Holocaust ――The borders――
Chapter:5
菜都美――Natsumi―― 第1話
鈍色のメダル。
何の変哲もない金属製のメダル。
どこかの観光地にでも売っているような、刻印を入れる事の出来るものだ。
恐らくどこにでもあるような、ニッケルで出来た鈍いステンレスの光沢を持ったもの。
大きさは記念硬貨ぐらいか。
手元に感じる重みは子供の頃に感じたものよりも軽いはずなのに、掌の上でひっくり返すのが妙におっくうに感じる。
面には何か、花を刻み込んでいる。
裏は綺麗に磨き上げられた面と、ざらついたドーナツ形の輪が一つ刻まれ。
そのざらざらの面に、プレス機で押しつけられた刻印が刻み込まれている。
8. 8. MINORU HIRAGI
――なんで、かな
菜都美は自分の部屋で勉強をしながら、ふとメダルを眺めていた。
ココアの香りが机の上で漂う中、彼女は何度か掌の上のメダルをくるくるとひっくりかえす。
既に端はすり減っていて、そんなに上等なものには感じられなくなっている。
ただその身に刻んだ時の流れが、確かに残されている。
――明美姉……
ぎゅっとそれを握りしめると、彼女はそのままぱたん、と音を立てて机に身体を突っ伏す。
顔の下に引いた右腕、そしてその掌に握りしめたメダルを感じながら。
柊君、やばいの?んじゃ、うちに来て貰うようにしたらいいじゃない
あの日、実隆と隆弥が刃を切り結んだ日、実隆が、楠家の人間ではなくなってしまった日。
隆弥が兄貴であることを止めてしまった日。
母さんなら、私から言っておくから
実隆が彼女の家に下宿するようになってから、ある種の疑念を抱かざるを得なかった。
『家族』という一つの単位について。
人間と人間の最小単位から生まれる一つの社会、その――僅かな揺らぎに対して。
――あんまり嬉しくないし、どうして、か…
家族の誰も実隆を歓迎しなかった、訳ではない。
誰も特別な反応をした訳でもなければ、実隆がとけ込んでしまうのを手助けした訳でもなかった。
自然に彼は家族の一員のように扱われ、初めからそこに居場所があったように。
実隆は彼女の側にいる。
――何もかもが幻か、さもなければ強引に見せつけられているテレビ番組みたいだよ
ただの張りぼて、砂上の楼閣。
あまりに現実感を失ったこの不自然な『家族』は、誰が為に誰が支えて居るんだろうか。
Chapter 6 菜都美 ― Natsumi ―
「あなた、抜けてからこんな事してたの」
彼女の言葉、そしてここは夜の住宅街。
暗く伸びたアスファルトの道路に、幾人かの影が見えた。
影は三つ。一つは背の高い、やせ形の男。
「…なんだね?レイミ、君には関係のない事だろう?それとも君が現れると言う事は」
黒崎藤司――良く知っている男だ。知りたくない程彼のことは判っている。
彼の側に、背筋を丸めた少年が――いや、元少年だった物がある。
目玉をぎらつかせ、両腕をだらりと下げて、口を僅かに開けてまるで獣のように荒い呼吸をする少年、だったもの。
哀れな犠牲者、枠組みから解放されてしまったモノ。
そして彼の視線の向こう側に対峙する人影、こちらは僅か背の低い少女。
但し眼光は彼の比ではない。睨み据える彼女の視線は刃より鋭く、危険な色を湛えている。
名前は――ああ、彼女はまるでそこに表札でもあるかのように少女の名前を読み上げる。
――マサクラ、フユミ
目が醒めた。
探していた黒崎藤司を発見する――いや、発見するであろう映像。
その時に向かい合っていた少年と、少女。
彼女は映像を思い出しながら身体を起こした。
そこは打ちっ放しのコンクリートに、永く使われていなかった証拠の埃にまみれた廃屋。
うち捨てられた、町の一角、彼女のための『隠れ里』。
まるで人が住むべき場所ではないが、彼女は一向に気にしていなかった。
そもそも生活感のない彼女ら――『識る者』は、人間的な人格を持ち得ていない。
人間性を失っている訳ではないが、子供と大人の違いのように捉えてみれば間違いはない。
普通の人間が必要としないモノを手に入れ、また求めようとする中で彼らは、相応に社会から離れていくからだ。
丁度子供の頃に興味を持っていたモノを、まるで塵でも棄てるように失うのと同じように。
だから、彼女――玲巳も、外観は少女のそれだというのに、漂わせる雰囲気は老衰でいつ死ぬか判らない老人のようで。
『隠れ里』を彼女は眺めて、気怠げに吐息を投げかける。
まるで生き物のような白いそれが、ふっと部屋中に満ちたようだった。
――誰かが、この世界を閉じさせた
彼女は、彼女が見つけた――彼女のうち立てた理論『世界樹理論』は、彼女が唯一にして無二の外へ開いた意識だったのかも知れない。
誰かに、判って欲しい。
そんな意味を込めているのかも知れない。
――『アカデミィ』を出て…何年になりましたの、かしら……
アカデミィと言っても、実際には大学でもなければ国立ですらない。
彼女が今の彼女であることを選択し、そして世界の選択を失う日までの間、手に入れたもの。
それがアカデミィで学んだものだった。
彼女の見ている――いや、識っている世界は平たく言ってしまえば球形。
よく言われるような予言者の『ビジョン』とは大きく違う。
幾つもの何かが重なったような雲のような姿をしている。
それが唐突に明瞭に何かの形をとり、浮かぶ。
ある『時点』であるようでもあり、またそれに法則性がないようにも思えた。
球形の世界を彼女は『識って』いる。有り体に言えばそれは彼女が生まれ持った体質のようなものだ。
だからアカデミィに入ったのだろう。
世界の全てが見えてしまう体質。彼女は――生まれた時から、全てが見えていた。
次の瞬間には、何が起こるのかが手に取るように判っていた。
世界は『時点』をもって切り開かれた断面。
時間という方向に載せて、世界と言う形が出来上がっていく。
積み上がっていくその世界は、決して球形ではないかも知れない。
『雲』のような世界が閉じられて明確に姿をとるのは、平面が積み重なった世界にまた一枚、平面が重ねられたのだと考えた。
それは選択する意志を持つ人間の数だけ存在する平面。
同じ『時点』を基準にして、同じ『時平面』に存在するそれら『閉じた個人の世界』は、関わる事はなくとも同時に存在できる。
こうして存在する人間の数だけ過去から未来に向けて伸びる世界を『樹』に喩えて『世界樹』と呼んだ。
彼女はそれら全てを見、知り得る事が可能で――閉じて居ない可能性すら知り得る全てだった。
アカデミィにいる間にそれが崩れた。
初めのうちは彼女の選択によって世界が閉じ、閉じる未来まで知ることが出来た。
だがその閉じる『時点』すら法則性を失っていく。全く明確ではない方向でもって、世界が折り畳まれていく。
決してそんなはずはないというのに、まるで他人の視点で世界を見下ろしているような、そんな感覚。
時間からすらまるで外れてしまったような――世界から迷子になってしまったような存在。
判らなかった。彼女は選択という自由を奪われて、閉じていく世界を追い求めた。
誰が、彼女以外の誰かが閉じる世界の選択者なのか。今彼女の存在している世界は誰の世界なのか。
それを追い求める為にアカデミィを追われるように辞めた。
誰も悪いわけではなかった。だが、結果としてそう言う形になってしまった。
今の組織『Malkth』に身を寄せているのもそのためだ。だが――そう、それでも、彼女が世界を閉じる事が出来るようにはならなかった。
元には戻れなかったのだ。
そして、何がきっかけなのか、彼女の識る世界とは『明らかに違う』世界に居る自分を感じるようになった。
彼女の知っている『選択によって閉じる世界』と、今居る世界の『現状』のずれ、可能性の差異の理由を今彼女は求めている。
今まで見えていた『未来』という姿が、有り得ない閉じた可能性――別の世界として彼女に認識されている。
もう少し精確に言えば、『彼女が閉じさせた場合の可能性を紡ぐ世界』、つまり本来彼女が住むべき世界に何故彼女がいないのか。
何故その世界を『識って』いるのか。
何故それからこぼれたのか。
何故別の人間の世界にいるのか。
だから、今居る世界が見えない――以前は、全てが判っていたというのに。
「滑稽、ね」
言葉にすると嫌になる程低く、そして疲れた言葉。
普通の人間ならこんな心配はない。ただ、見えない判らない世界の未来に若干の不安と心配を残せばいい。
それはごく普通の人間の生き方だから。
彼女にとってそれは普通ではなかったから、調べ続けた。
アカデミィ時代にうち立てた『世界樹理論』は、それを識るのも、またその綻びも同一人物だった。
クスノキタカヤを追いさえしなければ。
初めの綻び――それが彼の蘇生だった。
そして、彼を追うために接近した存在、ヒイラギミノルも。
――彼に近づけば近づく程、私の見えている世界とはかけ離れていくのですわね、きっと
それが彼の力なのか、『力』と言って良いのだろうか。
良く語られる話がある。
恋人同士が会いたいと思っていたら、偶然街角で会う、などと言う現象だ。
有り得ない、偶然だと否定するのは簡単だ。
でもそれは偶然ではない。
そもそも偶然など存在しない。ただ、そう言う風に見える物なのだ。
もし、そんな二人がそこにいたとして――では、出会う必然というのは何だろうか。
――可能性の交叉……波の『引き込み』現象のようなもの、かしら
二人とも同じ意志を持っていたならば、それは二人の世界が同じ可能性に閉じて交叉することがあってもおかしくない。
その時は同じ世界に二つの意志が同時に存在する――世界樹理論では有り得ない例外。
でも。
にやり、と彼女は笑みを浮かべた。
――…そう、これなら理論も完全ですわ。ねえ?
玲巳は立ち上がって茫漠とした世界を見下ろす。
そして、彼女と世界を隔てる扉に近づく。
『Ateh Malkuth Ve Geburah Ve Gednlah Le Olahm Amen』
ヘブライ語を唱えながら、彼女はゆっくり十字を切る。
そして一言、簡単な言葉を唱えると――まるでカーテンが引かれたように彼女の目の前が開けた、ように感じた。
ノブに手をかけ、一気に押し開けるとまるで切り開いたように光が満ちた。
「会えますわ――か。全く、肝心な時には現れない癖に」
実隆はため息混じりの言葉を零すと、ポケットに両手を突っ込んで、背中で壁を弾くようにして歩き始めた。
朝玲巳に会った時の言葉を思い出して、思わずそう吐き捨てていた。
謎の言葉を残す玲巳。
どういうトリックを仕掛けているのか、綺麗に行く先々で彼女は姿を現した。
だが今回はどうしようもない。どうして――なのか。
せめて彼女に意見を聞きたかった。
黒崎藤司の足取りが一切つかめない今、関わりがあるはずの彼女が頼りだというのに。
『ええ、会えますわ。そう言う風になっているものですから』
藤司が先に踏み込まれることを予想して動いていたとは考えがたい。
暴露の理由は彼女――玲巳の指摘からだからだ。
証拠品として『煙草』と呼ばれていた『Deep Purple』の段ボール箱の写真と、中身を突きつければ簡単にそれも片が付いた。
写真に写っていたとおりのものが黒崎の部屋にはあったが、まさに写真の通りだった。
高校生マフィアが彼の自宅に踏み込んだ時、既に部屋はもぬけの殻、段ボールだけがそこに並んでいた。
尤も、その段ボールは(城島曰く)『煙草』の箱に間違いはないという。
「判らないのは、これだけの量を、段ボールを棄ててどうやって持っていったのか、だが」
そう呟いて、彼は実隆の前から立ち去った。
先日の夕方帰宅するところを最後に、黒崎藤司の消息は消えてしまい既にどうしようもなかった。
――ここから先はどうなってるんだよ、玲巳
盲目が光を探し求めるような気分で彼は苛立ち、眉を右手で押さえて何とか気を鎮める。
「ただいま」
結局今日一日は殆どが無駄になった。
今まで、隆弥を探すために無駄な努力を続けてきた。
その中でも一番有力な情報になりそうだったのに――まるで肩すかしを喰らわされたようで、実隆は疲労を隠せなかった。
「おかえりなさい。……」
すぐに彼の声に反応して、ぱたぱたというスリッパの音と共に明美が顔をだした。
今日は彼女が食事当番なのか、頭に頭巾を巻いて長い髪は首もとで縛っていた。
「何ですか」
明美が怪訝そうな表情を見せたので、思わず言うと、彼女はますます困った顔で視線を横に背ける。
「あ、あの……ね。なっちゃん、一緒じゃなかったんだ」
「菜都美?会ってないですよ、今日一日」
『急ぎなさいな、ナツミちゃんが巻き込まれる前に』
どくんと心臓が音を立てた。
耳鳴りがするように、周囲の空間が歪むように思えた。
「……ミノル君。ちょっと、お話いいかしら」
実隆は喉がなるのが判った。
肌がぴりぴり震えて、何かに痺れたように感覚が薄れていく。
「はい」
――厭な感じ
それは予感ではない、絶対の確信。
一瞬気が遠くなるような耳鳴りに視界が薄れ、今度は逆に一気に視界が明るくなっていく。
まるで掌で総てを触れ、判っている位にはっきりと。
「最近、なっちゃんの様子がおかしかったの。もしかしたらと思ってたんだけど」
真剣な、普段見ない明美の真面目で厳しい表情。
「まだ帰ってないんですね」
頷く明美に、実隆は口をきつく噤んだ。
彼女の話では菜都美の様子がおかしくなったのは、つい先日。
連絡もなく帰るのが遅くなって注意をしたが上の空。
何かあったのかと思っていたが、きちんとした返事をもらえないまま、今日になってしまった。
「でもまだ」
夜中と言う程ではない、と言いかけたがそれを明美が赦さなかった。
「あの娘。……ミノル君に会いに行くって、言ってたの」
――え?
実隆は眉を寄せた。
そして、次の瞬間には再び玄関を飛び出していた。
明美の止める声が聞こえたが、今はそんな事に構っている暇はない。
玲巳の言葉が何度も何度も反芻する。
――っ、糞っ、間に合わなかったって言うのかよ!
苛立ちが彼を加速させても、それは地面を叩く足音が乱暴になるだけだった。
もし魔術というものがこの世に存在しなかったなら、果たして人間は存在できただろうか?
それは魔術師ならば誰でも思いつく一つの疑問。
「魔術を極めようとするのは結構。それ自体は一つも悪いことではありませんわ」
玲巳は気を失って倒れる五十嵐幹久を一瞥して、目を閉じながら話し始めた。
空は砕けた光の欠片に満ち、光を失った月が地平に沈んでいる。
すぐ側にはぴんと背筋を伸ばしたショートの女の子が立っている。
やはり同じように、道路の向こう側で不敵に構えるコートの男を睨み付けている。
男は、決して悪びれた貌を見せずに二人の少女を見据えている。
「魔術を知る事と、それを行使する事は違いますわ。少なくともその差ぐらいは覚えていて?」
「玲巳」
「藤司。あなたは魔術を使うことを選択した。でしたら、解るのでしょう」
有無を言わせず彼女は、感情のない貌で見上げる。
周囲が、硬質な板を折り畳むような甲高くも細かく折り重なった音を立てて軋んでいく。
「何より今は、あなたのしている事を私は止めなければならない。私の知る未来への可能性を刈り取るために」
彼女はあらかじめ用意していた科白を読み下した。
まるでそのために設えた俳優のように。
尤も、彼女にとって賭でもあった。
だからわざわざ、あらかじめ予測可能の範囲内に納めるつもりで、言った。
彼女にとってそれは慈悲でも何でもない。
ただ当然の選択だったにもかかわらず――その先に。
「――!」
最悪の結果が、人の影として姿を現していた。
◇次回予告
「いや、そのね。…もう春だし」
大学へ登校する菜都美と、出会うクラスメート。
彼女は旅行に誘われて、断れずに承諾してしまう。
「彼氏とでしょ、どーせ」
Holocaust Chapter 6: 菜都美 第2話
明美さん。その『色男』って何ですか
承前、風の吹く前に
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