【 第8章 初期開拓者 】


人間の思惑によって歴史が動き10年単位で状況が激変する時代です。
にもかかわらず当時の記録はゼロで出土物の年代推定は100年単位です。
無数の可能性があるなかのひとつの具体化が本章です。


早稲種の発見


弥生の日本の稲には熱帯ジャポニカ(水陸両用)、温帯ジャポニカ(水稲)、そして早稲種、の3種があったのではないかと思います。
稲の痕跡は岡山でBC4000頃のプラントオパールが発見されていますが、炭化米の発見は弥生にはいってからです。
BC4000の稲は熱帯ジャポニカで南海民のもたらしたもの、陸稲として栽培されていた。

いまのところ長江中流域から淮水にかけての堆積土平野一帯が最古の栽培稲の痕跡でBC6000を遡るようで、野生種とみられる種類も混在しています。
黄河中流域にも稲作痕跡があります。
中国での稲作痕跡は温帯ジャポニカは東南アジアの熱帯ジャポニカと中国内陸種との混血かもしれません。
河姆渡の炭化米にはジャポニカ種とインディカ種があるとされていましたが、それは見かけが似ているだけで実際にはインディカ種にみえるものもジャポニカ種のようです。

黄河の河口はBC2000〜AD1200の間に山東半島北側から山東半島南側に移動し、一時は淮水に流れ込んでいます。
河口の位置が大阪湾と東京湾をいったりきたりしているようなもので、尭舜禹らの治水がいかに困難だったかがわかります。
殷以降の中国の王朝の都が洛陽以東の黄河流域に造られていないのは黄河の流路が安定していなかったためかもしれません。



それぞれの地域でどういう作物が選ばれるのか、わずかな土地や気候の特徴の差が全体のバランスポイントを傾け、いったん傾くと全体がその方向へ流れたのではないかと思います
温帯ジャポニカは日照時間を多く必要とし、また暴れ川である黄河流域では水の安定管理が困難で栽培しにくかった。

黄河流域では水利に左右されにくく遊牧や狩猟文化ともフィットしやすい冬作の麦が主要穀物となっていった(台湾に麦の痕跡があるのが面白い)。
対して長江流域では水路の拡充と灌漑技術の発達によって海退によって広がった東シナ海沿岸の大平野が稲作地帯になっていったのでしょう。


BC2000頃の長江大洪水による三苗文化拡散が長江の稲作を一気に周辺に拡散させることになります。
朝鮮半島で炭化米がでるのはBC1000以降の半島南西部の沿岸域からです。
日本へも温帯ジャポニカがやってきますが晩生種のために安定収穫がむずかしかった。
晩生種だと早霜や台風の被害を受けやすいようです(稲のきた道/佐藤洋一郎/裳華房)。
少彦名が帰郷の時に「うまくゆかなかったこと」というのはこのことだと思っています。

黄河流域の麦も半島や日本へやってきていたかもしれませんが、冬に雨の多い地域向きの穀物です。
日本の気候ではアワより優れているわけでもなくさほどの広まりはなかったのではないかと思います(吉野ケ里遺跡からは麦も出土しています)。

AD500以前の東南アジアの稲はジャポニカ種で、インディカ種はインド型の農耕の伝播によって広まるようです。
AD500以前の東南アジアの稲は在来の熱帯ジャポニカとやはり三苗のもたらした温帯ジャポニカの混植だったと推定。
灌漑技術の未発達のためにメコンデルタなど現在の広大な稲作地は使われておらず、二毛作も雨期の高地と乾期の低湿地を利用する方法だったようです。
(参:ベトナムの事典/同朋社、歴史世界としての東南アジア/山川出版)

四川盆地とインドのアッサムをつなぐ遊牧回廊ぞいに稲作痕跡があるのが興味深いです。
中国内陸からアッサムへ向かった稲か、あるいはアッサムから中国内陸へむかった稲か・・
四川盆地に稲作痕跡がみえないようですが発見されていないだけかもしれません。
DNA分析や年代の確定でルートや原産地がわかるようになるのは時間の問題だと思います。


海洋系三苗は済州島経由で五島列島や九州西岸へもやってきた。
しかし農耕系三苗の移動ルートは安全確実な山東半島〜朝鮮半島西南岸だった。
九州の稲作適地を知りそこへ移動をはじめるのはだいぶ後になってからで、最初に温帯ジャポニカが栽培されたのは半島西南岸でしょう。

熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを混植すると突然変異種として早稲種が誕生するのは実験栽培で確認されているようです(稲のきた道/佐藤洋一郎)
収穫時期が早く台風や早霜の被害を受けにくい「台風銀座や寒冷地」に適した品種です。

早乙女や早苗といった「サ、早い=祝う、めでる」といった言葉は、早稲種の登場によって生じたのではないかと考えています。
現在ではほとんど消えてしまった香米(ニオイマイ)との関連にも注目したいです。
孝昭天皇105-137の「観松彦香植稲」の名の香植稲とは香米のことかもしれません。


早稲種の発見場所はどこか。
長江や東南アジアでははるか昔に早稲種が誕生していたかもしれません。
しかし長江の気候では意味のない性質で、その性質に注目して選別栽培されることはなかった。
誕生してもそのまま消え、また生まれるを繰り返していたのではないかと思います。

餅麦という餅米のごとき粘る性質の麦があります(市販されています)。
これの開発は最近の中国です。西北アジアや中近東でもはるか昔から誕生していたが不良品として捨てられていたのではないかと思います。
しかし餅性食品の好きな人々には優れた性質だった。だからアジアで開発されたのでしょう。

早稲種も同じくで、それが必要な地域で発見され選別されたと思います。
台風被害を受けやすくそれを避ける必要が高かったのは九州でしょう。
早霜については半島も九州もにたようなものでしょう。
早稲種の必要度からは九州になりそうです。

熱帯ジャポニカの半島での栽培データがありませんが、東南アジアからの渡来ルートと気候を考えると熱帯ジャポニカは九州側でより多く栽培された可能性が高いと思います。
微妙なバランスシートなる、はてさて・・(^^;

記紀伝承では「大歳」が穀物に関与し半島系の神々の系譜にみえます。
記紀にはただ稲が登場するだけで品種はわかりません。
記紀の稲が長江からの温帯ジャポニカのことであれば半島からの伝播で、大歳系の神々が半島系であるのは当然です。しかし早稲種かどうかは推測不可能。
朝鮮半島に早苗とか早乙女に類似の用法の言葉があるかどうか、キーワードになりそうです。

発見年代はBC500あたりか。
東北で水稲を栽培するには早稲種が必須と思いますが、発見場所は半島でも九州でも以後に大差なし。
この時代であれば発見場所がどこであれ、種籾を運ぶだけの問題ですから数年の単位で伝播すると思います。
発見場所は当面棚上げにしておきます。


水の供給によって連作できるのが稲の特徴です。加えて早稲種が登場した。
水田という「投資」をすればその土地から恒久的かつ安定収穫が期待できるようになった。
吉野ケ里付近での食物遺物からは食物全体のうちに稲の占める割合は2割程度のようです。
だれでもが稲を作れたわけでもなく、稲が主食になったわけでもなく、一般民衆では縄文の生活が継続していたのでしょう。

水田を作れる力をもち、その価値に気づいた者が稲を手にした。
土地を開墾しその土地を維持することが富となり、早稲種の安定収穫のパワーがそれを作る者にさらにパワーを与えた。
富の偏在のはじまりといってもいいと思います。土地の占有化でもあります。
地主と小作といった関係も生じたかもしれません。
新しい社会形態の萌芽です。これを弥生のはじまりとしておきます。


種子島の宝満神社宝満神社 の御船田神田では玉依姫の伝えたという赤米を栽培していますが、浦田神社ではその上から鵜草葺不合尊が「シロコメ」を蒔いたという伝承があります。
状況によってどちらかを播くかの選択肢になっていた可能性もあるようです。
(日本財団・自然と文化(1996・53号)

BC2000以降の三苗文化が赤米を伝えたことを海神族の玉依姫に代表させ、最新版の早稲種登場を「シロコメ」を蒔いたとして天孫族の鵜草葺不合尊に代表させているのではなかろうか。
あるいは全体をずらして、赤米がはるか昔の熱帯ジャポニカを意味し、シロコメが温帯ジャポニカないし早稲種登場を意味するのかもしれません。

現在伝えられる種子島や対馬の赤米と中国の遺跡の米、そして朝鮮半島の遺跡の米、これらのDNA研究が進めば弥生の米の相関図もわかるようになるだろうと思います。

参:BC1000〜BC500頃の半島と北九州(2005/05)


食物神と大年神

「スサノオ、大気都比賣に食べ物を乞いたまいき」、古事記。
大気都比賣は穀物の神、伊勢神宮の外宮に祭られる豊受気比賣神の別名とされます。
迦具土と埴山姫の子孫ですから縄文の娘といってもいいでしょう。
BC500頃にアマテラス族+海神族+朝鮮半島渡来者が発見された早稲種を持って各地に展開して稲作をはじめていた。

BC190頃、スサノオが大気都比賣に食料を求めた(9章参照)。 結果としてスサノオは大気都比賣をばっさりやってますからあきらかに略奪(^^;
スサノオの息子とされる「大年」の子の羽山戸の妃が大気都比賣とされます。
(あるいは大年の孫の若山咋の妃ともされる)
孫や曾孫の妃からの略奪はありえない。妃とされるのは半島南岸と九州北岸の先住者とスサノオ後裔が混じり合っていったことからの伝承でしょう。


島根県の太田市〜浜田市付近(石見銀山周辺)に面白い伝承があります(以下、畑作の民族/白石昭臣からの要約抜粋)。
大昔に巨人がやってきて大山(源田山)に腰をおろして我は大山祇命オオヤマズミなりといったそうです。
そこでおおきなオナラをして土を吹き飛ばしてできたのが太田市の三瓶山。
うんこもしましてそれが大糞山(^^; それで畑作物がよくできるのだそうです。

ソシモリというところにオオゲツヒメという五穀の神がいて、訪ねてきた荒ぶる神をもてなしたが、荒ぶる神はオオゲツヒメを斬り殺してしまった。
オオゲツヒメの子がその形見(穀物)をもってやってきたのが源田山の沖にある高島。
しかし高島が大山祇神の治める場所であったので、さらに南の益田市比礼振山におりて穀物を播いた。
(付近の種や乙子の地名はこの由来だそうです)

記紀伝承と混じりあった伝承だと思いますが、大山祇神がたんに山岳の神ではない様子があります。
オオゲツヒメが半島南部の農耕者である様子もみえ、スサノオ時代前後のこの地域の農耕発達の様子がうかがえます。

書紀の穀物伝承では大気都比賣は保食神ウケモチに、スサノオは月読神に置き換わっていますが、書紀の方が祖先神化の度合いが少なく古い時代の伝承を感じます。
書紀の話は縄文(狩猟+漁業:月読神)と三苗文化の農耕が接触した縄文晩期の伝承がメインイメージか。
熱帯ジャポニカ(南海民、陸稲)、温帯ジャポニカ(三苗、水稲)、それに早稲種登場がいりくんでいるために、保食神と月読神、大気都比賣とスサノオの2種の穀物誕生伝承が生まれているのだろうと思います。

記紀では稲を穀物のひとつとして扱っているだけで特段のエポック記事になっていません。
稲が縄文に遡って存在しており、弥生の稲は改良品種の登場だったためだと思います。
また、食料源を多方向に確保しておくことが危機管理の常識で、縄文〜弥生では稲だけにこだわっていないことを示すものと思います。

弥生の西日本で人口が急増するのは、麦などもふくめた総合的な農耕技術が広まったためで、稲だけによるのではないと考えています。
この頃に「肥料」の考え方が登場していたのではなかろうか。
肥料が十分なら少々の病害虫や寒冷でも植物は耐えてくれます。それだけでも増産となり安定収穫にもなる。

稲に固執するようになるのは弥生中期以降の寒冷化で食糧事情が悪化してからで、早稲種がその状況でも安定収穫の得られる穀物だったからではなかろうか。


食料を求めたスサノオは北方系で農耕は不得手と見えます、その子が食物神になりえるか?
「大年」が重要人物だったことは多数の後裔が記述されることから間違いないでしょう。

「大年神」はスサノオの実子ではなく、朝鮮半島南西岸で山東半島系の畑作を行い、長江から半島経由で朝鮮半島南西岸にもたらされた温帯ジャポニカを日本へ運んだ人々である。
記紀は氏族融合の一環として半島渡来者をみなスサノオの子として扱った。
ここでは「オオトシ」を神話上のスサノオの子、「大年」を農耕文化を九州へ運んだ歴史上の人々としておきます。

参:大年神系譜と弥生濃厚(2005/05)


初期開拓者

下図は弥生〜奈良飛鳥時代の三重県上野市での花粉分析による気温変動の推定図です。
(気候と文明の盛衰/安田喜憲著によりますが、実年代は当方による概略です)



縄文寒冷化のピークはBC1000あたりにあるのではないかと思います。この頃までが人々が南下していた時代です。
はっきり温暖化に転ずるのがBC500頃。人々が北上をはじめる時代です。

アマテラス族、海神族、東シナ海沿岸と朝鮮半島からの人々の混成集団が九州から最新の農耕技術と早稲種をもって各地へ展開してゆきます。
これを初期開拓者としておきます。いわゆる遠賀川式土器を使う人々でもあります。



遠賀川式土器の特徴は口縁部分が外へ開き胴の最大部分が高さの中央付近にあることのようですが識別は微妙なようで、縄文土器と無文土器の合体という論もあるようです。
東北や関東では縄文風の文様つきのものもあります。

唐津湾に面した福岡広田遺跡からはBC1000頃の縄文土器や石包丁などが出土し、紡錘車も大量にでています。
この時点で九州縄文は農耕をおこない織物を作っていたわけです。
興味深いのはいっしょに東日本系の土偶や土器がでていることで、少なくともBC1000頃に東日本縄文の人々が九州北岸までやってきていた証拠でしょう。
とすれば、逆に九州での情報をBC1000頃には東日本でも知っていたということです。

この頃の大陸文化は山東半島〜江蘇省沿岸発で済州島経由の長崎着と、朝鮮半島西南部経由の福岡着といったところでしょう。
その文化も渡来と同時に東日本にも伝わりはじめていた。

BC400頃以降では中国からの戦争避難民も混じって朝鮮半島経由で大陸北部の文化も渡来し、これも各地に運ばれた。高御産巣日神の文化です。
この頃の曲り田遺跡からは日本最古の鉄器がでています(鉄鉱石原料の鍛造製品のようです)。
中国で鉄器が普及し始めるのと大差のない時期に鉄器も渡来しているわけです。

山形県遊佐町三崎山遺跡の青銅刀子や青森八戸の是川遺跡の木刀などは縄文晩期とされますが、初期開拓者が運んだものかもしれません。
朝鮮半島北東岸や沿海州から運ばれた可能性もありますが、いまのところ沿海州などの出土物の情報がないのでなんともいいにくいです。この地域の調査が進むことを期待します。




出雲熊野大社の鑽火神事のありようや伊勢の外宮先祭の慣習は、初期開拓者の日本海沿岸や伊勢湾への到来が起源で出雲大社や伊勢神宮内宮より古いことを示すものだろうと思います。
紀州熊野三山の熊野速玉大社の縁起の唐から飛来して日子山(彦山→英彦山)に降り四国の石鎚から淡路を経て熊野に降りた、といった伝承も三苗渡来ルートや初期開拓者の経路を意味しているのでしょう。
3本足の八咫ガラス、中国にもあります。

利根川流域にもこれがある
のも初期開拓者が関東にやってきていたからだと思います。
ただし日本海沿岸や東海沿岸以北では縄文勢力が強く、大陸系文化は無条件浸透ではなく取捨選択されて混合していったのではないかと思います。

太平洋岸の初期開拓者には半島から渡来した人々は少なく、日本海沿岸や東北に進出した初期開拓者には半島北東岸や沿海州からきた人々が多く含まれただろうと思います。
なるべく生まれ故郷に近いところにいたい、これはだれでももつ感情でしょう。

兵庫県の武庫庄遺跡で発見された柱の年輪から伐採年がBC245と確定されたようで、初期開拓者たちの集落ということになりそうです。
日本海沿岸や東海沿岸、濃尾平野などで稲を一番に求めたのは山岳からの縄文避難民かもしれません。
ひょっとすると規模は別にしても瀬戸内や大阪より先に東海や日本海沿岸で本格的な稲作が始まった可能性もあると思います。


方と円の墓

この頃の水田技術はまだ未熟で小河川の自然勾配を使う方法だった。平野であっても水利から離れた位置での稲作は難しく水田は1坪程度の小面積の水田だった。
小さい区画なら少人数でも少しづつ面積を増やしてゆくこともできます。
水利があってゆるやかに下る台地の斜面に細かく仕切られた水田が次第に増えてゆくといった様子だったのではないかと思います。

方形周溝墓という形式の墓がBC300あたりから近畿を中心に各地に登場します。
墓本体は土壙墓や壺棺で普遍的ですが周囲に四角の溝があるのが特徴です。
この墓制は縄文が水田を得たイメージから生まれた墓ではなかろうか。
水田の登場が土地の概念の変化をもたらし、そのイメージで死者を弔ったのではなかろうか。

前方後円墳のはじまりは弥生中期に遡るのではないか。
前方後円墳の「方」の部分は土地(水田)のイメージで、後には道教の「地=方」「天=円」の概念と重なってはっきりした形になっていった。
円は中国系文化の継承者を表し、天神と地祇(縄文)の合体の概念につながります。
当然ながら日本固有の形式になるでしょう。

前方後円墳はその意識と大きな墓を作れる勢力をもてるようになった人物が創始者。
(出雲臣族ではなかろうか・・)
当初の墓は小規模円墳に四角の溝が加わる程度で、円墳とされるなかには溝が消えてそうみえるものが少なからずあるのではなかろうか。
岐阜や栃木、群馬では前方後方墳が多いです。縄文の強いところでは四角の組み合わせになったのかもしれません。
島根にある四隅突出墓は天神ではなく、縄文に近いが縄文でもない人々、のイメージによる墓・・(^^; このあたりになると人の思惑や流行がからんで一筋縄ではゆかないかもしれませんけれど。


沿岸航路の発達

・・丹後半島鷲崎・・


ここはいい港になるな、入り口にある島が荒海を遮って波ひとつたっていないぞ。
はるかむこうのあの山の白い雪もいい目印になるしな。

船長(フナオサ)、ここの連中の話じゃ南の山を越えると大きな湖と平野があるそうですよ。
ふむ、そいつは米を作りたい連中に知らせてやれ。人が大勢やってくれば我々もおおいに結構だ。
米のサンプル持たせた調査隊も送っておけ。
まずはもっといい場所がないか海岸を調べろ。

1週間ほどして・・
船長、東の海岸に大きな集落がありました。
小さい湖が4つあって千人以上住んでるかもしれんです。

よーしよし、丁重に挨拶しただろうな。
手抜かりはありませんや、赤漆のペンダントを手土産にしたんですがね、ところが娘っこが櫛をさしてまして、ほらこれです。もらってきたです。

なんだこれは・・俺らのより上物じゃねえか、どういうことだ。
漆はもっと北の村で塗ってるらしいです、なんでも大昔の大昔に、やっぱり船でやってきた連中から教わったんだとか。
今は神様になってるようでお供え用に米をほんの少しだが作ってたです。麹酒まであったですよ。

うーむむ、その大昔の連中てのはどんな様子だったのか聞いたか。
ええ、背が低くて手足が長かったそうで、我々にも魚抱えてそんな神様がいますねえ。

うーむむ、ご先祖様がこんなところにまで来ていたってのか。
先祖直伝で作っていたのなら、まねて作らせたのよりいいのはあたりまえかもしれんな。
よしよし、表へ向かった連中の鼻をあかせてやれるかもしれんぞ。


・・英虞湾御座岬・・


ここはいい港になるな、深く入り込んで波ひとつたっていないぞ。

漁師の話じゃもっと北へゆくとでかい平野があるそうです。
すんでる連中はいるのか?
元から住んでるのは数えるほどで、北の山から来る連中が増えてるらしいです。
ふむ、そいつは米を作りたい連中に知らせてやれ。人が大勢やってくればおおいに結構。

山は杉を植えるのによさそうですが、九州の八岐谷と同じ連中がいるらしいです。
八岐谷だと? まずいなそりゃ。そっちは後回しだ。平野の調査の準備を整えろ。

1週間後・・
大きな平野があったです、川もたくさんあって水もたっぷりあります。
川沿いには山から降りてきた連中が住んでますがぱっとした暮らしじゃありません。
とっつきにくい連中だったけど、蒸し米の試食会を開いたらあっというまに売り切れになったです。
あの広さで稲を作れば収穫の1割戻しだって稲倉はすぐにいっぱいになること請け合いですよ。
よーしよし、底へ向かった連中の鼻をあかせてやれるかもしれんな。


BC1000頃の海神族は漁場への中継地としての拠点をもっていましたが、次第に初期開拓者等を輸送するための拠点にもなってゆきます。
四国の足摺岬、室戸岬、和歌山の潮岬などには灯台があったかもしれません。
夜間到着になるような位置の拠点では灯台用の高い望楼を建てていたかもしれません。
九州南部から瀬戸内へはいる佐田岬も重要な海運拠点。
各地にあるサタ岬の地名はこのころできたと推定。猿田彦とも無関係ではないでしょう。

三苗渡来からBC500あたりまでは大陸航路の拠点は五島列島だった。対馬や壱岐は半島避難民が使う補助拠点だった。
対馬が重要になるのは朝鮮半島に大量の中国戦争避難民が流入し始めるBC400以降で、発達するのはスサノオ登場からだと推定。

初期開拓者の行動が活発となってその輸送を専門にする海運者も登場します。
客や荷物を運ぶ航海では、当然ながら安全確実であることが要求されるようになります。
また、大型船のない時代に発進地の海運者が目的地まで長距離航海にでるのは効率も悪い。

お客や荷物を中継港で積み替えてそれぞれの区間を専門にする海運者が駅伝式に運ぶ工夫がなされたのではないでしょうか。
受け持ち地域の地理や海流を覚えるだけで海運業に参加もできます。
外洋を含めた遠距離航海のための経験や知識は必要なくなり、それをもたない新興海運者も登場し始めます。
諾尊のミソギから生まれたとされる底、中、上(表)の筒之男神はこれら海運者のもつ信仰で、底=日本海、中=瀬戸内、上=太平洋ではなかろうか。
伊弉諾尊のミソギが水底、水中、水面でなされたという説明はちょっと納得しにくいです。
底、中、上(表)は日本海、瀬戸内、太平洋の位置を表すものと考えています。

<

金色の剣


走り回ってる連中がいるがなにかあったのかね。
ああ、船の連中が集まって金色に光る剣を持って川をさかのぼっていったんだ。
商売でひともんちゃくあって山の連中が船の連中をぶっすりやったらしい。

山の連中はここへも大勢来ているが、プライドが高くてときどき困ることもあるからな。
昔は山でいい暮らしができたんだろうが、今ここでそれを続けようたって無理な話だ。
郷に入らば郷に従えをなかなかやってくれんし。
船の連中もどういう神様だか知らんがその子孫だてのを誇りにしてるからなあ。
ひともんちゃくおきてもおかしくはないわな。

金色の剣だって・・そいつはただことじやないぞ。
こっちじゃ見かけないが故郷じゃ馬という動物に乗る連中が時々略奪にきたんだ。
そのうち金色の剣を持ってるやつが混じり始めてひどいことになっていったんだ。
恐ろしいぞ、その剣は。船の連中それを持っていたのか。

そんなに恐ろしい剣なのか、それじゃ山の連中はかなうまいな。
山の連中には悪いが傍観させてもらおう、オサもどっちの手助けもするなといっていたしな。
とにかく早いとこ風よけの竹垣直しちまおうや。





九州発の海運者が日本海沿岸や太平洋沿岸へ遠征をくりかえしています。
当初は初期開拓者やその物資を運んでいた海運者のなかから交易で利を得ようとする人々が登場しはじめています。
そういった海運者と現地の人々の間でトラブルも起きています。

BC400頃から半島からの渡来者には中国戦乱の避難民も加わって大量となってゆきます。
これまでの避難民とは異なり交易を目的にする富裕な移住者も混じるようになっています。
それらの人々と結びつく海運者も登場し、九州北岸の情勢は複雑化し紛争も多発し始めます。


信州諏訪に神々の戦の伝承が残っていますが、これは特殊な目的をもった海運者がやってきたことが発端でしょう。
諏訪神社上社(本宮)の秘神はミシャグチ神で縄文古来の蛇信仰と推定できるようです。
少し時代が下りますが・・
ミシャグチ神を司っていたのが漏矢神(守矢神)で、ここへ出雲の明神がやってきて戦となります。
その結果は複雑に合成されて微妙なのですが、漏矢神は「鉄輪」、明神は藤の枝で戦っているのが興味深いところです。

出雲の明神が建御名方であるなら国譲りの時代ということでAD50頃の事象。
出雲族は弥生初期〜中期にかけて縄文社会(蛇信仰)のなかに浸透し、出雲も蛇信仰をもつようになっていた。その象徴が藤の枝だと見ます。
(唐草文様なども蛇信仰につながるものと思います、縄文土器にもあります)
この戦は古来の縄文蛇と新興の出雲蛇の戦だったわけで、結果も複雑になり諏訪大社が何カ所にも分かれることに・・(^^;

上社本宮 上社前宮 下社春宮 下社秋宮
上社前宮の御祭神の八坂刀売神は本宮の建御名方神の妃とされますが、なぜ離れて祀られているのだろう。
八坂刀売神は先住者の娘、巫女だったのではないかと考えています。
先住の神だが後からきた神が主となったために前宮として祀られた。
後の三輪山の大物主と倭迹々日百襲姫の結婚に似た状況です。

先住の漏矢神のもつ「鉄輪」とはなにか。
鉄器かどうかは別にして天竜川か千曲川かを遡上した金属資源探査の初期開拓者がもらした金属器を象徴すると考えています。
諏訪周辺には鉄鉱石もありますが、当初の探査は銅や錫でしょう。
長野県からは螺旋状に鉄を巻き上げた腕輪が出土しています。

なお、漏矢神(守矢神)とは伊勢風土記逸文に登場する天日別に敗れて伊勢から東国(あるいは信州)へ逃れたという伊勢津彦ないしその後裔ではないかと空想。
伊勢逸文では天日別は神武東征時代の人物になっていますが神武東征説話に重ねられた伝承で、本来は天火明が濃尾に渡来したときの話(BC100頃)ではないかと思っています。

伊勢津彦は伊勢の初期開拓者の後裔、伊勢津彦の祖先の出自は九州海神族か・・信州に安曇の地名があるのが納得できる。(後の島津氏は信州に飛び地の領土を持っており、諏訪神社を勧請もしています)
伊勢神宮外宮の源は伊勢の初期開拓者、最古級神社が糸でつながれてゆく(^^;

下図は諏訪大社本宮裏手のフネ古墳の蛇行剣と栃木の古墳から出た古墳時代の蛇行剣(柊剣、ヒイラギ)で、祭祀用鉄剣とみられています。




饒速日の祖先

昔々のBC300頃・・熊本の古饒速日は各地に物産を運んで商いにはげんでいました。
卵が先か鶏が先かはわかりませんが速日=熊本一帯。饒=豊、海運で儲けた人(^^;

古ナガスネヒコは縄文系、現在の耶馬日田英彦山国定公園一帯の村々を統べるオサの跡取り息子。
現在の行橋市付近の海岸で饒速日と交易をしていた。
(山奥へはいりますと後に土蜘蛛とも呼ばれる最新文化を拒否して暮らす人々もいます)

陸路なら佐賀平野の甘木市付近が東西の接点、しかし物資を運ぶのに陸路はたいへんでしょう。
馬も牛も農耕用の大事な動物、人がかついで歩く他はなかった。
神武時代にはある程度の道ができたかもしれませんが、遠回りでも河口付近に港を作ってそこを交易地にしただろうと思います。

・・ひとめぼれ・・

おう、ナガスネどん、ひさしぶり。(舟から岸に飛び降りる)
阿蘇がドッカンといったんであのあたりの産物はしばらく品薄になるよ。いまのうちだぞ。
本日のおすすめ品は有明産のタコの薫製だよ。うまいぞこれは。日持ちもするよ。
ゆっくり品定めしてってくれや。

ねえねえ兄ちゃん、あれなんだろ。
どれ?
ほらあの白い布みたいなの。

おや、妹さんかね。お目がたかいね。見たことない布だろう。
麻じゃないよ、ほらさわっていいよ。

わーっやわらかーい(^^) なにこれー
ユウ(木綿)といってうんと西の連中が作る布なんだが、俺んとこでも試作品を作ったんだ。
それは見本で売るわけにいかないが、もうすこししたら好きなだけわけてあげるよ。

わーこれきれい、この金色のは「太陽のしずく」でしょ、ほしいなー
その留め飾りは大陸の連中から仕入れたんだ。小遣いじゃちょっと無理だから兄ちゃんに相談してごらん。

速日さん、ナガスネどんの横腹をちょんとつっついて・・妹さんかわいいねーいくつだい?


てなわけで古ナガスネヒコの妹を古饒速日がみそめて周防灘の中津市あたりに新居をかまえた。
新婦の肩に大きな太陽の滴が光っていたのはいわずもがな。

ここでの饒速日は記紀や先代舊事本紀でいう饒速日のような、そうでないような・・(^^;
饒速日やナガスネヒコの祖先のひとりです。

饒速日は後に海運者として商人として大勢力となった人々のオサを代表して書かれた人物。
遡れば海神族を祖にする複数の海運者が饒速日伝承の源で、同時に物部氏の複数の祖先でもあると思います。
ナガスネヒコは初期開拓者あるいは近代化縄文として各地で勢力を広げた人々のうちの長い手足をもつ容姿の人々の伝承でしょう。



インド交易

BC323、はるか南のインドではアレキサンダー大王のインダス攻撃が大王の急死でとん挫し、インド国内は統一前の戦乱状態となっています。
その中からガンジス流域のナンダ朝がまず名乗りをあげ、ついでその1国であったマガタ国からチャンドラクプタ王が登場してインダスやデカンを制圧してマウリア王朝が誕生(BC317頃)。

ギリシャ史書にはチャンドラクプタ王はギリシャ軍と講和を結び、その司令官の娘を妃のひとりに加えたとあるようです。
アレキサンダー大王の婚姻融和策の継承かもしれません。
ギリシャとの交易も行われただろうと思います。
ギリシャ彫刻的仏像のガンダーラ美術はこのころの文化交流が源でしょう。

マウリア王朝3代目のアショカ王(BC268)は暴虐な王で99人もの身内を殺して王位についたそうです。
周辺国への激しい戦闘でほぼインド全域を制圧し名実共に統一王朝が完成。
それ以後は仏教を奉じて穏和政策に転じたようです。この事跡をブラフミー文字で刻んだ最古のアショカ王碑文があります(はるか昔のインダス文字はまだ未解読)。


漢書地理志に武帝の時代(BC141〜87)のインドについての記述があります。
「自合浦徐聞南入海、得大州・・有黄支国、民族略興珠涯相類。其州広大、戸口多、多異物・・蠻夷賈船、転送致之。・・自黄支船行可八月、至皮宗、船行可二月、至日南・・」

黄支国の人々は珠涯郡(海南島)の人々に似て宝石や巨大な真珠を産し・・途中で殺されたり嵐で難破しなければ数年で帰ってくる・・平帝のとき宰相の王莽へ貢ぎ物をもってきた・・黄支国から皮宗に至るのに8ヶ月、皮宗から日南は2ヶ月・・途中蛮夷の商船が転送した・・

黄支国とは南インドのマドラス近郊のカーンチプーラム市、皮宗はシンガポール付近(異説もあり)、日南はベトナム中部です。
航路上にいくつかの国名がでてきますが皮宗や日南は国とは書いてないので、そこまでは至らない港町だったのでしょう。
途中で「蛮夷の商船」に乗り換えるにしても、BC100頃には中国〜インド航路ができていたことがうかがえます。

後漢書にはAD166にローマ皇帝アウレリウスの使者が日南にやってきたとあります。
ギリシャ人商人が書いた「エリュトラー海案内記、AD60頃」には東南アジアを北上するとティナという内陸都市があって絹をガンジスへ輸出しているとあるそうです。
エジプトのアレキサンドリアは世界の交易の中心地のひとつで港の入り口のファロス島にはBC279建造という高さ110mの石造りの巨大灯台が1326まで存在しています。
ローマ帝国はここを拠点にインド貿易をおこなっています。中国の絹も運ばれていたでしょう。


BC100頃に中国とインドの航路があり、そこに「蛮夷の海運者」が活躍していたならば・・
戦国時代が終わるBC220頃には東シナ海沿岸の海運者は東南アジアを介してインドとの交易をおこなっていたのではないかと思います(BC2500に遡って良渚文明とインダス文明の交流もあったかもしれません)。

シンガポールからマドラスまで直線距離でおおよそ3千キロ、長崎から上海へは千キロに満たない。
九州や朝鮮半島南岸を拠点にする海運者もその交易の末席にいた可能性も少なからずだと思います。

三国遺事の半島南部の金官加羅国の首露王がアユタヤからの妃をとった(AD50頃)という記述は、アユタヤがインドかどうかは別にしても事実かもしれません(タイのアユタヤはインドのアヨーディーヤの地名を受けたもの)。
カンボジア建国も地元の女王とインド人の結婚によるのだそうです。

下図は明刀銭(銅貨)で山東半島の斉が使い初め、BC300頃の燕では大量に使ったようです。

沖縄の城嶽グスク貝塚からも出土しています。
沖縄に運ばれたのが燕の時代であるかどうか、また貨幣として使われたかは別にして、東シナ海をかけめぐる海運者がもたらしたものでしょう。



徐福伝承

BC219、始皇帝は瑯邪に至って斉の方士から不老長寿や仙薬探しの話を聞いた。
斉の威王(BC320頃)の時代にはすでに海上に蓬莱山を探させているようで、斉の方士はこれを始皇帝にももちかけたわけです。
徐福以前に山東半島から船出した人々がいたわけですが、朝鮮半島西岸に到着するかもっと南へ進んだ場合は多くが難破だと思います。
(済州島の三神人神話の源はBC2000頃の三苗渡来だと思いますが、もっと新しい時代ならこの人々か)

いい船と腕の確かな船乗りに恵まれれば九州へ到着する可能性もあると思います。
しかし、日本各地にある徐福上陸伝承のほとんどはBC500に遡る初期開拓者の到来、戦国〜秦時代の戦争避難民渡来、BC100頃の武帝の征服と強制移住から逃れた越人避難民の渡来、これらが徐福伝説と結合したものではないかと思います。

古老の話では偉い人がやってきたというが記紀にはそれらしき話がないなあ・・
中国に徐福という話があるがそれではないか・・
そうか、それに違いない・・


春秋戦国の呉越には大型船が存在したようで楼船、橋船といった名称が残っていますがどんな船かはわかりません。
漢書地理志のBC100頃のインド航路の船は推定500キロほどの航続距離、AD400頃のインド航路の船は乗員200人ほどで50日数千キロの航海ができたようです(10章古代船参照)。

沿岸用の船なら巨大船も作れるでしょうけれど外洋船だと船体強度や帆の大きさなどいろいろな制限でやたらでかい船は造れないと思います。
遣唐使の帰国用に提供された宋船が長さ24mで50人ほどが乗ったそうで、これを越えるサイズではないとみてBC200頃の山東半島の船としては、数十人乗りの排水量100トン程度か(遣唐使船の半分程度)。

人数は童男童女が五百人であれ三千人であれ、人数が多ければ船の数を増やせばいい。20隻〜100隻といったところですが、20隻でも民間船としては大船団だと思います。

何日航海するつもりで水や食料を積んだのかを知りたいのですが、あいにく見えません。
水が腐る日数の航海はできない、ヨーロッパの大航海時代では腐りにくいビールを入れた大量の樽を積んでいます。
速度は帆走としてBC100頃のインド航路の平均速度3km/hと同じくらいとして1週間で500キロ。
山東半島から朝鮮半島西岸で500キロ、済州島から九州西岸でやはり500キロ。
それぞれ1週間の航海となるので積んだ水もなんとか腐らない範囲になりそうです。

呉越なら外洋航海可能な船を持っていたはずですから、越が山東半島の瑯邪に都を移したときにここでも外洋船を作ったかもしれません。
しかし後の斉が必要とした船は黄海横断と沿岸づたいで長江あたりまでゆける船でしょう。
もし、沿岸型の船だったとしたら朝鮮半島までは問題なくても、対馬海流横断と黒潮の流れのなかでほとんどが漂流し難破したかもしれません。

始皇帝から金品を頂戴して秦から脱出して新天地を求める・・徐福ははなから始皇帝のための仙薬探しなどは考えていなかった(^^;
始皇帝は山東半島の古来の信仰を改変して反感をかっています(瑯邪八神の誕生)。
徐福は斉時代から継続する蓬莱探求と始皇帝に反発する人々をうまくまとめて神仙求道を実行した人物だと思います。

弓矢が必要で出直した様子もあるので、朝鮮半島南西岸からいったん引き返したのかもしれません。
騙されたと知った始皇帝は怒り狂って焚書坑儒となった。
儒とありますが実際には道教(原始道教)の方士を対象にしたもので儒者もとばっちりを受けた(^^;

徐福は戦争避難民や秦の賦役避難民の移住のひとつともいえますが、用意周到で準備した技術や文化が一般避難民とは桁違いで、到着した地域へ与えた影響は少なくなかったと思います。

1999の江南人骨日中共同調査において、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したDNAの一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したそうです。
除州といえば徐福の生まれた?とされる場所。
ま、その歯が徐福の親戚かどうかは別にしても(^^;東シナ海沿岸域の人々が弥生の九州にやってきていたことは間違いないでしょう。

徐福の到着による影響と思える痕跡が確認できない限り徐福伝承は古代のロマン以上にはならないのですが・・痕跡がないことはない・・(^^;


穀璧と支石墓

宮崎県の串間(鹿児島県境の海岸)から周〜漢にかけて皇帝が諸侯に与えた「穀璧」という玉器が江戸時代に完全品で発見され国宝となっています。直径33.3cmです。
鏡は富裕者なら入手できるでしょう。しかし硬玉製の穀璧は次元が違います。まさに国宝です。


中国皇帝から王(領主)として認められた者のみが持てる穀璧。
辺境の地(失礼)にいつそのような人物がいたのか・・謎になっています。

下図は戦国時代の玉璧です。玉璧に龍や鳳凰を描いたものは戦国時代の墓や前漢時代の墓からでているそうです。

BC2000頃からこの時代に至ってこれらの工芸、老子や孔子など諸子百家の思想など、縄文文化との差は圧倒的に広がっています。その文化を持つ渡来者に降臨といった表現が生じるのは必然かもしれません。


日本で発見された穀璧は他には破片が2つだけです。 ひとつは伊都国三雲の王墓、もうひとつは福岡春日市の奴国王墓ですがこちらは焼失したとされます。
三雲のものはガラス製で漢皇帝が各地の諸侯に与えたものといわれます。

興味深いのはガラス穀璧の破片をペンダントにしたものがでていること。
割れたものをペンダントにしたのではなく、鏡の破片のペンダントと同じ目的でわざと割ってペンダントにしたと考えています。
身分証明です、この破片を持つ者は親族である・・
戸籍謄本などない時代に会ったことのない人物の確認をするにはこれ以外にはないでしょう。


灰色の円板は南越から出土したそっくり穀璧の外形です(国立民族博物館/展示会図録より)。
ガラス製ということは鏡と同じく大量生産ができる・・外見も内容も串間の穀璧よりランクが下がると思います。

三雲や奴国王墓の穀璧は漢時代の中国の諸侯が所持していたものではないかと思います。
九州に渡来したとき穀璧を割って破片を子等に分け与え身分証明とした。
奴国王墓の穀璧はそれがめぐりめぐって戻ってきたものか。
もし一致する穀璧破片がどこかで発見されたら・・


戦国〜斉〜秦時代に戦乱を逃れた中国系の人々が九州南西岸へも次々と渡来してきた。
下図は朝鮮半島の支石墓の分布図です。圧倒的に半島の西南岸に多いことがわかります。


朝鮮半島の支石墓形式はいくつかに分類できるようで、古式の形態は半島北部から全域に分布し、西南岸の墓は新しい形態のようです。
戦国時代当初の避難民は北部からの陸伝いだったが、秦時代に近づくと山東半島から西南岸への避難者が大量になったのではないかと思います。

北九州では先住人口が多く中国からの渡来者は先住者や半島渡来者に飲み込まれたでしょう。
しかし人口の少なかったであろう九州南部では少数の渡来者でもその影響が大きかっただろうと思います。
後の隼人族の支石墓類似の墓制などはこのときの影響ではなかろうか。

霧島には夷守という地名がある。おとなりには「えびの市」(ひらがな表記)、韓国岳もある。
この地の人々を夷と呼ぶことを知っており斉や韓につながる山東半島系の渡来人がいたからこその名だと思います。
中国のいつの皇帝がどのような穀璧をどの諸侯に与えていたのか、それによってはこの穀璧を持ちうる人物は徐福が最有力となる・・


BC200頃、薩摩半島西端の岬に山東半島からの船が漂着した。
種子島にも別の船が漂着しています。
その子等は海神族や縄文と融合し薩摩半島や大隅半島に定住してその文化を広めた。

日本で最初の「漢字」が使われた可能性もあり。
種子島広田遺跡の貝札の「山」の文字もその流れのひとつかもしれません。

この文字は素人が模倣で彫ったものではなく専門家の掘った文字だと思います。
広田遺跡は上下2層の墓で出土土器から下層はBC200頃、上層はAD250頃と推定できるようですが、山の文字の貝札は上層からです。
500年近い間隔のある埋葬なのはなぜなのか。地元の人々を葬ったものなら連続性があるはずです。
下層が徐福関係者(男女同数か)、上層が孫権の送った艦隊関係者(男だけか)なら・・(^^;


串間の穀璧は古墳の石棺から発見されたとされますが江戸時代のことでその場所など詳細は不明なようです。
いっしょに鉄剣があったとされ穀璧に鉄錆の付着があるそうです。
副葬されたのは神武〜卑弥呼時代あたりか・・破砕する風習を持たなかった人々でしょう。
大隅隼人族が受け継いでいたものではなかろうか。
後に支配者となる系譜の所持品であればここに残されることはないと思います。



孫権艦隊

時代が下りますが、徐福関連で三国志呉主伝(孫権の項)
遣将軍衛温、諸葛直将甲士萬人浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中、長老伝言秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海、求蓬莱神山及仙薬、止此洲不還。世相承有数萬家、其上人民時有至会稽貨布・・・所在絶遠、卒不可得至、但得夷洲数千人還。

毎度危ない意訳をすれば、AD230、孫権は夷洲と亶洲を求めて兵士一万人を海へ送り出した。
長老の話では徐福はそこへ止まって帰ってこなかったという。
その子孫数万家があり会稽にきて交易する者もいる・・・とんでもなく遠くだが夷洲からは数千人が戻ってきた。

といったところです。孫権もまた始皇帝等と同じく不老長寿の呪文に捕らえられたのでしょう。
この呉主伝に尾鰭をつけた可能性はありますが、後漢書では「会稽海外の東テイ人」の国があって徐福はここへついたとあります。
「徐福調査員」が東テイ人の地で徐福痕跡をキャッチしたのか、あるいは三国志呉主伝の記述に東テイ人伝聞を加えただけなのか。

中国の各時代の研究者は徐福痕跡探査をしているはずです。書紀は特にその調査対象になって精査されたと思います。しかし書紀に関してなにか書かれた様子はみえません。
書紀を読んでなんじゃこれは、と思ったけれど相手の国史を尊重してなにもいわなかった(^^;;;

会稽は長江の河口付近で、会稽海外はそのはるか海の外ということ。二十余国とあるので南西諸島だけとは思えません。
東テイ人のテイは魚+是でナマズとか小さい魚の意ですから、倭や夷と同じ用法による漁労の人々への呼称でしょう。
タン州(サンズイ+亶)の亶は倉庫の意、南国の海辺の高倉のイメージからの名称で、九州南部から奄美諸島あたりでしょう。
(なお、台湾は春秋時代から造船所のある福建の対岸です、ここではありえない)

夷は殷周時代に山東半島などに住む背の低い対抗勢力のことを指したようで、後に中国東方の異民族を総称して東夷と呼びますが、この時代での夷州は半島西南岸から九州西岸あたりを示すと思います。
済州島には随の軍船が漂着して救助されたという記録があります。
このあたりなら帰還は可能だったのでしょうけれど・・なんとなく外洋航海術の衰えを感じる話ではあります。
なお、AD280の呉滅亡時に消えた孫権艦隊の行方といった話題がありますが、三国志三嗣主伝の原文には「艦隊が消えた」とは書いてありません。
「明日當発、其夜衆悉逃走」です。
自然に読むなら明日出発(乗艦)しようとしていた軍勢がその夜のうちに逃亡してしまった、でしょう。
「衆」が「走」ですからこちらはロマンにならないと見ました。
この孫権艦隊は話の前後から内陸の運河や沿岸での戦闘用とみえます。外洋航海できる船かどうかも?です。





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