連載・語性論試論

 

「論」などといっていますが、イヤナニ、おしゃべりです。

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§T.基本的な理屈

 

1.語性論とは

「語性」などということばは勿論認知されていない。

しかし、「語の有する性質」というのは厳然とあるので、それを処理する際のコトバはある必要がある。たとえば、「語」がふたつある場合、その相互の係わりを、「修飾」「被修飾」というように文法上の関係で捉えることもあろうが、一方の語が、文脈の中で他方の語に「利益」や「損害」を与えている、などという関係論はあまり論ぜられていないように思う。「短歌作品」内での語相互の係わりを文脈上の詩的効果という角度から、少し眺めてみたいと思うのである。 「意味論」でもなく「技法論」でもない「語の性質から来る関係=語性」という視点から見ようとするにささやかな試論である。

 

2.「語性論」の問題意識

作歌という場面で「語」が作家によりどう統御されているか、また、どうされるべきか、等ついてしばらくの間考えていたのである。なぜかというと、いろいろな人が「短歌入門的」な作業をしつつ、「あるべき歌の作り方」が提示されるけれど、わたくしにはとても虚しいのだ。「期待される短歌」についての評論やら討論会もあるようだが、垣間見ても本質に接しているとは思えないものが多いような気がしてならない。

そこで、お仲のよろしい「現代の短歌共同体=いわゆる歌壇上の流通部分」とは全く関係ない事ながら、自分の思うところを少しづつ開示する事にした。

こういういきさつであるから、例によって、「共同体的主流」の勉強をされたい方の立ち寄りは衷心よりお断り致したい。

 

3.わたくしの短歌観

ここでまっさきにわたくしの「短歌観」の土台を言うので、ここで興味の尽きた方は、何とぞ、とっととおひきとりいただきたい。

@    歌は(詩と敷衍すると僭越になるのでこういっておく)個人の「文化的意欲」の産物である。いや、「文化的意欲」にささえられたものだけを短歌と呼びたい、という方がわたくしの思いに近い。

A    「文化的意欲」というからには、単純な表現ではだめで、絶対に、「能産的な表現」でなければならない。

B    「能産的な表現」をするためには、短歌に対して作家が「短歌は能産的な表現に耐えうる柔構造をもった詩形」だとの信頼を持つ事が最小限の要件である。つまり、短歌の本質を形式的に捉えるのではなく、機能的に捉えねばならないのである。

C    よって、「秀歌研究」は、その歌を成立せしめた「能産的努力の初回性」という観点からのみ賞揚されねばならない。秀歌を総覧して「短歌らしさ」を抽出する作業のごときは、わたくしは「短歌の研究」とはいわない。無論、古文書研究と同じ価値は認めるけれども。

D    つまるところ、短歌は「能産的な表現」をする過程を通じて、言語が有する諸規則の体系からの「規制」にゆさぶりをかけ、従来の体系をはみ出し、乗り越えることを目指さねば意味がないと思うのである。

2002.5.5

§U.言語間の緩やかな法則とその活用

 

1.語はつながりにこそ意味をもつ

さて原始。モノの製作が始まったが、その基礎技法は「接続」であった。たとえば革のようなものを、後世紐と呼ばれるようなもので綴じたり、板のようなものを後世釘とやばれるようなもので繋ぎ合わせることが、基本的な作業内容であったに違いない。あらゆるモノは繋ぎあわせという「高次化」によって価値を高められるものである。言語も(概念もそうかもしれないが)同様であるに違いないから、「単語」から「文章」へとその精度を高め、遂には「精確な」論文や、「抒情性高い」詩文までなすに至ったのである。

そもそも人類の発語は「石」「実」「食」の3語が中国語では全く同音であることから、道具で食物を砕いて食するという行為をはじめて言語化したのだという説(「日本語誕生」井上赳夫、水野増朗著)まで遡ってもよく、単語はつながりをもって初めて意味を持つ。

ところで、つながり、つながり、つながることを至上課題として高度化・体系化を極め、今や「整然としたつながり」として完成した状態にある言語に「意図的な狂い」を生じさせるのが、文芸である。前節で「能産的」と呼んだのはこの「意図的(=文化的意欲に支えられた)な」言語活動をさしていたのである。

 

2.語の統御とは概ね「起用」と「課業」に尽きる

前段では語の本質について述べた積りだが、ここでは語の用法という観点から、見たいのである。

「語の用法」は短歌のような限られた文字数の世界では、ほぼ意のままに扱い得るので、(だからこそ短詩形がある)ここでは「用法」を「統御」と呼ぶことにする。

そしてその「統御」は結論から言うと「起用」と「課業」に尽きるのである。

つまり、どういう語を「起用」し、かつ、それぞれの語にどういう「課題」を与えるかが、短歌の制作を「語」という側面から見た全てであるということに気がついたのである。そして、語に語の課題(役割)を与える事をここでは「語への課業」、約して「課業」と呼ぶことにしたい。

事項以降はこの「起用」と「課業」を本質とその具体例という観点から扱ってみたい。

(2002.6.2)

3.「語の起用」のポイント(ケース1)

先ずはその1。

明日よりは八月と聞く八月は日々巨大なる糞放らむかも

ちゃらん亭風月録(田中佳宏)1998.2.25葉文館出版

歌の意図:

「八朔」を控えて、「明日より俺は日々充実した生を確認しつつ生きよう」との決意を示しており、ここに「農の歌人」田中佳宏の面目を見る。さらに、その意図の実現のために、粗野・野卑に分類されかねない「糞」を取り込み、ともすれば「清楚」を旨とする短歌に揺さぶりをかける、つまり短歌表現としては「能産的」である。

くどく言い直すと、通常人間世界の目標たり得ない「排泄」をその陰に隠れた「逞しさ」ゆえに「自己確認の目標」として宣言することによって、ある種の心的効果を読者にもたらそうとするものである。

語の起用の整理:

この作品での「語の起用」の主役は何と言っても「八月」と「」の両語である。これらの語が「生産()」「旺盛」等のイメージを伴って受容されられる比率(100人の読者注何人が同意するか)は相当高かろうというのが恐らくは作者の「起用」の意図である。

さらに、「(明日よりは)八月」と「(巨大なる)」という先の両語に直接に懸かる言葉をみても、「増加=巨大」とその「契機=明日よりは」が整然と組み込まれている。

本作品に典型的に見られるように、ここでは、2組、2次元の「緩やかなつながり=loose coupling」が大いに機能しているのである。これらのカプリングは緩やか・間接的であるが故に、却ってじわじわとした包摂的効果が実現されている。

語への課業:

ここで「八月」は「生産」「旺盛」の「先触れ」としての役割を担わされて(課業されて)いる。このことは、「生産」「旺盛」の象徴である「糞」に、「八月」が「貢献」しているということであるし、「糞」にとってはこれは「八月」による「受益」があるということである。

さらに「明日よりは」の「より」は「変革」の伏線であり、当然に「放らむ」で決着し読み手の、期待感・不安定感を取り静めて納刀するという次第である。

また、「糞放らむかも」と恰も目標であるかのように、平素掲げない目標を取り上げるという新規性がその狙いとなっている。

さらに、「聞く」と「日々」などそれぞれ「脇役」を振られた語群も、総体に親密度の高いものが選択され、主役語を包囲する形で相互統制の中にこの作品が定着させるべく配置されている。取り急ぎここまでを述べておきたい。

 

4.「語の起用」のポイント(ケース2)

続いてその2。

牛肉をさばきてあればしかばねの冷たき組織は(いて)えとこそいへ

シジフォスの朝(島田修三)2001.12.10砂子屋書房

 

歌の意図:

牛をさばく作業をみながら(或は自ら肉切り包丁を揮っているのかも知れないと補足が要るか)、あんなに(こんなに)切られたら「痛くねえはずがねえ」だろうな、という一見素朴な感懐。が、素朴は時折、タブーに抵触する。つまり、足をとめたばかりか更に踏み込んで、「食用肉製品」をその「製造工程」で、わざわざ肉を「しかばね」と呼び、「切られりゃア痛ェ」と常人が気づかない、或は気づいて直視を避ける部分を強調しているのだ。「俺らキレイごといってたって、所詮は生き物の死骸を食ってんのよ」とばかり、どうにもならぬ、人間の本質・原罪を引きずり出している。 

つまりは、歌の意図にはありありと「嫌悪感」の誘発がある。ここに正統的国文学研究者にして大学教授なる島田修三の面目を垣間見るべし。かつそのご分際ながら、ともすれば「優雅」を旨とする短歌に揺さぶりをかける、つまり短歌表現としては「能産的」な表現である。

語の起用の整理:

ここでは何と言っても「しかばね」と「痛え」の両語のloose couplingである。意味上は意表をつく表現であるのに語自体は直接のつながりが淡いので‘loose’と呼んだのである。この言わば「禁を犯して起用された」「しかばね」に対してご丁寧にもラッピングしておリボンまでかける工程が「冷たき組織」という「言い換え」である。つまり、食肉として見た場合、「しかばね」は寧ろ客観化された「冷たき組織」となる訳なのだが、「ご丁寧な言い直し」によって、多くの読者が高確率的に抱くであろう「嫌悪感」を逆なでしている。・・・そのための「起用」なのである。

語への課業:

歌の意図が、嫌悪感の誘発にある、と前節でのべたが、こういう狙いであるから、これへの「課業」は選択された時から、「悪役」と相場が決まっている。

これに効果を与えるべく作者が起用した、「儲け役」がこの作者、お餓鬼ご成育時代の浜ッ子的伝法表現の「痛え」だ。諧謔による嫌悪感の緩和がその狙いなのであるが、このマッチポンプこそが、作者の文化的意欲の発露に違いないのである。

また、「痛え」の couplingの相手は「こそいへ」なる伝統的「係り結び」。結果、この結句8音はかなりエッジの効いたものになっている。

(2002.6.16)

 

5.「語の起用」のポイント(ケース3)

さらにその3。

体重を一キロふやすにさくら食ふ祖国しづかに消化されゆく

墓地裏の花屋(仙波龍英)1992.9.25マガジンハウス

歌の意図:

痩身の作者は体重を1キロ増加さようという思いから桜を食っている。すると、体内では「さくら」でなく「祖国」が消化されてゆくのだという。つまり、作者は無益をめざし、無益を実行する。土台、体重増加のため「桜」を食うということは不合理・無益である。しかしそれでも当然、桜は消化されるが、これは祖国の消化なのであるという。

「無益の労働は怠惰そのものである」という格言もあるが、無益の徹底を低音で静かに歌うところに、三島由紀夫を愛しながらその実、ニヒリストであった仙波龍英の「ひえびえとした諧謔」という面目が躍っている。

「さくら」から「祖国」という言語リンクの忌避を犯しつつ、「さくらを食う」ことが「体重増強」になるという徹底した陰画技法がここでの拠り所なのである。また、同時にこの判り易そうな表現で判りにくい内容に精魂を傾注する作品の特異性は読者に違和感を扶植しようという尊い文化的意欲でもある。

語の起用の整理:

この作品での「語の起用」の冒険は先ず、「さくら」を「祖国」と言い直すことにある。拒絶感の逆撫でという手法だ。「祖国」は既に現代短歌では「死語」である。わたくし自身昨今の歌集で「祖国」という語を見たことがない。いわんや、「さくら」との併置という形の・・・。

この両語の 冷ややかにして華麗なcouplingこそ仙波のレシピ。万人が忌避する形で提示された「祖国」を「消化」するということは、さらに加えられた「あるまじき追い討ち」ではないか。さらにその動機が「体重を1キロ増やす」ことにあるという。この都合3層(いいですか、「さくら」+「祖国」、「祖国」+「消化」、これに「動機」の無意味性が絡んでくるので3層なのです)の楼閣は冷ややかにして華麗な現世内に構築された異界の蜃気楼なのである。

語への課業

そもそも「さくら」の語は「祖国」をかぶせられれば、いやもおうもなく、嘗ての「国体観念」に浸りきった時代の表象に位置づけられる。無論仙波はそれを狙って語を統御している。ここでは「祖国」は「さくら」に対して「加害」の関係にあり、「さくら」は凌辱されることになる。その後段のいわば後シテの「祖国」は、そもそもこの歌が華麗にしてシニカルな諧謔を目論んでいるのであるから、当然のことながら「道化」の役割を振られて登場しているのである。「祖国」の「早変わり」「二面性」をずんと賞味すべきなのである。

 

3.語の起用のポイント(ケース4)

さてさてその4。

艦らこの豪夢に眉を深めつつすれちがいざま相撃つ霧砲

潮汐性母斑通信(高柳蕗子)1998.2.25沖積舎

歌の意図:

この歌は専ら「語の起用」に終始すると意図のために作られたかのようである。そもそも「艦が砲を撃つ」というのがこの文意であるのだから日常性はさらになく、正真正銘言語構築の世界なのだ。したがって、当然、ここでの「相撃つ」は「戦闘」というよりは「交信」ないしは「交流」に近いのではないかと思われる。そしてそのための趣向として、「夢」と「霧」いう叙述で深めているのである。

語の起用の整理:

ここでは3つの造語が目を引く。無論、これらを一蹴する読み手の方が格段に多いのだろうが、わたくしの目はここで釘付けになる。

その3つとは、先ず、「夢」に冠する「豪」、ついで、「砲」に冠する「霧」、そして、「眉」を支配する動詞として「深める」を起用したことである。これら対にされた語相互の関係がloose であることを、ここでも指摘しておきたい。これらcouplingされた語相互の関係それぞれが、一般的読者の合意を得られる確率を、どう作者が読んだかがここでのポイントである。わたくしが、好感、いや寧ろ、脅威をもってこれらを受け入れたのは、実は、作者自身が、語の組み合わせの適切性に対する読者支持率を、ほとんど期待していないのではないかと思たからである。つまり、それだけ余分に文化生成の気概が感じられるのだ。

しかし、しかし。夢の華麗で優れたものは「豪」と呼ばれるにふさわしく、相手を傷つけることを目的としない「砲」は霧の弾を発する砲なのであろうことに間違いはない。それらにも増して、「目を凝らす」を「眉を深める」というのは正に秀逸でこういう表現をこそ短歌も志すべきではないかと強く思ったことにも是非触れておかねばならない。

語への課業:

冒頭の「艦ら」と末尾の「相撃つ霧砲」が主語と述語の関係にあり、その間の、7、5、7がその状態を説明する構造となっている。この中で「濃霧に眸を凝らしつつ」とでもいいうる内容を「豪夢に眉を深めつつ」と置き換えたのである。つまり置き換えられた語それぞれは「過負荷」の状態にある。軽軽しく口を滑らせれば、この「過負荷」自体が冒険なのであるから意味的には「可不可」さえ問われそうな状況なのである。戻ります。「過負荷」の中でこそ、「語」は「詩語」らしく輝き、文章は「ポエジー」として輝くのだということを見せつける快挙なのではあるまいか。描写ディテール糞食らえ! 正に気高い文化的意欲ではある。

 (2002.8.19)

 

§V.言語のエネルギー生成

 

1.高エネルギー短歌の存在

  一転。「男歌」「女歌」などという論議はなんとも空疎である。特に「男歌」への論考は的外れが甚だしく、読むたびに、笑い・怒り・悲しみを抑えるのに苦労する。つまり、荒々しいことがイコール男ではないという論が、決まって落ち着く先としている「鎮められた心」の叫びだって、イコール男ではないのであるから。

 よってもってこれらの間で言おうとするものを「高エネルギー短歌」・「陽性歌」vs.「低エネルギー短歌」・「陰性歌」と呼ぶこととして論ずれば、少なくともわたくしの中ではすっきりする。前節では、言語の相互作用を主としてそのゆるやかなつながりから検分したが、ここでは言語間の相互強化という面からみておきたいのである。

あらかじめヒントめいたことに触れておきたい。前節では、コトバを乾電池を「並列」に繋ぐような作業について述べたのであるのに対して、今節で触れるのはコトバを「直列」に繋ぐ作業についてなのである。

 

2.整然漸進的エネルギー発生:水力発電的エネルギー(ケース1)

君が火を打てばいちめん火の海となるのであらう枯野だ俺は

雨裂(真中朋久)2001.10.1雁書館

歌の意図:

「俺は君に一途だ」、とは、何とも純情一色。一色であるゆえに一触即発であろう。この歌は純情用語の総合的起用に専ら終始するために作られたかのようである。「君の前の俺」は歌の本然であり、全ての作家が個体発生の過程で試みることだが、いまどき、斯様な前面提起は極めて珍しい。

語の起用の整理:

「火」が2回出てくる。さらに構造的には、原因(想定)→結果(予測)、背景という構造の中で、起用される語は全て、相互に関係のある語に限られている。相関度の高い語を同一方向に捩りつつ頂点に持ち上げてゆく正に直列的排列である。且つ、その排列はほぼドミノ型の構成であり、語順となっている。

語への課業:

但し、本当にドミノ型であるならば、「俺は枯野」で始まり、「だから君が火を打てば」とくるのだが、さすがに、「俺は枯野だ」の句を倒置して末尾にもってきて、かつ、「枯野だ俺は」と倒置しているのである。

この「倒置」は何のため? 無論、その終末にくる語への伏線である。最後にくる王者を盛り上げんための。さて、その「倒置」と「倒置」の挙句「最高位」に祭り上げられた語は、やはり、「俺」であった。

つまり、「君」にぞっこんの「俺」の何と愛しいことよ!そう、行き着くところは「自己愛」なのである。しばしば思うことだが、高エネルギーの歌は概ね「自己愛」と絡んでいるのである。だが、この徹底露骨徹底骨張路線はなまなかの文化的意欲では引き出せるものではない。金筋入りである。

 

3.断然急進的エネルギー発生:火力タービン発電的エネルギー(ケース2)

止まるまで俺は止まらぬ、敵よ、俺を倒せるならば倒してみせよ

銀の鶴(本田一弘)2000.10.1雁書館

歌の意図:

何たる挑発、何たる自己顕示。こういう作品こそ「陽性の極にある」とためらわずわたくしは感心する。古流・軟式短歌の信奉者諸氏はオゾ毛を振るうだろうが。

作者本田は「圧倒」を目指した。かつがつ本田は知っている、誇れど、吼えれど、走れど、それは所詮、瞬時の夢。野暮はいうなよ。有限であればこそ資源を集中する。所詮度胸は砂上の楼閣。「一期は夢よただ狂え」とか。

ある思想をなりふり構わずつん抜くところに、歌のブレークスルーはある。然様、文化的意欲の散華、このような空中分解は、甚だ美しい。

語の起用の整理:

「止まる」が2度、「倒す」が2度。あとは「俺」と「敵」。簡単明瞭。こういう歌は今どき(わたくしの腰折れ試作を例外とすれば)皆無であろうと思う。この作家の作品すべてがこういう流れであるか否かは別問題である。突き詰める気概をその作家が持ちうるか否かという点だけが大切なのである。

語への課業

これぞ集中。直列に語を繋ぐとこれほどのエネルギーが生み出されるのである。「倒されるまで止まらない」これは単にラグビーを示すものではないのだ。

繰り返し読めば歴然と判るが、1度「止まる」を読まされたあとの、2度目の「止まらぬ」が読み手に与えるインパクトは決して2倍ではなく例えば3倍とか、もっと大きいのである。

さらに恐るべきは、1度「倒す」を読まされたあとの、2度目の「倒す」が読み手に与えるインパクトは、2巡目であるだけに、今度は5倍にも6倍にもなって読み手を揺さぶるのである。以上重ね言葉が決して無駄にならない典型例としてここに引いたのである。こういう作品については隙を指摘する手合いが必ず出てくる。なあに、これは隙を作っているのだ。

 

4.複合性短歌の存在(語の使いまわし)

さらに、一転。日常の有様の多義性・複雑さを捨象すまいとするならば、一首の中では、前段のような、直列、ドミノ型ではまかない切れないという課題が起こってくる。つまり、前節では、「語の相互強化」の例を見てきたが、ここからは「語の複合機能」について考える必要が出てくる。前節では多数の語が同一目的のために起用され、加算的、加速的に作業を重ねるものについて述べたが、ここでは、どちらかといえば、すくみ系、巴系ともいうべき構成について述べてみたいと思う。ここでも、あらかじめヒントめいたことに触れれば、前節の《押し》または《集中》一点張りの起用に比べて、これから弾く作品にはどこかで《引き》または《分散》の要素が加わるというところなのだが。

この話のいちばん初めはいわば《分散》について述べた。ついで述べたのは《集中》それも《加算的な集中》であった。これから触るのはいわば《減産的な集中、よって、複合的作用》ともいうべき厄介な世界の筈である。最初の分散とは違う側面からの提示であることをご理解願いたいのである。

 

5.複合的に駆使される語彙の関係(ケース1);場面の複合提示として

悲愴なるべくもなければ花散らふ腑分けのごとき愛を交せり

バードランドの子守歌(西王燦)1982.11.-.沖積舎

歌の意図:

これもまた自己顕示そのものだが、一瞥、ふわりとやってのけている。女性との交際の喩としての《花散らふ腑分け》は、読み手がもし敏感な脳を持つ存在ならば、その既成観念の悉くを突き破るあざやかさであり、本稿でも《20年もの》ながら、これを引く次第である。波風ない日常を一心に女性と過ごすという趣きだが、これは《韜晦》よりも勃勃たる思いを腹蔵する《潜み龍》の消光と読まねばなるまい。

語の起用の整理:

《愛》を《腑分け》として表現する。かつ、さらに、その過程を《花散らふ》と呼ぶ。愛の場面の態様を、このように《花散る》と呼ぶという、凶凶しいまでの新鮮さを目指した「起用」であるが、これは同時に、変哲もない日日の、《風景》として花が散るさまも同時に現前させている。花散ることが認識できるということは、当然に、白昼を暗示し、愛の時間が白昼のことであると読み取らねばならなくさせられる。性愛の歌として他の追随を許さない、もはや聖域に置かれた絶品である。20年見ていても感心は冷めない。冒頭に《悲愴》という強い語を置き、その直後にわざわざ否定しているというのがミソなのである。「何事もないこと」を強調するために、わざわざ、「べくもなければ」と、強い語を起用し否定しているのだ。これは明らかに《減算》である。というよりも負の数を掛けて初出の語の欠損感を増大させているともいえるのである。

語への課業

さらに「花散らふ」は無論、語でなく句だが、ここでは「春の午後」の暗示と「心身を纏う物の剥離剥奪による心身の解放」の明示の架け橋という役割をふたつながら課している。その分だけ歌の流れは滞るのだ。だが、この滞りの中で、語や句は相互の押し合いが始まるのである。

この作りの中で「愛」に係る「腑分け」の解釈も多義的になされることを作者は算定していよう。単に剥奪の手続きとは読まれない筈だと。無論、「腑分け」には、作者の抽象的な次元で、愛を探求するという姿勢も投影されているので、鋭敏な読者はそれを読み取るはずである。

かつ、冒頭の重々しい「悲愴」をすぐさま打ち消す出だしは、蛇が己の尾を呑み始める所作に似て、鋭くも、自己否定的な世界の暗示も果たしえている。

 

 

6.複合的に駆使される語彙の関係(ケース2);同一語句の複数役提示(二役性)として

究極の選択を成せ二分法窮まる季節に野分を待たん

樹皮(小塩卓哉)2003.4.10本阿弥書店

歌の意図:

二分、つまり、ふたつに分かつことをめぐる思考プロセスの表出を明確に提示した作品であるが、これほど直接に、明瞭に扱った作品という意味でこの用法は特筆に値する。歌意は、「おい俺よ、究極の二分法に従って、自分の意思・存在を明確にしろよ。時は季節の分かれ目で、丁度二分法に相応しい時期ではないか。それにしても、野原を真ふたつに分ける野分でも欲しいところだな」。つまり、自らに命ずるほど、強い意識をもって、作者は重大な意思決定をしなければなないのだ。そうまで差し迫った時期だからこそ、自分は野分を待つ、というわけである。危急の時機にしては少し引いた言い方をしているところが却って見所となっている。

語の起用の整理:

まず、ここで、見るべきは、自己の選択がさし迫っている状況に際して、《二分法》という「冷徹な」論理学用語を起用した点である。《窮まる》が貼りつくほどの緊急事態を見せながらもこの硬い《二分法》がその熱を冷却し、ここで、一旦、踏みとどまって、韜晦にすらみせる効果が出てきている。

この韜晦的姿勢が意義深いのは、結句で《二分》から連想して《野分》という季語を起用して、さらに韜晦を深めるというステップの導入に当たらせているという点である。この次第次第に、作歌の契機となった状況から遠ざかってゆく作法がここでの勝負どころなのだということを理解したい。

語への課業

このように、《二分法》なる語は、この作品の《韜晦》という姿勢を二段階的に深めさせているのであるが、このありようは、前節で、触ってきた《押し、押し、押したドミノ風》の例とは全く趣を異にする。つまり《二分法》は前にも述べているように、隣接する《窮まる》を冷却すると同時に、冒頭からの2句の間で高められた温度を冷す効果を挙げているのだ。つまり、前へ前へと迫り出す勢いを《引き止める》作用、いわば《引き技》として機能しているという指摘には十分に首肯して頂けるだろう。

同時に、中央に置かれた《二分法》が《選択》と《野分》をふたつながら、引き繋いで、詩趣の拡散を抑えているとわたくしは見ているのである。

2006.1.9

 

7.複合的に駆使される語彙の関係(ケース3);同一語句の複数方向展開(インバータ性)として

 

おお、体毛の概念をこえ頭部より山吹色にふきだすマグマ

時のめぐりに(小池光)2004.12.20〔本阿弥書店〕

 

歌の意図:

若者の金色の染髪の色鮮やかさを《出し》に、誇張的表現の極め付けの創出を意図している。即ち、本作は終始一貫《日常離れした語句の用法》に拠っている。つまりは、通常なら《髪》というべきを《頭髪》にさえとどまらずさらに通り超えて《体毛》にまで遡る。さらに《あたま》でも《かしら》でも《づ》でもなく《頭部》。さらに、さらに、《マグマ》に至っては、ほぼ「唖然としなさい」という命令に近い。

語の起用の整理:

 語は区分のレベルが根源に近づくほど、不明瞭になる。不明瞭は同時に包括的な破壊力を増し、鈍器的に作用するようになる。よって通常は巧者の避けるところ。いうまでもないその逆利用、このことこそが《体毛》を敢えて起用するゆえんである。

 かつ、ここには、それ以上の特徴的な起用がある。この《体毛》は複数方向に向けて起用されているのである。つまり、《体毛》は最終的に《マグマ》という衝撃的な直喩によって呼び覚まされるまで過剰な表現として氷漬けにされるのだ。これについては次項で詳説する。

 かつ、明瞭に判る筈だが《体毛の》以下できっちりと五句三十一音を仕上げておき、その頭に《おお、》を据えたのである。一首の枠内と枠外のこの意図的なこの《、》を含んだ《おお、》の起用こそをわたくしは珍重したい。

語への課業

先ず、《体毛》《マグマ》はその起用自体が衝撃を与えることを目標としている。いうまでもない。意表をつく語は起用自体が目的なのである。

次に、この文の作りは、冒頭と末尾で「《頭髪》は《マグマ》である」というひとつのことを言っているのに過ぎないのだという点を指摘したい。ただその文脈が真ん中で《概念を超え》ひとひねりした後は、正に、寄ってたかってどの語もどの語も《マグマ》に対する形容を浴びせるという構造なのだ。それぞれの語の課業はマグマへの集中形容である。フィッシュボーン図というのものを思い出す。全ての小骨が魚の背骨に集中するという構造である徹底した集中である。ただ、ドミノ型と違う点をここでは強調せねばならない。

つまり、この《体毛》は《マグマ》に結びつくと同時に、《概念を超え》の主格になっている。これは語の複数方向への転換である。単一方向へ動いてゆく語の作用の流れを複数・複雑方向へ転ずる妙技、これを、直流から交流への転換と見做して《インバータ》効果と呼んでみたのである。

2006.2.4

8.複合的に駆使される語彙の関係(ケース4);視線の循環という自他共存として

 

首に巻く腕というものを見ておりぬ腕のかなしき表情をして

卓上の時間(中川佐和子)2003.11.15角川書店

歌の意図:

腕の採りようは無論二つある。作者の腕とみるか、他者の腕とみるか。無論、前者として読む。

女性が男性の首に腕を巻くという仕草がある。一般的には、「相互の信頼関係が存在しているという前提で女性が男性に何かを請う」という状況を指すと見て大過あるまい。ある時代だと「女性の隷属性」とは言わないまでも「非独立性」とか「媚態」とか声を荒げる女性が多く出たことだろうか。今でも無論そういう思考傾向はあるに違いないが論旨をそこに置く気はない。

一応、「腕が悲しい表情をしてあなたの首に巻きつくのを私は見続けています」とも読めるし「腕があなたに巻きつくのを、その腕の表情そのままの悲しい顔をして私があなたを見ています」とも読める。さらにもっと多くの読みを可能にする表現だが、ここでは最も素直に前者の読みで進めたい。

この前の節でわたくしが、実にくだらない言い方でこの状況を整理したが、ここで重要なことは、実はこの「首に巻く腕」には決してコトバではいじれない要素が潜んでいる。くどさを承知でさらに迫れば、両性の絆に対する漠然とした不安かもしくは両者に介在する何がしかの負の要素を埋めようとする女性からの最も真剣な働きかけと採るべきなのである。甘えかも知れず母性愛かもしれず哀訴かも知れず、はたまた愛のささやきかも知れない何がしかの架け橋。架け橋だとするならば架け橋とは欠損の回収を目的として造られるものなのだ。

ともあれ、この作品は、この漠とした負の要素、かなしみをコトバで表現しようとする貴重な作品なのだということにどうしても触れておきたい。

語の起用の整理:

 無論主役は「腕」。特に2度目に「腕」が登場するときは「悲しい表情を持つ主体」として出てくる。この二度手間により「腕」は心を持つ主体、実は作者の心の深層の《体現物》に任用される。このことから見れば再度の起用の意味は絶大である。これにより、この作品は、その自分の心そのものとなった「腕」を「日常の私」が見ているという構成になる。実に巧みな二元論である。

語への課業

コトバでは言い得ない人間固有の悲しみを触れようとしているのだから、語への課業自体も複雑微妙である。

つまり、2度登場させた「腕」のひとつの功績は主語=私を消したことである。同時にこの点が、下句の主語を迷わせることになるのだが、やはりつまるところは「私の腕が私の心以上に悲しい表情をしている」と見るべきだという読みに行き着くほかはない。

ここで「腕」は《巻く》という動詞と《表情を》する、という動詞をそれぞれ与えられているだ。「腕」は出づっぱりの主役を演じているのである。

さてさて、この徹底ぶりはどうだろう。作者はまだ《見る》という動詞で明示されているが、相手の男性は《首》という目的語ひとつに限られているのだから。

2006.4.6

NEW

 

9.複合的に駆使される語彙の関係(ケース5);キャタピラ型の展開

 

脳みそは一人芝居で生きていく自分で自分を持ち上げながら

真夜中の鏡像(小笠原魔土)2005.1.20〔北冬舎〕

歌の意図:

これも自己を突き放す視点から成立させようという作者の意図の許に統合された歌である。自己の恣意を《脳みそ》と呼んで、客体化することによって突き放しているのである。この視線は徹底していて《自分で自分を》まで言い切っている。《わが身の中枢》が《われとわが》身の行為を描写し果てるという、徹底した手法に拠っているのである。

自己を歌いながら自己を表出させないという試行の実現をこの歌はめざしているのである。

語の起用の整理:

 「脳が勝手に生きて行くさまを見つめる主体は何者だろうか」という根源的な問いを押し殺した作品である。手に負い切れかねる自我に手を焼き、呆然と見つめる現代の主体を浮き彫りにするためにここで徹底した統御がなされている。

先ず、《われ》の《代役》として《脳みそ》を起用した。それも、単に《脳》ではなく、そのいわば幼児形の《脳みそ》という形で。あとはその代役たる《脳みそ》が繰り広げる主体となってしまって、その動作として、その状況が語られるのである。

なお、注意すべきはこの構文であって、この作品の末尾はごく自然に冒頭の句に接するのである。つまり、繰り返し繰り返し読める。自己の車輪がキャタピラに結びつくことからキャタピラを《無限軌道》というようであるが、まさにこの歌は無限軌道を履かされた造りになっているのである。

語への課業

語句が高度に統御されているこの作品では課業もまた徹底して明白である。その構図はシンプルであり《脳みそ》が《自分で自分を持ち上げながら》《生きていく》というものである。この簡素な骨格に、唯一つけられた形容が《一人芝居で》であるので、この句への課業がここでのポイントであろう。《一人芝居》からは孤独、独自、自己完結という外延がうかびあがる。ここが作者の想定事項だ。何のヒントも与えられず、放置された《一人芝居》の外延は読み手の読まれ方に委ねられるほかはない。孤独という負の側面、独自という正の側面をこもごもに含んでいるとするならば、「どうにかこうにかそれなりに」と見るべきなのであろうか。いずれにしても、構造上は《恐ろしいほどシッカリと》読み手に委ねられているのである。

 

W 試論の果て

 

 日付入りの文章の面白さというべきか、昨日で書き始めて4年が経過していた。随分とながいこと抱えてきたことになる。素直に思い返せば《つっ走りにくい》主題であったのかも知れない。しかし、この間、ひと様の作品を読む修練だけは積んだと見え、新旧の歌集を読んでいて、作品に投影された作家各位の語の《起用》《課業》に驚かされることが実に多くなっていた。

 

つまるところを急いで示せば、強く統御を意識された作品に限っていえば、語の統御はかなり明確に行なわれており、かつ、それらは、

1. 発展系・展開系 をたどるか

2. ドミノ系・加速増強系 をたどるか

3. 相互牽制系・すくみ系をたどるか

およそ、シナリオライティングのための語の統御はこの三態に要約でき、それぞれが、実に刺激的な作品を形成しうるという典型例を、例示・指摘できたのではないかと、ほんの少しだけ満足している。

 

もっとも、上記の過程ではこの試論を支えうる形式を備えた作品を引いたので、ここに引いた作品がそれぞれの作家の代表的分野のものかといえば、そうでもないということもあろうかと思う。

しかしながら、ここで取り上げた作品は現代屈指の作ばかりであるとわたくしは断言できるものばかりである。《書きやすい例》として、《書きやすさ》を基準として、掲載した例は一例もないことも断言できる。

 

そういう意味からは例示したかった、名品はまだいくつかあるが、それらについては稿を改めたいと思う。

幾人様にお付き合い頂いたかは不明なれど、もし、お付き合いくださった方がおありであれば、深甚の敬意を表したいところです。

(2006.5.6)

     

2006.5.5 茨城百景 岡堰

 

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