戻る

Holocaust ――The borders――
Chapter:2

臣司――Shinji――


 相似、という言葉を思い出す。
 ある一つのパラメータ以外が同じであり、そっくりな姿を持った状態――それが相似。
 もし自分の相似形があるのであれば、そんなものではないだろうか。
 普段の俺が、今のように考えているのを知れば恐らく鼻で笑うだろう。
 私ははそれだけ俺の事をよく知っているし、よく理解している。
 であるなら、私は何だろうか。
 こんな風に考えるようになったのは、簡単に人が砕けるようになってからだ。

 ひとが、くだける。それがあり得ない事象から、現実へと至る。

 命――いや、生物というのは脆い。
 それがどんな生物であろうと代わりはしない。
 犬畜生から――人間まで、全ての肉の塊達は全て。
 ある特定の分子構造を持つ特殊な鎖、それは肉である限り変わらない。
 だから、たった一つの方法だけでそれは砕け散る。
 簡単なことだ。炭素と、水素と、基本的な構造は全て同じ。
 だから炭素を切り取ってしまえばいい。
 炭素だけ、全て取り除くような事をされれば、分子はその構造を不安定にして――物質としては構造を崩壊する。
 死だ。
 死というものを、こんなにも単純に無痛でもって行うことができる。
 それも一瞬なのだ。
――それが本当に痛みを伴わないのかどうか、そんな事は判るはずはない。
 何故なら、それを行う『もの』は自分で自分を攻撃することがないように指定されているからだ。
 当然だ、もしそのリミッタを解除してしまえば、自分同士で崩壊してしまうではないか。
 むしろ、周囲の自分以外から自分の材料を取り込んで緩やかに増加するように設定されている。
 特に体内に仕込むように設定された『それ』は、自壊能力を与えられ、体内で血球に偽装しながらも異物として濾過・排除される。
 だからそうならないように設定するのは言うまでもないだろう。
 だがその反動は来る。
 増加と現象が釣り合う間はまだいい。
 体調の変化や僅かな環境変化でそれが狂うらしい。
 だから動きを抑え込むための抑制剤を常に服用しなければならない。

 そう、相手の命を奪い去る事実を手に入れるための代償。


 判っているつもりだった。
 頭だけでは理解していてもままならないものだ。
 何人砕いてもこの感触だけは変わらない。

 ぐずりと。

 そう、まるで砂でも掴むかのように崩れ去ってしまう。
 ほんの僅かに力を加えれば。
 風に流されていく砂漠の砂のように。
 でも、それはあまりに細かくて見ている端から――蒸発するように消えてしまう。
 煙のように。
 その瞬間だけは耐えられない。
 何故か自分が砕け散っていくのを見ているようで、肩から力が抜ける。
 指先にかけて、何かが突っ張ってしまうような痛みが走る。
 だからそれはきっと引き替えなのだと、そう言い聞かせてみる。

 これも代償。

 ではいったい、何の代償だというのだ。
 これだけの代償を払いながら、俺は何を手に入れたというのだ。
 全身を苛む脱力感に包まれながら俺はいつも思う。
 違う。
 そんなモノは望まなかった――と。


 痛み始めた時、私が産まれた。
 死を覚えた時初めて生を知るように。
 望まない力によって痛みを覚え、俺は考えるようになった。
 俺ではない俺――私は、自分の事をそう呼ぶようになった。
 私はいつの間にか自分を把握している。
 いつどこで何をしてその時には何を思って何が目的で何を求めて何が必要だったのか――
 でも、私は一人だ。
 私は乖離している一つの人格ではない。
 人格ですらない、私は俺だ。
 だが同一の人格ではない。そこに、大きな違いがある。
 痛みに苦しむ俺と、痛みにより産まれ理由を考え続ける私。
 何故産まれたのか――その存在理由を考えようにも、俺はその痛みに気をとられている。
 私の存在を考えようともしない。

 私は影ではなく、相似形なのだ――俺の。


 考えたことがある。もし逆らう力すら失った小さな獣だとするならば。
 俺が、力を持っていないとするのであれば。
 笑止。
 そんなことは絶対にあり得ない。だから、俺は見捨てられないのだし、また逃がそうとしないのだ。
 おもしろいじゃないか。
 ああ、判っているさ。
 俺は奴らにこの力を与えられた。だがその力の行き場を知る奴はいない。

 だから――


Chapter 2 臣司 ― Shinji ―


 信じられないものがある。
 それは噂、幽霊、超能力、宗教…名前だけあって論理的に形を一切持たないもの。
 そんなもののどこが信用に足るというのだ。
 魔法、それは非論理的な存在だ。
 神様、それは偶像にすぎない。
 確かに感じられて、見ることができて、ふれることのできる全てが現実。

  さようなら

 現実――疑う必要のないもの、それは金を含めて全て、確実な権力とも言える。
 たとえ論理的であっても薄氷のように漂う、朧なものは信頼してはいけない。
 そうやってずっと言い聞かせてきた。
――久々に見たな
 畳に直に引いた布団から身体を引きはがして、彼は枕元においたアルミの灰皿をひっつかむ。
 くしゃくしゃのパックから、残った煙草を引き出すとチープなライターで火をつける。
 すぐに吸い慣れた濃い香りが鼻腔に流れ込んでくる。
 朝の冷たい空気と同時に、一気に脳髄を醒ましてくれる。
――…参っているのかもな
 ため息をつくように煙を吐き出して、彼は思案するように煙草をくわえたまま布団からでた。

 他愛のない噂――それは本当に些細なことから始まった。
「増殖する?」
 『Hysteria Heaven』と言う名前で販売されるドラッグが発見されたのは、今からおよそ一月前。
 その時には、まだ発見が早いと思われていた。
 だが最初の犠牲者が現れたのはもっと――そう、前の段階だった。
 まず取り調べた警官が、勤務中に意識不明の重体に。
 鑑識で検査中に、鑑識の人間全員が奇妙な幻覚症状を訴えて病院へ。
 同様に、この薬剤は既に蔓延していた――
「ああ」
 勤務中にいきなり何人も病院に担ぎ込まれたせいで、急にてんやわんやになった一課の刑事。
 畑違いとは言え、仕方なく彼らはその穴埋めに奔走せざるを得なかったのだ。
 矢環は持ち前の能力で仕事をこなしながら話を聞いていた。
 その――『Hysteria Heaven』について。
「ヨーグルトを作る方法って判るだろう。アレと同じらしい」
 彼は鼻で笑って書類をつまみ上げる。
「おい、信じてないな」
「信じられるか、そんな奇妙な話」
「噂かも知れないけどな」
 同僚の話を打ち切ろうとして――大きな声が彼の背中からかけられた。
「おい、書類は後だ、行くぞ矢環」
 木下憲一が、気むずかしそうな顔で彼の真後ろにいた。
 それに黙り込んだ同僚を、少しだけ哀れむように視線を向けて、矢環は立ち上がった。
「はい」
 はっきり言って最悪の状況だ。
 手がかりになるものは、最初にたれ込みのあった少年だけ――それも、全くの無駄足に過ぎなかった。
 捜査は振り出しに強制的に引き戻されたと言っても良い。
 そしてそれから一月がたったというのになんの進展もない。
「薬?」
 それだけならまだ良いだろう。
 週に一度ほどのペースで未だに奇妙な殺人が続いていた。
 このままでは自分の捜査能力まで疑われてしまう。
 それだけじゃない――これだけの事件に何故、上層部は動こうとしないんだ――??
「はい」
 今回の通報だって、結局事後。どれだけ情報が手に入るか、それが重要になる。
「…電話は誰が対応したんだ?」
 場所は駅裏、繁華街からかなり離れた路地である。
 ビルとビルの狭間で、人間の破片が発見されたのだそうだ。
「自分ですよ。恐慌状態に入った青年からの通報でしたから、どこまで正しいか判りませんけどね」
 渋い顔でハンドルを回しながら、彼はつぶやいた。
 矢環とコンビを組んでからは長い。
 木下は大きく息を吐いて腕を組んだ。
「自分は薬のせいかな…とも思うんですけど」
「なんだ、幻覚とでも言いたいのか」
 矢環はちらっとミラーを見るように、助手席の木下を見た。
 不機嫌そうな表情はいつものことだが。
「いいえ。妙な興奮状態にあったからです」
 それに――と、付け加えようとして、彼はやめた。
「ここですね」
 既に現場に到着していたからだ。
 車をそのまま適当な路肩に停めると、二人は無言で車を降りる。
 粗末なビル街によくある、無機質で嫌な臭いに囲まれた場所。
 ここに住み慣れていない限り、常に嗅いでいなければならない臭い。
 木下はいつ来ても慣れなかった。
 懐からメモをとりだして読み上げる矢環に、そんな仕草は見られない。
「通報者の名前は佐藤俊平、この辺じゃ名の知られたちんぴらです」
 ちんぴらに知名度を求めるな、と木下は軽く吐き捨てながら聞く。
「男は普段この辺をよく歩いていると言ってましたが、前科ありの薬のバイヤーをやってます」
 言いながら通報されたビルへと近づいていく。
 この辺りに乱雑に立てられたビルの中では結構新しく、小綺麗な印象を与える。
 だが、開発時期がバブル期最盛期であり、周囲の環境等はあまり良くない。
 ビルとビルが、人が入るのが精一杯という狭い道を作ってしまうのを見ればそれがすぐに判る。
 酷いのは、そんな隙間に自販機をおいたりしているところか。
 影になってしまって裏側にゴミが溜まり放題になっていたりする。
――法的にもかなり無茶をしてるようだしな
 駅に隣接した地区でもかなり酷い地区だ。
「違法な薬の取引は、首都だけの物だと思っていたがな」
 やんわりとかなり厳しい発言をする木下。
 思わず矢環は口元をゆがめる。
「まぁまぁ。そう言うことを言っているから、『名物刑事』になっちゃうんですよ」
 矢環の物言いにふんと鼻で答える。
 こんなやりとりも、矢環だからである。
 もし一課の他の人間なら、そんな言葉だってでてこないだろう。
「えーっと…」
 ひょい、と顔をつっこんで一瞬彼は硬直する。
 振り返って彼はビルの隙間を指さした。
「ここです」
 木下は彼に続いて、隙間をのぞき込んだ。
 ビルとビルの幅はおよそ50cm、人間が横ばいになって進める程度の隙間。
 その汚れた通路の真ん中を占拠するように、何かが落ちている。
 なにか――そんな風に誤魔化す必要はないが不自然さがそこにある。
「…本当に人間のものか?」
 衣服を来たまま、乱雑に並べられた人間の部品。
 それは死体と言うよりはむしろバラバラのマネキンと言った感じを受ける。
「…………それって、いけって事ですよね」
「判ってるならさっさとしろ」
 気のない返事をして、矢環はゆっくりと身体を横にしてその隙間に入っていく。
 木下は部下の姿からビルの壁に視線を移し、そのまま壁を眺める。
――窓は…ないな
 こちらに面する壁に、一切窓はない。
 ダクトが開いている物の、全て鎧状の格子になっていてとても物を投げられるような隙間ではない。
 結論は一つ。
 わざわざこんな隙間に、好きこのんで放り投げたと言うことだ。
「人騒がせだ…」
「警部っ」
 妙にくぐもった叫び声に、やれやれと肩をすくめて矢環の側まで行く。
「どうした」
「これ…これは、人の死体です!本物の、人間の死体です!」

――これも領分だろうか
 木下はすぐに署に連絡を入れて人員を要請した。
 所轄の人間が来るまでの間、くわえ煙草で死体の転がる路地を見つめて考えをまとめようとしていた。
――これは今までに起こっている猟奇殺人と同じ物だろうか
 すぐには返答できないだろう。
 今までは、死体は無為にバラバラに刻まれていた。
 つい先日に起きた事件でもそうだった。
 だが目の前にあるバラバラの四肢は、明らかにそんな意思を感じられない。
 細片に刻むのは、身元不明はおろか人間であることすら隠すために行われた物と思われている。
 どんな刃物でどのようにすればそう言う風になるのか、それは未だに判っていないが。
 だが今目の前にある不自然な死体――そう、血痕を一切残さない死体は違う。
――手段不明なのは今までと同じだが
 何故ここまできれいな状態で死体を放置しているのか。
 一番論理的な答えは、どうやっても一つしかない。
――見せしめ
 この殺し方だけで、死体の処理の仕方だけで恐らく意味が分かるのだろう。
 どう見ても普通じゃない殺し方――いや、死体の扱い方だが。
「…鑑識に回しても、たいした物はでてこないだろうな」
「同感ですね」
 思わずつぶやいた独り言に反応した矢環に目を向ける。
 矢環は丁度彼と反対向きに立っていて、車に手を乗せている。
「それ、死んでからそんなに経ってないみたいでしょ?」
 彼は顔を木下に向ける。
 視線が合って、彼は死体に目を戻した。
 血痕もなく、綺麗な死体――そう、傍目にマネキン人形にしか見えないぐらい。
「でも、切断面はすごい有様ですよ」
 まったくどうしてこんな酷い事件ばかり担当するんだろうか。
 そんな風に聞こえた。
「と言うことは、害者は…バラバラにされて、綺麗に血抜きをされて、さらに化粧までしてから捨てられた、と」
 そんな事をするのは余程の変態だろう。
 矢環は首を振る。
「いえ、化粧はしてませんよ。本当に生きたままばらされたみたいですけど」
「どっちにしてもいい話じゃないな。マフィアか…どっかの殺し屋の仕業だろうな」
 と自分で言って、先刻の話が脳裏をひらめいた。
――薬、か…
 何にしてもこの事件は自分の担当ではない。
 そう結論を出した時、最初の車がそこに到着した。

「木下」
 現場を引き継ぎした一課の同僚に任せて帰って来るなり署長に呼ばれた。
「何ですか?先刻の現場の件ならお伝えしたとおりですよ」
 署長の岡崎は苦い顔を浮かべると首を横に振った。
「そんな事なら止めたりしない。…ちょっと話がある」
 貌から滲み出る苦み。
 木下は軽口も叩かずに頷き、岡崎の後ろについて署長室へと入った。
 彼の直属の上司に当たる岡崎は煙草を嫌う、珍しい人間だった。
 署長室はだからいつも白く、署内分煙化の主導的人物なのだ。
「事件の捜査、うまくいってるか」
 だからこの部屋はあまり好きではない。
 署内分煙化に限ってはあからさまに敵対しているのだから。
 あの匂いがないと落ち着けない。
 まるでそれを知っているからこそ、ここに呼び出しているようにも思えた。
「進んでませんね。今回の殺人は、巧く外れでしたし」
 ああ、と署長は頷く。
「今までとの連続性――『ミンチ連続殺人』、手を引かなければならないことになった」
――え?
 岡崎が木下の表情をのぞき込むように伺っている。
 彼の表情の一つ一つをつぶさに観察するかのように。
「結論はそうだ。どうせお前のことだ、理由は一切聞きたがらないだろう」
 ふう、と安心したように息を吐くとどっかと自分の椅子に腰を深く沈めた。
 木下は表情を凍り付かせたまま、言葉の意味をゆっくり咀嚼している。
「…それは、私が…捜査からはずれることを言っているんですね」
 岡崎は頷く。
「残念だが、な」
「ええ。全くです」
 ミンチ連続殺人を、初めに連続殺人だと断定したのは彼だった。
 その殺人の類似性――ただし、規模は異常に大きいと判断すべきだった――を、場所や時間という既成概念をはずしてまで考えたのだ。
 組織がらみである可能性は否定できなかった。
 だが、この所轄でできる捜査などたかが知れている上に何より、刻まれた死体以外の証拠は残っていない。
 そのため表だった大きな捜査を行うこともできなかった。
「上は、この事件を明るみにするつもりらしい。そしてお膝元で捜査をするということだ」
 報道は明日の朝、今日中に準備を行い記者会見については明日の朝に行うという。
 どこからか漏れたのか、それとも上の判断なのか――今のところ不可解な事が多かった。
 ただはっきり言えるのは、このために一つ痛手を被ったことだ。
 木下はため息をついた。
「まぁしっかりやってくれているし、別におとがめもないし」
 ふん、と木下は鼻を鳴らした。
――結果がでなかったからだろ
 事件の重さを鑑みて、極秘に数人で行った捜査は不可能という判断は、すなわち彼の彼の捜査の失敗を示している。
 誰がそう言わなくても、彼はそう思っている。
「おとがめが無ければいいだなんて、古い体質ですな」
 皮肉混じりに呟く彼に、岡崎は署長の顔ではなく一人の警察官の貌を浮かべて口元を歪める。
「木下、今日日お前みたいな古い体質の警察気質な男も珍しいぞ」
 警察気質――岡崎がこうこぼす時は署長ではない。
「先輩、判ってるんだったらそれでいいじゃねえか」
「警察ってのは結局組織だ。…お前にはどう思われても、俺の行動ってのは政治の一つだからな」
 二人は大学での後輩先輩同士――逆に言えば、岡崎は怖ろしく早く出世した事になる。
 確かに木下は『問題児』扱いでかなり出世が遅れている事になるが、それを差し引いても二歳違いとは思えない。
――まぁ、普通ならそうだろう。
 木下にしてみれば『当たり前』の事らしいが…
「そう言うところは、見習わないと出世できないな」
 へへへ、と笑いながら木下は肩をすくめた。
 岡崎はふふん、と鼻を鳴らして頷く。
「ああ、署長にそれだけ言える一介の刑事って奴はどこを探したっていないさ」
「…それは一応、褒め言葉として捉えておくさ」
 そう言うと、彼は少し居住まいを正す。
「署長」
 こういう時は、止めたって聞かない。
 長い付き合いだけによく判る。
――もしかして、だから配属されてきたのかもな
 巧く操縦するのではなくて、彼の分の責任まで負え、という暗黙の命令だろうか。
 暗鬱たる気持ちに、彼は小さく頷いた。
「判った判った、今更署長もくそもないだろうに。…もう俺は知らん。休暇中のお前の行動まで縛るつもりはない」
 お約束の殺し文句を呟くと、彼はにっこり笑った。
「日本国の法律と、警察官のモラルに反しない程度に、好きな行動をしたまえ」
「はっ」
 彼は大げさすぎる敬礼をして見せると、署長室を出た。
 木下警部は捜査一課ではかなり有名な人間である。
 署長と先輩後輩でつーかーの仲、それももちろんあるが、何よりその熱い捜査方針があんまりにも有名なのだ。
 捜査中に『一般民間人』などという言葉を使う警官は、それだけでも処分の対象になりそうなものだ。
 この木下の呼び出しも、周囲の人間はお叱りだと思われていたらしい。
 だから署長室を出てすぐは誰も彼に視線を向けることはなかった。
――ふん
 彼にとっては、それすら勲章に感じられた。
 後ろ暗くひねくれた事ではなく――本当に、誇らしげに。
「木下さん、どうでした?」
 だから結局、一番に話しかけてくるのは彼――矢環だった。
「伸也、俺は明日から一週間有休を取ってきた」
 へ?と怪訝そうな貌をする部下に、できる限りの笑みを使って答えてやる。
「おい、なんだと思ってたんだよ、署長の呼び出し。無茶な休暇だとは思ってたけどさ、言ってみるもんだぜ」
 矢環はああ、と頷く。
「じゃぁ」
「ああ、海外でゆっくりしてくるさ。予定通りな」
 予定通りの言葉を聞いた矢環はうんうんと頷く。
「――で、行き先はどこです?ううん、それより今日はそれじゃとりあえず一緒に呑みませんか?」
 申し合わせたような彼の言葉。
「折角一山終えた事だし」
 さりげなく机においた手の下に見える休暇申請書。
――馬鹿が
 思いながら口元には笑みを浮かべる。
「んだったら休み取ってこいよ。言っておくが俺は呑むぞ」
「望むところです。せいぜいおみやげ、ねだらさせてもらいますよ」
 矢環はにかっと笑みを浮かべて休暇申請書の上で拳を作った。

「これが今回の事件の概要資料だ」
 本来ならもう既に提出済みであり、捜査が終わったなら破棄するべきコピーした資料だ。
 こう言うのを平気で持っている辺りが、彼の彼たる所以なのかも知れない。
「手口の似通った殺人なので、同一犯の犯行だと俺は見ている」
 彼らは木下の自宅――木下は結婚しているので家を持っている――で話をしていた。
 いつもよりも少し早い時間に引けた彼らは、いったん木下の家で話をまとめることにしたのだ。
「…でも木下さん」
 ファイルにきれいにまとめられた資料をつまみあげながら、矢環は言う。
「これ、とても普通の人間が行なった犯行とは思えませんよ」
 矢環の表情はまるで嫌なものを見た人間の表情だった。
 そう、彼でなくても、どれだけ修羅場をくぐった刑事であっても吐き気を催すような事件だ。
「多分だな。…所詮、人間の正気っていうのはどこからどこまでなのか明確な境目があるわけじゃない」
 詭弁のような言葉をつむぎ、木下は腕を組んだ。
 だが、そんな狂気に満ちた事件だからこそ、早く解決しなければならない。
「全て何らかの手段でなます切り。必ずと言って良い程、何の証拠物件も残っていない」
 死体ですら証拠にならない状況では、なんともいえない。
「期間は不定期、対象は無差別、場所はこの街に限られている」
 彼の言葉に、矢環はあごに手を当てて首をひねる。
「犯人の目的ってなんでしょうね」
「さぁな。それが判るんだったら苦労…」
 言いかけてはっとした。
 長年刑事をやってきているというのに、そんな基本的なことを考えていなかった。
 今朝の事件ですらまずそれを考えたというのに。
――これだけのことをしでかして何の得がある
 人を殺すことをもし趣味としているならその命題は無駄もいいところだ。
 彼は食事をするように人を殺しているのだろうから。
 では、――いや、屠殺は食事をするために食べる部分を寸断するのだ。
 今回のように膾にする理由がない。
 膾に切り刻みたくなる程、相手を恨むか――さもなければ。
「木下さん?」
「あ。ああ、いや、そう言や犯人の目的なんか考えてなかったからな」
 考える暇もなかった、とも言える。
 なにせ処理すべき内容が多すぎるのだから。
「まぁこんな殺人事件ですから。目的が思いつかないのも正しいですよ」
 殺人にはいくつもデメリットを持つ。
 ただ快楽のためだけに殺しているにしては、目立ちすぎる。
 もしかしてそのぎりぎりの線を楽しんでいるのかもしれない。
「まいったなぁ…」

  ぷるる ぷるる

 その時間抜けな電子音がした。
 矢環に目を向けて、彼がうなずく。
「はい、木下だが」
『ぜんぜん酔ってないじゃないか』
 その声は岡崎のものだった。


 通報が入ったのは21:32。
 通行人が惨状を発見して、思わず電話をしてきたというのだ。
『もううちの連中が出てるだろうが』
 電話越しに聞こえる署長の声から、彼は思わず苦笑いする署長の表情を思い浮かべる。
「いえ、助かります」
 彼は手短に例を言うと電源を切った。
「…?」
「矢環、出るぞ」
 何にしても思っても見なかった、ひとつの幸運だ。
 確かに表向きは休暇中だが、まだこれは『例の』事件と決まっているわけでもない。
 どれだけ関与しようが、『刑事』で有る限り問題ないはずだ――彼は勝手にそう考えた。
 背広を引っかけて部屋の扉を開いて、ばったりと妻と鉢合わせてしまう。
「あ」
 彼女は目を丸くして、夫の顔を見たとたんに怪訝そうに眉を寄せた。
 お盆にのせたお茶に目を落として、木下は言う。
「すまない、今連絡が入った」
 彼の言葉に、寂しそうな笑みを浮かべると小さくうなずく。
「判ったわ、いってらっしゃい」
 さっとそのそばを抜ける木下。
「すみません」
 一言礼を言って頭を下げる矢環。
 彼はすぐにポケットのリモコンに手を伸ばす。
「どこへ」
「駅から東、住宅地の側にある公園だ」
 玄関を出ると同時にエンジンが機械的なうなりを上げる。
 そのままかちん、とキーが外れる音が聞こえる。
「すぐに出ますよ」
 木下が助手席に飛び込むのを見もせずに彼は素早くバックギアに入れる。
 半クラッチももどかしく、一息に駐車場からシルビアを弾き出す。
「許可する、ぶっ飛ばせ!」
 半ば耳だけを木下に向けた矢環は一気にアクセルを踏み込んだ。
「そのつもりですよ」
 彼の口がわずかに引き攣れて、つり上がった。

 午後十時を回った公園は完全に静まり返っている。
 不気味な程にそこには人気がない。
 否――生きている人間の気配がないのだ。
 まるでこれから起きることを、閑かに予言するように。
 ただ街灯だけが周囲を照らし、暗い木々を揺らす風は葉擦れの音を立てる。
 そこは異界――ただ暗いだけで何も変わらないように見えて、人を飲み込もうと待ちかまえているのだ。
 一歩足を踏み込んだ木下でさえ、背筋に走る物があった――悪寒。
「きのっ…」
 名前を呼ぼうとして、木下の腕に制せられる。
 再び沈黙。
――危険な臭いがする
 この公園は周囲を高い雑木林に囲まれるような作りであり、周囲からは巧く中の様子が見にくいようになっている。
 わざとではないだろうが、周囲に植えていた木を野放しにしていてこんな状況になったのだろう。
 見た目以上に危険な場所になっている。
 多分子供を遊ばせる事もないような、そんな場所だ。
 念のために、と胸元を探って自分の銃が入っていることを確認する。
 足の裏に感じる砂利の感触が痛い。
 そして、街灯の明かりの下に――
「…こういうことか」
 なんとかそう言葉を紡ぎ出せるようになるまでおおよそ五分。
 とてもではないが直視できるような物ではなかった。
――冗談じゃない
 そこには数人の死体が転がっていた。
 寒い空気に触れて湯気が上がる程暖かく、脈打っている。
「くそ、おい矢環、救急車と応援を呼べ!」
 素早く背を向ける彼を見送って、転がっている人間の身元を確認する。
 少年が六人。格好からするにこの辺の高校生でも周囲から不良扱いされている連中だろう。
 こういう見方は不謹慎だが――確実に、一撃でしとめられている。
 間違いなくそう言う『殺し方』に長けた人間でなければこういう真似はできない。
 ただし方法はこれだけで特定するにはかなり危険だ。
 たとえば喉を一撃で切り裂かれたような男がいる。
 こいつは間違いなくそれが致命傷だろうが、傷は乱雑でまるで無理矢理引き裂いたような皮膚のはがれ方をしている。
 傷跡は穴のような形であり、刃物でない事だけが判る。
 そして他には、警官が二人。
 恐らく署長が言っていたのはこの二人の事だろう。見覚えは、ある。
――可愛そうに
 この二人には外傷らしい物はない。
 ただ、凄まじい形相で地面にうつぶせに突っ伏している。
 まるで怖ろしい物を見たのか、窒息させられたように。
――まだ間に合うかも知れない
 少年の方はまだ死んで間もなさそうだが、全て致命傷だ。
 もう今からでは間に合うまい。
 ふと違和感を感じた。
――……?
 思考に割り込んでくるようなパトカーのサイレンに、ため息をついて顔を上げた。
 恐らく今思いついたことはもう思い出せないだろう。
 振り返る彼の視界の中に入る警官達に敬礼を返しながら、恨みをこもった視線を投げかける。
 その中から矢環の姿を見つけて、ため息をつきながら煙草を一本くわえた。
 できれば、これ以上面倒なことにならないようにと祈りながら。

 帰路に就く車の中、両者とも無言だった。
 死体は見慣れている。
 よっぽど酷いものでない限り、ショックも受けることはない。
 運転している矢環の表情をのぞき見しながら、大きくため息をついて木下は今後のことを考えていた。
――この調子だと、関係がないからって訳にはいかないだろうな
 ただでさえ人間は少ない。今取っている休暇をいつ取り消されるか判らない。
 しかし、と彼は自宅付近の風景が目に入って僅かに目を細める。
――……かなり根が深そうだ
「そういえば」
 ゆるりと車を木下の自宅の前に止めながら、本当に気が向いたように言った。
「ミンチにするのも、身元不明の死体も、どちらにせよ『誰かに見せる』のが目的だったのかも知れませんね」
 木下は眉をひそめる。
「アレも見せしめだっていうのか?」
「ええ、一番手っ取り早い方法じゃないですか」
 木下は眉を僅かに歪めて鼻を鳴らす。
「馬鹿、あれだけ無作為な人間が殺されてるのに…!」
 被害者の共通点。
 共通点がない、という事はない。
 特に最初の数名についてはすぐに判った。
 何故なら、身元が判明したと同時に、それが行方不明者のリストにあがっていたからだ。
 彼らは、最近発見された奇病の患者だった。
 奇病――病院で検査をしても身体的な異常は病状以外になく、血液検査にも異常は一切見られないというまさに正体不明の病気だ。
 ただ数日熱が出て、けろりと何事もなかったように回復する。
 ただしそれ以降、何故か共通して失踪、数日後死体で発見されてきたのだ。
 全員発見されている訳ではないが、これでは――まず間違いなく、死んでいるだろう。
「……矢環、病気に関して何か調べたか?」
 目を丸くする彼を見て、木下はよし、と言いながら車を出る。
「明日までに資料を頼む。病気の話じゃなくて、患者の快復後の話だ」
「わかりました」
 大きくエンジンを吹かせて走り去る矢環を見送って、彼は懐から煙草を取り出した。
――署長に連絡を入れてみるか…
 とにかく今日はもう遅い。
 どうせ明日までに呼ばれるだろうから、今のうちに少しでも眠っておこう。
 彼は大きく伸びをして、くたびれた表情のまま自宅の玄関をくぐった。

 次の日の朝、予定通りニュースでは記者会見が行われていた。
「ねぇ、この事件ってあなたが担当していたの?」
 朝食は常にご飯とみそ汁と決めている。
 妻が並べる食事に、いつものように手を伸ばそうとして怪訝そうに顔をしかめた。
「どうしてだ?」
「だってあなた、すごく怖い顔で今のニュース見てましたから」
 妻がため息をついて心配そうに見つめてくるのを、苦々しく手を振って払いのける。
「馬鹿、こんなひどい殺人事件のニュースなんか、朝っぱらから見せるからだ」
 言いながら、隠し事はできないな、と思いつつ朝食に取りかかった。
 しかし――聞いていた事とはいえ急な話だ。
 どうせなら完全に情報は秘匿すべきではなかったのではないか。
 ざわざわとざわめくものを感じる。
 刑事の勘――そんな、形にもならないものを信じているわけではない。
 これは訳のわからないものに対する恐怖と、不安だ。
 このミンチ連続殺人は今までのように犯人の意図がはっきりしない。
 まだ昨日の朝に見た変死体の方が説明が付く。
 快楽殺人なんか認めたくないが――と、思考を中断する電子音が背後で鳴った。
 それは携帯の呼び出し――まず間違いなく、出頭命令だろう。
「ちっ、結局休暇は昨晩の数時間だけじゃねーかよ」
 舌打ちしながら、彼は携帯電話にむかってのそりと体を動かした。


「殺人がこう立て続けだと人が足りなくてね」
 想像通りの理由を聞きながら、木下は恨みを込めた視線を岡崎に向ける。
 彼が署に到着した時には、すでに矢環は仕事を始めていた。
 一度にこれだけの殺人事件となれば、ふつうに考えればあり得ない話だ。
 すでに通常の処理能力を遙かにオーバーしている。
「でしょうね」
 この間配属されてきた井上は昨晩の事件を担当しているらしい。
 朝に来た時、偶然会って話をした。
 はっきり言うと、あれ以来会っていなかったので誰か判らなかった。
――休暇出したところで、普通なら半日も休めないだろうな
 昨晩の待遇を考えて思わず肩をすくめた。
 『連続ミンチ事件』については完全に捜査権を委譲しての捜査となっている。
 だから、その人員も割かなければならない。
 その分普段よりも仕事が多いのに――加えて、全く無関係と思われる殺人事件が今手元にある。
 休む暇もないとは、まさにこのことである。
「すまんな」
「ええ、この借りはきちんと払っていただきますよ、先輩」
 言いながら彼は書類を受け取って、岡崎が苦い顔をするのを楽しそうに眺めた。
 実際木下は正義感のない男だった。
 これは警察官には珍しいかも知れない。
 彼にはそんな不自然で目に見えない物を信じられる程繊細ではなかった。
 いや――逆に、それだけ繊細なのかも知れない。
 敏感な感覚を殺すために目を背けて、簡単な物に置き換えようと努力しているのかも知れない。
 それは金だったり、ともかく目に見えてはっきりしていないと気が済まない…
 だがそれでもはっきりいえることが確実に一つある。
「もちろん、一連の事件の犯人の方が先ですがね」
 彼は事件を絶対的な敵として捉えていた。
 絶対的に潰さなければならない――悪、として。
「…では、私はもう一度駅周辺を見て回りますよ。直接――自分で見ないと気が済まない質でね」
 苦々しく笑うと、岡崎は手で追い払うように返事をする。
 その様子に満足そうに口元を歪め、木下は部屋を出ていった。
「外回りッスか?車…」
「いい、現場、足で廻ってくる。矢環、お前は害者の身元を洗っておけ。特に交友関係をな」
 一言で一蹴し、木下はつかつかと日の光へと吸い込まれるように消える。
 何かを言いたそうな顔で見送ると、矢環はため息をついて引き返した。
 別に珍しい事ではなく、木下は時々『奇行』にも思える捜査をする。
――それが当たってる事が多いから、まだ刑事やってるんだろうけどなぁ
 振り回される周りにとってみれば良い迷惑である。
 矢環などは彼と仕事をするようになってから警部補に昇任したので付き合いは長い方だろう。
 文句を言う前に諦めてしまう辺り、よく判っているというべきだろう。
「お前さんも大変だね」
「ん、まぁな」
 まだ昇進試験には受かっていないが、大卒同期の同僚の言葉に軽く受け答えして、引き出しを開く。
 一番大きなファイル用の引き出しにはいくつもインデックスが並んでいて、整理している人間の性格がよく判る。
 それも乱雑にではなく、彼の視界で右上がりに綺麗に直線を描いている
 そのうち一つに右手を差し入れて、青いファイルを取り出す。
 資料――担当している事件によく似た事件や、過去に自分が担当した事件のあらましを書いたもの――を一つ机の上に置いた。
 周囲の視線に変化はない。
 いつもの代わりのない仕事の風景。
 矢環はファイルを開くと、視線でも感じたようにふと顔を上げた。
 そして無言でファイルを閉じると、元通りにそれを片づけて立ち上がった。
「書類、探してくる。何かあったら伝言よろしく」
 ちゃっと右手を軽く差し上げて、彼はそのまま――署内の奥へと消えていった。

 身元不明の死体が上がったのは昨日の朝の話。
 署長は何故昨晩の事件を井上にやらせて自分がこちらなのか、少し疑問だった。
 しかし朝、彼女に会って少しだけ認識を改めた。
――凄ぇ女だよアレは
『ええ、慣れてますからね』
 笑みさえ浮かべずに淡々と答え、凛とした態度で部下に接しているのを見て――あきれた。
 木下とは正反対の性格だ。
 的確な指示と判断、さらにそれを支える先見的な視野。
 エリートタイプの思考回路を持っている。
 奇妙な変死体と、大量殺人。
 岡崎が『暴走特急タイプ』の刑事をあてがうならどちらを選ぶか、など自明の理だ。
 教科書通りに動く人間は、あからさまに奇妙な死体をさわらせる必要などない。
 すぐに勝手に持ち場を離れて職務質問したり、部下に指示もせず現場を眺めたり。
 彼自身が事件を解決する――そんな雰囲気を感じさせるが、実際のところそのせいで何度も処分を受けている。
 ただ、彼の嫌う『勘』だけは確かに鋭い。
 もっとも彼なら、洞察と状況による的確な判断、と言うだろうが。
 数分も歩くと、ちょっとした通りに出た。
 ここからしばらく行けば駅前の通りに出る。
 そして、駅から脇へ入れば、目指す地域にはいることになる。
 日常の空気を吸いながら歩く。
 平日の昼間だというのに笑いながら歩いている、二十代の青年達。
 まだ何が正しくて何が間違っているのかを考えられる世代――だから、彼らはあれ程までにアナーキーなのだ。
――あんな真似などできない、と思う時点で既に年寄りなんだろうな
 それは、年を経るごとにどうしても帯びていくしがらみ。
 人間社会で生きるということは、そのしがらみを『覚えること』と同義だ。
 犯罪者というのは、それらのしがらみの外側で生きる事を決めたこと。
 だから、若いうちの犯罪への憧れというのは大きな自由への憧れにも似ている
 ふん、と鼻を鳴らして彼はポケットの煙草を取り出そうとして、ただくしゃりとパックを握りしめる音だけを感じた。
 不機嫌そうに後頭部をがりがりとかいて舌打ちした。
――死体があがったあたりに、確か自販機があったな
 ゴミ臭いけどな、と思いながら彼は代わりに一枚写真をとりだした。
 そこに写っているのは、高校の制服を着た一人の少年だった。
 先刻通りを歩いていたような連中とは違う。
 この辺では結構有名な進学校の制服だ。にも関わらず――駅裏で、あんな姿で発見された。
 周到に見えた昨日の殺人だったが、奇妙な点がいくつか発見された。
 一つは、あの場所にあったパーツが四肢のみだったこと。
 ずたずたの切断面は――検死によれば、引きちぎった物だろうと言うことだ――余程の怪力でなければならないだろう。
 だがその割に皮膚が伸びていない。
 まるで石膏像から腕がもぎ取れたようなそんな感じだ。
 一つは、被害者の服だった。
 殺害の状況から見て殺してから死体を放置したように見えるのに、ずたずたの衣類や、それに入っていた生徒手帳が残されていた。
 随分と無頓着な話だ。
 だがこの御陰で、『見せしめ』のための殺害放置ではない事ははっきりした。
 ただ単純に『殺したくなったから』――そんな野性的な理由すら思いつく殺し方だ。
 ふと彼はあごに手を当てて眉を寄せた。
――…まさかな
 説明できない、という一点を除いて、ミンチ殺人事件との関連はない。
 彼は思わず思いついた理由をかき消して、現場へと急いだ。
 駅の脇を廻り、踏切を越えれば――駅裏と呼んでいる、乱雑な場所に出る。
 丁度今繁華街になっている表通りがここまで発達するまで、繁華街の様子を呈していたのだが、急速に寂れていった。
 だから、昼間のこの時間ですら人通りはなく、時折胡散臭そうにこちらを眺める店の主人を見かける程度だ。
 夜中、ここがどういう状態なのか想像がつくだろうか。
 昨日は車に乗って一瞬で駆け抜けただけだ。だが今日は違う。
「おい」
 ほらきた。
 木下は思わずほくそ笑んだ。
 声は真後ろ――今通りすぎた店の方向から聞こえる。
 彼は丁寧に足を止めて、革靴の踵を軸にして身体を回す。
――が、必要はなかった。
「ぁあ、なんだケンさんか。悪い」
 店の玄関にいるのは背の低いひねくれた形相の男。
 この店をねぐらにしているちんぴら…いや、ただの浮浪者だ。
 Closeの看板の下でアスファルトに直接寝っ転がっている。
「おおよ。カジ、人の顔は覚えておきなって何回教えた」
 歳はもう五十に手が届くだろうが、十年前ほどの大不況のあおりを食って失業していらい、この有様だ。
 梶原、記憶している名前はそれだけだ。
 名前を呼び合うことも、相手の仕事も詮索しない――それがルールだ。
 ただ、刑事と一介の浮浪者、そう言う関係だ。
「嫌ですぜぇ。ここ来る誰にでもかみつけるような犬でなければ、飼っちゃくれませんから」
 ふふん、と鼻で笑い木下は肩をすくめた。
「結構この辺は物騒だぞ。そうやって誰にでも噛みついてたらいつバラされるか判らねぇぞ」
 木下の言葉にもカジはへへっと笑うだけで、一切危機感はない。
 もっとも、明日知れぬ身では今日の今すぐの事を考えていなければならないからなのかも知れないが。
「ケンさん、もしかして最近の殺人を調べてるんですかい」
 いかにも大儀そうに身体を起こし、あぐらに足を組んで木下を見上げる。
「おう。…これはパトロールみたいなもんだよ。あんたらに死なれちゃ困るからな」
 喉を鳴らしたような嘲笑をあげて、ぎょろっと目を動かして笑みを浮かべる。
「嘘は言っちゃいけねぇぜ、ケンさん。うちらが死んだところで誰も困りゃしない」
「馬鹿野郎、俺の仕事が増えるだろうが」
 一瞬呆気にとられたように顔を見合わせて、大笑いする。
 カジはぱんぱんと自分の膝を叩いて肩を揺すっている。
「全くだ。ケンさんに迷惑はかけらんねぇよ」
 そして少しだけ真剣な顔つきをする。
「……で」
「これだ」
 ぴっと懐から写真を出して見せる。
 カジは写真にはふれず、ただじっと見つめると――首をゆっくり振った。
「この辺に来る奴じゃない。第一、その…坊ちゃんが通うような…」
「櫨倉統合文化学院高等部」
「そう、その何とかだ、制服じゃ来ねぇだろうし、もし来たなら判るさ」
 それもそうだ。
 判ってはいたがそれでももしもと言うこともある。
 この辺で売買される薬の種類、バイヤー、その辺りの事情は地元民でも彼ぐらいしか知らないはずだ。
 ただの浮浪者ではない。
 記憶力と生き抜くすべだけなら、多分日本では随一ではないだろうか。
「じゃぁ、奇妙なでかい荷物を持った野郎はいなかったか」
 首を傾げ、ただ横に振るだけ。
「…判ったよ。済まねぇな」
 写真を懐に戻して、彼は右手を挙げた。
「それと悪いな、今丁度煙草を切らしてるんだ」
「自販機だったらそこですぜ…あ、催促じゃねぇですから気にしないでください」
 それに、ケンさんの吸う奴があるかどうかは知らないと付け加えた。
 木下は彼と別れると昨日の現場へと向かう。
 現場周辺に向かう道はそれほどない。
 もし今の道を使ったなら間違いなくカジが見ているだろう。
 ただし――それも絶対ではないが、殺されるために向かったのでない限り見ているはずだ。
――犯人は、ここで殺したのではない
 それは死体の状況から明らかだ。
 もし先程の道を使わない場合、反対側――すなわち住宅地から来るしかない。
 路地そのものは入り組んでいるし、車を使わないなら限定はできないが死体を運ぶのだ。
 そんな大きな荷物を持っていれば目立つはずだ――しかも、帰りにはそれが存在しないのだから。
――住宅地、ねえ
 側の自販機で煙草を買い、包装をさっとはぎ取る。
 なれた手つきで一本くわえて、ため息のように大きく煙を吐いた。
 少年は何故来たのだろうか。
 少年は何故殺されたのだろうか。
 緩やかに登りになった坂道を見上げ、少年が来ただろう方向を見る。
 決して遠い距離ではない。
――大体想像通りだが…矢環の奴、きちんと調べてるだろうか
 どうも自分で処理しなければ気が済まないのだが、それでも矢環なら信頼できる。
 今のところ、彼程使える人材はない――ようは馬が合うのが彼しかいないのだろう。
 現場は綺麗に片づけられてるし、引継を受けた方としてはやりやすかった。
――もうしばらく、この辺の人間に話を聞いてみるか
 一度だけ現場を見ると、彼は肩をすくめて歩き始めた。
 だが数分もしないうちに、彼は足を止めた。
 表情を凍らせて。
 まだ一つも証言を得ていない。
 まだ何も捜査は進展していない。
 足を進めなければ、見つかる証拠も見つからない。
――………いや
 ごくり、と喉が鳴った。
 少女が、いた。
 それだけならなんて事はない、気にはしなかっただろう。
 呆然と、ただこちらを見つめている。
 ビルの窓の前で、身体を力無く伸ばした格好で、何の支えもなく――宙に、浮いていた。


「矢環〜、やーたーまーきー」
 一課の隅の席を陣取る新米警部補の名を連呼しながら一人の刑事が姿を現した。
 捜査二課所属の刑事だ。
 ひょこっと顔を見せて、眉根を寄せてため息をつく。
「どうした?矢環なら奥の資料室だぞ?」
「ああ、あ、いや、ちょっとね、気になる情報があがったんだ。奴が担当している事件と、もしかすると関わるかも知れなくてね」
 そう言って彼はクレジットカードを見せる。
 銀色の、どこにでもある普通のクレジットカード。
 打ち出された数字が独特の陰影を浮かべ、蛍光灯の光を反射する。
「…?」
「この署名、いつかあがった参考人の名前なんだよ」

 “ヒイラギ ミノル”

 歪んだカタカナが、カードに書き込まれていた。


 レポートの束を脇に抱えて資料室から出た矢環は、ちょうど現場から帰ってきた木下とばったり出くわした。
「木下警部…?」
 だが、彼の様子はおかしかった。
 不機嫌そうな顔は変わらないが、矢環の言葉に一切反応を見せなかったからだ。
 声をかけたにもかかわらず彼はすたすたと一課に向かって歩いていく。
 矢環は慌てて彼についていきながら、彼に書類を差し出す。
「どうかしたんですか。…これ、病気のレポートです」
 病気、と聞いて矢環に目だけを向ける。
 ぎょろり、と睨み付けられているようで、矢環は首を傾げた。
 無言でレポートを受け取って、彼はすっと視線を走らせる。
――何があったんだろう
 矢環は木下のこんな態度は初めてではない。
 だが珍しい事だ。何故なら、こんな時は大抵の場合よっぽどの難事件であったり、事件そのものより内部事情で困っている場合だからだ。
 今回の事件は確かに難事件かも知れないが、この程度なら彼は悩んだりはしない。
 第一、まだ事件を担当して一日も経っていないのだ。
 眉をひそめたまま席について、ふと気がついた。
――そうか、もう一つあったな
 奇妙な物を見た時だ。
 昔から彼は異常なまでに論理的で、幽霊やオカルトに関する全てを否定する人間だった。
 宗教すら、その存在を認めていても神なぞ偶像に過ぎないとまで考える無神論者だ。
 だから――手品や奇術を目の前で見せられた時、こんな顔をしていた。
「鳩に豆鉄砲でも喰らわせるつもりですか?」
 書類越しに、もう一度木下に声をかけた。
 彼はレポートの上を走る視線を一瞬矢環に向ける。
「馬鹿野郎、くだらない事をぬかすな」
 と言いながらも木下は混乱を隠せなかった。
 答えた瞬間に戸惑いの表情を浮かべて、同時に彼は先刻の光景を思い出した。

 少女は、漂っていた。
 彼の目の前のビルの壁に沿って、微動だにせず服を揺らせていた。
 白い肌と澄み切った瞳、そして何より――群青の瞳。
 明らかに日本人の顔立ちをしているのに。
 髪と服に風をはらませる彼女は、そのまま落下してしまいそうな程。
 僅かに表情が動いた。
「あ」
 声が、でた。
 自分でも間抜けなぐらい、それは脱力していただろう。
 少女の姿をした砂人形が砕ける――まるで風に耐えきれなくなった砂上の楼閣が崩れ去るように。
 初めからそこには何も存在しなかった、とでも言うように。
 それは究極の予感――幻でも何でもなく、もう一度それを見ることがあるだろう、という――。
 溶け崩れたのでもなければ、幽霊のように消えた訳でもない。
 風に飛ばされて、砕けてしまったのだ――

――あんな物、どうやって信じろっていうんだ
 自分の目が信じられなかった。
 脳みそが狂ってしまったんじゃないか、そう感じていた。
 だから今一番信用できるものを、現実を見つめなければ精神をまともになんか保っていられそうにない。
 矢環の提出したレポートは、以前に頼んでおいた患者の記録だった。
 個人差はあれど、発症してから概ね一週間もしない間に回復、何事もなかったように元の生活に戻っている。
 そして、かなりの確率で回復後数日しないうちの外出中、無惨な死体もしくは行方不明になっているようだった。
――それも最初の三件だけ
 かろうじて肉片の遺伝子鑑定と血液型判定、予期される死亡時刻からそうであると判別しているに過ぎない。
 だがそれは今現在考えられる科学的根拠の中でも最も強い物だ。覆す事はない。
 だから信じるしかない。それにどういう間違いが含まれていようとも。
 特に、それ以上の詳しい情報もない。彼はレポートを皿のような目で見て、ぱさりと小さな音を立てて机に投げた。
――確かに今までにない大事件…といえるが
 警視庁指定の事件ではあるだろうが、これだけ派手な殺人を犯しておきながら、一切と言っていい程その証拠は残されていない。
 さらに同時期に起こった三件の殺人。
 これについては恐らく同じ犯人の起こした事件とは言えないだろう。
 刃傷沙汰、何らかの鋭い刃で大きく切り裂かれた死体。
 そして新たに発覚した二件の殺人。
 一つが少年六人及び警官二人を殺傷した――結局警官は手遅れだった――、今井上が担当している事件。
 一つが、自分の担当する殺人。
 何かが起こっているのかも知れない。
 全てに関連がないようにも、また逆に何か一つの出来事が中心にあるような――そんな錯覚。
 木下は唸りながら腕を組んだ。
――調べる必要がある、か?
 ふと顔を上げた時、矢環と目があった。
 何かを言おうとして、戸惑うようにやめた、そんな感じだ。
「どうした」
 いつの間にか一課の入り口にまでたどり着いていた。
 だが、彼はそれについて何かを言うつもりだった――訳では、ないようだ。
「いえ、その…」
 聞いても要領の得ない答えを紡ぎ、彼は少し視線をさまよわせる。
「また、かと言われると思うんですけど」
 いつの間にか、矢環の後ろにもう一人刑事がいた。
 木下も彼とは仕事をした記憶がある。捜査二課の、矢環と同時期に配属された警部補だ。
 書類に集中していたので気がつかなかったのだろう。
 彼は一課の入り口に立っていて、二人の行く手を遮るような形になっている。
 そう、彼が意図している訳ではないとしても。
「どうも」
 彼は挨拶して、片方の手に持っていたプラスチックのカードを見せる。
「実は、もしかすると関わりのある話かもしれません、と思ってですね」
 くるっと指先を弾いて、カードの裏側を見せる。
 クレジットカードの署名に、聞き覚えのある名前がカタカナで刻まれていた。
「ヒイラギ…ミノル?ミノルって、あのミノルか」
「それは判らないんですよ」
 彼の知る柊実隆は、高校三年生でありクレジットカードなど持つ事は出来ないはずだ。
 持っていても名義は違うはずだろう。
「今このカードを使ったカップルから事情を聞いてるんですけどね…厄介な事に、拾ったって言い張ってるんですよ」
「拾ったのだろうがどうだろうが、お前、それは詐欺だろう」
「いえ、問題は、このカードなんです」
 眉を歪める木下に彼は続ける。
「このカード、正規に登録されていて今まで入金が遅れた事はないそうなんですけど」
 そう言って書類を懐から出して見せる。
 コピーしたものらしく、白黒のコントラストがきつく、ギザギザの荒れた文字が目立つ。
「この住所は完全に架空のものでした。このカードを作成した『ヒイラギミノル』を名乗る会社員は、この世には存在しないんですよ」
 つまり。
 このカードを偽造した犯人が、自分の意図したとおりに使用していたとするのなら発覚は無かったかも知れなかった。
――これは綻びかも知れない
 落としたのか、盗まれたのかは判らないが、カードが不正使用されなかったなら犯人はまんまと偽造の罪を免れただろう。
「警部」
 矢環の視線を受けて、木下は軽く右手を挙げて答える。
「情報提供すまないが、もうその事件は俺達の担当じゃない。…出来れば、課長経由で署長に渡すべきかもな」
 そう言って、彼はその渋面に似合わない笑みを浮かべて見せた。
 二課の刑事が挨拶して去るのを見送って、二人は自分のデスクに着く。
「それで、矢環」
 木下は思いついたように声をかける。
「俺が頼んでおいたのはそれだけじゃなかったよな」
 ええ、と彼は頷く。
 机の上に置いている一枚のレポート用紙をつまみ上げて、ひらひらと揺すってみせる。
「これ、ですよね」
 それを木下に見せながら彼は言う。
「被害者の少年は鈴木圭介、櫨倉統合文化学院高等部二年生剣道部所属。ごく普通の三人家族で、兄弟はなし」
 淡々と鈴木少年の家庭環境を聞きながら、木下は思った。
 別段、どこにでもいるような少年の家庭。
 不思議でもない平凡な少年と、今回の殺人につながりは感じられない。
 もちろん駅裏に足をのばすようなことも――ないはずだ。
「――で、友人は?」
「特別。…ただ、彼の所属する剣道部の師範は駅裏にある大きな道場の道場主だそうです」
 木下が言葉を継ぐ前に、鈴木がその道場に通っていない事を矢環は告げた。
「家族が最後に彼を見送った日、ただ遊びに行くとだけ告げていたそうです」
「それじゃぁだめだ。話にならないな」
「ただ、ですね、彼らは前部長の楠隆弥に練習を見てもらっていたらしいんですが」
 彼は手帳を開いて読み上げる。
 楠隆弥、同高校三年生。昨日の夜出かけたきり帰ってきていないと言う。
「被害者は彼の事を慕っていたのは確かです。楠隆弥に奇妙な噂が立っていて、それに関与しようとしていた事が判っています」
 木下は僅かに目を見開いた。
「お前…あの短時間でよく」
 へへ、と笑うとちゃっと携帯を見せる。
「この間の学校に行った時にですね、ちょっと知り合いをつくったもので」
 にっと笑う彼を睨み付けつつ小さくため息をついた。
「お前ねえ」
「ちょっと、変に誤解しないでくださいよ」
「誤解じゃなきゃ何だって言うんだよ。…まあその辺は仕事抜きで話を聞かないといけないな」
 木下は笑いながら矢環の肩を叩き周囲を見回す。
「煙草、吸いに行くから付き合え。…続きを聞こう」
 喫煙スペースが定められているこの署内では、大っぴらに煙草を出す事さえためらわれる。
 しかし、四角い小さなスペースではそれが赦される。
 真新しい煙草はいい。
 パックを開けた瞬間に漂う薫り。
 銀色の包装を丁寧に開いた時の煙草の新鮮な香りはすがすがしさすら感じる。
 乾ききったフィルタを、人差し指で叩き出してくわえる。
 100円ライターを好んで使うのは、手軽さ故。
 こだわるなら紙マッチを、レストランから幾つも拝借すればいい。
 そんな物にお金をかける気はさらさらない――そんな現実主義。
「はい」
 それに、大抵自分の部下も100円ライターぐらいしか持っていない。
 煙草を吸わない警官が増えているせいでもある。
 なんとなくそれは署長のせいだろうなどと思っている。
 矢環も例に漏れず煙草を吸わない――が、そのせいか100円ライターの一番チープな奴を常備していたりする。
 彼の差し出すライターで火をつけて、木下は一度大きく煙を吸い込んだ。
「ふはぁ…」
 喫煙スペースは、喫煙者のための牢獄のように感じられる。
 だがその牢獄に顔を出す矢環にとっては拷問ではないだろうか。
「まず噂から聞こうか」
 矢環の表情に一瞬安堵が浮かぶ。
「…おい、何を安心してるんだ」
「ああ、いえ。噂って言うのは、その少年が駅裏で見かけられるって話でした」
 もちろんそれだけで関係があるというのは早計だ。
――だが完全に無関係とは言い難い
 少年が駅裏に行く十分な理由であるかどうか、それを言い切れないとしても今唯一とも言える接点だ。
 それに何故か気にかかる。
――そうだ
 先刻の梶原の話では、『制服で』来ているはずはない、と言う事だ。
「…そいつは、どんな格好なんだ」
「さぁ…そこまでは」
 ふむ、と唸って腕を組んで目を閉じる。
 ちりちりという音がする煙草を一気に灰皿に押しつけて、彼は立ち上がった。
「よし、矢環車を回せ。駅裏周りで聞き込むぞ」
「はい」
 楠隆弥という少年が、何故駅裏にいたのかなどはどうでもいい。
 だが、彼に巻き込まれた鈴木という少年――彼が、その少年を追って殺された。
 それだけでも十分調べるに値する出来事だろう。
 矢環の車の中で腕を組んで、彼は黙り込んでいた。
 だが、現場に着いてからも結局木下は終始無言だった。
 数台のパトカーが周りを取り囲むように駐車してあり、その中で何人かが作業している。
 木下はシルビアから降りると、難しい表情のまま煙草を一本取り出して火をつけた。
 大抵こんな場合不機嫌を通り越した場合が多い。
 すぐに矢環はうろうろしている刑事のうち、見覚えのある男を一人捕まえて聞くことにした。
「お疲れさまです。…何か、ここで起こったんですか?」
 胡散臭そうな表情を浮かべた彼は、しかし木下の顔を見て苦笑いして見せた。
「間抜けな質問をすると思ったら、矢環、お前か」
 後頭部をがりがりかいて、彼はため息を吐いた。
「殺しだよ。……また、な」
 そう言って崩れた家屋のような場所を指さす。
 瓦礫が――どうやら、それは黒い色をした木製の扉の残骸らしい――血まみれで転がっている。
 丁度血の入った風船をそこで破裂させたような情景だ。
「また『ミンチ連続殺人』だよ」
 発見された当初、梶原が襲われた物と思われていた。
 だが、血溜まりの中にいた彼と、血は全く別物――血液型が一致しなかった。
 数カ所の軽い打撲傷を負っていた梶原は、しかし完全に意識不明だった。
――状況が似通り過ぎている
 彼の血と一致しない血液の中にはぐずぐずの肉片が混じっていた。
 丁度、生きたまま人間を挽肉にしたような現場で、梶原は倒れていたのだ。
 梶原が意識を吹き返したなら、恐らくそのまま『ミンチ連続殺人』の被害者として連れて行かれるだろう。
 そして、今回の殺人事件に関しても『関連性』を疑われるに違いない。
――くそ、一体どうなっちまってんだ…
 木下と矢環はその端で、彼らの姿を眺めていた。
「木下さん」
 矢環の声に、木下は難しい顔を向けた。
「…まさかな」
 言いながら彼は後頭部をぼりぼりとかいてため息をついた。
 矢環が話す、先ほど刑事から聞いた事件の内容を流すように聞き、周囲の様子を呆れた表情で眺める。
「冗談だろ。…一体、一月の間に何人が殺されているんだ」
「今月に入っただけでもう十人ですよ」
 冷静に言う矢環に、鼻を鳴らして腰に手を当てる。
「馬鹿野郎、そのうち八人はこの間の奴だろうが。……『ミンチ』は終わりだと思っていたのにな」
 これでミンチになった被害者は四人。
 八つ裂きが三人。
 今自分が調べている不気味な死体に、この間の少年殺し。
 そして、原因不明の警官殺し。
 いくら何でも死に過ぎだ。
「矢環、聞き込みに回るぞ。……どうせ、俺達には関係のない所だ」
 不機嫌な声を上げ、彼は現場から離れる。
 この事件は彼には関係のない話だ。
 矢環は慌てて木下の後に続く。
「全く…ん?」
 ぼやきかけた木下の視界に、見慣れない光景が映った。
 だから初めは通りすがりの女性が顔を背けているのかと思っていた。
 パトカーの向こう側でうつむいているシックなスーツ姿の女性――彼女は井上だった。
「どうした」
 パトカーのボンネット越しに声をかけると、彼女は慌てて顔を上げて振り向いた。
 だが、青ざめた顔でふらっと姿勢を崩して、慌てて両手でパトカーに身体を預ける。
「情けないな」
「ええ…部下には見せたくない姿です」
 気丈に答えて、彼女は身体を起こした。
「仕方有りませんよ、あんな光景…男でも参ります」
「お前、ずいぶん平気そうだがな」
「一度見れば、私は慣れましたよ」
 慣れたくないけどもという言葉を飲み込んで答える。
「…だろうな。で、どうしてここに」
「担当している事件の容疑者を、このあたりに絞れたから…でも、まさかあんなのを見るとは思いませんでした」
 彼女が今担当している事件はこの間の少年、警官含め八人を殺傷した事件だ。
 木下は眉をつり上げる。
「ほぉ」
 彼の様子に、井上は子細構わずという風にわずかに小首を傾げる。
「『Hysteria Heaven』って名前の麻薬が、彼らの身体の周囲から検出されたんです」
 Hysteria Heavenというのはごく最近発見された変わった薬物である。
 『ほんのわずか小麦に混ぜて、一週間寝かせておくだけで』純粋なHysteria Heavenが精製できるという噂だ。
 だが条件がまちまちなのか、実際にはどれだけ真実なのか、ともかくこの薬は非常に安価に取り引きされていた。
 そんないい加減な薬であるにもかかわらず、下手な静注タイプより効果が絶大だから、だと言われている。
 だからこそ鑑識が全滅したのであり、人員不足に一課が泣きを見ているから木下達も名前ぐらいは知っていた。
「少年の体内からは発見されなかった。ですから、犯人は常習者かバイヤーと考えられます」
「なるほどね。後はこの辺りで虱潰しにあたるつもりだったのか」
 こくり、と彼女はうなずいた。
 木下は何度か小さくうなずくと、一瞬目配せするように矢環に視線を向け、言う。
「じゃあ変な噂は聞かなかったか?この辺を出入りしている少年の話」
 一瞬呆気にとられたように目を丸くする彼女だが、少し首をひねってうなずいた。
「ここ最近は若年齢層にも『薬』が蔓延しているらしいです。さすがに制服でうろうろしていないそうですけど」
 彼女は伏せたままの目をついっとわずかにあげる。
「……正確な情報が必要ですか?」
 木下は含み笑いをして肩を揺すった。
 決して嫌みではない程度に口元を歪める。
「参考に聞きたいだけだ。構わん」
 はい、と彼女は小さく答えると身体を起こした。
 先刻までの真っ青な顔が、今は充分持ち直していた。
「この辺りで、ギャングまがいの行為を行う連中同士でしょっちゅういざこざがあるそうです」
 年齢はまだ二十代で、やくざ程大きな組織でもないらしい。
 時にはやくざの中でも最も末端である事もある者もいるが、そんな者はごくわずかだ。
「一人、日本刀を持った少年がいるという話ですね」
 井上の言葉に思わず口元を歪め、彼は矢環に視線を向けた。
 木下は彼に楠隆弥の事を調べさせる事にした。
 簡単に指示をすると、彼は来る時に乗ってきたシルビアで先に署に戻っていった。
――さて
 『日本刀を持った少年』が果たして鈴木圭介殺害と関わりがあるかどうかは判らない。
 だが、竹刀を入れる袋を持ってうろうろしていたかの少年と、駅裏で目撃された楠隆弥がどうしてもだぶって見えた。
――時間が惜しい。少しでも聞き込んでおこう
 彼はそう思って歩き始めた。

 数件廻って、特にこれと言った収穫はなかった。
 あるバーの入り口で仁王立ちしていた男は、自分たちの事ではないと気づくと途端ほっとした顔でぺらぺらとしゃべってくれた。
「アレは刀じゃないから、問題ないんじゃないですか刑事さん」
 木下とて、捜査中自分の領分ではない所にわざわざ踏み込んだりしない。
 法的にも無理だ。
「ほぉ、と言うことはお前さん、あの少年の事を知っているのか」
 ボールペンをメモの上で踊らせながら、男の顔を見上げた。
 にやりと頬の筋肉を寄せる様は、どうにも見くびられているようで気にくわない。
「まぁな」
 言いながら、右腕の袖をまくって肘を見せる。
 そこには黒い痣が浮かび上がっていた。
 肘の下から肩に向けて、斜めに綺麗に残っている。
「ほれ、これが打たれた痕だよ。鞭みたいにみよーんって大きくしなってたな」
「なるほど。参考にしよう」
 片手をあげて挨拶を返し、彼は通りから路地へと足を向けた。
 いくつもの路地が交錯している地域に入ると、急に今まで見かけなかった坂道が現れる。
 これがくせ者だった。
 僅かな傾きや捻りが方向感覚を狂わせるのだろうか。
 乱雑に立ち並んだ建物は、見る方向によっては全く別物に見える。
 慣れていなければ迷うことは必然である。
――?
 そこに、緊張した耳の痛くなる静寂が漂ってきた。
 例えるなら、甲高い管楽器を鳴らしたような――そんな音。
 彼は眉を八の字に歪めて、音のする方向へと足を向けた。

  きり きりきりきり

 近づくにつれてその音はやはり大きくなり、脳髄に錐を突き立てているような歯がゆさを感じる。
 まるで――そうまるで、冗談かのように。
 彼の目の前で僅かに開けた場所が、視界に飛び込んで来た――

「…なんだ、お前ら。学校がある時間じゃねぇのか?」

 路地の広さは、車数台が入る程の交差点。
 彼の目の前には見覚えのある男女が、背を向けて立ちすくんでいた。
 少年――柊実隆が声に反応してゆっくりと振り向く。
「――刑事、さん」
 彼の肩を掴むような格好の少女は、ぎこちなく彼に連れてそのまま背中に着いていくようにして振り向く。
 まるで背中に隠れるような格好で。
「ん、どうした。俺は別に学校をサボる事に何を言うつもりも――」

  ざり

 刑事は唐突に心臓を掴み出されたような感覚に襲われた。
 声が出ない。
 視界が闇にかすれて消えていく。
 飲み込まれていく風景が陽炎のように揺らめく。
 脳が絞り上げられるように感覚が消失し、降り注ぐ光は全て形にならず。
 仰ぎ見る穹は渦のように中央を失い。
 突然崩れ落ちる足下。
 奇妙な浮遊感と喪失感。

 そしてそこで、意識がとぎれる。


 少し時間を遡る。
 梶原は相変わらず店の前で眠りこけていた。
 彼のいる通りが通称『駅裏』と呼ばれる通りの中心である。
――ん?
 先程木下が来たが、彼が二度同じ場所を通るような事はない。
 少なくとも、今まではなかった。
 第一、靴音が違いすぎる。
 梶原はここに住み着くようになって、かなり長くなる。
 靴音を聞き分ける事は当然、できなければならない。
――珍しいな
 彼は眠ったふりを続けて、薄目で通りを眺めた。
 革靴のかつかつという堅い音と、ブーツ独特の堅さのある音ぐらいは聞き分けられる。
 この足音はゴム製のスニーカーの靴底だろうか。
 ぺたり、ぺたりと妙に間延びする足音が響く。
 普通の足音ではない。
 はっきり言って想像できない。どんな姿をした、どんな人間が来るのか。
 そして――彼の四角く限られた視界の中にそれは現れた。
 一見すると、猫背の男。
 丁度影に入っているせいで、顔は見えない。
 年の頃は二十歳か、そのぐらいだろう。
 半開きになった口が見える。
――普通じゃない
 たとえるなら夢遊病者か薬物中毒者が幻覚を見ながら歩いているようだ。
 関わり合いにならない方が良い。
 薬なら、ここで眠っている振りを続ければ何とかなるだろう、と目を閉じようとした瞬間。

 じろり、と。

 眼球の光が動くのが見えた――視線が合う。
――っ
 半開きの口が僅かな意志の形に歪むのが、ありありと影絵のように浮かび上がる。
 背筋をうつ寒気。
 本能に訴えるような恐怖に、梶原は両足を一気に地面に引き付けた。
 転がるようにして青年の足下を抜けて通りへと躍り込む。

  破砕音

 何が起こったのか判らない。
 背中の方で聞こえた激しい音に、全身の血流が逆転する。
「う、うわぁああっ」
 一気に迫り来る、アスファルトの地面。
 思わず両腕を顔の前に差し出し、直後激しい痛みが両腕を襲う。
 ぐるん、と身体が廻る感覚。
「ぐっ」
 背中から押し出される空気に喉が無理矢理悲鳴を上げる。
 風圧にもてあそばれるように地面を数回はねて、彼は呻きながら身体を起こす。
 顔が、先刻まで自分のいた場所に向いていた。だが見慣れた風景は彼の目には映らない。
 今まで自分がねぐらにしていた場所がなくなっていた。
 背筋が悪意に震える。
 視界に映る総てがまるで偽物のように、今までではなかったかのように。
 崩れたバーの入り口に影を落とす青年は、背中を見せている。
 今なら逃げられる。無職としてこの界隈で生きてきた彼の勘が告げる、
 なのに。
――あ、足が動かない
 太股の筋肉は痙攣するだけで思うように動かない。
 ぎりぎりと音を立てるバネ仕掛けの人形のように首が、ゆっくりと彼の方を向く。
 妙に不自然な程無表情で、焦点の合わない目を穹に向け、半開きの口に笑みを湛えて。
 無様に地面で這い回っている男に対して、力を込めていないような動きで掌を差し出そうとする。
 肩が引きつり、そのたびに指先が震える。
 鎌首を擡げるように、狙いを定めようとするように。
 そして、彼のねぐらを、バーを砕いた何かが梶原に向けられる。

  どくん

――視線が
 心臓にワイヤがからみつくような鋭い痛みが走る。
 きりきりと、細い金属線が心臓を切り刻むように。

  死が

 総てがネガティブに映り込む。
 呼吸が、止まる。
 まるで水滴が、水面に落ちて広がるかのように――ぱっと真っ黒い闇が視界を覆い尽くした。
 梶原はそれを最後の風景にして、ゆっくり意識を失っていた。



 青年は、その路地裏で目標を見つけたという報告を受けていた。
 目標――彼が、ここにいる本来の理由に眉をひそめつつもそこへ足を踏み入れていた。
――はん。そんなはずはないだろ
 彼は呟きそうになった言葉を飲み込んで、改めて周囲の気配に意識をのばした。
 駅裏と俗称されるその通りには、常に冷たい雰囲気が満たされている。
 彼が過ごしてきた街並みと同じように。
 でも、もうそれがどこでどんなところだったのなんか覚えていない。
 くしゃりと軽い音を立ててポケットから写真をとりだした。
 それに写されているのはスーツ姿の青年。いや、若いのは判るが年齢ははっきりしない。
 服装のせいだろうか。二十代と言えばそうも取れるし、もっと若いようにも見える。
――あれだけ用意周到な「Ripper」がいつまでもここに残っているかよ
 Ripper。
 彼の持つ写真の人物。穏やかとは言い難い表情を浮かべて映る彼は、檻の中の獣のようにも見える。
 彼はその名の通りの『切り裂き魔』として有名だった。
 だがRipperは何より『素手』で切り裂くところから、その証拠を一切残さないと言われている。
 写真を持つ指が震えて、みしりと音を立てる。
――殺してやる
 青年の目が怒りに歪む。
 それは血を吐きそうな程、意識が裏返っても忘れそうにないほどの怨念。
――殺してやる、後悔させてやる
 思わず握りしめそうな写真を、自分の懐に戻すと彼は歩き始めた。
 彼に与えられたのは、『裏切り者』であるRipperの始末、である。
 その名を与えられた男は彼にとって特別な存在だった。
 最も憎く越えるべき存在――奴を越えられないなら、今の自分の意味はないとまで彼は言い切るだろう。
 彼に対する有り余る憎しみだけが、その青年の持ち得る方向性だった。
 ただ奴の顔を見るたびに消し飛ばしたくなる。
 そんな理不尽なモノが彼にはあった。
 そのRipperが、日本で揉み消すには難しい程の事をしでかしたらしい。
 正確に言えば警察を動かしてしまったというのだ。
 それも反目した博士の手先になって。
――ふん…奴らしい終わり方だ
 たとえそれが同僚だった、などとは誰にも言わせない。
 同僚なものか。
 『博士』の元で平等だった連中は、犠牲者以外の何者だろうか。
 だからこそ奴――Ripperの立場が許せるわけがなかった。
 それだけではない、彼にとっては。
 そうでなければ、今頃既に反目した連中など一人残らず消し去っていただろう。
 彼にとって奴は特別な存在でしか、あり得ないのだ。
 人間の姿をした、凶悪な兵器。
 それが彼とRipperのつながりでありまた――共通点だ。
 純粋に生まれついて兵器であったか、あとから兵器に変わってしまったかの違いはあれども。
 公的に、確実に、何の憂いもなく抹殺できるという、この任務には彼は感謝していた。

 彼の名前は西森臣司、年は十七、まだ少年と呼んでもおかしくない歳だった。

「……?」
 駅裏を歩くのは初めてではない。
 青年はこの湿っぽい冥い雰囲気は嫌いではない。
 後頭部から首筋にかけて、まるで電気に痺れたような感覚が伝わってくる。
 この明らかな敵意や殺意の中にいられるから、退屈しない。
 彼は口元に冥い悦びを湛えると、ゆっくりその視線を確認しようと足を止めて振り向いた。
 だが、彼は思わず眉をひそめた。
「なんだ、お前らは」
 青年の前に一人の少年がいた。
 奇妙に虚ろな目。
 焦点が定まっていない貌で、ただじいっと彼の方を見つめている。
 それだけなのに、何故か圧迫感を感じる。
 不安だろうか。
 それとも、本当にやばいことだと身体が警告しているのだろうか。
 それが唐突に。
 本当にそれは僅かな躊躇、それが彼の判断を遅らせた。
 そして、いきなり世界が紅く染まる。

 なんだ。

 臣司は思った。
 振り返った時見えた獲物――奴らは、明らかに特異な症状を見せていた。
 だからすぐに理解した。
 だが、その理由は判らなかった。

 こんなに赤い。

 判らなかったから躊躇した。
 何故躊躇しなければならなかった?
 判っているなら行動すれば良かったのに。
 そう思い返しながら、呆然として彼は立ちすくんでいる。
 自らの両手を汚す赤い液体にまみれながら。
――どうして、こんな
 彼は頭の中にある結論をどうしても理性的に受け止めていなかった。
 見覚えのある光景、それは、『Ripper』が、いや、博士が行っていた事を裏付けるだけの出来事に違いなかった。
 耳に届いたのは、水風船が弾ける音。
 ぱしゃという、聞き覚えのある特有の音。
 目の前で、人間の姿をしたものが、まるでいきなり形を失うようにして崩れ落ちた。
 それは、今まで忘れていた液体の本性を思い出したコンピュータグラフィクスのようななめらかな動きだった。

 人間が、液状に砕け散った。

 それは彼にとって珍しくもない事象であったにもかかわらず。
 それがあまりに簡単で、予想できたにもかかわらず。
 何故か彼はそれが起きた直後ですらそれを現実として認識できずに立ちつくしてしまった。
 そして、頭からその血を被ってしまった。
 あの、触れてはならない血液に。
――俺は大丈夫だ
 思わず頭に浮かんだ言葉に反論して、それでも身体は身動ぎするのが精一杯だった。
――大丈夫なものか
 反論する声が頭の中に響いた。

「――!誰だ」

 耳元で囁く声。
 その声は聞き覚えがある。
 忘れるはずもない。

「貴様!」
 街角。
 路地の、彼の正面にその姿があった。
 まるで冗談でも見ているような、そんな気にさせる姿。
 丁度写りの悪いテレビの画像のように、時折輪郭が崩れたりノイズが混じる。
 少女。
 長い青白い髪の毛を、ないはずの風に揺らせる群青の瞳の少女。
 まるで死んでいるような白い肌。
 そして、僅かに浮かべる笑みと血臭。
「どうして、お前はどこから俺を監視している!」
 大きく腕を振り、彼は少女に向かって叫ぶ。
 僅かに少女の表情に笑みが浮かびあがり、両腕でまるで水をすくうようにして前に手を差し出す。
 臣司はその仕草を睨み付けるだけで、何も答えない。
 一瞬少女の顔に影が差す。
 形作られていた花びらが、力無く砕けて元の位置へと戻っていく。
「フン、俺が監視されている事ぐらいは判っている」
 臣司は話さない少女に向けて大きく踏み出し、右腕を握りしめて叫ぶ。
 いつでもその拳を打ち付ける用意がある、とでも言うように。
 だが少女は何も答えず、僅かに目を丸くして一歩、後ずさるだけ。
「当然だろう!誰が頭を弄ったと思っていやがる!」
 不思議に、それでも今ここでは彼と彼女の間には、大きな隔たりを感じさせない。
 目の前にいるという不自然さ――それは、明らかに違うこと、なのだろうか?
 ぶるぶると震える彼の拳は、やがて大きく開かれて再び真横に開かれる腕に。
「まだしらばくれるのかよ、柊――いや、真桜の親父よ!」
 びくっと少女の身体が震え、大きく目が開かれる。
 声なき声を紡ぐため、戦慄く唇がまるでただ数回開閉する。
 臣司の表情は、ますます険しい物になっていく。
 まるで、そう――彼女の様子を咎めるかのように。
「他に誰がいるっていうんだ、えぇ!貴様ぐらいしか考えつかないだろうが!」
 少女の姿が大きくかすみ、また崩れようとする。
 だが、ぶれたその姿が安定するかとおもうと、少女は小さく目を閉じた。
「誰?――そう、だな、そうか。……そうだ、もう一人、いたな」
 祈るように両腕を胸の前で合わせて。
 両掌を強く握り合わせる。
「ああ――違うな」
 確信したような声で言う臣司に、彼女は驚いたように顔を上げる。
 そして、眉を訝しげに寄せたまま静止する。
 そのまま、ほんの僅かの間の静寂。

  ぴちゃん

 水が滴るような音が聞こえた。
 同時に臣司は、口元に笑みを浮かべた。
「そうか。お前だったんだな――何度も、何度も自由意志を阻害してきた『存在』は」
 頭から被っていた血、返り血は、いつの間にか彼の身体の周囲をよけるようにして地面へと雫になり崩れていく。
 肩から指へ、そして地面へ。
 まるでそれは、ビニールシートを被っていた彼が、それをゆっくりとはぎ取っていくようでもあり――血液が水銀のようにも見えた。
 否、今確かに、血液とは違い異常なまでに粘性が低い雫が産まれた。
 知られていないことだが、水というのは自然界では奇妙な性質を持つ。
 表面張力の強さが強いのもその一つだ。純粋な物質ではかなり強い表面張力を持ち巨大な水滴を作る。
 もしアンモニアを液化したならば、その水滴は砂粒のように細かく砕け散る。
 今彼から滴っている血液は、水滴の比ではない――まるで、それは煙のように細かく、小さく――
「ふん、では」
 気がつくと臣司の周囲には霧のように細かい飛沫が漂い始めていた。
 まるでドライアイスが気化していくように。
 その煙の中で、彼は僅かに眉を寄せた。
 まるで何かを訝しがるように。
 少女は両腕を大きく広げ、何かを訴えるように口を動かす。
「どういう、意味だ」
 初めはただ霧が彼の身体を取り巻いているようにも見えた。
 だが風もないのに濃淡を変えふらふらと漂うその霧は、丁度心臓の鼓動のようにも見える。
 その中で、少女をにらみつけるようにして彼はぎりぎりと歯ぎしりしている。
 やがてかみつくように彼は言う。
「――それが、どうかしたのか」
 少女の顔から寂しそうなものが姿を消し、元の人形のような澄まし顔になる。
 そして現れた時のように両腕を自分の両脇におろし、すっと胸を反らせた。
 ただそれだけなのに、急に彼女が存在感を希薄にしたようにも感じられる。
 そして同時に、まるで切り開くようにして紅い霧は臣司の周囲を流れて落ちる。
 まるで、最初の液体の姿だったかのように。
「……こいつらは」
 そして、その変化の代わりに、臣司の表情は険のある攻撃色のある物から警戒色の強い物へと変わる。
 驚き――そう捉えても間違いではないだろう。
 間違いなく臣司に変化が訪れている。
 目の前の少女は先程のように必死ではなくただ風に――いや、吹いているはずのない風に髪を揺らせるだけ。
「お前は、敵なのか?」
 悲しそうな表情を浮かべ、彼女はゆっくり首を振る。
 無言――彼女の無言は、しかし無言ではなく、空気の振動として声にならないだけ。
 決して彼女は訴えるのをやめようとしない。
 大きく、自分の声が伝わらない事を補うように身振りを交えて。
「だから、俺に近づいてきた」
 一瞬少女の姿が戸惑いを見せるように揺らぐ。
 だがそれも一瞬のこと。
 臣司は少女の仕草に口元を歪めて笑う。
「ハン、馬鹿らしい…が、お前が敵ではない事の方が重要だ」
 ため息のように彼は呟いて片手を腰に当てる。
 少女は僅かに笑みを浮かべてみせる。
「くだらん」
 臣司が呟く言葉に少女が何か返事を返した。
 彼は怖ず怖ずと彼女に手を伸ばし、少女は彼に一歩近づいた。
 ほんの少しの沈黙と、間隙のような僅かな空白の距離。
 一瞬だけ、少女が口元を緩めるのを、しかし臣司は気がつかなかった。
「    」
 臣司が口を開いた。
 少女が、それに応えた。

 そして

  音も光もない世界が、一瞬――



「……さようなら」
 両腕で支える身体が、いつになく重い。
 人間の身体というものは、意識がある時とない時で全くその重さを変える。
 まだ両腕に温もりが残っているまま、彼女はゆっくりと腕の中で重くなっていく。
 声をかけてももう返事はない。
 口元を茶色く自らの血で汚したまま、彼女は冷たくなっていく。

  ああ…

 それはもう過去の話だ。
 結婚した後の話だから数年前になるだろう。
 あれは不幸な事故だった、と言われた。
 そうは思えなかった。
 土方春夏、当時二十一歳。
 彼女が配属されてからはそれほど長くなかった。

  それでも、彼女の事が忘れられない理由は何?

――なんだろうか
 木下は、聞こえた声に対して思案を巡らせる。

「初めまして、土方です。これからよろしくお願いします」
――たしか変な噂があった部署だから緊張していたとか、そんな話をしていた
 もちろんその噂の中心人物こそ木下にほかならならかったから、周囲の人間は冷や冷やどころではなかったという。
 だが、明るくはきはきとした春夏は常に話題の中心にいた。
「木下警部補、私、警部補みたいな刑事がいるなんて思いもしませんでした」
 あれは宴会の席でのこと。
 また始まったか、と周囲は黙りを決め込んでいたのを、覚えている。
 彼女はビールを両手でもって、にこにこと笑いながら彼に酌をしていた。
「おいおい、聞きようによっちゃ、悪口にしか聞こえないぞ」
 木下は軽く流してグラスを一気に空ける。
 む、と春夏は少し眉を寄せる。
 どうやらかなり心外だったらしい。ビールを注ぐのを忘れたように、彼女は瓶を床に置いた。
「そんな、悪口じゃないですよ」
 それまで明るかった口調が急に暗い低いものに変わる。
 いつも明るく振る舞っているだけに、さすがの木下も言い過ぎたかな、と思った。
「私はっ」
 きっとあげた貌は、酒のせいで上気した頬に潤んだ瞳。
 思わず木下は飲んだ酒を戻しそうになった。
「大丈夫か、飲み過ぎだろ?」
 慌てて彼女の右肩を鷲づかみにして、無理矢理立たせる。
 遠慮のない視線が一瞬集まるが、木下はそれを無視した。
――何を言われるか判ったものじゃない
 このまま放っておくよりはましだ。
 そう思った彼は、そのまま無理に廊下に連れて行く。
「ちょっと、木下さん、私は」
 それにほとんど反射的に反応して身体を捻る春夏。
 だが、そのぐらいでは彼の手をほどく事はできない。
 それに――彼を批判する為に喉まで出かかっていた言葉は霧散していた。
「飲み過ぎだろ?飲み過ぎた部下の面倒を見るのも、俺の仕事だ」
 まるで放り捨てるように連れ出すと、廊下の入り口をぴしゃりと閉める。
 すぐに彼の手から解放された彼女は悲しそうな貌を浮かべていた。
「でも、私は…」
「何を言うつもりだ?少なくとも、それで俺を困らせるような事ならやめてくれ。洗面所で頭を冷やしてこい」

  そりゃ、ひどいな。彼女はきっとキミのことを好いていたんだろうに

 響いた言葉に木下は眉を寄せた。

  お前は――誰だ?

 声を出したつもりで、思わず彼は顔をしかめた。
 これは夢だろう――そう思い返す。

  その質問は妥当じゃないな

 そうだろうよ、彼は思った。

  でもそれなら話は分かる

 そんな言葉が聞こえたかと思うと、すぐに視界が変わる。
 大きな事件がなく平和な昼食時の、休憩中。
「あー、先輩どうです?」
 ある時を境に、彼女は木下のことを先輩と呼ぶようになった。
 別に高校が同じだったとか、そう言う物ではない。
 たまたまそう呼んだ時、彼が嫌そうな貌をしたからだ、と言うのが彼女の言い分だった。
「……ふぅん」
 他の女性警官や若い警官がたむろしていると思ったら、彼女が占いをやっていたらしい。
「悪いが、俺はそう言うのを信じない主義でね」
「あー、でもよく当たりますよ」
 素っ頓狂に声を上げた警官を見るや、後頭部を問答無用で張り回す。
「姿見ねぇと思ったら、矢環、お前こんなところで何してやがる!午前中に持ってこいって言った書類、できたのか?」
 しまった、という顔をする矢環に、くすくす笑いながら胸を張る春夏。
「ほら、『近い時期の災厄』と『仕事上の失敗』が当たっちゃったね」
 そして挑戦的に木下を見上げる。
 おねだりをする子供――『ほら、やってあげるよ』というお節介な占い師。
「ちぇ。木下警部補も悪い占いが当たれば良いんだ」
「五月蠅ぇ、お前はさっさと書類を書いてこい!」
 と言いながら、彼は渋々春夏の前に座った。
「たまたまじゃないのか?……俺が来るのはともかく、矢環の野郎も占いを当てたいが為に」
 春夏は笑いながらカードを切って、彼の前で両手で混ぜ合わせる。
「そうですか?彼は結構根がどじなところ、ありません?」
「……結構言うね」
 はい、と明るく応えながら彼女は手早く占いの準備を仕上げてしまう。
 いつの間にか彼女の手元には大きめのカードがそろえて握られて、机の端でとんとんと軽く叩いて整えていた。
「じゃ、行きますね……」
 気負わず、明るく。
 木下の知る『占い』とはイメージが違う。
 まるで簡単な手品でも見せられているように、何枚かカードが並べられていく。
 複雑な文様が書かれた札が数枚並べられて、彼女は眉を寄せて不思議そうに考え込んでしまった。
「んー…これは」
 彼の前でしばらくにらめっこしていて、いつまで経っても言葉にしようとしない。
 多分、いい結果ではなかったのだろうか。
「どうした?どうやって読むんだ?この絵札は。どうせ信じていないんだから、言って見ろよ」
 春夏はカードからゆっくり視線をあげ、上目で彼を見つめた後、言う。
「……近いうちに大きな失敗をします。これとこれで『取り返しのつかない失敗』になるんです」
 と、カードの組み合わせを示す。
「ただ、こちらの意味が……ちょっと不吉なんですよ、生き死にに関わるような」
「馬鹿。この仕事をしてればいつかそんなこともあるさ。すぐ死ぬって決まった訳じゃないだろ?」
 思えば。
 春夏はこの時、引きつった笑みを見せていた。
 眉を八の字によせ、笑っているように見えなかった。

 そして。

 事件は、その次の日の朝――


「Halo確認。――はい、かなり低密度です。さほど時間もかからずに拡散します」
 ハンドヘルドコンピュータの画面に七色の模様が浮かび上がっている。
 それはリアルタイムに姿を変えながら、奇妙な単位を示す数字が次々に変動していく。
 コンピュータを片手に携帯電話で話をしているのは――青年。
 背広姿だけなら、それはビジネスマンのようにも見えなくはない。
 だが決定的なものが違っている。
「中心付近はまだ下手に近づけません。ですが、中心の移動は簡単に確認できます」
 携帯電話の向こう側で命令する男の声は、低く有無を言わせぬ口調。
 彼の手も震える。
「はい、問題有りません」
 応えて画面に目を再び向ける。
 虹のような模様を浮かべる画面は、斑に明るく明滅している。
 それは大きく揺らいでいるようでもある。
 コンピュータに差し込まれたケーブルの末端にLEDがあり、それが定期的に明滅している。
 そのケーブルの先は、彼の背広の中へと消えている。
『伸也』
 突然電話の向こう側の男が自分の名前を呼んだ。
 彼は僅かに身体を緊張させる。
『生死は問わない』
 ほんの僅かな躊躇、のような間をおいて返事を返した。
 本当に軽い音を立ててパソコンは閉じられて、青年は無機質に顔を上げた。
 その先には薄汚い路地裏が広がっていた。


「警部補!指名手配の谷村東二が、うちの管轄で発見されました!」
 谷村東二、二十二歳。
 連続婦女暴行殺人で指名手配中の彼は、その足跡を消す手際から既に一年逃げているのだ。
 それが、管轄で発見されたというのだ。
「……いくか」
 木下はその言葉には対した反応を見せようとしなかった。

  まさかそれが引き金になっているとは

 のそりと熊のように動く彼を見て、春夏は思った。
――この人は、やはり言葉じゃ駄目だ
 と。
 この間占った時もそうだった。
 言葉や、それだけじゃ信用して貰えないんだと。
 例えそれが真実にどれだけ近寄っていたとしても。
 どれだけ……真実に近くても。

  あの時は、まさかあんな暴挙に出るとは思わなかった

 僅かな後悔と既に起こった事への諦め。
 木下は小さく首を振る。
 その時、記憶の中の春夏が急に鮮明になる。
 嫌悪感ともとれる強い眼差し。
 彼女の強い意志を持っているこの顔は、多分嫌でも忘れないだろう。
 それが彼女の、事件に突っ込んでいく直前の表情だった。

  俺は――無茶だけはするなと言ったんだ

 だが結果は違った。
 春夏は彼の制止を聞かず、ほんの数分の遅れが運命を分けた。
 彼が駆けつけた時には彼女はもう瀕死の状態で、応急手当も間に合わなかった。
 果たして彼女は、彼の腕の中で奇妙に安らかな表情を浮かべて言った。
「……さようなら」
 と。

  それは占い通り、だったんだ

 そう。
 先日に彼女の占ったとおりに、それは木下の責任として処断された。
 ただし、彼女が先手を打った形になり、谷村東二は逮捕された。

 既に終わった出来事、である。

  キミの判断ミスで、彼女はこの世から息を引き取った。偶然か、前日の占い通りにね

 嫌に明確な声が、まるで脳の中で響いているように聞こえた。
 それは
――誰だ

  ふん、誰でも良いだろう?どうせ、言ったって無駄な話さ

 声は確かに聞こえる。だが、何故か視界は真っ暗なままである。
 音もその声以外は一切聞こえてこない。
 まるでヘッドホンをして、マイク越しに会話をしているような感じである。

  それにどうせ、もうこれで終わるようだし

――待て

  覚えておいて、キミは思っている以上に素質がある。――ま、信じようとどうしようと勝手だがね

 相手は笑ったようだった。
 にっこりと、その表情は柔らかく――そう、何故か嫌とは思えなかった。


 途端に天地がひっくり返ったような混乱。
 アスファルトの上らしい、冷たい感触が伝わってくる。
 横たわっている事に気がつくと、今度は身体が大きく揺すぶられていた。
 襟首が苦しい。
 今度は耳が――耳に飛び込んでくる声が彼を現実へと引き戻していく。
「――じさん、刑事さん、しっかりっ」
 そして、最初に見たのは心配そうな少女の顔だった。
 先刻呼び止めた――そう、あの少女だ。
 酔っぱらっているような感覚のまま身体を動かすと、彼女は安堵の表情を見せて身体を避ける。
 木下はそのまま体を起こして、まるで二日酔いのような感覚の頭を大きく振った。
 ぐるぐると視界が廻っている。
「くそ、一体…」
 突然襲う、胸の下からわき上がってくるような衝動。
 不快感は二日酔いどころの騒ぎではない。
 そんなはずはないのに、彼は慌てて頭を抑えて大きく息を吐きこらえる。
「よかった、生きてる」
 視界の外から少女の声がした。
――生きてる?
 だが身体は言うことを利かない。
 耳から聞こえてくる音は、まるで夢の中で聞いている言葉のように憂鬱で。
 現実離れした世界が、耳元で囁くように。
 水の中で聞こえる話し声のように遠く。
「待て、俺は…」
 夢の中にいるような感覚を振り切りたくて、慌てて声を出す。
 だが伸ばした手は届くことはなく。
「ごめんなさい、もう行かないと」
 地面を叩く足音と、遠ざかっていく気配。
 もう一度視界に入れようと無理に顔を起こしても、もう彼女の姿はなかった。
――っく……
 頭を振り、何とか立ち上がる。
 走るのは無理でも、歩いて帰るぐらいはできなくはないだろう。
 ふらつく足下に気をつけながら、彼は署に戻ることにした。
――どうせこれだと仕事になりゃしねぇ
 まるで酔っぱらいのようにふらふらと署に戻ると、もう既に残業の時間になっていた。
 その日はそれ以上仕事になるはずなかった。
 とは言えども、例の殺人事件があるため他の連中にとってはまだまだ忙しい時間のようだった。
 彼がいつものように一課に向かう間にも数人の刑事とすれ違い、慌ただしく仕事をしているのが判った。
 そんな中で、彼は妙に寂しい気がした。
「遅かったな」
 一課の入り口にさしかかった時、聞き覚えのある声がした。
「署長」
 岡崎は、丁度彼の真後ろから声をかけてきていた。
 彼が一課に来るのを見かけて来たのだろう。
 木下の顔を見て、彼は眉を寄せる。
「?どうした、変なモノでも見かけたか」
 岡崎の物言いが矢環に重なってしまい、彼は苦笑して見せた。
 それがどうやら伝わったのか、ぽんぽんと木下の肩を叩く。
「気にしたか。大抵お前がそんな顔をしている時は何か気に入らないことがあったときだからな」
 言われて肩をすくめてみせる。
 やはり彼とは長い付き合いだということだ。
「……似たようなものです。ちょっと、気分が悪くて」
 木下は言ってから、急に二日酔いのような自分の体調を思い出したように眩暈を覚える。
 岡崎の顔に、顰めっ面にも似た表情が浮かび上がる。
「疲れてるだろう?……少し休んだらどうだ」
 違う。
 木下はそれが何に対してなのか判らないがそう思った。
――違う、これは疲れてるんじゃない
 反論するために声を出そうとして、地面がどちらを向いているのか判らなくなる。
 頭の後ろなのか、額の向こう側なのか、自分の視線の下、なのか。

  世界が回転する

「ほら、くそ……誰か手を貸してくれ!」
 署長の怒鳴り声を聞きながら遠ざかっていく自分の意識をたぐり寄せようとして――彼は、闇の縁へと呑まれていった。

 自分で支えられなくなった身体がそのまま崩れて倒れようとする。
 慌てて岡崎が脇から抱えなければ、間違いなく床に激突してしまっただろう。
 岡崎の指示で集まった数人の警官が、木下を肩車して運んでいく。
――初期症状、か?
 その後ろ姿を見ながら、彼は顎をなでた。
 表情や仕草なら確かに彼を心配しているようにも見える。
 だから恐らく周囲で仕事をしている刑事の一部は、間違いなくそう考えたに違いないだろう。
――にしては、発症が遅すぎるようだが
 彼は僅かに首を捻り、そして再び今現在の自分の仕事へと思考を移すことにした。
 どうせ、明日には彼にも伝えねばならないことだ。
 それをまとめておかなければならないのも、事実だった。
「――全く、余計な手間をかけさせる」
 それは一体何に対して放った言葉だったのか――


 金属音。
 それはまるで食事の際に奏でられる食器の音のようにも聞こえた。
 だがそんな物と比べればかなり乱雑で、しかも決してリズムを持たない。
 どちらかと言えば物を投げ捨てた時のような音だ。
――?
 その音に気づいて、彼は嗅ぎ慣れない臭いに顔をしかめた。
 同時に――恐らく瞼の隙間から差し込んだのだろう――視界が真っ白に染まる。
「朝……か?」
 彼は自分が横たわっていることを感じて、身体を起こした。
 日の差し込む、四角い窓。
 白さだけがやけに目立つ部屋。
 嗅ぎ慣れない臭い。
 それが病院に特有の揮発性の消毒薬の臭いだと気づくよりも早く、白い部屋の正体が思いついた。
 自分を拘束するように伸びる透明なチューブは、左腕に止められたテープに引きずられて、肌が引きつっている
 身体を起こしたからだろう、その末端にある黄色い液体の入った袋が揺れている。
――警察病院
 自分が、何故そんなところで眠っているのか、それは聞かれるまでもなく判った。
 署に帰ってから、家に帰れなかったのだ。
 聞き込みに回っている最中に、何かに出会ったからだ。
 だがよく判らない。
 記憶が判然としない。
 昨晩突然倒れた記憶は、何とか残っている。
 だがその前についてはどうしても記憶があやふやではっきりと思い出せない。
 丁度それは、酒を飲み過ぎた時のようにぼやけていて。

  しくり

 突然差し込むように、後頭部から視床下部へと鈍痛がする。
 木下は顔をしかめて自分のこめかみを押さえた。
「おはようございます、木下さん。まだ具合は悪いみたいですね」
 痛みがどれだけ続いていたのかは判らない。
 ただ、声に気がついた時、やはり白い格好をした看護婦が視界に入っていた。
 突然という風に感じたのは、多分痛みに気を取られていたからだろう。
 呆気にとられている顔をしていないかだけが心配になった。
「ええ」
 それだけ応えるのに精一杯で、彼は大きく深呼吸する。
 とは言っても頭痛は気を失う程ひどくはない。
 ただどうして頭が痛いのか、それは判らないが。
「…食事は摂られますか?」
 看護婦は表情を変えずに聞いてきた。
 思わず木下は首を真横に振る。
「いや結構」
 点滴がぶら下がっているのは一体何のためなんだと、思わず彼は叫びたくなった。
 少なくとも、本調子なら叫んだだろう。
「では、一時間程したらお薬を注射に来ます」
 看護婦は言いながら検温を含めて彼の様子を簡単に調べていった。
――食事を摂ったなら、飲み薬だったんだろうか
 ふとそんな事を思ったりした。
 看護婦を見送った後、ため息をついてもう一度横になった。
 やはり冷たく白いだけの天井が見える。
 個室最大の欠点――閉塞的な孤独感がある。
 そんな場所で何も考えずにただ眺めているだけなんて事はできないだろう。
――こんなことも久しぶりだ
 ここ十年程もう病気らしい病気にかかっていない。
 確かに休むにはいい機会かも知れない。
 そんな風に思ってもいいだろうと彼は納得した。

  『よかった、生きてる』

 その時、ふとあの言葉が蘇った。
 少女が自分に対して言った言葉。
――どういう、意味だろうか
 彼女はその後、彼を助けるでもなく走り去っていった。
 救急車も呼んでいた訳ではなかった。
 もし何らかの事故に巻き込まれた――考えたくはないが、あの少女と少年が巻き込んだ――として。
 救急車を呼んだことが全く無駄にならなくて『よかった』訳ではなさそうだ。
――……少年?
 そう言えばあそこにはまだ少年がいたはずだ。
 ただあの時は一人しかいなかった気がする。
 そしてその少年は、少なくとも一度以上顔を見ている。
 一度見た顔を忘れない、刑事として必要な資質の一つを感謝する。
――ヒイラギミノル、だ

  がちゃん

「元気か」
 突然思考に割り込んできた雑音に顔をしかめ、しかし扉の向こう側から現れた思わぬ客人に今度は目を丸くする。
 驚きと、そしてもっともな疑問と共に。
「署長!」
 白髪が混じり始めた、外見だけでは二歳違いとは思えない先輩に彼は叫んだ。
 岡崎は苦笑して眉を寄せ、左手で自分の顎をなでる。
「おいおい、そんなに驚く事か?」
「驚くって……署長でしょうがあんたは。今何時だと……」
 と言って時計を見ようとして――彼は、まだこの部屋にある時計の位置を知らない事に気がつく。
「もうすぐ八時だよ。職場と目と鼻の先のここに、まず顔を出して何が悪い」
 木下が唖然としているのを良い事に、岡崎は彼の疑問に答えた後時計のある場所を指さす。
 そして呆れたように肩をすくめる。
「普通目が覚めたらまず時間を確認するだろうに。まぁそれはそうと、お前に言っておかなければならない事がある」
 昨日伝え損なったので、と付け足して岡崎はいつもの真面目な表情を浮かべた。
 僅かに緊張した雰囲気が走る。
「一つは、矢環が入院した事だ」
 木下は思わず頭に血が上り、表情が荒くなる。
 それを見越していたのか署長は右手を大きく振った。
「まて、もう一つあるんだが、それと大きく関係するんだ。昨晩の段階で『ミンチ殺人』関連の事件は捜査を一時停止した」
 木下の表情が凍る。
 驚きのあまり何も言えなくなっている、そんな感じだ。
 人間は一つの感情が過ぎると逆に無表情になる。
 今の彼が良い例だろう。
 岡崎も顔色をそのままに続ける。
「今回の件が、殺人事件ではなく何らかの病気か、あるいはその類だという可能性がでてきたんだ」
「どういう…ことですか」
 岡崎は尤もらしく頷くと時計を見上げる。
「詳しく話す暇はないな。ただそうなればもう警察の仕事ではないだろう。だから調査中という形で凍結だ」


「……特に精神鑑定の必要はありませんよ」
 この病院では珍しく精神科の病棟が隣合わせにある。
 随分と昔に精神病患者の犯罪に関わり、また署内からノイローゼ患者が出た事が発端と噂されているが、定かではない。
 目覚めてから、頭痛を除けば体調は悪くなかった。
 午前中に医師に診断してもらったが、退院の許可はでなかった。
 では、という訳ではないが、彼は精神科の診断を受けさせてもらうように頼み込んだ。
 先日から、普通の精神では耐えられないような不自然な出来事に出逢いすぎた。
 だからもしかしたら精神的に異常がでているのかも知れない。
 木下としてはそれは常識的な判断だった。
 しかし幾つかの心理テストをこなしてその結果を診断してもらった結果、結局『異常なし』だった。
 声が聞こえた、という症状だけではなく、あの夢とは思えない現象が気になったのだ。
 自分が狂っているかどうかを突き止めたくて、調べてもらわなければすっきりしなかった。
「仕事で行き詰まっているんじゃないでしょうか?」
 結果をプリントした紙を眺めて、若い精神科医は眉を寄せる。
「と、言うと?」
 僕はカウンセラーじゃないんですがね、と少し肩をすくめると膝の上に両手を載せる。
「症状だけで判別できないケースの方が多いんですよ。特に、精神病患者って言うのはね」
 確かにある程度分析できるようになっているが、極端な例を除いて断定する事はかなわない。
 そもそも『狂っている』という状況を判断するためには『正しい』状態がどうしても必要不可欠だろう。
 だが、それがそもそも曖昧で定義する方法がない。
「だからですね、『社会生活が送れる』という状況であれば、それは精神病じゃないんですよ。極論ですが」
「……ふむ、成る程」
 木下はゆっくりうなずいた。
「あなたの言う『誰かの声が聞こえる』という症状にしても、それが『内側』なのか『外側』なのかという違いもあります」
 そう言って、彼は一枚のプリントを本の間から抜き出して見せる。
 それは、奇妙な質問が羅列した――テスト形式の紙だった。
「……やってみますか?シュナイダーの一級症状を確認するテストです」
 そう言いつつ彼は僅かに笑みを浮かべると、くるりと一度背を向けた。
「でもあなたは疑り深い人だ。それは簡単な性格判断で判りました」
 木下はぐ、と苦虫をかみつぶしたような貌をする。
 机の上でカルテを眺めてサインをすると、再び医師は椅子の上で一回転して向き直る。
 木下の様子に少しすまなそうに苦笑いして肩をすくめた。
「気にしないでください。状況からして精神分裂でも多重人格でもありません。記憶の混乱から来るものでしょう」
 そうかも知れない。
 得体の知れない事件を立て続けに体験しすぎたせいかもしれない。
「刑事さん、お仕事しばらく休まれたらどうですか。……それが一番の薬になりますよ」
 結局、結果は彼も全く同じだった。
 簡単に礼を言い、彼は精神科の病棟を出る。
――そうかも知れない
 判らない事を考えても無駄なだけだ。
――……矢環の具合はどうなんだろう
 今朝の話では矢環の入院と事件の凍結が関与しているという。
 気になった彼は調べてみる事にした。
 適当に看護婦を捕まえて聞けば、手っ取り早く判るだろう――それは決して正しい判断ではなかった。
「――ヤタマキ、さんですよね」
 現在入院している人のリストを調べてもらった。
 だが、リストから顔を上げた看護婦の表情は妙に硬く、怪訝そうな表情だった。
「ああ、そうだが」
 看護婦は再び黙り込んでリストを追う。
 通常アパートの住人と違い頻繁に入れ替わる病室の管理には、コンピュータによる名簿を作成している。
 これで有れば簡単に誰がどこにいるのかを検索できるからだ。
「失礼ですが……この病院には入院されていないようですが」
「え?いや」
 思わず口を滑らせかけて、木下は慌てて首を振る。
「そうか、すまない。記憶違いだったようだ」
 署長は『ミンチ殺人』に関連して、と言った。
 病気、とも言った。
 普通の病院ではなく、伝染病患者等を隔離できる施設があり、更に研究できるような――大学病院に移送されている可能性が高い。
 そこまで考えて、思わず口元をつり上げた。
――こんな事じゃダメだな。入院してたって気が休まりやしねえ
 とりあえず自分の病室に戻ることにした。
 今は自分も入院している身だ。
 人の事を考えている場合ではないはずだ。
 彼の病室の前の廊下に出た時、病室の入り口でうろうろする看護婦の姿が見えた。
 彼に気づいたらしく顔を上げた彼女は、すぐに中にとって返す。
「木下さんが…」
 彼女の声が聞こえて、やがて医師が代わりに現れる。
 午前中に診察した、どうやら今彼の主治医らしい男だ。
「木下警部」
 彼は神妙な顔つきで、木下の前に立ちふさがった。
 一呼吸の沈黙。
 木下が足を止めて医師を睨むと、彼は続けた。
「……病院を移ってください」
 木下が喉を鳴らす。
――それはどういう意味だ
 聞きたい、が予想する答えにそれが声にならない。
 額に、嫌な汗が噴き出る感触がする。
「理由、は」
 声が喉から絞り出したみたいにかすれてしまっている。
 だが医師は顔色を少しも変えない。
「うちで手に負えない、と判断しました」
 そしてまるで死刑を宣告するように呟いた。
「木下警部の体内から、未知の薬物とそれによるホルモンバランスの崩れの兆候が見られたんです」
 医師はとつとつと説明を始めた。
 奇妙な、聞いたこともない専門用語。
 次々に並べられるそれらを理解することなんかできない。
 ただそれが、まるで詭弁のように聞こえるだけだ。
 ただ判ったのは――どうやら、自分も、矢環と同じで。

「帝都大学病院へ移送されます」

 結局ミンチ連続殺人事件に関わらざるを得ない、ということだった。


 人間とは自らに制約を課している。
 その制約に気がつくことは稀だ。
 何故なら、超えたと思った壁は決して壁ではなく、岐路に過ぎない場合が多いからだ。
 自らで課したはずの制約がはずせる人間も少ない。
 もし『超越』したのであれば『今まで通りの事』もできなければならない。
 だが事実――それを行えた人物は世界の歴史には登場しない。
 もしかするとただ選択しただけ――すなわち、壁を超えたと思いながら新たな制約に自らを縛っただけに過ぎないからかも知れない。
 だから人は求め続ける。自らが目指すべきものを。
「……」
 風が吹き荒れている。
 ビルの屋上からの景色はまるで岩砂漠と変わらない光景にも思えた。
 地面を這うように流れている黒い雲の隙間に滞る残滓。
 溶けた古い鉄の色。
 濁ってそれがゆっくりと色彩を失っていくのを、彼は見つめている。
 タイル張りの日に焼けた屋上は、一世代前のビルの雰囲気を感じさせる。
 隅の方にさび付いてざらざらした物干し台が見える。
 彼が立っている側には、球形の古びた給水タンクがある。
 ただの一度だけ、彼の顔に吹き付けた風に顰めっ面を浮かべた以外は貌色を変えない。
 迷いのない視線は、しかし決して純粋ではなくて。
――陽が沈む
 何かが同居しているような濁りを見せながらも決してその意志を揺るがせる物を感じさせない。
 混濁しない意識と、その明確な方向性。
 それは、それを持つ事が出来るのは、決して後悔する事のない強固な想いがなければならない。

  ぴぴ ぴぴ ぴぴ ぴぴ ぴぴ

 彼は何度目かの呼び出しを開始した携帯電話を、懐から取り出した。
 ぴ、という非常に簡単な電子音が耳元でがなり立てた。
 同時に響く、ようやくつながったという焦りと怒りが混じる罵るような声。
 だが彼はその言葉に決して反応する事もなく、皮肉った笑みを浮かべることすらしなかった。
「……もう俺は戻れないんだろう」
 返事を待たず、彼はそれだけ一言言うと気軽にそれを放り投げた。
 くるりと音もなく一回転して、ビルの縁に当たるとプラスチックの割れる独特の音が響いた。
――いかれた
 彼は、同時に電子部品でも最も重要なものも一緒に砕けたのを知った。
 何気なく視線を向けると、電話は縁でバウンドして落下しようとしていた。
 僅かな放電。
 バッテリーから空中へと無駄にエネルギーが漏出していく。
 その非常に小さな力の流れを最後に、彼の知覚出来る範囲からそれは姿を消した。
 何もない虚空へと。
 ただビルの谷間へと。
 それを何の感情もない目で見つめて、彼は風景に背を向けた。
 コンクリートの埃と罅が足の裏を打つ。
 はげたタイルが、コンクリとかみ合ってきしむ。
 やがて彼の口元に笑みが浮かび――四角く切り取った闇の中へと彼は沈んでいった。

 岡崎は電話を叩き付けるようにして切った。
――……出来損ないが
 彼はいらいらしていた。
 普段部下の前では見せないような険しい顔つきで、先程まで響いていた電子音を振り払うように首を振った。
 はっきり言って失態としか言えないような事件だ。
 初めは――そう、一番初めにはこんな事になるはずがなかったのに。
――予定外だ。矢環の回収にも時間がかかるだろうし
 自分の周囲が全て埋められていくような気がする。
「畜生」
 彼に似合わない言葉は喉を絞り尽くしたようなかすれた声で、部屋の中に染み渡った。


 大学病院はあまりに閑かなところだった。
 転院した木下待っていたのは窓のない部屋ではなく、ごく普通の個室だった。
 事実上の実験動物扱いだとしても、ここはむしろ住み良いところだと言えるだろう。
 転院してすぐ様々な検査を受けることになった。
 カルテも全く新たに作成される――『奇病』、それも突然ミンチになって死ぬという病気だ。
「べつに、そう言う病気が珍しい訳ではありません」
 検査の途中、気になった木下の質問に彼はそう答えた。
「有名な出血熱の類には、内臓から何から液状になってしまうものもあるんですよ」
 勿論そんな危険な病気は簡単には流行らないようになってるらしい。
 たとえばエボラ出血熱は嫌気性のため、体液接触でしか感染できない、とか。
 それもアフリカの奥地に生息する一部の猿にしかない病気だった、とか。
 人類が、それも世界の各地を行き来するうちにたまたま触れた病気――そう言う物が多いらしい。
「大抵の場合」
 医者は続ける。
「発見が遅れたそんな『旧い』ケースは、大抵の化学薬物に耐性がありません」
 変種が産まれるケースではそうは行かないが、ウィルスが薬物に一度も会わなかった為向こうも免疫がないのだ。
 ただ症状の進行が早く薬での治療が間に合わなかったりする場合もある。
「今回……刑事さんが立て続けに同じ症状で倒れたとか、今ちょっと大変なんですよ」
「え?」
「駅周辺で、昨日何人も同じ病気らしい物にかかっててね。うちで抱えきれないぐらいで」
 それでだろう。
 納得はできるが、それでも一つ気になることがあった。
――矢環のことだ。
 矢環には書類仕事の指示しておいたはずだ。
 何故その意味不明な病気で倒れて――それも、駅周辺に出没して――いるのか。
「ただ、もし病気だとしても木下さんの場合はかなり軽度ですよ。酷い人は意識がありませんから」
 一通り検査を終え病質に戻る前に、医者はそう言った。
 高熱が出て、脈がおかしい患者が一番酷いそうだが、彼はかなり高齢なのでどれが病気の症状なのか判らないという。
「矢環…もう一人の刑事ってのは、どうなんです」
 医者は眉を顰めて苦い表情になった。
 その貌の意味を考えるまもなく木下は続ける。
「そいつは俺の部下だ。是非知っておきたい」
「それは……」
 医者は難しい貌を続ける。
「酷いには、酷いです。彼も高熱が出て昨晩から意識不明です」
 そう言うと渋い表情で首を振った。
「……原因を、追求するしかないんです」
 研究者と医者を掛け合わせたような彼は、その若さの割には渋い表情を浮かべて拳を握りしめた。
 それ以上は語らず、検査を終えた彼は病室へ向かうことにした。
――まだ自分は『疑い』の範疇なのか
 しかし判りそうな物だ。
 殺人か病気か、など。
 木下はため息をついて後頭部をがりがりとかきむしった。
――柊実隆……お前は、何かを知っているのか?
 警察病院より遙かに優れた施設。
 清潔でそれでいて生活感を消さない程度の雰囲気は、患者を和ませる物があるだろう。
 病室のドアの見た目も、無機質なものではなく木の板を張り付けた物になっている。
 もしこの病院を設計した人間が意図していたとしたなら、彼は恐らくかなりのセンスを持っているだろう。
 そこまで考えてから、扉を開いた。
「――!」
 が、そこで硬直した。
 自分のベッドが左手に見える。
 右には小さなキャビネットと、天井から下げられたような棚がある。
 見舞い人の為の椅子もある。
 もしそこにいたのが署の人間だったらここまで驚くことはなかっただろう。
 じわりと額に汗が伝う。
 誰も寝ていないベッドの上を見つめる、あの少女は。
『………待った』
 うつむいていた少女の顔がふい、と上げられて繊細な横顔が――彼に、向き直る。
 人形のように白い肌。
 異国の蒼い瞳に、意志の光はない。
 そして体中に走るノイズ――
「きさ……」
『まず扉を閉めて、入ってきて貰えないか』
 馬鹿丁寧な口調に、木下は叫ぶのをやめた。
 そして思い出す。
 自分が倒れた時に、誰かの声が聞こえたことを。
 今目の前にいるこの少女だって、自分の中にしか見えていないのかも知れない。
――言うことを聞いて、話してみるべきか
 このまま扉を開けたまま怒鳴ってもいい。
 近くにいる看護婦がきて、少女が見えるのであれば問題ない。
――いや、それはそれで問題だ
 木下は憮然とした表情で、言われたとおりドアを閉じて中に入った。
 すると少女は穏やかな貌で笑みを湛える。
 無邪気な――本当に邪気のない笑み。
『そのようすなら――私の声が聞こえているのだな』
 一度だけしか彼女の姿は見ていなかった。
 だが、あんな強烈な印象を与えられれば、嫌でも彼女の事は忘れない。
「それが、どうかしたのか」
『済まない』
 顔を曇らせ目を伏せる。
 その仕草に華奢な印象を受けるが、改めて非現実的な光景だと彼は感じた。
『しかしいつか巻き込まれる。せめて貴方がこちら側である事は良かったのかも知れない』
 『こちら側』というと少女は目を細めて木下を見つめる。
 その仕草を、木下はどこかで見かけたような気がする。
 どこで、いつ――そしてそれがだれなのか判らない。
「こちら?何を言っている、それにお前は誰なんだ」
『誰?』
 少女は小首を傾げて宙に視線を彷徨わせて、口元を吊り上げる。
『では貴方は誰?』
 鼻にしわを寄せ、思わぬ回答に喉に息を詰める。
 怒鳴りかかる直前の彼に、少女はさらに立て続けに質問を浴びせる。
『何のために生きているの?存在意義は?貴方が人間であるという証拠は?』
 彼女の表情に揺らぎはない。
 まるで本当に――いや、そもそも彼女という存在がなんなのかは判らないのだが――人形のように。
『木下憲一、警部補。身長172cmと日本人にしては大柄で、射撃は署内随一。どちらかというと頑固なんてプロフィールはいらない』
 彼女は大きく両腕を開き、まるで神託を受ける巫女のように自分の胸の前で両手を重ね、祈りを捧げる。
『でもそう――もし私の言葉が聞こえるのなら、私は貴方の相似形と言えるだろう』
 相似形。
 どこか遠くで聞いたような言葉。
「相似……だと?お前が、俺の」
 からからに喉が渇いていく。
 自分が言葉を紡いでいる気にすらなれない。
『そうだ。以前は素質という言葉で誤魔化したようだがな』
「き……貴様……」
 しくりと頭痛がする。
 自分で見ている世界が、揺れるように戸惑う。
 今のこの感情はなんだ。
 怒りか?
 悲しみか?
 それとも――憎しみだろうか。

  ……さようなら

「俺に何をした」
『私が何かを行った訳ではない。貴方が望み棄却した事実が私という幻像――相似形になっているんだ』
 そう言うと少女は僅かに苦笑いを浮かべた。
 その表情は複雑で、まるで自嘲の笑みを浮かべているようにも見える。
 でも――あまりにその姿は幼い。
『多分これが私の存在理由――作られた理由なのではないか』
 彼女は初めて瞳の中に色を作った。
 今まで閉じていた瞳を、まるで開いたように。
 クリアに解放された、そこに覗く蒼い蒼い――一瞬、木下はその瞳の奥に穹を感じた。
『私が姿を持っているのは、偶然の産物。私にはプログラムされた行き先があるだけ』
 シャッターが閉じるようにその穹が消える。
 再び意志のない光を湛えた瞳が木下の顔に向けられる。
「――鏡」
 木下の言葉に彼女は笑みで応えた。
『――よく、喩えてくれた』
 そして少女は一歩退き、地面からゆっくり離れる。
 音もなく、まるでワイヤーで身体を吊り上げられるように。
『この姿は媒介に過ぎない。だから、媒介の持ち主の元に返らねばならない』
 発光するように白く。
 背の窓に吸い込まれるように崩れていく。
『一つだけ伝えたい――伝えたかった』
 もう輪郭のほとんどを失いながらも少女の声は確実に聞き取れる。
 かすれることも、聞き取れないと言うこともない。
『――全燔祭が行われる――貴方は、祭司の側になったのだ――』

 そして少女の姿は。
 窓から溢れる光にかき消されるようにして。
 窓へ吸い込まれるようにして。

 砕けて。

 消えた。


 木下はまるで後を追うようにして病室の窓に駆け寄る。
 乱暴に窓のサッシに指を這わせ、鍵を開けようとするのももどかしくけたたましく開く。
 でも勿論、彼女はそんな事では追うことすらできず。
 彼は、天を見上げた。
 先刻まで日が差し込んでいたと思ったのは、やはり少女のせいだったようだ。
 空を覆う濁った色の雲しか見えないのに、木下はそれでも何かを見つめるようにそれを見上げ続けた。


   それでも 蒼穹は みえない――