳牛の模型の傍へ母と子のはればれと祖父のカメラに向きつ
針桐の幹の網目なす樹皮の襞蔦の幼きみどり生ひゐつ
数え八十歳の年明け社友には杖を下さるといふ通知あり
橙色の一点見つつ視野に湧く微けきひかり真砂か星か
☆
無論、心の窓は社会にも向けられる。
その多くに大戦の残痕が見える。
『夏の記憶』である。
かの夏の焦土の記憶の歌幾つ朗読すけふ老いの集ひに
馬草刈る利鎌に指を切り裂きし痛みは遠き夏のふるさと
国敗れしかの夏の短歌吟ずれば町の仲間は耳澄ましくれぬ
その歌は次のような作品であった。
（空襲の一夜の火群鎮まりて焦土の果てに山脈霧らふ）
さらに。
けふ見えざる開聞岳よ雲の彼方神鷲とふ若きいのち果てにき
戦の火に逐はれし民の縋りけむ仏かと思ふ村に祀るは
さらに、さらに。
現実にノドン飛来を思ふときアメリカに依存するのみか日本
☆
木下さんの歌の方向には揺るぎがない。
ひたすら、自身の短歌の先を見つめている。
卒寿なる師のことば心に沁みて聞く子規を茂吉を継がむこの道
沼のほとりに茂吉の歌碑を見て立てば葦群ひたす水音きこゆ
老いて見えくる人生の真うたはなと師は言ひましけ声はげまして
木下さんは『表現』編集人、本集は『風に耀ふ』に続くその第７歌集である。
A Piece of the Rainbow―虹の欠片に―（佐藤冨士子）2007.8.1〔日本文学館〕
（2007.8.19）
本集は数少ないダブル・ハイブリッド文献である。
つまり、英語短歌50首・日本語短歌50首、英語エッセイ10編・日本語エッセイ10編が収められている。
無論、両言語は相互に翻訳関係にあるので
どちらがどちらの訳になるのかに関心があったが、佐藤さんは正直に《短歌の英訳》であると述懐している。
A piece
of the rainbow
Appeaered
in a splash
Of
watering
I
stretched my arm
To touch
it.
散水の
飛沫の中に
現れし
虹の欠片に
手を伸ばしみる
☆
A baby
girl next door
Toddling
in the garden
Gives me
A small
happiness
Over the
fence.
よちよちと
歩く隣家の
幼子が
われに小さき
幸を運び来
しかし、わたくしなりに味わうと、どうやらこれらの作品は
日本語の作品が厳然とあって、それが訳出されたというより、
あらかじめthinking in Englishがあるのではないかと思われるのである。
つまり、短歌としての詰めよりも、イメージの確認に力点があるように思われる。
つまりは、語の斡旋よりもイメージの追究優先の歌である。
☆
It’s not a kind of
“Gardening”
I only
knew
Flowers’gentleness
With age.
ガーデニングと
言うには非ず
歳重ね
花のやさしさ
唯に知るのみ
My gold
fisi,Puku
Died in
a water tank
Without
knowing
Either a
stream or rapids
For
fifteen years.
せせらぎも
早瀬も知らず
十五年
金魚のプクは
水槽に死す
バイリンガル歌の狙いは、短歌の国際展開であろうから、
その狙いはふたつある。
1に短歌様式の普及であり、2には歌心の国際展開であろう。
この両首は、佐藤さんの、つつましい、ささやかな日常の心ばえを余すところなく
表現しつくしている。
ここでの発想は純日本というより純日常であり、
まさにこの形で発せられる作品は《英訳》と呼ぶのに相応しかろう。
☆
さて、Eｓsayの方も、わたくしなりの丁寧さで、英文を読み、邦文を読み、それぞれ味わってみた。
時期が時期でもあり、なにやら、高校生のころの副読本の宿題が思い出された。
いくつかを思い出すと、
先ず、“Ａ Hot
Summer Day”は幼時に佐世保で体験した長崎への原爆投下のときの見聞である。
わたくしにも、生々しい印象を残したが、２国短歌作品と共に上梓されているということは
多くの国の人の目にふれることになるであろうから、
他国の人々の目にも残るであろうという意義が見て取れた。
さらに、“The
First Fairy Tale I Heared”を露草を《お空のかけら》と
ファンタスティックに教えられたこれも幼児の思い出話で
これははなるほど、『虹のかけら』の原体験であったのかと強い思いに駆られました。
さいごに、“Ｔｈｅ
Memory ｏｆ Kuro” は実に悲しい老犬とのお別れであった。
Sometimes
Kuro sticks his head
Out of the doughouse
And looks timidly at
The toy fireworks.
☆
When
young
I once
sobbed with grief
In the
Jingu Woods.
I threw
away past grief
Into the
autumn sunlight.
神宮の
森に落せし
若き日の
われの哀しみ
秋陽に放つ
佐藤冨士子さんは『松風短歌会』『長風短歌会』『日本歌人クラブ タンカ・ジャーナル』のメンバー。
その初めての、英語短歌/エッセイ集である。
水の回廊（相沢光恵）2007.6.13〔北冬舎〕
（2007.8.7）
相沢さんはふとしたことで大怪我をしたことがある。
ところがこの不運なできごとを、その前後の事情を交えて
却って、しゃれた小編のように纏めてしまうお人なのである。
気性とも、才能とも呼べる資質の賜物である。
空からの手にて襟首摑まれる感触ののち土に頬打つ
宇宙から地に落とされし名残しなる星型のきず脛に濃くあり
五十日あまり過ごしし病院を出ずれば桜、さくらの巷
☆
前項のものを集中的なできごととすると、
間歇的なできごととして、見え隠れする淡い相聞もある。
やあ、という声に振り向き、 まあ、と言う じゃあと別れるたったそれだけ
人生の点とし君は現れるたがいのいのち触れる一瞬
さりげなく握手に残す名残り香もきづかれぬまま消えるだろうね
覆うのは一枚の布その下に生まれたままとは言えない体
こちらの数々はわたくしには、好ましい伴奏のように見える。
☆
ところでこの主旋律を形成する多くの作品であるが、
これはなかなかはすぐれて個性的である。
先ずは、さまざまの擬人化がある。それもそれぞれ身近な。
テーブルと椅子が何やら語り合う気配と思うに地震来て去る
転がりし林檎ひとつがそのままに寂しさ発信する寒の夜
いびきする冷蔵庫には不安げな賞味期限がひしめきあって
盗まれし傘はいまごろ邪な者を庇って濡れているのか
濃い味を好みし咽喉を越えてゆく珈琲そのときルルと唄いぬ
☆
逆に、人間については、ともすれば、クールな関係を見せる場合がある。
霊長類ひと科の人は疑わしのっぺらぼうが地球に踊る
気がつけばのっぺら坊の丸太棒 根なし葉もなしああ言葉なし
散り際にもみじの呪文さわっさわ響けば失うわが方位感
人以外みんな許してしまいそう雨の葉蔭の小さな虫も
☆
つまるところ、自身の捉え方にせよ、社会の見方にせよ、
かなり濃い《相沢色》が見て取れるのである。
いやなものみた眼を洗ういくたびも消えよ忘れよ流れてゆけよ
金泥の眼を鏡に預けたり素面にさえもある隠し事
すがりたき袂も腕もここになくまんまる月と向かい合うのみ
爪を切るそんなことすら寂しくて最後の小指つくづく見てる
《生きている人》の歌集、実在感を漂わせる実直な人物像がありありと見える。
相沢さんは『まがたま』代表、その第２歌集である。
朱を奪ふ（有沢螢）2007.3.3〔砂子屋書房〕
（2007.8.4）
有沢さんは６歳から歌を詠みはじめたというから、わたくしより10年早い。
その熟成のゆえかあらぬか、
主知主義といってもよいような、極めて《知》の勝った作風という印象が残った。
衒わない知性、ひけらかさない才は今日、なかなか魅力的である。
☆
先ずは、他の事物に仮託したアプローチで。
双生のガラスの子馬片翼をくだかれし日の落下の記憶
ふたり乗りの絶叫マシーン 落ちてゆく闇の深さを甘受してゐる
地謡の男のやうにひつそりと舞台の隅で果てたきいのち
さいげんなく太りつづける秋空のバルーンのごと空虚なからだ
無論、虚構性の範囲だが、いすれの作も説得に富む。
☆
ときには、時空をはなれたイメージの中で。
貿易センタービルのエレベーターボーイ睫毛ながかりき若鹿のごとく屠られたるか
満月の夜に産卵する珊瑚 海底しろく泡だちにけり
シチリアの潮風きみにやさしいか世界時計に問ひかけて見る
これらはいずれも責任編集。描写は誠実である。
☆
また、あるときには、極めて身近を丁寧に。
ホワイトボードひとつ買ひいてみづからに伝言を書く母の晩秋
生殖器神に返してすこしだけ長生きをする猫となりなむ
そら豆がくつくつ笑ふ鍋の底はじけるまへのざわめきに似て
雄の樹か雌の樹かさへ知らないで銀杏並木に抱かれてゐる
前のめりになったり、滑って転んだり、という、
はしたないけれど可愛いというような着色はなく、
重心の定まった、品格の保たれた作品であるといえる。
こういう作りからはメッセージが零れることは少ないであろう。
☆
自我については、特に、間接的・抽象的な迫り方が目立つ。
これらの客観視の説得性は深い。
切っ先の鋭きメスを選ぶ女医われのうちなる朱を奪ふため
かなかなが骨身に沁みてくる疲れフランス革命史病後に読めば
笑はない姫君のごと動かないこころとなりてひと日終りぬ
☆
視野が少しずらされることによって焦点が際立つことを有沢さんはよくよく知っているようだ。
花びらに思ひ思ひの句を記し柩に入れる女人のうなじ
男などオブジェに過ぎぬ 脚ながき青年ダヴィデの石膏を割る
幾百のアキレス腱が倒立す皆既日食下のグラウンド
炎帝のはしためのごとく並びをり焼け出されたるマネキン半裸
牛製の人工弁は花のごと合成樹脂は鎧戸のごと
その舌で味はひつくし認識す なべてこの世は虚無への供物
向風にアスリートらの大腿の四頭筋収縮はげしくなりぬ
☆
不思議に印象に残った歌に《殺生》のひびきのあるものがある。
セピア色の画面の中にかつて見し山口二矢の刃の動き
氷点も沸点もあるやはらかきこころ持ちしにたれ壊しけむ
「殺生を買ふのよ」と伯母微笑して黒き金魚をふたつ掬へり
☆
有沢さんは『短歌人会』所属、その第２歌集である。
中川菊司作品集（中川菊司）2007.6.5〔純響社〕
（2007.7.30）
中川さんは20台から一時期『心の花』に籍をおいたものの、
大凡の時期を会社（三井物産）の短歌部において制作を続けたという経歴である。
確かに会社には短歌会はあろうけれど、
一切接触をせず、自己の活動を一応は《社内秘扱》にしてきたわたくしには
極めて正正堂堂、清清しく見える。
本集は、過去の４集に今回書きおろしの『代々木の洋館』を加えた准全歌集仕立てである。
☆
先ずは既刊歌集作品から。
『孤霞』より；定年退職時に刊行した職場短歌集成版
わが衷にいろんな男が同居して年とともに皆おとなしくなる
アバダンより東へ百粁どこまでも続く土漠の果てに地は燃ゆ
型録の知識頼りに設備売る者には広き工場正門
『無知領域』；短歌一途の生活からの初めての歌集
「入」から「出」へ書類は移る大方は判こひとつが押されるだけで
どうしても形つかめぬ記憶ありモザイク処理の画像のように
『パスタイム』；口語短歌の熟成期の歌集
若い眸にカレンダーから睨まれて睨み返してそれだけの午後
黒ビルと白ビルが一緒に暮れてゆき遂にどちらも黒ビルになる
『行き止まる風景』；口語歌の完成期
痛み止めで今、今、今を騙しても･･････小錦引退、山一廃業
工事用パイルのように力づくで法律が立ついくつもいくつも
歌集名脇の注は中川さんの自注をベースにしている。
作風は、わたくしの抄出傾向にも依るが、《社会を自己の目で見据える》という構えが基底にあるものが多い。
社会人としての自負自恃が厳然と存在する。
☆
さて、『代々木の洋館』
男70台をどう生き、どう歌うかは後続のわたくしにも大いに関心がある。
物心ついてからこの天井さ「ふるさと」なんてぇものは知らねぇ
この歳までどうしても身につかぬのは植物みたいに黙り込むコツ
帝都線と呼んでいたこと思いつつ下北沢のガードをくぐる
平和とはこのままいつか東京でぼくの火葬が無事に済むこと
中川さんの心央からまず抜けないものの一つは《東京ッ子》である。
時に伝法を言って、この土地の土になるとまでいう。
☆
友がみな我よりえらく見えたのでマントを羽織る高下駄穿いて
引き出しを開ければ見慣れたものばかりみな平凡に老いているらし
志もたずに生きてきたくせにいきどおること多しこの世は
東大を出て、会社を終わって、やや静かな近況からの発信。
☆
「もういい」が口癖だったおふくろの享年超えて･･･ぼく「まあだだよ」
やり残したことはないからもういい腹くくるのはまだやめておく
もう一度中途半端に悟るため生まれなおすかやはり男で
ときどき、先を見ることも、忘れない。まだ必要そうにないが。
☆
月光をくまなく浴びて洋館は何処へも行かず何処へも行けず
“十八億年で二十六層”数字だけメモしてこれを観光という
寝返れば横隔膜に隠された本音が動いて意識をつつく
げんこつでついたら穴が開きそうな冬の薄雲ひりひりと朝
「頑張れ」は嫌いな言葉 成行きにまかせて行こう靭いこころで
しかしどうして、根底にはたとえば《物産魂》が残っていて、（と、わたくしは信ずる）
今だに中川さん自身を鼓舞するかのようだ。
曰く、《天馬空を行け！》とばかり。
中川さんは高度成長期の戦士である、いや、軍馬でさえあった筈だ。
☆
中川さんは泉短歌会の編集発行人、本集は『行き止まる風景』に次ぐその第５歌集である。
われはいかなる河か－前登志夫の歌の基層（萩岡良博）2007.7.11〔北冬舎〕
（2007.7.29）
評論が彫刻であることをこの著作は立証する。
前登志夫についてさほど知識のなかったわたくしの脳裡にかなり明確な像を刻んで見せたのであるから。
おそらく、同様の爆発がこの同時期、この力作の多くの読者内に実現されているのだろう。
評論の凄さ、上梓の功、歴たるものがある。
☆
さて、わたくし自らは作家論を書かない。
自らの短歌を追究するだけでも容易ではないのに、
ひと様の短歌のご研究とはご苦労様とばかり、ずっと腕をこまねいてる。
しかしながら、萩岡さんの、この副題の通りの『前登志夫の歌の基層を求め』た営為は
師前登志夫の研究に正に『十年一剣を磨』き、果たせるかな『長蛇』をものにしたのである。
☆
以下の章題は、的確にその傾向を示している。
１森の力、２帰郷論、３時間の村、４薄明論、５再生の森
６山人考、７生贄考、８原時間への帰還、９体験的谷行論、１０われへの祈り、１１鬼の系譜
☆
暗道のわれの歩みにまつはれる蛍ありわれはいかなる河か
書名となったこの作品への論考は『８原時間への帰還』でなされており
この著作の絶峰となっている。
もともと、『２帰郷論』で前登志夫の『基層』の重要なひとつが
『原時間』への《回帰》としての『帰郷』へあるとして捉え、
まず、その例証として次の一首を引き、詳論している。
岩の上に時計を忘れ来し日より暗緑のその森を怖る
さて、この後でいよいよ『いかなる河か』の作に対峙したのだったが、
萩岡さんは『われ』を、本来の『われ』以外に『原時間』を集合する存在としても捉える、
という重層性に注目しながらも、さらに『われ』『河』『蛍』それぞれの関係性を
『気息』という観点から徹底して論じ、味わい尽くしている。
そして、『河』は『われ』を転回点として未来から過去にむかってゆったりふかぶかと流れている
時間性の表象である、と結論づけるのである。
その論は正に猛火であり全文を引き写さねば伝わらぬような迫力をもつ。
さらに、この作品について、萩岡さん自身が住居ちかくのその名も玉立川のほとりを
ファイヤーフライ・ウォッチング逍遥しながら考察しながら進めるというのもまた迫力がある。
☆
もとより、前氏は現代詩を出発点とするだけに
本来的に外国文学の素養も深い。
冬に入る星ぞら冴えてわかき日の世界内面空間匂う
この作に見える『世界内面空間』からも明らかなようにひとつの心的源流にリルケもある。
この前後でも萩岡さんの博覧と強記は沸騰するが、著者と読者の知識差は驚異的であり何度か呆然となった。
☆
さらに。吉野と熊野の地誌上の異動と前氏の作品に見るその例証は
わたくしには実に極めて何とも新鮮であった。
☆
それにしても年に１本の評論を10年にわたって書くということは、
ほぼ、自身の歌人生命を投じ尽くすようなものでなまなかではない。
そのあとがきを引いて少しだけ著作の動機に迫りたい。
『論の対象者前登志夫は私の歌の師である。
しかし、師であることと、師の歌の世界がわかるかということは別物である。
むしろ、私にとって前登志夫は、(略)偉大なる他者であり続けてきた』
ということである。冷徹である。
☆
もとより、萩岡さんは博覧強記のお人であるが、
短歌作歌を対象とする論でありながら、論を世の東西に及ぶばせる筆法は魅力的である。
本論を契機として萩岡良博歌集『木強』を再度、読み返した。
結果、この著述の主として読み直すことによって
その《気息》の波の秀は一段と高まって見えたのである。
正直のところ、この成果の方がわたくしにとっては大きかったかも知れない。
（2007.7.26）
茨城はよいところという仰せがある。
透き通る空間にいて眺めいる東西南北ひかるひたち野
ほがらなる夕日吸い込むためならん筑波は藍を深く沈める
男あり女のありて男女川 嶺吹く風よわたしはおんな
☆
西日より朱色のメール届きたりあなたまもなく六十四歳
午前九時人っ子ひとりあらずして宙へと漕がんわれのブランコ
リビングに位置を占めたる緑の電話ずんずん積もらす禮子語録を
アクティブにあらねばならぬと思いたり空に己の影おくりつつ
かつ、冒頭から率直過ぎる感想を申せば、全巻に、明朗、闊達な60台が踊る。
小気味が良い。
☆
いろいろな領域でそれぞれの感興を繰り延べる手並は
相変わらずのなかなかの職人芸で、独特のさばさばした語り口は無条件で楽しい。
小粒ゆえ相手にされざるじゃが芋が降りくる雨に洗われてゆく
うっかりと眼合わせてしまったか合点やかんよお湯を沸かそう
退きぎわを考えていたるわがやかん不意のお呼びに空空わらう
☆
職人は決して手では作らない。知的好奇心に支えられ続けた《暗黙知》のたまものであろう。
時に華麗、時に沈着、且つ、時に奇異でさえある。
おとといの春一番のおかげです集う人らのハッッピーフェイス
六十字の稿成すだけの今日ならば煩わしきことは忘れてしまえ
☆
植物との付き合いもいわゆる《花鳥風月》とはほど遠い。
もっと、すぐれて人間的なのである。
花しかり人なおしかり咲くことに命かけてる 花かくれんぼ
お花見の人らに憂いのまずあらずふるるん咲くをのんのん眺む
ほらほらの洞を見せざるイイギリが花香らせて誇らしげなり
草みどりツツンつんつん抜いてゆくごめん私にあしたをおくれ
☆
きらりとした大人の矜り。
独自なるものを美しくという思い凛と放ちて引くことのなし
水を吸い水の匂いをまとうまでドレミファソっとことば沈めん
高橋さんは『まひる野』のメンバー、本集は『リオの海鳴り』に次ぐその第１１歌集である。
（2007.7.7）
奥田さんは《敗亡》の旗を敢えて打ちたてる。
その旗に風が流れ、旗は美しくそよぐ。
負けるしかなくて掴んだ夕焼けを呪文のように引きずっている
辞令書の四隅の余白広々とさあどこへでも行けというのだ
ことごとく舌を抜かれて火だるまの衣装箪笥が笑い転げる
正しきを正しいと言う容易さをひょろひょろ生きて逆賊の裔
☆
さらに、人生の起伏に臨んでさまざまの歌を素直といっても良いかたちで形成している。
夕焼けをぎんぎんぎらぎら突き進む俯いている詩人を乗せて
脱ぎ捨てた服のかたちに疲れても俺が求めるお前にはなるな
折れるほど抱きしめるのに俺たちがただ棒切れのような日もある
からっぽの箱に言葉を詰め込んで残そうとした俺たちである
別るる日妻が教えてくれたりし蕪のスープを今日は食いおり
我の背に手を触れものを問いし人みな頷きて去りてゆきたり
☆
しかし、歌集の根底には、奥田さんの良い意味での不遜でがっちりした土台が感じられる。
一行を拾いに落ちてゆく闇の深さばかリが俺であるのか
犬走る、俺走る、犬もっと走る、俺もっと走る、菜の花だけになって河口よ
榛名まで関東平野まったいら俺を泣かせる返事も来ない
自転車の籠にたまねぎ躍らせて俺も畑も夕焼けている
かかかんと指で茶筒を鳴らしおり泣きたい俺はどこにいるのか
奥田さんは《俺》の似合う稀有の作家であり、就中、《泣く俺》は天下無双。
能楽の修羅物には《勝修羅》と《負修羅》があるが、
ここには《負修羅曲》特有の《境遇を超越した豪宕》がある。
☆
さらに、この間を縫っていろいろな志向、ベクトルがある。
このあたりが、たぶん、奥田さんの狙いどころでもあり、生地でもあるのだろう。
いわゆる《現代性》がとどめられている作品群なのである。
兵役につくこともなく三十を過ぎてつまらぬものを殴りぬ
廃船を蹴って真昼へ泳ぎ出す女ばかりの村を眠らせ
矢印のような帽子を被りつつ僕らは前に歩くだけです
また蝉が鳴いていますね僕たちが滲み込んでゆく未来の中で
またいつか逢いましょうねと水爆が甘く切なく歌い始める
☆
もはや存在価値のなくなった観のある、いわゆる男歌たりうる佳作も多い。
あれこれとやりっぱなしの鰯雲そらに浮かべて髭剃られおり
歯を磨く俺が笑っていたようだ 顔の中から顔が生まれる
まぶたにも縞を持ちたる縞馬に桜の花のふりやまずけり
☆
奥田さんは『心の花』のメンバー、その第１歌集である。
（2007.6.15）
形式上の特徴がある。章立てが「春」「夏」「秋」「冬」なのだ。
勅撰歌集ならいざ知らず、私歌集をこのようにつまり、《制作年代をほうり投げて呈示する》という方式は
私的素材を私的要素を重んずる現代短歌では異例であろう。
残念ながら、ここではその排列から外れて述べさせて頂くことにするが。
☆
さて、田中さんはこの四季を縦糸に、自身の感情を横糸に作品を連ねる。
かつ、作歌が読み手に向かって呈示されることを意識して野球の投球に喩えるならば
いくつかの持ち球があるということになる。
☆
先ずは内角球。無論、ブラッシュボールもある。
心処に小さき悪意湧くときは視線はづして言葉呑み込む
わが胸を突き刺す他人の言葉あり酒呷らむか夏夜のひとり
嫌悪のみ持ちて別れし夫なりき雨夜をいでて娘は通夜にゆく
理由もなくいづる涙よ胸中に今宵は棲める鬼があるらし
ほろ苦き思ひ出に似る蕗のたう裏切られしを今は許しぬ
これらの鮮度は高い。恰も感情の真空パックである。
抜き差しならない情念の器である。
☆
はてしなきサハラ砂漠の土踏みて昇る朝日は黄のバラの色
一球、ウェイストボール。（遊び球）
旅行詠は全体数も多く、伸びやかな佳作が目立つ。
☆
ついで外角球
哀しむにあるや怒れるものなりや木蓮は立つ焔さながら
凛とせる格花の菊そこのみは他を容れざらむ風格保つ
つやめける色香秋陽に冴えて咲く酔芙蓉三十路のおみなのごとし
恋をするわが友正に「女」にて傍観者われ言ふべくもなく
歌へのスタンスが冷静に見える。が、これらの歌に何やら含みがありそうではないか。
そう、どことなく、自己投影がにおうのだ。
☆
となれば最後は、ウィニングショット、つまり決め球。
修羅くぐり女の業をかき抱き眠れぬ夜は闇に堕ちゆく
忘れゐて真夜に名月見上げたり雲なき天に冴ゆる名月
羅を着けて真砂女ときそひ合ふ恋してみたし紫陽花の咲く
わたくしの感想を突き詰めてしまうと、この集の中核は
田中さんが秘めている《女性性》の呈示にあるということになる。
それは時として女性であることの再確認であり、
かつ、そこを出発点とする生き方の決定であるのだ。
☆
この先は、わがまま、気まま、ときとして向日葵の如く生きたしわれは
田中さんは『日月』のメンバー、その第１歌集である。
60歳からの楽しい短歌入門（江田浩司）2007.5.10〔実業之日本社〕
（2007.6.1）
２００７年問題とやら《ニューシックスティー？》、（昔、《ニューサーティー》というのがあった）が街を歩き始めた。
難解の世代と呼んでもよい。無論、わたくしはふくまれていない。
しかし、その世代に対しての書き手が江田さんだというのは企画者の最大の卓見である。
わたくしは、毎月さる短歌会に、烏滸がましくも講師の名目で呼ばれているが、その席でしばしば
「小娘や小僧っ子に作れない歌を作ってください」と申し上げている。
が、歌へのお誘いはわたくしのようなクソ爺よりも瑞々しい江田さんのようなお人にこそ
凛乎、述べて頂くべきであろうと思った次第である。
☆
この本はいわゆる入門書としては異色である。
構成は
第１章 近代･現代の名歌を鑑賞して短歌の魅力を知る
第2章 短歌作りを始めよう
第3章 初心者のための作品完成講座
と、真っ当そのものだが、
ポイントはその心臓部たる第2章中の『表現法基礎知識』、
ここが、類書とは違って《すぐれて非体系的》に書かれているのである。
つまり感性主導。
事実を述べれば、実質的なレッスン１として、何と『結句の終わり方』から入っているのだ。
先ず、鏃を鋭利にしなさいという、一点教授！
これ、きわめて独創的にして、かつ明快。
古来、『武士道とは云々』のようにポイントの集約呈示は著者自信の証。
まさに面目躍るが如し。
さらにこれに続く節の作りは《区切れ》から《体言止め》までさらりと５節僅々10頁。
これも、名剣利刀の冴え。
なぜならば、一見非体系の論述ながら、いや、逆にそれゆえに
恰も、舞台の土蜘蛛の糸のごとく、放射状に一見ばらばらに投じられていながら、
その実、すぐれて合目的的に、最終的には『表現技法の基礎知識』を絡めとっているのである。
☆
この非体系合理主義、感性直訴戦術は、煩雑なクロスカントリーを終えた直後の団塊の諸姉諸兄には
いかにも、悦ばれそうな編成である。
日々、アジャイル・レスポンスに馴染んできた神経にはくだくだしい能書きはめだるい。
ニューシックスティー諸氏に是非お勧めしたい一巻である。
☆
かつ。
次に、何をかくそう、これはわたくしにとっても好個の入門書なのである。
十台で短歌に指を染め、二十台で首までつかってしまったわたくしではあるが、
それだけに、その過程で、李徴までは至らずとも、奇妙な反発心から「絶対に読むまい」と誓った
現代作家も少なからずあるのだ。この著作は立派にその補充をしている。
まあ、そんなら、代表作くらいは読ませていただこう、となった次第。
いずれにせよ、江田さんはすぐれて博識である。かつ、考える人である。
☆
ここまで、印象ばかりを述べたので、ここでわたくしの心に残ったディテイルを２点書き留めたい。
その１は、《類想》の推奨である。
同趣旨の歌を多く作れと江田さんは説く。
連作という発想ではなく一首を構築するための手法として説いているのだ。
なるほど、こうすれば推敲とは異なる歌の研磨が可能となるだろう。
その２は、『他人を攻撃したり、自分を肯定する表現をつつしむこと。
自己肯定的な歌で成功することは（略）まずあり得ない。』というくだりである。ふ～む。
「述志は自己肯定の極み」かつ、「挑戦心こそものを書く者の基本」だと認識するわたくしのスタンスは
やばいということになります。再びふ～む。
つまり、
自ら、本サイトを《ならず者サイト》と称し、
体制への嫌悪をあらわにした6年前作成の下記斜体のような文言を一隅に残している本サイトの頁主には
些か耳がいたい。もっとも《成功》という語はわたくしの辞書にはないが。
「小判」がお判りになりますまいから、猫・臆病者・歌畜・揉み手野郎・ぼけなすは絶対にお帰り下さい。
若かったねえ。でも、いまさら、消すのはよしましょう。
さてさて、少し文がよじれた。
☆
もっとも入門書らしい圧巻は自作の例を引いた『推敲の例』である。
懇切な解説があるがそれは略して
推敲前推敲後を対比した部分を引く。
(初稿)大企業人晩年になり清貧をことさらにいふ不思議なるかな
(訂正稿)清貧は美しけれど余裕ある人の言にて肯ひかねつ
(最終稿)清貧を生きる賢者はことさらに清貧をいふことはなかりき
良心的に本著に心血をそそいでいる江田さんである。
☆
本著では江田さんは得物として正統な《太刀》を選んでいる。
ところで本著は是非、豪放磊落の得物《やがらもがら》を用いた《ピュシスピュシス》と併読すべきであろう。
妻へ。千年待たむ（桑原正紀）2007.５．１０〔短歌研究社〕
（2007.5.25）
一巻全て、病妻への思いに寄せられた歌集である。
先ず、冒頭17頁に及ぶ《はじめに》の中で桑原さんは妻の突然の脳動脈瘤の破裂から入院、
その後の容態やらリハビリやらへの思いを時に沿って率直無比に綴った。
☆
突然の病気へのなまなましい驚愕。
ああ天はかくも悪戯したまふかある日突然妻がこはれた
脳室に充つるがぐろき死の影の百合に似たるをフィルムはとどむ
校長として働きつづけた妻の突然の失速への思い。
耳もとで汝が名を呼べどしんとして古深井戸のごときその耳
意識まだ戻らぬ妻に聴かさむと夜中に猫のこゑ録音す
もの言はぬ妻と語るを日課とし三つき経しころわれ少し老ゆ
ひとりの男の空中を掻き毟る苦悩や哀切は正直である。
「おい、これは物ぢゃない、人間なんだ。もつと敬意を払つたらどうだ！」
妻の爪きりて帰りしその夜に二匹の猫の爪もきりやる
よみがへるのも地獄なら、なあ妻よ、このままずつと醒めずにゐるか
一進一退と一喜一憂。
晩秋の夜風を妻にあたらせてその冷たさを言へばうなづく
言語野にいたづら小鬼あそぶらし発語して妻は小首かしげる
つい五分前のことすら覚えざる妻の海馬よいづこ駈くるや
絶望と希望とふたつ綯ひまぜに引き絞らるるわが心はも
☆
歌集が後半に及ぶとリハビリの効果が見えはじめ
わたくしも安堵する。
今日妻がはつきり言へりのたまへり「ソンナニアセッテモイイコトナイノ」
病院に妻を訪ふたび「オカエリ」と言ふからわれも「ただいま」と言ふ
坂の上に湧く白き雲 いまはただその雲めざし車椅子押す
わが部屋の灯りまぶしみつつ覗き妻よ言ってくれ「もう寝なさいよ」
コノ人ハ壊レシニオアラズ解脱シテ涅槃ニ入ルト思ヒ至リヌ
妻は妻の座標にこころ充ちてゐむ秋日に明る顔の穏しさ
桑原さんにとっては、万物が妻の容態と重なって見えているようだ。
夜の雨を吸ふあぢさゐのほのじろし脳髄いくつ寄り合ふさまに
ああかの日汝の頭蓋の内の色 赤あざらけく鶏頭咲けり
☆
ここでは引かないが、即時即刻を同時的に捉えた長歌２首は圧巻であり
いずれ触れたいと思っている。
桑原さんは『コスモス』の編集委員、その第６歌集である。
銀河最終便（望月祥世）2007.4.25〔本阿弥書店〕
（2007.5.21）
余談から入ると、望月さんはタルティーニがご贔屓のようでここで先ず意気投合する。
タルティーニ、不死を夢見るヴァイオリン 腱・腓疼く「夜のト短調」
さて、見方をロングに戻して全体を見渡すと
全1,119首という膨大な作品のそよぎは
幾つかの短歌核に端を発しながら、無数に泳ぐ水中花の花弁のようでもある。
☆
貝殻やわけのわからないものたちが私の体に一杯ついて
蜻蛉飼う私の脳は可哀想あまり眠りもせず夜もすがら
いつだってリアルタイムで書いていて私の鳥は記憶喪失
私はこの頃空を見ていない 花の向こうに空はあるのに
望月さんの扱う『私』はしばしば《不可知的存在》として扱われる。
自己を安易に信じない《ニュートラルな自我》ということがどうやら思考の根幹におありのようだ。
☆
これは別に自己に限ったことではなく他の対象に目が及ぶときも同様である。
決して固定観念の中では歌わないというのも目を引く特質のようだ。
心象に結んで消えない無数の水泡。
水がほしい水がほしいと根を張って根ばかり張って瘤だらけの樹だ
華麗なる変奏曲を聴くように春の逃げ水走る野火止
接線を一本引けば現れる まだ生傷の絶えない地球
カリフラワー、キャベツの仲間ではあるが脳葉に似て春の虚しさ
ためつすがめつしているうちに一本の樹になってしまえり翠の桜
あきらかに社会的適合欠いている 天道虫は星で分けられ
落葉あり おまえが散って明るくなる 木々の根方にただ降りしずめ
みんみんがつくつくぼうしが鳴き交わす 魂を病む一夏がある
☆
抒情の核もまたニュートラル。溺れない抒情は却ってわたくしの心に浸透する。
ときには人間の不確実性に。
失って滅びていつか消えてゆくそれでも人は夢見るさくら
めひかりの眼の海の色 誰だって海を釣り上げられない釣り人
実存を鷲づかみする方法を知っているって言っていましたが
風の日に木の実降らせて雨の夜は銀鱗降らす交信記録
ときにはちいさな観察から。
銀蜻蛉、透明な骨さしのべてあなたの肩に触れていきます
天空に大いなる虹または塩 葉っぱに乗った水滴の虹
純粋な培養液の中に棲む諸行無常を培う因子
この後の悲喜にどうして堪えてゆく靄と霞と霧の差ほどの
ときには自分を見つめて。
疲れ疲れ疲れ疲れて足跡も残さず去って夢の負い紐
何という悲しい朝が来ているの 遠い水面に落ちてゆく川
愕然としている 何もかもなんと迂闊に過ぎたことだろう
望月さんは『開放区』のメンバ－、その第１歌集である。
漏告（外塚喬）2007.4.25〔角川書店〕
（2007.5.12）
風の向きかはれるときに漏告をいさめるやうな踏切の音
『つまらねえことを言うんじゃねえぞ』とは遮断機の警報にあらずして内なる男の叫び。
外塚さんの持ち味はわたくしの見るところ、断然、《男っぽさ》にある。
本集を読んで2つの特色に目が落ち着いた。
☆
その１は女性の歌である。まずは、ご一覧を請う。
白雲はおみなの匂ひ歩道橋わたれるわれの真上すぎゆく
六欲の種を摘みつつ捨てられぬまがひとつあり女人恋しも①
アイシャドーの濃きをとめごは日本語を話す異星の乙女ならずや
追ひ越してゆく女ゐて哀愁のただよふ風は街をひからす
聖人に夢なし、夢に女人にも会ひて酒を飲む愚者なるわれは
うすぎぬをまとへるをみな日盛りの街上にゐてかくもかがやく
顔のなくおみななりしが幾夜へて思ひあたれる人のうかびつ
困らする因を作るは女人ゆゑとほくはなれつ火を見るやうに
外塚さんにとっては、女性はどうやら、ほぼ形而上の存在である。
たとえば、白龍の見る天人のような高貴な異界の存在のようで、
一種、崇拝に近いものすら見える。
①のように、わざわざ《六欲》と言っても清潔な感じさえする含羞・可憐の境地ではある。
☆
その２のポイントは
人間世界のいざこざぎすぎすと道徳規範のこすれ合いの間でのかすかな火花。
こういう側面からの社会の捕捉には、女性の歌同様にすぐれて人間的なものがある。
冒頭の集題作も含め本集の屋台骨を形成している。
ここが思案のしどころなれば精神は刃となりて人を疎外す
ああとしか答へられないぎりぎり状態に不満を持つなら持ちな
精神の支へともなす心棒を誰か、誰かが折りたがつてゐる
ああまたも話がこんがらかりてくるいつだつてさうだ意地を通すな
☆
うって変わって、成層圏程度に離れた高さから、見下ろす客観自我のような世界。
印画のよううな自画像の呈示は当代の人間像として示唆に富む。
符呪を解く風と思へば思い切り風切羽をうならせて飛ぶ
自動改札機をすりぬける たましひの重さほどなるわが影武者は
東西にのびる気圧の谷あれば花にはあらぬ身もしめりもつ
酔ひざめの水こそ旨し水を得て正気にもどるさみしさあれど
身体より力のぬけるをりをりに伸び縮みする生命線は
ただついて来るかとおもふ影ながらときをりわれの先を歩める
☆
これが極まれば、馥郁たる、雄気堂堂たる世界に。男歌の恐峰と呼ぼう。
天命の残りなる日をわれに来て耳打ちをする小鳥あらずも
陽の匂ひのこる木陰に年輪のなき雑木としてわれは立つ
☆
さらに。
言の葉の葉の毒を吸ひ死にたりといふ話これは夢の話だ
さんざつぱら鳴きて梢をはなれたる小鳥のあとにまた小鳥くる
木蓮の花ぽんと咲きぽんぽんと追いかけて咲く春はあけぼの
外塚さんは『朔風』の編集発行人、その第９歌集である。角川短歌叢書。
倫敦塔まで（染宮千鶴子）2007.5.24〔六花書林〕
（2007.5.6）
まずは臨場感！
セネガル戦勝利に酔へるイスタンブールパトカーも七色のテープを曳けり
夜へ向かふ幕間として赤々とただあかあかとバレンシアの空
片流れのトタンの屋根に照りかへす葉月果てなる会津の日差し
バス停に名前はあらず下車駅は君が見極めＧＥＴ ＯＦＦせよ
天と地はいま創られしか見はるかす砂地に青し水の蛇行は
漱石にかぶれてをりし父なりき倫敦塔までともに歩まむ
もとより、染宮さんの作品には紀行詠が多い。
かつ、その歌ぶりは、率直な記録でほぼ全うされている。
わたくしは、もともと、紀行詠については良い理解者ではなかったが、
この歌集を読み進むうちに頓悟した。
結論をいうと、染宮さんの心のありどころは、当節流行の、例の《ハブ》だったのである。
HUBそれそれ、ハブ空港のハブですよ。
また申せば、自転車の車軸とか、パソコンＬＡＮの中核となっているあのハブです。
つまり、染宮さん自身がハブ･軸であって、
そこから放射状に旅行という世界が広がり、
さらに再び、精神活動が回帰するとこに本然の染宮さんが存在する、という次第なのである。
先ずは、ご覧候え。
☆
努力には限界なくて幾たびも寝返りを打つさびしいねむり
不器用なままのわたしで終はりさう丸いままなる鉛筆の芯
一度切り二度切りつめておもむろに弥生三月襟足さらす
あざやかな黄の残菊 そぎ落としそぎ落としゆき身は素とならむ①
自己自身が帰着店であればこそ、
自身を詠うときには、怖ろしいほどに、ひっそりとなるのである。
①はその極め付け。
☆
この自己規定の或いは補完或いはさらなる展開のために旅行に打って出るのだ。
かつ、それゆえ、その見聞の姿勢は、先に見たように、まさに自然体なのであろう。
対象を切った刀身が鞘に戻るように。
☆
ばかりではない、時として、自身に虚構性を見ている特徴も著しい。②であり、③である。
これも別形態の自己展開である。
ここでは、自己の再確認意識がすぐれて明瞭となって表われされている。
どこにても自分を演じゐしやうなひと日の膜を泡もてあらふ②
われのみの重さに軋む自転車のまへとうしろの籠はからつぽ
筋切れて曲りしままのわが小指 無鉄砲の傷しろく残れる
うねりつつ上書き保存のマークでてけふの虚構の頁引きこむ③
☆
無論、そのほか、対象を凝視し見極める所作から
沸沸とわく歌群がある。
日々さまざま。多彩である。
裾幅を阻まれている歩みなりせまき束縛を快感として
新幹線の一時間余につながれて地方都市は死に体となる
この春に声変はりせしこゑたちが爆ぜてゐるなり公園の闇
言ひかけし言葉にことばが乗り込みて話の舳がくるりと変はる
カーブひとつ曲りたる間に山の端はとろりと夕陽呑みこみてをり
会はぬ間に身に起こりたるくさぐさを打ちあふやうに話ははづむ
積年はおぼろおぼろに旅半ばひとさし指の爪割れてゐる
染宮さんは短歌人会所属。『倫敦塔まで』はその第２歌集である。
現代短歌最前線 新響十人（石川美南ほか）2007.3.22〔北溟社〕
（2007.5.２）
若くスタートし初老を過ぎて歌の世界の中央に居座り続けなさる御仁はおよそ間違いなく《努力型》であろう。
どうも、妖しくも美しい天才型の航続期間はどうやら30台までのような気がする。
以上はいささか、下品な切り出し方であったが、
無論、このアンソロジーの趣旨に触発されてのものである。
若年期の第１歌集その一巻は、新進の作家がその才を密かに恃んで飛翔し、
いずれにしても作者の世界を強烈に構築するものだが、
その後は天賦の才の消尽とともに小ワザに走るようになるのだ。
つまり、ここにある、諸姉諸兄は1970年以降生れの作家、つまり30台なかば迄の諸子であるから、
その作品たるや、それぞれの天賦の才の最も高まっている時期である。（あとは言うまい）
特に、ここの多くの作家が初出として呈示している《初期歌集の直後にして次歌集未編入の作》は、
正に魚でいえば《中落ち》の味。まことに貴重、賞味に値する。
披見のところ、たしかに、指の切れそうな作品が多く、眼福である。
さなり。光栄に玩味いたし候。
☆
枝垂桜に真つ赤な睫毛 見上げてはまた歩み去る一人のための 石川美南
郭公の歌さびしくて（お返事を）くわくこう（お待ち）くわくこうくわくこう
ぬるぬるとするいのは白目 終末を察して翳りゆくのが黒目
常陸路に投宿をせし夜なればわが夢に来よ、まぼろしの奔馬 生沼義朗
世界にはちゃちなひかりもざらにあり、クリスタル製十面ダイス 殺せ
所詮地べたを這いずりまわる七曜に虹を求むる日もありにけり
夜を翔ける奔馬ひとつのゆめのゆめうつつならぬか君の音せぬ黒瀬珂瀾
からみあふぼくらを常に抱く死とは絶顛にして意外と近し
女学生 卵を抱けりその殻のうすくれなゐの悲劇を忘れ
しろたえの美穂さんいないファミレスのブレンドコーヒーかくまで苦し 笹公人
ゲラゲラと笑いころげる真夜中も東京タワーは涼しく炎えて
信長の愛用の茶器壊したるほどのピンチと言えばわかるか
騙し討ちするように愛囁けよ花火ののちを戻りくる闇 島田幸典
鉄橋の格子のかげは羽ばたけり非東京人わが額の上に
鍵穴にたまゆら鍵の軋むさえさびしからずや秋立ちぬらし
木の花の匂いは強いきれぎれに修正ペンを振る音がする永田紅
眼が覚めてもう会えないと気づく でも誰のしずかな鎖骨だったか
組み換えるとききりぎしも組み変わり脚はしずかに議論を導く
混沌？ 否 化学の式に従ってぽんと音たて生じたわれら 野口恵子
両腕は樹枝 右肩にはコトリ何に生まれてしまったのあなた
淫逸に咬み合う枝に絡まれて軋み始める午後の太陽
狼の顎の狭間、甘噛みを受けているこのながい黄昏 松野志保
身籠もることも身罷ることも真夜中の電話ボックスほどの明るさ
完膚なきまで乾ける死海くちびるは塩に傷つきなお愛を乞う
後ろから俺を照らすな煌々とヘッドライトで俺を照らすな 松村正直
クロールで夜を泳いで行く男 逃げる女はああ平泳ぎ
灰皿に眠る死体を始末する昨日のことは昨日のことだ
ジャグラーが辞儀ふかくして投げあげる白帽昼の月となりたり 松本典子
投ばらばらと降り出づる雨なるかみの音羽屋の飛び六法にて
太棹のばちに勢いの銀やんまべべん、と羽を震わせて発つ
かくのとおり、この十家をよくよく味わうと、
《利休タイプ》と《織部タイプ》が相半ばしているように見える。
これは無論、持ち前と言うより志向性の差である。
ここでは引かないが200首に添えた各氏の小文にもその性分が影をおとしている。
☆
なお、各氏の本サイト内関連歌集は次の通り。
生沼義朗（水は襤褸に）、黒瀬珂瀾（黒耀宮）、野口恵子(東京遊泳)、松野志保（TOO
YOUNG TO DYE）
子牛の太郎（毛束純子）2007.4.3〔短歌新聞社〕
（2007.4.26）
歌集一巻はいずれにしても作者の世界を構築するものだが、
毛束さんの歌集は典型的な別世界を形成するものである。
牛を詠む以外に何を詠めといふ三十余年の牛飼ひわれに
自ら《牛飼い》と称するがその心根から挙措まで、一貫した世界となっていて、
これはもう、他社の登攀を許さない独立峰である。
☆
二週間育て売りてしまふゆゑ牡牛はみな太郎と名付く
慣れ親しんだ牛の名だろうと思っていた集題が、この一首を知ってがらりと変わる。
ここにはわたくしの想像もできない世界があった。
歌集ではこういう構成になってはいないがここでは飼育のプロセスで再構成してみたくなる。
生まれくる子牛のためにと集めこし落葉を分厚く敷きつめておく
陣痛に苦しむ牛の鳴き声が夜中の闇に紛れゆくなり
生まれたる牛の蹄の柔らかしそれは卵の黄味の色して
梅の花のかすかに匂ふ牧場に子牛が三頭今日は増えたり
朝の陽にかがやく雪を蹴りながら子牛の太郎がかけ寄りて来る
恐い恐いをばさんなりや牛らには本気で叱つている時ありて
緊張が涙になると聞きたれど売られゆく牛が涙をこぼす
☆
そして、酪農のさまざまな過程とそれを思い見る時間。
子牛との限定的な関係であることの宿命。
その限られた中での愛情と生産物として牛を扱う業への思い。
丁寧な描写がこれらの心の襞を描き出している。
この立場にいても誰もが詠える境地ではない。
どの牛も五枚の耳標を付けてゐるいつか売られてゆく日のために
一頭の牛が売られてゆきしのち夏の木の葉のきらきらと照る
慣れといふは人を冷たくするものか屠殺場にゆく牛を見送る
牛を育てることより牛に貰ふもの大きさを思ふこの十年は
☆
そして、観察される牛。観察とはいいながらも、そこはかとない愛情がよく見て取れる。
春の陽の燦燦と降る牧場の梅の木に牛は首を擦れり
三日前に売りたる牛が夢に来てしばらく遊ぶ土を蹴上げて
歌でもうたつてゐるのだらうか牧場の牛が尾を振るリズムをもちて
牧場に時間を食みてゐるやうに牛は静かに反芻をする
☆
無論、毛束さんは、日常の風景全般をも、社会の流れをもよく見ている。
特徴的なのは、ときおり見える、小さな変化・差異をぴしゃりと捉えた作品であろう
ここには、機微を的確切実に呈示される手法がある。
強き風に送られて来て一通の封書を落とすポストの底に
濁りゐる水の流れもわが位置を変へれば水は瞬にかがやく
雪のやうな雲を育ててゐる山に秋のはじめの風を急げり
かつまた、自己観察・自己督励にも毛束さんの生真面目な人生スタイルがよくよく見て取れるのである。
☆
けふひと日のわが清算をするごとく寝しなに大きく溜息をはく
根性といふふた文字がわが身より逃げて浮行かうと企んでゐる
牧場を走る子牛の足のような筋肉がほしい関節もほしい
毛束さんは『朔日』のメンバー。その第一歌集である。
（2007.4.17）
ためつすがめつ、自己を見る視線。脳を捉えるＭＲＩの連続写真さえ髣髴させる。
☆
食道にものの落ちゆく力学の恥しもわれは体をもてり
くまぐまに喜び走る生きの身がアルファーでありオメガである
うつふせに髪洗いしが春の夜は万の毛穴のしずまりがたし
ぶつ切りの鶏に塩ふり楽しもよわたくしという春のけものは
どのように呼吸をしてもわたくしはわたしの身体を汚しているわ
それでも脚に草は触りているらしく生きて居ること瞬きの間ぞ
まず、身体としての自我。生き物としての自我軸。
☆
生き過ぎし天壌無窮の生きものにおのずからなる吐息の湧けり
われもまた和泉多摩川ふたつなき沃野を疾る水ならむとす
われはただ一つの眼なり大空へ溢れ出す眼を湖とこそ思え
抽象体としての自我軸。いわば自己のアルケー。
☆
時間軸・空間軸に身を置いた自我。
あるいは、社会と言う座標の中での自我。
アングルもさまざまである。
高空へ吹きのぼりゆく悠揚の空を見てあり家郷とは何
秋空は骨の触れあう音ひびき長く日本の国に棲みおり
ここにまた生まれてこようこころまで吹かれて髪が頬を打つ春
行き交える平らな雲の影を浴びわれは誰より卑しく泣きぬ
☆
佐伯さんは自己という生命体をよくよく大切にしている。
が、《自己愛》というではなく《自我意識》というような心ばえに見える。
自然な口調ながらあでやかな風姿の歌調はすぐれて個性的だ。
自己を菊に牡丹に転移させる花火のようである。
《尺玉》も華麗にして寂寞たる残像を伴なうのが常だ。
☆
《喩》とはつまるところ《ご招待》。しかし、読み手に『ちょっと待てよ』を考えさせるのが真正の喩であろう。
恋のように行きと帰りを違えたる傘にて玄関はとりどりの色
気体のような君の孤独がもうひとり君を生み出す 地下食道
そういえばペシミストの豚うつつなき声をこぼしておりぬ春昼
十方につつじれんぎょう玄関は口腔のごと闇を呑みたり
☆
前段で華麗さを強調したが、しんみりとした作品がこの一冊のむしろ本流だろうかとも思う。
いずれも主題の輪郭は明晰である。
空高く抱きあげているヒトの子のみっしりとして無窮の重み
悲しみはホルモンの減少に過ぎぬなり黒き日傘をぱっと開きて
田安門半蔵門とたどりゆけば兵らが死にて眠りいる門
佐伯さんは「未来」のメンバー。
前著『寂しい門』は1999年の刊行であった。それに次ぐ第５歌集である。
埼玉短歌事典（水野昌雄）2007.3.20〔埼玉短歌事典刊行委員会事務局〕
（2007.4.7）
もとより「事典」は「読むもの」であり、『こよみ事典』など座右の愛読書もある。
本事典はまさに、読んで楽しい事典である。
それにも増して、この集団の集結力は怖ろしくすらある。
趣旨は《埼玉県歌人会50周年記念出版》とある。
会長が水野さん、副会長が大河原惇行さん、という組織であり。
今回の体制は、編集委員長が
監修が加藤克巳さん、清水房雄さんである。
☆
さて。
たとえば、やや意外な、「若山牧水」の項を見ると、
牧水が1917年に飯能を訪れ、３日逗留し、その歌が第12歌集
『渓谷集』中の「秩父の秋」96首であるとの記事があり、わたくしならずとも親しみが湧くのである。
また、別項《埼玉の文学碑/歌碑95基》（この調査力も凄いが）に
しらじらと流れて遠き杉山の峡のあさ瀬に河鹿鳴くなり
が飯能文化会館前にあり、昭和36年6月建設、書は若山喜志子とある。
本著なければわたくしも出会えなかった世界である。
☆☆
歌人の紹介も多くが署名記事であり、たとえば
小池光さんを沖ななもさんが、その沖さんを今井惠子さんが、
その今井さんを内藤明さんが他己紹介するというリンケージ。
これによって、こういう記事にありがちな《圧し殺した無味乾燥》から免れている。
ただし、統一性とはほど遠い。それがカラーなのである。
☆☆☆
当然、一面、壮大なアンソロジーでもある。以下は上記皆さんに関する《代表歌》。
空に鳴る風の響きのみずみずしわれの希求の疼きゆくとき 水野昌雄
入らむ日にいまだ鋭きくれなゐに寄りそへる雲あやし静けし 大河原惇行
白樺の樹層に灰色の微粉浮く触れてはならぬ森にあり
基地ある事を疑わず吾が来しをたまらなくなり明かり消したり 大橋栄一
眼つむればつねに海鳴りがきこえ来て清き勇気を清き勇気を 加藤克巳
何ごともむなしかりしと思ふとき隣室に豆を煮るにほひすも 清水房雄
バルサの木ゆふべに抱きて帰らむに見知らぬ色の空におびゆる 小池光
空壜をかたっぱしから積みあげる男を見ている口紅ひきながら 沖ななも
眼には眼を力には力をことばには触れ合うものの形をさがす 今井恵子
身のめぐり春闌けゆけば退路なきわれはポケットに空気を握る 内藤明
れいんぼーぶりっじ（平塚宣子）2007.4.3〔砂子屋書房〕
（2007.4.5）
平塚さんの歌柄はマイルドだがどっこい平塚さんは、人まねは大のお嫌いのようである。
その好例がおふくろさまの挽歌に見える。
この地いろ映りがいいのと言ひましし柩の母にふはりと着せる
黒豆を躍らせ煮てると母の声母はどこまで行ったのでせう
☆
平塚さんの歌は、菓子の詰め合わせの姿に似ている。
お菓子という部分部分が完成品であり、それが全体を再構成しているのだ。
部分でも完結しているフレーズの高度編成が平塚さんの歌の工夫どころのようだ。
フロントガラスのはるかむかうの青空にちぎれ雲ひよつこりひよこのやうな
にやおんと一声鳴いて過ぎゆくを淋しいわたしが見てますかしこ
☆☆
独特の表現は独特の内面活動に起因する。
その内面を、タイムリーな自己確認プロセスが増幅しているのだ。
討論を遠く聞きつつ指をもて押せば眼球ぐるりと逃げる
おしろいの僅かとなりしコンパクトこつそりひらきひつそり使ふ
空地より鳴きはじめたるこほろぎにたぐり寄せらるわが耳の糸
心房に黒き血の瘤抱ふるもしつかりわれはまだ生きてをり
☆☆☆
おそらく、多くの読者は、平塚さんの五感の鋭さに惹かれるだろう。
そう。何と言っても《平塚メガネ》を通した《ふんわり世界観》は楽しい。
にらみあひしばし動かぬ野良猫に制限時間も土俵もあらず
乾門過ぎてさきゆくポニーテール白き靴ごと日暮れてしまふ
さよならと手を振る声を封印しエレベーターがたちまち閉じる
ちらほらとちらとおはりのさくら散る簪橋は半分暮れて
フォックスの尻尾のやうなフランスパン掴みてマダムは立ち話する
男は黙つて勝負する世の遥かなりしやべるはしやべるは花真つ盛り
ちらりほらり散りかかるくる桜ばな涅槃像にも土踏まずあり
☆☆☆☆
平塚さんは前歌集先の第１歌集「ぱしゅみな」刊行からはや６年。
個性に磨きがかけられている。
何らかのブレークスルーへの契機があったのだろう。
平塚さんは「たんか央」の同人である。
漕ぎ手（桜井美保子）2007.3.1〔冬雷短歌会〕
（2007.3.23）
『冬雷短歌会文庫』の002号である。
つまり、同結社の大山敏夫さんの『なほ走るべし』に次ぐ文庫本体裁の歌集であるが、
スタイルそのものもシンプルで好感がもてる。
☆
亀井戸の土のきたなさとある見れば山谷集文明の歌に拘る
桜井さんの原点なのであろう。文明と亀戸（亀井戸）は。
思えば、亀戸はわたくしの仕事の出発点といって良い土地であった。
しかるに、一首も残していない。
☆
といいつつ、自分自身ががうち捨ててきたせいか、殊に最近は《仕事の歌》に引かれることが多くなった。
《いま、ここ、われ》を実現するためには、どうしても仕事の歌は欠かせないのである。
少しずつ会話重ねて絞りゆき着心地のよきコートを勧む
試着してもらひたるセーターみな合わずブローチひとつ袋につつむ①
これらには、桜井さんの《仕事観》が余すことなくあらわされていて、
殊に①にはお客と桜井さんの両方が本筋では不調に終った《品物選び》の
いわば《心のあとしまつ》をしている機微がよくあらわれている。
これは桜井さんともども《詩形の功績》でもあろう。
☆
いきなり、仕事から入ってしまったが、
桜井さんは、間違いなく、自己凝視の人である。
自身を縦糸とみなすごとく、終始といってよいほど、それは一本貫かれいる。
②③は主体性をめぐる葛藤にも見える。
早口になりゐることに気づきつつ早さ止まらず言ひ終りたり
液晶の画面に向かひ集中すぬばたまの夜の一人の時間②
この十年冷蔵庫の野菜取り出すとき屈む動作を繰り返したり
わが髪をすべり落ちたるヘアピンの床打つ音を夜は聞き留む
パソコンに触れずに出歩くいち日は常より時間がゆつくり流る③
吊革を持たずゐる時大きなる揺れあり体二三歩移動
☆
となると、これに対して周囲は横糸。
無論、こちらにも十分な目配りがなされている。特に④は出色。
蝉の声が《重なる》というは単純にして明晰。
「もしかしてこれは桜ね」薄紅の花持つ枝に女らが寄る
咲き残る白バラ鏡のかたはらに移せばふたたび花の量感
持ち来る水に喉を潤して重なり響く蝉の声聞く④
☆
また、独特の感覚も見逃せない。
歯科用のピンセットにて歪まずに歌集に貼らるる訂正の文字
池に架かる小さき橋を渡るとき鯉が動けば砂も動きぬ
それぞれの脳活発に動きゐむ閲覧室の静寂の中
感桜井さんは『冬雷』の編集員、『漕ぎ手』はその満を持した第二歌集である。
グローバル・スタンダード（栗明純生）2007.3.6〔六花書林〕
（2007.3.6）
栗明さんの特質は《物怖じしない》という点にある。
当今、作品面では最も《豪胆》な作家のひとりであろう。
そういう栗明さんの特質は前著『黄のチューリップ』以上に
醍醐味となって本集中に蔓延じゃねえ横溢している。
グローバル・スタンダードという幻想のああパックス・アメリカーナ①
たいぜんと死にゆくものぞ獣らは 悶え苦しみ逝くかわれらは②
「仲介の労をとってもいいですよ」（あますなくしゃぶり尽くすか）③
ホワイトナイトって言うんだってまさか君じゃないだろうねまさか④
マスコミで不毛の能書きを尊大にいう雑魚ばかりがエコノミストではない。
栗明さんのように実戦の野を駆ける現場人こそがエコノミストだろう。
①は現代の原点、②は9月11日、③④はホリエモン騒動がその主題。
それぞれに自身の視線を浴びせて、社会詠のつまらなさを押し倒している。
☆
対女性歌も堂堂。顰蹙も何のその。
むきだしの背すべすべとひかりおり 痴漢をむげに蔑しはしない
くちづけてさやかに伝わる痺れなりセーラムなるべしこれは汝が舌
口づければ生ぐさき息もれきたり汝の身の内にきざす愛欲
秘めごとのひとつ生れたりパソコンに君の名前の綴り打つとき
☆
現場の歌。悲喜の大いなるダイナミズム。
ほほう。しょぼくれた東大卒の顔もある。
押しが強く声の大きな奴のみが勝つ職場ならん つとに悟りぬ
電脳に追いたてられてふらふらの僕は歩くよ夜の地下街
また今朝も革靴をはく 残されし黄金の時がすり減ってゆく⑤
微熱もつ腕Ｙシャツに通しゆくかすかに闘志の湧く思いして
絞らるる濡れ雑巾のごとき脳かかえてタクシー走らせてゆく
わが課せる仕事拒みし部下の眼の寝床の中でまつわりてくる
それにしても⑤のように現役時代を《黄金の時》と呼ぶ心を真正にとるか逆説に読むか。
読者の自己投影を迫るかに見える。
ギャグだろう、と読むのはわたくし。
☆
力抜き手打ちて決まりていかほどの喜びあらん 今日も振りぬく⑥
これが今の美しさならんと凝視めおり いつしか時代に逸れゆくわれか⑦
⑥はテニス観、⑦はトップ女優さんへの感想。
素直でない、つまり、妙な自信の漂う《硬式》人生観の持ち主ではある。
☆
さて、クールダウン。
個室より間近に見下ろす議事堂の蒼白の面暗闇に浮く
つじつまの合わぬ夢なれこの半生 東京湾ははるかに霧らう
君がその女の呼ぶ声のピアニシモ語尾は艶おび尻あがりなり
栗明さんは、「銀座短歌会」「短歌人会」所属、その第３歌集である。
（2007.3.4）
じわじわと包囲の網が迫るらし又ひとり逝く昭和一桁
こう書き出してしまうのは正に《先入観》めくが、
昭和ひとけたはわたくしのライフステージの諸場面に登場し
わたくしに《隠然たる指導》をほどこした世代である。
無論、卑怯者もいるにはいたが、多くの先輩は果敢な実行とそのための忍苦をいとわないタイプだった。
三十有余年、歌集を出さなかったという舘川さんにもその気配がある。
☆
先ずは仕事観。
未熟なるわれら手抜きをはかれれば「君らは神か」と叱り給ひき
仕事場のわれはひすがらぶつぶつと呟きゐると人の指摘す
落ち針の行方知れねば怖ろしきゆゑに心を逸らさむとする
この俺に任せておけと言ふ如き文字出づ「湿度調節中」と
自ら経営する洋裁店のダイレクトな作も多いがわたくしにはこの３首で十分に描き出されていると見る。
ご案内はこれを踏まえた次のステップ。
☆
今日ひと日店を閉ざしてはかなさよ煮梅・梅ジャム作りて暮るる
おごそかなる貌つきをして人々の坐る電車にわれも坐りつ
仕事をちょと離れた舘川さん。二首目は朝のビジネスパーソンをよく捉えている。
自らを思い起こして、失笑。
☆
浴槽に浮くゴム毬の感触に幼くをりぬ吾がたなごころ
しづしづと距離をつめゆくバス二台抜刀さげし武士のごと
剪る人の姿見えねどその音と杉の香は来つま昼間の道
長年研いできた、視覚、聴覚。
☆
朝のベッドに母を視にゆく、眠ってる、覚めてる、死んでる、それとも居ない？
「サルトルの死のほか恐きものはなし」ボーヴォワールの言葉を想ふ
わが母は火の子・人の子百年は震災・空襲・わが家の火災
つねのごとベッドに動かざる母よ戦士のごとし安堵のごとし
おふくろ様の歌も多い。ただ今102歳でお元気とある。
☆
さいごに、すっぴんの歌。
春の陽にせかれて踊るがにをりつ洗ふと干すと二階と階下に
電話切る即ち悔はのぼりくる物断るに馴るることなく
「胃を捨てて帰って来た」に応じたり「達者な口が残ってゐる」と
目にとめし画面をつひに見終へけりドミノ倒しの終着点まで
舘川さんは「日月」のメンバーである。
証言（武田孝一）2007.2.5〔短歌新聞社〕
（2007.2.10）
武田さんは大昔、同じ会社で会議にも同席したこともある。
テーマはその名も懐かしい《国際化教育》。
そしてそれは３分の１世紀の昔。
そういう会社づとめの時代も含めて、日日、書き積み上げられた大部の作品集である。
かつ、今回の作品集は過去の２集も再掲する総合版である。
第１部 紅冠鳥
離りゆく汝が瞳の涯に棲ましめて我のみの浄きBeatrice佇つ
目覚めたる汝が息づけば瞳の中に吾が笑み小さし朝光の柔き部屋
下顎呼吸止るとみる間に深き息二つして母の生命終りぬ
初期の作品で同題の既刊集である。ひとつの純情、連綿たる純情。
第２部 湖畔
マイスタージンガー序曲の終りに聞き止めしトライアングルの小さき顫え
低頭して次なる一語思いおり今筑波嶺は茜の箭の中
思念詩語に羽化しゆく刻を愛しめる夜更けて七月の雨繁き窓
同じく同㈹の既刊集から。芸術愛好の面もちらりと見える。
第３部 証言
月の下に瓔珞一つの金星蝕光りいて多事の1年逝かす
“三行革命”とうコンペチターの文字流る出勤前のテレビの画面に
「老婆は一日にしてならず」と書きし小田島教授と神田にすれ違う
“Bowl Bｅggａｒ”と訳されありし良寛の淋しき笑みを夜半に偲びつ
享年の字義告げ終えし若き僧の左頬に夕陽一筋射しいつ
思わざる角度より陽の射し来たるこれより日本海越えゆくハンザ機
企業内にあって語学の専門家という立場を全うした武田さんは欧米の文化を愛しかつ造詣も深かった。
几帳面にしてかつ貪欲というとはしたないが旺盛な知識欲の持ち主である。
描写・写実を歌の基底とする武田さんであるから嘱目という目からも作品は起伏に富んでいる。
第４部 英訳短歌
雪霏霏と果敢なき思惟を埋めゆく子の電話遠き星よりの声
Heavily the snow is falling and
Covering my vain thought
A phone call from my son seemed to
me from a different planet
☆
ガリレオに知恵齎せし燭台の頭上に緩く冷えて止まる
A candlestick almost stops moving
freezing
Which brought such wisdom
To Galileo Galilei
☆
立たされて撃たれて逝きし無念さよ今息つめて見守る弾痕
The pity of those who were forced to
line up
Then shot and killed in Beriln
Now K watch as many ballet holes
breathtakingly
なるほどなあ。とはこのこと、無論短歌ジャーナルの常連でもある。
武田さんは「未来」の所属。その第３歌集である。
Ｔｏｏ Ｙｏｕｎｇ Ｔｏ Ｄｉｅ（松野志保）2007.1.12〔風媒社〕
（2007.1.31）
俯瞰的に見ると起伏の際立つ作品集である。
無論、そのように設計されている。
◆◆◆
まず、不思議な《両性性》に出会う。
これがひとつめの隆起。
処女として生まれ娼夫して生きて真水のように強請る抱擁
ぼくの死の後は遺骨を粉にして吸えばいい どうかよいトリップを
もはや翼願わずぼくら美しい知恵の輪として腕を閉ざす
あとがきに、脳裡の男性像に関する記述があって、
松野さんはその《像》を介して、思惟し体感するのこともあるらしい。
しかしわたくしはそれを追うすべもなく、気もまたなく、ひたすら作品を享受した。
しかし、
わたくしでなくとも、つまり本サイトお立寄り諸賢も、この不思議な《両性性》が主調音となっている作品が、
生きる不安へのサプリメントをとなっていることに気づかれるであろう。
なにかしらものがなしい、自分の腕でもう片方を掴みたいような心細さを充たす要素がある。
◆◆◆
松野さんの心のコア部分にはどうやらいつも《生成》という発想があるようだ。
《成長》《展開》《萌芽》などという観念と一連の。
これは《有為転変》とも無論隣接している。
これがもうひとつの隆起。
降ろし損なった緞帳 人はまた千年を踊り続けるほかなく
植物として生まれるはずだったのに青い花が咲くはずだったのに
壊すだろう 蛹が蝶になるまでの時間をともに過ごしたのちに
変容を待つ繭として傷のない皮膚の上にも包帯を巻く
まなじりに青を置くとき少しだけ羨む水棲という生き方
◆◆◆
そして、もうひとつ、前項の《仮設世界》とはうらはらな世界がある。
《相聞》そしてそれと地続きの知性を押し殺した《官能》の世界だ。
集中の圧巻であり、松野さんの生命線ともいえる。
３つ目の隆起である。
雑踏を見おろす真昼 銃架ともなり得る君の肩にもたれて
唇という鮮やかな傷ふれあわす分かちあえる何かを探しつつ
神になく人にあるもの恩寵のかくも傷つきやすい粘膜
ゆうぐれの錆びた鉄路を超えるとき舌はセロリの香を切に恋う
もういないひとりを指して狂いつつ錆びる磁石を懐に持つ
うすあおい蝋燭の火を吹き消してふたり苦痛の前に額づく
◆◆◆
SPの視界を過ぎる炎天下かくも無害な一塊として
手に入れたいものがあるから狗として尻尾くらいはよろこんで振る
スペードの切っ先の翳り手の内はすべて晒して反応を待つ
神無月 刃研ぎつつ刃では斬れないものを愛しはじめる
人生は所詮さびしいひとり旅。
こわいものとは無縁そうな松野さんではあるが、自己の矮小もまた十分に認識している。
ただし素直にはいわない。やはり。
これがいわば起伏の《伏》の部分。
松野さんは、『Ｅｓ』のメンバー、その第２歌集である。
ボクサー（押切寛子）2006.12.20〔ながらみ書房〕
（2007.1.27）
二ン月の翠滴り今我はワン・ラウンド終へしボクサー
先ず、集題となった作品である。
通読すると、治療の第１ラウンドを終えた退院時の作品であると知れる。
次の回、その次の回と健闘を祈念したい。
秘密とう媚薬に似たる楽しさの 隠しもつもの病名なれど
病棟の地下にしんしんとかがやけるげに美しき放射線ルーム
このように病そのものや治療機器を直視するという冷静な視線が持ち味。
◆◆◆
さらに、医学書の編集者という経歴からか、観察眼にもあるいは解剖学あるいは生理学の見解が認められる。
俯きてコキリコキリとたたみゆく傘を寂しき楽器と思ふ
背伸びして栗の葉むらに挿し入れぬ指を総身の感官として
花が実になりゆくまでをじんじんと苺畑に夏鳴りやまず
二月鳴る月 さなり遠鳴る甲冑の萌黄縅はわが聴覚に
耳管とふわれび「まひまひかたつむり」愛しさやかなる骨と思へば
◆◆◆
時に見られるのは、大人の空間と時間。仕事に充実もあるのだろう。
会議室の卓のむかうに君は見ゆ壮年の砂金しづかに零し
ふつさりと振りても見むか春の夜の樹下に見せざるわれの白き尾
◆◆◆
押切さんの歌には時としてスピードが現れ、それが終末そっとキレて止まる、という独特の流れと制動感がある。
那覇系空手道の形の冴えの根元にある《鞭身》のような。
つまり、しばしば手先指先が、緩急と制動感の統合のもとにクイッ決まるあの感じである。
これは、どこか序破急とも通じている。
そういえば、押切さんには謡曲、能楽の感覚もあるらしい。
稽古始めは春の「鶴亀」その後の「吉野天人」秋の「土蜘蛛」
序破過ぎておぼろなりわが橋ががりさあれこの世の春の薔薇園
◆◆◆
最終的に言うなら、押切さんは特に、眼の位置、心の在り処、気ッ風のよさが素晴らしい。
難波男に勝ちたくはなし潔く退きぬ東女の意地みせたくて
石の階木の階あれどつひの日に父の昇れる木蓮の階
やや反りて天は紺青の縁を持つ秋の列島わがあきつしま
ゆらと振りしんと立てびゆんと打つ ああ私の猫は尾を持てるなり
薄ねずの紗の一ツ紋の夏蜻蛉 クイと桿引きて風に乗りたり
硬きひかり左右に充たして七月のおほいなる桃はちきれむとす
この押切さんは『宇宙風』のメンバー、その第４歌集である。
雨よ、雪よ、風よ。（高柳蕗子）2006.12.20〔北冬舎〕
（2007.1.25）
本著は《主題で楽しむ100年の短歌》というシリーズの第１号『天候の歌』という位置づけである。
この一見不思議なシリーズはあたかも、過去百年の短歌Cityのｓｉｇｈt ｔｏｕｒｉｎｇであり、
それならば、その首尾はひとえにガイドさんの器量によることになる。
その昔、都内見学で有名な鳥の名を冠した観光バス会社にもカリスマガイドさんが居たということを思い合わせ、
それに乗る積りでぐるりと一巡させていただいた。
◆◆◆
果たせるかな、結果は、高柳ガイドの不思議なお手並みにより、このツアーは
見事に運行し、満足をもってステップを降りた次第である
もっとも、良い仕事には良い準備があるとやら、本テーマについては、Webの掲示板を介した前作業もあった事実も偲ばれるが、
その面白さの真因は高柳さんの完璧なまでの《整理嗜好》が前提となっていて、
そうした下部構造の上に立つのが次に書く２つの大きな特質であると理解できたのである。
◆◆◆
先ず、この著作に個性をもたらしたその起源、つまり、第１の強みは、
「どんな言葉でも、実物と言葉は別の物であって、言葉の周囲には多くの用例を通して
獲得したイメージの広い裾野が形成されている」
という明快な本質の看破にあることには間違いはない。
言葉を単なる情報交換の手段とは見ていない。
作者の、時代の、環境のにおいのしみついた文化そのものと見立てているのだ。
そう考えると、いきおい、文脈は混乱しそうなものだが、
極めて明快端的に絞り込むことも忘れてはいない。
これが、つまりは、「こういうまとめかたもあったか」というツーリングに仕上がった由縁なのだろう。
まさに高柳さんは思い切りの良さにかけては当代随一。
さて、さわりの中のさわり。
雨⇒すぐれたカウンセラー
傷口をこころにもてばガラス戸の雨滴は花のごとくひろがる 村木道彦
雪⇒名場面の演出家
駒とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮 藤原定家
風⇒いたずら者、気まぐれ者
あさ風が電車の中に吹き入れし
柳のひと葉
手にとりて見る 石川啄木
ご当人は当然のこととして何とも思うまいが、
次のそれぞれの絞り込み方は只者には出来ない。
凡骨はぐじゃぐじゃぐにゅぐにゅと言い募り、
要約を嫌うことを常とするので。
◆◆◆
第２の強みは、高柳さんが、《極私的な視線》を貫いていることだ。
これが、選歌に絶妙のゆらめきを見せ、この著作の幅を広げているが、ここではいちいちは引かない。
著名、微名、売れっ子、非売品多くのうたびとがステージに浮かび、消える。
◆◆◆
ところで、その昔、三十石船の中で遠州森の石松が、江戸っ子に繰り返し言ったそうな。
「ところで、誰か、肝心な人をひとり忘れてやしませんか？てんだ」と。
フルヘッヘンド（高橋みずほ）2006.12.20〔砂子屋書房〕
（2007.7.17）
顔真中フルヘッヘンドフルヘッヘンド刻々として過ぎてゆきたり
先ず、集名の『フルヘッヘンド』なる阿蘭陀語から話し始める義務を感ずる。
高橋さんの「あとがき」によれば出典は『蘭学事始』であるという。
鼻のところを「フルヘッヘンドせるもの」とある蘭語の記述に遭遇した一同が
その語の意味を諸例探し回って「堆＝ウヅタカシ」と推認し訳語に定めたというのである。
この作業に深甚の興味と敬意を感じたところに高橋さんの面目がある。
さて冒頭の鼻の周辺の歌。
驚けば黒目ひとつを眼に入れたままなる顔を突き出してくる
円卓を囲む人らがつぎつぎに唇をかく山型にぬる
☆
なお、この著作にはひとつの宿命がある。事情は書かれていないが
第1歌集以降、1994年から97年までの作品というのだ。
つまり、最近作は所収されていないということ。
つまり、このことは本集が有期的な課題と密接しているのだろうとの推測を導くがそれはさておく。
☆
先ず、高橋さんのものの見方は厳密且つ緻密である。
鋭角に開く鋏のはじまりに裏地の布は 波うつ
歩道のアスファルトの繋ぎ目を離れつ沿いつ影のあたま
今日という日の終わるも長針の重なりずれて始まりという
チェロひきの肩が左に傾いて右へ右へと音を引き出す
集名の起源を思い出せばこの細密は当然、解剖学的視力の細密さなのだ。
選びぬいた語を、極細の筆致と精緻な配句によって独自の世界を形成している愉快さ！
☆
昇降や傾斜はしばしばモティーフとなっている。
思うに、そのふたつは動きの基本だからだ。
急に下り続ける石畳家の傾き足の傾き
確かに現れるエスカレーター人もち上げる高さがありて
右の目を軸となして鳩はつとつと首かしげ出す
怒る男の真上を蜘蛛がゆきゆきつきて壁下らんとする
寄り合うはアワダチソウに芒萩月のぼるまで日の沈むまで
月よりこぼれゆく雁の 下角を目ざしておりぬ
☆
公園の桜の房の撓むところ 飛んで兎 はねて馬
嘴の尖りをあけて鳴く鴉空なるものを内に入れ込む
鶏の太声にほら空豆の殻ずんぐりと立つ
ゲジゲジ土の穴から這い上がりうねりうねり春さがし
前項の発展形。
動物を配しての動きを勘定に入れた観察・描写は入神のレベル。
このことは、ものは見つめると動き出すということを、
言い換えれば、凝視によって事物は精気を吹き込まれて動き出すということを、
高橋さんはこういう形で明らかにしている。
☆
接写あり、ロングありの中で、身辺での感覚は時に現実に独自の＋αを試みてみせる。
塊を広げつつもちつき虫は木立の夕日を突きにゆく
脇下に風を通わす形して空気の束を抱えもつ
頬にあたる風か暗闇かかなしみか涙の線をすいと描きて
めくるめく風鈴の風カラと捨てカラと拾いてめくるめく
線香を軸となして手を合わす拝むというもけむりの長さ
☆
これまででもお判りのように、集を通じて最も心に残るのは、
実に切ない、字足らずの作品群である。
あるときには詩形への、別のときには社会への《切望》を表現し、
ある折には、前言語状態の詩と製品の間を安易に埋めない心意気とも読み取れる。
別の折には、織部のような《軋み》を作品に求めているのであろうかと、訝ることもあった。
天井の水滴桶に当たりたり当たりたりて やまぬ 響き
波の風雲をちらして沖の舟もすとんと消える
☆
わたくしは次のけろりとした歌を愛してやまない。
そりゃそうだ男のうなずき消えるまで道の曲りに立つ犬の耳
優なる独立峰、高橋さんは３人誌『BLEND』のメンバー、その第２歌集である。
雪の谿（陣内直樹）2006.11.20〔東銀座出版社〕
（2007.1.22）
陣内さんは私信では、陳内直樹、作品では陳内直樹と使い分けている。
それはこういう歌からも知られる。
わが家負う一字はかの地に多き姓「陳」とし聞けば親し中国
さて、本集は2002年上梓の第一歌集『父の製図器』以前の作品集である。
但し、学生時代から1974年までの作品は割愛されている。
陣内さんは本集を『半生の全歌集のような体裁の6行組み』として、1170首を収めた。
◆◆◆
わたくしは、ついぞ、職場詠をなさなかった。
そうはいっても、生活と仕事場は不即不離ゆえ紛れ込んだものもあるし、
最終期には仕事場周辺の大手町に嘱目したこともあった。
しかし、基本スタンスは仕事場とはあくまでも《断絶》であった。
そういう眼で見ると、陣内さんの仕事への誇りは神神しい。
◆◆◆
<Ⅰ 1975年～1980年>
わが胸を騒立て去りし影いずこ既に遥けきチェーホフ・多喜二
ねじり飴わた飴マシュマロ時しばし機窓の雲の相に遊ぶ
己が手に描き送りにしやや丸みもつ漢字の書き癖
余光負う岩山もいつか闇に消ゆ明日は登らん砂糖パン山
猪撃ちの音発つ方よ雪山をゆき廻む道の果ての深谿
登りゆく山坂に尾長の声しげく仕事にかかる心昂ぶる(野外実験)
精錬エンジニアとして国内外を跋渉する日日。
その中には青年の日のロマンがつねに影をさす。
◆◆◆
<Ⅱ 1981年～1986年>
残業の机上に落ちたるわれの髪白き一本はいたく光れり
悔しさに心しおれていたりしが六腑ふるわせ欠伸は出ずる
老いてなお盲いの雄鶏ひたすらに啄むと空を切る三・四回
わが経にし時空の量に白みたる頭の髪みだし北風のゆく
ただ一つテレビを娑婆への窓として白根の山に一旬過ぎぬ
仕事の日日の中で加齢を確認させられつつ、それでも頑張る。
歌は陣内さんの伴侶でもあるのだろう。
◆◆◆
<Ⅲ 1987年～1992年>
取り難き肥後の訛りも先祖ら使いし言葉と思えば親し
十三年前に入りにしがガルボンの床屋「塩野」にまた刈られいる
転社するわがために設け呉れし宴肝病めば和風喫茶のハシゴ
われを指すグレースの言葉「真面目」に数多の皮肉含まれ居らん
七年をねりに練りたるプロジェクト費えぬ僅か二週間にて
どの一首をひいても、真摯な男一匹の姿。
シリアスを地でゆくかのような歌集である。
わたくしは陣内さんの生真面目を羨ましく思う。わたくしもわたくしなりに真面目ではあるのだが。
陣内さんは『まひる野』の同人である。
おーい、１６歳（高村賢治）2006.12.10〔日月社〕
（2007.1.15）
詩歌集と銘打たれている。つまり、文字通り詩と歌が収められている。
高村さんの歌は『日月』誌上で注目して居て、その独特の言語まわしから、エンジニアなのだろうかなど思ったこともあった。
本集ではそのあたりは不明だが物理学専攻ということは書かれている。
この本については目次を示す義務がありそうだ。
第一部
あそびうた
第二部
自歌歌合はせ
第三部
拾遺二十五首
第四部
李白反歌
そしてこの中ほどに『解題』も仕込まれている。
これも七五調のつらねのような詩文体だが
それによれば、１６歳が高村さんの詩心の目覚めの時期であり、
その頃の自己に向かって詩歌を放つという趣向であるという。
◆◆◆
さて。
<あそびうた序歌の反歌>
詩歌にもあそび心は溢れると二八のわれにあそび歌詠む
<折句 すきま風>
好く人に嫌はれたかなあ待ちぼうけ帰る夜道に絶望つのる
<回文のうた>
義仲は家の子駆る武いさぎよき采ふる過去の兵儚しよ
どういうご存念でこのような詩境に立ち至ったものか、訝かしいが、
あそび心と探求心に満ち満ちた構成である。
◆◆◆
続く、自歌歌合せは、きわめて構成的な作品群。
言いたいことをテーマに仮託して述べている。
これが六十番。
<自歌合せ>
〈八番 左 アポロンの美〉
衣通りのうちの輝き横たへてなほ片身なる後宮の人
〈右 ディオニソスの美〉
惨劇をサンダナパロスの外に描く赤の色彩異常の光景
◆◆◆
〈拾遺二十五首〉
過去現在未来に向けてオープンな心もたばや希望もたばや
経験が問ひの卵を発見し抱卵を経て解を得るノダ
寒ければ着物を着るか火を焚くかこれも二極の問題解決
波立つは我が性なれど海の底この暖流を強く育てん
ここが、自由な作品集というべきところ。
作風としてはかなり《我》が強い。
武芸百般とはよくいうが、これは正に文芸百般。
「個体発生は系統発生を繰り返す」とは発生学の基本のようだが
まさにそれを地ならぬ字で行く形であるといえよう。
◆◆◆
詩歌集の「詩」の方は
上記の五七調のほかに、李白の詩の訳がある。
無論それにも訳上のルールが課されている。
ここではその反歌をご紹介。
後者はどの詩の反歌かはお判りであろう。
〈李白反歌〉
李白の詩、長歌に見立て万葉の反歌の詠みを学びて遊ぶ
〈白帝城反歌〉
白帝城彩る雲より漕ぎ出でて猿声千里一日に過ぐ
以上、にぎにぎしいことテーマパークのごとき本集は、高村さんの第１(詩)歌集である。
ホワイトライズ（槌谷淳子）2006.12.10〔Book Park〕
（2007.1.9）
日本人の「つまらないものですが、どうぞ」というこの「つまらないものですが」を西洋では《白い嘘》というのだと聞いたことがある。
おなじような例を槌谷さんもあとがきであげているが、ただ、彼女は外国人教師から《ホワイトライズ》ときかされたのだという。
いずれにせよ、《嘘》という部分とはうらはらに表現全体は相手を慮った美しい修辞だ。
降りやまぬホワイトライズ 大雪の夜に思えば誰も悪くない
この歌集で登場すするのは《雪》と人情の重ね合わせられる世界である。
そして、このあたりが、この歌集の正に核心なのである。
◆◆◆
亜急性秋の夕暮 もうすでに許しているから怒ってみせる①
雪以外すべては不動しんしんと固有名詞が埋もれゆく街②
じわじわ深まっていく新宿は不法投棄の感情ばかり
槌谷さんの作品の最大の強みは、《言語にもたれる》というのではなくて、《言語の機能を信頼した作法》に拠っている点にある。
そこから多くのパワフルな作品が生れてきている。
実証したい。①では、本来は《つるべ落とし》というべき句を『亜急性』としてかなり強引にかぶせているが、
それでも『秋の夕暮』はびくとせずに、却って輝いている。
こうした形で言語の機能をいっそう引き出しているといえる。
②でも、雪の《動》に対して常套的には《静》というべきところを、
『不動』と置き換えることによりこの作品のパワーが増すことに成功した。
このあたり、あたかもコラージュのような付会の妙が見える。
これは必ずしも槌谷さんだけの技法ではないが、この集中ではかなりの《冴え》が認められ特徴を見せている。
◆◆◆
もうひとつは、素直な抒情性。
多くは、細部を適時に掬い上げた自己の心の鮮度の高い投影だが
ときに③、④のように、慈愛のような、博愛のような、ものがなしい優しい視線がみえる。
カーテンに抱かるるかたち夕風よ寂しくなくなるまで吹いておれ
さんざんに傷ついた夏のサンダルを捨ててかつんとブーツ揃える
わが父の匂いを知らぬわれなればどの町の風の父の匂いす
傷みやすき苺のような人たちを溶かしつつゆく満員電車③
あまり鳴かぬ猫を一匹とっぷりと愛しつくしてなのはなくたし④
朽ちかけたベンチに深く凭れれば素顔をすべる週末の風
凡人でも悩むっていう滑稽を照らすな 夕映えを避けて歩めり
猫たちのちいさな視野をうらやみてひと日を冬の部屋にこもれる
◆◆◆
その延長か、相聞も今時めずらしく性愛から遠いところにある。
いつもいつ疑問形もて結ばるる友のか細き顎を愛す
機嫌よく満ちている月見上げつつ駅まではもう語らず歩く
うたたねのちいさい夢の醒めぎわで笑ってくれた もう会わぬひと
◆◆◆
槌谷さんは『桜狩』のメンバー、その第一歌集である。
平日の西安行きの飛行機は ペーパーナイフ 少し雲を裂く
（2007.1.8）
まず、構成をご覧頂きたい。
１短歌とは何だろうか
２短歌はどうつくるか
３はやわかり短歌史①
４はやわかり短歌史②
５短歌自分史
６短歌の背景と環境
◆◆◆
これも、いわゆる、入門書である。
入門書は多くの場合著者の《威光》《権威》がうしろ盾となっている。
こう書くとわたくしの性格のイヤミな部分が透けてしまうが、
居住地の市立図書館で斜めに読む入門書には、
往々、ぞろぞろ、「作り方をおしえてあげるわよ」、とか、「こうすれば上手くなるノダ」
なる『お塾・マニュアル風』のうんざりするような、《師匠風》が棚引いている。
異様な世界だ。
そんなことから、わたくしは、多くの入門書を読んでいるわけではない。
よって、軽率を畏れつついうことになるが、
本著作でもっとも顕著な特色は《作り方は基本的には読者に任せている》というスタンスである。
異様な世界にあって、これはたいへんなことである。
◆◆◆
小高さんは賢者である。無論、ここでは100%良い意味で。
つまり、勉学の人である。これには、遅いスタートによるものだという述懐もある。、
つまり、自他ともに認める勉学の人なのである。
つまり、師匠にちょろちょろ追いて行ったのではなく、自分で歌の工夫をした人なのだ。
そういう人だから、押し付けはしない。賢者の証だ。
無論、この種の著作を出す根底には《基本の徹底と秘訣の伝授》という意識はなければなるまい。
しかし、この本では『短歌はどうつくるか』の中ではそういう部分はさらりと流しておいて、
実は、『短歌自分史』にコンパクトに収めているのである。
『大先生が教えてやるぞよ』ではないのである。
◆◆◆
わたくしが読んでいちばん面かったのは《結社》の話。VIVIDですね。
そして『はやわかり短歌史』も大変な労作である。
これはわたくしは100回生まれ変わってもできない。
ただ、こういう本はが売れまくると、短歌の作り手読み手の知識が一律化するのがコワい。
作り方は「自主的にやれよ」であっても《基礎知識の入力》は《１冊チャージ》にならないかしら。
まあ、そこは、奇人、変人、鬼才、逸材、ならず者など天稟が補ってくれるか。
◆◆◆
小高さんは、かりん編集委員。歌集多数、評論に『転形と批評』がある。
絶滅危惧種（諏訪部仁）2006.12.1〔六花書林〕
（2006.12.29）
さりさりと言の葉を食む歌人の絶滅危惧種と見ゆる今宵は
ツシマヤマネコ、イヌワシなどが絶滅危惧種であるという。
そこそこ強そうで居住区域が絶景であろうという点が似通う。
そうね、歌人群もそうかも。
さて、歌人は、言葉という葉を食べているというのですね。草食動物。
それも危機感のない、呑気な。
こういうパーティでの切り取り方もあくまでの諏訪部さん流である。
理智の目、大人の目いいえ、大人の目の所業。
これは前集『エトランゼ』にも見られる美質である。
リサーチは卑しき業か先人の踏みたる跡を探る明け暮れ
地図帳を開けば真っ赤な唐辛子亜細亜の隅に斜に構えおり
臓の腑に酒を注げばゆるゆると美しき時間は流れ始めつ
機体まるごと鯨となりて飛びたてり大気の層は碧き海原
リサーチの実体は英文学。英国在住時の作もある。
裏庭の木立に棲める栗鼠二匹夫婦ならずやしげく争う
いっこうに散り行く気配のあらざれば疎みはじめつ英国の桜
もうこれが飲み納めだなこのパブもきれいになったがうるさくなったよ
中には、ちょっとズラした楽しさも提供されているが。
「ブダは水ペストはかまどのマジャール語豚の病気じゃありませんです」
◆◆◆
おなじ視線で自己も反芻する。年輪。ご本人の実感だが、大いに頷ける。
金輪際人には言えぬ大ぽかの二、三もありて還暦を越ゆ
これの世になすべきことは多けれどすこしずらせば大方は消ゆ
◆◆◆
ついで社会観察。人に対する好感には好感がともなう。
サムライの末裔ならん真夏日に朱色のネクタイ涼しく締めて
「あたし頑張って一ヵ月も黙ってた」一生秘めたる恋もあるべし
◆◆◆
現代について語るとき舌鋒は鋭い。ご批判やらお怒りやら。
彼奴めのこころの奥処に踏み込みて問い質したきことの数々
狐狸でさえ化ける姿は秘すものを車内にさらすこの娘っ子
謙譲が美徳であったあの頃の涼しい風を覚えていますか
大江戸に言葉狩り族現れて「ジェンダーフリー」の首を刎ねたり
男らしい女らしいも駄目らしい雄々しき女に女々しき男
諏訪部さんは『短歌人』編集委員、その第２歌集である。
2001～2006年9月までの300首が所収。
夏羽（梅内美華子）2006.12.1〔短歌研究社〕
（2006.12.22）
過敏なまでの感覚がこの歌集の《しなやかぶり》の基底になつている。
感覚器官でしばらくの間揉んでいるのではないかとまごうほどの丁寧な仕上がりである。
すきとほるのれそれを喉に流しやり新芽の脈打つ夜かと思ふ
海風は白き羽毛を逆なでし抱卵の鳥はまなこを閉づる
海霧に声をころされ揺れてをり黄菅、はまなす、浜払子、われ
赤とんぼちりつと燃える感じにて九月十一日の空ゆく
先端につぼみの重さ加へつつ桜の幹は締まりゆくかも
本集より新仮名表記から旧かな表記に改められている。
『夏羽』には《繁殖羽》という別名があると「あとがき」にあるが、
この旧かな移行ともども決意の一著と読むべきであろう。
◆◆◆
ついで、世情のわずかなズレや機微を切り取ってわずかに読み手の頬をゆるめさせるワザも少なからず。
この歌集を読むというクルージングの楽しさとなっている。
ぴちぴちしたコトバの《お作り》もなかなかに旨い。
鼻差にて負けたる馬の顔伸びて永久直進してゐる月夜
二眼天にありて右行左行する小雨の岩の蟹の往来
蟹五郎、鯉七、なまづの黒和尚ねむれる池に氷の蓋をす
これを知るはお月様のみでございます 語部の去るやうな夜なり
青虫のやうな電車は梅雨の日の玉水駅にわれをこぼせり
◆◆◆
ときどきは《静かな相聞》。ブローとしてはかなり重い衝撃力を帯びている。
君が従き来るのかわれを連れゆくのか曖昧にして大和を歩む
足りないか寂しいかと君問ひながら つばめのやうに去ってゆくのだ
(ボタン飛ぶ修羅場は君に来ないだろう)南米産の貝ボタン買ふ
◆◆◆
全体を通じて《しなやかさ》とともに、《のびやかさ》が支配する歌集である。
ただし、ときおり、非常に心に食い込んでくることばづかいが出てくる。
ちょうど、ヌンチャクの水平風車振りのよう、見切り損ねると瞼や顎に裂傷を負ってしまう。
梅林に名札をさげて梅立てりすとんと寒ききさらぎの昼
きやおきやおと悲鳴のごとき声の渦島を巻きしめ海へと落ちぬ
横綱の反則負けと冷夏のきざしテレビは告げて一発雨くる *夕立の別名
◆◆◆
そしておそらくは梅内さんの核心をなすものは本集でこそ抑えられつつあるが、やはり《奇想》でなのある。
たましひこそ両性具有 太陽がなければ見えざる月球のごと
半球のてんたう虫は生えてこぬ片半球を思ふことある
ここまで来いここまで来いと言ふやうにオレンジ色の空貼る坂は
梅内さんは「かりん」の中核、その第４歌集である。
本サイト内にも既にそのうちの『火太郎』『若月祭り』の両集があるが、
本集は2002年冬から2005年夏の間の作である。
直綴（鈴木得能）2006.11.11〔短歌研究社〕
（2006.12.19）
鈴木さんの作品は『響』誌上では得に洒脱・かるみのある作品に注目していたが
禅林の住職であるという。先ずは、そのお立場としては一驚に値する１首。
久久に大外一気に酔ひました配当金は百円なれど
◆◆◆
しかし、歌集の基調はやはり、静謐清楚な僧坊の暮らしから湧き出た歌群といえる。
その境地には、充実の生活感が見て取れる。
直綴とは僧衣のこと。
死に近き父見舞ふ日の虫の声十三回忌もその虫の声
直綴のほつれしところ直せずに新しき年明けゆかむとす
久久に坐禅を組むも肉叢のみしりと音のするに驚く
枝先に三つ四つ開く桜待つ青梅成木の自坊の集ひ
◆◆◆
しかし、禅の境地と軽妙表現の間には違和はない。
もともと短歌の成立前には正に《前言語的》な不立文字の時期があり
然様な無我に近い境地から紡がれる歌も当然にあるのだろうから。
職退きて充電期間と友言ふもわれ放電の日日を過ごせり
鈴木さんは作物のこと詳しいね さうですわたしはトクノウ家です
定年後亭主は粗大ゴミとなり生きてるから粗大生ゴミ
親の脛賞味期限のとうに切れ日日点滴の細き脚見る
◆◆◆
家族への愛情もまさにほのぼのとした風合がある。佳品。
もうすこしましな洋服着て行けよデザインよりは着心地の妻
さほども語彙豊富とは思はぬに「喫緊」などど妻使ひをり
◆◆◆
そして、批評眼。このからも、随所で主である鈴木さんの面目が踊る。
六曜は迷信なりと注つけて大安友引のせゐる手帳よ
週刊誌水着の多きグラビアのページ捲れば仏像の出づ
受付で案内を言ふ巫女さんはコンビニ店かと紛ふ口調で
母逝きて悔やみの電話頂きぬ墓地仏壇にギフトの案内
◆◆◆
鈴木さんは『響』の副編集長、その第１歌集である。
短歌は<調べ>ぢゃなくて<響き>だと教へられしも響く歌はも
花のある卓（加藤満智子）2006.10.30〔短歌新聞社〕
（2006.12.16）
感性を対象にまっすぐに伸ばしていく理知的な作歌態度の所産には、短詩形が本来もつべき現実生活観が確実にある。
わたくしのごとき乱雑漢がなおざりにしている短歌美を純粋にとどめているということなのだろう。
焼茗荷に味噌のせ秋の酒汲むと故旧つどひぬ月わかき夜を
透明な鏡のビルに傷つきし小鳥もあらむ はからざる罠
のびやかに手足の伸びる朝ありて光のごとく春はきてゐぬ
これら、加藤さん独特の触覚が切り取る場面はわたくしには《おもいがけない場面》に見える。
◆◆◆
動物への関心、とくにその生命体固有の特徴・宿命の観察が読み手の心にも残ります。
一貫しているのは《愛》である。
関越道はこびゆかるる牛たちを追ひ抜きゆけば淋しさは来る
帰りきて緑の餌を蜂Aが蜂Bににわたすやさしその前脚
白き歯をみせて土竜の死にゐたり鰯雲いでしゆふべ山路に
魂の在り処のごとく橙色の瞳ひかりて夜の蛾のゐる
抱へきて薬つけやり黒猫のまたも出でゆく木枯しの中
伝書鳩のるるりと甘きこゑを聞くわれをかすめて地に降りしとき
脚太き農耕馬たちの並み立てば走れ走れと声援沸くも
◆◆◆
個人の生への関心、とくにその帰結への関心も強い。
わたくしがその特質を知らない人が多いのだで、逆に加藤さんから紹介を受けるような親しみが湧く。
無頼とふそしり多かり 長谷川利行の歌澄みゐればこころ戦慄く
『海よ、海』男の我執描ききる アイリス・マードリック痴呆に死すといふ
戦ひに敗れ老ひたる詩人の慟哭をきくこの破れ屋に
おつとりと気性やさしき琴ノ若終の土俵に負けたるもよけれ
◆◆◆
本郷の某大学を卒業後、某新聞社へ勤務という遥かなキャリアもある。
心の奥底にはジャーナリストが眼もたたずまう。
無辜の民まきぞへの捨身のテロにあはれアラブの誇り賭けしか
<ネオコン>にかかはる記事に目を凝らす左翼くづれとふ遥けき言葉
◆◆◆
それから、回顧。これには悲しい思いがそれぞれにどうしても付きまとう。
わたくしには絶佳。
お台場へ抜手きりつつ泳ぎゆく少年照らす明治のひかり
蛤をていねいに洗ふ雛の宵やがてひとりの飯を思ひつ
加藤さんは短歌人会所属、その第１歌集である。
しあわせな歌（中村幸一）2006.9.20〔北冬舎〕
（2006.12.11）
批評眼ともども横溢するエスプリの数数が目を引く。
「出日本記」の後の戦略としては、十分に、心ある読み手の要求水準を充たす方向であろう。
◆◆◆
章題の悉くが作品を引っ張る形に見えるという特徴がある。
あるいは、実のところは盛り上がった内実に章題をかぶせられたものもあるかも知れないが、
これほどの内実と章題の緊密性が高いものは類例を見ない。
《意識》=章題、以下同じ
くらやみで互いを抽象し大まかな魅力にすがりてさまよう暗闇①
摘みくれし人の恋しとさまよえり摘まれたる深き闇をかかえて②
期待期待裏切られるためにあり見納めの今日さんざんに見る曲線③
ほんとうに愛こもっているのかどのようにこめたのかぬばたまの愛を④
彼 両刃の剣に刺しぬかれうすれゆく意識ににぎるだろうこぶし⑤
⇒ここでは、『意識』の《本質》たる《愛恋》のさらにその《本質》に肉薄している。
これは、①④に顕著。⑤は彼我の実態的混同に迫る。『曲線』をわたくしは肉体の線と読み切りる。
《尊厳》
「併せ呑まれた清濁 どしりと固まり苦しいともがいていたわ」
保湿液 保存・洗浄液 洗い 保護すれば尊厳あり 人・間
⇒『尊厳』そのものが人間社会では困難であるとの言い切り。
これも前例はない境地、かつ、絶後の見込み大。
《定義》
川の名をなぜ覚えるのかガラガラと丸太流れて声響く川の
定義そう決めればそういうことになる定義が揺れる波の真中に
⇒『定義』なるものは《脆弱》、という『定義』は簡にして明。
《滅びゆく民》
もろもろがすべて崩れて破砕した車軸の馬車が滑りゆく斜面
削岩機でガラガラくずせばよろこびがあふれかえる粉々の前・例
⇒寧ろこのパートは歌意よりもレトリックの見せ場、簡明な図式であるにより、インパクトはさらに大きい。
《しあわせな歌》
「生活者」・「学識経験者」・愚者・「表現者」・評者・「実作者」⑥
だめだ整・合性があり・すぎて駄目・だ駄目だこんな・しあわせな歌⑦
数列のような両首。
⑥に
愚者と評者という裸の両者をネガティブに見るべきかとも読むが、
中村さんが『愚者』を『学識経験者』の下風に置くとは思われず行き泥む。
⑦の『しあわせ』には追尾困難。
《鍵穴》
あれほどに懲りた森の魚探し 水底に鳥を追っていた君
う、うまいと食べる人は美味ければうまいのだから言うに 及 ば ず
⇒この『鍵』の喩は《異神を求めて》というくだりであろう。
《明王》
絶望が蜘蛛の糸にて揺れるとき猫の手 女の頭を叩けり
このままで終わるのではという戦慄の間歇泉が問わぬ昼・夜
中心に 中心に行けぬ人を鉤召し 良き目を見せる明王が燃える⑧
この世での価値観のゆらぎ、不安定性、相対性を総収したおもむきがある。
⑧で最終的な救済が明示されている。
水響（綾部光芳）2006.11.２５〔ながらみ書房〕
（2006.12.9）
昭和9年生れ歌人叢書の１である。
既刊の４歌集『水晶の馬』『希望園』『通奏低音』『響』の抄出に書き下ろしの『水響』が加えられている。
綾部さんとは30年前にお会いして以来、作品に触れているがやはり、
環境へは《静謐》主体的には《探求》が主題のように思われる。
そしてその交点はどうやら『昏い』と表現される世界にゆきつくようである。
てのひらを窪めてつくる沼昏く翔びたつ鳥は水かき乱す『水晶の馬』
にんげんの昏きからだのなかにゐるもうひとりとのどりらを選ぶ『希望園』
発条の解るる音すちちははの寝起きせし部屋の昏き高処に『希望園』
◆◆◆
水晶の馬すら泪流すよと雨もよひの日罌粟畑に聞く『水晶の馬』
火の音は微かに空気震はせてカレンダーの中の海焼きつくす『水晶の馬』
人は水の透明を言ひ器の水は青味失ひ目の前にある『希望園』
通して読むと前期にはやはり感性勝負の作品はどうやら前期に多い。
◆◆◆
涙腺のうるほふまひるさくら花あふれてわれの目の前にあり『希望園』
うすべにのうへうすべにを重ねをり花びら攫ふ風吹かむとす『通奏低音』
桜を前に手放しの共鳴がある、という場面。
◆◆◆
『通奏低音』からはは《自我》を確認し、作品として押し立てる気概が窺える。
忘れ去られてゆくのであればきはやかに凛として立てま冬の一樹『通奏低音』
敗因のひとつひとつを反芻しをり熱きこめかみを押しながらいま『通奏低音』
超高層ビルのエレベーターの中にゐてひとしきり廻りの風のこゑ聞く『通奏低音』
◆◆◆
『響』では触覚的感覚の冴えが目を引いた。
スチュワーデスの指に触れ一瞬たぢろぎぬ放電があり冬の機上に『響』
いちじくの実の歯にさりさりする音の神経にひびきくるこの愉悦感『響』
割られたる一塊の厚み触るる手に押し返す石の力を感ず『響』
最新のパートでは明らかにやはり、やはり《静謐》の中の《自己探求》が彫琢されていると確信できる。
◆◆◆
追はれつつ誠夫歌碑より遠ざかるでも置いてきてしまつた影法師『水響』
つぶやきは誰もゐないのひとことにたちまちわれはおいぼれになる『水響』
ひかりひかり光させよとつぶやけばやふやくまへへとわがかげぼふし『水響』
そして
わが歌はわれ根の国へゆきし後わかる筈なり百年先に『水響』
眼鏡屋は夕暮れのため（佐藤弓生）2006.10.２５〔角川書店〕
（2006.11.24）
古来今、斬新な本はいろいろな二字熟語を伴なって登場したに相違ない。
佐藤さんのこの集を読み通して行き当たった二字熟語が《魅惑》であったことは、別項で述べたとおりである。
この本の歌は読んでいて実に楽しい。吸引力が本然的に備わっているのである。
自分の吐いた息さえ楽しくないものをひと様を楽しませるというにはいくつかの要素が必須であるにちがいない。
木枯しの声にまぎれて公園をよぎる駱駝はおるかいな月
泉とはいかなるところ鹿の目をしているきっといまのわたしは
通過・通過・通過電車･･････が連れてくる春ははるかなみどりの火種
ばたばたと浅瀬の、つまり、序盤のうちから波がまとわりついてくる。
脛もよろこぼうというもの。
このミックスジュースの組成は《at home》《自然体》そして《傍若無人》である。
よって、このドリンクの名称は《free drink》ならぬ《ｄｒｉｎｋ ｏｆ ｆｒｅｅｄｏｍ》である。
◆◆◆
前集から５年を経過しているが、先集にも顕著にあった《独自の価値観》はその質量を確実に増している。
敷石に触れるさくらのはなびらの肉片ほどの熱さか死期は
紺青のスカートの裾たからかに誰のものでもない足がゆく
にっぽんはうつくしい国あらかじめうしなわれたるうつくしい国
翅に翅おりかさなりて死にどころなきまで青し青し紫陽花
その《予感状態》も含めて《欠損》が主題を占める。
美しいものには、欠損が必須なのであろうか。
◆◆◆
動物は本来自由な存在、それを見る目もおのずと自由にふくらむ。
胸おもくまろくかかえて鳥たちははつなつ空の果実となりぬ
うさぎ入りガラスケースに手をかざし生がまだよく混ざっていない
ごんぎつねの「ごん」の由来をいううちにしっぽしおしおねむたくなりぬ
春風に羽ふかれつついる鳩のまるまるとその断面はみゆ
◆◆◆
さあ銀の小鳥とおなり校庭の蛇口こっそり真上にむける
有限の比翼連理のむなしきにわが左手は右手を慕う
わたくしの触角よりも佐藤さんのもの数フィート長いのか不思議な喩がかなりある。
ただ、その懸隔を乗り越えてagreeさせる、力があるのだ。魅惑というゆえん。
風の舌かくまで青く挿しこまれ五月の星は襞をふかくす
いやはての色かな白は 劇薬をくぐれるまひるかがやくカップ
瞼とは貧しい衣 光を、とパイナップルに刃を入れるとき
おお青空は光の針のかぎりなくぼくのひらたい胸にＴＡＴＯＯを
湯に味噌の溶けだすさまを人形はかつてこうして還っていった
投身の速度を知らず 骨ひらく手に骨ひらく雪を享けたり
さらにカッ飛びあるいは舞い上がってほしいいものだ。
奇想はまだまだ増殖するだろう。
あおむけに水から空へほうられていつかわたしは矢をもたぬ弓
水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし
みんな仕返しが大好き極月の戯きらきらこうずけのすけ
（2006.11.12）
荻本さんの第９歌集である。直前に『紅葉界』『感動体』の両集があるが、
本集は2001年から2003年の間の作であり、
その根幹は『素志にたちかえって今を見』ることであるという。
◆◆◆
真直に空に伸ばせし青年の腕にも似たる冬の並木路
病室に夕焼け雲の入りくればひととき明るむ病む者のうえ
鳩の胸ほのぼのけぶる雨あとの樹より濃き香の強きしたたり
一ひらの雨の一粒とどまりて列なり銀の雫光れり
池の面に雨打ち来たり水底に朱色鮮やに鯉の動かず
精確・忠実な表現の勁さはEdgeに猛る《心なき身》にもしたたか《知られ》る。
直叙はやはり力である。一刀流は一刀にはじまり、一刀におわるといわれる。
◆◆◆
春風に飛ばされてきて紙袋鳥の形に手摺に止まる
街角にミラーに映り車らは鳥のごとくに風に消え去る
鳥が何かになり、何かがまた鳥になるという見立ての妙味。
◆◆◆
夜に降りし雪は屋根を覆いいて原初の輝きに身をゆだねおり
重ね消し重ねし年月列島彼方につづく銀河街道
遠い視線には永劫にして鋭いものある。《じねん》の重みとでも呼ぶべきものであろう。
◆◆◆
暗闇にどっしと本の崩れしかそのままにして常のごとしも
鳥は樹にわれは丘の上花終えし桜木誉むる季とこそ告ぐ
深みゆく秋のしるしの草も木も紅葉ずる遅し野にし山にし
カーテンの陰にひたすら編みつぎて重ねる齢誰か告げむもの
《今、ここ、我》の境地ですね。
◆◆◆
木の精の滴りに濡れ従きて来し犬は身ぶるい露振りこぼす
橋脚の姿愛しも背骨のかけはし渡りし獣ありしか
獣になにか霊的なものをわたくも感ずることがある。
後者はやはり「はいこつ」と読んでおきたい。
◆◆◆
雨光る街道の辺に住む日々を童話のように歌いため来し
にぎりめし拳がほどにか意志として貫くものの固まりゆきぬ
歌への思い、歌への強い意志は随所にあきらかである。
角川21世紀歌人シリーズの一著とある。
（2006.11.4）
大津さんの特質はそのイメージ投影の秘術にあり、
かつその秘術はすでに妖術と紙一重である。
既に、Es同人江田浩司さんの思弁的格闘、同じく加藤英彦さんの情動的奮闘を目の当たりにしていたが、
あらたに大津さんの殊闘を加え、この３者の短歌フォーマリティ*の差異を身較べることだけでも世は愉しい。
（*注；様式性などという日本語より広域に使っています。文体まで含めた短歌形式観を指しているつもりです。）
少しバカ正直気味にその工夫に副いたい。
◆不思議な喩
掘られたる眉間に皺の深々とみどりの谷は仰向けの神
喫煙は例へば変ロ長調の時間 からくもこの世に属す
膵臓の形にあけび実りをり秋の分泌の水見ゆるまで
空間・時間・物体を色々に見立てる天分がある。
最後の直喩は一見素直だがこういうときにはそのあとの捻りで調理する。
本質的に《素直とは無縁》のお人のようだ。
◆◆◆
次々と展開される場面操作には知的快感が呼び覚まされる。
楽しくもたのもしい。ここにわたくしは短歌の現代的存在意義を見る。
イメージングの精華或いは型録は概ね以下のごとし。
◆VIVIDなイメージ
ヴァイオリン川面渡りて聞こえ来るおそらく小屋に朱色の奏者
婚約は済みすみやかに背後まで枯野を来たる白き脊髄
警察に深夜突然電話して皮膚濃紺の青年来たる
色彩での攻め。わたくしは深くAgreeする。
◆奇抜な変化
網戸より風はあまたの草色の舌となりてはわが身を拭ふ
花をこそ灼熱の野に慕へども無法となりて咲き乱れをり
風が舌となる、花が無法になる、という大いなる羽化。
◆◆◆
◆奇抜な存在・時にみえざる者
畏るべき才色兼備 片脚を一行の詩に換へ歩み来ぬ
背後よりピアノの音す 振り向けば床に鍵盤のたうち回る
人知れず鏡の中に住む者が鏡割られて温き血散らす
タクシーが降ろせしものは人ならず壁駆け昇る緑色の翳
異形との交信に見えるがその対称はさほど遠いもの存在ではない。
『歩み』来る者も、『のたうち回る』鍵盤もその他のものも
感覚の幕のそのスグ外側にありではないか。
たとえば目を閉じれば見える。
◆独自な自己の客観視
わが顔を遺影に似合ふ角度から鳥や獣がほのぼのと見る
エレベーターに一人になれば手脚ほか人口の身を次々外す
ひらきたる書籍に置おける左手の骨組み既に死後に属せり
正確に身の半分を洗ひ終へ青藻の磯に残る半身
最後にスケッチ風の作品。不思議な描写：
少年院と夕顔、海沿ひに有名少年院あれば殊に綺麗に昼顔ひらく
◆◆◆
《この世ならざるもの》《この世にあり得ない形態》の出没頻繁。
これを見ているのが大津さんの生来の《詩眼》だ。
本集はイメージングのバイブルと言い得る第6歌集である。
薔薇は紺青（五十嵐裕子）2005.4.11〔角川書店〕
（2006.12.1）
昨年刊行である。この集の作品に触れてまず感じたのは、
五十嵐さんが常に作者自身を対人関係・対社会関係に位置づけて詠んでいるという点である。
第１の特色である。
寂しさは嚥まるるもなく鵜のごとく或る日はわれの咽を満たす
我が耳に柳さやりてよみがへる内耳の奥のやさしきことば
人の世の負の荷積みゆくごとくにて駅を出てゆく貨車重々し
皓々と冬の月あり孤独とふ連帯感にこの夜は見上ぐ
繚乱のさくらの幹に寄り添へばわが身を出でて咲けるごとしも
◆◆◆
第２の特色は
そういう視線は当然、対象にも及ぶ。
この中に登場する対象物はそれが《静物》であっても、
生き、喜怒哀楽を抱えているかのように作中に見えているという点である。
これも特質は見落とせない。
ワイングラスにワイン注げば涼やかに個体が抱く夏の透明
陽を受けてボヘミアンカットの花入れが発光体のごとく膨らむ
白き花なだりに群れてどくだみはどくだみとして風に揺れ合ふ
器より今溢れんとする水のかかる危ふき均衡さびし
◆◆◆
出色は、一歩、カメラアイを引いたときの作で、
このときには、特殊なレンズが装着されている。
あるときは、非日常語を用い、自然科学の視野に立つ。これらが立ち上がるときに
現代女性の視野としてのたたずまいがあります。
今消えし虹いくばくの時を置き追伸のやうに再び立てり
夢のなかに遠く過ぎにしひとのゐて一つのｉｆにしばし捉はる
静電気するどく受けて物体としてのおのれを思ふひととき
背信はひそかなるべし一年に三十八ミリ離れゆく月
◆◆◆
五十嵐さんは「運河」「泱」に所属。第１歌集である。
飛ぶ鳥のその空のうへ霊長の矜持のごとく飛行機がとぶ
現代俳句文庫61久保純夫句集（久保純夫）2006.10.7〔ふらんす堂〕
（2006.10.29）
久保さんのこれまで全六句集からの360句自選＋新作40句という集成。
かつ、巻末に『近頃は、読み手それぞれの水準で読めるような書き方を採っています
この方法は、私自身が読者になったとき、とても刺激的なのです』とある。
この表現自体が実は刺激的であった。
悪い癖で何か形に纏めようとしながらゆきつ戻りつした後でこのあとがきに出会ったので。
そうだ。ランダムが自然だという次第。
40年間異端を張り通したと思しい作家一代をシロウトの捕虫網が捉えうるはずもなく。
◆◆◆
木蓮よ「その白い魔女を風葬に」瑠璃薔薇館(第１集、22歳時刊)
ひかる産毛少年海星に釘打ち込む瑠璃薔薇館
先頭の作品は第１句集冒頭、つまり出発点の記念樹である。
この両作はともに自我と抒情の肌理の入り組んだ不織布である。美を操縦しようとする客気が際立つ。
◆◆◆
死にぎわの髪逆立つは薔薇の午前水渉記(第2集、29歳時刊)
判らない句に立ち止まって、丹念にそれを吟味する作業はいつの場合もなかなかに尊い。
もとより、短詩形には、書き手と読み手のコラボという要素があるので当然とも言えるが。
但し、実際に、愚読によりひしゃげた短歌は実に数多く見聞している。
注意しつつ、さて本作品。
『薔薇の午前』は『午前の薔薇』を同値であろう。
俳句の手法なのか久保さんの手法なのか、いずれにせよ俳句定型の短歌定型に勝る緊密さの所産と読んだ。
盛りを過ぎた薔薇の老残に的を絞った意図は筆致にみなぎる腕力から、わたくしにも十分な刺激をもたらしている。
◆◆◆
夕焼の耳噛めば耳かたくなり聖樹（第３集、35歳時刊）
夕焼けの耳を噛んだら、耳が反応したのだという。
《呼応》というよりは《拒絶》だろうな。
その前段階は作者と夕焼けの対峙であろうから、余人はいない。
つまり、この作について、リバースエンジニアリングを試みれば
この句の《前言語状態》は、①社会からの淡い拒絶、と②自己の何らかの意味での夕刻的状況、の両者だっにちがいない。
その２つの光線を離れた２点から照射したところ、その交点たる脳裏に《夕焼》が浮かんだのである。
青春の晩期、青春の夢の残骸への愛咬の結果の、ややに寂しい歯ごたえ、とわたくしは読み、
コラボレーションを終えたい。
◆◆◆
鶏頭のうちなる色を問われけり同
外剛内柔しからずば外剛内剛とやら。
外の赤いリンゴの中は白いが、同じく外の赤いほおずきの中は赤い。
鶏頭の内部は恐らくは実体的には赤いのだろうが。
構造自体が『問われ』たことを問うているという不思議複雑構造。
無論、日常語訳は「あなたは何者？」
◆◆◆
さて一転、最新句集『光悦』は完成体にて《以心伝心・不立解説》の香気が立ち込める。
蓮の花すべてを入れた感じかな光悦（第6集、57歳刊）
蓮の花先っぽだけでいいという同
数珠玉やひとつ廻ればみなまわり同
筍の放っておけば唸り出し同
ゆきずりのよもつひらさかものの尻同
おおむね、本然に起居、このうち４句目は孤絶に絶えかねる態を醸している。
なお、最初の句の『かな』は《かな？》と採っても行ける味である。
◆◆◆
肉体を水の途中と想いけり光悦以降書き下ろし
種茄子凄んでいるをふところに同
「光悦」と同様波長での増幅バージョン、
以心伝心を言葉にするは悲しくも野暮ったいが、
前者には《色即是空《、後者にはに《男魂》を思い重ねる次第。風味絶佳、滋養秀抜。
◆◆◆
久保さんは句誌《光芒》発行人。現代俳句協会会員。
クレパスの線（小島熱子）2006.4.28〔ながらみ書房〕
（2006.10.23）
世には状態を表わす熟語がある。
丹念にそれを吟味する作業があっても不思議はない。
この集に目立つかつ、二字熟語の多様はとりもなおさず想念の取り込みである。
それは有意義な作業である。
なぜか。それは熟語に人の実感や温かみを添える作業だからである。
何を配置するか吾亦紅点々と抜きんでてわれの空白を衝く
ショーウィンドーのマネキンの瞳つぶらにて何見てゐんか忘我にとほく
モザイクの緑と金の絵の蔵ふ背理のほてり受け止めかねつ
婉曲にもの言ふことの拙くてゆふべとろとろ生麩煮てゐる
春暁に睡魔ぬくぬくふくらめばいつかうつつの軋轢おぼろ
◆◆◆
また、この研究者は、しばしば、熟語の対比的吟味を試みる。
その際の視線はわめて精確である。
献身と献体の差異おもひをり挽歌のひかり痩せゐる部屋に
はりねずみが互みに針の空間を保つは叡智あるいは孤独
鋪道に落ちしぎんなん濃くにほふ過剰あるいは欠落の香や
◆◆◆
その一方で、ときどきは、情緒の波に自らをゆだねる。
ベースの思弁傾向が多感な日常の感懐と化合して結晶を残すのだというように言えよう。
やはらかき猫柳のその手触りの拒みがたきを慕情といはん
混沌を解く数式のありやなしゆうべの寒気脚のぼり来る
一椀を埋めてさくらのはなびらや春宵一会忘れがたしも
ゆるゆるとペペロンチーノ掬ひつつ鋭きかなしみを嚥下してゐる
◆◆◆
しかし、小島さんは単なる文字の徒ではない。
本領は本質を突き詰める心眼である。
これを自身の上に結集させるときの執心にはもの凄いものがある。
ガラスのごと失望の風過ぐるとき素通しとなるわれの骨格
太古よりの習性ならん勾玉の形にねむるかかるやすけさ
矩形の空（酒井佑子）2006.9.15〔砂子屋書房〕
（2006.9.25）
抱き合ふばかり矩形の空と寝てひきあけ深き青潭に落つ
集名となった病床吟。この作品を中核として
胸を狭められる作品が多いがここに引く気はない。
病棟の大薬缶のお茶がおいしいと日日思ふ静かなる近代短歌
◆◆◆
酒井さんの死生観とも恐らく通底するのだが、
人間以外の生物への切れることのない愛情が
かれらの健気さを掬い上げる。
町川に鯉粗大にて美しからず切切と細き水に逆らふ
ペリカンのももいろののどすらすらと目の前に来てお話がと言ふ
然ばかり昔名ありし馬の年長けてしとしとと白き睫毛をたたく
「猛犬」とありて「注意」の文字消えたり猛犬はなほ生きてありや
猫道を往きにける猫測り知れぬ渠が事情に由りて帰らず
く と啼き手の中に猫はつぶれけり一瞬に濃くなりたるこころ
非人類生物は《生》を純粋に掲げ持って暮らしているのだろう。
それにしても酒井さんの人間への視線は時に厳しい。
哺乳類の最醜のもの二足歩行して美しき奇蹄獣曳きゆく
◆◆◆
ひとことで言えば《質量に富む》作品が多い。
全編を通じて隙のない歌が連なるのは鏤骨の所産であろう。
対象を凝視し、たなごころに取り上げるような工程。
酒井さんの歌にはわたくしが遺棄してきた短歌本来の
精製工程が厳然とある。脅威！
単軌条空に滅びて動くものなし安らかに昼の半月
精進といふ古き語を思ひ出でて胸痛し東京の喜劇の中に
キャベツ繊く繊く切れたりとのもにはフェーン現象の象が来てゐる
すきまノズルもて全平面を吸引し吸はれ忘らるる不可知物多し
◆◆◆
一方、酒井さんは歌を《知性を遊ばせる場》と心得ているようにも取れる。
その工程は上述のものとほぼ一致している。
ヒト、我に帰結する主題も味わい深い。
むかし長くわが飼ひたりし鬱の熊剛き灰色の毛をもてりけり
輾転の転にあたりて秒あまり安らぎぬ夜といふもの長し
仰つ反つ苦しみをれば青空にあてやかに反る人体は見ゆ
人死にて春は曙生き残るわれのひと息ひと息長し
この脆くしぶときものを人体と呼べりはた人の志はや
午後二時の風呂場に顔を洗いをりまこと洗ひにくき凹凸物顔を
「短歌人会」でのキャリアは５年余り。その結集の第１歌集である。
（2006.9.19）
文庫様式の歌集の魁であろう。「冬雷短歌会文庫001」とある。
この歌集の特質を一語で表現するならば《毅然》だ。
かつこれは、作品から察する限りの大山さんの《人生態度》と一致する。
歌人、歌壇に体質といふものあらばその体質よ吾を拒否せよ
益荒男の吾なれば言ふ積りなし言はれて甘んずる積りなし
生きをればなさねばならずこの俺を憎むなら憎め笑ふなら嘲へ
《不羈》を嘯くわたくしでも「よう言わん」。氏は正に益荒男である。
但し、《独行精神に》に《共感》するということは、する者にもされる者にも自己撞着という皮肉が付き纏うが。
◆◆◆
この視線は、社会批評眼とも通底する。
もとより、その批評は少少手荒い。
直下型震度７を再現してテレビは映すああ「ありきたり」
太腹の底の底より出す声といふならず政治家の大合唱は
ショショショ彰晃、証拠をあげよサッチャンはサリンといふんだ本当はね
◆◆◆
かつ、ときに、そこはかとない無頼・粗放系。
無作法を心に留めず湯に溶けば抹茶かをりたち顔温かし
呑んだのね臭いと言はる「ゑひもせすあさきゆめみし」一夜明くれば
何でも喰つてやるぞと真向かへばぐらぐら騒ぐわがはらわたも
◆◆◆
しかし、この集の背骨はなんと言っても、《経年との対峙》である。
かつ態様はさまざまにしてその捌かれ方も勝手次第。
そのあたりがわたくしにはよく腑には落ちる。
歯の衰へが即死亡へとつながらぬ人間にて死に方の難し
人生は川ではないが急流をすぎて平らなすあたりが見ゆる
重大なる齢と思ひし五十歳近づき、迫り、一先ず越しぬ
骨折のミスタートウジン引退せずなほ加療とぞなほ走るべし
◆◆◆
短歌は叙情の器。《益荒男も少女さびすも》とやら。
吾を見る遺影の眼に対ひゐて眼球熱くなるにさからはず
よいにほひするわと鼻をすり寄するさういふ事を男はやらぬ
よく怒りしわが若き日を知る人のいくらもをらず今「冬雷」に
◆◆◆
整然とした中に無頼の匂いがあるのが大山敏夫というお人だ。
大山さんは『冬雷』の編集責任者、その第5歌集である。
なお、同名のハードカバー本（短歌新聞社版）もある。
昼のふくろうふ（千葉さく子）2006.9.9〔短歌新聞社〕
（2006.9.17）
独り居の老いなれば朝寝つつしまむ生くるしるしの窓開け放つ
自らを《老い》と表わすここともあるが、その《老い》は几帳面な《老い》である。
それは、歌の生活では永いキャリアであり、堅実な作品を山と築いている。
花奥にいまだ残れる力もて白きぼうたん一気に散りぬ
悠揚と坂東太郎流れつつ天に呼応の光を返す
殿塚に登る非礼を許されよ眼下のさくらは此の世の桜
きんきんと脳に吹きて吹きすぐる風に思ひ出たぐらむとする
風格がある。《薙刀の形》というのはこういうものではないかしら。
◆◆◆
しかしそれは、ときに《ノリ》をくわえ込む。
調子よく言葉が継ぎ送りされ繰り出されるときの妙味は楽しい。
大鴉・子鴉はては中鴉出でて舞ひ舞ふ春近き野に
影もなく寄りきて音なくすりぬけし男・長身・春の風めく
運搬の方法論をそれぞれにつばめ・ペリカン・カンガルー・くろねこ
そしてそれは、時に《ほのぼの調》。
腕と腕からめて歩む坂道にあなた揺らげば私も揺らぐ
見つからぬつもりの蟇と見ぬふりの我とがしんと昼の庭隅
◆◆◆
穿ちたる穴より出でて蝉の見る焦熱地獄の夏景色かな
両の耳すませば軽き音たててあかね蜻蛉はホバリングする
小動物も《独り居》の朋輩、観察のノートも膨らんでいる。
多様な作品の溢れる花園と言おう。
千葉さんは「たんか・央」のメンバー・第一歌手である。
CD-ROM版 多久麻６歌集2006.6.20〔ながらみ書房〕
（2006.9.15）
スサノオの泣き虫（加藤英彦）2006.9.9〔ながらみ書房〕
（2006.9.13）
歌集名と同じ章題を持つ一連は次の一首で始まる。
殺戮は男の神のわざたわやすく薙ぎたおしゆく剣をもてり①
これは真っ正直だが、加藤さんは本歌集では正に《闘の人》、
わたくしが、先月、自らにかぶせた《闘器》と言っても良い。
つまり、《情動的闘争》がにおう。
怒濤のごとく膨らむ首都の夜をゆがめ奴らが戻ってくるぞ 伏せろ①
たぶんぼくも銃をにぎるだろう美しき理念や抽象の言葉を脱いで①
たぶんわれにも生えていむ暴力の芽ほどの牡性のしっぽが①
殺したき男ぐらぐら煮てゆけば口あけて貝のごとき舌見ゆ①
咽喉もとを真一文字にかっ切れば声もなくどうと仆れてゆくか①
この《闘》にはご覧のごとく、防あり攻あり、態様豊富にて危険なまでに具体的である。
熱血熾烈、純情無垢、21世紀の男伊達は斯くもあるか、という勢いがある。
◆◆◆
はやわれも異臭を放つひとりゆえ逐われゆく枝、靡かざる草②
疾駆することなく過ぎし四十年 列島は未明の雨にうるおう②
刺される理由はたぶんわたしにもあったのだろうさ深夜の内耳が熱い②
血のにじむまで潰したき胸底にわれ鈍重な鉛のごとし②
前項とはうらはらに、努めて自己を《限局視》するという特徴もある。
単なる《経年》や《自己矮小化》ではなく、
本源的に人間存在の《限局性》を捉えているところに注目した。
卑屈さや諦観と無縁の所でむしろ、あっさりと清清しく見える特徴がある。
◆◆◆
翼竜はこどもの化身 風熄みし森にひそむと朝に告げくる③
耳は静かな管楽器 陽を浴びて草生のひかりの中をうごかず③
夕食をいただきて箸を揃えたるその眸が花のように笑うよ③
あの声がききたし切に 総身に花ふるごとく川面はひかり③
加藤さんの根っ子の根っ子、おそらく中心部には《浪漫のかおり》がある。
恐らくこれを乗り越えることが加藤さんの《歌仕事》の出発点であったのであろう。
◆◆◆
闘争には《浪漫のかおり》と共に《強さの希求》が必要である。
滾る力 水の厚さを捌きつつ海に抜き手をきってもどらず（畏友Sのために）④
とりもどすものあらばこそ遡り腕に捌く水のかたさを④
八月の朝のめざめ青年に生えそむる茎のごとき幻肢が④
つまり、③と④が相俟って①を構成する。そしてその出発点こそ②であるのだ。
◆◆◆
過日の江田さんのものが、思弁的格闘であるならば
加藤さんのものは情動的奮闘にて好一対。
アポロン型、ディオニュソス型という区分も思い出される。
今後のそれぞれのイクサぶりが楽しみである。
ともにホームグラウンドは「Es」
（2006.9.10）
あとがきにも亡き尊父への憧憬がしきりに立ちこめている。
幅広の高足駄にて飛びゆくは父にさも似る天狗のようで
右顧左眄せぬ美しさ潔さ強さ持ちたる父にてありし
◆◆◆
「敬意を通して父と触れ合う」という体験が多かったようだ。
それかあらぬか、全体に《男性性》、《男性文脈》が見え隠れ歌集である。
そう見えませんか？
考えて考え抜いてしたことに詰め寄る冬の大夕焼けは
棒杙にあれよと言う間に実が生りて無花果という千年続く
島産みの波か浸食なす波か分かたね小島をくねりて巡る
◆◆◆
感情を直視する自己分析にも大人の風情がある。
芯の通った剄さが頼もしくも見える。
そう見えませんか？
五分の魂さわげど八分諾いぬ 軽薄浅墓生意気小癪
天邪鬼も座敷童も居なくなりぽつんと座敷がらんとわたし
漆黒のピアノの傍を通るときこの憤り鳴り出すようで
心頭に発せしのちの爽やかさ怒りというも透きとおるなり
◆◆◆
集中に遍在する機知も捨て難い。
この腕で何でも出来る気のする日えのころ草のような眉して
早春の水を開きてくくくくと水馬駆けゆく水平線へ
母と娘とうウロボロスの蛇、尾を咬みて天地無用の籠の中なる
◆◆◆
長澤さんは恐らくは《格調》の信奉者である。
生命に関わるような状況でのなされた凝集度の高い表現にわたくしはそれを感じる。
手術とう無影灯下の祭経て生まれ直せよ神の申し子
切れ味の戻りたる刃に指の腹ぞくりと熱し身体の芯が
長澤さんは『氷原』の発行人、その第四歌集である。
（2006.9.6）
江田さんはもともと短歌という固定分野に囚われないお人のようだが、
歌集を編んでも、どうやら、アタリキの歌を忌避する姿勢が強い。
先ずは、請うご高覧。
表象に濡るる雨見ゆ わが思惟をいま白象が渡りゆきたり
抵抗は翳に始まり存在の瑕疵の裂け目に他者なる眼
薫習の眠りの中でわたくしの見るということ すわ、見ないこと
喉の奥に落ちゆく汗は耀よえり 「私」は夕焼けの羽ばたきを聞く
おびただしいものらが告げる滅びなり 神の彎曲部分の氷雨
沈黙は緑の弔歌 あたたかかき雨は言葉の原理を立てり
読み手がコラボの心持ちをもって擦り寄るときにだけ真価が表われよう。
つまり、その時には《露出された知性》が誇らしげに紙表でうねり
《金の鱗で体表を覆い尽くした龍》が見えてくる。
◆◆◆
類稀な言語探求努力のさまが、そのまま詩となったような真摯さが目立つ。
狭い弊スポットでは再現しきれないが、
極端な破調やら、分かち書きやら、（弊機では一部追尾不能のＵＦＯにも見えたが）対話形式のものやら、
句との二重唱やらの試行が盛りもまれている。
句との協演は絶好でちょうど、十弦ギターの上下の四弦が共振する効果を想起させられる。
私が雨に近づく 雨が私に濡れて 眠れない
白昼に
柩の擦れる音もれる
私まみれの雨に目覚める
恋をする 柩に滲む水の痕
曖昧な意見にまみれ生きてます 愛するものを指折り忘れ
◆◆◆
ときおり見える奇妙ないし物凄え叙情にもはっとさせられた。
これらは伝統的な写生手法とは三線・四線を画している。
なかぞらにインクの染みがひろがりて風あおあおと魚群すぎたり
いっせいに囀る皮膚が残照の響きの中に燃え堕ちるなり
常世から伸びくる腕に摑まれて桜よ風を笑え風に笑え
◆◆◆
大人の歌も見過ごせない。これにも快哉。
抜くこともうごかすこともできぬまま石榴のような死を引き上げる
胸浅き谷間に触れて腐りゆく脳の一片に啼くホトトギス
◆◆◆
究極は《歌を通じての思弁》なのだ。今の短歌の課題であり、わたくしにも大いに関心がある。
いつまでも部分なのです 頬笑んで頭をなくした虹の辺に
自尊心増強剤兼防腐剤常用患者隔離推奨
かたつむり肉あふれつつ 五月雨の微笑のごとくわれは穴なり
たった一つのリアルをつくす営みが金輪際をゆきて帰らぬ
歌集は２巻目だが、「長編詩歌気品集」「現代短歌物語」などある模様。
「Ｅｓ」「未来」がホームグラウンド。
セラピロード（山口和子）2006.9.1〔希の会〕
（2006.9.1）
あとがきには「写生短歌の基礎を十全に」学んだ時期があるとある。
剣道なら、素振りで《手の内》を拵えたわけだ。刃筋が通り良く斬れる。
しかし、わたくしには、先ず、《大らかな喩》が楽しい。
みづみづと雨を吸ひたる桜木をホルンになして蜩は鳴く
寒すばる指呼するごとき手袋が踏まれて白き指を折りたり
風小僧はしゃぎすぎだね暁に雲のシュプール残していった
朧月右脳左脳をやすませて藁人形のやうに眠らむ
◆◆◆
つまり、このお人は、その手で、基本という格子窓を両手でぎしぎしぎしぎし揺すっているようだ。
プロフィールらしきものは何も書かれていないが、永田典子さんは《臨床検査技師》と紹介する。
だからでもあるまいが《注視の産物》はいきいきしている。
金目鯛の透く眼に陰影あらざらむ魚屋鱗を板に散らして
螟蛉は眠りに入らむか葉の陰の細枝にしなふ萌黄一身
夕街に電光ニュース流れつつ唖唖唖唖唖唖唖カラス飛び去る
凸レンズに拡大したる鬱の文字憂ひにみちたみだり顔せる
◆◆◆
普通にはピリオドを打たない作品が、精密な仕上げが多い作品の中に巧みに埋め込まれていて効果的である。
大手を振って大またに罷り通る歌の数々。
朝を歩くぐんぐん歩く赤星をゆくへにあふぎそびらにかつぎ
切れ凧はするする結界をこえゆくか吾は河原に影をひきずる
人間のクリスマスなり電飾を重いの熱いの言はぬ樅の木
◆◆◆
ぴりりきりりとした表現も爽快。
木蓮の花芽の光るきさらぎに男子生れたり唇を結びて
壁を打つはいづへの部屋か槌の音われの前頭前野を小突く
カフカの椅子（早崎ふき子）2006.7.25〔角川書店〕
（2006.8.25）
あとがきに
『私がこうして一首一首の短歌を自己のオリジナルなものと思って創作したとしても（略）』とある。
思っている人は多かろうけれどもこう書くお人はそう多くなかろう。
ここに、早崎さんの一面が見える。
◆◆◆
そういう見方で整理してみる。
そうすると先ず、少し定寸を外した発想が見える。
月よりも疲れて眠るさつき窓見定めがたき命がさむい
このわれに水掻きなきを神ならぬ軽鴨がいうさざ波がいう
どくだみを根こそぎ抜くを夕闇がまつわりてきてくうくう笑う
◆◆◆
ついで、絶対多数の支持が得にくいような不適切と紙一重の《喩》が見える。
あやめ月脱ぎ捨てられしシャツのごとさみしい顔だ源氏のように
然ありてしかなかりしを着ぶくれて雀のような闇抱え来し
◆◆◆
かつ、心の動きが隠すことなく、躍り上がるままに呈示されることも見えてくる。
寒波きてあわれ展きし言語野に忘れしわれがころがり出で来
残り蚊がきてまつわればしばしばも怒りの糧とならん むら雲
きっかいな蒟蒻芽立ち雨に濡れ忘れねばこそ怒り紫褐色
◆◆◆
しかし、揺れやむときの心を見据える視線はかなり強固でもある。
ゆく雲を借景として立つ塔よ 立つしかないと言葉はいうが
カーテンの間から月の光伸びわが胸を折れ茅花よなびけ
あざやかな断念といえ蒼天に剪られて立つは秋の街路樹
青空がふわりと顔を覆いきてもうこれ以上のものは要らない
◆◆◆
かく、早崎さんにはよい意味での《ムリ》《ムダ》《ムラ》があることが判る。
ムリとは強引さ、ムダとは過剰さ、ムラとは恣意性。
いずれも愛すべきポイントではある。
豊かさは貧しさに似る犬族は衣服着せられひわひわ行くも《ムリ》
秋ぞらはすとんと落とす枯一葉あるいはわれの縺れしこころ《ムダ》
ことばなる激湛を生き〈幻を視む〉とぞ現るるあけぼのの沖《ムラ》
角川短歌叢書の一環である。
（2006.8.22）
山桜みな散り果てて瓜類の種まく準備進みゆくなり
落穂喰むひつじの肩に黍の風さやかにわたり葉月なかばに
啄木の歌ここにあり歩まむと小樽の坂をのぼりくだりつ
終戦と共に東京から北海道に帰農、少女時代から住み着いた土地への愛着も強く、
北海道の風物をよろしく閉じ込めている。
◆◆◆
米研ぎをいつか素手にて研ぎゐたり彼岸過ぐればぬるみたる水
冴えわたる月の光に照らされてさくらは雨後の冷気に黙す
さきがけて紫陽花の花の持ちきたる友の傘にも小糠雨降る
わが日日に思ひつくこと記さんに花咲きみちて心あかるむ
幼時から短歌に親しんできたとあるが、その後の
主な、作歌の場はＮＨＫ生涯学習短歌講座であり着実に詠い続けている。
◆◆◆
晩秋にＲｅｄを強く放ちゐる玄関先のゼラニウムなり
うた止めんと静から動へと移るときふと湧き出づる短歌不可思議
ちゅうりっぷ結んで開いてまた閉じて時空の中に息づきている
歌ぶりそのベースをストレートに置いているが、 時に変化球にも味を見せる。
◆◆◆
さきがけて紫陽花の花の持ちきたる友の傘にも小糠雨降る
二番茶の萌え出づるころ入間野の遠く彼方に山鳩の鳴く
青野さんは1978年以降は
そしてこれは第１歌集。
環状線のモンスター（加藤治郎）2006.7.25〔角川書店〕
（2006.8.13）
加藤さんは意気軒高に、霊峰にして難嶺の踏破を目指すゆえ、その作物は秀抜にして絶奇ということに相なろうか。
すくなくとも、呈示される作品の幾つかは万人との交流を度外視している。
されば、これとのコラボにおいてわたくしは凡庸な読み手にとどまるのか？
◆◆◆
６双のバルブから噴射される12種の混合気のなす爆発は爽にして快、或いは蒼にして怪。
社会観察眼は当代出色である。
空爆にかなしくゆがむ天地のああ産道に挟まれた頬
春潮に兵士の骨をひるがえし翻し洗う神のゆび見ゆ
電気ショックにに跳ねるからだのあわれなり滅茶苦茶にはねろうつしみなれば
戦地にも医の現場にも末期の情景はある。
◆◆◆
社会やその暴戻とひとしく性愛もまた生命と隣接している。
ふたり人工臓器のようの繫がって頬が破れるまで愛したい
掻き分けてもかきわけても密雲のあなたの耳はここにはあらず
怖ろしき別人格を思わしめ性器の顔が俺を見つめる
この場でも作者の魂は削り削られしている。
◆◆◆
食もまた生命との交点として加藤さんは捉える。
いきものの薄い肋が吊されて硝子のかなた花のようです
レトルトの肉片とろり流れ出しあばわからかわすべてほんもの
かながきぶぶんでは敢えて美しい文字を放擲する。
詩集から弾けたルビが卓上に燦々としてへきるりひつぎ
◆◆◆
活動の陰に孤絶の顔もある。
剃刀はかそかに瞼を通りたりひとときわれは牛酪に似て
マエウシロマエマエマエと私語をする俺の頭は独房である
あんたも俺もリストに載ってる真っ青な凶悪言語操作者として
◆◆◆
広汎に知情意を展開するなかには真ん中高めの好球も多い。
たまにはのびのび打たせて頂こう。
春風に詩集の頁かさかさと天使の焦げた翼がひらく
アカンサスの花のほそほそと連なりて迷うな指のさきまで真夏
こすってもこすってもすぐ曇る窓 大楡が来てぞんぞん歩む
なつやすみきみのあたまに紙ひこうきがつんとあたってなつやあすうみ
著者第6歌集、2003年から2005年にかけての305首所収。43歳から45歳の作とあとがきにある。
角川短歌叢書の一環である。
楽園（藤原龍一郎）2006.7.25〔角川書店〕
（2006.7.28）
藤原さんには《標語の発信人》のようなところがある。おそらく、こういうときには、
そういう視線を世の中に泳がせているに違いない。
日は海に沈み類型的なれど割れたコーラの壜の残念
結核性微熱もジャズも踊り子も左翼くずれも与太者も花
ビル風に吹き倒されて遠からずコーポレートの犬は死すべし
少年は老いやすけれどフジヤマは消えやすけれどニッポン！チャ！チャ！チャ！
◆◆◆
それにしても、テンポの速さは相当、まちがいなく、当代第一級である。
速度は知能に比例するという説にうなずこう。
暗室に稲妻はしる妄想を韻文として成立させよ！
次の火を否めば次の花も枯れこのモノクロの視野こそ明日
◆◆◆
あとがきにある自己総括では《饒舌》とあるが、その饒舌の実態は、
わたくしの目には《絢爛繰り継ぎの手妻》であり、集中の生命線となっている。
曇天の湾岸地区に吉兆のニセユリカモメ死屍の累々
詩語探る脳細胞に軋みつつ迫る両刃の振子・快楽
詠うことこそ不遜にて不毛にて望潮その畸形の至福
◆◆◆
饒舌の下の《地声》にいよいよ酩酊くらりーのである。
客である常連であるせつなさを交換価値として肉体は
月と日と流れる迅さ文才とよばれるほどの才のうつろに
詩歌など無縁に生きる傲慢も倨傲もしりてあの信天翁
地下道の澱む空気を呼吸してフリークとなる明日こそ大悲
短歌人編集委員である藤原さんのこれが第8歌集、
2002年から2005年までの作品を収める。角川短歌叢書の一環である。
（2006.7.16）
佐波さんは、いうならば、複合的な、つまり極めて繊細な感受性の漲ったお人である。
次の作品は傘の不備、待つ時の間の微妙な感覚、蜻蛉という生命体と、それぞれの本質に対する
真摯な凝視は表面を通過してさらに核心を追うようだ。
骨一本とびだす傘を人差せばそこはかとなきやさしさがある
ひっそりとはげしく待てば時の尾を捉えるように人あゆみくる
透明な蜻蛉の体に流れいるくれないは池に零れんばかり
◆◆◆
時空に目を向けるとき、その目によって時空が手妻にかけられたかに見える。
時空というシテに対して配されるワキの妙であろう。
もう何も望まぬごとき地球にて桜の上を白雲流る
ああこんなにもタンポポが咲きだしたマンモスの声空き地に降れば
世の中に色彩というものありたるを籠れば無色の春のおわりか
◆◆◆
半円の沖の反照野島崎生物として茎立つわれは
スカーフを首に巻きつけ待ちている桜のことば降りくるまでを
酌み交わす羽觴のつばさ飛ばさんと春のうたげに友とわかれる
自己描写は理性の枠内にきちんとおさまる。ここにあるおとなの風情に《自信ある落ち着き》をわたくしは読みたくなる。
◆◆◆
芒原わけ入れば光の渦のなか水音ばかりが方向をもつ
月はいつも馬鹿だからでていると人の言いたり雨の降るまえ
ふりむけば軸をずらして立つ人の右半分が影になりたり
佐波さんは「かりん」の編集委員でこれが第4歌集、近作9年間の集成である。
もの静かな佐波さんから投ぜられる《理智の投網》に
五色七色の魚がからめとられるさまは、何ともよい眺めである
石川恭子歌集第二集（石川恭子）2006.7.20〔沖積舎〕
（2006.7.9）
「素馨」代表の石川恭子さんの歌集は都合19集ある。
このうち単行の歌集が17集、これに加えて前半７集を集めた（今呼べば)第１集、次いで、
以降の作品を集めた第２集がある。
という次第でその後者が本著。また、このほかに詩集や、嘗てわたくしも読んだ評論集「詩人リルケ」がある。
かつ、本集は既刊歌集「繊月」「木犀の秋」「蝉坂」「朝鶯」「花鳥記」「黒天球」「つゆくさ」「大地晩餐」「蘇鉄の花」「森の梢」
以上10集15年の集成にて4870首を収める。
このように著作膨大でありわたくしも精読の緒にまだ居る。ここでの抄出対象は「木犀の秋」まで。
◆◆◆
額より蒼き翳ひろがりきたりおもむろに死は占めぬ一躯を
はてしなく広がる砂漠目の下に心音あらぬ胸よこたはる
〈全または無〉心筋の法則に随ひて無としづもりぬ一生のはてに
春山を落つる瀑布のところどころことに真白き水塊まじる
医師という職業を脇においても、
《硬質》《繊細》《豪放》という俄かにはまとまらない感想がわたくしの中で浮遊去来する。
◆◆◆
月といふ蹤きて離れぬ夭折の児現はれぬまた夜々に育ちて
人は均質の生と統べられ空のはてよみがへりなほよみがへる月
何に統べられゐる鳩かいま一群に梢の空を廻りてゆけり
ここにゐし鳩のむれ一瞬翔び立ちてしんかんとして空間のこる
かつ、視点をロングに引いて通観すると、それぞれの集には意図的に主題が形成され、
それの達成のためにコアになる群作が配備されていることが見てとれる。
そしてその標準装備された群作により繰り返される「車懸かり」にも擬せられる執拗な攻勢によって
折々の主題に肉薄しているかに見える。
◆◆◆
わたくしは、その志向する方向を著者の傍らで共に見極めたい衝動に駆られている。
今後ひきつづき「石川恭子十番譜」で各集とねんごろになる所存である。
短歌は読み手と書き手のコラボレーションであるというのが持論だが、そうなると、全ての佳作は凡庸な読み手との
出会いで車輪の下に死を迎えるということになる。これからの作業が果たしてそうならないことを望みたい。
（2006.7.1）
歌を年齢と関係づけてはなるまいけれど、女性をめぐる筆法には軽みつつも艶なるものがある。
咽喉の又むこうにも昏きのみど見せ君の奥処をひらくソプラノ
磐梯はおみなの山ぞ岩肌の胸押っぴろげ人を容るるも
今ひとつ秋を深めん吾妻嶺に立つ虹愛しき帯解きなされ
◆◆◆
しかし基調音は東北の地への愛着とその地が発し続ける、色であり、動きであり、音である。
年に何度も来て愛ずるなり磐梯の余剰削がれしその簡潔を
ダム災にかかわる職の深きよりマグマ抱き込みきたる我ぞや
たちまちに森も沸き立て郭公の尻尾のタクト振らば初夏
耳当つれば樹を攀ずる水 渓流の青きが天へ還らんとして
◆◆◆
「潮音」入社が昭和22年という。60年になんなんとする。歌歴自体が還暦となる。
又ひとつ仮面を脱ぐか洗面に脱ぎゆく涯ての死に顔おもう
向日葵の首垂れたるをバネとして一気に天へ駆くる我はや
サルビアの道が続くに何処までもたぐりてゆけば馬熱からん
姥貝の口あけやるを古里の海を呼ぼうよ 春を呼ぼうよ
跡継ぎも看取りする子も無き我は大見得切りて幕引かれんか
◆◆◆
ストレートな言辞を並べてしまうが、この歌集では「老にして壮」は揺るがない。
大正生まれの「潮音」「白夜」選者の第九歌集である。
あとがきによれば、波汐さんは「口語定型短歌詩」を通じた「詩魂の濃密化」を心がけている。
不機嫌な羊歯（渡辺恵子）2006.6.2〔短歌研究社〕
（2006.6.11）
重苦しい集題にも取れるが、「深い屈折感に苛まれ」る日常の中での作品集であるとあとがきは言う。
また、その中で「表現することを怖れなくなった」とも書いている。果たして？
◆◆◆
指に嵌め馴染みし指輪いびつなり馴染むといふは歪むことなり
棕櫚の葉は風の僕かへらへらと頭を下げて揉み手までする
巻きつきしヤブカラシの誤算 巻きつかれしトクサの不運 ともにゆれつつ
一列に不機嫌な表情揃へ立つ羊歯の隊列庭の片隅
湯に放つ素麺よよとをみなごの崩るるさまにみゆる束の間
独特の語の《起用》が目につく。人界の複雑な歪みを身近な事実の中に発見・再構成する。
その有り様を知情意、その情の中でも得に哀楽に絡めた観点から植物などに引っ掛けた作品は相当に逞しい。
険しいアイロニーを浄化している。
◆◆◆
ひざまづくスカートの裾踏みてゆく人、犬、自転車、乳母車、戦車
肝心のひとこと風に攫はれて否定の筈が肯定となる
川中に一筋遡る流れあり止むに止まれぬ思ひのごとく
自己を見つめる作では、諸般のもどかしさ、環境に揉まれる自己や、逆にそれとしっかりと対峙する自己が表出されている。
◆◆◆
きしきしと夜の坂のぼる自転車の黄のペダルの星となるまで
意のままにならぬ前髪つむじゆゑと知れどもわれにつむじは見えず
柱、本、鍵、頤、声、角稜のとがりにぶりぬ古りたるわが家
無論、基礎・土台としては多くの《直球》がある。
これもなかなかキレのある境地である。
◆◆◆
日月の運営編集委員であり、「怠惰で不遜」と自己紹介する（かなり理解できる！）
渡辺恵子さんの最近７年間の作品を納める得心の第２歌集である。
夜音の遠音（山吹明日香）2006.5.30〔北冬舎〕
（2006.6.6）
作者から発せられる視線はやさしい。《慈愛の眼》と言ってもよい。
傷口をふさぐすべなく立つ者を少女と呼ばむ血はすきとほる
体温が言語であれば触れあへる指がすべてを伝ふるものを
少年Aが見つかるまでは雨が降る雨は人よりやさしといふか
この視線は幅広く向けられており、この集のひとつの底流となっている。
◆◆◆
まだ誰の妻でもないと風の日は風蒐めたる博物館へ
星々も白く乾くかわれのみが蛇を恐れしかの村の上
体内で孵化する月の銀色の温もりに一夜身をゆだねゆく
その分だけ、却って自分自身が表現されるときには、かなり控え目な関心の発露という形をとっている。好ましくも奥ゆかしい。
◆◆◆
手のひらに溢るる水の音を聞けカスタネットの内なる大河
白鷺も夢をみるらむ川音に人となるゆめ魚飛ぶゆめ
三叉路にブレーキの跡残りをり踏みても風となれぬ自転車
死は常にまばゆき素数 漆黒にもつとも近き白もて覆ふ
鳥獣・無生物・観念に仮託して述べるとき、作者の発想の自在性はしばしば舞台をゆるがせる力を見せつける。
本集の最高にして最大の特徴は、独自の府会による《新味の開発》である。
ここでのカスタネット/大河、白鷺/夢、自転車/風、死/素数という語の《起用》はすぐれて創造的である。
奇想のアラベスク模様のような流麗な結晶である。
◆◆◆
個の眠り群れの眠りととけあひて泡立ちながら樹を満たすなり
神々のこぼせる塩の粗塩の桜花を浴びてかの世へわたる
《持ち前への自恃》であろうか。これらの思い切りの良い表現は心によくよく沁みこむ。
◆◆◆
本集は1996年から2004年までの7年間の作品384首を収めた第二歌集である。
《夜音の遠音》は作品にも出てくるが、家持の長歌の中に見出した語である、と山吹さんは記している。
インタビュー現代短歌-うた・ひと往来（及川隆彦）2006.6.2〔春風社〕
（2006.6.1）
いうならば、《現代短歌一式》はたまた《野菜ジュースこれ１本！》という著作。基本的に「歌人論」を苦手とし、「歌人像」というものをほとんど持たないわたくしにとっては、好個の手ほどき書である。記述が全て当事者直々の発言に拠っているので、評論でお馴染み(？)の、筆者による誤解、独断、付会とは全く無縁の、いわば《有機歌人論》である。よって、すこぶる健康によろしい。
《徹子の部屋》に入るとみんなステキに見えるというが、この《編集長インタビュー》は、アウェイながら同様に登場者を際立たせている。《短歌往来》18年の連載対象は151氏、本編掲載はそのうちの62氏という。そのうちわたくしが言葉を交わした方は22氏であるが、それぞれの深掘りが利いていて何とも目新しい。無論、未接触の歌人の息吹はさらに新鮮。内容的には各歌人の《核心》または《確信》が多いので、特に著作権に意を払いながら、そのエキスを数滴献上しよう。
○村木道彦氏
「自分にとって短歌とは」と考えると、水増ししたくないですね。私はいつでも習作なんです。完全主義に徹しますと満足する作品が一つもない。(略)只ごとは数も出来るし、おもしろいけれど、私はもっと短歌を大事にしたい。五〇の短歌のイメージができたら、そのうち二、三首でしょう。それをしぼってなおかつ習作の意識をもたないと大変なことになると思います。
○石田比呂志氏
人間は簡と素があって素というのは人間の持って生まれた元々の本能ですけど、素を押さえて表現者になろうというのは、無理だと思うんです。人間だからやっぱりありのままに生きたい。飲みたいときには飲む、（略）。そうするとその中から得るものがあるんです。
○御供平佶氏〔「五発の実弾入りし銃提げてみなぎるものをあやふしとせり」 について〕
鉄道公安というのは常時持ってるわけじゃないけど拳銃の携帯を許されてましたから。（略）二十何年間ずっと訓練か何かで射撃はしてたんですけど、（略）仕事で警戒のために撃つってことはなかったんす。でも銃を持つってことはただの緊張感とまた違うものがあって、だから「みなぎるもの」っていう感じは自分自身明解じゃないんですけど何か感じる。そういうときにあぶないんだなって。(略)自分の内心のことなんですけど。
○前 登志夫氏
僕は本質的には意識的なタイプなんだけども、しかし詠む状態になると全開というか無防備なところがある。賢しら過ぎることへの警戒も自分の中にあるから無心になる。その時不用意に出たものも、ええいと、破れかぶれのものも案外あるんですね。
○小倉三郎氏
（マグロは）回遊させてるんです。三年なら三年、四年なら四年、五年なら五年ものということでやっていますが、結局食べると駄目だ。つまり人生と同じでもって、波瀾万丈してきたヤツじゃなきゃ本物でないんです。
わたくしは、ここのくだりを読んだとき、小倉三郎さんの歌集が猛然と読みたくなった。書架から『魚河岸のアナキスト（1989.11.10、潮汐社刊、現代語短歌文庫Ⅰ）』を探し出した次第。果たせるかなそのバネは尋常じゃあなかった。
罰当たりは生きている 罰当たりは死んだ 梅が闇の中に散るように(岡本潤永眠す)
すっとこどっこいといわれれば ぼくねんじんめと 反語がいきなり
銀行を出るとまず空を見上げる 庶民は平和だなと、生意気な
（2006.5.25）
この著者はケレンを好まない。であるから、その分だけ歌の見通し・見晴らしが良く、
その結果として、逆に表現の思い切りの良さが、鮮やかな技として際立ってくる。
痩身の骨格をみせそびえ立つ冬のポプラに終日の雨
ざんぶりと青菜洗へばあすゆかむ一枚の空たちあがりたり①
ポストより新聞をとるつかの間のかぜに聞こゆる軌条の響き
この中のたとえば、①の「旅行前日のときめきを」《一枚の空が立ち上が》る、というのはあざやかなハイキックのようである。
◆◆◆
兎耳ぴんと立ちたる草のなかうみなりのやうな風聞とどく
美しく切り結びつつ生きたかりしを内へ内へとむかふ切っ先
裏切りは常なれどこのあまき罠におちてみようぞ蛍ながるる②
感情はひるがへりまたひるがへり風に波立つ湖をみてゐる
心理詠には陰影ぶかいがものがあるが、何故か人界のいやらしさとは隔絶されている。
②の《あまき罠におちてみようぞ》などというのはいわば《関節技》であるといえる。ここでも見渡している世界はふところが広い。
◆◆◆
くちなしの葉よりもあをくかがやける青虫ふとる八月まひる
黒蜜の花林糖のやまたべつくす小鬼いっぴきねころびながら③
喉元ののどぶえのやうな階段を人につづきてわれものぼりぬ
ステージはひかりの岬 ただよひて魚眼レンズとなりたるわたし
「青虫」「小鬼」「解散」「わたし」と、事象事象の襞の中で主役を抜擢する技も得意のようだ。
ここで起用登される小主人公はすべて役どころが明瞭であり、かつ、いずれも好ましい。
③の《小鬼》は子供とは採らず、山の中の花林糖の一片と読みたい。とすればこの技は《足払い》であろう。
◆◆◆
著者は音大で声楽を専攻したとある。つまり、相当に長い期間、
自分の耳で、一列に並べられた言語をその順に音声で確認し続けていたということなのである。一列に並べられた語を受け入れるようことを繰りかえす体験はあまり日常的ではなく、極めて貴重である。
そういう修練は語句の起用にも影響を落としているかに見える。
読むにつれ、順列を求めて、繰り返し繰り素材に働きかけ続ける工程が浮かび上がってくる。日本刀の刀工に所作のようである。
それでだろうか。ならず者の頁主にはどことなく気の引ける気品めいた風のある歌集となっている。
研ぎ澄まされた五感を誠実に伝える清冽純乎、歪のない楽曲集である。
そして白亜（多久麻）2006.5.5〔短歌新聞社〕
（2006.5.20）
多久麻氏は空前の音声短歌作家である。かつ、今のところ絶後の。本集は同名の「そして白亜」の集合版といえる。
原著の「そして白亜」はPARTⅠ～Ⅲに分かれ、
それぞれが、カセットテープによる朗読、CDによる声読、同じくCDの合成音声という経過を辿っている。
無論、音声歌集にもスクリプトは付いていたが、見るのが悪いようで、極力音声のみに従った記憶もある。さてそれぞれから。
PARTⅠ
生くる臭いに染みし手に掴む臭木の花のいたく臭うを
抜打を浴びしがごとく妻は病み夫は討ち果されしごと萎ゆ
水道橋をスイドバシとアナウンスされてお茶の水まで乗り越しぬ
耳鳴ると思いいる時「ああ虫が鳴き出したわ」と汝が声とどく
PARTⅡ
たしなむるには少し過ぎたる悪態にあらざりけるやあるいは傷つけにきや
空をゆく白亜の雲の一粒の餌となりに彼の飛行機は去る
二の腕を組みて佇ちたるしみじみとこの身世に旧る花の明るさ
ざる一枚食いたるのみの補いに鶏卵一つ尻砕き呑む
PARTⅢ
咬合器を交合器と誤植せしだにも赤面をしてひたすら恥じき
前輪に跨がりハンドルねじり上ぐ自転車を整体す
鉄の格子を手にし蔓草が這い上がりおり暗渠の上に
深海魚溺死のごとく胃袋を吐けるを市に重ね置きにす
この章題には《匂う臭い》とある。音声での聞き分けを強引に問うているわけである。
PARTⅠには「朗読的に」特徴のある作も収められている。１番目には「匂う臭い」という意欲的な章題があり、
続く２首は朗読むきの作りである。
PARTⅡ、Ⅲには海千山千の作品が犇く。
引かなかったが成人向けの赴き（殿堂、短歌mirage参照）をも併せ持つ豪著である。
◆◆◆
総じて骨太磊落、形態のみならず、素材、心胆にも破調がある。今回は字面をも
舐めるように味わうべきであろう。
北久保まりこ原詩Ameria Fieｌden英訳歌集
（On This Same Star；‘WILL’からのｾﾚｸｼｮﾝ)2006.4.18〔角川書店〕
先に刊行された「ウィル；WILL」の歌集。構成は左頁に英訳、右頁に原詩が掲載されている。
「訳」にはさまざまの工夫が見える
I no longer trust
him---
too easily
he puts on a smile,
tells me
what’s
going happen
信頼を封じ込めたり目をほそめ後から言ふは簡単だから
短歌表現の機微を棚卸しするような訳でである。この訳により彼の「属性」が際立つところとなった。
まえがきにある《文字の背後にあるものまで押さえる》ということなのであろう。
bearing clouds aloft
the wind blew past
into autum---
no-one gives me
a backward glance
雲たかくはこびて過ぎし時の風 われもワタシをふりかへらない
この風は《autum》と補われねばならなかった。
だが、一方、原詩で作者が表記の上で敢えて突き放した《ワタシ》は訳の中では埋没している。
やむを得ないところか。たとえばisolated me などと頁主は考えたくなるが。
when I spread may map
a breeze blowing
among its creases
stirs the dust
of
ひろげれば地図の裂け目にふく風に土埃たつZanzibar Island
これはザンジバルアイランドの処理に興味を持ったので引いた。
他国語ながら、訳詩の音のひびきはわたくしの好みによくよくｆｉｔする。
mind resting easy
in the black kite’s loop
this afternoon
at the sea for the
first time
since my bereavement
鳶の輪にやすらいでゆく昼下がり母を亡くしてはじめての海
ここではやはり、《母》が抑えられ、《black》が補われる。
音韻ゆえの調節であり、ここに目をとめるとアメリアさんの詩的配慮がクロースアップされている。
言葉の排列もほぼ原詩どおりで、集中では本来はこういう作りが多数を占めている。
the listlessness
of an endless
summer---
I leave unmopped
water from the night
letting it sparkle
there
をはらない夏のけだるさ夜の水は拭はぬままに光らせておく
この《夜の水》の訳出は至難。
わたくしは《夜にこぼしてしまった水が作者の心をなぜか満たすので拭わない》と読むが、
このあたりは、書き手と読み手の暗黙のコラボレーションであり、
短歌的体質にない英語圏の読み手との間にはコラボは残念ながら成立はしない。
かくして《from the night》も無理のない表現ということになる。
（2006.4.20）
小野雅子エッセイ集（小野茂樹片片)2006.5.4〔ながらみ書房〕
今年は1970年に34歳で亡くなった小野茂樹氏の37回忌に当たる。
夫人小野雅子氏が22章のエッセイに、主として小野氏の作品を１首添えながら思い出を綴る。
実は、わたくしも、23歳以降のごく短期間を「地中海」とそのサテライト結社にいたので近親間もひとしお。
非常に温かい血の通った視線は当然としても、鑑賞やら背景の叙述は、おのずから余人の及ばざるところに至っている。
たとえば、以下のフレーズは至近からずうっと見つめていて、その後もずうっと考えてきた魂ならではの所産であるとわたくしは思う。
１．
とほきわが羊のこころひたひたと霧のもなかを帰りはじめぬ『黄金記憶』
-略- 香川進先生は『羊雲離散』の「おわりに」の中でこう書かれている。
<ひとびとは、ムードといい、またムード派という。だが、はたしてそのようなものであろうか。
骨を削るものがムード派的なものの背後、といいたいが、実は背後以前のもののなかに
ふわーっと盤居していたとしたら、ひとびとはどう思うであろう。>
このムードという言葉に救われる。
ムードでなら何とか小野茂樹の歌が分かるような気がしている。《羊のこころ》から
２．
目を充たす暗さを愛しくすみたるセピアのとびら胸寄せて押す『羊雲離散』
-略- その感覚が小野茂樹には快いものなのだ。
建物の概観、ドア、内装、床、木のテーブルと椅子、運ばれてくるコーヒー。
そこはセピアの世界である。茂樹はスーツや家で着る和服は紺系統だったが
好きな色といえばセピアだったと思う。家具はセピアで揃えたがったし、ある年の私の誕生日に
買ってくれた太目の手編み風のカーディガンはセピアである。《セピアのとびら》から
高瀬一誌全歌集（高瀬一誌）2005.12.7〔短歌人会〕
ぼたん雪降る地の下に花どもは春の用意にいそがしくあり（初期歌篇）
女を白亜に塗りこめている男ならんしゃがむように立つように狂気あり（初期歌篇）
ネクタイに模様などいらぬに今日もダンダラ模様ぶら下げている（喝采）
ポスターつくらんと色つけてゆくときの無頼あらそえぬ（喝采）
烏賊の体を洗いゆくときエロスはとなりまで来る（レセプション）
どうもどうもしばらくしばらくといううちに死んでしまいぬ（レセプション）
足音が遠くなりたりこの世のことは右へ置いても暮らせる（スミレ幼稚園）
かえりみれば五十年前から手を嗅いできたことは素直ではない（スミレ幼稚園）
水を全部つかってしまいしホースは音を懸命に出す（火ダルマ）
梅干は人をえらぶと書きたりわが広告コピーいずこに行きしや（火ダルマ）
全歌集と銘打ってあるが膨大な作品を有する著者ゆえ、既刊歌集分以外については整理が効いた編集となっている。
わたくし自身も独自の文体に久しく触れていたつもりであったが生々しく歌業をトレースできた。
歌集の口紐を緩めると中に入っていた生き物が四方八方放射状に走り出す観がある。
野良日和（武藤ナカ）2006.2.2〔桃谷舎〕
「元気か」と声かけられて「元気だ」と手に持つ鎌を振って応える
雑草の杉菜は強い 鍬深く入れて掘らねば退治できない
叶谷の朝の里に鶯がぶっきらぼうに鳴き始めたり
山鳩が婆ぁ昼食だよボォーボォーと樟の木の枝に繰り返し鳴く
くちばしに何を咥えて足速に歩くカラスのカア公の奴
わが田には主がいまして今年また畦にとぐろを巻く赤棟蛇
変わりゆく時代の中にゆったりと振り子のように揺れている吾
農一色。農の日々を捉えた写真(武藤雅晴氏撮影)とともどもに正に農の原風景を提示している。
登場する生き物にも知が通い、ただならぬ迫力が見える。《絵に描いたような》短歌である。
月のようなもの（まえだたみこ）2006.2.20〔ながらみ書房〕
のったりと春の眠気がやってくる 忘れたいこと貯ったらしい
あれもこれも捨てれば空に開くでしょうアリスの耳はうす紅の盾
風の中ひくりひっくん耳とがるさまようままに千の欲望
若みどりつんつん伸びよ転生の重き力をあつめて五月
春の野みたいにポヨポヨ電話が鳴っている スリッパつっかけそこなって 切れた
真白なるパラソル低くなお低く企み匂う半身へ影
ひたりひたりどこかで風が生まれます 海の匂いをはさむテーブル
ふんわりした、それでいて、硬質で透明度の高い作品が並ぶ。
ことさらに奇を求める風はないが、提示され作品はそれぞれに清潔・簡潔なクリスタルカットを帯びている。
猫の舌 Langue de chat（西村美佐子）2005.12.14〔砂子屋書房〕
そそぎゐる水はコップにあたらしく水的存在となりてゆかむ
触れるたびぴくりと動く風があり 空間といふずんどうの柱
指先の華奢なるに黒くオイル染みたるはまつすぐにわが官能を刺す
蛇行してゆく？ もしかしたら背景が捩れるのかも知れない、夏の水は。
感官のかゆきところにとどくまで言葉の指にさぐりてゆかむ
耳の中にもうひとつ耳があるのだらう日暮れ 萩の群れ大揺れ
眼の奥に鋏あらはれ花の首切り落としたり はりがねのこゑ
ことばを詩としてリリースする手際は尋常ではない。ことばに作品ごとの使命を与えて
未踏の境地に見知らぬ歌として吹き付ける手並みに瞠目した。ここに「感官詩才の火柱」を見る。
風に向く（武田素晴）2005.12.20〔ながらみ書房〕
混沌をかかえ悶える森 かくも地上に繁ることの営為は
「人間」は死語となっても森の血は赤むらさきに流れ続ける
噴水の落下を受ける器にて池の水面の美しき乱
陽も揺らぐ真青なる空 熟したる果実も落ちるために朽ちゆく
男たる影を装いきたれども流れる万華鏡のきらめき
即断を迫られてためらうときの眼には斜面のいさぎよい峰
どのあたりが腹かわからぬ愛らしき一升瓶の首持ち上げる
一首一首彫が深く、正に、《彫琢》というコトバを実感させる一巻である。
どの作も必ずといってよいほど余韻が後を引く。この歌人は正に「考えさせる人」である。
月と自転車（栗原寛）2005.12.7〔本阿弥書店〕
粘膜の増殖しゐて交はしたる言葉の骸つつみゆくなり
一滴の闘争心を希釈すれば本能を呼びさます朝焼け
かつて吸ひこみし音色をかき鳴らして雪どけ響くわが脳裏にも
透明な硝子のやうに冬が降る瞳にも髪にもその黒さにも
湖にうつれる月をつりあげて君に贈らん今夜のうちに
神のをらぬ季節のはざま われらふたり 昼は白白 滞りゐる
白糸のからまりてゆくわが黒き心のなかの頑なな弦
若さは凄さ、自然に若い、その臆面のなさが好ましい。
ぐいぐいと迫ってくる若い感性の自在さが一冊の中でうねりを形成している。「硝子の２０代」
彷徨（水井千恵子）2005.12.8〔ながらみ書房〕
ひまわりの種大量に入荷しました リスさまウソのみなさま
さぽさぽと残り少なき白樺の葉を打つ雨の柔らかき夜
この年に見し海の数 大西洋・北海・東シナ海・太平洋・さがみ湾
吾が為に体調整うる人ありて愛されていると思うひととき
吾が死ねば死ぬしかないという君に死にたいなどと口には出せぬ
言うべきを黙して君と別れ来し夜の更け胸に満ち満てる思い
雷のドンバリバリと轟きて大粒の雨降りはじむ夕
ストレートな歌い口ながら、大きな振幅で揺れている。この揺れがこの作家の持ち味であり、
歌集にふくらみを持たせている。「武蔵野の熱気珠」の遊覧と呼ぼう。
東京遊泳（野口恵子）2005.12.19〔ながらみ書房〕
天界にあふれる音符おちてきてそらに満ちゆく球体の雨
希望とはこんなものかと大空にホースの水で緩い弧えがく
太陽を捕まえようか青空にオレンジ色の浮き輪を投げる
どう猛な夏の到来おし倒し中性になる梅雨時の空
こつこつと太陽光にゆすられて膨らんでいく西瓜の果肉
てっぺんに昇り酸素を補給するパレットタウンの大観覧車
仰向けに倒れし吾を受けとめて桜の花がみゅうみゅうと泣く
持ち前のおおらかさ、明るさはこの作家の「花」であると受け止めた。
若いだけの作家は珍しくもないが、明らかに一線が引ける。得がたい資質、この人は「大空の私有者」である。
弱弯の月（久山倫代）2005.12.1〔本阿弥書店〕
弱弯の針ほどはかなき弦月に夜道を君と引かれてゆきぬ
わが思慕に似るミズクラゲかろうじて溶けぬ濃度の体ゆらめかす
青色のアジサイの鉢届けられ婚に至らぬ恋が始まる
新緑のさやぐ季節を待ちながら刀傷とう言葉に惚れる
ファスナーを上げれば人魚 夏の夜を呼び出だされて逢いにゆくなり
濃く逢いし証はひとつその人の皮脂にさびしく眼鏡曇るも
婚姻の制度以前の恋からの危うき生還遂げし春の夜
全編をさしつらぬくのは、医師としての良識ある生活の中での
真摯な恋愛から導かれる《清愁》である。作家自体が「純愛のおだまき」になっている。
蒼き水の匂ひ（北神照美）2005.12.1〔本阿弥書店〕
胸深く石灰質の針あるを風に凍れる百合と思はむ
夢七月、ここは死角になるからとくるり抱かれて彦星つかむ
みずまるくなほ盛り上がり震へをり 張力破られ崩るるまぎは
また同じ間違ひをせしわが眼こころが先に間違へたれば
ほんたうはかたちなきもののんでゐる酒を飲むとき暗き目をして
水鳥の水掻き蛙のみづかきうつくしかれと月光が降る
言葉砕く諍ひあればいさかひが撥条とならむに 綿菓子なめる
前集の「情感」の世界から一転。作品に「知」が封じ込められている。
視野が広角であり素材もゆたかである。名づけて主知のスターマイン。
プーさんの鼻（俵万智）2005.11.3〔文藝春秋〕
ぽんと腹をたたけばムニュと蹴りかえす なーに思っているんだか、夏
我が腕に溺れるようにもがきおり寝かすとは子を沈めることか
うしろから抱きしめられて眠る夜 君は翼か荷物か知らぬ
きぬさやのこいのさやあてにんじんはたけのここいしいしいたけきらい
通り雨のような口づけ もっとちゃんと恋をしてからすればよかった
「はる」という敬語使えぬ国に来てわが日本語のしましま模様
「これもいい思い出になる」という男それは未来の私が決める
自在な発想である逆に、定義の達者という側面も際立つ。
しなやか軽妙にしてその実きわめて骨太。真紅の独立峰である。
十三月の空（吉田千枝子）2005.11.3〔ながらみ書房〕
目の前が急に開けて浮き上がる雲の写真集買って帰ろう
空半分濃き肉色に染め上げてごう然といく夕日あっぱれ
一念にピューﾏとなりて駆けにしを月光背負いひた走りしを
逆上がりに泣いた遠い日いま恋の逆上がりして大空を吸う
絶え間なく循環器の音する傍らに誰かの悲鳴聞いた気がする
ふり向くも見えない影を待ち続け師走の街にむ、む、む蓑虫
たのしんで悪意に遊べばよかったね春のガラスに雨が流れる
フットワークのよさの中に捕捉性の高い知性がある。
清潔感な印象も含めて、総の国の白鷺と呼びたい。
リオの海鳴り（高橋禮子)2005.10.29〔本阿弥書店〕
咲くことを知らぬがゆえにゆるるんと茎を伸ばすや踊る葉牡丹
上京もさし控えたしJRの警備がちらちら目につくもんで
ほっとけばよかったものを片付けて肝心のときにゆくえの知れず
奥久慈の闇にドーンと浮き出せる花火に夏山どんと応える
鎧うものすべて放棄すよく晴れたリラの頂きばんと仰ぎて
電線が雲の動きを知らせます地上の人らよ見のがすなかれ
マイナスをプラスに変える瞬間であるやもしれず転ぶというは
ときおり頁を飾る独特のさばさばした語り口はなかなかのもの。
自在な日々から掬い取られる風景は多彩である。水戸ロマンエクスプレスと呼ぶ次第。
渡河（釜田初音)2005.9.20〔北冬舎〕
はじめからうらがえりたるポケットと思えばさとしわたしの双耳
とっておきの雲にしあらん高空に打ち出し模様の銀の大杯
七色のあぶらのごとく月は差し後生殖期果てしもあらず
われもまた人界羽族雨戸鎖す音におどろき翔びたつける鳥よ
北風の何に生れたる秋の日のへちまはへちまの垂線を引く
おおいなる遠心を恋うているらしも鯖雲は白き体もゆるらに
河ならめそも海ならめとことわの水の臨海 膠色なる
時に沈着、時に奇異、そしてときどき華麗。変幻自在といったところ。
日ごろの知的好奇心に支えられ続けた《暗黙知》のたまものであろう。知的作業の職人芸である。
八瀬の里（丸山愛子)2005.10.23〔短歌研究社〕
あの山が武甲ですねと念をおし再び仰ぐ輝く武甲
多国語の賑わいの中スマートな猫何匹ものびのびと寝る
「好きでした」娘四人が紅させば母よみがえりたり あ あ かなしも
時により堪忍袋も緒が切れる重き言葉は乾燥機に入れ
ジベタリアンあっちこっちで見かけます若者この頃どうなってんの
審判のカウントアウトにいらだちて今のはセーフだ辛いぞ審判
青きバラ見んと地図もち小走りに人が群がり白きバラ見る
丹念、冷静な作歌態度が一貫している。日常のスケッチの中にストレートな感情が交錯する。
その転換点がみどころ。称して入間のカーブドミラー。
街路（丸山三枝子)2005.10.5〔ながらみ書房〕
ゆっくりと首を回せば首がなるわたしの中のいびつな何か
まっすぐに立っていた向日葵がだんだんやけくそになってくる
いきいきと悪口雑言吐くははのこころゆきまで悪人殖やす
東京駅遺失物係員に執着心が詰め寄っている
首すじから腰までまっすぐ軸が通っているような背中だ
くさむらに蹲りいる黒猫の背中がどうせそうさと言えり
この中のひとつぐらいは言葉など喋らないかと鯉を見ており
あとがきにも「自然体の歌」とあるが、ところどころで自由な発想が
《ぴかり》と光る。少しアブナ気なアヤが楽しい。さては「我孫子樹陰のほの光」。
桃太郎の歌（海津耿)2005.9.15〔短歌新聞社〕
みずからの一つの顔にもどりつつ口に紅ひくさるとりいばら
ねむれねむれ女よねむれゆたかなる水平線のようなお尻よ
昨夜の夜の嵐の雨の花渚立志の思いはるかなるかな
つやめくや壮年のわが恋力寒鰤の頭おし切りにけり
和魂も荒魂もいとすこけやし甚平ふわりはおりたりけり
ごきかぶり玄関走りいでにけり満月を負いもどり来にけり
おそろしき小響の波ここすぎて骨壷しゅぽぽかえる日あらん
あとがきにも「時代の」「無垢」と「純粋」とあるが、正に、純純常常の境地。
VIVIDな女性観察歌もあるがこれも純の証。「蒼穹の白昼白鳥座」と呼ぶゆえん。
樹皮（小塩卓哉)2003.4.10〔本阿弥書店〕
本来は猛獣なれど笹を噛む牙の疼きも鎮まるものか
＃♭が多いと憂鬱な練習の合間にほおばる苺大福
腹の下に入って仰ぎ見るごとし冬の終わりの大きな雲は
忍月と呼びて二月を耐えゆかん二日少なき逃げ月なれば
青空が苦手だなんて言えなくて海の向こうのような顔する
凹凸を言えば凹なる気持ちです焦点合わぬ毎日なのです
壮年の我に流るる電流をそっと放ちぬ地下鉄の闇に
「自分の目」と「自分の精神」を信頼し、統御しているようだ。
｢独特の着想｣と「述懐｣のコンチェルトは広角打法につながる。おお、「奇想の一角獣」
蓑虫家族（前田えみ子)2005.9.10〔雁書館〕
よりきたる猫の胸毛を梳きやればかなしもよ母音を短くもらし
たまたま吾の踏みしかばほこり茸しらすしびれの胞子をとばす
雨風にころがる骨の折れし傘あれはたしかに苦しんでいる
お犬さまへ愛想笑いをしつづけてほとほと顔面筋肉疲る
雨にマケ風ニモマケテ野ざらしの冬瓜落魄のうたうたうなり
脚ほそき老いぼれ男と見ていしがドシラソファミレ階かけ下る
白猫のムー太郎こそ愛しけれ顔うら返すほどの欠伸の
自在な屈託のなさが身上だが、よく見ると人界の機微が投影されている。
自称「無印良品」だが、頁主には「下総の回遊魚」に見える。
鈴木英子歌集＝実質は「油月」（鈴木英子)2005.8.10〔邑書林〕
わが子ゆえ殺めたのだろう ひとの子に厚きにくしみかけられはしない
見せかけのような青空しょいながら兎も亀もじっとり歩む
子とふたり時もてあそぶかたわらを連なり顔の母たちがゆく
誰にでも抱かれるおまえの大きさがしんと羨しい 花火が上がる
いらっしゃいわたしの海へ ずぶ濡れのあなたもあなたもここでは軽い
わかっています私はわかっているのですちらちら見ずに見据えてください
油月 月よそんなに無防備にさそうなさらすなさゆらく性を
視点のずれずらしが作品を際立たせる。小さな屈折が大きく作品に投影される。
奇でいて正のような、硬質のようで軟質のような、この作歌の胸中には「鴇色のプリズム」がある。
木強（萩岡良博)2005.8.10〔北冬舎〕
樹のひとつに数へられてゐむ血がしたたるやうな夕映えをみつめゐたれば
激湍に破れかぶれの急をつぐこゑをあげをり岩をかむみづ
風神は嚇りれゐるか鉄塔も恋もぐにやりとへし曲げにけり
過剰なる思ひ湧く日なり褐色の実をつけし杉、風に鳴りゐて
やはな観念棄つるに如かず素心もて歌の曠野をまどひゆくべし
地に生くきる木強なれどなればこそ空に伝えへめ地の脈動を
「われ」などはなんぼのもんじや蹌踉と酔ひてただよふ夜霧となりて
「木強」とは言いも言ったり、新陰流さながら、斜の構えから繰り出される
打突は虚虚実実、作者の体感を伝えてくる。息づく雄心を籠手で受けて見た。
モビールの魚（大湯邦代)2005.3.25〔角川書店〕
心底を知らず訣れき楡の樹を振り向きざまに疼む胸骨
しろがねの寒満月より水溢る溺れえざれば氷の単刀を
白木蓮を犯す鵯むしゃむしゃむしゃむにゃむにゃ 先は惣闇
泥濘を銀泥となす薄月夜 針千本を呑まねばならぬ
風冴ゆる白木蓮の葉ばさりばさばさりばさばさ われ婆沙羅髪
耳底につね風が吹く愛語 冷語迷語戦がぬむるき風吹く
声高に制されること容れ難しじくじく降る雨なほ容れ難し
のびのびとした歌い口は時にやんちゃでさえある。独自の感覚で集めた語句、
その繋がりには「頁主」の共感を呼ぶものが多い。或る種、魔笛のようだ。
ウィル‘WILL’（北久保まりこ)2005.3.25〔角川書店〕
星を観にゆくのも良いな誰だつて傷つくために生まれてはこぬ
「自意識」は全部イの音ひつぱつてひつぱつてゆく急な登りを
わが爪はちひさき悲鳴をあげしのちわれからはなれ自由になりぬ
母の手はあたたかなりき時の尾をたぐり寄せつつ眠りにおちむ
憎しみを溜めて開きし唇のごとしも はりりと白百合の咲く
生死などほんの少しの誤差かとも ほつそりと長き神のゆびさき
言ひ分けは聞きたくはなし怒りまでいたらぬやうに枝毛をさがす
自意識・認識・内省の人。自己に問い、かつ、応える。
自我を支えつつ繰り出す作品は多様である。成程な、と、頁主でさえ、首肯させられる。共感！
山本りつ子（槿花窈耀）2005.3.20〔短歌研究社〕
長歌《山姥》
晩春の 逢魔が刻は 山姥の 往き交う頃か 桜花 散り敷く夕べ そこかしこ
まがまがしくも 手賀沼の 暗き淵より 現れて 茨のかんむり 掲げつつ
宿世の嘆き 言うわれに 重々しくも 厳かに 鎮かに立ちて 謡うなり
今しばらくは これの世に ありてつとめよ 人として 手負いの大地 荒れ果てて
手賀の真水の 枯れんとも 水無月の露 あかつきに 山姥ありて みどりなす
草生に坐しき 沙羅のはな 落つる朝を 清らなる ま乙女なして 化身せん
此岸彼岸を 跳び渡り 鬼になりても 山姥の 衆生済度 祈りつつ
菩薩の慈悲も 祈らんと 宇宙の摂理 謡いつつ 山また山を 駆けめぐり
手賀沼淵に 透けて消えたり 手賀沼淵に 透けて消えたり
長歌をところどころに忍ばせている歌集。
長歌の呼吸、字句の流れは短歌作品にも会い通じている。流麗！
村松直子（野原のひびき)2005.2.5〔不識書院〕
薬ゆび発芽のような高まりをもてり時計の針にさされて
湖にて星を眺めている魚の寂しい視力を我ももつなり
いま見えるつきの光の激しさを言っても嘘だと思われるだろう
死に際の子猫を野原に置きにゆく苺つぶつぶ花散っている
空までの非常口なり巴旦杏の木の裏側をすり抜けゆけり
なあんにもしてこなかったただ赤い兎みたいな目をしただけで
魚酔亭主人は呼び名を「すう」といい酒八合を適量とする
のびのびとした抒情が不思議な余韻を残す。その余韻は軽くない。
明滅する自己主張を陸奥の白蛍と呼ぶことにする。明滅！
松木秀（５メートルほどのはてしなさ)2005.3.5〔Book Park〕
悲しいと思えばすぐに悲しめるさあこの機会をお見逃しなく
ひとすじの飛行機雲のあかるさは世界を絞める真綿のように
相聞歌まずは相手を探さなきゃ空気よ空気おまえが好きだ
あなた誰ですか私は誰だろうそしてすっとんきょうにたそがれ
入口も出口も壁につけるもの壁が消えれば両方消える
｢ねつ造｣と｢捏造｣表記の問題についてあれこれほざけ（１０点）
永遠と気安く言うな永遠は永遠にはじまりもせぬもの
発想は無碍・自在、大振りにして広角打法、頁主を飽きさせない。
が、もっと・さらに傍若無人に進化できないものかとさえ期待したくなる。Bonus武人！
寺島博子（未生)2005.6.1〔角川書店〕
マニキュアを落とす晩春の夜の更けに内なる蕊が剥落をする
わたくしの胸乳のかたちかうなのと囁きがほに睡蓮がひらく
草木は悲しみを秘めしかと立ち人間が触れればわけまへをくれる
乳癌と告げらればうと眺めたる陽はみんなみに聳やかなりき
地球といふわがままなる子を授かりて銀河系は胎を捩らむ
水底より見れば古りたる歳月もあざやかに産毛はやして飛べり
鏡には見なれぬ左の耳がありそこから太古の海原が見ゆ
常に作品の中央に自分がある。そこからそれぞれの歌に自在な機知を発信する。
ほんとうの意味での自己中心、なかなかできる到達境地ではない。自信の所産か？自己中！
今井千草（黒砂糖)2005.4.6〔ながらみ書房〕
アメリカのハローキティは日本のそれより少し色っぽい、なり
あきる野の畑ののらぼうぼうぼうと緑みなぎる春ののらぼう
言葉尻、尻尾の先の穂のあたり途切れた言葉はさまようばかり
ふくよかな母の手の甲ぼこぼことマウスのごとくにダブルクリック
わたくしの脳はま白き冷や奴あまりのことにはついて行かれず
ちくとたくの間合いをうまくとれなくて時計内時間は狂い始める
イカロスはこんな形に落下して果てたるものか立ち枯れの松
言葉の選別に独特のフィルターがある。潔癖感が窺える。
作品の発露といえば比喩のバットコントロールは極めて自在。イチロー！。
小笠原魔土（真夜中の鏡像)2005.1.30〔北冬社〕
私の記憶はどれもモノトーン 猫の前世の業だろうか
曇りない一枚ガラスに鉄球をえいっと投げ込みすっきりしたい
明日が今日のコピーであることが幸せであるご時世である
別れぎわに人差し指と親指の微かな力で引き留めてみる
泡となりあなたの前に浮かぶから嫌ならパンと叩き割ってね
私はすでに学んだ不用意な笑みは不幸の引き金となる
憎しみは猛獣のよう一回は服従させてもまた暴れ出す
「われ」ということばを避ける潔癖な時代意識を有する。およそ常識が嫌いなのであろう。
潔いつっぱりが産み出す諧調を頁主は大いに楽しんだのである。最高！