東大寺戒壇院

2001年3月6日

どうしても見てみたい仏像があった。東大寺戒壇院の四天王像だ。見過ごしていた仏像があった。興福寺の仏像たちだ。時間は限られているが、彼らに会いに行った。

午前6時16分新横浜発のぞみ1号に乗車し、近鉄奈良駅に着いたときはまだ土産物屋がようやくその日の活動を始めたばかりの午前9時30分前だった。奈良は薄日の差す散策に好適な空模様で、私は正面に見える黄緑色の若草山に向かうだらだらとした坂道をゆっくりと登っていった。一月近くに及ぶ風邪がまだ完全に抜けきれていないせいか、膝がガクガクして、すぐに息が切れる。60才代と思しきハイカーたちから徐々に距離をあけられていくのが分かって、少し情けなくなった。

歩道脇の芝生には尻だけが白い日本鹿の群れがあり、塑像のように立ち止まって、私の歩みを目だけで追っていた。その中の二頭の若い雄鹿だけが、切られて失った角のことを忘れて、上目遣いに互いを睨みながら頭を突き付けあっていた。こんな光景を見ながら、この町が自宅から鎌倉くらいの距離の所にあればいいのになどと身勝手な夢想を巡らせていた。

20分ほど歩いてすっかり汗ばんだ頃に東大寺の入り口に着いた。随分と長い道程のように思えた。南大門を抜け、突き当たりの大仏殿を左に折れて道形に進むと戒壇院が見えてきた。戒壇院は平凡な田舎の寺の風情で、のんびりと朝の陽光を浴びて佇んでいた。時刻がやや早いせいか他に訪れる人もおらず、一人で割高な入場券を買って入った。幅1mほどの敷石が石庭を左右に隔て、戒壇堂の入り口へと続いている。なにも考える間もなく堂内へ入ると不意に四天王の一つ増長天が目に入った。余りにもあっけなく、そして小さな感じがした。もっと大きく、深遠な姿を思い描いていただけに、現実との乖離は大きかった。

正方形の壇上には四隅に四天王が佇立し、その中央には多宝塔が安置されている。中央壇の周囲には一段低くなった狭い廊下が配置されており、見学の順路となっている。そして御堂はこれらを包み込む鞘堂のようになっているのであった。私の不満な印象のの原因の一つは全体のアンバランスにあるように思われた。中央壇上の四天王像と多宝塔が十分なスペースを取って配置されているにもかかわらず、それらを取り囲む室内が余りにも小ささ過ぎるのである。内蔵物の雄大な印象を建物が台無しにしてしまっているようでならなかった。元々の戒壇院の四天王像は銅造りのものであったが、失われたため、東大寺中門堂にあった塑像を移し、18世紀になって現在の戒壇堂を造立したものだが、このアンバランスは江戸時代の職人たちの設計技量の乏しさを暗示しているものと思われた。

どこが始まりというのがあるのかは知らないが、暗記の順番通りに持国天、増長天、広目天、多聞天と観て回った。増長天の威丈高な姿に対して、広目天の怒りを内に秘めた抑情的な表情がよく対比され、広目天の深遠性が称賛されることが多い。確かにそうだとは思うのだが、目前の広目天はもって淡泊な印象を与えた。私の脳裡にあったのは写真で見るような、サイドライトによって深い眉間の皺の陰影が強調されたもので、この写真を見るとき広目天の強い意志を感じないわけにはいかないのである。しかし今ここにいる広目天は、釣鐘形をした障子窓から迷い込んだ霞のような朝の光を受けて、細かな陰影は拡散し、むしろ茫洋とした面持ちをしていた。暗い夜に蝋燭の炎に照らされた姿や赤い夕日を浴びた姿を見ると多いに印象は異なるのであろうが、この時間の広目天は余りに健全過ぎるような気がした。

再び駅の方向に戻るため大仏殿と反対側へ降りていく階段を下った。石段は百段ほどもあり、ここまで汗をかき膝を震わせながら登ってきた高度差を想い起こさせた。獲得した位置エネルギーの喪失を惜しむように、一段一段ゆっくりと降りていった。このまま真っ直ぐに進むと漆喰の白壁が左右に並ぶ屋敷街になっており、その道端に重くなってきた鞄を下ろし、手巾で額の汗を拭いながら振り返ってはっとした。瓦屋根の戒壇堂と山門に向かって石段が延び、頂きの左右に形のよい松の木が立つ様は見事に一幅の絵画となっていたからだ。こうして街の風景の中に置いた戒壇院は実に素晴らしい。

大きな屋敷の立ち並ぶ立小道は散策路としても面白い。新薬師寺に続く高畑の町のような明るくのどかな気分はないが、代りに街全体が襟を正して澄ましているような凛とした緊張感がある。高級車の垣間見える邸宅の一つ一つを見て回るのも楽しい。歩いていくうちに豪邸の山門風の玄関に「○○医院」と大書された額が掲げられているのを見つけた。佐野家を思わせる誠に風雅な医院である。古色蒼然とした院内で老医師が手を震わせながら聴診器を患者の胸に当てている姿が想像された。
鉤形に曲がった小道を抜けると奈良県庁の横へ出た。奈良のように碁盤目状に整然と並んだ町では、大雑把に地理を頭に入れてから、後は方向感覚だけで歩いてみると、意外な発見があって面白いようだ。

最初に登ってきた大路を少し下って左に折れると興福寺の境内に入る。今日2番目の目的である興福寺国宝館はすぐ左手にあった。エスニックな阿修羅像を始めとする八部衆像、滑稽味を帯びた板彫十二神将像、力感溢れる金剛力士像、思わず頬が緩む天燈鬼・竜燈鬼像など優れた国法群が目白押しでどれから観賞するか戸惑うほどである。

最も印象に残ったものを一つだけ揚げるとすれば、薬師如来仏頭であろう。白鳳時代の銅造で、優美な鼻梁と風船のように膨張した丸い面立ちは、一度目にしたら忘れられない。元来は勿論胴体もついた像だったのだが、火災に遭い頭部だけが金属塊への変貌を免れたものである。仏頭の上部や耳の後ろの辺りは熱によって変形していることからも苛烈な炎に晒されたことが分かる。昭和14年の中金堂の改修の祭、本尊の足元からこの仏頭が偶然に発見されたということで、救い出された頭部だけがここに納められたものであろう。国宝館の中でスポットライトを浴びて浮かび上がる仏塔を見ていると、歌手の加藤登紀子を思いだした。案外彼女は仏像的美人なのかもしれない。
売店で阿修羅像のフィギュアを探したが、残念ながら売っていないようだった。仏頭のイミテーションは作りが余りにも稚拙なので買う気にもなれず、結局阿修羅像のポスターと天燈鬼・竜燈鬼の小風呂敷を購入して土産とした。

名残は尽きず、足を向けたい所も沢山あったのだが、午後からの仕事が待っているので、渋々近鉄奈良駅へと戻っていった。奈良滞在2時間の小さな旅は、予想以上の充実した気分を残してくれた。

[Site Index]