【 第7章 神話と歴史のはざま 】
霧の彼方の神々
最初に、ここでの神々は歴史上の事象との関連を考えるもの、とお断りしておきます。
伊弉諾伊弉冉神以前の神々の系譜は古事記と書紀で少し趣が違います。
古事記では最初に最古の三神として天之御中主神とともに高御産巣日神(タカミムスビ、高皇産霊尊、高魂尊)と神産巣日神(カミムスビ、神皇産霊尊、神魂尊)が登場します。
書紀では天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神は1書に登場するだけで国常立尊(あるいは可美葦牙彦舅尊ウマシアシカビノヒコヂ)が最初です。
降臨の本文?では高御産巣日神が登場して本文?だけでは時系列がつながりません。
古事記でも高御産巣日神を神々の最初においているのにその子孫とする伊弉諾伊弉冉神の子の天照大神が高御産巣日神に命じて降臨が行われたようになっています。
(これについて郷愁がそうさせたのだろうというなんとも苦しい注釈もある(^^;)
その代わりというか、高御産巣日神の「別名」として高木神が登場しています
「概念上の神」であるなら寿命などないでしょう。
無理にある時代だけの存在であるとか、他の神との前後関係を作る必要もないでしょう。
高御産巣日神が概念上の神であるなら天照大神と併存してもなんの問題もありません。
記紀では概念上の神々を寿命のある人間あるいは祖先神とジョイントさせようとしている。
性格の異なる神々の流れを天照大神登場の時代で合成しようとしたためにしっくりしない流れになっているのだと思います。
日本書紀も古事記も当時での解釈と目的によって書かれた本だ、ということです。
伝承としての神話、創作としての神話、このあたりに記紀編纂者の複雑な心境を感じます。
記紀編纂時代(飛鳥奈良時代)では文化を示す神(自然界と人間のありよう)が後退して、人間(祖先神)が前面に出てきているように感じます。
弥生末期〜古墳時代は寒冷化の時代ですから飢饉なども頻発したでしょう。
古墳時代末期では内乱の危険もあった。
意見のまとまりにくい多様性を制限し、求心力のある神々の人格化と配置を行ってそれを統一神話とする、そういう意識も登場するでしょう。
しかし、日本は森林国で絶対唯一神の登場にはむかない環境です。その折衷が記紀に書かれる神々だと考えています。
歴史としての神々
これら天照大神以前の神話世界の神々をあえて具体化するならば・・
天御中主神は天地創造神(可美葦牙彦舅尊も同じく)。
具体化は不可能と思いますが、記紀編纂時代での縄文にさかのぼるイメージ伝承と当時の中国文献等の複合体としておきます。
神産巣日神は長江流域をメインとしてその海を含む文化を概念化した神(自然神と祖先神の中間ともいえます)。
高御産巣日神は黄河流域をメインとした内陸の文化を概念化した神(同じく)。
どちらも根源はチベット高原にあり、長江と黄河双方の源流域です。
すなわち、高天原はその文字の意のままでよい、ということです。
国常立尊は縄文形成時代、黄海や瀬戸内がまだ陸地だった頃のイメージによる黄海および日本周辺の自然神。
縄文を形成した南海文化のイメージ(BC4000以前)は記紀編纂者にも伝承にも存在せず、神代七代は中国文献などをベースに創作したものと推定。
国常立尊の子孫の伊弉諾伊弉冉神は寒冷化のはじまるBC4000以降のイメージによる神。
このあたりからおぼろではあっても伝承が存在しはじめたのではなかろうか。
偉大な人々、あるいはそういう文化が存在したというイメージ伝承です
伊弉諾伊弉冉神は縄文海退による陸地の誕生と寒冷化による人々の行動とその文化を源として誕生した神々。
人間が陸地や自然神を生めるはずがありません、伊弉諾伊弉冉神以前がわからないこともあって自然界の出来事もこの二柱に重ねたのだと考えています。
自然神と祖先神、二つの源が合体されているために創造神的と祖先神的のふたつの性格を持っているのだと思うのです。
また、縄文形成時代の南方系伝承が伊弉諾尊伊弉冉神に重なっている可能性もあるかもしれません。
ニュージーランドのマオリ族伝承との類似性などがいわれることがありますが、マオリ族の祖先と縄文形成の南方系の人々に共通性があるなら双方の神話にも類似性が残る可能性は十分あると思います。
ただし、類似環境であれば類似の事象が生じるはずで、単に似ているだけでジョイントするのは要注意と思います。
祖先神としての伊弉諾伊弉冉神は瀬戸内が誕生地ではなかろうか。
国生み伝承は瀬戸内を西に進むようにみえます。
BC3000〜2000、縄文後期の瀬戸内系土器が西進して九州に進出しています。
縄文海退もこの頃からはじまります。
瀬戸内以東は一部沿岸域を除き、国生み概念には含まれていないと思います。最強の縄文ではあってもその伝承の消えてしまった地域。
寒冷化によって中部山岳から避難移動した縄文の人々の数は西日本全域の人口に匹敵すると思われますが、その西進は近畿どまりであろうと考えています。
西日本の縄文人口の少なさは自然界の許容量がそこまでだったからであり、その地域が大量の避難民を受け入れることはできないでしょう。
最強の縄文、その人々の伝承は文字化できるようになる前に人口激減とともにほとんどが消えた。
語り部を維持するには相応のゆとりが必要なはずで、人口が1/10に減るようなカタストロフィー状態ではそのようなゆとりはなかったと思うのです。
極端な人口減のなかったであろう瀬戸内から西進した縄文の人々の伝承のみが残り、それが伊弉諾伊弉冉神話の源になっていると考えています。
書紀1書と古事記に伊弉諾尊のミソギからアマテラス、スサノオ、月読神等が生まれたという話があります。
ミソギはBC2000頃の寒冷化で困窮する生活と天候不順時代を切り抜けていった人々の「身を削ぐ」生活状況であり、ミソギから生まれるとはその状況を切り抜けて登場する人々を表している、と考えています。
記紀編纂時代でのミソギの概念も原点はここにあって、ある状況から新しい状況を作り出すことだと考えています。
(生まれ変わりでもあります)
日本は海に囲まれて清らかな水もどこにでもあります、記紀にいう伊弉諾尊の海中でのミソギの話と穢れを洗い落とす行為が一体化して後のミソギとなっていったのではないでしょうか。
ミソギから災いの神も生まれているのは天災や飢饉や紛争の多い時代であったことを示しているのでしょう。
BC2000前後、メソポタミアの乾燥化、エジプト古王朝やインダス文明の崩壊、長江の大洪水など混乱の年代です。
伊弉諾伊弉冉神の子として大山津見神、大綿津見神、天照大神、素戔嗚尊や月読神などが生まれ、これらの神々は地祇(国津神)とされますが、大山津見神、大綿津見神、月読神などは縄文文化そのものあるいは縄文の人々にとっての自然神(精霊)だと考えます。
大山津見神(大山祇神オオヤマズミ)は山の恵みを司る神、穀物や獲物を生み出すのは母性ですから精霊としての神格も女性だと思います(祖先神化と戦の登場によって男性化する可能性がある)。
愛媛県の大山祇神社は瀬戸内の島にあります。
三島水軍の根拠地でもあって海神族が先祖であるなら大綿津見神のはずですが祀るのは大山祇神です。
これらの水軍は古墳時代以降の登場であって沿岸と内海の民だからだと思います。
大綿津見神は太平洋と東シナ海の神。南西諸島には若者がポコチンをみせて海に祈る風習もあるようで、これは大綿津見神の気をひくためのようです(^^;(日中文化研究4/海と山の文化)
こちらも女性神、長江以南の影響を受けるならば太陽神の性格も持つと思います。
綿ワダは朝鮮語のパタ(海の意)と同源で、縄文時代では半島南岸でも九州北岸でも共通だったのではないでしょうか。
天照大神は記紀編纂時代の意識が中枢神の存在を求め、大山津見神や大綿津見神に母系社会の祭祀者の姿を重ねて最高神かつ祖先神として創作された神だと考えています。
天照大神に太陽神かつ女性神のイメージがあるのは自然な流れだと思います。
記紀編纂者の記述もそのイメージに従っていると思います。
王朝の最高神であるなら、異なる部族の神々との関係はどうなるのか。
インドのシバ神は100の姿を持つとされます、これは多数の部族の神々を吸収統一化したためです。
天照大神も同様で様々な部族あるいは地域の神々のありようが反映され、記紀の示す天照大神とはいささか異なる様相が残されることもあるでしょう(男性神とみなす考え方や荒魂、和魂という考え方)。
素戔嗚尊は最初から具体的な祖先神だと思います。
大山津見神や大綿津見神系譜とは異質で、歴史的にも「紛争」という事実があったために記紀に書かれるような形で天照大神との関係が作られたのだと思います。
焼き畑農耕ではその神事が月と夜に関連し、稲作ではその神事が昼と太陽に関連するようです(畑作の民族/白石昭臣)。
焼き畑は西日本縄文の文化でありここでは月読神が重きをなしていた可能性がありそうです。
縄文での狩猟に神を伴わぬはずはありませんからその痕跡が月弓神なのでしょう。
記紀編纂者は西日本の月読神に東日本の狩猟神を重ねていると思います。
沿岸漁業で潮の満ち引きを知るのも必須、月読みです。
旧石器時代の壁画は各地で見つかっていますが、興味深いのはこれらの壁画での「狩人」には大きなポコチン(^^;が描かれているものが少なからずあることです。
月読神には狩猟という男性の役目があるのだと思います。
記紀の月読神は縄文の神、西日本に稲作が登場したとき月読神の立場は失われていった。
記紀で月読神が消えるのは西日本での稲作登場と表舞台から狩猟の退場を示すものでしょう。
以降でアマテラス族と書くのは大山津見神の子等と神産巣日神(文化)ないし高御産巣日神(文化)の融合で生まれた九州の近代的縄文、あるいは弥生の一方の源となる人々(文化)の意味で、記紀でいう信仰上の天照大神ではありません。
海神族も同様に大綿津見神の子等との融合で生まれた人々(文化)です。
先史文化の登場
BC4千年頃の縄文海進ピークのとき中国大陸の海岸線はどうなっていたのでしょうか。
資料がなくて変遷地図ではいいかげんですが、もし10mも現在より海水位があがったとしたら山東半島は島となり、江蘇省などは海底になっていたと思われます。
BC10000〜BC4000頃までは陸が沈んでゆく時代、スンダ大陸沈没からはじまって東シナ海沿岸の人々が次々と日本へやってきた。
温暖化では人々とその文化は北上する、その人々が縄文文化の一方のベースになった。
大陸と列島は海で切り離されていますが、その距離はまだ近かった。むこうに陸地があるという伝承も伝えられていたでしょう。
東南アジア原産の照葉樹種や稲(熱帯ジャポニカ)も運ばれてきた。
そのルートのメインは大陸沿岸北上と西南諸島北上でしょう。
沿岸北上組は農耕をメインにする人々でしょう。
西南諸島北上の多くは海と漁労を得意にする人々でしょう。
しかし、BC4000頃では江蘇省は半ば海没し、東シナ海は現在よりも広大となっています。
温暖化も終わりです、北上する必要もなくなった。
日本へやってくる人々は漁場を求めるわずかな海洋民だけになったのではなかろうか。
農耕民は大地から離れることを好まないはずで、中国大陸に土地はいくらでもあります。
長江〜淮水でひろまりつつあった温帯ジャポニカはまだ日本へはやってきません。
日本にはまだかっての南海民のもらたした熱帯ジャポニカ(陸稲)があるのみだった。
熱帯ジャポニカであれば種籾だけ運んでも栽培できたかもしれませんが、水稲では灌漑など水田技術をもつ農民が伴わねばなりません。
あれースクナ様、故郷に帰ってしまうのかね。
うん、先日やってきた仲間の海賊が故郷へ戻れというんだ。
海賊?
あっ、いやその、故郷の仲間がいうには向こうでは新しい村があちこちにできて手が足りないらしい。
こっちで骨を埋めるつもりだったんだが帰ることにするよ。
そうですかあ、まだまだ教わりたいことがたくさんあるんだけど、我々の村づくりはうまくいったのかなあ。
うーん、うまくいったこともあるしまだだめなこともあるなあ。
だめなことって?
稲だよ。俺は稲は不得手だからな。稲の得意な連中は海を渡りたがらないしなあ。
稲は確かにおいしいけれど魚も粟もたくさんあるからなくても大丈夫ですよ。
水田作るのはたいへんだし粟の方がたくさん採れるし。
稲もうまくつくれば粟以上にたくさんとれるはずなんだ、でもそれが俺にはできないんだ。
もっと村が大きくなったら魚や粟が足りなくなる。そのときに稲が必要になるんだよ。
そのときは知らせてくれや。稲に詳しい助っ人を送ってあげるよ。
稲がうまくいってからのつもりだったが、お別れの挨拶がわりに酒の作り方を教えてあげよう。
少彦名命も酒や薬のことは詳しいが農耕については素人だった。
高皇産霊尊のいう「たいそう悪でのう」に注目です。ワルで酒と薬を得意にする海洋民、少彦名命は海賊だった。
(記紀に書かれる少彦名命は弥生の新文化伝達者、スクナは縄文の新文化伝達者)
しかしその人々もBC4000以降ぱったりとやってこなくなります。
温暖化が終わり、東シナ海沿岸の海退がはじまって東シナ海沿岸には見渡す限りの沃野ができはじめたからです。
開拓村が沿岸のあちこちにできて猫の手も借りたい状況になって海賊も冒険家も忙しくなった・・(^^;
内陸でも温暖化による人々の北上が停止し、寒冷化による南下がはじまります(地域によってその状況は単純ではありませんけれど)。
その折り返し地点、あるいは異種文化の接触した地域の文化が相互刺激によってさらに発達を始めます。


黄河流域では西方から麦がもたらされた。北と西と南の接点でもある山東半島BC4000頃に大ブン口文化が登場しています。
ここでは記号の刻まれた甕が出土しています。

大ブン口文化はBC3000頃に龍山文化へ発達し、南北からの影響を受けながら、黄河上流の仰韶文化と混合して殷文化に至るとされています。

土器は黒色で良渚文化の土器の影響があるかもしれません。土器を焼いてから彩色をほどす「彩色土器」です。
文字の可能性のある記号列の刻まれた土器破片が発見されています。
現在の遼寧省のBC4000頃に紅山文化があります。
龍の原型とみられる玉器がでていますがまだ武力と富の存在はみえないようで、いかなる文化だったかはこれからの研究のようです。

同じ頃の黄河上流には仰韶文化があります。
土器は赤色土に黒で絵を描いてから焼いた「彩陶土器」で、魚の絵が多く登場し、記号を刻んだ土器がでています。

顔はそれぞれ微妙に雰囲気が違いますがモンゴロイドであるのは確実。
家には2種類あるようでキノコ型に鳥の巣箱のような出入り口のあるのが面白い。どちらも屋根壁は土のようです。
アワ、ヒエの栽培をメインとして黄河の漁労と狩猟を補助としていたようです。
良渚文化の前身でもあるBC6000頃の河姆渡には優れた骨器が多数出土しますが、石器にはこれといったものがなく加工も未熟です。

土器は土に植物繊維を混ぜて焼いたもので黒く、良渚や龍山の黒陶はこの技法を受けているのかもしれません。
猪にわざわざ目のごときをふたつ書いているようにみえます。
双鳥文様にも同じく「目二つ」にこだわりがあるようにみえますが、これが良渚文化の文様に継承されているのかもしれません。
下図は良渚文化(BC3000〜2000)の玉器と土器です。

左4つが玉器でこの文様は殷のトウテツ文様の原型ともいわれます。
次のふたつが良渚特有の黒陶土器です。
右端は長江中流域の大渓文化(BC4000〜3300)の土器で竹筒を容器に使う風習が土器化したもので、良渚系土器ではなく仰韶文化系の土器にみえます。
大渓文化を引き継いで発達するのが屈家嶺文化BC3000頃で、青銅器発達の源でもあるようです。
中国大陸ではBC4000頃から北方系文化と南方系文化が接触し、稲による食料の安定を得た長江流域がBC3000あたりの最強文化となった。
しかしBC2000頃に長江と黄河流域の大洪水によってこれらの文化は滅亡衰退し、その残余が北方系文化と混合しながら次世代文化(夏→殷)として復活します(中国神話の尭舜禹時代)。
日本ではBC4000頃までが温暖化の時代で、南の文化が列島を北上して縄文文化を生み、BC4000以降では寒冷化の時代となって逆に北の文化が列島を南下して、再び新たな刺激を縄文に与えた。
縄文土器は大陸のどれとも異なる独自の発達をしていると見えます。
外来文化との接触がなく、大洪水などもなく森林と採集による文化が数千年をかけてゆっくりと継続発達したからだと思います。

縄文の文様は蛇、蛇信仰を土器の造形にこめた。
注連縄シメナワ、御幣の形は縄文土器の信仰をそのまま継承した形で、植物で作った同様の形のものもいろいろあったのでしょう。
アメリカインディアンのヒダッツァ族には蛇が粘土と土器を教え、女が土器を作り男が守るといった伝承があります(東アジアの古代文化104)。
西日本から「芸術的な」玉器や縄文土器がでていないのは西日本の人口密度が東日本の1/10程度で、縄文パワーが圧倒的に東日本にあってゆとりも東にあったからでしょう。
西日本では落葉広葉樹ではなく照葉樹で、食糧自給状況に差があったことがその原因と思われます。
しかし、それが弥生にはいって渡来文化(農耕)が西日本に一気に浸透する要因になります。
さてBC4000以降、縄文海退によって大陸より規模はずっと小さいけれど佐賀平野、福岡平野、大阪平野、濃尾平野、関東平野などにも豊葦原が誕生します。
しかし縄文の人々は草ぼうぼうの芦原(沖積平野)で暮らす方法をまだ知らなかった。
檀君神話
朝鮮半島の土器の出現はいまのところBC5000あたりの隆起文土器で、BC4000頃から櫛目文土器が現れます。
これらの文化が日本の縄文に対応するものでしょう。
朝鮮半島北部に外来者がやってきます。
檀君の父の桓雄の降臨の様子からは狩猟の人々ではなさそうです。(5章の中国と半島の始祖伝承参照)
2千年あたりのピョンヤン周辺の高度文化は龍山文化ですから、ここからやってきた人々の伝承と見るのが自然だと思います。
渤海湾中の島から龍山文化特有の卵殻土器という特権階級専用の土器もでています。
「継子であり王宮の息苦しさから逃れたい」というのが降臨の理由ですから、洪水からの脱出ではなく良渚文化との紛争からの脱出とみればBC2500〜2000あたり。
檀君神話での「尭」の時代に降臨したという伝承は正しいかもしれません(尭、舜、禹(夏)、殷)。
黄河系文化の人々が渡来したということになりそうです。
3種の神宝をたずさえ火を地上にもたらしていますが、神宝とは良渚文化の玉鉞(エツ)、玉j(ソウ)、玉璧(ヘキ)の3宝でしょう。
龍山文化は良渚文化の影響を受けていてこれらも出土しています。
「火をもたらす」とは青銅を溶かす火だと思います。
龍山文化からは「真鍮」が出土しており、殷より早い時代の半島北部に龍山系の青銅技術が存在していた可能性はありそうです。
始祖を降臨者である桓雄とせずその子の檀君とするのは先住民の存在が重要と考える意識があるからだと思います。
これは日本の天皇の始祖を降臨者である瓊々杵尊としないのと同じでしょう。
檀君の母は熊が人間になった人物で、先住者を意味するものと思います。
三苗の一員を構成したであろう長江中流域の楚にも熊の名を持つ王が多数います。
熊は山岳地域での最強の動物として北でも南でもその人々のトーテムになっていたのでしょう。
檀君(の一族)の治世は千年以上にわたったとありますが実際には、北方からの鮮卑や扶餘、沿海州からの人々の南下の渦と混じりあっていったのではないかと思います。
北朝鮮では檀君の遺骨が発見されたとしてその遺跡にピラミッド状の記念碑を建てているそうです。
城壁を伴う支石墓の「絶対年代測定」によって4795プラマイ215年前なのだそうですが・・詳細は不明。
大洪水と三苗
BC4000以降長江流域や東シナ海沿岸に広大な土地が出現し、水田と稲の技術で高度な文化が発達してゆきます。
ベトナムでは鳥、蛇、母道信仰などがあり太陽信仰では2羽の鳥が太陽を運んでいます。これは良渚文化の図案にも登場し後の殷の饕餮文様(トウテツ)はこの影響を受けたものともされます。
南の文化(おそらくはスンダ大陸避難民の文化)と北の文化の接触が良渚文化を生み出し、広大な土地と水田による豊富な食料が長江流域の文化を大発達させます。
長江上流域ではインドや西アジアの文化との関連もみえます。
良渚文化や屈家嶺文化などは都市の集合体を形成していますから、長江文明と称してよいと思います。
山東半島〜渤海湾沿岸の大ブン口文化は南からの良渚文化の浸透と、北からの沿海州や内陸狩猟文化にはさまれて複雑な状況となっていただろうと思います。檀君神話は大ブン口文化→龍山文化への過程に源があると考えています。
BC2000頃、長江と黄河で大洪水が発生します。良渚文化は洪水の土砂に埋もれた状態で発掘されています。
温暖化の影響が時間遅れでチベット高原に及んで融雪が急激に進んで大洪水が起きたのではないでしょうか。
黄河もチベット高原が源流です。
だとすると・・ヒマラヤ水源のガンジス川流域やアッサム地方なども大洪水に襲われたはずです。
谷になっているアッサム地方の地下には未発見の文化が埋もれている、と予測しておきます。
長江下流の良渚文化は壊滅し、中流域の屈家嶺文化なども衰退します。
黄河の龍山文化は壊滅をまぬがれたようですがやはり衰退します。
龍山文化の遺跡が高台や丘の上にあるのは水害を避けるためでしょう。
龍山文化の遺跡位置も内陸部へ移動して、戦闘的な内容を持つようになり、道具や金属器の発達が著しくなります。
壊滅した長江流域から周辺に散っていった人々が中国史書にいう「三苗」、そう考えています。
三苗と遊牧系?の「禹」との抗争伝承が中国古伝に多数残されています。
(尭舜禹は、尭:BC2500頃、舜:BC2200頃、禹:BC2000頃の有力者を代表させたものと推定)
三苗氏族のひとつかどうかはわかりませんが、中国南部に防風氏という巨人族の伝承が残されています。
やはり禹と対抗した氏族のようで、禹の命令に従わず処刑されたがその遺骸は山のように大きかったそうです。
インドやスリランカにも巨人族の伝承があり、龍山文化からは175cmの身長の骨が出土しています。
大分県の本耶馬渓の枌洞穴遺跡から発見された多数の縄文人骨の平均身長は162cmで一般縄文人の156cmよりずっと大きい。
島根の大山祇神、中部関東のダイダラボッチ、隼人族の大人弥五郎、沖縄のアマンチュウなどは抽象的な伝承ではなく縄文形成期の巨人氏族の具体的な存在を源にした伝承ではないかと思っています。
逆にフィリピンにはネグリトと呼ばれる小人族があります。
コロボックルや少彦名命は特に小さい人々の系譜なのかもしれません。
中国の陳王朝(AD557)には手足の長い王がいたそうで、記紀の土蜘蛛とかナガスネヒコや魏志倭人伝にいう侏儒はそういう特徴をもった人々の呼称ではないでしょうか。
縄文形成時代にはいろいろな容姿の人々が含まれており、BC2000頃でもそれらの人種間の特徴差が残っていたのかもしれません。
猿田彦命もそういった特徴ある人々の後裔だろうと考えています。
なお、異端あるいは偽書とされる古伝書に日本が世界の中心とか黒人白人からエジプトまで登場したり天変地異で崩壊する話があります。
これは根も葉もない嘘ではなく、日本へやってきた三苗文化の記憶伝承に無数の尾ひれがついて鎌倉時代以降に記述されたものと推定しておきます。
BC2000頃の長江文明であればインダス文明を介してメソポタミア文明との交流があっておかしくないと思います。
長江は絹、インドは宝玉、メソポタミアは青銅、それぞれ他者がほしがるものを持っています。
交易が生じて不思議はありません。
北へ向かった三苗は黄河系や遊牧系と混じって夏や殷の成員になり、南へ向かった人々は雲南やベトナム、タイなどの少数民族の祖先となります。
ニューギニアの北東部やビスマーク諸島にはBC1600頃に移住してきた謎の人々によるラピタ文化があり、後にポリネシアへ進出してゆきます。
この文化も周辺に散った三苗とその文化を源にするものだと考えています。
(参考図と仮説の日本人形成とDNA参照)
契丹古伝に、南原の三族は服従しなかったために神祖が海に放逐しこの後裔が「難波」や「巨鐘」を経て半島南岸に到来して王となったとあります。
巨鐘は山東半島、難波は済州島あたりか。
済州島は五島列島や長崎に至る中継地としても計ったようにいい位置にあります。
済州島には三神人が到来して文化を広め、「済州島の北東にある日本」から嫁さんがやってきたという神話があります。
済州島の北東にある日本というのが奇妙ですが朝鮮半島南部の「倭」のことで、後の「倭=日本」の解釈から倭が日本に置き換わって伝承されたものでしょう。
半島南岸の人々も九州北岸の人々も「倭」であって分離はできない時代の伝承を示すものと思います。
三苗といっても海から山まで各種文化の人々を含んでいるわけで、大きく分けても三種類あるということで三苗と呼ばれたのだと思います。
青とか白といった呼び方もあるようですが、日本の稲作系の神事が青と白を用いて昼間、畑作系神事が赤(炎ないし血)と黒で夜の神事といった傾向がある(畑作の民族/白石昭臣)、となにか関連があるかもしれません。
ここでは長江下流域(雲南ベトナム付近まで含む、後の呉越)、長江中流域から江蘇省沿岸(後の楚)、長江上流域(チベット高原含む、巴、蜀など四川省周辺)の3種族と推定しておきます。
良渚文化には文字らしきが存在しており、研究成果が期待されます。

(長江文明の発見/徐朝龍、左が上の縦書き)
山東半島の龍山文化にも類似の文字らしきがありますがこれもこれからの研究のようです。
大ブン口文化には記号はありますが文字らしきには至っていないようです。
東南アジアには「文字を失ってしまった」伝承を持つ少数民族が少なくないのが興味深いです。
神様から文字をもらったが、水につかって消えたとか鳥や動物に食べられてしまったといった内容で共通しています(文字を失わなかった部族もいて、その部族に差をつけられたというのもあって面白い)。
四川省から青海湖付近に固有文字は持たない遊牧系の羌族キョウがいます。
周との関係が深いと思われる姫氏族(キ)とつながる氏族です。
この氏族には神様の祭文を羊が食べてしまったのでその羊の皮で作ったタイコを叩いて祭文の代わりとした伝承があります。これも文字喪失のひとつでしょう。
文字は持たないようですが現在の苗族(ミャオ族)もそのどれかの子孫かもしれません。
タイにはモンゴル系の少数民族もいて、苗族は元が明朝に滅ぼされたとき雲南に逃げた元の人々が祖先という論もありますけれど・・これは苗族の文化からは??
下図は雲南のモソ族が現在も伝えている祭祀教典の文字です(トンバ文字ともいいます)。

一般の人は文字は読めず巫師が教典や部族の創成神話などを読み聞かせるのだそうです。
(巫師:トンバ、チベットの土着信仰のボンシャーマニズムと親類のようです)
表意文字だが表音文字もあるそうで、漢字の構造とは異なる組み立て方があって象形文字の登場の過程の研究に貴重な情報を提供しているようです(生きている象形文字/西田龍雄)。
モソ族は文字を失わなかった部族だったのかもしれません。
四川省には未解読の巴蜀文字があります。単独で100余種、組み合わせで200余種あるそうです。

(長江文明の発見/徐朝龍、横並びランダム抽出)
巴蜀文化は三星堆文化と関係深いものと思います(インドとの関連もありえる)。
巴民族には船棺葬の風習があります。四川省という内陸盆地でなぜ船なのか興味深いところです。
三苗の渡来
大地が水没しては農耕民もいやおうなく脱出せざるを得ません、長江の稲が周囲に広まってゆきます。
BC2000〜BC1500頃、日本へも水田技術と温帯ジャポニカがやってきた。
海洋系三苗の渡来は西南諸島、東シナ海横断、朝鮮半島経由、すべてのルートだと思います。
海路の場合はその文化は事実上瞬時に渡来した。
しかし水田稲作の渡来はそうではありません。
農耕民は冒険ではなく安全確実な行動をしただろうと思います。
南西諸島を経由して九州へ渡る・・長江からいったん南下して台湾経由の島づたいとなります。
西南諸島はむろん九州南西部も稲作適地とはいえません、だれも渡らないでしょう。
江蘇省沿岸〜済州島〜五島列島は日本への最短距離ですが危険な航海です、これを使うのは海洋系の三苗。
五島列島や長崎はやはり稲作には不向きです。
対して朝鮮半島西南岸は沿岸づたいに北上して山東半島から黄海を渡ればよく稲作適地です。
土地情報も豊富だったと思います。
契丹古伝にいう巨鐘、難波を経て半島西南岸に水稲技術を持つ人々がやってきた。
水田稲作の日本へのルートは江蘇省沿岸〜山東半島〜朝鮮半島西南岸〜北九州だと思います。
縄文の熱帯ジャポニカは高度な技はいらない汎用穀物のひとつで、種を運ぶだけでよかった。
これらは古来から海を得意にする人々によって南西諸島経由で食料として運ばれ、栽培も行われた。
しかし温帯ジャポニカは特殊技術が必要です。それをもつ農耕専業の陸の人々がもたらしたもの。
陸伝いで数百年をかけてゆっくりと運ばれた。
長江文明では手工業、商人、武人といった専門職も登場しています。
食料に余剰が生まれ、全員が食料生産に従事しなくてもよくなったときに生じる職種です。
避難民にはこれら新しい専門職の人々が少なからず含まれていただろうと思います。
祭祀用の玉璧、玉j、玉鉞、あるいは青銅器や文字が日本に持ち込まれた可能性もあると思います。
三苗:「土地はあるか」
先住縄文:「土地はあります」
草ぼうぼうの湿地帯ならどうぞどうぞ・・
弥生文化の基礎をもたらした三苗。
ベトナム沿岸から山東半島に至る東シナ海沿岸に三苗文化が展開し、九州西南岸や朝鮮半島南西岸の人々もこの文化を吸収して「急速に近代化」してゆきます。
しかし温帯ジャポニカは気候と生産性(水田)の問題でBC1000あたりでも限られた地域と祭祀者など特定の人々だけのものだった。
海が得意の三苗は五島列島や九州西南岸に陸系三苗より数百年早くやってきた。
これが記紀にいう海神族の祖先だと考えています。
竜宮城の主でもあり、あるいは天津日子根命や活津日子根命あるいは椎根津彦などの祖先でもあります。
(縄文形成時代の南方からの海洋民を従えることになります)
海神族は海運者として各地の交易を受け持ち、文化の伝達者ともなります。
猿田彦命、出雲のサタ大神、出雲熊野のクシミケヌ神、紀州熊野のケツミコ神など最古級の起源不詳の神々はこの頃の海と陸の三苗文化とその人々の定住が源になっていると考えています。
陸系の文化も海神族によって運ばれます、まずは沿岸に。
少彦名命は神産巣日神の手に負えなかった腕白坊主(すなわちほとんど海賊か)。
縄文後期〜弥生の東シナ海文化の伝達者、大己貴命と接した時代の人物の名と事象が伝承に残ったものと考えています。
記紀では少彦名命の役割があいまいですがウエツフミでは医療や生活手段の改善をもたらす重要な存在として書かれています。
三苗はその名のごとく複数の氏族の総称でいろいろなトーテムがあったのではないかと思います。
楚の王には熊の文字を名に持つ王が何人もいます。日本での「クマ」も類似か?
犬をトーテムにして武に長ける人々が祭祀場などを警備したのが神社の狛犬のはじまりか。
沖縄のシーサーも類似かもしれませんがこちらは後の中国文化の影響も強いか。
狛犬のような象徴はエジプトやインドどこでも普遍的に生じるもので、それぞれの地での印象的な動物がシンボルになっただろうと思います。
狛犬が赤くなると洪水が起きるといった伝承は洪水から脱出した人々の記憶がきっかけになっているのかもしれません。
他にも鳥や蛇などいろいろなトーテムが縄文信仰と混じり合っていっただろうと思います。
朝鮮半島の北部では黄河系文化が流入し、南西部では長江系文化(三苗系文化)が流入して日本の弥生化より複雑になりそうですが、半島南部では黄河系文化の影響は少なく九州北部と類似環境でもあり言葉も文化も九州と類似だっただろうと考えています。
大河をはさんだ両岸の村の関係、といったイメージです。
中国が戦乱時代になるまでは、ですけれど。
近代祭祀
神産巣日神や高皇産霊神(高木神)は伊弉諾尊伊弉冉尊と同時代の神で、中国大陸の文化を意味するとしておきます。
神話上の記紀のいう諾尊の受け持ち範囲は北九州と類似環境であったろう半島南西岸も含むと考えておきます。
この時代に国境の概念などはありません、類似文化の地域をそれぞれが担当です。
縄文はそのうちの日本型文化、半島南部では特に名称はないですがBC5000以降の隆起文土器や櫛目文土器の文化といったところ。
神産巣日神や高皇産霊神の子等の影響を受けて諾尊の子等が変化してゆきます。
九州には海洋民の太陽崇拝と縄文社会がもつ母性崇拝が合体した祭祀があった、ここへ三苗が「近代的」祭祀を持ち込みます。
アマテラス(族)は諾尊の子等と神産巣日神等の子等の間に生まれた子、本籍は九州。
縄文では山岳や海など自然界から受け取るシャーマニズムが基本だったと思います。
西南諸島でははるか昔の南海民の祭祀が九州の縄文よりさらに濃かったでしょう。
それらの祭祀がいかなるものだったかはいまのところ不明。
長江中流域の楚の昭王(BC515)が書物に書かれている「天地の通行を遮断した」とはどういう意味かを学者に聞いたそうです。
学者は、はじめは神霊と民はいっしょにいて、巫の能力に優れたものが自由に媒介をしていたが、民がいいかげんに巫を行うようになって自然界が乱れたので、神霊と民の居所を切り放して乱れを防いだ。これがその意である。と答えたそうです。
自然界が乱れる、とは人間の意志(欲望)が自然界への介入を始める、ということでしょう。
栗林を作り焼き畑を行い山野を切り開いて田畑を作る、これは人間の自然への介入です。
翌年には自然が復活する程度の介入ならさして問題にはならないでしょう。
しかし容易には復活できない規模の介入が始まれば「自然界を乱さないための掟」を導入する必要がでてきます。
「自由に媒介していた時代」より明確に体系づけられた掟です。
一つの集落だけではだめです。その地域全体に共通する掟が必要になります。
ある部族の長老の判断だけでは不可、部族同士の連携が必要になってきます(族長会議とその取り決めなど)。
砂漠のようなところで生活する人々では、自然の厳しさから人を守ることを優先する掟になるでしょう、人間上位でもあります。
自然界が豊かでその恵みをうけて生活する人々では自然界によりそう掟になると思います、人間は従です。
極論すれば砂漠では空と砂漠と人間しかいない、単純ゆえに判断しやすく積極行動が可能になる。
行動の統一が容易、厳しい環境ゆえにそれが必要でもあり唯一絶対の神が登場しやすい。
しかし森林では無数の要素がからみあっていてうかつに行動すれば思いもかけない結果が生じる可能性が高いです。
無数の神々が存在し、それらが複雑に関連しあって容易に人間の行動の決定ができません。
いわゆる西欧の積極あるいはYesNoの明確な姿勢と、東洋の消極的であいまいとされる行動様式は自然環境によって生じていると考えています。
海の文化の場合は・・海は陸のありように影響され、人は海だけでは暮らせないですからその周囲の陸の文化の影響を受けるでしょう。
焼き畑や水田による農地開拓=自然界への介入の先駆者である三苗には近代的祭祀の概念とその必要性を知る祭祀者が含まれていただろうと思います(天地の通行を遮断できる人です)。
近代的祭祀の登場は広い範囲の集落の掟を統一することでもあります。
これは、それを掌中にし自らの意志で掟を作る「国家と王」の登場のまえぶれでもあります。
貧富の差から登場する王(たいていは武力を伴う)とは異なる流れの王です。
縄文シャーマニズムから近代型祭祀へ、祭祀者から王へ、その先駆がアマテラス(族)の誕生。
BC1000前後の時代、定義にもよりますが九州以外ではまだ縄文、しかし九州においては縄文ではなくなってゆく微妙な時代です。
天神と地祇
「天神、天津神」は神産巣日神や高御産巣日神の子孫、有力な古代氏族の祖先神となっています。
弥生文化の先駆けをもたらした先進文化を保有するグループ。
「地祇、国津神」は伊弉諾伊弉冉神の子孫、はるか昔に縄文を形成した人々の子孫を意味すると思います。
縄文文化はアジア最古の文化だったが、中国大陸の文化は縄文よりはるかに高度に発達していった。
大地の広さ=可能性の大きさ、そこに差があったのだと考えています。
異文化との接触、いろいろなチャンスがさらに次のチャンスにつながってその差は拡大してゆきます。
最古の天神の文化のひとつが神産巣日神の子等(三苗)の文化だと考えています。
BC6000〜2000頃の長江下流域の河姆渡文化や良渚文化(BC3000頃、後の呉越)、中流域の大渓文化や屈家嶺文化(BC3000頃、後の楚)、上流域の文化(BC1500頃三星堆など、後の巴や蜀)の文化です。
多くは母系社会でしょう。朝鮮半島南岸を含むはるか昔の縄文に照葉樹林文化をもたらした人々の子孫であり、アマテラス族や海神族の一方の祖先でもある人々。
縄文と同じく海洋を含む豊かな森林の文化で「自然界の中の人間」の考え方をベースに持っていたと考えています。
後に道教に発展する考え方です。
BC2500以降では山東半島の龍山文化もその影響下にはいり、朝鮮半島西〜南岸にもその影響が及んだと思います。
ベトナム〜山東半島までの東シナ海沿岸と長江流域が神産巣日神の文化圏で、漢時代でも黄河系とは異なる文化をもつ地域になります。
天神のもうひとつの文化が高御産巣日神の子等の文化で、黄河流域を中心とする内陸文化です。
夏と殷の成立には長江文化の影響が大です(夏の存在が確実となってきたようです=二里頭遺跡)。
殷や周では貝を貨幣として用いていますが、海と沿岸の神産巣日神文化の影響を受けたものだと思います。
周は遊牧民族を首班としますが殷文化を継承してこれを発展させ後の漢文化の源となります。
これらを高御産巣日神の文化としておきます(より新しい文化)。
周は遊牧系、砂漠系ほど極端ではないにせよ森林系とは異なる考え方の文化になるでしょう。
殷の首都はたびたび移動していますが、青銅生産のために周囲の森林を伐採してしまったため、という論があります。
そうであるなら殷時代に神産巣日神系の考え方は失われていったことになりそうです。
春秋時代では「人間対人間」がベースとなる儒教が登場します。
ここには自然界と人間の関係は登場せず、後に道教を生み出す神産巣日神系の考え方とは異なります。
(これが後に道教と儒教が対立する根源だと思います)
朝鮮半島北部〜中部は早い時期に殷、周文化の影響を受けていたでしょう。
西南諸島はむろんですが貝の道を介して東北縄文も殷周文化と接していた可能性低からずと思います。
下図は縄文(末期?)の山形と青森の出土品です。


戦国〜秦にいたって戦乱による黄河系文化とその人々の移動が激しくなり、高御産巣日神系の文化が朝鮮半島に流れ込みます。
この文化の日本への登場はBC500以降の山東半島と朝鮮半島を経由し、その地域性を帯びたものになるはずです。
神産巣日神系の文化は縄文との共通項が多く自然に縄文と合体して浸透したと思いますが、高御産巣日神系文化の浸透にはその背後に戦乱による圧力が介在しています。
朝鮮半島では山東半島からの影響が強く半島古来の祭祀は早々に塗り替えられていったのではないでしょうか。
日本では直接大陸から渡来する者は少なく、半島よりはずっとゆっくりとした変化になっていただろうと思います、当面の間は。
天照大神や素戔嗚尊等は本来は地祇なのですが、「天で生まれたので」天神に含めるという特例扱いの解釈をされた神々になっています。
天で生まれた地祇とは天神(神産巣日神系、高御産巣日神系)と地祇(縄文)の混血によって誕生した人々を意味するのでしょう。
アマテラス族は大山津見神と神産巣日神の子であり、海神族は大綿津見神と神産巣日神の子。
スサノオは朝鮮半島の先住者と高御産巣日神の子。
ただし、混血者すべてを天神扱いにするのではなく記紀には微妙な判断がありそうです。
それが記紀編纂時代(飛鳥奈良時代)の神道の芽生えとなる考え方だと思います。
記紀における神代での「子」という表現は実子とは限らず、同族ないし同じ地域の出身者であればその代表者の子として表現した、と考えています。
アマテラスは九州先住者(神産巣日神文化によって近代化した縄文)の代表とし、スサノオは半島由来の渡来者(多くは高御産巣日神文化によって近代化)を代表させて、それぞれの子であると記述するわけです。
記紀における神代での系譜表現は血縁関係ではなく、系譜=同系文化と考えるべきと思っています。
スサノオの娘婿となる大己貴命、娘婿ですから外来者です。
それでは大己貴命とは何者か、どこからやってきたのか・・これらは出雲系譜の中枢でもあるのでまた後ほど。
島根の佐太神社のサタ大神は神魂命(カンムスビ)の子とされます。

豊後水道高知県側の佐多岬、薩摩半島の佐多岬などの「サタ」もBC1000〜BC500頃の航海者の神々あるいは航海者自身にちなむ名だと思います。
少彦名命も神産巣日神の系譜ですが具体的な伝承があるのはサタ大神より新しい時代の渡来者をモデルにしているためだろうと思います(結婚して子供ができたという話も聞かないのでやはり帰郷したのでしょう)。
最古級神社のベースは縄文から弥生にかけての神産巣日神系と縄文文化の合体。
高御産巣日神系がはいってくるのは弥生中期以降で、父系あるいは祖先神的傾向が強く具体的な技術、武や富といったものと混合された形になっていると考えています。
神社の建物は南方系の高床です。最古の神々が神産巣日神(南方系)の流れにあり、日本の自然環境を含めれば必然と思います。
言語と文字
このころの九州や朝鮮半島(南部)の人々の言葉はどういう状況だったのでしょうか。
北方の狩猟民と南海民の合体があってから1万年。
長い年月が同一環境で交流のある地域の言葉を均質化させていた(文法など基本構造の部分です)。
半島南部と九州の言葉の差は九州と東北の差よりずっと少なかったのではないかと思います。
現在の東北方言と九州方言がめいっぱいで話したらまず通じない、それよりずっと少ない差。
一般人も相手の単語や表現方法を使いはしないが多くを知っていただろうと思います。
当時の通訳は海神族の専売特許だっただろうと思いますが、ここでは通訳の必要はなかった。
西南諸島では島ごとに単語や表現方法が違うそうですが、たとえば奄美と沖縄は距離では名古屋と京都より離れています。
海は道ですがそれは船という道具を使った場合のことで歩いて渡るわけにはいきません。
名古屋と京都の言葉以上に差が生じると思います。
加えて中国などとの交易が盛んとなればその影響もうけてより島ごとの差が広がるだろうと思います。
半島では北から内陸系の人々が大量にやってきます。
生活環境が異なり言葉も根本的に異なる人々。次いで中国系の人々も大量にやってくる。
言葉の根幹は変わらないにしても弥生初期頃には九州と半島南部の言葉の差が広がってゆき、国家の原型の登場でそのエリア内でそれぞれの標準化が進み、差が固定化していったのではないかと思います。
記号は縄文の初期には使われていただろうと思います。
最初は単なる目印、次にはだれがつけたかわかる特徴のある目印。
まだ言葉とは関連のない記号です。
遠隔地との交易がおこなわれるようになれば、記録が必要になったと思います。
1年後の別人同士になっても「約束」を確認できるように。
交易に必要な約束は場所と時間(季節)と数量だと思います。
しかし、これらの記号を組み合わせて特定の意味を作り出すことがないなら、まだ文字ではありません。
縄文ではここまでの段階だったのではないかと考えています。

石斧の記号らしきに注目です。石斧は中国式で渡来品と思われますが、このような記号を刻んだ石斧は中国側ではまだ発見されていないようです。
この石斧の真贋に疑問説もあったのですが、現在は記号溝に付着していた土と中川代遺跡出土土器の土が同じであることが確認されています(縄文時代の渡来文化/雄山閣)。

また中国側研究者によって長江の良渚文化より古い黄河下流域の大モン口文化中期の石斧である可能性が指摘されています。
前出の青銅器と殷や周文化との関連どころか縄文中期(BC3000頃)には東シナ海〜山東半島沿岸の先史文化と接触していたことを示すものです。
ルートは朝鮮半島南岸部経由か半島北部横断での海路から対馬海流に乗って日本海沿岸となるはずですが、三苗の渡来と同じくまだ一方通行だっただろうと思います。
99章書庫→DNA分析による日本人形成→DNAと日本人5の東アジアのモンゴロイド参照
図の黄色背景の文字の遺跡は埋葬でベンガラあるいは水銀朱の散布が認められています。
北海道での赤が最古のようですが、旧石器時代の慣習が残った場合と大陸側の慣習が流れ込んだ場合が重なり合っているかもしれません。
前出のモソ族の文字も単語対応の文字の羅列にそれを補佐する文字がはさまったもので、そのまま朗読して言葉になるものではありません。
表音文字の場合は発音を記号に表せばよく、言葉を介して理解される文字。
発音=文字数、表意文字より種類ははるかに少なく容易に一般でも用いられることになると思います。
しかしその言葉を知らなければ文字だけみてもなにも理解はできません。
表意文字は言語とは別に存在し得る文字で、言葉を話せなくても文字を使えば意志が通じる可能性があります。
印象を伝える文字、絵や音楽が世界の共通語というのと同じだと思います。
しかし印象の数は無数、文字数も大量に必要になって覚えるのはたいへんです。
近代祭祀が登場する頃に「祭祀用の文字」も登場したのではないでしょうか。
自然界との交信に文字は必要ない、しかし交信の証としての記録が人間に対して必要になった。
殷の甲骨文字がそれでしょう、まだ祭祀者だけのもので一般人が使うものではありません。
近代祭祀を伝えたのが三苗であるなら、BC1500あたりには良渚文化の「文字らしき」も九州に登場していたかもしれません。
しかし、伝達されたとしてもそれを維持できる環境がなければ消えたでしょう。
祭祀者という一握りの人々だけのものであればますますです。
余談ですが、アイコンは原始時代の記号と同じ。
民が勝手にアイコンを作るので画面が乱れてなにがなんだかわからないのがいっぱい(^^;
私のパソコンのアイコンには「図」「画」「文」「訳」「安」「全」なんていうアイコンがあります。
「安」は定常バックアップ、「全」はもっと広範囲なバックアップで二つを並べれば「安全」です(^^)
表意文字を知っているならそれをアイコンに使わない手はないです。
どこからアイコンでどこから表意文字であるかは難しい。
特定の配列にすると特定の意味を成すアイコンがあるならばそれは数字や記号ではなく文字かもしれませんが、それはなさそうです。
環境避難民
・・半島からやってきた人々・・
おお、あそこには故郷の花がたくさん咲いている、どうしたんだろう。
あれか、あそこはお前さんたちの仲間が埋まってる場所だよ。
えっ
昨年の冬だったが、凍死していた人たちを見つけて埋めたんだ。子供もいたよ。
ようやっとで上陸したんだろうが背丈より深い雪で動けなかったのだろう。抱き合うように雪に埋もれていたんだ。
そうか、あの花はあんたらの故郷の花か。いっしょに埋めた袋にはいっていた種が芽を出したんだろう。
あんたらの故郷では雪は積もらないのかね。
ここよりだいぶ寒いが雪はそんなには積もらない。風に飛ばされてしまうんだ。
そんなに雪が積もっては狩りも漁もできないのでは・・?
狩りも漁もなんとかはなるが大変だよ。
うちらの村では集めておいた翡翠で首飾りなどを作って春になってからあちこちの市に持ってゆくんだ。
細かい仕事だが雪に埋もれて動けないときにはいい仕事だからな。
もっと南の村では漆細工を冬の仕事にしているよ。
漆って?
見ればわかるさ、あんたらもこの村で暮らすつもりならそういうことを覚えないとやってゆけないぞ。
仕事を覚えれば4,5人増えたって食い扶持くらいは大丈夫だよ。
ありがとう。お礼をしたいが石剣しか持っていない。これを受け取ってくれ。
これは大きくてきれいに磨かれたナイフだなあ。
俺達はあんたの村の話を聞かせてくれればそれでいいよ。
ほれ、あの木立の向こうがオサの家だ。ナイフはオサにあげてくれ。

大陸の三苗渡来から五百〜千年ほど遅れて半島からの避難民渡来が急増します。
半島南岸にやってきていた三苗の子孫もやってきたでしょう。
日本海沿岸へは半島東岸や沿海州沿岸の人々もやってきます。寒冷化で少なくなった食料を求めて南へ移動する人々です。
三苗の日本への影響は文化の面では大きいが人(血)の面では少なかった。
しかし半島からの避難民は千年単位で継続し人数が多く、内陸や沿海州の人々を含めて多彩だった。
縄文晩期から弥生初期にかけて半島型土器が西日本各地に分布することがこれを示していると思います。
朝鮮半島では北方系文化の影響を受けたと無文土器がBC1000あたりから登場します。
寒冷化にともなって紅山文化(遼寧省)や沿海州から南下してきた人々の影響を受けたものでしょう。
また孔列土器や突帯文土器と呼ばれる形式の半島系と見られる土器も西日本各地に登場します。
半島や沿海州から避難してきた人々の土器が使われ、あるいは模倣したもののようですが、それらの分布や年代様式は研究中のようです。

松菊里の甕は大ブン口文化の甕の流れを汲むようにもみえます。
少し遅れて登場する北九州の遠賀川式土器は稲作と直結する土器形式で、西日本の突帯文土器は九州に近いほど遠賀川土器の影響をうけているようです。
突帯文土器を持ってやってきた初期の人々の中にさらに最新の遠賀川土器が九州から浸透していったのでしょう。
渡来人でも古い時代の人々と新しい時代の人々の波が交錯しているようにみえます。
半島南岸から九州へ渡る人々の場合はもともと九州北岸とほとんど同じ人々で、千葉から伊豆へ引っ越す程度のこと(^^;
BC500頃の西日本では縄文と環境避難民と最新稲作文化の3つのグループが混在しながらそれぞれの文化を保持しながら生活し、そしてそれぞれの人々と文化の混合がはじまっているようにみえます。
土器本体の成分から年代が決定できる手段の発見を期待するところです。
BC2000頃に縄文の雄であった中部山岳縄文が寒冷化によって崩壊し、その人々は日本海沿岸や太平洋沿岸、東海濃尾、琵琶湖周辺などへ移動してゆきます。
BC2500頃に2千ケ所を越えた遺跡数がBC500では1/10に激減しています。(世界史の中の縄文文化/安田喜憲)
長野県だけで西日本全体の人口に匹敵する人口だったようで、その人々が周辺に与えた影響は大きかっただろうと思います。
伝承としてそれをうかがわせるものはいまのところ見えないようですが、山をご神体とする信仰はその流れをひくものと思います。
西日本ではもともと人口が少なく植生も違うので激変はなかったようですが、瀬戸内の土器が九州に進出しています。
東北ではもともとの植生が半寒冷型で中部山岳のような激変と壊滅には至らず、縄文文化が継続して発達してゆきます。

注口土器や耳飾りは関東から多くでていますができのわるい素人っぽいのも少なからず(^^;
図のものは天才「土芸家」の作品と推定、注口土器はけっこうたくさんあるので「のんべ」が楽しんで作ったものに違いなし(^^;
縄文琴は木製ですが多くは朽ちてしまい運良く青森のが残ったのかもしれません。
縄文の「工芸品」からは自由と奔放、ゆとりと多様性を感じます。
東北北部には北海道の寒冷対応文化が流入し、東北南部からは半寒冷文化が関東へ南進してゆきます。
東北と中部山岳の交流は海路と陸路の双方があったと推定。
八ヶ岳山麓から千曲川を下って新潟へでて、能代や十三湖へ至る海路。
八ヶ岳山麓から浅間、榛名、赤城、那須の山麓を通って仙台へ至る陸路。
遺跡の発掘の多くは道路建設などなんらかの開発で発見される場合が多いですが、山間や僻地の遺跡発見のチャンスは少ない。
このあたりのルートには未知の遺跡が少なからずあるのではないかと思っています。
北海道へはオホーツクの人々が南下してきます。遮光器土偶はそのオホーツクの人々の姿を写したものか。
ぷっくり膨れているのは毛皮の防寒着、風がはいらないように袖口をきちっとしばってある。
乳房が表現されているのは母系社会ゆえの象徴としてでしょう。
コロボックルが伝説となってゆくのはこのころか。
リマン海流は沿海州で分流し男鹿半島付近で対馬海流と合流します。
遼寧省にはBC4000の紅山文化があります。
寒冷化時代は文化の南進時代です。BC4000以降に東北や日本海沿岸にこれらの北方文化がやってきている可能性は少なからずでしょう。
西日本は縄文人口が少なく、縄文文化が熟成する前に渡来文化の洗礼を受けて金属社会に移行しているようにみえます。
しかし日本海沿岸や東北、関東では縄文が継続して発達して人口も多く、弥生にはいっても単に渡来文化を受けるのとは違う状況があったと考えています。
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