Holocaust ――The borders――
Intermissionミノル 2
「いいかね」
白衣を着た男は言った。
「化学兵器は製造が簡単で安価だ。『後進国のための核兵器』とはよく言ったものだ」
実際、農薬を作る技術が有れば、それを応用して充分に化学兵器を製造することが出来る。
事実過去の農薬の一部は人体への影響から現在生産されなくなった。
「だがいいかね?化学兵器はその使用を大きく制限されている。敵味方を区別しない。その上」
彼は大げさにきびすを返し、机をどんと叩く。
「使用した地域は大きく汚染されてしまう。これを回復するにはかなりの手間を要するだろう」
化学兵器の汚染は残留し、除去するためにはかなりの苦労を必要とする。
いかに戦術的勝利を得たとしても、これでは戦略的に敗北したことになる。
すなわち――短期的なものであり、長期的には一切それが利益を生まないからだ。
無論もっと大きな視点でもって、その時に莫大な被害を与え結果戦略的な勝利を得たとしても。
「細菌兵器はその入手法はもっと簡単だ。どぶネズミを一匹捕まえてくると良い、それだけでペストが蔓延する」
彼はわずかに口元をつり上げると、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
かちん、とわずかに甲高い音がして、次に彼が右手を出した時には――試験管が握られていた。
試験管の口は焼き固められており厳重に密封されたものだ。
中には透明な液体が半分程入れられている。
「無論、シャーレで培養して砲弾に詰めれば即細菌兵器になるとは限らないがな、やはり化学兵器と同じだ」
試験管を振ると、中の液体が砕けて散る。
その水滴はまるで粉のように――それだけ、異常に粘性が低い液体なのだろう。
「戦略的に充分に通用する戦術兵器。それは今までにあり得ない。――だが、それを塗り替えるにはどうしたらいいのか」
ちゃぷん、と水音をたてる。
揺れる水面に、男の目が映っている。
ゆがむ――水面。
「コントロールできればいいのだ。破壊を操作できればいいのだ。――敵と味方を、区別できる兵器、それが必要だ」
ふと気がつくと、彼女は眠っていた。
もう少し正確に言うと眠りという行動を行っていた。
彼女には眠りは必要ないからだ。
「ん……」
しかしここ最近、眠るのは久しぶりだった。
夜中だろうと昼間だろうと関係なく駆けずり回り、やるべき事に奔走していた。
「起きたか」
かたん、と突然静寂が訪れた。
今までキーボードを叩いていたのだろう、特有の音で打ち切られたノイズはどうやら、彼女の耳には心地よかったのかも知れない。
ほんの僅かなこの空隙すら何故か苛々――させる。
かちりという簡単な金属音で、自分の中の電源が切り替わった事に気がついた。
「……充電」
「ああ、しておいた。今日で一週間ぶりだろう」
彼女の身体は常に電気を必要としている。
例え彼女の『脳』がそれを必要としない構造であっても、身体が電気を消費する限り充電は必要だ。
彼女の義体は太陽電池、ゼーベック電池、水素電池、リチウム電池を組み合わせて電力を供給している。
このうち常時活動するのが太陽電池とゼーベック電池である。
これは人工皮膚に埋め込まれていて、体内のホメオスタシスを保つ働きと組み合わせることで電位差を発生させる。
全身に含まれるナノマシンへの電力供給がこれにより行われる。
昼間は太陽電池がメインで、曇りなどはゼーベック電池を利用する。
これらの発電量のうち、一定量を越えたものをリチウム電池へと蓄えるようになっている。
緊急駆動や戦闘行動を行う際などには高電圧を一瞬で生成できる水素電池を利用する。
但し、燃料を必要とし、電池の内部素子の交換が必要になる。
この水素電池は通常カートリッジ交換の形を取るが、彼女の場合は外部電源からの充電という形を取ることもできる。
正確にはそうできるよう改造してしまったのだ――充電器を取り付けられるように。
「ふん、この暇潰しが」
僅かに口元を吊り上げて笑みを湛える。
上位者が蔑みを与える、笑み。
「……何?」
男は眉を寄せて思わず聞き返していた。
それはそうだろう、聞いたこともないような言葉だ。
彼の態度におかしそうに悪戯っぽく笑い声を漏らして、肩をすくめてみせる。
「暇潰しと言ったんだ」
「普通は穀潰しだろう」
「いや、だから褒め言葉にならないかな」
今度は目を丸くして、小首を傾げた。
男は額に手を当てて嘆息する。
「知らねぇ」
こうして。
こんな風に時々突拍子もない思いつきを口にする事がある。
そんな時の彼女の表情の動きはあまりに――人間らしい。
だから戸惑う。
――もう彼女と過ごして二年か
歳を経る毎に彼女が『人形』である事を忘れていく。
あまりに人間に近い仕草と態度、そしてその身体に。
柊ミノルは、戸惑いという名の感情を覚えた。
Intermission : ミノル 2
二人は日本を出るとすぐ東南アジアに行った。
有名な話だが、マレーシアなどではCPUやメモリを大量に、安価に生産されている。
彼女が言った「良さそうなところ」とは、それらの工場が廃棄されたような場所だった。
「大丈夫だ。『柊』の名前で既に買い取ってある」
柊宰(ひいらぎ つかさ)博士はそれなりのコネと財産を持っていた。
彼女は、未だにその名前と権限を利用して行動していた。
何の後ろ盾もない彼女唯一の強み――それが柊宰の名前だった。
事実上知識と経験を持ちながら、代理人として二人組の若い『跡取り』が動く。
そう言う段取りで二人は世界を駆けめぐっていた。
そんな中で何より役立ったのが、面識の少なさ、であった。
ミノルは彼の名前を聞く度に顰め面をしてみせるが――生憎彼女には通用しない。
――まぁ……好きにしてくれ
確かに裏社会で通用する名字だからこそ名乗っていたのだろうし、今も通用するんだろう。
本人は――記憶だけをこの小さな少女の身体に残して消えたというのに。
――滑稽な話だよな
「ミノル」
彼女が振り向いて、彼の思考を中断させる。
一瞬険しい表情を浮かべる。
ミノルは思わず背筋を痙攣させて、次に来る衝撃に備えた――が、彼女はすぐに元通りに表情を緩めた。
「これからは、ここが私達の拠点になる。まだお前が生活できるような状態じゃないが、我慢しろ」
――??
無遠慮に目を丸くするミノルに、口元を歪め苦笑する彼女。
見た目が小さな子供だけに、それだけでも十分に不自然な感じがする。
「どうした」
「いや」
ミノルは否定も肯定もせず、様子を窺う事にした。
はっきり言って不気味だ。
先刻だったら間違いなく躊躇うことなく『お仕置き』が飛んできたはずだ。
次の彼女の科白だって、ある意味――そう、正しいからおかしいのだ。
自分の事を気にかける事などなかった。彼女は常に自分中心だった。
彼が黙っているとだんだん不機嫌そうな表情を浮かべる。
「何が不満だ、ミノル、全て御膳立てしろというのか?」
「あ、いや…そうじゃない」
むしろ感謝すべきなのは判っている。
でも何故か素直に感謝できない――どうしても疑ってしまう。
「ただ」
彼が一言一言を紡ぐのを、まるで素直な子供が大人を見上げるようにして見つめている。
「……何でもない。不満がある訳じゃない、悪かった」
彼の言葉に彼女はまなじりを吊り上げた。
めきり
今度こそ全身に『お仕置き』が現れた。
抹消から中枢まで、全ての神経が真っ白になる程の刺激を一度に加えられれば――どうなるか、想像できないだろう。
簡単だ。
全ての神経が一斉に興奮状態になり、神経伝達物質が尽きてしまい――やがて、どの感覚も失せてしまう。
そして次に目が覚める時は、大抵の場合夜なのだ。
――の、はずだ
「口のきき方に気をつけろ。……判ったな」
だが、記憶の不連続はやってこなかった。
すぐに解放されたミノルは、彼女の背中を見ながら首を捻っていた。
「この工場にある施設であれば、十分に『Lycanthrope』を大量生産できる」
工場の中に入ると、饐えた臭いが漂ってきた。
下手すると何年か誰も入っていない、そんな感じを受ける。
「……ふん」
だがそれを判断するのは彼ではない。
彼女だ。
そもそも、そういう点に関しては一切知識がなく判断のしようがない。
昼尚暗い工場の隅にある配電盤にとりつき、錆び付いたキーを外す。
手際よくナイフスイッチをあげる彼女を眺めながら、ミノルはため息をついた。
「――それで。どうするつもりだ?」
彼はこういう事には向いていない。
元々彼女の『護衛』としているのだから、荒事があれば初めて役に立つ。
「何がだ」
「そんなに大量にそれを作ってどうするつもりなのか聞いてるんだ」
つい、と彼女は首だけを彼に向ける。
きぃん、とどこかでモーターか何かに電流が流れる音がする。
表情はきつくない。
眠りこけていた工場が息を吹き返していく。
「――ミノル」
彼女は。
返事を返す代わりにくるりと振り向いた。
初めて会った時のような無機質で感情のない表情を浮かべて。
白色の水銀灯の輝きが、薄暗い工場を照らしあげていく。
「私は――誰、何だろうか」
色のない表情。
その時初めて、彼は彼女を人形だと思う事ができた。
灯りとして充分な光量を灯し始めた水銀灯が彼女の表情に陰影をつけていく。
左右対称で、均整の取れた顔立ちは、自然には存在できないだろう。
――本当に、作り物なのだろう
彼女は全くの無言で、視線を落とした。
返事を期待していなかったのかも知れない。
「そうだミノル。こちらに来る直前に面白い事を聞いた。……お前の配っていたアレが、『勝手に増える』らしい」
次に彼女が顔を上げた時、再びそこには表情が点っていた。
思わずその貌から目を背け、少し離れた地面に視点を固定して頷く。
「……炭水化物を取り込めば増えるだろうな。そう言う物だから」
彼女は淡々と続ける。
「知っているか?人間の身体はタンパク質でできているが、主成分は炭素だ」
「――だから」
「増えようとするそれらは、体内で炭素を取り込んでそれらの鎖を断ち切る」
戯けたように抑揚をつけて語り始める少女の姿は、あまりに醜悪な悪意のCaricature。
「お前も見ただろう?音もなく」
彼女は両手を一度胸の前で合わせると、大きくそれを開いて全身を突っ張るようにして一度跳ねる。
「ぱん、だ」
――そう言えば、同じ物を昔見た事がある
ミノルは彼女の説明を聞きながら、少し過去の記憶を思い出した。
研究施設を一つ、命令通りに解体したミノルは数ヶ月後、軍隊に入るように命じられた。
新たに結成される特殊部隊配属、という名目で。
配属した先には一人だけ、『上司』と呼べる人間がいただけ。
「……お前は」
男はガラス越しに、電子的な声をスピーカーに載せて応えた。
「当分お前を監視する飼育係だよ、化け物」
化け物――『Lycanthrope』と呼称される事になる特殊部隊は初め、彼一人で構成されていた。
命じられるままに訓練を受け、定期的な食事以外与えられる事もなく淡々と。
ミノルは逆らう事も、それ以外考える事もしようとはしなかった。
できなかった、と言えるかも知れない。
機械相手の戦闘訓練でも、単純な筋肉トレーニングでも、射撃訓練でも、彼は満足することも不満を覚える事もなかった。
何故なら、そういう感覚を覚えないままに生活を続けてきたからだ。
――外にいるのは自分とは違う生き物
『人間』と呼ばれる、脆くて畏しい生き物。
不思議な事に彼らは自分で自分の首を絞め続ける。
今自分がこうして彼らを滅ぼすための訓練を、自ら率先して行っていたりする。
存在する矛盾。
彼は、今までに一度だけ自分と同類に出会っていた。
彼には一つだけ学んだ。それ以上の事は彼は教えてくれなかった。
仲間を捜せ、それ以外は滅ぼせ、と。
だから、滅ぼせるだけの力を持つために訓練を続けた。
特殊部隊『Lycanthrope』は決して彼一人で構成されていた訳ではない。
実際にはその下に――そう、彼には同僚と呼べる存在はいなかった――あの『研究施設』の檻のようなものが存在した。
そこに我が物顔で研究を続ける博士が、いた。
「概ねコントロールできるものはできるが、とても軍隊としては使い物にならない」
Lycanthropeは確かに単独で彼らに勝てる人間は存在し得ないが、しかしまた逆に彼ら程脆い物もなかった。
仲間がいないのだ。
単独として存在しなければならない理由はないし、血族である場合もある。
だが大抵の場合、意志の疎通がままならなかったり、考えを異にしていて『群』として統率する事ができない。
単純な生存本能や慣習――それだけが彼らの結びつきだった。
とても兵器として使用するにはあまりにも不安定で、多くの精神的な要素を含みすぎていた。
だから予算としても捻出できるレベルではなかった。
それを何故いつまでも研究対象としてしまったのか――それは一人の研究者のせいであった。
初めに『獣人計画』を考案した人間は、画期的だと考えていたのだろう。
そのため、これを根幹とした基礎研究が様々な形で行われるようになった。
計画を推し進められるのかどうか、現実性があるのかどうかを確認するために。
それらの結果――『Lycanthrope』を実用化するにはほど遠いものだったが、研究成果としては非常に有用だった。
医薬品にしても、超能力研究にしても、この基礎研究の為に発展の様相を見せた。
だからこの計画そのものは凍結された形であったが、基礎研究が別の分野に吸収されてしまい、うち切られそうになっていた。
それに目をつけた研究者は、自分の研究している『もの』を利用する事を考えた。
『コントロールできる破壊』――それが、彼の研究の題目だった。
「彼らは確かに生命体だ、毒ガスや銃弾で滅びるだろう。しかしその『あまりに強力な戦闘能力』は対人戦では無敵だ」
超能力のようにつかみ所のない兵器よりも確実で。
そして要すればコントロールを可能な領域へと操作が可能だとすれば――それが彼の主張だった。
「……だが既に様々な方法を用いているのだろう」
洗脳、薬物投与、様々な心理的操作まで。
廃人になる――使い捨てにするにはあまりに高い金がかかるため、それらの方法はとても『使用に足る』とは言えなかった。
――充分だ
獣人と言えども普通の人間と肉体的にはほとんど変わらない。
ただ、先天的異常のために世界各国から『買われて』きた『実験動物』として、扱うことができる。
「あんなに高い金をかけた挙げ句、使い捨てではまだ一人のベテラン兵士を作り上げた方が安上がりになる」
研究者は口元を歪めて笑みを湛えた。
それはこらえきれない程の喜びを、歪んだ形で彼の外側へと映し出す。
――ああ、そうだろうなぁ
計画としての結果を必要としているのだろう。
彼は自分の研究では、その結果が出る可能性が少ない事を知っている。
だが『計画』は彼の研究にどうしても必要なのだ。
「ええ、ですが御陰で奴らの有用性は理解いただけたのでは?」
白衣のポケットに手を突っ込んだまま、男は勝ち誇ったように胸を反らし、含み笑いを漏らす。
「私も焦るあまりに試作品を投与してしまいましてね……今回はそのご報告も含めての話なんですよ」
「報告、ねぇ」
男は彼を信用していないようだ。
どうやら研究者の上司に当たるらしいが、その尊大な態度は確かに『部下』とは思えないだろう。
「ええ。私が研究しているのは『薬』ではありません。……微細機械はご存じですか?」
彼は透明な液体が入った試験管を見せた。
ゴム栓の上から透明なポリマーで厳重に封をかけているものだ。
「これが、彼らに投薬したものです」
さざ波すら立たず、むしろそれは細かい砂のようで。
液体のように見えるが、だとしても恐ろしく粘性が低い。
「……それは」
「これがナノマシンです。昨年発表したモノを改良して、投薬用に仕立てました」
彼は試験管をポケットにしまい、代わりにバインダーに挟んだ書類を上司の机に差し出す。
レポートらしい文面の下に、分厚い紙束が挟んである。
「使用説明書、です。仕様も全て掲載してあります。まだまだ人体への影響が大きすぎるので」
男はそれだけ言うと上司に背を向けた。
「ああ、そうそう…『Lycanthrope』計画も大分細分化してるようですが、結局私が成果を収めそうですよ」
と付け加えると顔だけ振り返り、声を上げて笑いながら立ち去っていった。
成果がなければならない。
それは研究にしても同じである。
大学のように基礎研究に予算を割くための場所で有ればともかく、企業ではそうはいかない。
いかに世界最大の軍事産業共同体であったとしても同じ。
将来的に使用した予算は取り返さなければならない――その、商品価値でもって。
「……失敗か」
宰は呟いて自分の足下を見つめていた。
『試験場』と書かれたプレートが、彼の覗くガラスの上に埋め込まれている。
一切の隙間の存在しない完全気密式の扉は、もうドアと言うよりもハッチと呼ぶべきだろう。
元々は化学兵器、細菌の研究を行えるような設備なのだが、彼の申請以外の使用はなくほとんど私物化している。
それでなくても彼以外は危険で近づく事すらない場所になっていた。
彼の視界では、赤い物がのたうっていた。
それはつい先ほどまで人の姿をしたものだった。
「調整機は?」
「プログラム正常、特別異常はありません。マシンからのリターンも有ります」
後ろで助手がモバイルパソコンのキーボードを小気味よく叩きならしている。
小さな拡張スロットから伸びるケーブルが、四角い機械につながっている。
冷却用のファンが運転する音が、静かなその部屋に満ちている。
「構成を代えるか……プログラムし直すか」
ナノマシン――微細機械と呼ばれる物は、数分子単位で構成される『ロボット』である。
分子運動と極性、meV単位のエネルギーを操作して『プログラム』する。
このため実際にはこれらは操作する必要もなく、丁度ウィルスのように働き続ける。
0K以上の熱量が存在する限り稼働し続ける、そう言う意味では永久機関に果てしなく近いものである。
ただしその性質上、コントロールが非常に難しい。
設定した行動通りに動くとは限らない。
全てが確率論で語られる特殊な世界であり、マクロ的には非常に曖昧な技術である。
――しばらくは奴が充分使い物になるだろうが……
『計画』でかき集められた『Lycanthrope』のうち、出来る限り若い優秀な者を選んで、彼は手元に置いておいた。
そのうち一人は――ヒイラギミノルという名前の被験体には既に調整を施しておいた。
生まれて間もない頃の赤ん坊の脳髄に、試作品の『Lycanthrope』を打ち込んだのだ。
中学生になったと同時に、彼は充分な成果として――13人の屈強なテロリストの集団を壊滅させた。
それも一人残らず、素手で。
昨年は自分の専門分野そのものを成果として提出した。
『A兵器』……AssemblerというSF作家が名付けたナノマシンの頭文字から、彼はそう名付けた。
過去にそう呼ばれた核兵器はAの座を明け渡した為の空座に落ち着いたのだ。
これは実に手軽で、かつ確実、クリーンな兵器として受け入れられた。
ナノマシンを投薬した際問題になるのは人体への影響である。
サイボーグが現実的ではない最大の理由は、機械と人体の接点部分の衛生上の欠陥である。
人工臓器も、拒絶反応やアレルギー、材料の腐敗が問題であり長期間の使用は難しい。
ナノマシンの場合、血液の流れに乗りそのまま尿として排出されたりホルモン異常を発生させる。
これが体調の不良を引き起こす事もあるし、またナノマシンそのものの効果を発揮するための濃度を下回る事がある。
そのため、どうしても自己増殖機能を付加しなければならない。
この調整が非常に問題だった。
最初に投薬したミノルは、試験的であったためにこれを排泄できないような場所に仕込んでしまった。
――そう、グリア質と呼ばれる大脳の大部分を占める場所である。
脳幹の遮断機能も相まって、彼は当分使い物になるはずだ。
しかしそれは脳外科のレベルの話であり、全ての兵士に使える物ではない。
技術的には、短期間に影響なく使える薬のような物が望ましい。
だが自己増殖機能は非常に安定が難しく、簡単な環境変化――体内であれば、僅かな体温上昇――にもどうしても反応してしまう。
もしこれが暴走したならどうなるだろうか。
簡単である――人間という身体を糧に、ナノマシンは爆発的に増殖する。
この特質を、彼は逆に利用した。
有る変調をかけた周波数のマイクロ波をスイッチに仕込み、それにより暴走するようにすればいい。
ほんの数グラムで、あっという間に一個大隊の軍隊を滅ぼせるだろう。
彼はそのプランを実行し、昨年の成果として――そう、自らの研究を存続させるため――提出したのだ。
それだけナノマシンが発達し操作できるのだからLycanthropeの操作用のナノマシンも作れる、という意味として。
だが肝心の投薬型ナノマシンは、まだとても完成品とは言える状態ではなかった。
――そもそも投薬には向いていないのだろうか……いや、それでは困る
方針を変えるしかない、と彼は思った。
「目が覚めたか」
男の声。
その時自分が寝ている事に気がついた。
――誰だろう
身体を起こしながら、目を開く。
見慣れない、無機質な部屋。
「……?」
ただだだっ広く、スピーカーと窓、厳重な扉が仕掛けられた――そこは、『檻』としか言えない場所だった。
「Lycanthropeにようこそ。西森臣司君」
頭の上から聞こえるスピーカー越しの声。
臣司は眉を寄せて怒鳴ろうとして、自分の格好に気がつく。
戦闘服らしい格好で、武器らしいものは一つもない。
「ま、待て!俺は一体どうなってるんだ」
臣司が叫ぶと、スピーカーからは嘲りの笑い声が聞こえたような、そんな気がした。
西森臣司は自ら志願して特殊部隊への配属を希望していた訳ではない。
だが人事通知があり、特殊部隊配属が決定した。
何も考える暇などない。宛われた時刻通り彼は行動した。
だが。
その結果、いつの間にか気を失った彼は、奇妙な檻に閉じこめられたのだ。
Lycanthrope。
その単語ぐらい、さすがに聞き覚えがある。
――奇妙な名前だと想っていたが、まさか兵隊を『獣』扱いとは、ねぇ
思わず皮肉って彼は肩をすくめた。
気を取り直して部屋を眺める。
事務用の小さな机と、仰々しい扉の他は、天井にあるスピーカーと天井付近にある――これもまた妙に丈夫そうな――ガラス窓。
突然のあまりに非人間的な扱いを受けたにもかかわらず、臣司は笑みを浮かべる余裕すらあった。
『Lycanthrope』は特殊部隊の中でもさらに特殊で、兵士一人一人が一ユニット単位で動くと言われる、まさに最強の軍隊。
そんなものに選ばれる限り、自身もまたそうならざるを得ない――それだけ厳しいはずだ、と思っていたからだ。
そして何より、その素質ありと組織に認めさせたという自負から来るものだった。
――それで、どんな訓練を行わせるつもりだろう
作りつけの机に腰掛けて、彼は大きく深呼吸して天井のスピーカーを見つめた。
だがそれが震える事はしばらくなかった。
食事は、でなかった。
命令も、なかった。
強靱と思っていた自分の精神が、焦っていくのが判る。
――殺す気か……
確かにLycanthropeは最強と言われる部隊だ。
だが普通に入る事ができる部隊だとは思っていなかった。
――もしかするとただの理由付けだけで本当は捨てられたのか?
空腹には耐えられるし、水は必要最小限あれば十分すぎる。
だが次の日の朝になっても放送もなく、ハッチは固く閉ざされたままこの部屋から出る事すらできない。
太陽光線を遮るように作られたこの部屋では、蛍光灯の明かりだけが満たされている。
壁にかけられた時計だけが時刻を知る手がかりだ。
彼はつかつかと扉に近寄り、ノブに手を伸ばす。
回転するように見えるそれが、まるでその形に削りだしたかのようにぴくりともしない。
いらいらして、思いっきり扉に蹴りを入れる。
金属特有の音が大きく響いた。
「おい!誰かいないのか!聞こえてるんじゃねーのか!」
叫び声をあげるが、硬質な反響音が耳障りに耳に届くだけで、それ以上何もない。
狭い部屋にたった一人で押し込めて発狂させる刑があるという話を聞いた事がある。
中国では奇妙ながら巧妙で、且つ確実な刑罰が様々な形で存在する事を彼は知っている。
何よりそれらは、尋問の際に非常に役に立つ知識でもあるからだ。
もしかすると『蠱毒』でも作ろうというのだろうか。
こうやって閉じこめておいて、人工的な極限状態を経験させようとでも言うのだろうか。
――待て
何を考えるにしても、情報が足りなすぎる。
臣司はハッチをもう一度睨み、鼻の上に皺を作るとふん、と荒く息を吐き出した。
――今は、様子を見るしかない、か。
そうやって仇を見る目で見つめたハッチに、彼は自分の背を預けてその場に座り込んだ。
床は金属のように見えるが以外に冷たくなく、座っていても気にならないからだ。
――動かない方が身体を持たせるには、良いしな……
時間だけが過ぎていく。
夜も昼も判らない部屋の中で、ただ時間だけが過ぎる事を経験するのは初めてだった。
こんな時真っ先に駄目になるのは自分の境遇を怨み悩む事だ。
そんな事で解決する事は今までに一度もなかった。
戦場では、常に打開すべきものがあったから――立ち止まる事はすなわち死だ。
――ここは耐え抜くしかないのか
既にどのぐらいの時間が過ぎたのか、それは判らなかった。
「しぶといな」
悔しそうな声をあげて宰は眉を顰めた。
彼の座る椅子の前に、コンソールといくつかのモニターがある。
コンソールを叩き、一つのモニタに映る部屋の様子を切り替える。
今まで――そう、上から臣司の部屋を見つめる視点だったそれが、同じような光景に景色を切り替えた。
手元にあるマイクを握りしめると、彼はスイッチを入れた。
「ミノル」
画面に僅かな揺らぎが走る。
ノイズ、だろうか。
「実戦訓練だ。プログラムパターン等は後に指示する」
何日経ったか数えるのをやめた辺りから、再び時間が動き出したのだろうか。
充分な空腹を抱えたまま、妙に耳障りなスピーカーからのノイズに眉を顰めて――目が覚めた。
――?
どうやら眠っていたのだろう、身体のあちこちが痛い。
ちゃんとベッドに戻れば良かったかも知れない。
そう思って彼は立ち上がって。
立ち上がって、背中に何もない事に気がついた。
振り向くと、扉は既に開いていた。
いつ開いたのか、音すら聞いていない。
それに何故目が覚めたのか。
――あのノイズ……
初めはスピーカーからノイズが聞こえた物かと思ったのだが、もしかしてそれは夢だったのかも知れない。
ハッチが開いた時のノイズかも知れない。
何にしても。
彼はここに来てからまだ、この自室以外の場所へ出た事がない。
――……行く、しかないよな
戦闘服以外は丸腰だが、そしてここは『Lycanthrope』の施設内のはずだが、何故か予感が彼の中にあった。
殺意と戦意――それらが、部屋の外から漂っていた。
ごくりと音を立ててつばを飲み込む。
そして彼は廊下へと一歩踏み出した。
そこは細長く続く通路になっているが、やはり窓は見えない。
その代わり、自分が出てきた部屋と同じような入り口が等間隔で左右対称に並んでいる。
どうやらここは居住区とでも言うのだろうか。
――いや、むしろここは……
無機質すぎる金属的な空間には、どんな仕組みなのか光が満たされている。
決して薄暗くはない。
だが、このどこにも生活感はなく、人が住むべき場所ではないような。
――ここは『巣』か格納庫と言うべき、だな
彼は思いついた言葉に自分で苦笑いを浮かべる。
機能的すぎてそんな印象しか感じられない。
だが今はその無機質さが安心感を与える。何故なら。
そこには殺気がないからだ。
少なくともまだ安心して進む事ができる。
しかし、と彼は思った。
『Lycanthrope』は確かに実績のある特殊部隊だがエリートではないのだろうか。
――これではまるで囚人を閉じこめる牢獄みたいじゃないか
耳を澄ませば、監視カメラの立てる電磁波が聞こえるような、そんな気がした。
だが実際には自分の立てる衣擦れの音と、リノリウムを叩く靴音がするだけだった。
しばらく、そんな無機質な廊下が続く。
端に見えていた角を曲がると――だが、それも終わりを告げた。
行き着いた先には既に開かれた扉があり、その奥の部屋へと続く短い隧道の向こうは奇妙に明るかった。
ふと不安に駆られるが、ふん、と鼻を鳴らして口元を歪める。
――テストか?上等だ
導かれるように続いてきたこの通路の終端だ。
相手が望む全てがそこにあるに違いない。喩えそれが、自分を阻む何者であろうと。
ここは――特殊部隊『Lycanthrope』なのだ。常識では量れない。
明るい光に誘われる蛾のように切り抜かれた四角い出口へと歩を進める。
――文字通り、飛んで火に入る夏の虫だな
そう思考して出口をくぐった時――突然鋭い殺気が走った。
予想の範疇だったそれを、身体を左回転させて捻り倒して避ける。
床を転がる自分の身体を感じながら、炸裂する音を彼は聞いていた。
空気を切り裂く鋭く甲高い音。
鼓膜を大きく刺激するそれは現実に破裂音として彼の後ろを抉った。
「ほぉ、馬鹿ではないようだ」
言葉とは裏腹に馬鹿にした声が響いた。
「きちんと『殺気』を感じる事が出来る位には鍛えているか」
臣司はすぐに体勢を立て直しながら、殺気の居所を探ろうとして地面を滑る。
だが。
――な……に?
気配と音とが別々に存在する。
視界に入れようと動いても、どちらにも姿はない。
さらに、殺気はここには満ちておらず、ただ有るのは捕らえ所のない死の気配。
逃れられない――死の這い寄る音だけが耳元をくすぐる。
瞬時の殺気
弾けるようにしてエビのように後方に飛び退く。
閃光。
そうとしか感じられないものが視界を縦に切り裂き、直後にぶん殴られたような衝撃が上半身に襲いかかった。
声も上げられず50cmは軽く宙に浮き、そのままの体勢で地面に再び転がされる。
もし跳んでいなければ間違いなく気を失っていただろう。
――くっ
背中に衝撃。
どん、という音とともに体を一回転させて、両手両足を突っ張るようにして低く四つんばいになる。
右腕を腰の裏に回し――自分が丸腰だった事を思い出す。
――ちく――
まず、地面に置いた左腕が内側に折れ曲がる。
風に煽られるようにして浮かぶ上半身と同時に、足首が弾ける。
支えを失った体が、そのまま地面へと落下――
「遅い」
しなかった。
何が起こったのかそれを理解するまもなく側頭部に鈍痛、地面は大きく歪み、体が反転する。
「――こんなもんか」
ぐらりと揺れる天井と、男の陰。
陰に入っているせいで表情は見えないのに、何故か黒い瞳が自分を見つめているような気がする。
突き刺すような鋭い輝きの瞳。
破滅するような音
――え
遅れて激痛。
口から自分の物とは思えない声が漏れる。
めきめきという音を立てて、左肩が体の内側から軋みたてる。
何がどうなっているのか判らない。
何かが突き刺さっている感覚と、男が体重をかけているのが判る。
「ふん……仕事をするか」
男の科白は淡々として事務的で、まるで書類でも片づけるような気軽な言葉だった。
地面に縫い止められた臣司は逃げる場所などなかった。
ふわりと風が吹いた。
同時に左腕の感覚がなくなる。
びしゃ、と水の入った風船が割れるような音が聞こえる。
頬に水滴が乗る感触。
どんどん、と金属製の地面がうねるような衝撃を受ける。
身体が勢いに揺れて、そのたびに左肩が疼く。
「最後まで悲鳴をあげないことだけは、褒めてやる」
血。
首を動かさなくてもいい。
判る。
自分が垂れ流す血の海で横たわり、目を見開いて男を睨み付けている。
「殺してやる」
臣司の口から零れた言葉が耳触りよく脳髄を刺激する。
「ああ」
それまで表情を浮かべなかった、男の頬が歪む。
四肢を失って横たわる臣司。
朱――全て目の前を埋め尽くす、朱。
その中で、もう死にかけているというのに、瞳は輝きを失わずに睨み付けている。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる!」
「ああ、いいぞ。殺せるんだったらいつでも殺しに来い。……もっとも――」
声が何故か遠く。
――奴の顔が――見え……
もっとも、生きていたら、の話だが。
彼はそう呟くと大きく右腕を振りかぶる。
そして、まるで小さく一礼するかのように大きく右腕を振り下ろした。
果物が潰れるような小さな音がして、臣司の身体がびくりと跳ねた。
ぱしゃんという水音がしてむっとする鉄の臭いが漂い、そしてノイズと共に声が聞こえた。
『よくやった。そのまま回収して帰投せよ』
世界。
生きるための意味も、自分がその世界に住んでいるという理由も。
どうしても見つからない。
――強くなりたい
『殺す』
そのたった一つの為に存在するのは兵器と変わらない。
全てを排除する為の存在は、滅びの神だろう。
だとするのであれば、自分は何のために生きて――いや、存在するのか。
一振りで人間が砕ける力。
僅かな力を加えるだけで岩すら切り裂く爪。
存在するという理屈と存在しなければならないという本能。
それは他者を破壊する自らの存在と矛盾するのではないだろうか。
――それを理解する事ができるのか
彼はガラス越しに見つめる。
「お前が『成果』か。……この化け物め」
脳髄を除いて、その全ての体組織がナノマシンによって完全に再生できるという人工Lycanthrope。
それが西森臣司だった。
「どうした、変な貌して」
水銀灯はいつの間にか昼間の太陽のような光で工場の隅々を照らしあげている。
二十世紀後半に立てられたのだろう、彼女の顔立ちには影が見えない。
光線の向きを計算して作っているために影ができないのだ。
真っ平らな表情で、彼女は不思議そうにミノルを見つめている。
でもそれは人形のように無機質なものではなく、複雑に貌を変えていく。
「――ミノル」
段々不機嫌そうになり、最後はむすっとした貌で睨み付けてくる。
「変だったか」
――判らない
ミノルは返事を返しながら、目の前でくるくると貌色を変える少女を見つめ返す。
――何故、何が変だ
日系の顔立ちをした少女は、自分の歳から考えれば随分年下に見える。
無論、まだ産まれてから一年程しか経過していない――だが、彼女の記憶のほとんどは『柊宰』の物だ。
彼女の無機脳には彼の記憶全てが――そして改ざんされているらしい、その行動の記憶が――ある。
判らないのは、それだけの『経験』を持ちながらも奇妙に幼い行動を取ったり奇行に走る事だ。
そう、喩えるなら――まるで子供のように。
そして未だに謎か残るのは、彼が、女性型義体に入った事だろう。
いや、女性型義体によって自分を再構成した――そう考えれば、彼女が『殺せ』と言った理由も説明が付く。
――まだ、子供なのかも知れないな
眉を吊り上げて彼を睨み付ける幼い顔は、見ようによってはむくれているようにも見えなくない。
「何のつもりだ」
もうすっかり明るくなった工場の中で、彼女は腰に両手を当てて仁王立ちになっている。
見上げる睨み付ける視線に怯む事もなくミノルは言う。
「いや。少し昔の話を思い出していた」
もうミノルは身構えるつもりもなかった。
数ヶ月前なら既に酸欠で地べたをはいつくばっていてもおかしくはない。
久々に、数ヶ月ぶりに出逢った彼女は――もうそこまで自分に対して乱暴な真似はしない。
そんな奇妙で――確実な感触。
ぱきり
視界が大きく揺れて、何の感触もなくがたんと視界がまっすぐ真下に落ちる。
揺れながら彼女の顔が目の前に来る。
先刻まで自分を見上げていた顔が自分の目の前で、斜めに傾いでいる。
――ああ、そうか
まるでカメラマンがカメラを取り落とした、かのように。
唐突に理解する。
痛覚と触覚まで切り取られたらしく、不自然な視界は揺れるように彼の前で踊る。
そして始まる――これからは、彼女の時間だ。
「私を見下ろすな」
不機嫌そうな顔。
不機嫌な声。
数ヶ月ぶりの、自分の知っている彼女の顔。
「お前はわたしのものだ」
久々に聞く、彼女の傲慢な言葉。
初めて彼女がこの『本性』を表した時に発した言葉。
「お前の生死は私の手の中にある。お前の行動は私の計画のままにある」
まるで催眠術をかけているかのように同じフレーズを繰り返す。
「お前は、私のために存在する私の剣だ」
何故、という言葉はそこには似合わない
ミノルは、何の抵抗もなくその言葉を脳髄に刻み込んだ。
何も。
疑うという余地すらそこにはなく、まるで初めからそう言う風に定められていたかのように。
――なぜ抵抗できないのだろうか
ミノルは自分がそれを受け入れている事実に僅かに疑念を抱いた。
理解している自分と、それを理解しようとしている自分が別々にいるかのように。
確かに、彼女の言うとおりにナノマシンは自分の中に存在する。
それは彼女のせいではなく、気がついた時には存在したらしい。
『変わっているな』と言ったのを彼は覚えている。
ナノマシンの濃度がほぼ一定のまま、脳髄の一部を占有していると、彼女は言った。
だから彼女は毎回無痛注射器を彼に撃ち続けた。
それが何を意味しているのかは判らなかった。
「そうだろう」
彼女はほんの僅かに目元を緩め、笑みを浮かべる。
艶のある年不相応な表情。
彼女は微笑みを浮かべたまま両手で視界の端を覆っていく。
手が影に隠れ視界の外側まで領域を伸ばした時、彼女の顔がそのまませまってきた。
「だから、お前は私の思うとおりでなければ――」
揺れる視界。
頬に触れる、彼女の指。
不意に思いついた。
聞き慣れない悲鳴に、少しだけミノルは顔をしかめる。
そして、案の定体は動いた。
子供のような黄色い声で悲鳴を上げたのは、腕の中にいる彼女。
突然の抱擁に驚く彼女は、とくん、とくんと心臓の音を伝えてくる。
ミノルはまるでしがみつくように彼女を抱きしめていた。
「――ミノル」
体が動いたと言う事は、彼女が『縛って』いた訳ではない。
いつもであれば完全に動かないように抑え込んでいるはずだ。
さもなければ――完全に、身体をコントロールされている、はずだ。
――望んでいた?
ミノルは何も言わずに両腕に力を込めてみる。
自分の左肩に載るものは重みを感じさせず、ほのかなぬくもりだけを彼に与えている。
抱きしめた彼女の体は、以外に柔らかく抱き潰せそうな程。
もしかしたら、人形などではなくてなどと考えてしまう程。
擬似的なんだろうか、自分の胸の前で自分と変わらぬ鼓動を伝えるものがある。
「何――を、するんだ」
――開いてみたい
脈打つ物を、見てみたい。
この抱き潰せそうな体を引き裂いて、それを見てみたい。
胸骨を、肋骨に指をかけて大きく開き、人工臓器であろうと――脈打つそれに手を触れてみたい。
それが流すはずの血を見てみたい。
もし作り物のそれならば、是非一度音を立てて啜ってみたい――彼女の目の前で。
それが作り物であろうと、ただ音を立てているだけの物であろうと、本当に肉の塊であろうと。
ほんの僅かな間身動ぎしていたが、やがて彼女は体から力を抜いた。
「ミノル」
妙に落ち着いた声が彼の耳朶を打つ。
今までに聞いた事のない声。
言葉の声音と、アクセント、そして息遣いに――我に返る。
それともそれがかんに障ったと言うべきだろうか。
まるで何事もなかったようにミノルは彼女を解放し、立ち上がる。
胸程の高さしかない彼女の顔が不思議そうに彼を見上げ――視線を、追う。
視線が絡まり、一瞬の沈黙が過ぎる。
もう一度彼女は彼の名を呼んだ。
いや――そんな気がした。
「……名前を、つけてくれないか」
取り繕うこともなく、彼女はミノルを見つめている。
作り物の顔で、作り物の目を僅かに潤ませるようにして。
瞳の中に移り込んだ水銀灯の形に、ミノルは目を細める。
――まるで小動物と向かい合っているようだ
いつ、立場が変わってしまったのか。
「名前、か」
柊宰、ではないと彼女は主張する。
「そうだ、ミノル。……私には名前がないのだ」
それは滑稽であるとミノルは感じる。
『柊』博士の記憶の全てを持っているのだ。
ただ彼女の主張では、彼女の主記憶装置の中でデータとして彼の脳髄が転写されているに過ぎないと言う。
それが何を意味しているのかさっぱり判らない事ではあったが。
その中で凍り付いたデータとしてだけ博士が存在するので有れば、では彼女は何者なのか。
――だから名前、なのかも知れないな
「お前には名前がない」
それはどういう事になるのだろうか。
彼女は微笑むような柔らかい表情で彼を見つめ続けている。
「俺は自己意志がない」
今まで自分で決めて自分で運命を切り開いてきた記憶がない。
全て他人から押しつけられたモノを排除しようと必死になって。
『他者』を出来る限り単純かつ的確に切り離し。
ただそれは、生きようとする意志の顕れ。
いや――肉体の持つ本能。
「そうだな」
ミノルは笑った。
ただ白く、何の感情もない笑みで。
――彼女に名前をつけるのだとしたら
「リーナ……ってのは、どうだ」
――ふん?
柊博士は測定データを睨みながらふと首を傾げた。
そこにあり得るはずのない波形が刻まれていたからだ。
――脳波パターン……
確かにどこかで見た記憶のあるパターンである。
彼は今までの研究に使われたLycanthrope達のデータベースから検索をかけ、今見ている波形に酷似する波形を計算させる。
彼の目の前でディスプレイはカーソルを数回点滅させて、結論を弾いた。
一つ新しいウィンドウが開き波形が表示される。
『検索結果 1件』
ウィンドウの上方に刻まれているのはLycanthropeの名前。
写真入りのそのデータを見て博士はため息のような息を吐き出した。
――『リーナ=ハインケル』……か
ごく初期に発見された脳異常の少女の波形サンプルと同じ波形。
彼女は調整段階で心臓死に至り、その後『リーナ』と呼ばれた別人としてデータが残されていただけだった。
彼女の始末をミノルに指示したのは彼だったが、もうそれも何年前の話だというのだ。
――いや
関係ないのかも知れない。
宰は顎に指を当てて、ひげをなでるようにして僅かの間沈黙する。
そもそも、リーナの特殊能力――脳を圧迫される事で得たその特異な能力はいったい何だったのだろうか。
確認されているのは『記憶転写』と『テレパス』だったはず。
ミノルの話を総合しても、惚けている老人と変わらない行動をとる以外は異常のない少女だったらしい。
データも、テレパスにありがちな脳波形状をしているだけで特別な異常はない――いや、なかったはずだ。
今はそれよりも。
――何故、今この脳波が『リーナ』だと私は感じたのか
脳波の波形単体の話ではない。
時系列的に展開し、3次元からなるパラメータによりその『構成パターン』をデータとして取り込み構築している。
確かに単位時間平面における波形も個人差が出る物ではあるが、似通った波形も勿論存在する。
だから、『次はどう動く』というデータを『時間軸上』へと展開させたもので個人を判別できるのだ。
もっとも膨大な量のデータベースと、複雑な予測計算の上での話だが、これでおおよそ個人の性癖、趣味、思考過程を予測できる所までに完成している。
だが、個人のそのデータを見比べる事など人間には不可能である。
見たところで七色の波打った光の塊に過ぎないのだから。
――そしてそれ以上に……
逆に言えば、それを見分けた上に『西森臣司』から検出された脳波パターンが、他人である『リーナ』と酷似するというのはどういう事か。
宰は首を振った。
説明するにはあまりにも不確定の事象が多すぎる。
論理的な説明をするには空間に刻み込まれていると言われる「影」についての説明をしなければならなくなる。
それはまだ完全な理論になっていない。
ぱしゃん、と簡単な音を立てて監視用ディスプレイの中で目標が息絶えた。
だから彼はそんな事は忘れる事にした。
同時に脳波パターンがフラットな平面を描き出す。
すぐに彼はマイクのスイッチに指を伸ばし、突き出た親指程のマイクを口元に寄せる。
「よくやった。そのまま回収して帰投せよ」
今は、この最高のサンプルをどうやって料理するか、それを考える時だ。
他の余計な事は、それからでもできる。
その時はそう思っていた。
痛みが産まれた。
それは私の産声とも言えるだろう。
彼は私に気がつく事はない――私は、痛みそのものだからだ。
彼は殺されたのか?
いや、そう言う訳ではなかった。
だから私がここにいるのだ。
いやそもそも私は誰なのか。
私は、彼の中で初めから存在した。
彼と向かい合う事はないはずだった。
彼自身でありながら、彼ではないのだから。
本来なら、こうやって意志を持つ事すらなかったはずなのに。
私は彼の影としてただその影響を与える一つの要素として――人格の一欠片としているべきだった。
そうすれば、彼はこんな痛みを覚える必要はなかった。
私は自殺する事などできない。
私を滅ぼす事ができるのは、彼自身だ。
彼が、自ら滅びを選ばない限り、私は――まさに一心同体――死ぬ事はできない。
もしかすると『悪魔払い』でもすれば私は消え去るのかも知れない。
彼という名前の自我が、『同一性』をもって存在する限り私は認められない『悪魔』なのかも知れない。
私は姿を持つ事ができた。
それは彼が自由にできる物ではなかった。
私は一体誰なのだろう。
彼は一体誰なのだろう。
彼は求めていないのに、私は彼から自由を得る事ができた。
でも還らなければならない。
私は一人ではないのだから。
痛みと共に産まれ、彼らの御陰で目覚めた私は。
私を疎み、忌み嫌い、いっそ滅んでしまえと考えていた彼も――俺もやっと、一歩踏み出した。
もう目の前を遮る雲はない――