鳥越神社  台東区鳥越2丁目4−1

鳥越祭


御祭神:日本武尊、天兒屋根命、徳川家康
天兒屋根命は武蔵国の国司となった藤原氏がその祖神を祀ったものといわれます。
徳川家康は蔵前にあった松平神社が関東大震災で焼失したために当社に合祀されたものです。

境内社
福寿神社:倉稻魂命 大黒天神 惠比壽神 菅原道眞
祖霊社:氏子の祖霊
志志岐神社:豊玉姫命
対馬国下懸群久田村、藩主宋対馬守が江戸藩邸にあったものを現台東2−1付近に勧請、安産の神として祀られていたそうで、こちらへの移転は最近のようです。

日本武尊が東国平定のみちすがら、当地の白鳥村に滞在し、後に村民が白鳥明神として白鳥山の山頂に奉祀したことを起源とし、白雉二年(652)の創建とされます。
(1185まで白鳥村と呼ばれていたそうです)

永承年間(1046-52)奥州の安倍定任の乱(前九年の役)鎮定のためにこの地を通った源頼義と義家の軍勢は大川(隅田川)を白鳥の渡るのをみてそこが浅瀬であることを知って渡ることができ、白鳥大明神のご加護として鳥越大明神の社号を奉じ、社名も鳥越神社となります。



図は現在の地形から推定される江戸初期の鳥越周辺地形の推定図です。

隅田川の西岸は古利根川の運ぶ砂や砂利が堆積して標高3m〜4mほどの丘が南北に続いています。
貝塚もあることから縄文時代から陸地であったことがうかがえます。
そこに浅草神社、石浜神社などの古社が並んでいます。
(隅田川の東岸についてはトップ頁の隅田川少考を参照)

河川のカーブする外側には砂利など流れにくい土砂が堆積して自然堤防を作りますが、鳥越〜浅草〜石浜にその堆積丘ができています。
その内側も陸地化するはずなのですが、ここでは入間川(後に荒川)の浸水地域で鎌倉時代では長江の入江と呼ばれており、沼のごとくであったと思われます。

入間川が運ぶ泥は流れ出ることがなく、堆積して江戸初期では千束池や姫ケ池の沼地となっていました。
(近世では蓮根の栽培地でした)
図の現在1mの標高になっている部分が沼池で江戸初期に埋め立てられた地域と推定できます。

江戸市街開発のために隅田川西岸の堆積丘が取り崩されてこれらの沼地が埋め立てられ、江戸名所図会によれば七つあった山がひとつになってしまったそうです。
真土山(現:待乳山聖天の丘)は沖から入る船の目当てになっていたとあり、これがひとつだけ残った山(丘)とみえます。
鳥越の丘も同様に取り崩されていますが、当時の鳥越の丘がどのような状態だったのかは不明です。

天正日記(家康腹心の内藤清成の日記)に大水の時には不忍池と姫ケ池がつながっているようにみえた、とあります。
図の標高2mのあたりまで水没したのでしょう、それを防ぐために築堤されたのが日本堤であり、排水路が山谷堀ということになります。

不忍池から流れ出る忍川(鳥越川)が開発以前にどのようなルートで隅田川へ流れていたかはわかりませんが、姫ケ池を経由して鳥越の丘を横断していたのではないかと思われます。




出土由来が不詳ではありますが当社の社宝に高坏、勾玉、銀環、蕨手刀があります。
蕨手刀は明治24年に出土して当社に奉納されたもので、この付近に古墳があった可能性を示すそうです。
(東京の蕨手刀出土はここと武蔵野市吉祥寺の武蔵野八幡宮に伝えられる2本のみ)


かっての境内は広大で末社として三味線堀に熱田神社、森田町に榊神社があって鳥越三所明神と呼ばれていました。
しかし、これらの社地は旗元や大名屋敷の御用地とされ、三味線堀付近の熱田神社は山谷へ、森田町の榊神社(第六天)は堀田堀へ移転しています。

当社は現在地に残りましたが、江戸末期の地図では隣接して神主屋敷と別当屋敷が明示されているところから、社殿の部分だけが旧地に残されたのでしょう。
熱田神社の移転先を新鳥越町(現:清川1丁目〜東浅草1丁目)と称したので、江戸時代では現在地を元鳥越と称しています。

三味線堀は埋め立てられた千束池(姫ケ池)の名残りで、もとは御手洗池と呼ばれていたそうです。
ただし、江戸地図と重ねると三味線堀の位置は姫が池とその西の小さい池の間の標高2mの位置にあり、江戸時代に土砂を取ったとしてもデコボコにするとは考えにくく、三味線堀が姫が池の中心とは思われません。

三味線堀は姫が池とその西の小さい池を埋め立てる時の排水用の堀で、忍川と鳥越川を接続するために残されたものではないかと思われます。
幕府の御家人は薄給で内職をしていましたが(表向きは禁止)、三味線堀の御家人はここで金魚の養殖を行って他よりずっとよい稼ぎだったそうです。




鳥越神社の東に天文屋敷測量所があり、葛飾北斎が鳥越の不二で描いています。
頒暦調所ともいい、暦や測量、地誌編纂や洋書翻訳を行っていました。
江戸城や大名屋敷など幕府施設の絵は軍事機密のためか浮世絵などに描かれていませんが、ここは大丈夫だったのでしょう。

手前の屋根の上に蛎殻がおいてあります。板葺き屋根の防火のために蛎殻を屋根に並べることが推奨されていたようでその名残りでしょう。


江戸時代では奥州へ向かうには根岸、下谷から北上して千住大橋で隅田川(荒川)を渡ります(奥州道あるいは日光道中)。
鎌倉時代では隅田川西岸の土手沿いに北上して石浜社あたりで渡し船で渡河し、亀有から下総台地にそって北上する道が古奥州道(東海道)だったようです(江戸時代ではこれが水戸道中となる)。

新編武蔵風土記稿の牛御前社に、源頼朝が隅田川を渡るとき洪水で増水して渡れなかったので船筏で渡り、これを謝して牛御前社に領地を奉納したとあります。
増水して渡れない、ということは軍勢の通常渡河なら牛島あたりの浅瀬を直接渡渉していたものとみえます。

鳥越神社の源頼義と義家の渡河伝承も、潮が引いて浅瀬となった隅田川河口の白鳥が餌をついばむところを渡ったのでしょう。
はるかに遡って、日本武尊もここを渡ったことが白鳥の丘で祀られた源になったのかもしれません。
(別項隅田川少考参照)