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Holocaust ――The borders――
Intermission

ミノル 1

 夢。

 夢というものを見るようになった。
 夢とは、いろんな人間の言葉を借りれば眠っている間に見るものだという。
 眠りは必要ない。
 眠りというのは生命に必要なものであり、神経反応を回復する手段の一つである。
 生体細胞というのは丈夫なようで、かなり脆い。
 実際人間の全身の細胞は一週間と持つわけではない。
 一週間後に同一人物と出会ったとしても、もう全身どの部分を見ても完全に細胞は新旧入れ替わってしまっている。
 正確な事を言うと、一週間会わなければ別人とも言えるのだ。
 その、細胞の回復には神経が大きく関わるという。
 一度神経が興奮状態になると、回復にしばらくかかる。
 数度も興奮させてやると興奮状態と平静の状態が区別できなくなるために、『鈍く』なる。
 興奮状態に発生する物質の補給の為にも眠りという行為が必要になるのだ。
 ならば私には眠りは必要ない。
 そういう風に設計されているからだ。
 充電する際にも眠りという行為そのものに理由はない。
 だが、私の記憶には眠るという行為の記憶がある。

 だから、私は眠る。

 眠っている間も、電力を使う。
 私は眠っている間にメンテナンスプログラムを起動し、まるで人間のように回復を求める。
 壊れる訳でもないし、壊れているわけではない。
 定期的に交換しなければならない部品も、私には存在しない。
 せいぜい電池を交換しなければならない程度だ。
 これがCyber-nauts社の義肢の技術かと思うと、反吐が出る。
 何故か?
 理由はそれほど難しくはない。私の身体の維持だけでなく、人間がこの身体を作り上げたという事実が私には許せない。
 人間に、この身体の維持を任せなければならないというただ一点、そこに関して私は二律背反を感じる。

 この眠りという行為は、では無駄なのだろうか?

 最近富みに気にするものだから、私までその癖がついてしまった。
 私は作られた機械なのだから、最適化するのは当たり前だというのだ。
 そうではない。
 私は作られたからこそ、無駄なのだ。
 無駄な行為を行わなければならないのだ。
 そもそも――いや、私の事はこれ以上はそれこそ無駄だ。
 水掛け論、そうとってもらって結構だ。

 私は眠りを無駄だと思えない。
 思っていない。――特に、夢を見るようになってからはそう感じるようになった。
 メンテナンスプログラムを走らせているうちは私は体の機能から切り離される。
 ここでいう『私』とは、身体の制御を司るプログラムと同等ではない。
 人が人工知能と呼ぶ選択式情緒構成プログラムでもない。
 『私』とは、記憶の海から生まれた私という個人を指して言う。
 無論、今の科学技術では偶然の産物としてしか認識されないだろう。
 そのとおりだ、私は否定しない。
 トリガーとなったのは確かに人工知能かも知れないが。
 しかし、このように夢を見るのは人工知能の力ではない。
 機械的に組み合わされ、離れ、動き、漂う私の脳が蓄積した記憶からシュミレーションするのだ。
 この記憶の逆流こそが夢――だと、私は考えている。

 空を飛ぶ夢。
 いや、意志のある飛行とは違う。
 私の意志は、ただ視界を追うだけに過ぎず、それも速度を計算したりするわけではない。
 相対的な速度として言うならば、とても計算できるようなものではない。
 ただ考えるのは、自分が何処に向かっているのか。
 視界の届く限り白と青のコントラストしか存在しない。
 当然だ、これは夢なのだから。
 夢を夢と自覚して見ることができるのは、これは判らない。
 多分私の脳がそう言う風に構成されているのだろう。
 だがこれだけは言える。
 私は穹の彼方へと永劫に堕ち続けている。
 視界は見渡す限りの青空。
 いつまで経っても地面が見えないのが、その論理的な証拠だ。
 カオスで有名なマルデンブロの図形のように、白い雲が次々に視界を過ぎっていく。

 この夢は、きっと空を飛んでいるんじゃない。
 穹に向かって墜ちていくんだ――

 でもだとするならば、この記憶はいったい何の記憶なんだ。


Intermission : ミノル 1


「ミノル」
 凛とした声。
 鈴を鳴らしたような、という表現が似合う子供のような声。
 だがどこか不自然な響きのあるそれは、確かに自分の名を呼んでいた。
 だから彼は眠そうな顔を上げて、声の方を向いた。
 そこには、少女の姿が自分を見下ろしている姿があった。
「起きたか?」
 声の色から、決して怒っている風ではないのが判った。
 まるで、悪戯している子供が呑気に感想を聞いているみたいに。
――尤も怒っているのであれば呑気に眠ってなんかいられないだろうが。
 ここは貸し切られた安ホテルの一室。
 ダブルのベッドの上でミノルは体を起こした。
 だるい。
 全身の筋肉は悲鳴を上げて、一斉に抗議を繰り返す。
「……ああ」
 返事を返すのが辛い。
 彼女――名前は判らない――が、椅子の上で休憩しているような格好で、ベッドに横たわった彼を見つめていた。
 一瞬錯覚する。彼女は昨晩からその格好で自分を一晩中見つめていたのか、と。
 それはあり得ないのに、何故かそれが正しいように思えてしまう。
 実際にそうであっても彼女には何の支障もないだろう。
「だったらさっさと支度をしろ。……言っておくが、お前に無駄飯を喰らわせる余裕はない」
 冷たい物言いだが、決してそれに反発を覚えないのは、何故だろうか。
 理由がないからかも知れない。
 いや、他に考えられない。
 理由があるなら反発して、たとえ自分が死ぬとしても彼女を殺しているだろう。
 でも、彼女を殺すことに理由はない。
 たとえ、他の誰かを殺さなければならないとしても。
――でも、殺すという表現は適切ではないな
 なにより彼女は、今のところ自分の上司、雇い主にも等しい存在だ。
 無言のまま着替えて、彼女の後ろに立つ。
 返事もなく、ただ二人はそのまま部屋を出る。
「今日で日本を発つ」
 彼女の指示はいつも端的で短い。
 わかりやすい代わり、決してその理由は判らない。
 判るはずもない。彼女の頭の中にあるデータベースで数年後の各一時間毎のタイムスケジュールまでできあがっているのだから。
「……判った」
 だから、ミノルの返事も簡単なものだ。
 返事を返すとついっと少女が頭を上げる。
 そして、まるで何かを思い出すように振り向く。
 その表情は――嬉しいのか、明るい笑みを湛えている。
――感情があるのか
 それは確認ではなく疑問。
 初めて会った時も彼女のことには疑問を覚えた。
 彼女は彼にとって、疑問でできている。
 ただ一つだけ言えるのは――彼女は、完全に人間ではない。
「慣れてきたな」
 僅かに口を吊り上げると、再び顔を前へ向けた。
「……まぁな」
「私としては、以前のお前の方が面白かった」
 思わず笑っていた。
――以前の方が?
 もしそんな状態が続けば死んでいる。
 いや、生きながらにしてただの操り人形になっていただろう。
 彼のその思考を読んでいたように急に不機嫌そうな表情を浮かべる。
「お前がどう思うかは判らないが、操り人形を好まないのは確かだ」
 きっと鋭い視線を振り向いて突きつけて、彼女は再び正面を向いた。
「だからだ。……今度からは、質問は許すぞ」
「はいはい」
 ミノルは両肩をすくめて適当に返事を返した。

 この少女――正確には少女型義体は、Cyber-nauts社の医療器具試作である。
 義体とは義肢、人工臓器の塊のようなものである。
 特殊な合成蛋白質にナノマシン技術を施した、極めて人間の身体に近い再生能力を持つ。
 このためにこの義体はメンテナンスフリーを実現している。
 少女型を試作した――別に、他意があってのことではない。
 Cyber-nauts社は元々はウェアラブル=コンピュータの先駆けの会社であったのが、インプラント型へと移行するに従って医療器具も手がけるようになったのだ。
 義肢、人工臓器はもちろんこれを制御・統括するプログラム等はマイクロロボットの技術を利用して。
 さらに、世界に先駆けたマイクロマシンの開発から、今では薬並に使用できるナノマシンまでの技術を持っている。
 米国では有名なハイテクノロジーの結集された大企業だった。
『娘を救って欲しい』
 大統領がそんな願いを口走るのに充分な。
 彼女は重い内臓疾患を煩い、入院生活を続けていた。
 だが改善の兆しは見えず、投薬の結果彼女は胃ガンになってしまった。
 中学生にもならないうちにその命は一年を限った。
 もしCyber-nauts社が彼女を救えば、世界的に大ニュースになっただろう。
 だが大統領の幼子は助からなかった。
 その義体が届く直前、病院はテロリストにより木っ端微塵に爆破されたからだ。

「ミノル」
 ミノルのことを呼ぶ時、彼女は明るい声を出す。
 明るい空、昨日の夜中のように澄んだ空気。
 その中をごちゃごちゃと行き交う――人間達。
「ここ何日か、充分に堪能したようだな」
 駅裏と呼ばれている地区を抜けると、彼女はミノルの真横に来ると腕を絡める。
 この方が見た目に目立たないからだ――別の意味では目立つが。
 だが少なくとも、少女に先導される男よりは自然である。
「……あまり具合は良くない」
 顔を僅かに引きつらせて見下ろす。
「足りないか」
 元大統領閣下の娘の顔をした少女は、にこやかに笑みを見せながらミノルを抉ろうとする。
 彼女の言葉の意味を察して、あからさまにしかめっ面を見せる。
 彼の様子に満足なのか再び顔を前に向け、含み笑いを漏らす。
「『奴』のもっていた量産施設ではこれ以上は無理だ。……アジア圏内で、良さそうなところを見つけてある」
「日本を出るって言うのは、そのためか」
「――他に何があると言うんだ」
 一転して不機嫌そうに良い、怒りをあらわにして腕を捻りあげる。
 ぎちぎちと筋肉が軋むが、その程度ではミノルもたじろく事はない。
「我々が逃げるためにここを出るとでも?ハッ、どうせこの世界に逃げ場などない」
 足を止め――結果的に足が止まって、彼女は目を剥いてミノルを睨みあげる。
「ただ進むしかない――進むより他、逃げ道などない」
「……判っている」
「返事だけは上手くなったな」
 一瞬彼女の貌が緩む――と、同時にミノルの全身が四角い箱に収められているように動かなくなる。
 全ての筋肉は硬直し、ありとあらゆる関節には金属を入れられたようになりそこに立ちつくす。
 心臓も横隔膜も完全に停止した状態――心停止と呼吸停止の状態になったミノルの顔が一気に真っ白になる。
「…言わなかったか?お前の命は私の掌の上にある。機嫌を損ねない方が良い」
 耳元で囁くように腕に身体を押しつけて呟くと、どこかでスイッチの切れるようなぱちんという音が響いた。
 同時に心臓は脈動を開始し、空気が音を立てて肺に流れ込んでくる。
 意識が飛びそうになって足下に崩れ込んで、両手を地面につく。
「特に、お前の腕を始末屋に切り落とされた時はどうしようかと思ったぞ」
 今彼の腕はある。
 どちらにも傷一つ残っていない。
 少女が近づいてくる気配にも、むせ込んで顔を上げることすらできない。
「お前は私の大切な木偶だ。勝手に壊れられては困る」
 思わぬ近くから声が聞こえて思わず顔を上げようとして、首にからみつく腕に押さえつけられる。
 視界の端から――彼女の顔が。
「お前を壊すことができるのは、私だけだ――」


 彼女の目的は、まだ理解できなかった。
 反逆に値する理由でもなかった。
 だが、この『実験』が終われば日本を離れることだけは理解していた。
 だから平和な日本に住んでいる、平和に残されていた弟が目覚めるのを手助けしてみた。
――どんな貌をするか、楽しみだった
 なかなか楽しい反応だった。
 次に会う時には、もう少し楽しめるかも知れない――


 今から数える事およそ一年前、一つのある実験が行われていた。
「……ボディガードか」
 自由契約の単独傭兵であるミノルの元に来た指令は、単純かつ彼に似合わない仕事だった。
 初めから人間兵器として育て上げられたミノルにとって、米軍特殊部隊一個班との戦闘でも物足りない。
 ボディガードというのはライフル狙撃、急な襲撃に対して身を盾にするという役割を持つ。
 だからこそ、単独でのボディガードなどは存在しない。
 世に言うSPはその代表例だ。
 尤も――敵の攻撃を察知して全て先制できるなら、盾になる理由はない。
 派遣先は日本。当然、彼が選ばれても不思議のない選択である。
 日本人のエージェントは極端に数少ない。
 これは部隊の性質上どうしようもないことだ。
 兵器産業にとって日本ほど開発の遅れた国はない。
 市場としても開拓できない、手先の技術力だけで使える兵器を作らない、まさしく後進国だ。
 軍産共同体として生まれたHephaestusにとっては日本ほど攻めるに難しい場所はない。
 政治的にも面倒臭いからだ。
 人種差別も激しい。
 彼らは、自分と同じ民族、同じ顔でなければすぐに排除したがるからだ。
 武器の持ち込みなし、できれば現地の人間に目立たない方が良いとすれば――ミノルは最適な選択になる。
 しかしそれ以前に依頼人が彼を名指しで指定してきたのだ。
 彼も断る理由なく、旅客機に乗って日本へと向かった。
「コーヒーはいかがですか?」
 声をかけられて、彼は感慨から頭を上げた。
 Hephaestus専用の個人旅客機でありながらスチュワーデスが乗り込んでいる。
 ミノルは僅かに首を傾げて彼女の貌を見上げる。
「いや、仕事の前に刺激物は控えることにしている」
 身体がうずくからだ。
 彼女が去るのを背中すら見送らずに、再び椅子に身体を沈める。
 訓練と純粋な食料により育ってきた彼にとって、擬態する必要のない時には兵器でしかない。
 嗜好物も、まして男女の区別すらない。
 あるのは――目標と、それ以外の邪魔なものだけ。
 妙な刺激がくわえられれば脳内麻薬のバランスが崩れて、思わぬ暴走を開始してしまう。
――それも、この『血』のせいか
 彼が今ここにいるのも。
 彼が幼い時に目をつけられたのも。
――日本……か。久しぶりだ
 あいつはいるだろうか。
 彼は、高校生であろう自分の兄弟のことを思い浮かべていた。
 日本国某所、とある小さな貸家が目的地だった。
「良く来たな」
 出迎えたのは白髪髭の年寄り――実はまだ四十代だというのは、この後に判った――と、小さな機械のついた作業台。
 いや、作業台というよりも、この男の言うとおりベッドという呼称の方がしっくりくる。
 見たこともない奇妙な機械と、コンソールらしいパネルが並んだそれは、革張りで中央に向けてくぼんでいる。
「ベッド?」
「ああ。これは今私の研究している素材の為の『ベッド』だ」
 成る程、子供一人が眠るには丁度良い大きさだろう。
 研究の内容については全く知らされなかった。
 別に研究の内容にも全く興味はない。
 ただ、この男を護ればそれで良いのだ。
 この男がわざわざミノルを名指しで指定してきたこと、ただその一点に限って、彼は判らなかった。
 ミノルは博士らしいこの男を知らない。
「博士。……この俺を名指しで呼んだ理由は?」
 一瞬怪訝そうに眉を寄せて、やがて鼻を鳴らして笑った。
「俺の顔を覚えていないような薄情者に育てた覚えはなかったんだが」

  ずきん

『最高の素体だ』
 その一言が、突然脳裏にひらめいた。
「『獣人計画』の素体第一号認定者だろう」
「貴様」
 博士は笑いながら背を向ける。
「お前に護られるのは最高の悦びだ。…自分の最高傑作だからな」
 笑いながら扉の向こう側に消える男から視線をそらせると、ミノルは部屋を見回した。
 何故か怒りはわかなかった。
 獣人計画――Project Lycanthropeはそう呼称される一連の兵器開発計画である。
 ミノルもその全容を捉えているわけではないが、決して関わりのないことではないので知っている。
 今博士が研究しているこれも、もしかするとその一端なのだろうか。
――今度も子供を実験体にでもするつもりなんだろうか
 彼はぼんやりとそんな事を考えていた。


 ボディガードなど、はっきり言うと必要あるのだろうかと感じた。
 そもそもこんな極東の一島国の片隅で隠れて研究している理由はどこにあるのだろうか。
「不便ではないのか」
 だから二日もしないうちに奇妙な感慨を覚えた。
 ぼそりと呟いた質問だったが、彼にとってはかなり重要な事だった。
 昼下がり、研究室をうろうろする博士に向かって吐きかけた質問を、彼は足を止めて受ける。
「不便ではないな。少なくとも必要なものと必要なことは今全てここにある」
 それが何を意味しているのかはよくわからなかった。
「お前は、私の研究を護ればいい」
 そのために呼んだのだから、とそれ以上のことを語らずに研究を続けた。
「待てよ、なら何故呼んだ。誰かに狙われているとか、今まさに切迫した危機があるわけじゃないのか?」
「危機?そんなものこの日本にある訳ないだろう」
 彼は手を止めて、ミノルに向きなおった。
「私がここで研究を続けるためにはそれなりの理由が必要だ。……ここで研究を続けなければならない」
 博士は、まるでぶつぶつと独り言を言うような気配を見せてついと顔を上げる。
 皮肉った嫌みな顔。脂の切れた、かさかさした乾いた表情。
「お前はその理由のためと、いざという時のための駒だ」
 その日以来、何を言ってももう大した返答はもらえなかった。
 ミノルも、それ以上何も聞こうとしなかった。
 彼が次に質問を繰り返したのは、それから数ヶ月後のことだった。
 新聞に載らない事件が、彼の知り得る情報の中で繰り広げられた後のことだ。
「なんだこれは」
 話題にあがっていたCyber-nautsの義体だ。
 初めて見た時には、死体かと思った程精巧な作りをしている。
「高性能なダッチワイフさ」
 下卑た笑みを浮かべながらコンソールを叩く。
 『ベッド』に寝かされたそれは電子音を弾いて頭部をスライドさせた。
 顔の部分が額から切り取られたように浮かび、頭頂部がまるで蓋のように大きく開く。
 精巧なだけに、その不気味さはミノルですら思わず目を背けた。
 だが中身は血液にまみれた頭蓋骨などではなく、艶のない真っ黒いフレームだった。
 金属のようではない。
 中身は――ここで言う、『中身』など入っていない。
 すなわち、予定通り義体のみがここに運ばれてきたのだ。
「外観もおよそ注文通りだな」
「……何故少女型の義体を」
 博士は目を丸く見開いて、真横にいるミノルを見返した。
 ミノルはその時の博士の顔を忘れられないだろう。
 瞳の中に光はなく、血走った眼球はせわしなく動き、何故か謂われのない恐ろしさを感じた。
――畏怖
 そう捉えるような、本能的な恐怖だった。
「今から男性型を作らせるには、時間も金もなかったからな」
 その点顔の整形だけなら安いものだ、と『元』大統領の娘だった義体を眺める。
「……まさか」
 さてね、と博士はとぼけると、義体をベッドの上に寝かせたまま、彼は構造を解析し始めた。
 特別な仕事もなく研究室にいるミノルは、それを一部始終見つめることになった。
 端から見れば、危ない医者のようにしか見えない。
 死体の少女の頭を切り開き、その中に幾つも電極をつっこんでいるのだ。
 古く、小説や漫画に出てくるような狂科学者という言葉がぴったりだった。
 少女が片言の日本語を話し始めたのは、それから二週間。
 やがて買い物に出歩くようになるまでさほども時間は必要としなかった。
 こうして名もなき少女の姿をしたロボットは、完成した。

 半年経った時だろうか。
 博士は一切契約を切ろうとせず、研究に没頭していた。

 はっきり言うと、ミノルは呆れ始めていた。
 ただ、契約のこともありここから離れることもできず、ただ食事をして研究を見続けるだけの毎日を送っていた。
――一体何をするつもりなんだろうか
 聞いても、もう何も教えてくれない。
 だから彼は、博士の素性を調べてみた。無論、自分の所属する傭兵部隊のデータベースを利用した。
 博士の名前は柊 宰、数少ない日本人エージェントの一人だ。
 過去に獣人計画に参加し、現在ナノマシン開発の第一人者として研究を続けている事になっている。
 それが、こんな極東で人形遊びを続けているのだ。
「このロボットには名前は付けないのか」
 時々検査でもしているのか、ベッドに寝かせてコンソールを叩くことがあった。
 服を着たままだということは、無線で内部と通信ができるのだろうか。
「名前なんぞ必要ない。……まだ呼ぶ必要がないからな。つけられて情がわいても困るぞ」
「誰が」
 ふん、と鼻を鳴らして両肩をすくめると、ミノルは研究室を出た。
――義体なんか使って人造人間を作る事に何の意味があるんだ
 獣人計画は、人間兵器を作り出すためのプロジェクトだった。
 彼らの多くは普通の人間のような社会生活を営むことは難しいが、サバン症候群に代表されるように、特殊な能力を持つ。
 これらのうち、この『獣』としか呼びようのない異常者『獣人』を兵器化させる為に世界からかき集めていた。
 獣人の特徴は、前頭葉という感情を司る部分と、通称『鰐の脳』という旧皮質が通常より発達している事が上げられる。
 だがそのほとんどはコントロール不能なただの異常者に過ぎず、全く何の役にも立たない机上の空論として立ち消えになった。
 その時のデータの一部を拝借して、今では超能力者の研究も行われているという。
 そのため、凍結されたプロジェクトではない。
 未だに研究は続けられているはずだ――まさかこんな、本来の意図とは違うものになっているとは思ってもいないだろうが。
 『獣人計画』の成果は、大きく溜息をついた。
 しばらく時間を潰して研究室へ帰ると、ベッドに彼女が眠っていた。
――いや、その表現は正しくない。横たえられていたまま、博士の姿が消えていた。
 別段珍しくもない光景に溜息をついた時、少女の顔が引きつった。
――!
 見間違いか、と思う暇もなく、少女は身震いしてベッドから起きあがった。
 半身を起こして、両足をそろえてベッドから下ろすと、買い与えられたワンピースをチェックするように引っ張る。
 そして、顔を起こしてミノルに気がつくと、にっこりと笑った。
「……おはよう」
 頷いてベッドから降りて、彼女はミノルの側へと近寄る。
「おはようございます。……ミノル様、お父様は近くにおられませんよね」
 いつになく人間じみた動きで、彼女は訪ねてきた。
 数日前まで無邪気な表情をしていたはずの彼女の顔は、何故か空恐ろしい笑みを浮かべている。
「あ、ああ。…博士なら、近くにいない」
「お願いがあるんです」
 両腕を自分の胸の前で重ねながら、ゆっくりと鈴を転がすような声で言った。
「父を殺してください」



 彼に選択の余地はなかった。
 ゆっくりとのびてくる彼女の指が、僅かに彼の頬に触れた。



「どうした」
 夢から覚めるのは、いつも彼女の声が聞こえる位置で。
 真正面から聞こえた声に、ミノルは眼を開いた。
 彼女の表情は上位者の蔑みに満ちている。
 その笑み――人工の瞳が彼を見つめる。
「――?!」
 下半身に感覚がない。
 両腕に力が加えられない。
 正確に言うと――鳩尾よりも下の感覚が、まるで闇に埋没しているように存在しない。
 まるで切り取られているかのように。
 肩と腕の境目、上腕から先が全く存在しないような感覚。
 胸から首、顔にかけても半分ほど麻痺しているようで、ゴムの袋を被っているような変な感じがする。
「…昔の夢、でも見たのか?」
 彼女――視界の中だけでも彼女は肌を曝している。
 びくん、と僅かに痙攣させて眼を細めた。
 彼女の腕が首筋に伸びてくる。
 糸のように細められた眼球に宿る鈍い光。
 ゆっくり顔が近づいてくる。
「先に『行』ったのか?…今回は、記憶がかなり深くてトレースできなかった」
 小さく細い腕が、身動きのままならない彼の首筋から頭の後ろに差し込まれる。
 こつん、と音を立てて彼女の額が押し当てられる。
「…全く。あんまり古い話を思い出されても困る」
 両手で側頭部を包み込むようにして、彼の頭を抱きしめる。
 なめ回すようにして差し込まれる偽物の舌。
――全てに、彼女の意志が宿っている。
 初めから抵抗は無意味だった。
 全身に走る苦痛、突如襲いかかる目眩、手足に走る感覚不随。
 そして、ブラックアウトする意識と途切れる記憶の向こう側にはいつからか、彼女が住み着いていた。
――多分夜中だ
 彼女が『記憶』の通りに行動するのは確かだから、飛んでいたのは数十分というところだろう。
――だから、もう終わるはずだ
 声のない吐息が漏れて、彼女は身体をのけぞらせた。
 彼女が離れる瞬間水よりも細かな飛沫が――見えた、ような気がした。

 かろうじて残されていた彼女の右腕が、余韻の痙攣を残して身体を彼の上に落とす。
「……満足か?」
 ミノルは彼女の頭を左に見ながら呟いた。
 両腕には感覚が戻りつつある。
「――いらないのか?…死ぬぞ」
 くすくすと笑いながら彼女は僅かに身体を浮かせて、彼の前に自分の顔を持ってくる。
 間違いなく自分が上位にいるのだという、余裕。
 油断ではなく完全に自分が掌握しているのだという――支配者の貌。
「いらないと言っても無理矢理お前の脳髄に詰め込んで、『人形』にすることだってできる」
 彼の頭越しに手を伸ばし、筒をつまみ上げてみせる。
 シレット――無痛注射器だ。
「恨むな。私が気がついた時には既にお前もキャリアだった――ただ、それに気づかなかっただけで」
 かちんとシレットが音を立てて転がる。
 まだ全身の感覚は戻ってこない。彼女のおもちゃにされたままの――人形の身体。
「…どうした?この身体に不満でもあるのか?」
 そう言って彼女は自慢げに胸を張り、彼の腹の上で髪の毛をかき上げてみせる。
「大統領閣下の娘をほぼ完全にコピーした逸品だ。…尤も、この年で既に処女ではなかったが」
 そう言って僅かに身体を浮かせて、改めてミノルのすぐ側に横たわる。
 右腕に僅かな重みを感じ――彼女が、自分の腕を枕にしたことに気がつく。
 不可解だった。
 彼女は人形、AIを人間に似せて載せていたとしても恋人の振りをするために自分の親を殺したのだろうか。
 そもそも、人間と変わらない行動をする理由は何なんだろうか。
 不必要なはず――ミノルは今の自分の立場が判らなくなっていた。
「こんな行為に何の意味があるんだ、お前は人形だろう?」
 ぎしりと全身の骨が軋む。
 まるで今の彼の言葉に抗議するように。
「ふん…その高性能なダッチワイフに毎晩抱かれている気分はどうだ?」
 いや――文字通り抗議していた。
 骨という骨に幾本もの細い針を突き立てたように、全身に声に出せない程の激痛が走る。
 真っ白になりそうな意識が、今度は強制的に覚醒されて新たな激痛を与えられる。
「どうだ、と聞いている。…答えられないか?」
 ばちばちと電気を消す音、瞬くように明滅する視界。
 言葉を紡ごうとしても言うことを聞かない口。
 やがて冷たく細い指が額に押し当てられて――やっと、目が醒めたように感覚が戻ってくる。
「お前に判らなくても良い――お前は、生き延びるためだけに私の側にいればいい」
 彼女は呟くように言い、笑みを浮かべた。
 何故か、掛け値なしの笑顔だと、彼は直感した。
 指が離れて、すっと意識が遠のく。
 眠りだ――いつも、こうやって夜が訪れる――。そして、次の日の朝、彼女の声で目が醒めるのだ。
 ミノル、という自分の名前を呼ぶ声で。

 いつの間にか定まっていた。
 だから、いつの間にかその道を歩くのが普通なんだって思ってきた。

 誰が決めたわけでもなく。

 物心ついた時から、俺は銃を握っていた。
 気がつくと、銃を必要としなくなっていた。

 ヒトヲコロシタ。

 それは呆気のない事だった。理由は明白だ――殺せ、と言われたから。
 もし殺せなければ、バラされるのは自分だったからだ。
 俺が生き残るために、他人を殺す。
 それに何のためらいを覚える?
 俺は、命令をした奴に見えるように、丁寧に相手を切り刻んでやった。

 最初のうちは、それも楽しかった。
 でも、段々現実感が遠のいていくのが判った。

 そのうち俺を見張る人間も少なくなっていた。
 やがて――見張りもなく、俺は彷徨うように殺人を繰り返した。

「君は最高の被検体だよ」

 どこかで聞いた言葉。
 ああ、そうか。
 俺は――随分と昔にこういわれたことがあったんだった――


 目が醒めた。
 空にはいつもの天井がぶら下がっている。
「起きたな」
 いつもの、彼女の声も聞こえる。
 ただし、普段は視界に入る場所から聞こえるはずの声が、何故か真上から聞こえてくる。
「支度しろ。……少し街を見て歩こう」
 身体を起こして彼女の方を向くと――僅かな時間、絶句した。
 帽子を逆さまに被り、太めのつなぎのジーンズをはいて、彼女は――ご丁寧に、ガムをかんでいた。
「……どうした、いくぞ」
「何のつもりだ?」
 彼の質問が判らないのか、彼女は首を傾げてみせる。
 不思議そうな顔で。
「なんだ、奇妙な格好か?」
「というか、お前…何か勘違いしてないか」
 ふううと溜息をつくと、ミノルは自分の額に手を当ててうなだれた。
 特別咎める程の事ではないのだが、ジャケット姿のサングラスの男と、彼女。
 凄い取り合わせである。
――これじゃちんぴらと変わらないじゃないか
 久々のアメリカ西海岸。
 古巣からはかなり離れているが、それでも日本よりは過ごしやすい殺伐とした雰囲気がある。
 馴れ馴れしさのない、ある種のビジネスライクな空気というのだろうか。
「なんだか、嬉しそうだな」
 ひょこひょこと視界の周りで動き回る彼女の方がむしろ嬉しそうだ。
 ミノルは相変わらず不機嫌そうに答える。
「まぁな」
「今のうちはせいぜい楽しんでおけ。…もう『薬』の製造元とは話も付けているしな」
 そう。
 一度アメリカに渡ろうと言ったのは、既に切れかけている研究のための材料と、何より費用を稼ぐ意味もあった。
 特に質のいい薬となると直接仕入れるよりも、コネを通じた『製品』を卸す方が手間が省けて良い。
 『博士』が持っていたコネクションは、彼女の手中にあるのだし。
「しかし先方は、まだ『柊』が行く物と思っているだろう」
「お前も柊だろう?それに…」
 くりっと顔を向けて、にかっと笑みを浮かべた。
「その時のために、お前がいる」

 戸惑いを感じた。
 今の表情に。
 何故なら――ここ数ヶ月、彼女が完全に『彼女』になるまでに、笑みを一度も見せたことはなかったからだ。
 今のような、本当に嬉しそうな楽しげな笑みを。

 彼女はまた眉を寄せて顔をしかめてミノルの様子を窺う。
「……なんだ?…何かおかしな事を言ったか、私は」
「いや。…ちょっと驚いただけだ」
 ある時は冷徹に。
 ある時は斜に構えて。
 いつも見下されているその表情しか見ていなかったから、彼女の笑みは常に嘲笑だった。
 何故か――だから、今の笑みに奇妙な違和感と、不安のような物を感じた。
「薬を注文したら…なに、数週間だが、お前には一度単独で行動してもらうことになる。…頼むぞ」


 結局、再び日本に戻ってきて、滞在していたのはほんの二月ほどにすぎなかった。


「夢?」
 実隆の目の前で、ミノルは甲高い裏声をあげて問うた。
「夢のはずがないだろう。――これは真実さ。お前の足下に転がってる死体に聞いてみると言い。『お前は生きているか』って」
 自分と同じ顔が、唐突に怖ろしい冗談を言った。
 『お前のために用意した、歓迎の挨拶だ』と。
――殺した?人間を…こんなにも殺したのか?
「どうした。お前も殺したんだろう?今日」
「っ、殺してなんかっ」
「あれで死んでいないと言えるのか?――あれだけ派手にやれば、死んでいなくても半身不随ですめば良い方だ」
 にたり、と同じ顔が笑みを浮かべる。
「俺も殺した。――ただそれだけだろう、何を戸惑っている」

  ざり

 地面をかむ石の音。
 靴の裏で砂利をかじる音だ。
――奴が近づいてくる
 瞬時、彼の姿が消える。
 唐突に背中側から引きずり戻される感覚。
 抗うことのできない力で、足が浮き上がる。
 そして――目の前には、紅黒い地面。
「腑抜けめ…覚えておけ、もう、お前には逃げ場はない」
 耳元で囁かれて、直後脂の匂いが鼻に流れ込む。
 ぴちゃりと冷たい液体の感触が頬に。
 ずるりと膜を拭うような感触が手に。
――覚えていられるのは、それだけだった。

 報道管制がしかれた殺人事件に巻き込まれた被害者として、いつか取り調べを受けた刑事の前に座っていた。
「ふぅ、なんだかなぁ」
 木下は後頭部をがしがしと思いっきりかいて、目の前の少年と相対していた。
 少年は二日前の夜に『犯人』とめぼしい人物である彼に職務質問をした。
 手がかりはゼロ、彼は全くの無実であることが判った。
 にも、関わらず。
――全く無関係だった訳じゃないのか
 そう言うことになる。
 今回の殺人の手口は前回によく似ている。そう言う意味では、同一犯の犯行である可能性が高い。
――目撃者と勘違いされて、襲われたか
 だとしても、彼は無傷の状態で発見された死体の側で気を失っていた。
「……何があったのか、教えてくれるよな?一般市民」

 記憶ははっきりしない。
 どんな状態で、どんな状況で、その言葉が紡がれたのか。
 ただもう――死の匂いと血の感触が全てを忘れさせている。

  『忘れるな、お前の周りには敵しかいない』

 同じ顔をした化物。
 思い出したくない景色。

「木下さん」
 気遣うような女性の声が、刑事の隣から聞こえた。
 俯いていたので気がつかなかった――この間、質問を繰り返した女性だ。
 彼女は明らかに咎めるような目つきで刑事を見ている。
 刑事はちらっとそっちを見てから、ふんと鼻を鳴らして実隆の方を見た。
 実隆は助け出されてから、一度シャワーを浴びて身体を洗った。
 家に帰る前に、こうして取り調べを受けていると言うことだ。
 もう家の方には連絡が入っている――預かる、という意味の電話が。
「…なぁ、見たことを話せばいいんだ。…何でお前が殺されずにあそこに倒れていたのか、事情を教えてくれるだけで良いんだ」
 高飛車というよりは全く気遣いのない言葉。
 だが今の実隆には、そのぐらいの言葉では全く動じることはなかった。
 相手は――人間だ。
「覚えていません」
 正しい記憶など、与えられるはずはない。
 ショックが激しかったのは当然だが、それ以上に信用してもらえないような証言など――する気が起きない。
 かといって、『犯人は私です』などと言えるだろうか?
――莫迦な
 第一、そんな真似をしても無駄だ。
 それすら狂言にしか聞こえない。
 事実そんな嘘を言っても仕方がないはず――だ。
――それでも…あいつは、俺と同じ顔をしていて
 同じ名前だった。
「……判った、まぁ、先刻の事もある。今日はこれで帰ってくれ」
 刑事は投げやりに言い、渋い顔で頭をがりがりと掻いた。
「あ、それと、私の名前は木下だ。…近いうち、また出頭してもらうかも知れない。それは覚悟しな」
「刑事さん」
 実隆は立ち上がらず、机の上で手を組んだ格好で彼を見上げた。
 不機嫌そうな顔をした、父親より少し若いぐらいの刑事。
 しかめっ面しかできないような、頑固な男の顔。

 その顔が――ゆがむところをみてみたい

「以前、自分を犯人扱いしていたのは、こんな猟奇的な事件なんですね」


 実隆はふらふらと夜道を歩きながら帰っていた。
――あ、そうか
 コンビニに買い物に行った事をすっかり忘れていた。
 もしかすると、今警察署にあるのかも知れない。
 確認するのを忘れていたし、返してもらうことも忘れてしまった。
――まぁ、いいか
 多分、家に帰ればそれもうやむやになる。
 何より今の警察署にのこのこ戻る気はない。
 吐き捨てるように聞いた木下の言葉がまだ耳に残っているから。

『そうだ。どうせならお前が犯人だったら楽な事件だったのにな』

 そうかも知れない、でも、あの状況で自分が犯人だと証言したところで無駄だ。
 証拠不十分で釈放してしまうのがオチだろう。

  血まみれの路地裏

 ふと穹を見上げた。
 星が零れてきそうな満天の空。

  存在理由

――俺は一体誰なんだろう
 路地裏で惨殺していたミノルは一体誰なのか。
 自分と同じ顔をして、自分と同じ声をしているのに、全く考え方の違う自分。
 あれは――誰なのか。
「実隆!」
 答えのでないまま、気がつくとそこは自分の家の前だった。

 玄関には上着を羽織った隆弥と里美がいた。
 二人とも心配そうな顔を彼に向けている。

  何故か遠く見える その家の光

「兄貴…」
「心配したよ。まさか何か事件に巻き込まれるなんて」
 隆弥は真っ先に口を開いて、実隆の側まで来る。
 里美は「飲み物いれてくるから」と玄関から奥へと入っていく。
「…うん」
 実隆は簡単に返事をして、隆弥と並んだまま家に入った。
 食卓で両親がお茶を淹れて待っていた。
 待ちかまえられているようで、実隆は無言のまま卓についた。
「無事みたいだな」
 実隆の様子を見て、重政は一言言うと一口お茶を啜って立ち上がった。
 里美も視線を投げかけるだけで、何も言わず彼が去るのを見ていた。
「里美さん」
 隆弥が声をかけると、里美は頷いて席を立った。
「お茶、お代わりいるんだったら沸かしてあるから」
「うん、おやすみ」
 里美も軽く頭を下げて微笑んで返し、とてとてとその場を去った。
「さて」
 彼は自分用のコーヒーを淹れ直して、実隆の前に座り直した。
 実隆はマグカップの中身で自分の手を暖めているだけで、いっこうに飲もうとしない。
 時折生きているのを確認できるような呼吸をしていることが判るぐらいだ。
「……もう遅いけど、約束通り少し話をしようか」
 そう言って、彼は一口コーヒーを啜った。
 実隆は彼の提案にふと顔をあげて、思い出したように頷いた。

 だが、結局何を言って良い物か判らず、実隆は逡巡していた。
――夢の疑問
――傷の疑問
――死体の事
――自分の事
――曖昧な事
――そして
 なにより、目の前にいる隆弥自身の事。
「兄貴、俺…」
 言うべきだろうか。
「…人を殺したのかも知れない」
 隆弥が、その笑顔のような表情を僅かに揺らした。
 だが、彼が口を開くより早く続きを紡ぐ。
「コンビニに買い物に行った時、変な視線を感じた。…そして、路地裏で、死体を見た」
「この間見た夢かい?」
「…違う。警察に連れて行かれたのは…」
「発見者だったからか。……まぁ。お前がうそをつくはずもない」
 ずず、とコーヒーを音を立てて啜る。
 その表情は決して揺るがない――ように見えるのかも知れない。
 元々、表情のわかりにくい顔なのだ。
 冷静なのかぼぉっとしているのかははっきりいって、付き合いの長い彼でもよくわからない。
「――それだけじゃ、ないんだ」
 どこまでが夢で。
「俺は」
 どこまでが今ある現実なのか。
――くっ…
 ぎりぎりと自分の歯が軋むのが、聞こえた。
 思わず顎に力が入った。
 それも全力で。
 自分の意志でそれをこじ開けようとして、まるで力が入らなくなる。
 身体が、それを拒んでいるように。
「落ち着けよ。…それじゃ、今度は俺がお前に言いたい事があるんだ。…落ち着くまでいいかな」
 がちがちに固まった表情をほぐすように、実隆は顔に手を当てて頷いた。
 それから、溜息をついて隆弥はコーヒーを飲み干してしまう。
 短いようで、実は長かったんだと感じる瞬間。
 それは、自分の手の中で、お茶が冷たくなってしまっている事に気がついた時。

 話の内容は、彼の子供の頃の話だった。

 どの辺から記憶が曖昧なのか、良く覚えていない。
 実隆は、多分眠かったせいだろうと考える。
「こら、聞いてるのか?」
 可笑しげに笑う隆弥に、気がつくと彼が顔を覗き込んでいるのが見えた。
「あ…あ、悪い」
 実隆が答えると、隆弥は口元を吊り上げるようにして笑う。
「大事な話だぞぉ。お前と初めて会った時の事だ」
 にひひ、と普段では絶対見せない笑いを浮かべて、楽しそうに実隆を見つめる。
「……会った時だったら、俺だって覚えてるだろうが」
「いーんや、遠くから眺めただけだから。ミノル、お前を引き取りに行く前に一度俺はお前を見てたんだよ」
 楽しそうに言い、彼は肩をすくめてみせる。
「『こいつがミノルって奴か』ってね。親父に写真を見せてもらってたから」

 児童養護施設の塀の向こう側。
 そこは、あり得ない世界と変わらなかった。
 だから実隆の中の世界は、児童養護施設までで留まっていた。
 親類というものは名乗り出ることもなく、結局施設に留まっていた年長者――世界の中でも最も孤立していた人間だった。
 どういう類の施設だったのか、とりあえずの教育と生活を覚える事はできた。
 理由は判らないし、知らない。
 その記憶の外側に何があったのか、彼の記憶ではもう曖昧で判らない。
 今思い出せるのは、その施設の外形と。
 ただ、自分の名前が書かれた紙を握りしめて今の家族と対面した瞬間だった。

 隆弥の話は続く。
「面白いことを白状してやるよ。……俺も、実はこの両親の子供じゃない」

  めき

 今の音は、自分が全身を緊張させたから聞こえたんだと思った。
 事実、体中がこわばっている。
 今の言葉を聞いて、全てが揺らぐ気がした。
「兄貴…」
「嘘、だと思うか。……まぁ、ゆっくり考えてみてよ、その辺は。俺はこれ以上言うつもりもないし」
 第一、と彼は一言付け加えた。
「似てるだろ?両親と」
「……兄貴」
 隆弥は可笑しそうにくっくっと笑い声をこぼして、唖然と見つめる実隆を見ながら言う。
「ミノル、引き取られてきた時に持っていた名前、合っただろう。アレ、一人分の名前じゃないぞ」
「え?」
「実隆の、実って字と隆って字、間があいていただろう?」
 ぞくり、とした。
 今平気な顔をして話をしている彼の顔を、じっと見つめてなんかいられない。
 ただ何を言おうとしているのか――それが気がかりで、そこから離れることができない。
「ミノル、あの紙な、お前の名前って訳じゃないかも知れない」

  どくん

 『俺か?――ああ、俺の名前は、柊 ミノルだ』
 奴の声が、脳裏に蘇る。
「…どうして」
 どうして今頃。
 どうして今まで。
 そして――どうして、何故隆弥が。
「そんなことをいうんだ」
「何故?」
 隆弥は、その時初めて目を丸くして、うーんと気軽に物を考える時のように首を傾げた。
「何故…そうだなぁ、この間から言っている、『自分の親族探し』の何かの役に立つと思ったから」
 悪気のない笑みで答え、彼はしきりにこちらの様子を窺う。
 実隆は――硬直していた。
 完全に取り残された、そういう感じだった。
 だから隆弥は眉を寄せて少しだけ落ち着かない様子を見せた。
「お、おい、そんなに真剣に悩むなよ、俺が悪いみたいじゃないか」
 おたおたして彼はお湯を火にかけ直して、お代わりの準備を始める。
「悪かったよ、何かそんなに心配なことがあったのか?」
 今度は先刻までの顔ではなくて――そう、彼の顔が、態度が意地悪に見えた時とは違って。
 妙に、おどおどして見えた。
 それがおかしくて、苦笑して実隆は手を振る。
「いや、ちょっと…びっくりしただけだよ。兄貴だって別の…施設だったのか?」
 ははは、と笑ってやかんにかけた火を止めて、彼は自分のカップにお湯を注ぐ。
「…お前は日本茶か?」
 頷くと、彼はお湯を急須に注いでくれた。
 それを受け取って、自分のカップに注ぐ。
「俺は施設じゃない…親が違うだけだよ」
 はは、と僅かに照れた仕草で彼は席に着いた。
「こうやって兄弟で話すのもあんまりなかったよな」
「なくなった、の間違いだろ?兄貴が寝坊するようになって」
 痛いところをつかれた、そんな風に彼はぱしりと小気味の良い音を立てて自分の額を叩いた。
 滑稽な様子に、実隆は笑う。
「そうだな。こりゃしてやられたよ」
 ははは、と笑いながら、ゆっくり席に着いた。
「…でも、そう言えばそれっていつ頃の話だったっけ?」
「高校に入る前ぐらいだろ?…そうだよな、部活に入るのを決めたぐらいから急にだから」
 当初から主将に不満を言われていたのを思い出す。
 隆弥もそれを聞いて――自分の事なのに忘れている位、彼はボケているのだ。
「まぁそんなだからだよ。…気にしちゃいけないよ」
 自分で言うのか、それを自分で。
 つっこもうと思ったが止めた。

 もう夜中の二時を回っていた。
 とりあえず寝ることにして別れて、実隆は自分の部屋に戻った。

      ―――――――――――――――――――――――


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