秋篠寺散歩

2003年6月29日

6月の終わりの日曜日、奈良の古寺を訪ねた。

新横浜08:36発のぞみ47号に乗ると、2時間後の10:37にはもう京都に着いていた。列車からホームに降り立つと、微風が耳朶の産毛を振るわせて吹き抜けていき、まるで京都の街が私を笑顔で迎えてくれているようだった。

私は個人的に京都という街には余りいい思い出がない。珍妙な出題に頭を悩ませた大学入試、砂漠を思わせる苛烈な熱風の中の家族旅行、難解な地下鉄の連結に迷いながら暗い街を彷徨った極寒の夜、人々の柔らな応対とは裏腹な高く巡らされた塀……。横溢する憧憬の先に出会うのは、いつも冷たい横顔だった。
まるで自分自身が、蓮華王院三十三間堂の内陣につんと高慢に佇む吉祥天にかなわぬ恋をする地方出身の寺男のようでもあり、エスメラルダの同情を愛情と取り違えて献身的に闘うノートルダムのせむし男カシモドのようでもあり、侍従の君への届かぬ思いに悶え死ぬ今昔物語中の好色家平中(へいちゅう)のようでもあった。

その京都がいまになって、「おいでやす〜(^_^;)」と抗いがたいほどの素敵な笑みを湛えて出迎えてくれているのだ。「京都でもよかったかな……。いやいや先約がある、私は奈良へ行かねばならぬのだ。……申し訳ない、今度絶対埋め合わせするから……」などと意味のないことを考えながら、近鉄京都線急行の切符2枚を買った。

大和西大寺駅は近鉄の京都線、奈良線、橿原線の分岐点という以外、これといってなんの特徴もない駅である。北口を出るとちょうど押熊行きのバスが駅前ロータリへ入って来た。一番後ろの席に陣取ると、天井にある大きな穴から強烈な冷房の風が吹き出していた。傍らの妻が両手で左右の二の腕を掴みながら「今年の夏は節電じゃなかったの!」と不平をいったので、電力不足予測が深刻なのは関東近辺の話であること、そしてここは関西電力の縄張りであること、日本国中東京近辺と同じではないことなどを教えてやらねばならなかった。

目的の秋篠寺はバスでほんの6分ほどの距離である。歩いても行けそうな距離だが、寺へ着く頃には汗だくになりそうだったのでバスに乗ることにしたのだった。寺が近くなると道幅は狭くなり、バスが通ると一杯になった。直角に曲がりくねった道の角毎に灰色の制服を着た交通整理員が立っており、白地に緑色の縞が入った腕章を付けて、互いに無線でしきりと連絡を取りあっていた。交通整理員は一人の例外もなく老人であり、会社を定年後に奈良交通に低賃金で再雇用された人たちに違いない。

秋篠寺の東門は小振りの山門で、赤土に三本筋の築地塀がその左右に付随している。筋塀は五本筋が最も位が高いとされているので、秋篠寺の寺格はさほど高くはないのであろう。山門の向こうには木々の影で所々隈取りされた白玉砂利の参道が延び、正面の白くまぶしい漆喰の塀のところで左に折れている。五月晴れを思わせる清々しい風を受けながら参道を歩いた。親しみを覚える大きさで、清潔で心地よい遊歩道のような道である。日常の重苦しい懊悩が徐々に蒸発し、重量感を失っていった。

東門は少し小さく萩も咲き <素十>

道の脇に二本の石柱があり、それぞれに「清浄香水」・「味如ヰ露」とある。真言宗の僧常暁(じょうぎょう)が鎮護国家の秘法大元法の本尊大元帥明王を感得したと伝えられる井戸(香水井・こうずいい)の所在を表しているのだが、石柱の間に渡された二本の竹竿のためにそこから先に進めず、井戸の存在を確認することはできなかった。
しかし、私が気になったのは井戸の有無ではなく、左側の石柱に刻印された「ヰ露」の文字であった。私の郷里では井戸のことを「いろ」と発音している人を時折見かけるのだが、「ど」が「ろ」に訛った方言だとばかり思っていた。しかし、この文字を見た時、存外古語に由来する表現なのかもしれないと思い直したのである。濁音を嫌った雅語なのだろうか。

ほどなく木立の中に苔の群生が現れた。地図によるとここが金堂のあったところらしい。建物の跡地というのはどこか荒涼とした様相を呈している場合が多いのだが、ここでは荒廃が新たな美を生み出している。地面を覆う苔は一面に抹茶を撒いたようで、樹木の根が張る形に合わせてもこもこと波打っている。時雨里として知られる秋篠の雨の多い気候と常緑樹の緑陰がこの苔を養ってきたのだ。こういう何もない落ち着く空間が私は嫌いではない。

広庭の 木陰( こかげ ) 木かげを くまどりて
苔のさみどり しみむせるかも

<伊藤左千夫>

拝観受付を抜けるとすぐに玉砂利を敷いた本堂の前へ出る。本堂以外に大した建物もないせいか、広々とした印象を受ける。受付の若者の言葉通り本堂脇の入り口から中に入ると、突然居並ぶ諸仏が眼前に現れた。瞬間的に「ああ、やっぱり来てよかった」と思った。薄れかけていた感慨が突然蘇ってきて、このために自分は来たのだと思えるのだった。

薄暗い堂内を予想していたので、堂内の明るさは意外だった。壇上に横一列に並んだ仏像を梁に吊るされた5〜6個のタングステンランプが照らしており、そのために堂内はほどよい明るさになっているのだった。仏像群はランプの演色効果により、百貨店のショーウィンドウのブランド品のように奇麗に空間に浮き上がって見えていた。このような演出を嫌う人もいるだろうが、私にはこのようにほどよく演出された照明効果は好ましいもののように思えた。

私の目的はいうまでもなく技芸天と対面するためだった。秋篠寺を訪れた人々が口々に賞賛する技芸天だが、写真を見る限りでは私にはそれほど魅力的な仏像のようにはどうしても思えなかった。赤茶色で輪郭描写もぞんざいな頭髪表現、腫れぼったい目蓋や下膨れの面相、小太り気味で締まりのない体躯、どれをとっても好きになれなかった。

いま本物の技芸天立像が壇上の一番左端にいて、私の目の前に立っている。私の目はこの仏像に釘付けになってしまった。眼前の立像は写真では思いもつかなかった存在感で迫ってきて、私を完全に捉えた。丸顔の技芸天は言葉にならないくらいにキュートなのだ。
張りのある頬の線、伏目がちに夢見るような眼差し、楽しげにハミングするように少し開き気味の口元、繊細な指先、若く透き通った肌、どれをとっても魅惑的なのだ。特に、視線を落としている左側の顔がよく見える本体やや右側の位置から見たときの表情が一番素敵だ。こんな娘をどこかで見かけて、遠くから見ていたことがあるような気もする。口惜しいが世人の言葉を認めせざるを得ないようだ。

技芸天立像は不思議な印を結んでいる。両手とも中指と薬指を内側に曲げ、他の3本の指を立てて、右手を胸の横に、左手を腰の脇に構えている。降三世印を施無畏・与願印の形に配置した印相といえばよいであろうか。この印相を何と呼ぶのか分からないが、そのチャーミングな面持ちとマッチしていて悪くない。

本堂入り口脇の売店で、四つ切りサイズのカラーポスタとモノクロの絵葉書セットを買って本堂を出た。妻はラッキーお神籤などという世俗的なものを子供たちにといって買い求めていた。どこへ行っても母親なのだ。

技芸天についてはカラーポスタに同封されていた解説が分かりやすいので、以下に引用する。

「秋篠寺 技藝天像」
あるとき天上では、大自在天王(シバ神)が大勢の天女たちにかこまれて、天界の音楽や踊りを楽しんでいた。すると忽然として、大自在天王の髪の生え際から一天女が生まれ出た。その容姿の端麗なことはもとより、技芸に秀でていることは、並みいる天女たちの遠く及ぶところではなかった。居合わせた天人天女たちは一斉にその勝れた才能を称えて、彼の天女を技芸天と呼んだ。技芸天は、多く集まった天人天女たちの中に立って、「もし、世に祈りをこめて田畑の豊作や、人生の幸せや、家庭の裕福などを願う者があれば、私がその願いをことごとく満足させよう。また学問や芸術に関する願いを寄せる者にはその祈願をすみやかに成就させよう。」と語った。

(漢訳密教教典「技芸天念誦法」)

白玉砂利を敷き詰めた庭の隅に置かれたベンチに座って、ぼんやり国宝の本堂を眺めた。頭脳が思考を停止している。何かを考えようともしていない。受付でもらった文字ばかりの小誌に目をやっても、一向に文字が意味を持ったず、旋律のない音符のようだった。数文字分目を送っては数行先に視点を飛ばすという作業を意味もなく繰り返しながら、無機的な知識ベースの部分だけを読み取っていた。寄棟造り、本瓦葺き、軒高約4m、幅17.45m(五間)、奥行12.21m(四間)、左右対称形、平安末期、講堂跡、鎌倉時代……。冊子から目を上げて見ると、砂利、菩提樹、石灯籠、漆喰、瓦、青空、雲、太陽、……それだけ。鳥の一羽も飛ばず、黒い羽の生えた虫に腕を刺され、30mm大の固い浮腫を作っただけだ。こんな何の感動もなく、無意味な時間もあっていいのだ。その方がまともな人生に思える。疲れているのかなあ?

看板に誘われるようにして本道を外れて秋篠窯の売店を冷やかし、道なりに歩くと南門の前へ出た。申し合わせたように白いバケットハットを被り、デイパックを持った老夫婦が、門の敷居の上にこちらに背を向けて腰を下ろして、境内の樹林に囲まれた参道を眺めていた。振り向かれると十年後の自分達の顔をしているような気がして、目を伏せて足早にバス停へと向かった。
ああ、そうだ、南門の築地塀の筋は五本だった。不思議だ……。

ようやく厳しさを増してきた日差しが照りつける自動販売機の前のバス停で15分ほど待っていると、件の交通整理員が「皆さん、駅ですか?バスが今来ますからね」と声を上げた。好天の日曜日だというのに、バスに乗るのは我々と2名の老人ばかりである。やっぱり関西の不況は関東以上なのだろうかなどと考えていたら、後から来た老人の一人が我々を追い抜いて、無料パスを見せながらバスに乗った。

バスは往路よりも短時間で大和西大寺駅へと到着したが、駅前にはマクドナルド以外にこれといった店も見えないため、次の目的地、薬師寺の近辺で昼食とすることにして、再び近鉄線で西ノ京へと向かった。時計はもう13時をとうに回っていた。

(未完)

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