「禁止婆」の待ち構える金堂へと向かう。ここには一木造りの本尊釈迦如来立像(平安初期・国宝)を中心に、向かって右側に薬師如来像、地蔵菩薩像(平安初期・重文)、左側に文殊菩薩像(平安初期・重文)、十一面観音菩薩像(平安初期・国宝)など大振りの仏像がずらりと立ち並んでいるが、最後の十一面観音菩薩を除いて他は興味がない。
十一面観音菩薩像(像高212.5cm)は入口でもらったパンフレットの表紙にもしっかりと描かれているように、この寺のウリの仏像の一つである。確かに後背や唇に赤や緑の色鮮やかな彩色が残り、目を引くのだが、私はどうしても好きになれなかった。横から見るとまなじりがつり上がって見え、下膨れの頬と相まって知性がまるで感じられなくなってしまっている。これはある特定の「女性」をイメージして仏師が彫ったように思えてしまう。「抽象」としての菩薩の崇高さがどうしても伝わってこない。水瓶を手にした直立不動の姿は、遅刻をして花瓶を手に廊下に立たされた生徒のようにも見える。
これらの尊像の手前に、横一列に並んで意味不明の姿態を繰り広げているのが、運慶作と伝えられる十二神将(鎌倉時代・重文)である。これらは像高95.4〜104.8cmで比較的小さな群像であるが、表情が実に面白い。喜怒哀楽の人間味溢れる表情は見ていて楽しい。特に左手を頬に当てて間の抜けた顔で踊るようなしぐさの珊底羅大将(さんてらたいしょう)が私の好みである。
ただ残念ながら、ここも内陣までの距離が大きすぎるとともに、照明の明るさが仏像鑑賞には絶対的に不足している。建物の構造上の問題があるので距離を縮めるのは難しいとしても、照明はもっと工夫してもらいたいものだ。
十二神将について少し補足しておこう。十二神将は薬師如来の眷属(家来)であり、薬師如来とセットで配置されるのが常である。実際に室生寺でも背後に、ともかく縮れていればいいといった田舎の婆さんのパーマのような髪をした薬師如来が佇立しているし、奈良の新薬師寺でも円形に配置された十二神将の中心に目のぱっちりとした、安室奈美江のような異形の薬師如来が鎮座している。
また、十二神将には更に七千の薬叉(やくしゃ)を眷属として従えているといわれている。毘廬舎那仏(大日如来)> 薬師如来 > 十二神将 > 薬叉といったヒエラルキが存在するのだ。さらに、今日、十二神将は十二支と関連づけられているが、これは平安後期の陰陽道の影響のようだ。
十二神将は、薬師如来の十二大願を象徴するものともされている。その八番目に「転女得仏」(てんにょとくぶつ)というのがあり、それは次のような意味である。
「私が悟りを得るときには、もしも女の人で自分が女であることを止めたいと願うものがあるなら、その人が私の名を聞いたならば、男の姿に変わるであろう」
これは女の人は悟りを開くことができない、女人は成仏できないという考えを背景にしたものである。たとえば極楽だが、生前に女だった人も、そこに往生した途端に男に変身することになっている。男になって初めて本格的な修行ができ、そして悟りを開くことができるというわけだ。これを「変成男子」(へんじょうなんし)といい、阿弥陀仏の四十八願の一つにもなっている。現代においては完全なセクラハ的発言であり、即刻如来の仏格を剥奪されたとしても文句はいえまい。
しかし、如来とは菩薩が悟りを開いた後になるものであるから、如来である薬師如来は既に悟りを開いているのであって、「私が悟りを得るときには……」という表現は時間的な齟齬がある。このような小さな矛盾は仏教のそこここに見られるものではあるが、些事に捕らわれているうちは仏教は理解できないなどといわれて煙に巻かれるのが常である。
さらにまた石段を上ると、潅頂堂(鎌倉時代・国宝)と呼ばれる室生寺の本殿がある。内部の正面には如意輪観音像(平安初期・重文)が安置されている。日本三大如意輪のひとつである。右足の膝を立てて座る輪王座という独特の座り方をした像で、若い女性が日曜日にスポーツジムで一汗かいてきて、シャワーを浴びた後にジャージ姿でソファでくつろいでいる姿のようにも見える。ウェストや二の腕に無駄な脂肪のないスリムな姿態で、奔放にポーズを取る姿は、いくら見ていても飽きることがない。他の如来や菩薩が静の仏像とすれば、この如意輪観音は躍動性のある動の仏像である。その分だけ深遠な思想性は犠牲にされているが、現代的な感性にはよくマッチする。素敵な仏像だ。 如意輪観音像は六本の手を持つが、本来の手以外の4本の腕は、後ろから2人の人物が福笑いのように腕を出しているようで、愛嬌のある姿でもある。
室生寺は各御堂に1つずつ私の好みの仏像が置かれた、不思議な寺でもあった。
室生寺はこれで終わりではない。潅頂堂の脇からさらに石段が続く。その正面には総高16.7mと屋外に建つものでは最小の五重塔があるのだが、修理のため、すっぽりと緑のシートがかけられていて、現況を確認することはまったくできない。そばまで寄ってビニールシートの中を覗いて見ると、数名の宮大工とおぼしき人たちが、黙々と作業を行っていた。
石段はそこからさらに延びて、賽の河原を抜けて奥の院へと通じているのだが、もう大したものなさそうだし、足もくたびれたし、お腹も空いてきたので、そこでやめにした。石段の一方の側には「第八十五番」などと番号が振られた石仏群が、赤い前掛け姿で並んでいたが、私にはどのような意味があるのかは分からなかった。
帰途、十臂のレリーフ像と小さな天神社が目に付いた。レリーフ像の主が誰であるのかは不明だが、薬師如来の垂迹神といわれる牛頭天王(祇園天神)であろうか?頭上に牛がいないが、ややスペースが余っているところを見ると、剥落したのではないだろうか?
再び太鼓橋を渡っていると、修学旅行生の一群と擦れ違った。奈良市内から観光バスでやって来たのだろう。時間的にうまく入れ違いになって幸いだった。
帰りのバスを待つ間、よもぎ入りの回転焼きを買って虫養いにした。例のおばあさんの土産物屋でも草団子を売っていたのだが、体の暖まりそうな回転焼きの方を選んだのだった。ついこの間まで、今年の秋は本当にやってくるのだろうかと訝っていたというのに、いつの間にかもう手が火傷しそうな回転焼きが有り難い季節となっていた。店の横に設けられたテーブルで食べながら川の上流を見ていると、修学旅行生たちの行列はまだ太鼓橋の上に続いていた。
バス停で待っていると、別の茶店のおばさんが「休んで行け」だの、「バスの切符も売ってますよ」だの、雨が降ってくれば「中へ入りなさい」だのと頻りに声をかけてくる。我々以外にも数名の者がバスを待っていたが、誰一人として中へ入る者はいなかった。茶店の経営も大変である。
修学旅行のバスガイドたちが竿に巻いた黄色い旗を手にして、雨のなか傘もささずに、なにやら楽しそうに話しながら我々の前を通り過ぎていった。
雨は本格的な降雨となって、空は重苦しい雲が低く垂れ込めてきた。
【室生寺編・完】