ぶち抜ける歌群或はEEE短歌十番譜 短歌はどこまで尖りうるか

第1番譜 松 木   秀 の工夫考案

第2番譜 十 谷 あとり の制空権確保

第3番譜 高 木   孝 の傲岸可憐

第4番譜 吉 田   純 の輪廻転生

第5番譜 村 松 直 子 の疎外視線

第6番譜 青 柳 守 音 の本然奇想

第7番譜 小笠原 魔 土 の我即是空

第8番譜 佐 藤 弓 生 の「尾」による主張

第9番譜 斉藤斎藤の「自己分離」による主張

 

 

           

 

 

10番譜 生沼義朗の「複眼」による迫真

2006.12.3

 

10 青痣のごとき色して中空に膨らんでいる天の踝    by 生沼義朗(水は襤褸に)

これまで挙げた多くの作家の特質はその発声器官にあった。しかし、生沼さんは少し事情がちがう。この作家は発声器官すなわち《出力》ではなく、視覚器官すなわち《入力》にその特質をもつのである。天分であろう。

ご承知のように蜻蛉の水色眼鏡は複眼であるが、この複眼というのは全方位の明暗を捕らえうるのだがその半面で精細な像は結ばないという。生沼さんの入力機構にはこのケがある。彼の作法は精細な像を描くことは放棄して、大局を探索するのである。つまり、そういう入力経路に秀でているのだ。

この作は雲を歌っているが並行してこの世の《不思議の存在》を暗示する。雲の描写のみに血道を上げないからこそ出せる味なのである。

『天の踝』という表記はすぐれて個性的である。積乱雲の、あの高さにあるものを『踝』と呼ぶマッチングの異様さ。生沼さんの詩嚢のなかの『踝』と『天』の外延はその雲を見ながら噛みあうのである。雲を子規が見てもこうは決して見えまい。ヒト科の普通の目で見るならば、精細な、あるいは思い入れ十分な描写はいかようにでも可能だ。しかし生沼さんは精細には見ないのである。複眼の視界に映るのものを、ヒト流に翻訳すればモザイク状のようなのであるという。形態が見えねば見えぬだけ却って本質が見える。蜻蛉には花の形状より外敵の動向の方が重要なのであるから。

ここで生沼さんは雲の描写を避け、本然を感知したのである。と、わたくしは『天の踝』を読む。

かつ、ここでの『青痣』は、雲に読み手を導入するてだてである。『痣』は不快、不可避、因縁などを抱え込む語であることから、いきおい読者の関心は高まる。その結果、この『痣』は作者の内部の投影と読まされるし、作者は《地平》を《天のあしのうらの位置》だと考えていたのか、ということを感知させられたりする。鋭いEdgeが立てられた歌である。未踏境。

生沼さんにはうまくなって頂いて差し支えは勿論ないが、この複眼は錆びさせて欲しくないものだ。まあ、天分は決して錆びないものだとは思うが。

まんべんなく糖蜜に浸されている街の大気を春とも言ひぬ

全身で春を享受している。これも複眼の作用の結果そのものだ。いや、その域を超えていよう。この世界もヒト科の目では決して見られていない。しかし、彼が見ているのは、生命の本質レベルでものなのである。

これ以上の、字句での説明はこの作には無力であろう。おそらく、子規の時代はいざ知らず、ただ今は、目で追う描写では覆いきれない時代なのではなあるから。

結論めかして言おう。現代的な『迫真』の手がかりを生沼さんの《複眼》的志向は掘り起こしてくれるのではないかと期待しつつまたまたわたくしは北叟笑んでいる。

 

0.      おわったあとに

ここに挙げた10人のうち、会ったことのある人は4人、そのうち歌の話を少しでもした人はわずか2人である。そのうちの1人が生沼さんだ。彼はあるとき、わたくしが、《奇歌》について少し話をした後、彼自身の意見として「YODAさんが、**さんの歌から、この1首を選んだのには合点がいかない。この作品は彼を代表する作品とは傾向が違う」と言い出し、繰り返し言い、最後までつぶやくように言ったのを記憶している。そういう意味では、彼はこの十番譜の自作の指定にもご不満かも知れない。

しかし、わたくしはこの選出には自信をもっている。類型的に多数の傾向にあるものをその作家の代表作と見るのは偏見である。わたくしにとって生沼義朗の代表1首は上記である。定評によりかかることは、真に自己の意見を言う際には百害あって一の効果もないものだといつも強く思っている。尻馬論を論と認めてはならない。

かつ、大切なのはここからである。《うまいだけの歌》は偶然にできるが、《奇歌》は意図しなければ、それも相当に意気込まなければできないのである。であるから、Edgeの利いた作は偶然には生まれない。その人の根源から出されたものである以上、その作家の主流にはなくとも、十分にその作家の本質であるのだ。たとえ、集中の例外に見えても、真実の1首なのである。

ついでだがこの際述べておきたい。今の話とは逆に、《うまいだけの歌》は偶然によってきるものなのだ。数打てばどんな射手の鉄砲でも当たるのが世の常だからだ。わたくしは、いわゆる歌壇の主流にあらせられるセンセイ方が称揚する作家の中で、いわゆる《うまいだけ》の人、これがかなり多いのだが、そういう人人にはさほどに注目しない。うまいだけの歌は、並べさえすれば判るとおり、重箱の隅をつつきさえしなければ、ほとんど大同小異ではないか。野人の目から見れば《軟式》と一括または一喝したくなろうというもの。本稿の作品群とは質が皆目全然決定的に違うのである。勿論、本サイトではそういう作家のものは取り扱っていないけれども。

さらに、もうひとつ言い足せば、わたくしは、ここに挙げた作家の論も実は殆んど読んではいないのである。正確には読む機会がないというべきだろうが。つまり、これは、基本的に正真正銘、作品のインパクトだけで構成したのである。もっとも、わたくしは巧言令色を好まない。華麗評論と実作のインパクトは経験的にはほとんど相関がないことも知っているので。

さいごにひとつ。ここでの十番は《選》ではない。《例示》である。つまり、わたくしはまだ、《私が選ぶ秀歌100選》というような記事を書くほど驕っても惚けでもいないなあ、と北叟笑みつつ擱筆する次第です。

ここまでおつきあい下さった方が万一おられれば深甚の御礼を申し上げたく思います

【完】

 

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第9番譜 斉藤斎藤の「自己分離」による主張

2006.11.19

 

9 鳴くだけの事ぁ鳴いたらちからをぬいておむけに落ちてゆく蝉ナイス    by 斉藤斎藤(渡辺のわたし)

この歌集の代表一首として、

シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい

をずっと挙げていた。これほどに人を食った表現が極めてめずらしいことに先ず、好感が持てたが、何といってもそれ以上にこの作の見事なまでの「自己分離」に膝を打ったのである。胸中にわだかまる、独善・偽善・破廉恥などなどを公開謝罪したいという、人の本然を素直いや、拡大して提示して見せた。この「もうひとりの私」或いは「本然の私」をわかり易く切り出した功績は重い、とまあここまでが本稿の入り口です。

冒頭の一首はこれを推し進めた形で蝉と自己をと「同一視」した作なのである。自己を弱者になぞらえる手法そのものは、そこいらにごろちょろしているのでこれまで見落していたが、今回読み返して、この歌の眩さに目がちらついた。

エレベーターの作は《願望》を述べているのだが、蝉の方は《理想像》を述べている。間違いなく斉藤さんは短歌を自己分離の手段と位置づけ、その作品を通じて「分離された自己」を呈示することを重要課題としてきた。しかし、ここでわたくしはその観点に一点を付加する。その「分離された自己」は実に軽い存在として架空されているのであるということを。

重みもあまりなく、無論臭気もなく、ただ、高らかに、《ぽん!》いや、《pomp!》かな、と呈示される人生観である。ここの蝉に儚さはない。むしろさばさばと死んでゆく。しかしなから、この《さばさばした死》は、深刻ぶらないだけ、より、生っぽく、逆に《現実日常的な》《等身大の》凄みがある。そしてこれこそが「自己分離」の最大の効果なのである。

ひざから下が小走りになりたがる(青の点滅)うしろから行く

自己分離の原初を示す作として引いた。条件反射的かつ付和雷同的な、すでに自己から遊離しつつある脚の存在を見せつける作である。無論、「あなたもそうでしょ?」といっているわけです。かつ、これは、実は、斉藤さんが自己分離の世界に読み手を引き込む《催眠導入歌》なのである。「あなたはだんだん眠くなる」。「せやな?」怪しい関西弁とともに北叟笑みつつわたくしも眠りにいざなわれた次第。

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第8番譜 佐藤弓生の「尾」による主張

2006.11.5

 

8 かがやくかおがゆくてにみちる冬木立わかれはあわく尾骨を立てて    by 佐藤弓生(世界が海におおわれるまで)

佐藤さんの歌について、ずいぶん早くから着手していて、なかなか結論に漕ぎ着けないでいたら、つい先ごろ、新刊『眼鏡屋は夕ぐれのため』に遭遇してしまった。はからずも片手に一著、他方にもう一著と読み較べたが、既にその位相は大きく異なっていた。新刊にはあきらかに『魅惑的』と表現すべき要素が加わっているのだ。しかし、ここでは、当初の予定にしたがい、所説を掲題の部分にとどめたい。

最初から最後まで、つまり、文字通り、徹頭徹尾新規性をもつ歌などそうある筈もない。新規性はおおよそ、勝負どころに集中されるからである。しかしこの一首はその例外なのである。

前段の冬木立のありさまの描写も前例なく、後段の作者の愁いにも前例はない。いわんや、その併置対比においておや。

冬木立が受ける光の様子をこのように書く不思議さ、且つその不思議でありつつも納得させる強靭さ。ここにやわらかなEdgeが見える。これは言葉のやわらかさを凌ぐ断定口調《みちる》の戦果にほかならない。わざありどころではない、完璧な一本である。

その行く手に真向かっているのは《別れたばかりの私》、かつ、その状態を『尾骨を立て』た状態であると表現する。尾骨、それは、人体で唯一不要であり、しかも不随意の器官である。字で拙く追い回すのは、最悪の読み手だが、ここで佐藤さんは、自己の腰椎の先っぽに自身を代表させ、くわしくいえば自己の矮小さはかなさを代表させて押し出しているのだ。

ヴァイオリン・ソナタいななく夏草のさかり左右にはずんだ尾あり

こちらは多分に構築的である。まず、『いななく』と『はずんだ尾』は読者内に馬の再構築を許す。しかし馬は居る筈もない。これは夏草の、強いていえば馬にも似た精気の喩である。

そこで、《左右のはずんだ尾》は読み手にこのままトスされることとなるが、左右の中央にあるのは《夏草》か《作者》のどちらかとした考えられない。すると、この夏草はどう見ても草原ということになるから、いきおい、ここでは《私》、つまり、私の左右ということにならねばならない。

そして、いよいよ『尾』の出番となるが、これにはことに断りがないので《草原の関係物》に思いを凝らせば、ありありと《草の穂》が見えてくる。

ここで、別の読みを求めて、《尾をもつ生物》という考えから《人》つまり《友人》という接近もありえようがそれでは歌の流れを殺してしまうことになる。

さてここで敢えていうが、「ネコでも判るように書け」という先生様もおいでになり、「解釈があれこれ動く表現は不可」というご意見もある。だが、そういう因襲に満ちたご教訓からは光る歌は出てきにくいことをわたくしは知っている。

さてさて再び。佐藤さんには《尾》への執着があるようだ。或いは《尾》への執着と呼んでもよかろう。

不要と目されがちな不遇のものでありながら、本質的には始原的なものであり、実は防衛や意思表示に関わっている中枢器官の末端部であるという特性から、佐藤さんが《尾》を偏愛しているのであろう、とわたうくしは思う。そして、そういう理解に支えられた佐藤さんの《視力》こそが、後年の《魅惑性》へ展開したのではないかと密かに卑怯にも跡付けつつわたくしは北叟笑んでいる。

 

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第7番譜 小笠原魔土の我即是空

2006.10.22

 

7 私を刺し貫いて春の陽はそのまま桜を紅に染める    by 小笠原魔土(真夜中の鏡像)

自分が《(くう)》であるという歌である。自分を透過するものが厳然とあって、それを自分が凝視するという構造である。自我を《空》と見るのは、さほど驚くに値しない発想ではあるが、それを《言い尽くす》となるこれは正に空前のことだ。

小笠原さんには不思議な糸を繰り出す毒蜘蛛のようなところがある。彼はわたくしが、その作の流れに惹かれて、車中から巻末の著者アドレスにEメールをした唯一の作家なのである。息もつかせず繰り出される糸ないし意図には独特の魔力がある。起稿の趣旨に反するので列挙は控えるが、小笠原さんの作品には実にしなしば、自己を《空化》する過程がありありと表われてくる。

自分を透過する陽光。だがしかし、この位置関係は大きく常識のそれを逸脱する。空から注ぐ太陽が自分を透過して更に桜の枝に及ぶということは、日常の空間ではあり得ない。つまり、このような状態になるためには、『私』は《空高くある》か、それとも《巨大である》か、はたまたそれとも《大きさの概念を逸脱した存在である》かのいずれかでなければならない。この《視線のねじれ》は主客を超越するものである。言い方を変えれば《自己による空間の透過》であると言える。

この自己の《空間的な透過》をわたくしは偉大と呼びたい。なぜなら、こういう作品は、わたくしの胸裡の《未耕》の部分に鍬を入れた初めてのものなのであるから。こういう作品に出会えることこそ《歌読み》の至福なのである。それは実に、メールに指を駆り立てるほどの愉しみであった。

私の記憶はどれもモノトーン 猫の前世の(カルマ)だろうか

他方、こちらでは、自分にはモノトーンの記憶しかないという。モノトーンとは連綿とした情緒を引きずらないということ。この情緒の実体は、クールというより空疎に近かろう。そして小笠原さんはこの原因を前世にまでさかのぼる。奇矯である。その奇矯さをもうちょいと伸ばせば、もうそれはた易く『猫』の『業』に泳ぎ着くであろう。つまり、この作品では小笠原さんは《時間を透過》しているのだ。

 

この《時空の透過》を《我即是空》と呼ぶ。短歌の中で読み手のわたくしとかかる至福のコラボレーションの素材を提供してくれた作家に感謝しつつ、今日も、またしても北叟笑む。

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第6番譜 青柳守音の本然奇想

2006.10.8

 

6 空の骨ときおりみせて全域は大雨警報 闇よびよせる   by 青柳守音(風のカミ)

青柳さんは空に骨があるという。無論、電光を骨に見たてた視覚的な喩であるということは程なく判るが、読み手は先ず、その意表をつく初句の提示に、はっとさせられる。

ずいと読み手の間合いに飛び込んでくるからだ。あり得ない語を組み合わせて起用し、それを冒頭にひけらかす作法は不意打ちといえる。というより、腰の位置はそのままに切っ先だけが飛び込んでくる居合の攻撃方法の方に近いかも知れない。武道では《間を盗む》というが、正にそれに当たる。それほどに《空の骨》は異相も異相、大異相である。

一瞬、不意打ちに驚かされ、ほどなく理解に達したあとで、多くの読者はおそらく、今度は少しだけ楽しくなるであろう。空と骨の出会いは実に大らかで荒唐無稽。つまり、大柄である。大柄であることは、古代的であり、本然的であり、ほのぼのとした感情、楽しさに近い感情をもたらすであろう。かつ、《空》が《闇》を《呼び寄せる》という素朴な構造は今時皆無。

だが、そればかりではない。この作品にの根底には作者に「空には骨がなければならない」と考えているようなフシがあるのである。なぜなら、『ときおり』というのは、《いつもあるl》というのが、前提なのだから。この点にこそ、注目せねばならないだろう。「《空》はただの広がりじゃないよ。実体なんですよ」という呈示には、巍然、Edgeが光る。

どうやら、この作家の根っ子に本来的に奇想があるのである。わたくしは、どうあっても、雷光を骨とは見ないし、第一、空にそんなものを求めようとは思わない。つまりは、これを引き出したのは、青柳さんの《思い込み》や《思い入れ》なのである。だが、この理由のゆえに、この歌はわたくしにとって、愛おしいものになる。作家の《手塩》とはそういうものである。つまり、このお人の最も珍重すべき、或いは敬愛すべき点は実にこの《本然奇想》にあるのである。

さて、もうひとつ、空の歌を。

 

しつけ糸ひき抜いたから青空をはらりと落ちてくる・・・天気雨・・・

これは、ウィットだろう。『天気雨』がやや意外ではあるが親切過ぎるほどの紹介の後でさっと登場する。前作が形状的な喩であるに対して、こちらには、状況的な喩が用いられている。また、ここのドットは、原著では縦書きであるので、紙面では雨滴を形状的に見せる手管ともなっている。既にお気づきであろう。この素材も頗るつきの大柄である。小細工を頼らない、大らかさで闊歩しているのだ。これも作者本然のものがベースにあるのだろう。

現代のほとんどの歌人が亡失してしままった大らかさを持ち続けている姿は美事でもある。

 

巻末の作品を訪ねて見ても、やはり、青柳さんらしい大らかさで扉を閉めているのである。
またの名を風神という。風のカミ、失ワレタモンモハカエラナイ

「やってるな」と、感心、わたくしは北叟笑む。

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第5番譜 村松直子の疎外視線

2006.9.24

 

5.第5番譜  湖中にて星を眺めている魚の寂しい視力を我ももつなり   by 村松直子(野原のひびき)

虚仮脅しに誑かされるほどわたくしはウブではないが、『野原のひびき』の冒頭に詩のような小文が在る。『惑星だより』という。

   そうです、素性を隠して目立たないように静かに暮らしていても、

   惑星仲間というものは出会ってしまうものなのです。

   ()

   ちゃんと知っていますよ。本当の姿は花の名前の惑星の住人なのですね。

   わたしもあなたの惑星の近くに浮かぶ星に住んでいます。

体がばらばらになるような悲しみや喜びの夜、

   私たちは地球を離れて一夜、もとの星に戻り祈りを捧げます。

 

この作家の最大の特質を示す形容を探すならば、それは志の異色さだろう。作品の威力が《力》方向に向かうのではなく《方向》方向へ向かっていくのも正にこの特質による。

村松さんは自らを《異星人》と決めつける。そして他の《異星人》に対して作品を繰り出しているのだ。

この区画では、《Edge》を求めてこれまで主として《剛法》によるものを読んできているが、村松さんのものは、一転《柔法》である。つまり今回は《Edge》の立て方にも《柔》があることをここで明らかにしたいのである。初回で松木秀さんに、自選をお願いしたら正に《柔法》の作品が返ってきたことも思い出される。

ただここで、村松さんの場合、心のありかたは、喩えようもなく《強靭》であることを書き添えねばならない。《剛を制する柔は柔弱ではなく、強靭である》、つまり弾性に富んでいるのである、ということの再確認が要り、そのために冒頭の詩句を引いたのである。

 

さて、作品。

『湖中』にて『星を眺め』るというのだから、『湖中』は水中ではなく、《湖面》の《湖央》と読まねばならない。《水面まで浮いてきた淡水魚》こそ『体がばらばらになるような悲しみの夜』の状態なのでる。

全くの孤絶。少なくとも作品の中では、世の中との紐帯を断ち切っている。村松さんの孤絶は居住地(青森県)に発する問題では全くない。村松さんは詩精神的に環境と分離分裂しているのである。

犬でさえ星を見ないのだから、魚は見るはずもない。それでも見ようとする奇妙な個体は居るのだろう。「自分はそういう視力しか持っていない」という宣言または愁訴である。ここで、視線とは言わずに『視力』と言っているところも面白い。《視力》には《視線》にはない限界性を表現する機能があるのだから。

 

なあんにもしてこなかったただ赤い兎みたいな目をしただけで

 

一転、人界である。結局、ひとりで泣いていたというのだ。被疎外の極み。ここでもまたしても取り扱われる対象は《非人類》だ。あくまでも、孤独性を炙り出すこの作品に、人間共通のものを見るべきとするご意見もあろうが、わたくしには、村松さんの《私的なこだわり》の独壇場に見える。

わたくしにはよくよく冒頭の詩句が身に残っているのだ。というよりも、わたくしは、村松さんの原点が非在にあるということに気づいているのである。

実に悲しい共感である。だから、今度ばかりはわたくしは北叟笑む気分にはなれない。

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第4番譜 吉田純の輪廻転生

2006.9.10

4.第4番譜  美しき国語に嘔吐せしわれは規律神経失調症か   by 吉田(あつし)(形状記憶ヤトシダ類)

芯から対象の破砕を望むときには火薬は奥に埋め込まれねばならない。吉田さんは社会構造にゆさぶりをかける《仕事師》であるから火薬の仕掛けどころには正に社会の心臓部の近くを真っ正直に選んでいる。

『美しき国語』とはすなわち《現代ないし近代短歌》。自分が現代短歌に属するならばこれは近代であり、自ら現代をはみだそうとするならばこれは現代短歌ということになる。わたくしの読みは、無論、後者である。

それに『嘔吐』すなわち《生理的拒否》をした自分を舞台に引き上げる。そして、自ら診断して曰く『規律神経失調症』という。ここからが面目躍如、この造語の何と蠱惑的なことか。自律神経失調症はいわずと知れたヒステリー。ヒステリーとはすなわち、クレッチマーに言わせれば「生物が自身を脅かし或いは自身の生活遂行を妨げる境遇に対して行なうひとつの代表的な反応であって、比較的に生物学的な合目的性を持った自己操縦」ということになる。《わたしは追い込まれ、反応せざるを得ないのよ》と。かつ、規律神経を損ねている、というのであるから、わたしは、お行儀のよさには欠陥がありますよ、というのである。お行儀の良い短歌とのお付き合いは苦手ですよ、と。もっとも、『か』と結んでいるので、拳骨を振り上げたままで《見得》を切っているのではない。

もっともこの場合、《見得》を切るより斜に構えたほうが、ずんと小癪なことを、吉田さんは心得ているのである。これまで、白昼堂堂、反現代短歌を嘯く神経に、感嘆をわたくしは惜しまない。《Edge》の極みである。

 

機能論膨らみゆきて起爆して原子分子に帰納してゆく

 

「吉田さんを《仕事師》と呼ぶゆえんは、仕事師だからだ」と、《自同律》を引っ張り出したいくらいの仕事師なのである。吉田さんは。

何故? それは、一方で神経=主観に火薬を仕掛けつつ、他方で思想動向=客観に爆薬を仕掛けることも怠らないからだ。恐るべきお人だ。

こちらの作品では《機能論=機能主義》がお嫌だと仰せである。無論、《嫌》とは書いていない。が、作者とコラボするスタンスを執るならばそう読まねばならない。

なぜなら、「機能論が自己増殖して自ら崩壊する」と、必然性に立脚した滅亡を予見しているからである。これの冷淡な描写は通常反意を示す。

続く、『原子分子に帰納』というのは、日常語では《灰燼に帰する》というべきところであるから、ここでは止めを刺している態である、と、ここもこう読まねば《Edge》は汲み取れないのです。

こちらも最後は《見得》を取らず、『帰納』と地口の韜晦に堕している。

 

並べて読むと、どちらも、最後で作者自身を、弱め、鎮めている筆法だということが判る。それはそうだ、吉田さんは今後ともこの社会と付き合わねばならないのだから。警鐘を鳴らし、ひとくさり不信の言を垂れてまたこの舞台に登場して来るのである。

恰も輪廻転生のようだ。

次なるラウンドの吉田さんの戦法を期待しつつ、わたくしはまた北叟笑む。

 

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第3番譜 高木孝の傲岸可憐

2006.8.26

 

3.第3番譜  世の中よ世の中よ知るや一度ねぢ曲ったヘソは元に戻らぬ   by 高木孝(地下水脈)

世に名人芸やら職人芸やらがあまたあるけれども、この作家のものは紛れもなく《奇人芸》である。というのは、心の奥に、他者とちがわねばならぬとして自己の火を密かに激しく燃やし続けている人の作風に見えるからである。さらにそのよって来たるとことを探れば、最終的には、それはこのお人の《志の高さ》にゆきつく。

 

高木さんが反骨漢であることを簡潔に例証しよう。

 

海はいつも眠っている 潮騒なんて気取っていふが鼾さ

 

この通り、高木さんは《世の中》との対峙構造を顕著明々に示す。無論それを彼自身が設計した形で。しかもその対立軸を必要以上に鮮明に奮い立たせるところにこの作家の特質がある。彼には《潮騒》なる美辞が、どうあっても《しゃらくせえ》のであろう。つまり、どうしても《鼾》と貶めねば彼の男が廃れるとでも思っておいでかのようだ。それにしても《鼾》という文字のなんと醜怪なことか。だから腹に据えかねて彼はこれを《引き回しの刑》に処するようにここに引き据えているのである。読みすぎ? 然にあらず。こう読むべきです。

 

 第三番譜の呈示歌に戻ります。この作品は世の中に対する呼び掛けに終始している。なあ、世の中よ、お前さんとはこじれてしまったなあ。判るだろう? もう俺のヘソは不可逆的に曲ってしまったのだ。という歌である。妙な歌だ。

しかも、世の中よ/世の中よ知るや/一度ねぢ/曲ったヘソは/元に戻らぬ と、第4句の切り方もちゃんと奇妙に仕上げているのである。

ついで、歌の本質。

 先ず第一に、世の中を向こうに回すというスケールが愉快だ。さあらに、自己自身が今日現在依怙地になっていることを大らかに歌い上げるのも気持ちが良い。ぐれて、拗ねてヘソを曲げるのではなく、反主流・反骨に身を投ずるというのは、人生を主体的に独自に生きるという、嘗ての《実存哲学》を想起させる強靭なものだ。ここには、ひねこびた猫背の卑屈さはなく、寧ろ堂々とした風がある。《志の高さ》とわたくしが指摘する所以である。

ヘソを曲げた相手、つまり原因は、世の中であるかに見えるが、実は自分に原因があり、それを直さずにいる自分自身にも忸怩たる思いがある、という構図である。この辺にはちらりとのぞく純真さが利いている。然様、突出豪腕の地下に沈む純情だ。これを傲岸可憐と呼びつつわたくしは北叟笑む。

 

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第2番譜 十谷あとりの制空権確保

2006.8.13

 

2.第2番譜  春たけてグラウンドには満塁の五体投地のごとき陽炎   by 十谷あとり(ありふれた空)

このお人の本領が、精神状態のもやもやをわっとばかり叩きつけるところにあることをわたくしは知っている。2003年刊行の「ありふれた空」は一貫してにぎにぎしい歌集であったが、その佳作の多くは、こういった心の動きにリンクしていた。

その例として、たとえば、次の一首の躍動に賛意をそそがれる読者は少なくないであろう。

 

口答え出来ぬくやしさにキー叩くリズムは後の祭囃子だ

 

 叩きつける感情に添うキーの音。キーッ!ただし、この作品についてここでこれ以上述べる気はない。

 

ところで、この作家が「あとり」という名を《面》として掛けたことについて、つまり、そのような名を名乗ったことについて、その氏名と作品を並べて読んだ瞬間から、わたくしは、すくなからずその関連に興味を持った。アトリを小型猛禽と認識していたからである。

ところが、拙稿を起こすに際しての確認のために、今回、次の@を見て、この小鳥が極めて「善良な小市民」であることがわかった。が、別の世界Aではかなり、Edgeの立った役をふられていることも見え、こちらではわが意を得た心もちになった。いずれ、歌詠みは作品上では、絶対的に好戦的でなければならぬと信じているゆえ。

@;http://www.gt-works.com/yachoo/zukan/tori/atori/atori.htm

A;http://www.noein.jp/about/chara/rakurima05.html

 

さて、本論。

この作品はあくまでも《叙景》である。グラウンド一面の陽炎を前にしての渾身の描写だ。わたくしが強調したいのはこの形容に《五体投地》を置いたという心根だ。目の前の今日現在のできごとを表現するに、よりにもよって、時代がかった、もっとも大袈裟な語を起用したのである。十谷さんにとっては、《ひれ伏す》では、絶対に足りなかったのだ。わたくしなら《真っぴれ伏す》とでもいいたいレベルのものであったのだろう。インパクトの強い歌にするためには《危険物の持ち込み》は必須なのだと悟っていて

彼女は詩嚢から《五体投地》を引き出した上で、さらに駄目押しを試みている。つまり、かてて加えて、パートナーににぎにぎしくも《満塁》を起用したのだ。作品にEdgeを立てるとはこういうことなのだ。勇み勇んで作者なりの勢いを全うするということであり、あとりさんはさらりけろりとこれを遂行したのである。

歌を味わってください。

春の真っ盛り。(ついでだが、たける、という言葉も同意味の語の中で最も強い言葉だ)無論、今は、人気などない。バックネットの施された広いグラウンドは朦朦と立つ陽炎でフルベースになっている。

こういえば、いやでもその光景を前にして呆然と立つ作者が見えてくる。小池光さんの言う《阿鼻叫喚のごとき静けさ》でしょうかねえ。読みすぎ? 然にあらず。こう読むべきです。

本来、叙景には景色を詠いつつ心情を垣間見せるものであろう。そうです、ここには、《いまどきの叙景》がきちんと形を見せているのである。現代の地表の一部をシカと捕捉している。『このグラウンドはわたくしのもの』とばかり。つまり、制空権をしっかり確保しているのである。よしよし、とわたくしは北叟笑む。

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第1番譜 松木秀の工夫考案

2006.7.30

0.     はじめるまえに

  作歌のような純個人的感動を超個人的存在に引き上げる道筋には、《汎用的手順に頼る》か《衝撃に賭ける》かという二者択一がある。これにひっかけて些か強引にまとめを急げば、「伝統とは、汎用性を手際よく隙なく紡いだタペストリである」ということもできる。

だが、ここでは、《衝撃》という道筋を経て個人的感動を超個人的存在へ駆り立てている短歌作品の顕彰を行ないたい。なお、《衝撃》といってもたとえば、本サイトでも例示しているように『滴滴集』『時のめぐりに』あたりにも濃厚であるごとくじんわり豪壮な構築物もあるように、その適用域は多様であるので、ここでは《Edge》をキーワードとして整理することにする。英語に頼るのが奇異だと仰せられるならば、《短歌はどこまで尖りうるか》と置き換えても良い。最近の気鋭の実物にお出会いいただこう。なお、のっぺりとした軟式短歌はいざ知らず、彫の深い作品は書き手と読み手のコラボレーションによって引き立ついう例の(と言ってもご存じないか)の持論が前提となっていることは《ご使用前に》ご承知頂きたい。なお、ただ今は本稿は隔週にて10回書いてみたいという存念である。

 

1.  第1番譜  「ねつ造」と「捏造」表記の問題についてあれこれほざけ(10点)   by 松木 秀(5メートルほどの果てしなさ)

最近は協会さんも話せるようになってきた。現代歌人協会から戴冠された歌集『5メートルほどの果てしなさ』の中で最もEdgeが利いた作品とわたくしが思うのはこの作品である。

Edgeの利かせ方には複雑な語彙・構文が伴なわれがちだが、この作はその辺については至ってシンプルである。

ただ一点、文体が国語の設問の形をとっており、本来であるならば「知るところを記せ」というところを、野卑すれすれの卑俗な口語体に置き換えたものである。しかしよくよく見ればよくよく工夫考案されていて「記せ」の持つ、権力者たる出題者の権威、強権、それから引き出される横柄さ、つまりいわゆる《偉そうな》言い方を減衰させることなく運び出し最終的には「ほざけ」でまことに良く受けている。

主役は《捏造》に割り振られているが、これも《権力サイド》の得意技であることがその起用の主因であることは明らかである。かつ、ここにきて、実は作者も心情的にはこの出題者側に参与していて、歌詠み諸君に対して「問題を投げかける優越性・愉悦性」を味わうという権威側のおこぼれに与かっているのである。ほめちぎる形になるが、ここまで、歌を尖らせる才覚は尋常ではない。読みすぎ? 然にあらず。こう読むべきです。

また、文字なしで《読み聞かせる》という形式ではこの作意は伝え得ない、つまり、《書き出して見せなければならない》という非万能形態であることをも取り込んでいる。言い方を変えれば、マル括弧、カギ括弧の動員という小技も抜け目なく行なっていて、つまり、すみずみまでワルサが行き届いているのである。

ところで、Edgeを主張する意味にもう一度触れておきたい。先ず、Edgeの利いた作品は決して偶然にはできない。かつ、人の行動は、例外なく衝動を以てはじまり意志を以て終わるものであればこそ、因襲の詩型で何をどう創造するか?という問題意識のある人間のみが、その衝動とともに随意に発せられるように日常から胸中にEdge心を培っているものなのである。そう、ぼんやり(びと)にEdgeなし。

 最後に、作者ご本人に、この歌集の中で「ご自身最も《Edgeを利かせた硬式の作品》はどれですか」とメールでお訊ねしたら次の作品が示されてきた。

 

ひとすじの飛行機雲のあかるさは世界を絞める真綿のように

 

成程、汎用性が高い。しかも、ぴりりとしている。回答の意味が判る気がした。

次回以降もかなり尖った作を引くので、このような感じのものも添えて、ご当人をミスリードしないとうな配慮が必要なのかも知れないと、ふと、しかし、きちんと思った。