Holocaust ――The borders――
Chapter:3
隆弥――Takaya――
三月。
卒業まであと一週間ない。学校の授業なんてもう形式のようなものだ。
受験のために、と学校側が授業ではなく時間と場所を与えているためこの季節は自主登校なのだ。
――早いな…
頬の傷はこの一月で完全に塞がって、大きな傷跡にもならなかった。
最近の整形の技術というのは凄い。目立つような傷跡を消すことだってできるらしい。
隆弥は自分の机から窓の外を眺めた。
廊下。授業中だというのに、ここ三年生の廊下には何人もの学生が溢れている。
授業そのものはもうないからだ。
外。
この教室から見えるのは、だだっ広いグランドだ。
何もない、本当に何にもないグランドだが、校舎の影になった部分には剣道部の道場がある。
部室はその隣にある体育館側に乱立した武道系部室の一角にある。
――もう、卒業なんだ
思いながら彼は僅か目を閉じて回想した。
冥い夜の闇。
それをひたすら歩き続ける事を繰り返す。
足の裏が痛くなるまで。
靴の底がすり減るまで。
その先に眠る物は――だが、歩いている本人には判らない。
歩きたくて歩いてるんじゃない。
そう叫びたくても、誰も止めてくれるわけではない。
ただ――心の隅が少しだけ痛むのを、和らげてくれるだけ。
何でこんなところで歩いているのだろう、そう思うことから逃れるだけ。
現実を見つめられないのは、それだけ辛いから。
でも、そんな逃避はいつまでも続くわけではない。
実際、これが逃避なのかどうか理解すらできなくなってきた。
存在に対する逃避。
理由に対する逃避。
これが本当の逃避?
現実は――そう、どれがもう現実でどれが夢でどれが本性なのか判らない。
歌い続ける。
その死を含む唄の中で、白刃は閃く。
どこからどこまでが嘘で、どこからどこまでがそうではないのか。
雨が降り風が吹き、たとえ地上が洗い流されるようなことがあったとしても――
この苦行は続くに違いない。
自分に対する不安が増し始めたのは高校二年を過ぎた頃だった。
ある会話の食い違いが、彼を引き留めていた。
「え?昨日試合だったよね?」
「何を言ってるんですか、試合は三日前ですよ」
隆弥は繊細な質だ。
外見や話しぶりから想像できない程細かい事を気にする。
記憶違い――普通ならそう考えるところだろう。
だが隆弥は、幾つもつぎはぎされたような自分の記憶の食い違いに気がついた。
それが始まりだった。
初めは病気だと思っていた。
だがそうではないらしい。幾例も記憶障害の例を見ても、自分のような例はない。
第一、まるで図ったかのように肝心な記憶がなかったり――何故か、自分の記憶と現実が全く違ったりする。
言うならそれは、自分だけ別の時間に住んでいる別の人間のように。
疑い始めると手が届かなくて、止めることすらあり得ない。
ただひたすら――彼は、疑問を投げかけるしかなかった。
――俺は、誰だ…
Chapter:3 隆弥 ― Takaya ―
「何黄昏れてるんだ」
実隆は窓の外をぼぉっと眺めている隆弥の肩を乱暴に叩いた。
特別驚きもせず、ゆっくりと実隆を見返す。
「ん、俺は成績は悪くないからな。櫨倉統合文化学院だったらすんなりエスカレータだよ」
本当はエスカレータではない。編入試験のようなものを受ける必要があるのだが。
これは、部内から成績のいい学生の場合はその成績だけで入る事もできるシステムになっている。
すなわち、ある程度成績が良ければ簡単なテストで点数を補充するような感じだろうか?
逆に成績の悪い人間は『足切り』によって編入試験の資格すら奪われてしまう。
もっとも通常の受験は可能ではあるが……
「げっ、嫌味かそれは」
実隆は思わず顔をしかめて眉を吊り上げる。
ふふん、と隆弥は逆に伺うような笑みを浮かべる。
「あのねぁミノルくん?大学に行かないとか言ってる人に言われたくないよ俺は」
目を白黒させて言い淀む実隆をみてくすくすと笑う。
「…ふん」
実隆は不機嫌そうに自分の机へと帰っていった。
彼の元に、結局警察からの電話はなかった。
来なかった、と言うべきだろうか、それともそれどころではなくなったのだろうか。
あれ以来『ミノル』を名乗ったあの男も見かけなかった。
――自分と同じ名前で同じ顔の男
Doppelganger――ドッペンゲンゲルと言う病気がある。
自分と同じ姿をした、もう一人の自分だ。
伝承によれば、彼に会った自分は死んでしまうのだという。
だがこれがドイツ語である事をふまえれば、それが二重人格、MPDの事を指しているのはほぼ間違いない。
少なくとも実隆はそう思っている。
だからあいつは、自分の何なんだろうか。
『ミノル、あの紙な、お前の名前って訳じゃないかも知れない』
隆弥の話がもし事実なら。
『実』と言う名前の奴と、『隆』という名前の自分が、双子だったという事だって考えられる。
――やめやめ
ぶんぶんと頭を振って、首をごきりと鳴らす。
大きく伸びをして嫌な考えを振りほどくと――丁度終業のチャイムが鳴った。
「卒業前に、どっかで打ち上げしないか?」
鷹は、放課後の教室で大声を上げてクラス全員に声をかけた。
特別クラス全体が仲がいい、という訳でもないが、鷹は――良い意味でも悪い意味でも――目立ちたがり屋だった。
「お、いーねぇ」
あちこちで声が挙がる。
別に――鷹が仕切ってやる訳じゃない。
彼自身も、『ちょっとした提案』程度にわざと聞こえるように言っただけだ。
そうする事で、周囲に影響を与える。
彼自身は『人気者』のつもりらしいが、決して嫌味ではない。
「どう?クスも柊も?」
ふふん、とにこにこ顔の隆弥に、少し意味ありげな表情を浮かべて実隆に目を向ける鷹。
「な、タカマル、俺は」
断ろうとして、でもすでに囲まれていたりする。
逃げられないように右側に立ちはだかる鷹。
椅子を押さえ込んで、左脇から迫る隆弥。
「参加参加。断る必要なんかないでしょ?」
と、罪のない笑顔を湛える。
そして調子に乗った友人連中が二人を――いや、実隆を逃げられないようにする。
「『兄貴』の許可が出たので強制連行」
「なんでーっ」
鷹は叫ぶ実隆を横からヘッドロックを極めるようにしてふん縛ると、彼に囁く。
「真桜さんとどっか行こうなんて考えてる奴は捕まえておかないと」
否定しても無駄、周囲から失笑があがる。
さらに追い打ちをかけるように、できる限りの小声で彼は耳元で囁いた。
「ばらされたくない写真、あるんじゃないかな?」
「お前っ」
怒鳴って顔を上げても、ちなみに実隆は何のことだか判らない。
ちなみに身に覚えもないのだが。
――…どこの、何の写真だろうか
今の勢いで振り解かれた鷹がちょっと焦ってるのを後目に、思わず考え込む。
が、もう一人すぐ側に最も畏れるべき敵がいる事を彼は完全に失念していた。
「ほぉ、それはよくないなぁミノルぅ〜。お兄さんそんなこと聞いた事もないぞ」
「げ」
いつのまにかにこにこと笑みを湛えながら、近寄ってくる隆弥。
実隆に対する脅しではなくて、隆弥に対する揺さぶりだったようだ。
両手をわきわきさせて隆弥は顔を近づけてくる。
「んー?これは詳しく聞かないとね〜」
にこにこ。
素知らぬ顔でにやにやしている鷹を睨んで、実隆は覚悟するしかなかった。
良くあるように、無自覚な親とか酒屋の息子が酒を集めてくるような打ち上げじゃなかった。
集まるのは夕方の六時、そのまま適当な場所で腹ごしらえをしながら話をして、とりあえず馬鹿騒ぎさえできればいい。
そう言う感じだった。
「しかし」
問題は、そこからだった。
有名なファーストフードのチェーン店でがつがつ喰いながら、困った顔をつきあわせているのは滑稽な物がある。
それも、男子高校生ばかり。
傍目には恐らくいやな光景なのだろう。
「ゲーセンてのも芸がないよな」
「最近はあみゅーずめんと云々って言わないと差別用語だよ」
「……でもそれだったらカラオケってのもなぁ」
「何事もなかったように無視しないでくれぇ」
「カラオケでいーんじゃないか?叫んだって誰も文句は言わない」
一同、一瞬顔を合わせる。
「カラオケでいいか」
そこで、なし崩し的に決まってしまった。
とはいえ別に反対する理由もないし、問題もない。
「俺最近の曲はちょっと…」
渋る隆弥を捕まえるみたいに肩に腕を回す実隆。
無論仕返しである。
鷹もにやりと笑って挟み込むように反対側から腕を回す。
「へぇ、じゃあいつぐらいの曲なんだ?何が得意なんだよ」
「あおいさんみゃく」
かきん、と堅い金属のような音がした。
その場にいた全員が固まる。
「………嘘だよ、嘘に決まってるじゃないか」
「お前さんの嘘は嘘に聞こえないんだよ」
「実はダイナマイト節」
すぱこんっ
「んなわけあるかい!」
カラオケならどこにだってある。
別に珍しくもない施設だし、最近じゃ新しいのも幾つか立ち並んでいる。
だから――
「あ」
同じような事を考えている先客がいてもおかしくない。
「アレ、ほら」
菜都美の肩をくいっと引いて、彼女は言った。
菜都美は、急遽電話で『打ち上げ』に呼ばれた口だった。
『人数は多い方がいいじゃない』
隣のクラスにいる友人の見田令子にこう言われれば、断る理由もない。
彼女たちは夕食を食べてから集合、という形で駅前にある繁華街に来ていた。
(ほら、アレ楠くんでしょ?)
令子は視線だけで菜都美に合図する。
見覚えのある集団の中に、見知った顔が何人かいる。
菜都美も頷いて、ちらっと自分たちの中の一人に視線を送った。
嘉島史乃はクラスの中でもあまり目立たない雰囲気の少女だ。
菜都美の友人の中では、一番おとなしいだろう。
――丁度良いかな
カラオケに行くというのも、ほとんど無理矢理つれてきたような物だ。
菜都美は彼女に目だけを向けて、大きく頷いた。
「おーいっ」
実隆は眉を吊り上げた。
丁度隆弥をからかっていたところだ、非常に分が悪い。
鷹と隆弥の二人が一斉に実隆の方を見た。
「まて、待て俺は知らないぞ、俺じゃないぞ俺じゃっ」
言っている間に菜都美達のグループも近づいてきた。
「ほら、こんばんわミノル。なに、丁度良かったね」
「……」
彼女の言い草にじとーっと半眼で睨み返す実隆。
――『丁度良かった』はねーだろーが
これじゃまるで図ったみたいじゃないか。
反論する余地がなくて、男二人の痛い視線を浴びたまま彼はうなだれた。
「あ、ね、君らもカラオケ?」
鷹は隆弥の首をつかんだまま、彼の顔の横で人差し指を立てる。
隆弥はそれを嫌そうに避けて、首をほどこうとする。
「こいつがさ、歌いたがらないから」
その人差し指でぐりぐりと隆弥の頬をつつく。
「えー?なんでー?」
「どう?どうせなら一緒に入らない?」
「…このカラオケ、十人も入れる部屋、ないよ?」
「まぁ待てまぁ待て」
わいわいと話し始める中で、鷹が両腕を振って、大きい声で言った。
「どうだ?この際だから、二手に分かれるっての」
お互いがお互いを見回して、別に反対意見が出るようではなかったので…
「じゃ、とりあえずグループに分かれようか?ほら、うちらはこっち」
「お、おいっ」
鷹のペースに載せられたまま、実隆と隆弥は引きずられるようにして輪から離れる。
上杉、柊、楠の三人なので森林トリオと呼ばれた事もある。
菜都美は鈴子に目配せして、史乃の右に回り込む。
「じゃああたし達こっち」
そのまま左を固める令子と――やってることは実隆達と変わらなかった――実隆達のグループへと分かれる。
「じゃ、とりあえずお互い二時間ってことで」
「続き、まだどっか行くって言うなら、その後で決めましょうか」
簡単に話を付けるととりあえず、とそのままお互いのブースへと分かれた。
鷹、実隆、隆弥、菜都美、令子、史乃の六人のグループである。
ブースに向かいながら、服の裾を真後ろに引っ張られる。
見ると、菜都美が何か言いたそうにして実隆の方を見ていた。
「……なんだよ」
「史乃のことなんだけど」
鷹が相変わらずの様子で話しながら歩いていくのを見ながら立ち止まった。
令子はちらっと菜都美の方を見て、ウィンクしてみせる。
「あのおとなしい娘か」
「隆弥さんの事好きらしいのよ。…それで…ね?」
実隆は僅かな時間だけ、目を丸くしていた。
そして、ゆっくりと溜息をついた。
「………好きにしろよ」
一気に襲ってきた脱力感に彼は興ざめするのが判った。
どうにも、そう言う感覚にはついていけなくなることがしばしばある。
――どうせ邪魔なんかしねえよ
実隆としては何もわざわざ言う必要はないだろう、と呆れてしまう。
「呑気な奴だよ」
む、とむくれる気配がする。
「ちょっと、何よ」
ひょい、と彼女は実隆の先回りをするように回り込んでくる。
もう他の連中は指定されたブースに入ってしまっている。
カラオケのように時間で決められていて金を取る施設では、のたのたしている方が損をする。
「言い訳は後で聞くから、早く行くぞ」
「あ、もう、ちょっとっ」
だから、彼女の非難の声を無視して彼はブースへ向かった。
「ちょっと、前にも失敗したの、ミノルのせいだからね」
実隆に伸ばした手が、宙をつかんだので慌てて大声を張り上げる。
さすがに実隆もむっときたのか足を止めて振り返る。
「何の話だよ、俺、あの娘と顔会わせるのは初めてだぞ」
「そんなのかんけーないわよ、あの時隆弥さん…」
言いかけて、数秒間硬直する。
よくよく考えたら、本当に実隆は関係なかったはずだ。
思わず口走っていたがもし――そう、実隆が隆弥の週末の話をしていたとして。
だから何が変わったわけではないだろう。
「…隆弥が、倒れた時か」
言い訳もできず黙り込んだところに、実隆の低い声が浴びせられた。
低い、真剣な声。
それは実隆にとっても同じ事だった。
――変わってしまったのは、あの瞬間から
先刻までの呆れたような視線が消え、何か急に薄暗くなったような冥い光を湛えている。
空気が重圧をかけてくるように、周囲が重苦しくなる。
菜都美が言葉を出せずにいると実隆は背を向けた。
「あれからは何ともないのか」
『自分のこと』だと気がつくまでに、実隆は自分たちのブースに入ってしまっていた。
中にはいると、既に鷹が歌い始めていた。
二時間というのはそれほど長い時間でもなかった。
あっという間に時間が流れ、もう一つのグループと合流することになった。
「俺ら、帰るわ」
何があったのかは判らなかったが、二次会以降はないようだった。
一瞬だけ合流すると、店の前で散り散りになることになった。
それでも、もう時刻も二十一時を過ぎている。
「…ま、丁度良いか」
声をかけようとして振り向いて――そこに、隆弥の姿がない。
ちょっと離れたところで、先刻菜都美の言っていた少女――史乃と一緒に話をしている。
ふと思いついて、側の菜都美の腕をとる。
「う、わわ、何?」
「隆弥、俺先帰るわ、じゃーな」
有無を言わせず菜都美を引きずるようにして、実隆は隆弥に手を振りながら背を向けた。
充分離れたところまで来て、一度後ろの様子を窺ってから菜都美の腕を放す。
「なな、……何か、用なの」
暗い夜中の照明でもわかるぐらい彼女は動揺している。
が、実隆の視線は彼女ではなくそれよりもっと後ろ――隆弥の様子に注がれていた。
隆弥の様子はわからないが、嘉島史乃という少女は嬉しそうな表情をしていた。
それだけで十分だった。
「用?ああ、お前さんのしている『応援』とやらをしてみただけだよ」
はん、と息をつくと、先刻より幾分か遅く歩き始める。
一瞬唖然と表情を固まらせるが、すぐにその貌を険しくする。
――何よ
でも何も言わずに黙って彼の後につく。
繁華街から下って、自分たちの家まで――途中まで同じ方向だから。
「お前には聞きたいこともあったから、丁度良いしな」
ひょい、と顔を向けると、彼女はむくれたようにうつむいて、口をへの字に曲げていた。
「何よ」
心なしか、声が震えているような気がする。
きっと顔を上げて、実隆を睨み付けて答える。
「……聞くような機会がなかったからな」
かしん、と地面と靴の間で小石が噛むような小さな音。
もう自動車の走り抜けるエンジン音もしない、静かで人気のない道路。
周囲に満ちる光は小さな街灯だけで、二人を遮るものもない。
実隆はしばらく黙ったまま、じっと睨み付けている。
アレがどういう事だったのか、結局一月経った今でも判らない。
僅かでもそれを知っているだろう――菜都美からも、あれ以来何も聞いていない。
聞けなかったというのも事実だ。
沈黙は、しばらく菜都美の表情の上で固まり続けている。
「いいわ。あたしの知ってる限りの事、教えてあげる。ミノルだって知る権利があるはずだからね」
やがて彼女は口元を歪めて笑った。
口元に笑みを湛える彼女は、先刻までの彼女とは雰囲気が違った。
真桜菜都美という少女は、セミロングのさらさらした髪の毛が自慢の長身の少女だ。
彼女自身は気にしているが、少したれ目の愛嬌のある顔立ちをしている。
「…どう?」
「どうって…お前」
耳鳴りがする。
きりきりと、外側の圧力が音もなくましていくようなそんな気配。
すっと彼女は手を伸ばして、実隆の首下に指を――
ずんっ
「か」
背中に急に受けた衝撃。
喉が、絞り出される空気によって鳴る。
視界がブラックアウトしてしまって何が起こったのか判らない。
ただ、喉元に何かがあって。
背中が、先刻までなかったはずの堅い壁に押し当てられていることだけしか、判らない。
「こう、いう…ことよ」
声が聞こえて、突然首から熱い物が体中に行き渡る――感触。
今まで血流が押さえられていたように指先がびりびりと震えて、体中に棘を押し当てられているように痛む。
その意識と同時に視界が帰ってくる。
――すぐ側に菜都美がいて、その後ろに道があった。
風景と記憶と、今の状況から考えて――結論は一つ。
実隆はまず疑った。
自分達が先刻までいた道が遙かに遠くに思えた。
「忘れてしまった方が、良かったのにね」
さらっと自分の頬をなでていく髪の毛。
驚くほど側に彼女の顔があった。
すっと実隆の眼前を彼女の前髪が流れて、彼女は離れていく。
そこは先刻までいた道から曲がった、細い道。
青いくすんだ夜の闇に、セミロングの彼女は実隆を見下ろしていた。
ぞくり
空気が凍てつくように、気配の中に『それ』が混じっていく。
まだ酸欠でがんがんと鳴り響く頭を振って立ち上がる。
「どういうことだよ、一体」
目の前にいるのは『菜都美』ですら――
「どういうこと?」
だが、前髪からわずかに除く彼女の口は鋭く突き放すように口走った。
まるで責任は実隆にあるかのように。
そう聞いた実隆が悪い――そう言い切るかのように。
彼女は大きく顔を振って叫んだ。
「それはあたしの方が聞きたいのよ。なんで、柊実隆があたし達と同じなのか――」
ばさっと音を立てて彼女の髪がなびき、影から表情が覗く。
――泣いて――いる?
強気に叫ぶ彼女が、何かを必死に耐えているかのように苦しそうな表情を浮かべていた。
ふ、と。
それまで場を支配していた強烈な『それ』が消えていく。
同時に彼女の姿が小さくなったように見えた。
「菜都美」
くたびれたような笑み。
ぎこちなく零れた苦笑に、実隆は唖然とする。
「御免、ちょっと抑えがきかなかった。…怪我してない?」
だから思わず声をかけていた。
彼女は言って笑った。
いつもの明るい声で。
ゆっくりと繁華街から自宅へ向かう道を選んで歩く。
先刻辿ってきた道よりも人気はなく、静かで暗い道。
「…言わなくても判るところは省くからね」
アスファルトの堅さが足下にあるうちに彼女は話し始めた。
空にある星は暗く、町の灯りは空の端を燃やすように明るく。
――いつもの夜と変わらない風景
その中に溶かし込むような黒い髪が揺れるたび、彼女の表情に影が差す。
「『真桜』って名前が古い貴族の名前だってことは知らないよね」
真桜――今でこそ有名な名前だが、変わった名前には違いない。
駅前にある真桜武道場は剣、長刀、無刀取りまですべてをこなす総合格闘術を教える。
実践的なものも伝統的なものもすべて教えてくれるという特殊な流派だ。
子供や主婦などがメインで、さすがに本場の格闘技をやっている人間は通っていない。
K-1辺りに出場したりシューティングの選手なんかとは色が違う。
「貴族って言ったって落ちぶれよ。戦国時代のね」
それにしたってかなり古くからある由緒のある名前だろう。
だがそれは、名誉や地位の御陰ではなくその血のせいだ、と彼女は言った。
曰く――真桜は化け物の血筋だ、と。
「おとなしく人間をやってればよかったのよ、下手な貴族が、覇権を狙って化け物に身をやつした」
寂しそうに彼女は呟き続ける。
時々それでも可笑しそうに笑みを浮かべる。
――化け物
御伽噺にでるような鬼や妖怪の類。
今日本にそんな存在がいるとは思えないし、第一――発見されたことはない。
「真桜っていう名前はね、敗北した証。浅はかな貴族が生き残ろうとして暴挙に走った証拠よ」
「変わってるけど、俺は良い名前だと思うけどな」
菜都美はくすくすと笑いながら、大きく伸びをするようにして背を反らせる。
そして、一つだけ大きく溜息をつく。
「ありがと」
そして、にっこりと笑みを浮かべた。
「じゃ、その…『今の』はその化け物の力なのか」
彼女は頷く。
「どういう化け物で、どんな力なのか判らないけどね。半分妖怪…はは、漫画みたいよね」
無言。
いつの間にか立ち止まって、彼女にも言葉をかけられないまま立ちつくしてしまう。
菜都美も無言で僅かに首を傾げて、じっと実隆を見つめている。
――喧嘩に妙に敏感だったのは
数日前の風景。
治樹の、狂気にも似たあの――一方的な殺戮とも言える行動の理由は。
「あの日の、後始末って」
実隆が暴れた時、結局あの少年達は死んではいなかった。
但し、半数は精神病院で治療を受けている。
あの時身体に負った傷よりも、癒えない傷を負ったに違いないだろう。
一人はまずもって復帰できないだろうと言われている。
――そのことを、実隆は知らないが。
「慣れたものよ。気にしないで」
そして少し神妙に眉をひそめて言う。
「…怖い?」
一歩近づいてくる。
どう応えて良いのか判らず、実隆は目を閉じた。
首を振って小さく肩をすくめる。
「お前が喧嘩を嫌うようになった理由は判ったけどな」
「そうよ。あたしは怖い。喧嘩も、この力も――人間も」
菜都美は両腕を大きく広げて、そして口元をつり上げて見せた。
「皮肉よね、人間じゃないから人間が怖いなんて」
実隆は僅かに口を歪めて笑う。
確かに――あの時感じていたのはむしろ恐怖。
生物としての優位を持ちながら、何故か目の前の脆弱な存在が怖ろしかった。
「聞いても良いか?」
頷く菜都美を制するように歩き始める。
彼女もついて歩き出す。
「その『化け物』の血って、他に漏らしていないのか?」
「そのはずよ。一つとしてまともな分家はないはず。……人間の間でまともな生活のできる人がいなかったのも事実」
彼女でさえ発作的に『人間』が怖くなる事がある。
それが真桜の血の所以。
ああ、と半ば上の空で聞いて、言った。
「じゃあ俺のこれって…」
「うん、違うかも知れない。でもミノル…確かじゃないんだけど、証拠はあるよ」
嬉しくないかも知れないけど、と彼女は一度念を押すようにして人差し指を立てて横に振った。
「…つまり、人間じゃない証拠って、こと?」
こくり、と頷く。
にこにこ顔のまま、嬉しそうに。
じりじりと、時間が僅かに流れて過ぎる。
「……確かに嬉しくないよな」
彼女は表情を一切変えない。
怪訝そうに顔を歪めると、実隆は確かめるようにして首を捻る。
「何で判るんだ」
「だぁって…前に、言ったじゃない。ミノルは怖くなかったって」
つうと目を細めて彼女は優しい笑みを湛えた。
「ふふ、あたしは嬉しいかもよ。いーじゃない、世界に一人じゃないんだからさ」
歩きながらこつん、と自分の頭を実隆の肩に載せる。
「お、おい」
「何よ、今更。……もし血を分けて無くても、あたし達はさ、言えば兄妹みたいなものじゃない」
小さく笑い、彼女は身体を実隆に預けるようにする。
どうせ人気もないし、彼女の言うとおりだ、と彼女のしたいがままにさせることにした。
「『自覚すること』って、判る?」
しばらく無言で歩いて、菜都美は唐突に聞いた。
あんまり唐突だったので、それが質問であることに気がつかなかった。
「自覚?」
「そう、自覚。私は人間ですっていう、自覚。…それがあればさ、もう少しは何とかがんばれる」
彼女はひょい、と身体を離して、実隆の目の前に回り込む。
にっと無邪気な笑みを浮かべて彼の顔を覗き込んでいる。
実隆は思わず立ち止まって、少し身体を引く。
「でも、自覚しちゃったら…なかなか、人間だって思えない。だから、人間から外れてしまうの」
それは、例えば思いこみでどうにでもなる、と言う意味なのだろうか。
確かに暗示や催眠術で信じられない力を発揮する実例はある。
でも。
それだったら――今の自分が置かれている立場だって、誰かの催眠術かも知れない。
妄想や精神分裂症にも似たような症状が出るだろう――現実との区別が付かないという事例であげるならば。
とは言え、どれも確たる証拠はない。目の前で起きた事象であるとしても。
「そんなに簡単な物かよ」
「そうよ。…だから怖いの。あんまりに簡単に、その境目を越えられるから怖いのよ。落とし穴の蓋って柔らかい物でしょ」
菜都美は少し人を小馬鹿にしたように笑う。
片方の唇を吊り上げて。
「ほんの少し、あたし達とを隔てるものは障子の紙のようなものなのよ」
見たでしょう、先刻のあたしを。
彼女の表情は硬く僅かに震えているのが判ったが、間違いなくそう語っていた。
――彼女は、その境目が見えるから怖いのか
だから、実隆は頷いて見せた。
菜都美を自宅に送ると、もう時計は夜中の十時を回っていた。
自分の家までは十分もかからない。
星が降りそうな空を見上げて、彼女の言葉をもう一度繰り返してみた。
――自覚があればまだがんばれる
そうかも知れない。
でも、確かにこの『人間ではない』感覚というのは怖ろしい力かも知れないが――抵抗はなかった。
何故かしっくりと自分の中に馴染んでいる。
それが本来の姿だから――そういう気がする。
だからといって、あんな猟奇的な殺人をしたいとは思わないし、学校でのこともまだしこりのように残っている。
菜都美の言いたいことは判る、でも、それは逃げなのかも知れない。
――逃げて良いのかも知れない
こんなにも怖い思いをして、世界でひとりぼっちだって思いこむぐらいだったら『そんなものじゃなくて』人間であればいい。
だから菜都美を誰も否定できないはずだ。あれが彼女の選択した、人間を護る道なんだろうから。
実隆は、だから逃げる道を選択肢に入れる気はなかった。
――調べればいい
自分が赤ん坊の頃に起きた、交通事故を調べれば良いんだ。
何故今までそうしなかったのか――其の必要がなかったから。
自分を自分であると否定する材料がなかったから。
だから――だ。
同じ顔をした、ミノルを名乗る男――あいつの正体も知らなければならない。
この巫山戯た悪夢の元凶を。
自分が動かなければ、菜都美達が動かなければならなくなる。
「ただいま」
自宅の玄関をくぐり、彼はすっかりくたびれていた。
靴を脱いで、ふと隆弥の靴が見あたらない事に気づく。
「お帰り。隆弥ちゃんは?一緒じゃないの?」
「あ、ちょっとね。…先に帰るって断ってきたから、もう少し遅れるんじゃないかな」
答えて玄関に上がろうとすると、心配そうに里美が顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?顔色悪いわよ」
とっさに言い訳しようとして――どうやら、体調が優れなくて先に帰ってきたのだと勘違いしたらしい。
それならその方が都合がいい、と思い直す。
「うん、ちょっと寝不足なんだよきっと。大丈夫だよ」
笑って見せて、彼女に背を向ける。
――気のせいか
彼女の表情が翳っていたように思えた。
気分が落ち込んでいるからだろう、と彼は自分の部屋に戻った。
だが隆弥はその日、帰ってくることはなかった。
嘉島史乃という少女は、クラスでも有名なぐらいおとなしい娘だ。
異性は愚か、同性でもあまり話した事のある人間は少ない。
友人が少ないわけではない。が、そんな感じだからカラオケに行くことも珍しい。
「私、楠さんとお話しできて嬉しいです」
もし彼女を知っている者が見たら間違いなく目を剥くような景色がそこにあった。
隆弥と二人で歩きながら話をしているのだ。
――絶対に後で聞き出してやる
一生懸命話をしてくる彼女を邪険にもできず、『先に帰る』と言った実隆を少し恨んでいた。
『先に帰る』とか言いながら菜都美を引きずっていたから声をかけにくかったのだ。
一体何を考えているんだろうか――そこまで、思考してから彼は彼女を家まで送ることにした。
いつまでもここで話をしていてはどちらにせよ泥沼だ。
で、あれば、さっさと彼女を家へ連れて帰った方が早い。
史乃の家に帰るには人通りの少ない道を歩かなければならない。
少々遠回りでも、人が多くいる繁華街の通りを歩いている方が安全なのだ。
――人の目があるが、彼の人徳もある。それが一番妥当だった。
「そう?…うん、それは嬉しいな」
彼女に対して笑みを返しながら、彼は慣れない感覚に僅かに戸惑っている。
じりじりと。
まるで真綿で首を絞めていくかのように、時間がゆっくり過ぎていく。
だから麻痺していた
「おっと」
突然目の前に、曲がり角から人が飛び出してくる。
さっと史乃の肩の高さに腕を伸ばして、彼女を僅かに後ろに下げる。
と同時に――彼の視界を覆う何か。
ひやりとする冷たい感触、布、乱暴な力に顔全体が絡め取られてしまう。
逃れようと思っても、薬品のような匂いのする液体を嗅いでしまい脳髄が麻痺していく。
冷たい殺意
気のせいか、その冷たい布によってゆっくりと心まで冷たく冷めていく。
一瞬、脳髄を刺激する――何故か水のイメージ。
細かく砕けていくそれは、液体ではなく――いや、やはり液体だ。
水よりも粘性が極端に少ない液体は、粉々に砕けるような細かい水滴を作り出す。
そのイメージに何故か金属的な臭いと感触。
耳元で囁くような声が聞こえた気がした。
どこかに運ばれているのだろうか――もう、その感覚すら判らない。
麻酔か、さもなければもっと危険な薬かも知れない。
身体が転がっていく――地面の上を弾けるように滑る、その感触は確か。
なのに、抵抗しようとできない。
大きく体がバウンドする。
背中に堅い地面がぶつかって、突然視界に網の目のような光が差し込む。
――一人――二人、三、四、五――
がしゃん、と何かが倒れて派手な音を立てた。
どさ、という音が聞こえて、数人の足音がそれを取り囲んでいく。
――素手で、この人数か
冷え切った心は、怒りではなくただ現実を認識するだけで、くたびれたようにため息をついた。
まるで脳髄の裏側は別の人格であるかのように、冷静に結論を下す。
――全くもって、足りない
何が起こったのかを考える間もなく、彼は敵を把握していた。
武器はない。
そしてここは――公園か?
周囲から視線を通るようなものもない。
都合がいい。
「ふん、こいつ、女連れていやがった」
伝わる空気の震えから、それがどこにいるのかを瞬時に割り出す。
自分の位置から――攻撃手段まで。
――誰だ
――またか
全く同時に二つの言葉が頭を過ぎる。
一つは彼の、ごく普通の疑問。
もう一つはまるで――それを心得ていたかのような諦めた言葉。
「おい、起きろよっ」
空気の圧力で、どこに何が来るのかが判る。
右手で払うようにして、タイミングを合わせてそれに腕をからみつける。
――くだらない
相手が声を上げることも許さない――そのまま、振り抜いてくる勢いを使って、身体を捻る。
そう、巻き込むようにしてその勢いを利用するんだ。
身体を起こしながらその足を――放り投げる。
「わ」
がし
破滅的なまでに生々しい破壊音。
男はまるで、自分の腰を中心にして回されたように――後頭部はしたたかにアスファルトにぶち当たった。
動けないはずと思っていたところからの反撃。
完全に油断していたからこそ、多分彼は幸せだったに違いない。
――もう、それを感じる余裕すらないだろうがな
知らず口元がつり上がる。
「な」
ざわめき。
いつの間にか這い蹲った男と入れ替わるようにして隆弥は立ち上がっていた、という風にしか彼らには思えなかった。
把握する。
彼の視界の前には残り六人の見覚えのない男達。
足下――すぐそこに、史乃の姿。
倒れた男はまず目を覚ますまい――僅かに滲むあの液体には見覚えがある。
「何か用か?用件次第ではただではすまさん」
この残り五人の人間は――害悪をなす物と判断、処断する。
「ああ、お前、『日本刀の隆弥』だろう?」
一人、明らかに一瞬で戦闘不能にしたというのに、彼らは一切戦意を失っていない。
こういう手合いは一番厄介だ。
――だから人間相手の戦いは嫌なんだ
隆弥は溜息ともとれる呼吸を、大きく深く一度だけする。
「――だから?」
「この間、そこでうちの奴らと一戦やらかしたんだろう」
くだらん。
全くもって――ただそれだけのために、顔を出したというのか。
「全く下らない」
呆れるを通り越して頭が痛くなってきた。
そんな、雑魚共を何匹蹴散らそうがわざわざ記憶に留めるはずはないというのに――だから、これだから困る。
「俺という総体としての存在を、否定するような事ができるんだったらな」
人間は何と不便なことか。
こうやって種を保存するためには、自らの種を消すような方向性を持とうとも構わないと言うのか。
――だからこそ、俺のような存在がある
「な…に?」
「まだ俺も人間を理解しているわけではないからな――手加減はしない」
左足で大きく踏み込む。
まだ目標の男は凍り付いている。
いや――彼の動きについていけないだけだ。
一呼吸で左手を手刀にかまえ、喉へ素早く走らせる。
まだ遅い。
隆弥は今度は一気に身体を沈める。
認識するより早く両腕を振り上げる。
血飛沫の 背景画
右手で男の頭を捕らえ、引きずるようにして自分の身体を右に傾ける。
勢いをそのまま振り上げた左足で、反対側の男の首を刈る。
身体を起こす力で右手の頭をそのまま押し下げ――右膝に顔をぶつける。
同時に身体を捻り、右足を振り上げ、後頭部に押しつけて――
ぐずり、と
鈍い音が響いた。
一呼吸、それを許さない程の僅かな時間で戦力は半減した。
「うわ」
ある野生動物に囲まれた人間は、悲鳴を上げて背を向けるしかなかった。
だが、野生動物には脅しをかけるという本能は持ち合わせておらず、届く距離にいた彼の、生きたままの内臓に食らいついた。
悲鳴を上げなければ、それより早く逃げていれば、射程外に逃れられたのかも知れない。
――たとえるなら、今の隆弥はただ殺すためだけに襲いかかる爬虫類と何ら変わらなかった。
悲鳴を上げた瞬間の隙、低く身体を沈めてタックルする。
そのまま上下逆さまに背中に背負うと右足の裏で顔を蹴る。
ゴミを捨てるようにして男を投げると最後の一人に向けて大きく脚を振り回した。
ほんの数秒
僅かに数えること数呼吸の間に、人間は一人としてそこに立っていることはなかった――一人を除いて。
「はっ、はっ、はっ、は…」
身体が痛い。
関節と筋肉と、何より振り回していた指先やつま先が痛い。
心臓がばくばくと音を立てている。
まるで全力失踪をした時のよう――酷く興奮しているよう。
確かに今の出来事は異常な興奮を与えた、激しい物だった。
まだ手が震えている。
――『日本刀の隆弥』って、何のことだよ
今のこの惨状は何だよ。
この、馬鹿馬鹿しい状況ってのはいったい何なんだよ、何で俺だって説明できないんだよ――!
その日の朝に、テレビは警察の記者会見を生放送で行っていた。
画面の隅の方に猟奇殺人事件について、というテロップが踊っている。
猟奇連続殺人事件、そう名付けられて報道された事件は、あの路地裏の事件を一端とする大きな殺人事件だという。
実隆も他人事ではないだけに、少し視線を鋭くしてそれを見つめた。
「へぇ」
朝食の時間帯にやっているぐらいだから、相当焦っているのかも知れない。
――確かにあんな事件が連続していたら…え?
今更何を蒸し返す気だ、とテレビに目を向けて、実隆は僅かに目を見開く。
そう、報道するにしては遅すぎる。
まだ解決の目処が立っていないと言うのであれば、それでも今更というのはどうか。
テロップにはこう書かれていた。
『相次ぐ死者、警察の対応の甘さか?』
遡ること二月程の間、場所は駅周辺に限られていた。
週に一度ぐらいのペースで新たに、別な場所で同じ手口の殺人が繰り返されている。
被害者の総計は十を越えている。
――なんだって?
生放送のどたばたの中で、偉そうな年寄りのスーツ姿がマイクに囲まれてフラッシュを浴びている。
『被害者が例外なく切り刻まれている事から、同一犯による犯行と考えております』
被害者のリストのうち、半分ほどは『推定死亡時刻』だけであり、身元は愚か性別まで不明な物まである。
「…!」
思わず声に出そうになった。
『真桜 治樹』
「全く物騒な話よね。早く犯人を見つけてくれないかしら」
ふう、と里美が溜息混じりに感想を述べる。
誰の表情も、変わらない。
驚く事を忘れたような麻痺した空間――実隆の、心臓を除き、誰も気がつかない――。
――あれは夢じゃなかったのか
菜都美からは何も聞いていない。
あれから、彼女も変わった様子はない。
葬式をしたという話だって聞かない。
第一――彼女は、休んでいない。
「ごちそうさま」
朝になっても帰ってこない隆弥より、今はその方が大事だった。
――確認しなければ
一足飛びに階段を駆け上がり、荷物をまとめる。
どうせ――授業なんて聞きはしないけども。
「行ってきます」
あら、早いのねという母の声を振り切るようにして、玄関を出る。
「おはよ、ミノル」
「菜都美、おまえ」
そして、玄関先で二人は全く同じタイミングで声を発していた。
門柱の前で男女が睨み合うようにして立っている。
実隆は身体を預けるようにして、菜都美はその彼を睨むようにして。
菜都美の声もいつもより焦っていた。
彼女も実隆の口調に気づいたのか、僅かに眉をひそめるようにして彼を見つめて黙り込んでいる。
「……なんだよ」
「ミノルが先でしょ、先に言いなさいよ」
むっと眉を顰める実隆。
が、菜都美は更に眉を吊り上げてぎりぎりと歯ぎしりをする。
――怒っている
それもかなり怒らせてしまったようだ。
「あーあー、もう良いわよ、それより大事な話なんだよ。聞いて」
「お、おい」
ぐいっと腕を捕まれて、彼女に引きずられるようにして歩き始める。
登校中の生徒の数が少ないせいか、住宅地だというのに人気はあまりない。
ちらと周囲を見渡してから、菜都美は話を始めた。
「…昨晩、あの娘から電話があったのよ」
「え?あの娘?」
「史乃ちゃんよ。隆弥さん、帰ってきてないんでしょ」
彼女の真剣な様子に、実隆は怪訝そうな表情を見せた。
では何故――隆弥から連絡がないのか。
「…それで」
ちりちりと髪の毛が逆立つような感覚。
全身の毛穴が開いたように、緊張している。
「凄い怯えた声で、あたしの家に電話してきたから、あわてて迎えに行ったのよ」
その時の電話口の彼女は怯えきっていた。
なにをいっても要領を得ず、泣きじゃくるように助けを求めていた。
「史乃ちゃん、電話ボックスで小さくなってたわ。しゃべれそうになかったけど、服が汚れてる以外に怪我もなかった」
昨晩隆弥と一緒に話をしていたのだから、隆弥は一緒のはずだ。
「…隆弥は」
ゆっくり首を振る。
「史乃ちゃんが言ってたのは、二人とも襲われた事だけだった。…多分、隆弥さんに用事があったのよ」
実隆は一瞬頬を引きつらせて片方の眉を吊り上げた。
言いたくもないし聞きたくもない――あんまり良い『用事』ではないだろう。
一つだけ確かに言えるのは、女の子の志乃が無事であると言う事。
もっと言うと――彼女に何かある前に、『隆弥が全てを終わらせていた』ということだ。
「警察に届けた方が良いわよ」
「……その、史乃ちゃんってのはなんて言ってたんだ」
「すぐ病院に連れて行こうとも思ったんだけど、怪我も何もないっていうから…警察には絶対行きたくないって」
実隆は黙り込んだ。
実のところ、彼もあまり警察に行きたくはない。
警察に、というよりも木下警部に会いたくないのだ。
――行方不明…か
感じから考えて、浚われたと考えるには不自然だろう。
第一、女ではなくてどうして男を選んで浚っていくのだ。
だとすると。
「ね、隆弥さんは…」
菜都美の表情から、実隆はすぐに首を横に振った。
「違う。あいつは本当に血がつながっていないんだ…けどな…」
夢の中で見た隆弥の姿を思い出す。
いつもと変わらない表情なのに冷たく――そう、鋼のような声色をした謳うようなKingdom Englishを。
「?ミノル?」
「あ、ああ、悪い。考え事をしてた」
ちょっとだけ不機嫌そうな顔をしている菜都美に愛想笑いを向けて、右手を振る。
ふう、と溜息をつくと彼女は両手を腰に当ててふんぞり返ってみせる。
「まぁいいわ。…で、ミノルは何なのよ」
「…治樹のことだ」
できる限り、感情を抑えるような口調で呟く。
「治樹?…どうかした?」
「とぼけるなよ!今朝のニュースで、殺されたことにっ…」
誰に?
治樹が縦に真っ二つに避けるのを彼は見た。
あれが夢だったのか――それを、確かめるために聞いたのだった。
――治樹が、殺されたのだったら
自分で言っておきながら、そこまで言葉を紡いでおきながら、彼は言葉に詰まった。
つう、と菜都美は目を細めて身体を引いた。
実隆の横に並ぶと、彼の背をぽんと叩く。
「いこっか」
別にそれが否定とも肯定ともとれなかったが、彼女に習って実隆も歩き始める。
「……そうよ、ね。別に、隠してた訳じゃなかったんだ。そりゃ事情だってあるから」
菜都美は言いにくそうな口調で、何度も何度も呟くように繰り返した。
それを避けるように。
忌避した物に触れるように。
――結局治樹は、報道通り死んでいた
彼の葬式は行われていなかった。
初めから、治樹という人物は真桜にはいなかったように。
ただ死亡通知だけを通告されるようにして治樹はいなくなった。
菜都美は泣いてもいなかったが、笑うことはできそうになかった。
「ただね。……気がついたらいなくなってたって、嫌よね」
猟奇殺人事件に巻き込まれて死んだ。
――でももしかするとその犯人は隆弥かも知れない
ずくん、と心臓が跳ね上がるように痛む。
「その、さ。テレビでやってた事件って、犯人は同一人物の仕業の可能性が高いって」
鼻から抜けるような声で眠そうに頷く。
実隆は口元を引きつらせながら、こもる声で言う。
「…もしかすると隆弥かも知れない」
だが菜都美の反応は鈍かった。
驚くでも、息を呑むでもなく頷くだけだった。
だからといってそれを全く信用していないわけでもないようだ。
「そう言ってくれて嬉しいよ。ね、あたしさ、今日は学校さぼるつもりだったんだ」
にっこり笑いながら、昨晩のように身体を寄せて腕を絡め取る。
「お」
「隆弥さん、探そうよ。…どうせ、学校行ったって仕方ないでしょ」
顔が近すぎて表情は見えない。
声は明るくても、だから彼はあえて顔を背けた。
「…初めからそのつもりか」
そう言う実隆も教科書は一冊も入れてきている訳ではないのだから。
断る理由もなかった。
「電話を掛けてきたのはここ」
ある程度の支度をすると、まずは昨晩の史乃の行動から辿ることにした。
史乃は、彼女に話した限りでは隆弥と帰る最中に誰かに襲われて、気がつくと一人きりだったという。
「まぁそんなはずはないわ」
異常な怯え方をしていた事と、隆弥の事について妙に曖昧な話し方だったらしい。
「普通、思い出したくないこととか忘れたいことに触れられたら、パニックの時でも反応はみんな一緒よ」
菜都美は言い切って、この現場に連れてきた。
ここは、昨晩のカラオケボックスからおよそ一キロ付近になる住宅地。
あまり人通りもなく、おかしな様子の彼女を見たところで警察にも連絡がいかないような場所。
特に昨日のような時間であれば、かなり人通りはないだろう。
「…調べたんだけど、この方向に彼女が帰るとは思えないの。だって、全然逆の方向だから」
「調べた、って?」
「昨晩彼女を迎えに来る時よ。……彼女、こっちじゃなくて繁華街の向こう側に住んでるのよ」
結構大変だった、と菜都美は言う。
電話からの声はただの泣き声で、話し方も要領を得ない。
一瞬警察に通報した方が良いんじゃないかと思ったが、止めた。
止めた最大の理由は――言うまでもない。
「だから、ここに来るには何らかの理由がなければいけないのよ」
「あー、君達」
野太い男の声が二人の間に割って入った。
訝しげに振り返る二人の前に、二人組の制服姿があった。
――警察……
実隆は近づいてくる警察官を見て、口の中でしまったと呟く。
――こんなことなら鞄ぐらい持っておけば良かった
「…高校生?」
自分から声をかけておきながら、今度は警察官の方が訝しがる番だった。
冷や汗がこめかみを伝う。
「ええ、もう卒業まで間近なので自主登校の期間なんです。私たち、予備校に行く途中で」
咄嗟に菜都美が反応した。
制服姿以外、説得力も何もないのに――だが警官はああ、と怪しむ事もなく頷いて、懐から手帳を出した。
どうやらあんまり興味がないらしい。
――補導じゃないのか
実隆は思わずため息をついて
「じゃあ、二三質問、いいかな」
「…なんですか」
それでも警戒を解くことなく応える。
菜都美も、いつの間にか僅かに身を引いて実隆より後ろにいる。
「昨晩、この辺りで人の声とか、誰かが通ったとか、些細なことでかまわないから教えて欲しいんだけどね」
思わず実隆と菜都美は顔を見合わせた。
警官の質問には判らないと応えておいて、二人は近くを見て回ることにした。
――そして、数分もしないうちにその場所は判った。
繁華街から歩けば数分だろうそこは、四方を住宅地に囲まれた大きな公園だ。
これでは神社――鎮守の森とそう変わらないではないか。
公園の周囲には無節操に植えられた木々が生えていて、中の様子を見ることができない。
それ以前に、今はどの入り口にも数人警官がいて、立ち入り禁止になっている。
だが判る。
警官の出入りや、その緊迫した雰囲気から――そこで何が起こったのか。
「行こう、多分見ちゃいけないから」
菜都美の声に僅かににじむ喉元の汗を手の甲でぬぐう。
既視感
ぞくぞくと全身の肌の下で何かがざわめく。
――これが ちのにおい
理解している。
だから背中から引っ張る菜都美に頷いて見せて、そこから背を向けた。
「…間違いなく、あそこで人が死んでいる」
死体は既に撤去されているはずなのに、濃厚に血の意識が脳裏に残されてしまった。
妙に敏感に。
「少なくとも二人…恐らくは五、六人」
菜都美は疑うそぶりも見せない。
多分聞き流しているんだろう。
「関係あるかな」
「……」
菜都美はうつむいている。
実隆は即答できなかったことを悔やみながら、付け加えるような形で言う。
「噂を聞いた。…兄貴の奴、駅裏に出入りしてたらしい」
剣道の道場――多分、間違いなくそうだと思うが、こうなれば疑うしかない。
「駅?」
「ああ、道場に通ってたと本人は言ってる」
ちなみに繁華街の方向から言えば、丁度こちら側からであればそう呼ばれる地域を通り過ぎて駅に行くことになる。
「調べておこう」
ここから駅裏までは、実は駅の方向に一直線で向かうことができる。
細い入り組んだ路地で、知っている人間でなければ滅多に踏み込むことはないだろう。
第一、車を乗り入れるには狭すぎるので、車なら少し大回りでも駅前の通りへと向かう。
駅裏までは緩やかな下り坂になっているので、ここからなら駅がよく見える。
その側を通る川まで。
実隆は無言でその川を見つめた。
菜都美はその様子に気がついたようだったが、果たして、何も言わなかった。
「駅の近くにあるビルに、お前んとこの道場があったよな」
「そりゃ、あるけど…隆弥さんは来てないはずよ」
「違う。道場を持ってるんだったら、同じような道場がどこにあるかぐらい判るだろう?」
菜都美はその質問にあんまりいい顔をしない。
「…同じ剣道の道場ならね。うちは剣道の道場なんかじゃないわよ」
突っ慳貪な回答にかちんと来るが、菜都美の方が先に言う。
「でもそうよね…手がかりなしよりましよね。商売敵の事なら確かに知ってるでしょ?」
ぷいっと背中を見せて、ずんずんと歩いていく菜都美。
実隆は下唇を噛んで、彼女の後を追う。
――やべえな
追いつめられている気分。
思わず険悪な雰囲気になりそうになったのを、菜都美は無理に振り切ったのだろう。
――落ち着け
菜都美も同じなんだろう、と自分に言い聞かせて、しばらく無言で道場に向かった。
真桜の道場は駅前にある大きなスポーツジムのビルの七階を陣取っている。
7Fの文字の側の『紹桜流古武術道場』という、硬質な感じの文字が刻まれた金属板。
いつ見ても『武道場』という雰囲気ではない。
「…木の板にしろとは言わないからさ、せめて毛筆体の方が良くないか」
思いっきりゴシック体で書かれた看板には重々しさというのを感じられない。
菜都美も疲れたため息を吐いて首を振る。
「駄目駄目。母さん言うこと聞かないもん」
それに『重々しかったら入門希望者も減るわよ』という彼女の母の考えから、らしい。
母子家庭――少なくとも治樹は父親の顔を知らないという。
菜都美もそんなに父を覚えている訳ではない。
しょっちゅう『海外遠征』だの言って家を空けていたらしいが、ある日を境に急に帰ってこなくなった。
死んだ――何の連絡もなく今までに至るから、そう言うことになっている。
彼女の父親も『真桜』の人間だ、どこでどうなったのかは明確に判らないし――想像したくもない、という。
母親も諦めていたのか、特別な感慨はなかったらしい。
治樹の一件も、彼女たちは同じように考えているという。
――いつどこで、どんな死に方をするか判らないから。
実隆は黙り込むしか思いつけなかった。
自分の家族がそんなに簡単にいなくなるという状況を知らないからだろうか。
――なんでそんなに、身内に対して淡々としてるんだ
当然の疑問を彼は喉の奥で飲み込むと眉の間に僅かに皺を刻んだ。
それ以上は彼自身にも判らなかったから――もう、言葉にもならなかった。
エレベータに乗り、道場の入口まで一息に登る。
エレベーターホールの目の前に受付らしきものがあり、ごくごく普通のガラス扉に道場の名前がある。
それが道場だった。そう、道場なのだ。由緒正しき伝統ある古武術の道場だ。
「初めて来るが…」
実隆は唇を震わせて目を彷徨わせる。
どうにも良い表現が思いつかない。
「ごめん、言わないで」
ガラス扉の文字は、丸ゴシックで金文字。
――どこかのスイミングスクールじゃないんだから
威厳も何もあった物ではないと、半ば呆れてため息をついた。
音もなく開くガラスの入り口をくぐると、硬質で甲高い気合いが聞こえた。
入り口付近からは木造で確かに道場らしい雰囲気がある。
「あ、姉さん来てる」
今の気合いはどうやら彼女の姉――明美のものだったらしい。
ひょい、と覗くと白い道着に袴をはいた女性が長刀を振るっていた。
実隆は言葉を失って、一瞬目を丸くした。
意外だったのは――その、あまりに実践的な、無駄のない動きか。
その動きはなめらかで、長刀がまるで獲物を求めてしゃくるように無機質で的確。
長刀のように長柄の先にある刃は、手元の動きだけでで幾らでもシビアに操作できる。
日本刀の刃を持つそれは手練れの手にかかれば恐ろしく鋭く、早く、そして力強い。
刃が反射する光を、空気を切り裂いていく。
ため息が漏れるとはまさに――
「…見惚れてるね」
からかうような声に実隆は現実に引き戻されて、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
じろっと目だけを菜都美に向けて睨み返す。
「五月蠅い、いいからさっさと聞いてこい」
ほーい、と適当な答えを返して走っていくのを見送りながら、彼はがりがりと頭をかいた。
長刀の演舞を続けている彼女は腰程まである長い髪に、人の良さそうなたれた目を必死に吊り上げている。
――ふぅん
菜都美が御転婆とすれば、彼女はむしろ家庭的なおっとりした女性だ。
初めて会った小学生の時にはもう高校生だったからかなり年上なのだろう。
虫も殺せないようなのんびりした、年上のお姉さんというイメージしかない。
だからこんな彼女の様子を見れるとは思わなかった。
一通り終わったのか、彼女は長刀の端でとん、と足下を叩くようにしてそれを一度直立させる。
作法なのだろうか、その後それを床にまっすぐに置いて、壁際に置いているドリンクへと手を伸ばした。
「……あ、あーっ、もしかして、楠くん?」
ドリンクのチューブを外しながら、彼女はやっとこちらに気がついて、笑みを浮かべながら声をかけてきた。
にこっとした笑みは、さすがは菜都美の姉だけあってよく似ている。
「柊です」
「えーっと…ああ、そうそう、楠くんところの柊くんっ。もう、同じ家に住んでる家族なのに名字が違うなんて」
少し口を尖らせて、人の好さそうな笑顔に目をたれさせる。
よく判らないが、どうやら非難されているようだ。
実隆は困った貌を浮かべて曖昧な返事を返す。
「何?入門?柊くんならきっと素質があるから、すーぐ師範代よ」
何の根拠があるのか笑いながら言うとチューブに口を付ける。
透明な液体がチューブを昇っていく。
「いえ、そうじゃなくて…」
ふと気がついた。
そう言えば彼女は汗をかいているように見えない。
あれだけの動きをするのであればそれだけ疲れるだろう――なのにそんな様子もない。
まるで呼吸でもするように、食物を摂取するように自然に、彼女は演舞していたというのだろう。
――相当の手練れじゃないか
「んー、なに、じーっと見つめて」
んふっと嬉しそうな声を上げてにっこりと笑みを浮かべる。
間違いなく年上なのに、その仕草は子供みたいで可愛らしい。
の、だが、何故か取って喰われるような印象を受けて、ますます困った表情で乾いた笑いを返す。
「ミノル、見つけてきたよ」
そこへ菜都美が事務所からとって返してきた。
――助かった
菜都美が右手に握った地図をひらひらさせて近づいてくる――それに気を取られる。
――不意に、人の気配がした。
「ふぎゅ」
突然自分の顔の前に影が現れたと思うと、それが反応できない程の速度で襲いかかってくる。
ふに、と柔らかい感触と花のような香り。
「えへへへ、可愛い」
実隆は道着で羽交い締めにされるように、思いっきり真後ろから頭を抱きしめられていた。
「明美姉!」
嬉しそうな貌で実隆をいたぶっている姉に、彼女は思わず声を上げる。
「あらー、なっちゃん?今新しい入門者を勧誘してるのよ、何怖い顔してるの」
多分、誰が見たって勧誘には見えないだろう。
第一顔を抱きしめる事はないだろう。
実隆は呼吸困難になっているのかじたばたと暴れている。
「それは勧誘じゃなくて誘惑でしょ!」
――ふむ、それは正しいだろう。何だか気持ちいいし
何となく意識が落ちかけていて既にまともな思考のできなくなった実隆は、思いながら振りほどこうとする。
でも、きちんと極まっていてはずれようともしない。
「あら失敬な。ねー柊くん」
「もがもが」
片方の腕が目を。
もう片方の腕は鼻から口にかけて。
きちんと肉で圧迫しているので、返事するどころかほとんど呼吸ができない。
しかも、両拳は無意識かどうか知らないがきちんと頸動脈をついている。
「ほら、そうだって言ってるじゃない」
「明美姉…博人兄に言いつけるよ」
「へーきよ、ヒロくんわたしのこと愛してるもん」
――どうでもいいよ、そんなこと
実隆はそう思いながら、意識が真っ白になっていくのを感じていた。
「ごめんなさい」
そのせいで道場を出たのは昼前になっていた。
クセなのかきちんと落ちるまで離してくれなかったせいで、意識を取り戻すまで時間がかかった。
――ああいうのも締め落としって言うんだろうか
まだ血が足りなくてぼぉっとした頭を振りながら答える。
「いや。悪い訳じゃないよ」
結果として一時間程時間を無駄にしてしまったのだが。
しかしはっきりと判った。
彼女は完全に気配を絶って真後ろをとった。
いかに彼が素人とは言え、音もなく気配も見せずに組み敷かれたのだ。
――倒されたわけではないが。
「でも驚いた。久しぶりに顔を見たと思うけど、あんな人だったっけ」
「昔からね。…気に入ったものは抱きしめるクセがあるのよ」
頷きながら――好かれているんだったらいいか、とも思う。
彼女の家系の事を考えるとそれも不思議ではない。
「何よ。明美姉には夫がいるんだからね」
すねた声が聞こえて、実隆は首だけひょいと彼女に向ける。
「いるんだからって…お前ね、何むくれてるんだ」
菜都美は困ったような表情をして顔を背けていた。
すねている。
一呼吸程様子をうかがって、実隆は口元を歪めて笑みを浮かべた。
「なんだ、やっぱり自分が御転婆だって事を自覚してるんじゃないか」
「んなっ、何っ…を、ぉ」
びきっと音を立てる程眉を吊り上げて、言葉の意味をかみしめたのか上げかけた拳を止めて、しゅんと肩を落とす。
思わず口の中で笑い声をあげて、また睨まれる実隆。
なんだか痛々しい。
怒ろうとしているのだろうがそれに反発しているのがよく判る。
「悪かったよ。別にお前はお前、明美さんは明美さんだろ」
彼は軽く言って振り払うように右手を振る。
「ばーか、何気にしてるんだよ。らしくねえ」
「らしくなくて悪かったわね」
ふん、と小さく鼻を鳴らして彼女は視線を下げる。
どうやらかなりコンプレックスらしい。
美人で可愛らしくて、結婚している姉。
自分よりも早く成長していく姿を見ているものは、確かに子供心に辛いかも知れない。
「まだ子供だな」
「馬鹿、そんなんじゃないわよ。……それに」
語尾は消えかかるようにして小さくなる。
実隆もあえて黙り込んで、彼女の様子をうかがった。
しばらくそのまま歩いてから、小さなため息をついて顔を上げる。
「んもう、会話しなさいよ、馬鹿」
微笑んで右手で作った人差し指をびしっと実隆の鼻先に突きつける。
「折角色々反応用意してみたのに、何にも言わないなんて卑怯じゃない」
「んあぁあ?」
けらけらと笑い声をあげる菜都美に、思わず語気を荒げて眉を寄せる。
「いいわよいいわよ。ミノル、人の事言う前に一人前になりなさい」
「ちっ」
舌打ちして両肩をすくめる。
何も言うつもりがなくなって、道場は彼女に探させる事にした。
――まったく……
何を考えているのか、彼には理解できなかった。
目が覚めた。
醒めた時には、何故か判らないがビルの屋上にいた。
そこは、『俺』は知らない場所だ。
こんな季節だ、雪でも降るような身を切る冷たい空気が渦を巻いているはず。
なのに、寒くない。
ふれているはずのコンクリートも、何故か冷たさを感じさせてくれない。
不思議に思って、身を起こすと――俺の身体はまだ地面に横たわっていた。
――死んだのか
何の感慨もわかない。
ただ、自分が横たわっているのを不思議な感覚で見下ろしているだけ。
そしてああと嘆息するだけ。
周囲を見回してみる。
俺の周りには数人の人間がいる。
妙に髪の長い女と、ポマードあたりでがちがちに頭を固めた男が二人。
何故か奇妙なのは一人の男は和服だと言うことだろう。
年の頃はそう、四十は行っているだろうか。
彼が何か指示をしている。
俺の周りで。
――こいつらが殺したのか
いやそうではないようだ。
それは見ていれば判る。第一、俺の死体は外観だけでは一切傷ついているようではない。
眠っているだけのようにも見える。
――夢か
と思った途端――『俺』は目を見開いた。
「うわぁっっ」
叫び声をあげて体を起こすと、そこは自分の部屋だった。
楠 隆弥は真っ暗な部屋の中で這い出すようにして電灯のスイッチを叩いた。
だがかちかちと音がするだけで灯りがつこうとしない。
元の電源を手探りで探して見るが、スイッチは入ったままになっている。
――ブレーカが落ちてる?!
焦って自分の部屋の出口に向かい――絶望する。
ないのだ。
自分の部屋にあるはずの、出口の扉がない。
ただの一枚の壁になっている。
――窓
カーテンを引いて窓に手をかける。
最悪の場合叩き割ってでも――だが、そこにふれるのも冷たい石の感触だけ。
ぺたぺたと触れる壁は、叩いてもその分厚さを感じるだけの感触で、とても人間の力で割れる物ではない。
「……嘘だ」
そこはコンクリートで固められた四角い、自分の部屋に似せて作られた空間。
どうやって自分が閉じこめられたのか。
何故、いつからここにいるのか。
そう言えば自分は――いつ、夢を見ていたのか。
そもそも眠っていたのだろうか。
――記憶がない
よく思い出せない。
ここに戻る直前の出来事が判らない。
あかい 死
机も椅子も、勉強道具も、ベッドも間違いなく自分の使っていた物だ。
さわっただけでその違いが判る。
真っ暗闇じゃないのが何故か――そう、窓と扉のない部屋なのに何故薄明かりがあるのか。
――これも夢?
隆弥はこめかみに指を当てて、ベッドに腰をかけた。
直前に見ていた風景――夢の風景は、自分が横たわっていた風景だった。
あの場面から、何か思い出せないだろうか。
――落ち着け、俺は大丈夫だ、しっかりしろ
先刻の自分の服装は。
見慣れた自分の私服姿だった。時々鏡で見たことのある自分の格好だった。
よく――そうだ、少ない私服の中でも自分で選んだ、余所行き用の服のはずだ。
あれでスポーツなんかしない。
血飛沫 崩れる少年の姿
――そうだ、俺は――
これは夢なんかじゃない。
先刻のも夢なんかじゃない。
もし、記憶が飛んでいるのであれば、この不連続な記憶の、大元はどこにあるのか。
それは――
はたして。
駅のそばに道場は何軒かあった。
だが、そのいずれの道場も――関係のない道場でしかなかった。
『楠 隆弥』の名を知っている道場は確かにあったが、櫨倉の剣道部の師範がいる道場だった。
――隆弥が通っているはずの道場に、彼は今まで一度も顔を出していなかったという。
「どういう…事だ」
道場をでて、実隆は愕然とした貌で頭を振った。
隆弥が嘘を言っていたのだろうか。
「ミノル」
菜都美も険しい表情を浮かべ、実隆を見つめていた。
軽く首を横に振り、実隆はその視線から貌を逸らせる。
「ミノルっ」
「五月蠅い、黙れ。この巫山戯た状況を、あいつ自身に問いつめてからでも良いだろう!」
叫んでから、菜都美の驚いた表情を見てから後悔してしまう。
「ごめん…思わず怒鳴っちまった」
一月前の記憶が蘇る。
あの日の夜、彼が言った事が全て嘘だったのなら理解できる。
あれらが全て夢などではなく――自分を殺そうとしたのも事実なのだとするならば。
「兄貴…」
悔しそうに彼は呟き拳を固める。
――こんな残酷な話ってあるかよ
「そうよね。早く探しましょ」
彼女がそう声をかけて歩き出そうとして――気配を感じた。
実隆も動かない。
――…なんだ
悪寒。
それもとびっきり極上の悪寒だ。
振り向いて声をかけようとしているのに身体が言う事を聞かない。
菜都美の掌が背中に触れたまま離れない――恐らく、菜都美も同じ状況なのだろうか。
じりじりと視線と言う名の威圧感が、周囲に満ちていくのが判る。
これは――
――人間の気配だ
それも間違いなく、自分のような物をわざわざかり出すための、専門的な戦闘集団に違いない。
この間とは気配の質が違いすぎる――自ら、丁度蛇が鎌首をもたげて蛙をにらみ据えるのと同じように。
肉体が叫ぶ。
本能が警告する。
脳髄の裏側から、畏れが零れてくる。
ただひたすらに――逃げろ、と。
ふ、と。
その時枷がはずれるように、全身の緊張が解ける。
「…なんだ、お前ら。学校がある時間じゃねぇのか?」
真後ろから、聞き覚えのある声が聞こえる。
同時。
刑事の言葉は続いていたが、異常に歪んだ音を立てて彼らの耳に届く。
振り向く実隆の視界に、木下警部の姿が映り込む――だがその姿はレンズを通したように虹色の縞模様を浮かべている。
「――刑事、さん」
きゅ、と。
菜都美の手が自分の肩を掴むのが判った。
――来る
と、思った瞬間。
音とは言えない音が、突然その周囲に発生した。
それは球体の表面のようで。
いきなり身体を見えない球体に押し込まれたような圧搾感と肌の緊張。
視界が強烈な
同時にそれらが密度の波として身体の中心へと――
どくん
そしていきなり全てが弾けた。
どう表現すべきだろう。
その一瞬を境にして――突然、物音が消えた。
白いモノクロ――ただ影だけが仄暗く灰色の世界。
突然光という名前が、意味を失った。
あちこちで異常な音と、鈍く肉を叩く音が響き、何人もの人の気配が交錯する。
――っっ!
実隆は突如自分に向けられたあからさまな殺意が、鋭く細く、まるで刃のように襲いかかってくるのを感じる。
どうやったのかは判らない。
ただ必死になってその筋のようなものから身をよじってかわす。
鋭く空気を切り裂くものが皮膚感覚に与えられて、それを音として理解する前に体が弾ける。
意志――殺気の源に向けて、体が動く。
「!!」
体が、自分の意志よりも早く動く。
右手が肘を中心にして円を描き、掌の小指側が弾けたように直線的に跳ね返る。
と、小指から手首にかけて痛覚が顕れる。
まるでそれは、痛みの伝達速度よりも――正確にはそれを脳が『痛みである』と判断するまで――早く動いているかのような。
同時に白い世界が――開ける。
痛みが彼の意識を現実へと呼び戻すかのように。
まるでそれまで目の前を覆っていた煙がはれるように。
モノクロで反転した奇妙な影が、現実味を帯びた風景へと変化していく。
色彩を帯びた。
今までの風景は消え去り――いつもの、街の路地裏が彼の視界を覆い尽くしていた。
「……嘘だ」
視野が、自分の動体視力で終えない速度で揺れる。
いや。
自分の体が『何か』に反応して弾けた――それを理解する時には、自分の身体をそう認識して、自らの意識で操っていた。
弾けたとしか表現できない速度で直線的に、地面に平行に走る。
ジグザグと大きく体が前後左右に跳び、その『何か』を避けていく。
その側を抜けていくのは――音の壁は恐らく『刃』。
先刻見つけた『殺気』の塊が再び、レンズに通された光のように絞り込まれる。
レーザーサイトで狙いをつけられるような感覚。
その、細く鋭い針のような殺気を逆に辿る――意志の流れを読む。
手順は簡単だった。スコープの反射光を追うカウンタースナイプと同じ要領と言えるかも知れない。
「ミノル――」
鋭い殺気を帯びた『もの』が白い世界をより白くさせながら迫る。
まるでVの形のように、目の前でそれが止まる。
遅れて音と色が顕れる。
更に遅れて、体の感覚が自分の体勢を知らせてくる。右膝を折り込んで、左膝を立てて座り込んでいると。
視線はまっすぐ、斜め上方、目の前の鈍色の先を見つめている。
肉体という名前の獣が、敵と認め反応した存在――人間、それも、自分をいつでも殺せる状況の――を見つめていた。
それを理解して、その先にいる人間を知って、実隆は愕然としていた。
だがその邂逅などほんの僅かな時間だけだった。
「兄貴!」
実隆がそう声を上げたのは、もう既に彼が地面を蹴り、視界の外へと消えてからだった。
焦る彼は体を弾けさせて強引に立ち上がる。
ぞわり
何故、気がつかなかったのだろうか。
鼻を突く刺激臭は、自分の知っている限りもっともっと嫌なものだったはずなのに。
血の臭い
一瞬だけ捕らわれかけたが、彼は頭を振ってすぐに隆弥を追うことにした。
どうせ言う程も被害はないはず――だ。
地面を蹴る。
今は隆弥を追い、今のこの全てを理解させてもらわなければならない。
――それが、最優先だ
かちりとはまったパズルのピースみたいに、全てがクリアになる。
同時に彼は体が軽くなったみたいに動き始めた。
じじじ、という空電が立てる音がその路地を支配していた。
真昼、青空の見える場所で自然状態の球電が発生する事は稀だ。
だがそれはそんな珍しい現象ではなかった。
「ふ……ふははははは、ははは、そうか、そうなのか」
まだ特有のノイズの混じる路地に、今度は甲高い少年の声が響く。
そこにあったのはもっと単純な現象だった。
少年の周囲にぱきぱきという音を立てるものは、彼が帯電している静電気。
目が、髪が、青白く輝いている。
彼は自分の両手をじっと眺めたまま、相好を崩して笑っている。
そのまま四白眼に見開いた目をゆっくりと持ち上げる。
風ならぬもので髪が靡き、彼の周囲が渦を巻く。
「――やってやる」
ばちっ
彼が足をあげた途端、靴底と地面の間で青白く発光する。
それに呼応して鈍い音が響きわたる。
路地の壁が、球形に押し広げられ、耐えきれなくなって亀裂が入った音だ。
彼を中心に倒壊していくコンクリの壁面――さらにそれは、まるで喰らい散らかされていくように溶けて消える。
彼――臣司は、まるで何かに突き動かされるようにしてその視線を、穹へと向けた。
――やってやる
まるで今初めて目が覚めたように。
今までとは違う――理解できた全ては、自分の常識の一部とは違う何かと。
くだらない感傷を覚えて苛立っていたことが、今更馬鹿馬鹿しくてどうでもよくなる。
今まで自分を支配していた痛み
崩れた鏡が舞い散るような光の欠片が満ちていく――そんな幻像。
彼は今、自分を中心とするこの世界が自分の支配下に――まるで彼の周囲全てに神経が行き渡っているように――あると、感じている。
「――誰だ」
だから今の彼は異常に過敏になっていた。
例え視線が通らなくても、その周囲に起きてる全ての出来事がありありと判る。
そう丁度、掌の上で踊るモノを見つめているように。
自分の体の中で動くモノを感じるように。
水の一粒、風の一粒すら手に取るように判るその時に――彼は、自分に向けられている意志を見つけた。
突き立てた矢印のように、明確な方向性を持った『意志』。
今のこの中で自分にその意志を向ける事など――あり得ない。
――誰だ
それは違和感。
コヒーレントな空間中に、異物は生じてはならない。
幾つものベクトルが存在し、その合成された方向とは逆の要素があったとしてもうち消されるように。
大きな流れに逆らえない小さな物は――排除されてしまう。
ぎちりというまるで縄を絞り込んだ時に聞こえる軋みが、空間を揺らす。
「つれないな」
違和感が言葉になって現れる。
形としてこの世に姿を顕したそれは、拭う事の出来ない程圧迫感を与え続ける。
それでも臣司は動かない。
自分の背中に現れた『異物』は、丁度自分と同じぐらいの背格好であり。
「昔はもう少し、愛想良かったんじゃなかったか」
その左手にぶら下げた、脳髄を揺らす嫌悪感と共に、右手にはきな臭い凶器が握られていて。
「――さぁな、少なくともお前に言われる程じゃなかっただろうな」
彼の感じている空間のほとんどは、奴の全身から放たれる悪寒――電子の臭いで満たされていて。
今にも吐き気を催す程、彼は苛立ちを覚える。
つい、と視線を左から後ろを覗くように動かす。
横に大きく流れる背景――そして、違和感が視界に収まる。
風景にとけ込むかのような彼の姿にますます――臣司は眉を吊り上げて彼を睨み付ける。
スーツ姿の青年。
――見た目通りの人間ではない。それは、あくまで姿だけだ。
左手には想像通り小型のコンピュータが無造作にぶら下げられていて、右手には黒い塊が見えた。
日本人である彼には似合わない程、大きすぎる鉄塊。
「第一愛想良くする必要はないだろう?」
彼は口元を歪めて、すっとその塊を無造作に持ち上げた。
イスラエル製の巨大な拳銃――Desert Eagle。
無骨で、剥き出しのバレルの黒い闇から吐息が漏れるような錯覚。
「ああそうだ。お前が試作に終わり、俺が実用化したんだからな」
銃声
――!
「だがそれは俺に至る道筋を失っただけに過ぎない。そうだろ」
怒号のような銃声が鳴り響く。
衝撃波は確かに空間を貫いた。
銃撃は、彼の右手から確かに放たれた。
鉛は衝撃波をその後方へとまき散らしながら、臣司の肩口から上半身を消し飛ばす――はず、だった。
揺らめくような空間の拉ぎに、聞き覚えのないガラスが砕けるようなけたたましい音。
ほんの一瞬。
銃弾が刹那を薙ぎ払うだけの距離が、伸びた。
全ての音が、その一点に集約される。
まるで、意志のある運動をするようにして――壁を築きあげる。
不定形のプリズムが偏光し虹色を生み出すように、滲み、歪み、そして。
ぽとり、と鉛は地面へと落下した。
「――馬鹿な」
全ての熱量が、空間へと飛散した。
.50 Action Expressの弾丸の持つ全てのエネルギーは、臣司の肩口付近で消えてしまう。
「完成しない事は完成するための道筋を作り上げる事で――俺に終わりはなく、お前はそこに留まり続けるんじゃねえか」
ガラスを削ったような光線の歪みがゆっくり復元しながら、その歪みの向こう側から臣司はゆっくりと振り向く。
じりじり、と奇妙な音をあげ、彼の身体に蒼い色の光が走る。
――!
同時に漂うオゾン臭。
鬼相を浮かべる臣司の顔が完全にこちらを向いた途端。
ばし
左手に握ったコンピュータが異常な音をあげた。
驚いて見ると、先刻まで稼働していたはずのそれが、完全に沈黙していた。
「矢環伸也、お前――確か『脳無し』だったよな」
一瞬、男の眉が吊り上がった。
右手に握った銃を改めて臣司の額を狙って動かす。
だが言葉を発する事もそれ以上表情を作る事も彼はしようとしなかった。
「残念だよ」
ぱきりと、握りしめる臣司の拳がなる。
獰猛に口元を歪め、ゆっくり腰を低く構え直しながら。
「お前の砕ける様を、じっくり嬲りたかったぜ」
地面を蹴り、再び銃が咆吼した。
『駅裏』はまるで地獄のような光景が繰り広げられていた。
ある一瞬を境にそれは起きた。
今道路は斑に染みを浮かべている。
何が起こったのかそれを想像させる――そんな生半可なものではない。
「ひ、ぃいえ」
物。
それとも、獣。
表現のしようがない悲鳴が上がり、同時に破壊的な音が続く。
続けて液体の弾けるような音。
曲がり角の向こう側からのそりと――まるで、生きている死体のように青年が姿を現した。
だらん、と両腕をおろして猫背のままに彼は足を引きずって歩く。
彼は思い出そうとしていた。
――俺は何をして……
彼は歩いている事すら気がつかない。
自分が、何を見ているのかすら判らない。
つい一瞬前に右手を振り回したことすら。
頭の中から声が聞こえる。
漣のような笑い声が聞こえる。
――な…ぜ
濁りきった眼球の一部が、突然どろりと歪む――冗談のように、白目が溶け始める。
その向こう側に本来あるはずの、肉と血液はもうそこにはない。
そして、彼の光を求めない瞳が何かを捉える。
「がぁっぐがっっが……がっ」
意味不明の声を上げる。
――どうして――!
何も見えなくなった。
何も覚えられなくなった。
でも、彼の目には白い光が映っていた。
彼の脳裏を横切っていく巨大な光が見えた。
弾ける瞬間。
彼は、その白くて大きな光が、何故か、夏の強い日差しのように感じられた――
ぱしゃっ
突然人間が血液の塊のように真っ赤に砕ける。
「ひゃあああああああっっっっ」
「畜生、どうなってるんだ!」
悲鳴、銃声。
何度も何度もマイクの接続を点検しながら叫ぶ同僚。
だが、既に戦線は壊滅状態だった。
横転したパトカーを盾に、数人が威嚇しながら発砲を繰り返している。
日本の警察は歴史的にここまで『酷い撃ち合い』をしたことがない。
弾なんてない。
井上が指揮を執っていた事件現場にそれが訪れたのはほんの数分前の出来事。
――なのに
木下が去ったのを見送って前線に立った途端、彼女を迎えたのは今目の前に起きている惨状だ。
まるで冗談じゃない。
眼を疑う状況だった。
ふらり、と現場に青年が現れ、一人の警官が静止しようと声をかけた。
「こら、今ここは立ち入り禁止だ、邪魔になるから入ってくるんじゃない」
一人の青年。
ふらふらとまるでよっぱらいのように足を進めてくる。
警官は眉を吊り上げた。
無視されたと思ったのだろう、青年の方に無言で詰め寄りさらに一言言おうとして右手を挙げて――
いや。
「……あ?」
青年の面がいつの間にか持ち上がっている。
虚ろな眼差し――とても、生きていると思えない程濁りきった眼に、表情を感じられない貌。
頬がこけている訳でも、死体のように瞳に色がない訳でもない、のに。
「うわ、うわああっ」
警官の叫びは全く別の意味であげられていた。
彼の右腕は、肩の根本からなくなっていた。
自分の制服ごと。
ささくれ立った切断面から止めどなく赤い液体が零れ落ちる。
見れば、彼の後方数メートルの所にそれらしい物が落ちている。
まるで、何かの衝撃で弾け飛んだように。
青年はさらに、警官に詰め寄っていく。
既に何が起きているのか判らないまま警官は一歩後ろに下がった。
恐ろしさのあまり。
その時、烏鷺のような青年の口が動いた。
鈍い衝撃音
その警官がそのままの体勢で、空中をまっすぐ十メートルは滞空してパトカーの屋根をうち砕いた。
がしゃんというガラスが砕ける音に、一斉にそちらに警官達の眼が向かう。
そして、その場にいた全員が驚愕と緊張を覚えた。
哀れな警官はもとより――彼らの視線の向こう側に、まるでB級ホラー映画をあざ笑うかのような光景が。
数人の、腕をだらりと下げた幽鬼のような青年達が路地のあちこちから現れていた。
男女、年齢の別なく全く同じように、のそりという言葉が似合う程ゆっくりと。
声も上げず誰も指揮をせず、ただ群体とも取れる不気味な動きで確実に彼らに迫ってくる。
「止まれっ」
「馬鹿っ」
井上の叫び――だが、部下は既にホルスターから銃を抜いていた。
訓練されたとおり、訓練通りに――恐慌状態に陥っているせいで、訓練が徒になったのか――そのまま引き金を引く。
ぱん、と空砲が鳴る。
びしゃ
同時。
まるでその空砲が破裂したせいで、とでも言いたげに最初の青年は目を向けていた。
その警官は、貌を穹に向けて倒れていた。
正確には壁に貼り付けられるようにして、頭の上半分が消し飛んでいた。
頭だけではなく、胸から下、右腕、左肘から先、そしてちぎれて転がった下半身。
貌だった部分に蒼い痣が浮かび上がってくる――まだ死んで間もないからだろう、打ち身らしい鬱血が症状として現れたに過ぎない。
ずり、と湿っぽい音を立てて壁からずれ落ちていく。
反対側で機械的な爆音。
何が起こっているのか理解できる人間は少なかった。
爆発に横転するパトカー。
前触れもなく弾け飛ぶ同僚達。
警官達はあっという間に恐慌状態に陥っておかしくなかった。
――冗談じゃない
井上は焦ってパトカーの無線に叫ぼうとして、眉を顰める。
警察用のデジタル化した無線はコンピュータにより制御されている。
今それが、意味不明の数字以外の記号を表示しているのだ。
黒いバックに光る液晶の緑の表示は、かちかちとあたかも生き物のように明滅し、次々に『言葉』を生み出していく。
誰が見てもそれが無線の役を成すとは思えなかった。
故障、そう思ってスーツの胸ポケットに手を入れる。
さわり慣れた感触に、彼女は自分の携帯電話を見つけて取り出す。
ピンク色の外観に飾り気のないストラップ――女性らしからぬそれは無機質な仕事の道具に過ぎない。
――!
だが、それすらまるで使い物にならなかった。
意味不明に明滅を繰り返すアンテナと液晶表示は、たった今見た無線機とさして違いはなかった。
「……っ」
叫びだして携帯電話を投げつけたくなる衝動に駆られる。
が、彼女は歯を食いしばるようにしてそれを耐える。
部下の目の前で恥をさらさない。
それが、彼女の唯一の維持だった。
――それにここで自分が恐慌状態に陥れば、みんな……
絶体絶命の危機。
そんなものに出逢う事になるとは彼女も思っていなかった。
「飯山巡査部長!栗木巡査!急いで車で連絡を!」
だがこんな時、指揮を執るために陣頭に立った人間はうろたえてはならない。
喩えそれが女性であったとしても。
事の起こりはどこにあったのだろうか。
一瞬の躊躇だろうか。
それとも、全く別の所にあるのだろうか。
隆弥は悩んでいた。
――何故、先刻手を止めてしまったんだ
切っ先の向こうで戸惑いの目を向けるミノル。
その表情と、それまでの『尋常ではない』動きは不釣り合いなぐらい。
どういう事だろう――何故か、彼の表情が脳裏から離れない。
「……あれは、やはりミノルか」
かしっ
アスファルトに映る影が恐ろしい勢いで形を失っていく。
まるで体重がないかのように、たった一蹴りで隆弥の身体が宙に舞った。
その動きは軽やかで、相当に鍛え上げた技量を持つ戦人の動きだ。
手に持つ刀からは一切血の色も、脂も認められない。
――殺したく――
隆弥は足を止めた。
既にそこは黒ずんだ血が溜まり、数分前にも人とは違う何かが過ぎ去った臭いを残している。
――殺せない?
花のような香り――彼にとっては忘れようのない『化物』の香り。
人間ではない証拠――それは殺戮の理由。
彼の切っ先の向こう側で化物は自分を見つめていた。
それは――怯えの表情のはず。
――ミノルは
化物だ。
それは初めて会った時から判っている。
笑顔を向けていた時から彼からは臭いが漂っていた。
それは人間とは、自分たちとは違うという正直な臭い。
ぎちり、と彼は全身の筋肉という筋肉を軋ませる。
――奴は臭う、人間じゃない
だから。
そうであるならば殺らなければならない。
人間でない物は人間に対して敵対するのは自然の理である。
種と種が交わらないのと同じように、自然は淘汰されるべき種を淘汰するのだ。
人間に対し――奴は淘汰されるべき種。
――『こちら側』に侵入させないのが、俺の存在意義
なのに実隆は切っ先の向こうで、不思議そうな目で、唖然と自分を見つめていた――
「兄貴」
路地はもう見慣れた景色のように、血溜まりがあちこちに水たまりのように存在した。
ただ不自然な事に、死体も肉片もなかった。
これだけ血液を絞り出せば、いくら何でも死体の一つは転がっているだろう。
それが存在しない。
まるで輸血用血液を道路にぶちまけたように。
だからB級ホラーの映像を見ているのと大した差はない。
ただ生臭いだけ。
気をつけないと滑りそうなだけで、彼はもう自分の靴の裏を水洗いする事以外、気にならなくなっていた。
そんな陰惨に彩られた路地の中央に、自分の足下を見つめたまま立ちつくす彼がいた。
左手に白木の鞘、右手には日光をぎらつかせる刃を手にして。
彼は何かを呟き続けている。
実隆はあがった息を整えもせずに叫んだ。彼の、名前を。
するとゆっくりと瞳を彼に向けて、鈍い輝きを瞳の裏側に湛える。
映り込んだ実隆は大きく歪み、その輝きに飲み込まれている。
闇。
正確には視覚で捉えきれない空間が彼の周囲を満たしている。
それが蠢くように見える――それはまだ視覚が生きている証拠。
闇を楯に、まるで投影したように自分の網膜を流れる血流が明滅しているのだ。
だからこれは肉体が感じている風景のはず。
この闇は、肉体の外側に存在するはず。
隆弥はその中で、わずかに揺らぐ物を感じている。
冥く揺れ、白く薄れるように。
――ミノル
僅かに違和感が全身を貫く。
眠っているような、夢にうなされているような。
自分の体のようで自分の体ではないようで。
「たがははずれているようだな」
誰かの声が聞こえている。
それが誰の声なのか、一瞬全身の表面が粟立つように足下から駆け上がっていく嫌悪感。
なにに嫌悪しているのだろうか、嫌悪だと言うこと以外は彼には判らない。
「……なにを言っているのか、判らない」
返事を返す声。
それが自分の声と全く同じなのに、全然違うように聞こえる。
今自分は返事を返したのか?
今返事をしたのは自分なのか?
「一人、罠にかかった。……今のお前なら、言わなくても動くだろうが」
「……言われるまでもない」
彼ではない彼は答えた。
実隆は思わず歯ぎしりする。
――怖い
言葉に直すなら、それ以外の説明ができない怖気。
背筋を走る悪寒が、指先、頭頂、そして末梢の隅々へと伝わっていく。
どこかで 聞こえる 水の音
「……ミノル」
首が動く。
顔がゆっくりと彼の方に向けられていく。
その他、彼の体はいっさい動こうとしない。
まるで蛇が蛙を睨んでいるかのように、瞳を固定して首を起こしていく。
異様な光景――少なくとも、実隆は彼の姿が尋常には思えなかった。
「どうして、兄貴」
瞳がすっと小さく絞られる。
それは――殺意に悦びを見いだす貌。
「お前は、人間じゃない――それだけで十分な理由だ」
くるんと彼の向こう側で光が一回転する。
気がつくと刃は地面と平行に、彼の右手の中に収まっている。
ちょうど左肩が前になるような真半身で、すっと腰が落ちる。
隆弥の貌は、笑顔だった
びりびりと圧力を感じる程の殺意。
まるで、風が彼から吹き付けているように肌が引きつる。
実隆の全身が粟立ち、本能的に背を丸めて腰を落とす。
ずく ん
ぶれる視界にずれる感覚。
強烈に引きずり込まれるような、目の前にいる人物に対する畏れ。
「……そうだ」
隆弥の声が、妙に新鮮に聞こえた。
「お前は――俺と、殺し合わなければならない」
右手に提げた凶器が、ついっと切っ先をあげる。
左手を前に構え、右手を僅かに引いた形で切っ先が獲物を探す目のようにゆらゆらと震える。
「さあ」
ず くん
ひょうひょうと耳元で風が鳴る。
それに混じって、甲高い英語の朗々とした詠唱が漂い始める。
――あの時と同じだ
違うのは。
違うのは――たった一跳びで十メートルも後退し、体全体で着地の衝撃を受け止めながら実隆は思う。
――違うのはこれが現実で
もう一度、自分の力で地面を蹴る。
それが今までとは比べ物にならないのか、靴の底が潰れる感触がした。
それはまるで、柔らかいガムを踏みつけたような感じで。
――自分の意志で、こうなっている、ということか…
いつの間にか表情から笑みは消え、完全に戦闘態勢を作った隆弥が姿勢を低くして突進してくるのが見えた。
「化け物……それはてめえの事だろうが!」
十メートルをほんの何分の一秒で縮める彼に向けて、実隆は叫んだ。
「俺が化け物だって?けっ、どっちが化け物だい。自分の勝手で自分の理不尽な意志を突きつけるような真似をする『人間』だろう?お前らはっ」
流れるような英語の詠唱で応える隆弥の右手が消える。
実隆は一気に一歩踏み込んで――
弾けるように二人は間合いを切った。
しゃくるように振るわれた日本刀。
実隆は右足から踏み込んで、内側へと全身をねじるようにして懐まで入った。
そして、右手を隆弥の右肘へとのばしたのだ。
――……以外に
隆弥はかろうじて地面を蹴って間合いを切るしかない程、振り伸ばした刃が実隆に届くより早く実隆は懐の中にいた。
実隆の狙いが日本刀でなければ間違いなく『先に一撃』できたはずだ。
――甘いな
とはいえ。
あのまま肘を捉えられていれば、右腕はごっそりもっていかれたはずだ。
隆弥は目尻をはっきりと判るまで吊り上げて、目を細めて笑う。
口元から漏れるのはいつまでも続く詠唱。
言葉の中に潜む束縛。
それが因果律を支えて彼の目の前の獲物を、確実に『檻』へと閉じこめる。
『檻』の中に閉じこめられた『化物』は、切り裂かれるのみ。
――生きがいいのは、良い事だ
「やめてくれよっ」
実隆が叫んでいるのを、しかし隆弥は聞いていなかった。
ひゅ、ひゅと言う音が耳元に響く。
まるで耳が切り裂かれていくように。
その音が聞こえるたび、僅かな血が皮膚の上に滲み出していく。
――音よりも早い
音が聞こえた時には、服の下で血が滲んでいる時には、もう次の刃が光を弾いている。
実隆はそれを皮一枚だけで避けているのか、皮一枚だけを切り刻まれて消耗しているのか判らない。
それでも。
――それでも隆弥はっ
もう先程のように簡単には懐に入れさせてくれない。
踏み込もうと思った瞬間に膝の上を鈍色が走る。
それに目を取られると風圧を首もとに感じて、逆に間合いを切らなければならなくなる。
「ぐっ」
真後ろに飛び退こうとして思い切り肺の中身を叩き出してしまう。
目の裏側に圧迫感を感じて目の前が白くなる。
「っ」
実隆の眼前を風がよぎっていく。
彼の背に、いつの間にか路地の壁が迫っていた。
自分の脚力で背中をしたたかに打ち付けた事に気がついた彼は、ほとんど無意識で自分の体を支える事をやめた。
腰を落とした彼は、地面に横たわるような格好でそのまま両腕を頭の方へとたたきつけるように伸ばした。
「っ!」
隆弥は今の一撃で仕留めるつもりだった。
仕留めたはずだった。
――やるな
だから体を大きく開くように、右腕を外側へと開いてしまっている。
切っ先が髪の毛すら切り払わずに通り過ぎ、実隆の身体が必死に逃げるのが見える。
彼の踏み込んだ左脚に実隆の腕が当たる。
そうして股をくぐられるのをただその体勢のまま待つしかなかった。
体勢を整えて実隆の方に刃を向けた時には、もう片膝をついて立ち上がりかけている。
そして何故か、彼の詠唱も止まってしまっていた。
――『檻』から、抜けたか
彼は、構えを解いて右腕に刃を支えたまま、実隆と相対している。
距離はほんの数メートル。
いつでも、一撃を加えていける距離。
無論逃がしはしない。
「……どうした」
鋭い剣気を含む視線。
切り刻むための――視線。
刃を押し当てられたように動けなくなるか、逃れようとして――排除しようとして、凶暴化する。
それが今まで彼が排除してきた化物の通常の反応だった。
――け…もの
「兄貴、どうして」
だが実隆はそのどちらでもなかった。
その表情には疑問が、そして敵意は一切そこにはなかった。
有るのは疑念。
「どうして?それはむしろ、俺の科白だ」
だから隆弥は眉を吊り上げた。
目の前にいる人間ではない物が、自分の知る存在とは違う事を確認するため、のように。
「ヒイラギミノル、お前が俺を兄貴と呼んでいたのは少なくとも俺ではない」
きりきりと糸が引き絞られていくように、さらに目が鋭く、細くなる。
「じゃあお前は誰なんだよ。俺の兄貴じゃないんだったら誰だって言うんだ」
ひゅん
彼の持つ刃が一回転して、綺麗な真円の閃きを作る。
その時起きた風が、まるで鞭のように頬を打つ。
左頬が引きつる感触が、次に液体の感触が伝わる。
「お前は俺の獲物で、俺は狩人――人間という枠の外側からの侵入者を排除する者だ」
いつの間にか、切っ先が実隆の鼻先にある。
鉄の臭いと、それに混じって脂の臭いがする。
そして何より――研ぎ澄まされた先端から、威圧的な殺意が突きつけられる。
「早く、本気で来い。さもなければお前にはばらす価値すらない」
ほんの少しだけ力を入れただけで、まっすぐ顔を貫くだろう。
耳が痛い。
奥の方からまるでドラムが叩き付けるように鳴り響いているように。
息が苦しくなる。
――来る
一瞬視界が白く瞬く。
途端暗転するようにして全身の感覚が広がっていく。
それは先刻までとは違う。
まるで違う――この間学校で起きたあの時とも違う。
身体と、全く別のモノが弾けてしまうように。
どくん
明滅するように視界がだぶり大きく揺れる。
色違いの原色の世界。
そして厚みのある巨大な音の漣。
その音の中で怒気のような呼吸を、間延びする時間の中で捉える。
怒気が切っ先の震えに変わるのに気づいた実隆は、顔を捻って避けると右手を添える。
鼻先を伝う刃を指先で弾いて方向を変えながら、さらに右足で踏み込む。
隆弥に対して右真半身の体勢になる。
まだ隆弥は視線をこちらに向けるのが精一杯――
――時間が間延びして見える
実隆は彼の視界に捉えられるのを避けるように身体を沈めようとする。
だが、目に見える感覚よりも身体の動きは間延びし、まるで泥沼の中でもがくように手足が重い。
まるで感覚だけが時間を早送りしているかのように。
――まだ――まだだっっ!
一瞬だけ隆弥と目が合う。
同時――身体が加速する。
勢いよく、丁度粘る罠から抜けたように勢いよく蹈鞴を踏み、右手を振るう。
気がついていたのか――ただ腕を動かしただけなのに、空気が目に見えて濃淡を生み出す。
渦を巻いているのを、肌で感じる。
それがまるで、狙いを澄ましたように隆弥の左頬へと伸びる――その線をなぞるように、彼の頬に線が入り、引き千切れる。
――!
かすめただけなのか、風船が破裂するように切れた皮膚から、丸い血の珠が産まれる――
同時、時間が引き戻される。
ぱしという乾いた音が彼の耳に届き、隆弥が振り向いて身構え直すのが判った。
左頬はまるでカッターでも使って切り裂いたような血の線が浮かんでいる。
そして、再び詠唱。
唱える隆弥の表情には何の感情もない。
――くっ
数メートル飛び退いたぐらいでは、彼の刃から逃れるのは難しい。
いつの間にか隆弥の口から詠唱が漏れ始め、再び実隆は『檻』の中へと追い込まれる事になった。
彼の言葉など、初めから――意味の成さないものであるかの、ように。
実隆が隆弥を追って行くのを、菜都美は見送ってしまった。
――追いかけなきゃいけない
そう思っても、目の前にも人が倒れている。
――隆弥さん、一体……
突然の閃光に見舞われたと思うと、人の争う声と気配に包まれ、目が見えるようになると隆弥が刃を実隆に突きつけているのが見えた。
動けるはずなかった。
それでも、今彼女は何かざわめくような物を自分の中に見つけていた。
――どうしても追いついて、助けなきゃ
何をどうして。
そんな、肝心で必要な事も思いつかずに。
だがやがて感覚が戻ってくるに従って――そこが、血の海である事に気がつく。
――!!
誰の、何の血なのかは判らない。知りたくもない。
その外れに彼女達はいた。
「刑事さんっ」
まさか。彼女は不安が頭を擡げてくる。
この刑事は死んでいるのではないか、と。
自分の側で倒れている彼の側にしゃがみ込むと、大きく揺すぶりながら彼女は声をかける。
「刑事さん、刑事さん、しっかりっ」
慌てているせいか、彼女は刑事のネクタイを思いっきり引っ張っている。
混乱しているのかも知れない。
そのせいか、呻きながら刑事は目を開いた。
菜都美が彼から手を離してやると、自力で身体を揺すって起きあがった。
何事か呻きながら頭を振る彼に、菜都美は大きくため息をついた。
――死んでいない
こんな、自分以外全てが死に絶えたような激しい場所で生きている人間に出会える。
たったそれだけの事がこれだけ嬉しいとは、彼女も思わなかった。
「よかった、生きてる」
だから、安心した。
もう心配ない。
菜都美は、彼に特に外傷がないのを眺めると、自分も立ち上がった。
「待て、俺は…」
刑事が頭を起こそうとするのを、菜都美は頷いて言う。
「ごめんなさい、もう行かないと」
間に合わない。
実隆が、隆弥が――彼女は嫌な予感を抑えきれなくて刑事に背を向ける。
そして全力で地面を蹴った。
実隆に刃を向けていた彼――隆弥の様子はおかしかった。
敵意や殺意といった、感情的な物ではない。
菜都美が感じていたのは不自然さ――そう、隆弥が刃を向けて突っ立っているのが奇妙に不自然に見えたのだ。
だのに――彼は、それを当たり前として受け止めている。
だからかも知れない。
菜都美は、あの二人を止めなければならないと感じたのは。
――隆弥……さん……
いつも笑みを絶やさない穏やかな性格をした男、彼女はそう記憶している。
実隆といつもコンビを組んで、ちょっとぼやっとした感じの会話を交わしていた。
小学生の時、二人が兄弟であるとは知らなかった。
同じクラスになる事がなかった事と、名字が違うせいだ。
中学の時に二人が一緒にいるところを初めて見かけた――その時、二人が兄弟であると言う事も知った。
その時、実隆が感情豊かに弾けているのに対し、隆弥はただ穏やかに笑っているだけだった。
何故か強烈な印象として彼のその笑みを覚えている。
初めて会った印象――普通なら、穏やかで優しいというイメージだろう。
だがその時の彼の笑みに対する彼女の印象は別だった――全く、反対だったのだ。
――底の知れない恐ろしさ
彼の笑みをもし表現するなら、見事にカモフラージュされた罠。
壁の向こう側で牙を研いでいる獣――そんな、言葉にするには難しい物を感じていたのだろう。
今思えばそれは予感だった、とは言えないだろうか。
それとも彼女の僅かな『違い』が危険だと判断していたのだろうか。
普段彼らと話をする分には全く気にならない。
今までにも感じた事はなかったのに。
ちゃりん
不意に金属音がして、彼女は慌てて足を止めた。
「あ」
彼女が音の在処を探して地面に目を向けて――無意識に声が漏れた。
丁度五百円硬貨を一回り大きくしたような円盤が転がっていた。
ニッケルの鈍い、鉄とは異なった輝きが表面を滑る。
よく見れば縁に備えた小さな輪が開いてしまっている。
もう随分と痛んでいるそれを、彼女は大切そうに拾い上げると少しだけ力を込めて握りしめる。
そして再びポケットへとしまうと、再び路地の向こうへと駆けだした。
実隆達の姿を、追い求めて。
『隠匿とは無に等しく、呪とは悪なり』
滑らかな発音の英語がどこからともなく聞こえてきた。
――……?
菜都美はその声の方向を、耳を立てるようにして探す。
きりきりと緊張の糸が張りつめていく感触と、空気が漂っているのが判る。
彼女が最も嫌いな――嫌いな理由は、それが初めての薫りだから――それは嗅ぎ慣れた闘いの気配。
全力で、その気配を追い――地面を蹴立てる。
ぱしゃっ、と血のぬめる音が聞こえても彼女は気にせずに走った。
足を取られそうになっても決して緩めず、やがて曲がり角を二つ越える。
ぎぃん
菜都美の目の前で金属を強引に引き切ったような不協和音が響いた。
「ミノルっ」
風が彼女の耳元を通り過ぎ、右肩に急に重みを感じ、そのまま重さは――真後ろへと自分の身体を引きずる。
悲鳴を上げる間もなく、倒れそうになった背中に何かが当たって彼女は両肩を震わせる。
それがどうやら人間である事、それも知っている事に気がついて――
「馬鹿、何故追ってきたっ」
左肩から覆うように、腕が自分の前を過ぎていく。
そして左腕一本で彼女は抱き留められて、さらにもう一歩真後ろへと跳んだ。
抱きしめられて初めて、自分の感じていた気配が間違いでない事が判った。
だからせめて、実隆の顔を見ておきたかった。
ひゅ
でもそんな余裕はない。
その時擦過音がして、自分の目の前で何かがはらりと落ちる。
自分の前髪だと気がついて、視線を前に向ける。
人が、斜めに地面にしゃがみ込んでいる。
違う。
頭をこちらに向けて、右手にだろう、刃を横に構えて両足を縮めて――力を溜めている。
前髪が弾けるように跳ね上がり、男の顔が見える。
「畜生、隆弥、菜都美はっ」
実隆は彼のその様子を見てもう一度跳躍する溜めに入る。
――ああ――逃しは、しない。折角の機会だからな
隆弥は僅かに唇を吊り上げただけで、kingdom Englishを消そうとはしない。
まるで彼らの声が聞こえていないかのように。
「隆弥さん?」
ずしん
隆弥は菜都美の言葉にも何の躊躇いもなく、姿勢を低くしたまま突進する。
その時の靴音を菜都美は、パンクした自動車のタイヤが立てる音のように感じた。
右手の方向へ銀色の筋を残しながら。
その姿は不鮮明に消え去っていく。
「ぐ」
実隆の呻き声が耳朶を叩き、菜都美は思わず顔をしかめて身体を縮こまらせる。
悲鳴だけは何とか踏みとどまったが、直後漂い始める血臭に口をきゅっと閉じる。
彼女は実隆に抱きしめられたまま隆弥と切り結んでいるのだ。
一瞬接近した隆弥と眼があった。
視線が絡む、というよりも偶然視線を合わせた程度の、瞬間の出来事。
それなのにまるでそれだけで脳髄に掴みかかられたように彼の姿に視線が奪われてしまう。
――な……に?
駅前を横切る隆弥の姿
突然彼女の脳裏に蘇ってくる古い記憶。
目の前で額を射抜かれて倒れていく男
隆弥の笑みに、彼女は背筋が震える。
拒絶と恐怖を抑え込む一つの獣
さあ思い出せ 目覚めろ もう一度その殻を破れ
違う。それは隆弥ではなく、自分の中から聞こえてくる言葉。
肌よりも深く骨よりも浅い位置で蟲が蠢き始めるように。
全身が、彼を拒絶するために反応する。
意識が真っ白に落ち込んでいく。
代わりに浮かび上がっていくのは、忘れていた枷を外そうとする行為。
菜都美はその激情に耐えられなかった――
実隆の腕の中で、菜都美は突然身動ぎした。
――!
実隆が気づく間もない。
恐ろしい力で彼の腕の中から抜け出そうとする。
「っ、菜都美っ」
彼が後ろに逃げようと跳躍するのと、万力のような力で彼の腕をこじ開けるように押しのけるのは同時だった。
もっと早く気づけばよかった――いや、あるいは飛び退くのを見越して動いたのだろうか?
隆弥と菜都美の距離が縮まり、実隆は離れていく。
「――――――――――!!!」
何が起こったのか、実隆には判らなかった。
気がつくと隆弥の詠唱は止まり、彼と間合いを大きく取り戻していた。
菜都美は彼の前で腰を低くして、両手をだらんと下げている。
獣と変わらない、戦闘のための姿勢。
実隆からは見る事はできないが、隆弥はその上目遣いの瞳をのぞき込んでいる。
決意のような強い光を湛える彼女の瞳を。
それは正気を保っていて、決して――以前のように狂おしく輝いてはいない。
隆弥はそれを知って僅かに口元に笑みを浮かべ、得意の呪文を打ち切る。
そして決して彼女のためではなく自分のために言葉を選び――言う。
「もう一度、『堕ちる』か?真桜菜都美」
眼をついっと細めて、攻撃的に全身を震わせる。
右上腕に深々と日本刀の切っ先だけが突き刺さっている。
彼が握りしめていたはずのそれは、ぽきりと真っ二つに折れてしまっていた。
自らの腕から流れる血が、柄から鍔、そして折れた切っ先に向けて赤く染めていく。
ぽたりぽたりと刃によってではなく、それを持つ人間の血によって汚れていく。
「――そうまでし…」
旋風が巻き起こった。
――ええ、そうよ
彼は敵。
そんな事はもう随分と昔から知っているのだと彼女は頷く。
自分が人間ではないから、アレはそれを拒み続けようとする。
アレは人間。
――私は、境目を越えている
境目に立つ人間は、境目の向こう側の存在を拒もうとするのだ。
――以前越えかけた時に助けたというのに、まだ『墜ちる』か
隆弥は口元を歪めて彼女の態度に応える。
今度は実隆にも見えた。菜都美が背中を地面と並行にして右回りに真横へと滑り込むのを。
隆弥は素早く一歩退いて刀を左手に持ち替え、左足を軸にして身体を回転させる。
それに追われるように、隆弥の周囲を滑るように疾駆する菜都美。
実隆は考えるより早く身体が動いていた。
菜都美と反対側に回り込むように地面を蹴る。
このまま殺し合いを続ける気はない。
殺し合いを始めた菜都美を止めなければならない。
隆弥を――おかしくなってしまった隆弥を押さえ込むには今しか――ない。
映画のフィルムを早回しにしたように恐ろしい速度で隆弥が近づいていく。
そして右手を鞭でも振るうように振り上げ、隆弥に叩き付け
ようとした。
「ミノルっっ!駄目っ」
菜都美が悲鳴を上げた。
実隆は肩口を堅い何かに押し戻されるような力を受けて地面に転がった。
自分の視界の上へと流れていこうとした隆弥が、瞬時逆方向に戻っていくのが見えた。
笑っていた。
それまで真剣に菜都美を見つめていた彼の目は、いつの間にか彼を見下ろして嘲笑を浮かべていた。
――な
隆弥の右腕から、切っ先は消え去っていた。
代わりに――それは実隆の右肩を刺し貫き地面に縫い止め、隆弥の体重を支えていた。
器用に右手を回し、自分の二の腕に刺さったモノを抜きはなち、低い姿勢で突っ込んできた実隆に突き立てたのだ。
いや――彼はただそれを実隆に向けただけだった。
彼が突っ込むのに合わせて大きく右半身をねじ込み、突き飛ばすようにして刺した後、駄目押しとばかりに右足の裏で踏みつけた。
踵の下で金属がぎしぎし嫌な軋む音を立てる。
軋むのは足の裏に伝わる振動と、その下にあるアスファルトのせいだろう。
だが彼が踏みにじるようにして彼の上にいたのはほんの数秒に満たない時間。
「仕方がない」
実隆の耳にその言葉はどのように届いたのだろうか。
彼の前で空気が震え、菜都美が踊るように隆弥に襲いかかるのが見えて、何も言えずに隆弥をただ見送る。
きしり
その時、ほぼ同時にガラスの破片同士が立てるような音が聞こえた。
甲高い音――
「――時間切れだ」
とんとんと軽い音を立てて彼の姿が素早く遠ざかる。
そして、彼のすぐ側に数人の人影が姿を現す。
男性、それもまだ若い青年ばかり。
ただ彼らに共通して言えるのは全員奇妙に鋭い視線を持ち、黒い服を身につけている事。
「ヒイラギミノル、お前は剰りにも優柔不断だ」
そして、彼らが普通の『真っ当な』人間ではないと言う事。
菜都美はそれに『畏怖』とは違う、胸と腹の境目が重く熱くなるような感情を覚える。
「『人間』なのか、『化物』なのか。……次に会う時までに決めておけ」
「隆弥っ」
一瞬だけ、隆弥の顔から感情が消える。
悲しみも悦びも刻み込まれていない、仮面のような表情。
そこには何もない――砂漠のような感情。
「……ミノル、やっと名前で呼んでくれたんだね」
でも。
その視線は何故か彼ではなく隆弥の前方――直立不動になった時に自然に見つめる方向に向けられていて。
決して彼の方へ、顔も、視線すら向けず。
「でも行かなきゃならないみたいだ」
その科白が途切れるように、表情が浮かび上がる。
自然に首を曲げて、実隆を見つめた彼はまるで、今言葉をかけた彼とは思えない程別人で。
「ああ、行かなければならない。――どうせお前らはついでだったんだ」
くるりと背を向ける隆弥。
「畜生っ、どこに行くんだっ、一体」
実隆の叫び声は、しかし聞こえていないかのように無視されてしまう。
追いかけようと体を動かそうとして、菜都美は自分の両足が固まっているようにびくともしない事に気づく。
二人の様子を眺めるようにして振り返り、最後に彼は大きく右手を振り上げて去っていった。
病院を出た二人は、しばらくの間無言だった。
戦闘の直後、地面から引きはがされた実隆は、そのまま歩いて病院へ向かった。
言い訳も、理由も、何も思いつかず――ただ、警察に連絡した医者はそれ以後無言だった。
医者の顔色は僅かに青ざめていた。
誰も――彼ら以外、生きて動いている人間がいなかった、その惨状を知って。
あとでもしかすると警察に呼ばれるかも知れない。
だが、幸い病院で警察に捕まる事はなかった。
治療を終えて外に出ると、肌寒い空気が既に街に舞い降りていた。
いつの間にか暮れた日の代わりに白い星の灯りと瞬く水銀灯が辺りを照らす。
「動ける?」
何が起こったのか。
実隆は闘いの始まりに見えたあの閃光を思い出す。
突然全身の感覚が奪われてしまい、思い通りに身体が動かなくなるあの閃光。
「……あちこち、まだ痛いけどな」
結局。
何一つ解決しないまま、時間だけが過ぎ去っていた。
彼の右肩を刺し貫き縫い止めていた日本刀の欠片を布でくるんで、彼は握りしめていた。
警察に行くしかない。
――隆弥が犯人だとは思いたくはないけど
実際、あれだけの惨状を彼一人で行えるはずはない。
それに、まだ疑問は残る。
隆弥の側に現れた人間達が、一体何者だったのか。
結局何も判らずじまいで、ただ隆弥が襲った証拠がここに幾つか残っただけで。
「……行くの?」
そして彼女の問いは短い。
何をすべきかはもう話し合った事だから。
医者から『警察』の言葉が出た時にさほど慌てなかったのも、そのせいだろう。
それでも菜都美は心配そうな顔で実隆に、その意思を確認する。
実隆は彼女の方を見ることなく、小さく頷いて答える。
「多分それが一番早い解決方法だと俺は思う」
言いながら、気乗りしていない自分に気づく。
それがあの木下という警部のせいだとは思いたくない。
またか、と言われるのが怖い。
それとも――逆に、納得するだろうか。
あの時の犯人が兄貴だった――同居する、親の実の息子だったと。
――いや
実の息子という一点は、実は間違いだ。
「今日、行く?」
本当はそれが一番良いし、そうしなくても既に家に電話の一本もかかっているかも知れない。
家に、と考えて実隆は口元を歪めて悔しそうにうつむく。
――母さん
彼らに言われるよりも早く。
実隆は、自分の口から話をしておきたいと思う。
「……できる限り、早く。その前に家に帰るよ」
言えるだろうか?
疑問が頭をよぎる。
同時に思う。情けない、と。
『お前は、人間じゃない――それだけで十分な理由だ』
「また連絡する。今日は、もう帰ろう」
菜都美は、家の近くぎりぎりまで一緒に帰ってきた。
『どうせ近くまで一緒じゃないの』
帰り道、実隆の家に至る道の途中、最後の分岐で別れるまで、だからといって――何を話した訳ではない。
ほとんど無言、ただ文字通り一緒に帰ってきただけだった。
そして、ただ別れただけだった。
別れ際、『携帯、持ってれば良かったね』と一言呟いた。
――気にしてくれているんだ
と、実隆は思ったが、何も言わなかったし何もしなかった。
気が回らなかった、と言えば聞こえが良い。
ただ単に、彼女の本心を深読みしすぎただけだった。
――何か言っておけば良かったか
今頃そんな事を考えてももう遅い。
彼は自分の家の前で僅かな後悔をしていた。
「ただいまー」
言わなきゃいけないことが多すぎる。
何から言おう、何を言おう、どうやって説明しよう。
でもそう思ったのも束の間だった。
悪夢は、今初めてそのベールを脱ぐ
彼の声に気づいたのだろう、とんとんと軽い足音が台所の方から聞こえてきた。
スリッパを履かないこの足音は、里美だろう。
実隆は靴を脱ごうと思った時、里美の怪訝そうな顔が見えて、座るのをやめた。
里美はじろじろと無遠慮に、そして訝しげに彼を見つめて、言う。
「あなた、どなた?」
どくん
冗談だと思った。
だが、彼女が彼を見る目は、息子に対する物ではなかった。
不審そうに見つめる瞳は明らかに自分を信用していない警戒心を湛えて。
それは――他人を見る眼。
ふと、気がついたように視線を二階に向ける。
「隆弥ー、隆弥ーっ」
「え」
心臓が跳ね上がった。
自分の意志とは別物になるように、何度も鼓動を繰り返した。
何も――考えられなくなって、真っ白に意識が飛ぶ。
――隆弥
つい先刻、路地で争った記憶が蘇る。
逃げた方がいいのか。それとも、ここで彼を待つべきなのか。
あり得ない事だと自分に思わず言い聞かせる。
隆弥がこの家に戻ってきているはずはないから。
だが。
「はーい、何、里美さん?」
階段の上から聞こえた声は、聞き覚えのない声だった。
実隆は一瞬だけ自分の居場所を疑った。
今いる自分の場所を。
見覚えがある靴箱、日に焼けて変色した傘立て、自分の作った紙の網かごに飾られた造花。
誰がなんと言おうとも、ここは間違いなく自分の家だ。
目の前にいるのは自分の母親のはずだし、そして、隆弥と呼ばれるべきなのは彼の兄である――彼女達の息子であるべきだ。
『面白いことを白状してやるよ。……俺も、実はこの両親の子供じゃない』
「お友達よ」
どくん
悪い冗談だった。
それもとびきり極悪な、自分の目の前が真っ白に消えていくようなもの。
――どうして
出かけた声を飲み込む。
とんとんという階段を叩く足音が、ついに姿を現すから。
そしてそれが――最悪の冗談だった。
足音とともに現れる少年は、彼の知らない顔をしている。
彼の母が隆弥と呼んだ、二階から現れた少年は、彼の知る隆弥ではない。
彼の記憶の中にある自宅の中で、少年は全く別の、隆弥とは違う別人だった。
彼が『隆弥』?
そして里美の投げかける他人への視線。
その偽物の隆弥は言う。
「里美さん?俺の友人にこんな奴、いなかったよ」
俺にもいないよ、と言いそうになって止める。
今、どうやらここは他人の――楠、という人間の為の家で。
――俺の……家じゃない
背中が震える。
「楠隆弥は、俺の兄貴だ。友人じゃない」
きっと目を上げ、『隆弥』を睨む。
「それに、お前は隆弥じゃない」
彼の顔色は変わらなかった。
見知らぬ『隆弥』は、まるで隆弥のように眼鏡をかけ、眠たそうな貌をしている。
顔にへばりついたような笑みまで、まるで悪質な物真似のようで。
「な、なんて事を言うのよ、警察呼ぶわよっ」
「それより病院じゃないかな?」
彼らの口から漏れ出る言葉は決して、家族のための言葉ではなかった。
耐えきれなくて。
気がつくと、実隆は家の外に飛び出していた。
――訳が分からない
何故こんなことになっているのか。
――そうだ、警察に行こう
警察に行けば、こんな訳の分からない奇妙な悪夢は解決するはずだ。
警察に行く用事だってあるんだ、そこで話をすればいいんだ。
彼は病院での医者の会話を思い出しながら、一番近い警察署へと向かう。
交番ではない、この間の事件に巻き込まれた時に行った署の方へ。
走りながら話す内容を混乱した頭で検討する。
実隆はパニック状態に陥っている自分を把握していなかった。
正常な思考過程を踏む事ができていないことすら。
パニックになっていなければ、彼はあの場で問いただして警察を呼んでもらうのも別に構わなかったはずだ。
だが結果は非常に単純で、又彼にとってはこの選択の方がよりショックの少ない方法だったのかも知れない。
夜の灯りの中でもなお、入り口に点る光へと彼は誘われるような感じがした。
「悪戯なら、帰ってくれないか」
まず実隆は、自分が病院で呼ばれた事を話してみた。
受付での対応は非常に醒めた物だった。
――そんな連絡はしていない
自分の治療をした病院の名前を出してもやはり無駄だった。
病院から通報したはずなのに、後で呼ばれるかも知れないという話までしていたのに、それすらなかった。
そして駅裏で襲われた話をしたところで、無駄だった。
どこまで狂言として捉えられたのだろうか。
実隆は、自分を貫いた刃を出して訴えて初めて聞き入れられた。
自分の傷と、日本刀の欠片。
動かない証拠だけに、彼らは渋々受け取ったが、次に彼が言った言葉に対してはやはり冷ややかだった。
『楠隆弥が、行方不明になった』
彼が自分の兄貴である事、彼が自分を襲った事、そして、彼がそのままどこかへ行ってしまった事。
――だが、家に電話したのか、警官は険しい顔で彼を睨んでそう言ったのだ。
「悪戯っ…」
実隆が反論する前に、警官は言った。
「ああ、悪戯にも程があるだろう?楠隆弥さんは今自宅にいて、ご両親の話では弟なんかいないというじゃないか」
そして、日本刀の欠片も乱暴にカウンターに叩きつけられた。
「下らない妄想に、我々は付き合っている暇はないんだ」
そんなはずはない、と思ったが同時――里美の他人を見つめる目つきを思い出す。
冗談を言わない彼女が、彼に向けた冷たい視線。
隆弥と呼ばれた、全くの別人。
何が、どうなったのか。
だが彼がそうやって惚けていられたのはほんの少しの時間。
「だったら木下警部を呼んでください!」
受付の警官は首を傾げて自分の後ろにいる同僚に視線を向ける。
彼が首を横に振るのを見て、警官は言う。
「それは、どこの誰だ?」
きりきり
いつか、学校で感じたのと同じ気配。
いきなり敏感になったような意識が『逃げろ』と警告する。
――その時、一人、署の奥へと消えるのが見えた
――じっと見つめる人間がいた
――耳打ちする人間が見えた
それは、一体何の映像なのか。
瞬時に自分に対する敵意のようなぴりぴりしたものが具体的に見える。
まるで被害妄想のように。
その時、先刻まで話しかけていた警官が視線を――向けようとしているのが判った。
だから踵を返し、まるで逃げるようにその場を去った。
そのままそこにいれば、悪意に沈みそうだったから。
自分の事を他人を見る目で見つめる家族。
いなくなった隆弥とは別にいた、まるで『隆弥』の不出来な紛い物のような男。
警察署を出て、穹を見上げた。
今日は澄み切った夜空が広がっている。
――どこにいこう
視線を降ろすと、この辺では広い二車線の道路があり、勢いよく車が走っている。
その向こう側には住宅地が広がり、家から灯りが漏れている。
――どこにいこう
もう帰るべき家はない。
行ったところでどうにもならないだろう。
学校?あと数日で卒業なのに、それにもう卒業なんかもどうでも良い。
今まで隆弥の弟として、楠家で過ごしていた。
でも、もうそこに自分の居場所がない。
――今までの隆弥はもういない
改めて認識してしまい、顎から力が抜けていく。
がちがちと痙攣するように前歯が音を立て、噛み合わせる力が入らない。
悪い夢。
そう、これが夢ならよかったのに。
彼はうつむいて自分の眉根を右手で揉む。
足が動かない。
動いたとしても、どこに行く訳ではないのだから。
どこに行ける訳でもないから――彼は、眩暈を覚えた。
自分の目の前から去った隆弥――結局彼は誰だったのか。
――『もう一度会う時』があるんだろうか
『人間』なのか、『化物』なのか。……次に会う時までに決めておけ
隆弥は何をするつもりなのだろうか。
何をしているんだろうか。
自分の思考をまとめられなくなって、彼は気がつくとふらふらと歩き始めていた。
どこに行くのか――どこに行っても、同じだから。
――だったら
悩む必要も、迷う事もない。
彼が我に返った時、そこはやはり自分の家――いや、自分の家だった場所に、いた。
「ミノル」
背中側から聞き覚えのある声が聞こえて、彼は振り向いた。
青ざめた中で菜都美が珍しくしおらしい表情で、彼を見つめていた。
「よぉ、何だ、こんな時間に。警察にはもう出かけてきたぜ」
彼女の視線が泳ぐ。
何かを言いたがっているのは判る。
でも、何を言いたいのか自分でも理解していないような。
そんな、いろんな感情が綯い交ぜになったそんな貌。
「……送ろうか?」
「ミノル」
今度は低く押し殺した声で、彼の名を呼んだ。
「話したい事があるの」
そのまま彼女は息まで押し殺すように黙り込んでしまう。
――こいつは
実隆はそれまで浮かべていた薄笑いをかき消して、僅かに俯いて視線を逸らせた彼女を見つめる。
――ドコマデシッテイルンダ
脳裏に響く声は、怜悧で酷薄な相手を利用しようとする感情の流れ。
まるでもう一人、自分の頭の中に住んでいるような気がした。
何を言おうかと逡巡しているうちに、どれだけ時間が過ぎたのか判らなかった。
一分?十分?それとも、もっと短かったのだろうか。
「送るよ」
「どこに帰るつもりなの」
実隆の言葉に対して、甲高くヒステリックに叫んで彼女は応えた。
一歩踏み出しかけた足を、彼はそのまま止めてしまう。
菜都美は睨み付けるように眼を大きく開いて、唇を震わせている。
彼女の、こんな感情を剥き出しにした怒り方を彼は少なくとも見た事はない。
この間屋上で突然泣き始めた時も、こんな――唐突で、まるで人が変わったような感じだった。
「応えてよっ……ミノルは、どこに……帰るつもりなの」
自分の声に驚いたのか、実隆の貌に気づいたのか彼女は言葉を飲み込むようにして、声を落ち着けながら言った。
その質問の意味は非常に残酷に感じられた。
帰る場所。彼女はそれを聞いている。
「――何で、そんな――事を聞くんだ」
実隆は息を継ぎながら、菜都美の側まで歩み寄る。
ぽん、と何の気なしに肩を叩いて、彼はその手を掴まれてしまう。
冷たい両手で彼の手を握りしめたまま、それを自分の顔の前まで持ってくる。
視線は実隆の顔から手とゆっくり動くと、そのまま目を閉じる。
一瞬その表情を美しいと感じた。
左右対称な、落ち着いた静かな表情。
寺院にある菩薩像の穏やかな貌をそれは連想させる。
「このまま手を離したら、どこかに行ってしまいそうな貌、してるんだもん」
静かな落ち着いた声。
でも、何故か絶対的な物を感じさせる、強い声。
従わざるを得ないと、感じる声。
「っ、馬鹿、どこに行くって言うんだよ」
だから実隆は抵抗しようとして叫ぶ。
「帰って来れない場所。もう二度と会えない、そんな場所」
――震えてる?
声とは裏腹に、彼女の手は震えている。
ゆっくり顔を下に向けて、前髪で自分の貌を隠す。
違うかも知れない――でも、彼女を見つめる実隆にとってはその仕草は怯えているように見えた。
何に対してか。実隆はそれ以上は考えるつもりはなかった。
――ちぇ。興醒めだな
だから自分に、そう強がってみて苦笑いする。
「ちょっと違うな」
以外にも簡単に彼女の手はほどけた。驚いて実隆の顔を追う彼女の視線を重ねる。
ちらっとしか見えなかったが、彼女の目は赤かった。
――馬鹿野郎
泣いていたのだろう。
だから、目を閉じていたのだろう。
実隆は彼女の隣に移動して背中をぽんと叩く。
「どっかには行くけど、決して会えない訳じゃないだろ。隆弥だって言ってたじゃねーか」
実隆が歩き始めるのに合わせて、追いかけるように菜都美も歩き始める。
彼女の家の方向へ。
「み、ミノル」
「んだよ」
「あたしそんな事言ってるんじゃないの。あの……」
と言うと眉を動かしたり口をぱくぱくさせたりしながら視線を彷徨わせて、やがて俯いて自分の足元を見るところで落ち着く。
「あのね、あたし何だか心配で、帰ったらすぐ電話したの。そしたら、あの……『隆弥』さんが出たんだけど」
聞く必要はなかった。
そして納得した。
彼女はそれに気がついて大慌てで自分の家から実隆を捜しに来たのだろう。
そして、家の前で鉢合わせた――ということだろう。
「ヒイラギミノルなんて、どこにおかけですか辺りの返事を貰えたって、こういう訳だな」
「っっ!!」
非難の視線で実隆を見上げ、一瞬口が動くが言葉にはしない。
続いた言葉と、もう一度視線を逸らせた時の彼女の貌が、実隆の落ち着いたその態度を揺さぶった。
「やっぱり落ち着いてるね。……タカヤを、探しに出かけるつもりだったんだ、やっぱり」
『隆弥』。
彼女は今先刻もさんをつけて呼んでいたはずだ。
「お前」
訝しがって眉を寄せて、咎める口調で彼は言う。
「そうなんでしょ。クスノキタカヤ――今は、その名前を持つもう一人が既にいるから、そう呼ぶしかないけど」
いつの間にか菜都美は目を鋭く細めて、睨むように彼を見返している。
菜都美はいつか見せた『もう一つの貌』をそこに湛えながら言葉を継いでいく。
ヒトに怯え、牙を剥く化物としての彼女の、貌で。
「アレは『人間じゃないから』という理由であたし達を殺そうとした。あたしは、タカヤが人間だからという理由で」
そこでふっと表情を緩める。
悲しそうな貌。
「……殺さなきゃ、いけないと思う?」
つい数刻前の戦闘。
隆弥と菜都美は、自分の命のぎりぎりを交わし合っていたように見えた。
菜都美は敵を見つめる眼で。
隆弥は冥い笑みを浮かべた瞳で。
「殺す必要はない、だろ」
でも彼女も必死だったはずだ。
何とか隆弥を止めようとした結果が、あれなんだと実隆は思っている。
だから隆弥を追うと言う彼の意志が、どんなものなのか聞きたいのだ。
先刻の自分の行動を評価して欲しいのかも知れない。
――こんな顔、見たくねえな
それでも彼女のそんな貌を隆弥のせいにはできなかった。
「殺されてやる必要だってない。俺は隆弥を止めるために行くんだ」
ほんの一瞬、別れる間際に聞いた言葉。
彼が最後に交わした隆弥との会話。
記憶の中で、一度も笑みを絶やす事のなかった彼の兄。
無表情で行かなきゃと言った兄。
「じゃあもう学校にも行かないの。卒業式、まだ行かなきゃいけないよ」
「そうだな。……でも、それよりもこれから何とか、生きる方法を見つけないと駄目だと思う」
くすっと笑う声が聞こえた。
見ると、菜都美が笑みを浮かべて彼を見返してくる。
「何〜。ミノルぅ、そんな真面目な事できるのー?」
「んだよ糞っ。人が真面目な話してるってのに」
片眉を吊り上げて実隆は大きく鼻を鳴らす。
くすくすという笑いは消えない。
「んー、いつも人の事バカバカ言うから言い返してやる。こんのバ・カ。大バカ野郎っ」
菜都美の胸ぐらを無言で掴み、右片腕で引き寄せようとして――それがままならない。
――!
緊張感のある空気の揺らぎと、気配の重さに気がついた時には、先に菜都美が左手で彼の手首を握っていた。
嘲りの笑みを湛える貌で、彼を上目遣いに見つめながら。
『化物』――本気の、彼女の姿。
「ほぉら」
みしりと彼の右手が音を立て、実隆は声にならない悲鳴を上げる。
自分の身体の外側へねじり上げられて、激痛に身体を反らせていく。
持ち上がるはずのない彼の身体は、彼女の細腕でゆっくりと上昇する。
「だからバカだって言ってるの」
ふっと、腕をねじり上げる力が消える。
死角に入ったのか菜都美の姿がも消えている。
ぽす
小さな音を立てて、彼の胸元に重さを感じる。
しがみつくようにして菜都美が、彼の腕の中にいた。
「こんなにも弱いし、こんなにもバカなのに。こんなにも考えなしだから」
額を実隆の胸に押し当てて、両肩を丸める。
でも数秒もしないで、彼女は右手で彼を押しのけるようにして離れる。
はにかんだ笑みを浮かべて。
「――ちぇ。気が利かない男の子は嫌われるぞ」
右手の人差し指で鼻の頭をちょんとつつくと、両手を腰に当てて胸を反らせてみせる。
「うちにおいで、ミノル。お父さんの部屋が空いてるし、明美姉だって邪険にはしないからさ」
実隆は思わず眼を泳がせた。
それは驚きと、動揺と、そして多分嬉しさから、だろう。
「……いい、のか?」
何もない。
それは彼女にとって何の問題にもならない。
彼は唐突に全てを失った――どこかで見た風景によく似ている。
今の、彼の何かに縋る事を赦そうとしない意志を何とかして赦してやらなければ、脆く簡単に崩れる。
――何もないのなら、全てあげればいい
菜都美にはそう思えたし、それは苦ではない。
一瞬自分のポケットに入った鈍色のメダルを思い出して、無上の笑みを浮かべた。
「いーに決まってるって。……ミノル」
そして少し戯けて、右手の人差し指と親指を開いて自分の顔の横でひらひらと動かす。
「女の子ばっかりの家だから、少しは気を遣ってよ?」
「お前らもな。俺は一応、男なんだからな」
菜都美の笑いに合わせるように笑って、実隆は思い出した。
――戻って来れた、と。
先刻までの冥い思いに捕らわれることなく、引き戻してくれたんだと。
「…ありがとう」
へへ、と菜都美は嬉しそうに笑って、そしてはにかんで肩をすくめる。
「うん」
単純な返事だったが、素直な彼女の態度に口元だけを緩めて微笑んだ。
「養子里親?」
彼女の家に向かいながら、実隆は自分の生い立ちについて――そう、何故か――話す事になった。
「ああ。聞いた事ない?……みたいだな」
目を丸くする菜都美の顔を面白そうに眺めて、実隆は言う。
「名字が違うだろ?本当は、名字を変えなきゃいけなかったんだろうけど、無理言ってな」
最近は結婚しても名字変えない人もいるだろ、と冗談交じりに言う。
「『柊』って名前、大切にしてるんだ」
眉を上げて目を丸くして、あさっての方向を見つめ――小さく数回頷く。
「そう……かもな。俺の、生まれの唯一の証拠だから」
「ふぅん。じゃ、ミノルはどこか孤児院にいたの?」
「へっへ、ばーか、今は孤児院なんて言葉はないんだよ。『児童養護施設』って言うの」
実隆は小学生まではその施設で過ごしたらしい。
ただ記憶が曖昧で、そこがどんな施設だったのか、場所もはっきり覚えていない。
菜都美は彼の話を聞きながら真面目な顔でふんふんと頷いている。
「で、俺は特別養子扱いになるのかな。養子になるまでは『里親』として施設の子供を預かるのが養子里親っていうんだよ」
実際には彼は親が事故死している。
法律上の手続き等の間の一年だけ里親扱いだったらしい。
ということを、実隆は聞いた事があった。
「じゃ、さ。……その施設、どこにあるか、知らないんだ」
「まぁな…って、何でそんな事を聞くんだよ」
菜都美は慌てて首をぶんぶん振って、少し声に出して笑う。
「ごめんごめん、そんなつもりじゃないから、ごめん」
応えながら、菜都美は彼を覗き込むように上目で彼を伺う。
「ただ、ね。ちょっとそこに行ってみたいなって、思っただけだから」
菜都美の答えに首を傾げる。
「別に、行ったって何もないし。普通の建物だろ?」
彼女は実隆の答えにもただ笑って答えるだけで、それ以上はその話題に触れる事はなかった。
そして。
「では、どうぞ。いらっしゃい、ミノル」
菜都美の家に辿り着いた。
「……お世話になります」
実隆が頭を下げると彼女は嬉しそうに頷いた。
「うわーっ」
一番最初に実隆を歓待する言葉は、真桜家の現家主のその驚きだった。
軽くカールした髪の毛をふわふわさせて、歳を感じさせない整ったやせ形の体型の彼女は、一言で言うと日本人離れしている。
女性にしては割と高い目の身長のせいだろう。
おばさんと呼ぶには躊躇いを覚える女性だ。
「うわー」
真似をしているつもりだろう。感情のない間抜けな声が聞こえた。
やはり身長のある女性がその後ろに控える。
言うまでもない、彼女は北倉明美――旧姓真桜、菜都美の姉だ。
『なっちゃんが男連れで帰ってきたー』
なのに、その後に続く言葉は(多分に親子だからだろう)綺麗にはもって聞こえた。
「母さんっ、それに明美姉!」
叫ぶ菜都美に、くすくす笑う二人。
――似ている
菜都美ががんがん怒鳴るのにも構わず、からかいの波状攻撃を繰り返す長身の女性陣。
何故か、菜都美が二人の菜都美にからかわれているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
「だって、ねえ明美」
「ええ、かあさん。わたしだってそこまでしたことないわよねー」
ねー、と二人して小首を傾げる。
「なっちゃん、ちゃんと順序は選ばないと嫌われちゃうわよ」
「だぁかぁらぁっ!」
顔を真っ赤っかにして両手をぶんぶん振り回す菜都美。
放っておけばそのまま家を破壊しかねない勢いだ。
「判ってるわよ?」
まず母親がしれっと答え、続いて明美がくすくすと笑い声をあげて言う。
「ミノルくん、しばらく居候させるんでしょ」
「居候じゃなくて下宿っ」
――そーいう話を既にしていたのか
半ば呆れ顔でため息をついて、きゃいきゃい楽しそうにしている三人を眺める。
「あらー、実隆くんが他人顔してるわよ?」
「え゛ー」
一斉に視線が実隆に集まる。
母親の楽しそうな顔。
明美の不機嫌そうな顔。
そして、菜都美の――これは先刻から怒鳴っていたからだろう――真っ赤な顔。
「あ、えと」
「遠慮はいらないわよ。どーせ空き部屋は幾つかあるんだし」
「そーそー。あ、ヒロくんにも紹介しておかないといけないよね、おねーさんとしては」
「もう、明美姉!」
また収集がつかなくなりそうだと思った実隆は、とりあえずまず頭を下げることにした。
「よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしくお願いしますね、柊実隆くん?」
「これからは家族よ〜。実隆くん、弟だからみっちゃんかな?」
「いーかげんにしてっっ」
わいわいやりながら『お客』ではなく半分『家族』みたいな扱いで、一つの部屋に案内される。
『二人きりは危険よ』という明美の冗談か本気か判らない提案で、夕食の準備をする母親を除く三人でその部屋に入った。
ごく最近に立てられた、真新しい木の匂いのする家。
――何となく、お金持ち……
他人の庭に咲く赤い花は、より赤く見える。
そう言う物だろうと思いながら部屋の中を見回す。
六畳半の部屋に机と本棚があり、床の間には掛け軸がかかっている。
掛け軸には何か毛筆で書かれた文字がのたうち回っているが、はっきり言って理解できない。
「畳よりフローリングの方が良い?」
「自分は畳の部屋の方が落ち着くんで、いいです」
明美はぱちくり、と一度またたくと頷く。
「そ?うんうん。この部屋は好きに使ってもいいからね。お母さんもそう言ってたし」
そう言うとぺたんと座り込んで、ちょいちょいと手招きする。
「んじゃ、おねーさんとお話ししよっか」
少し困って菜都美を見ると、既に菜都美もぺたりと座り込んでいる。
自分の後ろ頭をぽりぽりとかくと、観念したように彼も座る事にした。
「さてと」
明美は天井の隅に視線を投げるようにして、ほんの一呼吸だけ彼女は沈黙する。
「ミノルくんの好きなタイプは?」
彼の隣で音を立てそうなぐらいずっこけている菜都美。
それを取り繕う――でも、その辺は大人なのか、全く動じていない風で――ように、
「いやぁ、まだ、なっちゃんの変なところとか、知らずに過ごしてたらねー」
「あたしは変な妹なんかいっ」
ぽりぽり。
明美は恥ずかしかったのか、後頭部をちょっと大げさにかきながらぺろっと舌を出す。
「真面目に聞くよ。…ごめん」
そう菜都美に向かって言うと、今度は真剣な表情を作った。
――その時はまだ判っていなかったのだろう。
菜都美が、何も言わずに彼女に習って座っていることの理由を。
明美が――そう、彼女の姉の態度を良く知る菜都美の態度のように――その時、真剣に話をしようとしている事を。
「でも雰囲気がね…なっちゃん。黙っててね」
彼女は釘をさすように言ってから実隆の方に向き直った。
「母さんは反対しなければ、わたし達は何も言う事はないけどね、ミノルくん。大事な事なのよ」
そう言うと彼女は、菜都美が言った内容について話し始めた。
判っているのは二つ。
一つは、隆弥と名乗って電話に出た少年が、菜都美の知る隆弥ではなかったと言う事。
二つは、彼が実隆を知らないと言った事。
そして最後に言ったのは、菜都美が実隆に対して「助ける必要がある」と感じた、という事だった。
「なっちゃんはわたしには相談してくれたけど、母さんには言ってないのよ、本当の事情は」
ただちょっと一人暮らしのような真似事をする、という名目らしい。
「それで。……いつまで、ここにいる?」
真剣な表情。
そこに拒絶を見るのは勝手だ、と実隆は感じる。
――いやな、人間になっちゃったのかな……
まだ先刻までの出来事を引きずっているのかも知れない。
「決めてないというか、決められません」
「決めなきゃ駄目よ」
「明美姉」
息もつかせず立て続けに言う。
何故か、最後に声を上げた菜都美に二人の視線が向いている。
「あ……う」
「ここに住む事に反対してるんじゃないの。いい?ミノルくんの自分の意志がどうなのか、それが大事なの」
そしてついっと実隆に視線を向ける。
こうしていると、年相応の女性である。
普段からどんな場合でも菜都美は敵わないんだろうと思いつつ、質問の意味をもう一度反芻する。
それは。
「……そうですね」
自分の意志。
目的。
実隆が外に出たがっていたのは事実だ。
それは、いつまでもお世話になりっぱなしというのは気が引けるから。
そして柊の名字を捨てなかったのは、自分の親族を捜すためだから。
いつか会えるのであれば、どこかにいるはずの親類と話してみたいから。
何故自分から家族をわざわざ切ろうとしていたのか、明美と話していてその理由を思い出した。
なのに何故、今自分の居場所がなくなって困っているのか。
唐突であまりに急激に事態が進行してしまったために、こうやって落ち着いて考えるという事ができなかった。
そのせいだとは、思いたくはないが。
――そうだ。俺は
何のために、この好意に甘んじるのか。
今目の前にあるはずの目的はなんだろうか――言うまでもない。
「俺ははっきり、いつまでとは言えません。それでもいいですか?」
明美はにっこり笑って頷き、彼の言葉を待つ。
「隆弥を見つけるまで。この自分の巫山戯た状況を克服するまで、お世話になります」
ぽん
「よーくいったっ!それでこそわたしの弟よ!」
「明美姉」
明美は上機嫌で掌を打ち合わせ、そのまま抱き締めそうな勢いで実隆の両肩をつかむ。
――もし床に座っていなければ、多分本当に抱き締めていただろうけど
自分の姉に冷たい視線を送りながら、菜都美はもう一度ため息をついた。
――明美姉……治樹と重ねてるよね
それは彼女の母親にも言える事かも知れなかった。
でも、菜都美はそれを口にする気にはなれなかった。
「お前、勝手に話進めてたんだな」
上機嫌になったからか、本当に冗談だったのか、明美はそのまま二人を取り残すようにして去っていった。
「あ、うん。……あそこで見つけたのは、本当に偶然だったけど」
とっくの昔に日が暮れていたせいで時間の感覚はなかったが、警察署で過ごした時間は結構な物なのかも知れない。
――あの時間のうちに
実隆は少しだけ、本当に少しだけ感謝する。
「助かったでしょ」
「ん、あ。……その割に、すぐにその話をしなかったのな」
あーと笑いながら視線を逸らせる。
笑って誤魔化そうとしているらしい。
「誤魔化すなよ」
「るさい。……恥ずかし、かったのよ。うちにおいでなんて。いざとなっても勢いで言えないものよ」
菜都美はむっと眉を吊り上げて言うと立ち上がって埃を払う。
「それで、どうやってタカヤを探す?何か手がかりでもある?」
そんなものはない。
あるんだったら見てみたい、と実隆は思う。
肩をすくめてため息をつくと、ゆっくり首を振って応える。
「でも難しくはないと思う。あいつの口振りだと、必ず…もう一度会えるはずだから」
あの最後の約束は『もう一度殺しに来る』という意味だろう。
多分。
と言う事は、少なくとも同じような真似をするために今行動しているはずだ。
――ただ
判らないのは、唐突に今の状況に自分を追い込んで何を得ようと言うのか。
得るものなんかないはずだ。
むしろ失う――特に、日常生活という隠れ蓑がなくなるのだ。
彼は簡単に殺戮を行う事が難しくなるはずだ。
最後に見たあの人間達が、もしかすると大きく関わっているかも知れない。
――へんな連中だったよな
手がかりにもなりそうにない。
せめて、何か彼に関して動きがあればいいのだが。
「今は、積極的に動けないんじゃない?だったら、今は休んでも良いと思うよ」
実隆が黙って考え込み始めたのを見て、菜都美は明るく言った。
「もうすぐ夕飯だし、とりあえずロビーにいこっか」
タカヤ。
菜都美の言う彼の名前が、どれだけ遠くに聞こえるだろうか。
――逃げるな
彼は頷いて応えながら、自分の口の中だけでそう呟いた。
誰に対する言葉なのか自分でも判らないままに。
「――今、一つの敵の動きがある」
敵。
そう。敵は人間ではない全て。
人間という脆弱な生き物が、この地球上で繁栄を繰り返す最大の理由は、その生命力に反比例する繁殖力と智慧だと言われる。
だが正確には知られていない。
人間の持つ防衛本能が、繁殖力に繁栄する『総体』としての種族単位で存在することが最大の理由なのだ。
「『識る者』か?」
スーツに身を固めた男達がとある場所のとある部屋で話をしている。
幾つかの机と椅子が並んだ、ちょっと小綺麗なオフィスに見えるそこに、今五人の男がいた。
会議室で会議中――もし誰かがすぐ側の金属製の扉をくぐったなら、そう言う風に見えたかも知れない。
「ああ、そうだ。奴の能力は言わずと知れたことだが」
「無駄だ、奴が動くということは、既に結果が出ているということだろう」
「だがそれを利用しない手はないだろう」
――先の見えない議論だな
そしてもし、扉をくぐった人間が部外者であり、彼が部屋を眺めたなら、不釣り合いな青年が佇んでいる事に気づくだろう。
部屋の隅で、どこからか持ってきたパイプ椅子に浅く腰掛けて、背中を背もたれから投げ出して壁にもたれる青年に。
明らかに会議を聞いている風ではない。
無論、会議をしている人間達よりも若い。
いや――会議をする人間が年齢不詳ではあっても、それでも随分と若い。
恐らく高校生か、まだ大学に入り立てぐらいの歳だろう。
そんな彼が、ほとんど何の感情も感じさせない表情で天井を見つめている。
「『Lycanthrope』は」
「あれはどうだろうか。……霊薬とは思えないが」
「効き目よりもあの惨状を見ただろう、あれには触れるべきではない」
奇妙な部屋だった。
感情が欠如したような会話が続き、空気の揺らぎすら感じさせない。
白い真っ平らな部屋には、合計で六人の人間がいる。
青年だけが、この儀式へ参加を拒んでいる。
まるで切り落としたように。
「これは決定事項だ。……それよりも魔学派の動向も気になる」
「奴らは細かく人員を派遣しつつある。我々の障害になる事はないが、いつか必ず大きく動いてくる」
「確かに。『識る者』の動向はこれからの我々の良き指針となればよいのだが」
一体いつの頃から始めたのだろうか。
飽きもせずに確かめるような会議が、厳かに進んでゆく。
こうなると、本当に意味のない会議ではないような気もしてくる。
少年はここにくるのは初めてではなかった。
湿り気を帯びた空気。
黴くさい匂い。
何故そんな所に人間が住んでいるのか、不思議になるぐらいおかしな――おかしな。
少年の記憶が確かであるなら、そこは別の場所ともつながっていた。
そして何度も彼はその黴くさい場所を往復していた。
理由は今更思い出せない。
ただ、そこに行くのは非常に怖かったと記憶している。
――何故、怖いのか
それは記憶にはない。
彼は、『今の彼』は、何故か過去に曖昧な記憶が多い。
この洞窟の奥に進んでいく記憶もそうだ。
実際に過去にあったはずなのにそれが一体何を示しているのかが判らない。
まるで、今ここで聞き続けている詠唱と同じように。
「人との境界たらんことを」
「人間を護る壁となるように」
「人とケモノを隔てる盾として」
お決まりの文句が詠唱され始める。
少年は、その言葉を何度も聞いてきた。
多分、嫌になる程聞かされてきたはずだ。
――だから
この直後にかけられる言葉を、期待してしまう。
「タカヤ」
まるでスイッチが入ったように、バネ仕掛けが彼を壁から引きはがす。
ゆらり、と。
「休憩だ」
彼の記憶には、そんなに古いものはない。
「今更俺を引き上げた理由は何だ」
武器は既に返却している。
不必要だから、必要な時にまた手渡されるだろうが。
「確かに。既に定着している物を壊す事は不利であり不自然だ」
「何より一緒に過ごしていたはずの『鬼』をとりのがしている」
「あの街の目は新たに派遣したが、確かに今更かもしれない」
立て続けに、まるで一人と会話しているように立て続けに言葉が漏れる。
タカヤはふん、と鼻を鳴らす。
「しかしお前に多くを語る理由はない」
「お前には我々に従う義務がある」
「忘れさせる訳にはいかない」
それは、返答がない事を示しているのだろうか。
いつまでこの男達は儀式をしているつもりなのだろうか。
――はん
ため息のように大きく息を吐くと、彼は全員の貌を見回す。
険しい表情。緩い表情。微笑み。悲しみ。そして無表情。
でも、どの表情も自分に向けられているようには感じない。
「――俺がここにいるのは、人間外を刻むためだ」
「そうだ」
「人間という総体を護るためにお前はいる」
「壁として、盾として、境界線として」
「我々の示す人間への脅威を討ち滅ぼすために」
「そのための努力と力を惜しんではならない」
――下らない真実なんぞには踊らされはしない
彼はほとんど聞き流しながら、その言葉の羅列が重要である事に気がつく。
それが自分の使用しているモノと対した違いがない事も。
「――俺に、言霊は利かない」
彼の反撃に、一人の男が一瞬だけ顔色を変えた。
だが、それだけだった。
こつん
そんな音が響く。
足音のような。
少なくとも隆弥はその音を聞いた事があるような気がする。
――ミノル
彼の耳に彼の言葉が届いた。
ほんの瞬間だけ、何故それが聞こえたのかは判らない。
暗闇に光が差し込むように、彼が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
自分を呼ぶ声が。
そのほんの瞬間だけ、彼の視界に実隆の姿が映った。
右肩からなにか――あれは、多分刃の欠片だろう――を生やして、自分の血に身体を染めて。
必死になった表情の彼が、自分を見つめている。
「……ミノル、やっと名前で呼んでくれたんだね」
思いの外明確に声が聞こえた。
まるで自分のモノではない、自分の声。
同時に、薄布をはぎ取ったように全身の感覚が戻る――のに、それはほんの一瞬。
水面に浮かび上がってきたと思ったら、再び同じ勢いで引きずり戻されるように。
残るのは、幾つもの水泡――彼の、最後の言葉だけ。
――ミノル……
隆弥にとって彼は、まだ完全になじんでいない家族だった。
『今日から、私達が家族よ』
ふと里美に最初に会った時の事を思い出す。
『うちは、みんな名前で呼び合う事にしているの。貴方もね、隆弥ちゃん』
まず、そうしつけられたような気がする。
『貴方の名前は、楠隆弥よ』
何故か酷く懐かしく、どうしてもそれを忘れていたかったという気がする。
声は覚えているのに、貌を思い出せない。
里美の、感情を読ませない淡々とした言葉は思い出せるのに――まるで脳髄に刻まれているように――。
『よろしく、隆弥』
重政の声も思い出せるが、自分がどんな状態でどこにいてどうやって会話しているのかも判らないような。
曖昧なのに決定的な過去の思い出。
自分は口を開いて声を出しているのに、音だけは聞こえない。
思い出せない――何を、言っているのか。
自分が漂っている闇の中で、光以外の全てを感じようとして自分の身体を大きく開く。
でもそれが感覚である事ぐらいは判っている。
最近になって周囲が闇である事を認められるようになってきたから。
自分の記憶が作り出す幻影である事が判ったから。
今いるこの場所が、『場所』ですらない――それを認められると、初めて身動きが取れるようになった。
――自分で自分以外の視点を持つ事が出来ない
そう思いこんでいる自分を克服することの出来る人間は少ない。
自分としての記憶の闇の縁を覗き込むためには、それが『自分』では大きな矛盾を孕むことになるだろう。
だが、それを別の方法で彼は克服した、と言えるのかも知れない。
『ええ、よろしくお願いします。里美さん、重政さん』
人を超える為にヒトの形を失う――拘らないということ、それが唯一にして無二のカタチ。
彼の『視野』に、世界が映り始める。
それは彼にとって見慣れた、彼の家だった。
父と母の座るソファ。
その前に、少年が座っている。
鏡の中でしか見る事のなかった、自分の姿。
隆弥はそれを認識するのが精一杯だった。
すぐに思い出の画像は崩れ、夢から引きはがされるようにして闇に落ち込む。
――……ああ、また
『隆弥』という存在に、自分が落ち込んでいく。
沈み込んでいく。
取り返しの――つかない程に。
でも今見える記憶の淵は、決して自分の記憶にあるものとは言い切れない。
考えられない程鮮明な景色だとしても、それは何故か覚えていない。
――自分の記憶ではないのか
逆かも知れない。
今までの記憶違いは、こんな、自分の中に出来上がった夢――なのかも知れない。
そう思った途端、突然彼は自分の部屋の中に横たわっていた。
――還ってきた
あの薄闇の、閉じこめられた自分の部屋に。
彼は何度もそれを繰り返していた。
突然見える別の景色と、この『自分の部屋』を行ったり来たり繰り替えし続けている。
まるで閉じこめられたように。
――ミノル、俺の事名前で呼んでたな
今までにそんな事はなかった。
ベッドに座り込んで、自分の両手を開いて見つめながら、彼は目を閉じた。
――あんなに傷ついて
助けてやりたいと思った。
何とかしてやりたいと思った。
だから、彼は思いっきり両手を握りしめて、今の無力さをかみしめるしかなかった。
冥い闇の中。
自分が歩いていたと思った道が、道ではなくただの荒れ地だったことに気がついて、振り向く。
でも、闇が広がっているだけで何があるのかすら見えない。
光が見える。でも、それが本当に光なのか幻なのかも判らない。
昨日だと思っていた事。
それは昨日ではなくもっと以前だった――いや、あり得ないことだった。
事実はねじ曲げられ――いや、事実は曲がった訳ではない。
――これは苦行だ
握りしめた拳を開き、目を開く。
『自分』をかたどった姿で、『自分の部屋』の牢獄の中にいる自分を知る。
それを砕く事もできれば、失う事も出来る。
自分を取り巻く嘘に気づいて、それが全て嘘なのだとしたら。
――じゃあ、この俺は何者なのだろうか
唯一の真実?
いや。
自分すら、ここにいる自分すら――嘘。
――いや、嘘じゃないさ
自分ではない自分の声。
――嘘じゃあ、ない。それが事実だ
――っ!
「ふん、全く……」
『Lycanthrope』と言う名前の薬は、脳に直接影響を与えるのだろうか。
タカヤは鼻を鳴らして首を振った。
「下らない、これでも気に入っているんだ」
自分のズボンのポケットに手を突っ込んで、苛々した表情で自分の周囲に満ちる悪意に呟く。
――尤も
「貴様らの事ではない」
“Dog eye absolute thousand hand”
大慌てで一歩飛び退く。
いつものつもりで紡いだ言葉が、意味を成さずに霧散する。
――何故
冷静に判断を下す。
今は、束縛を行う事は出来ない。
韻律を整える事は出来ない。
――だから、割り込んでくるな、隆弥っ!
戦闘中に、『隆弥』に割り込まれたのはこれが初めてだった。
今までは自分の意志だけで抑えられるはずだったのに。
それでなくとも不安定になっているのに、これでは戦闘すらできないではないか。
――このままでは任務は確実に達成できない
人間外。
屈辱的なまでに、彼は後退するしかなかった。
――今はまだ駄目だ。
これから、だがまだこれからだと言うのに
異常。
彼は彼自身に起きている異常に、まだ気がついていなかった。
まだ今まで通りのつもりだった。
それが、さらに彼を惑わせる事を、まだその時は気づいていなかった。
雨が降り風が吹き、たとえ地上が洗い流されるようなことがあったとしても――
この苦行は続くに違いない。
――ミノル――!
「…これ、わすれものだよ」
小さな少女の手。
差し出された小さな掌の上に載せられた銀色のメダル。
鈍色に輝くそれを、彼は一度つまんで自分のポケットにつっこんだ。
無言で――なにより恥ずかしさの方が先に来てるから――しばらく、ほんの少し躊躇うように彼女を見つめて、少年は言う。
「おれい」
ぶっきらぼうに、彼は、もう一度自分のポケットに手を入れると、先程出したメダルを渡した。
「どうしたの?」
真後ろから声をかけられて、実隆は振り返った。
菜都美がお盆にお菓子とお茶を載せて、入り口に立っていた。
入り口のふすまを閉めずにとことことそのまま近づいて、備え付けの机にお盆を載せる。
「いや」
実隆は、身体を預けるようにして窓から外を見上げていた。
この部屋は腰の高さに窓の桟があり、人が外に落ちないように簡単な手すりが設けられている。
アルミ製のその手すりに彼は両腕を載せて夜穹を見ていた。
雲一つない穹に幾つもの白い星。
「ちょっと、星をね」
もう一度顔を、窓から穹に向ける。
まだ肌寒い空気が流れる中、星の灯りすら冷たい。
街の灯りのせいで穹が狭く感じられても、それでも深く覗き込めない程広い空洞。
何故か、そこに星がある事が、今の実隆には信じられなかった。
――邪魔だな、と思っていたんだ
だから、その言葉は飲み込んだ。
――星がなければもっと穹が広く感じられるかも知れないから
菜都美は彼のすぐ隣にひょいと身を乗り出して、右手に持ったマグカップを差し出す。
「はい、コーヒー」
「ありがと」
簡単に応えてそれを受け取ると、一度首を傾げて一口コーヒーを含む。
インスタントではない、豆から出したコーヒーは、砂糖もミルクも入っていなかった。
舌の上で苦みと、豆をローストした時の焦げた匂いが広がる。
「何か、用?」
「食後のお茶。…ミノルは、普段飲まないの?」
へへへ、と笑みを浮かべて菜都美もコーヒーを飲む。
実隆は身体を反転させて、窓に腰をかけるようにして身体を預ける。
「ああ、うち、おやつの習慣って子供の頃からなかったし、両親ともお菓子は食べなかったからな」
せいぜい飲んでも日本茶だけだったと、彼も記憶している。
「……そなの?」
「変だろ?だから、俺達って小遣いの使い道は大体食い物」
そうか。
言葉を切るために一口コーヒーを飲んで、ため息をつく。
――そうだ
考えれば、奇妙な話だ。
両親の事だ。
楠里美、楠重政の二人には実の息子がいない。
そんな話はしていなかったが、少なくとも隆弥の事を『実の息子』扱いしていたはずだ。
だが、生活圏を別にするかのように、彼らとは食事以外の接点がまるで他人との関わりのようだった気がする。
そもそも、中学生ぐらいであれば子の親離れが始まる時期ではあるのだが、それにしても――おかしい。
決して反抗期だった訳でもないというのに、何事も家族の軋轢がないというのは逆に不自然だ。
そして何よりもその隆弥の代わりにいた『隆弥』。
何かが音を立てて崩れていくような不安感と同時に、里美の他人を見つめる不審な目つきを思い出す。
――まるであれは、自分を完全に忘れてしまったような目だった
もしあれが演技であるなら恐ろしい程だ。
そしてあそこにいた不出来な偽物の隆弥は、何のためにあそこにいるのだろう。
息子であるはずの『柊実隆』を追い出してまで。
――逆か?結果として追い出される事になったのか?
黙り込んで目を閉じた実隆の隣から離れ、菜都美は机に腰をかける。
正面ではないが、こうしていれば彼を前から見つめる事が出来る。
――ミノル
彼は、どんな状態であっても彼女の『敵』には見えなかった。
一瞬懐に入れたメダルを思い出して、口元だけに笑みを浮かべる。
――……覚えてないだろうなぁ
子供の頃、他人から初めて貰った宝物。
色んな物を捨てたのに、どうしても捨てられなかったニッケルでできたステンレスのメダル。
記念硬貨並に大きなそれには、キーホルダーの枠がついているのだが、肝心なキーホルダーの金具は随分と前に切れてしまった。
鎖は幾つかついていたものの、時が経つにつれてそれも一つ、一つと欠けていく。
今ではもう、メダルを支える枠だけになってしまった。
いつも持っていたせいで表面はすれて輝く程になっているが、そんな立派な物ではない。
どこかの記念で、小遣い程度で手に入る、名前の刻印が出来るメダル。
そこに深く刻まれている文字は。
8. 8. MINORU HIRAGI
――でも、あたしには判る
あの時、彼女は泣いていたような気がする。
理由は――あまりにも怖かったから。
親とはぐれて公園で泣いていた所に声をかけてきたのが彼だった。
一人しかいない時、誰に声をかけられても懼ろしいばかりで逃げて泣きやまかったのに。
『どうしたの?』
何故か、その男の子のその声は怖くなかった。
それから一度も会う事はなかったが、初めて見た時にすぐ判った。
このメダルをくれた男の子だと。
そして、名前も一致した――ヒイラギミノルという彼の名前に。
「悪い」
実隆の声に現実に戻される。
彼が窓から身体を起こして机の側まで歩いてくる。
皿の上のクッキーを一つつまむと、ひょいと口に入れる。
「……何が?」
自分も倣うようにかじってみる。
少し甘い香りがして、口の中で溶けていく。コーヒーには合うほのかな甘み。
「いや、黙り込んじまったから」
科白の割に取り繕う風でもない彼に、菜都美は逆に黙って上目遣いに彼を覗き込んでみる。
コーヒーカップが口元に届きそうなところで気づいたのか、実隆は眉を寄せて訝しげに彼女を見下ろす。
「…なんだよ」
「え?……ふーん、まあいいや」
そう言ってまだ湯気を上げる自分のカップに口を付ける。
実隆はあんまり面白くなさそうに顔を歪め、彼女の隣に座る。
「お前、卒業式には出るのか」
かつん、というカップを机の上に置く音が、奇妙な程耳についた。
嫌な音――実隆の意識がそちらに引きずられた瞬間、菜都美が動いた。
「おい」
右肩に、彼女の頭が乗っている。
油断しなければさっとかわしていたのだろうが、もう重くもない彼女の頭と左腕が触れる感触がある。
「ミノルは?」
彼女は返事の代わりに応える。
「……出るつもりはない。それに、多分……隆弥も来るだろうし」
どちらの、と特定するつもりはなかったし、菜都美もそれを聞こうとはしない。
「それに、これ以上何かあったら、俺は多分」
俺でいられなくなる。
彼は言葉を続けず、でかかった言葉を飲み込む。
「どーなるか、判ったモンじゃねーからな。式ぶっこわすかも知れねーだろ?」
菜都美は動かない。
何も言わない。応えない。
ただ、黙って彼にもたれかかっている。
――寝てるのか?
一瞬そう思ったが、そんなはずはない。
「……そう」
まるで言葉が続くのを待っていたように、しばらくして彼女から答えが返る。
本気で眠そうな元気のない声。
「あたしさ」
何かを言おうとして躊躇うような、喉を鳴らす音。
少しだけ乱れた呼吸。
――また、泣いてる?
勿論、顔は見えないから判らない。
――最近情緒不安定だよな
「おい、黙り込むなよ」
「もぉ…」
不機嫌そうな声がして、菜都美の身体が離れる。
上げた貌は不機嫌をそのまま貼り付けたようなものすごい貌だった。
「…………また来るわよ。今日はお休み」
そのまま、どすどすと足音を立てそうなぐらいの勢いで彼女は去っていった。
「あ、お盆……」
勿論彼女は振り返る事はなかった。
お盆に皿とカップを載せて降りても、台所には誰もいなかった。
――……
お盆を夕食を食べたテーブルの隅に置いて、カップと皿を流しへと持っていく。
水切りに置かれたスポンジをとって、まだ洗剤が残っているのを確認するとため息をついた。
――洗うだけ洗っておくか
家族がおやつを買う習慣がなかったのは確かだ。
だから、兄弟で買い込んだ菓子を食べながら話す時、こうやって片づけることも結構あった。
皿を一撫でして、水道を捻る。
――兄貴……
隆弥を追うのに、手がかりがない訳ではない。
今手元に手がかりがないという事実、この矛盾した点が言えば一つの手がかりになる。
――だから、その矛盾点を一つずつ解決すればいい
「隆弥」の件。「木下」の件。
数え上げたら、幾つでも歪みはあるはずなのだ。
――まずは――
彼は自分を怒鳴りつけた警官を思いだした。
――木下警部がどこにいるのか、からかな……
いつも眉間に皺を寄せて、困ったような貌を浮かべて嫌味ばかり言う、いかにも叩き上げと言った感じの警部。
「木下」
だが、今彼は目を丸くして、普段誰にも見せないような貌をしていた。
病院を移送されてから、彼はそこに入院しているはずの矢環を捜した。
だが、看護婦の誰もが彼の存在を知らなかった。
カルテは愚か、彼の名前すら。
「署長?、どうか、したんですか?」
それから一日が経過して、岡崎が彼の元に訪れていた。
神妙な表情で。
「お前の入院期間が不明確になった。だから、一時的に部署を変更する。……いいか」
それは実際に解雇と変わらないような内容だった。
存在しないような役職、現在欠員だという部署――つまり、そう言う事だ。
――そうか
しかし聞いていない事がもう一つある。
「不明って、署長」
「んああ、この病院の院長とは古い付き合いがあってな」
本人に伝わる前に、直接岡崎の方へ連絡が行く、なんて事があるのだろうか?
――それだけ、付き合いが長いからか?
それとも人事的な話を理解しているのか。
しかしここは警察に関わりの深い病院ではない。
警察病院手に負えないような場合だから、今は特別なのに。
――何だ
木下は手応えのようなものを覚えて、眉を顰めた。
それは、水だと思って飲んだものが、妙に口の中で粘ったような。
有ってはいけない、違和感。
疑え。
耳元ではないどこか。
自分ではない声。
それを、「意志のある声」として捉えるのか、自分の感情、意志、そして『勘』と信じるべきなのか。
この言葉にならない感覚を、少なくとも彼は信じるようになった。
――『相似形』か
自分の意志とは、形の違う物。
自分の思いとは、色の違う物。
自分とは違い、自分の意志を照らす物。
太陽と月――それも、自分の中にある。
自分の勘から、木下は自分の思考を強引に中断しなければならなくなった。
「担当医から聞いたらしいが、相当かかるらしい。短くても半年以上」
「っ!」
疑え。
今度ははっきり聞こえたような気がした。
言葉が、思考が心なしか『はっきりと形になるせいか』異常に早く感じる。
何故か、思考しているという時間が、概念として加速するように。
「どうして」
「理由は、今回の件だ。……実は、矢環の事なんだが」
言い淀むように一度区切ると、彼は水を飲むようにして言葉を継ぐ。
「お前がこっちに移送される前に、亡くなった」
「…矢環が」
ごくりとつばを飲む音がやけに大きく響いた気がした。
「これで、被害者のほとんど全部が…お前を除くと、死んでしまったことになるからな」
疑え。
もう言われるまでもない。
自分の力で、納得のいく限り調べる方が早い。
そうでなくても――それでなくてももう、無駄だ。
「私も死ぬ、ということですか?」
「まさか。そうではなくて、君だけ生き残っているから、だよ」
岡崎の視線に僅かに哀れみが浮かぶ。
「……昔から丈夫だったからな。お前の血液からワクチンでも研究されるんじゃないか」
「成る程、血清でもなんでも作ってくださいって言ってやってください」
応えながら。
この大きな檻の中から逃げ出す算段を、彼は考え始めていた――
◇次回予告
嘘とは。
「何だとこら、人が朝飯作ってやった上にこれから出勤するって言うのに」
嵜山未来と御堂暁。
その閉じた世界が崩れていく。
Holocaust Intermission:lie 第1話
俺、あいつの事が好きなのかな
穹はまだ暗く扉は閉ざされたまま
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