Holocaust ――The borders――
Chapter:1
実隆――Minoru――
それは朝早く起きたせいだった。
気がつくと喉元まで嫌な汗がじっとりにじんでいる。
手を当てると、そこにまるで膜でも張っているようにべたつく。
――こんなに暑かったかな
季節は――初春、まだ冬とも言えるぐらい寒いはず。
まだ眠い――まどろむ意識では何を捉えることもできない。
再び深い意識の底へと引きずられていく。
だが、混濁する意識に、僅かにふれる物があった。
「――のる」
それは、その声だけは眠気を覚ますようなかんに障る声。
初めて聞く声、でも、判る。
その声が自分にとっては嫌なものであるはずだと。
それが自分に対する呼びかけであると気がついた時、誰かの声が聞こえた。
「――んだよ」
自分はまだ口を開いていない。
それに声が出るかどうか疑わしい。
――なんだ
だから、自分以外が答えたと言うことは、これはどうやら夢らしい。
ということは、自分はまだベッドの中で横になっているに違いない。
違和感のあるこの感覚だって、夢だ。
そう、彼は思って無意識に顔を拭った。
べとりと。
喉元の脂とは違う――さらさらとした、でももっと嫌な感触のもの。
膜ではなく、今度はそう、まるで絵の具でも顔に塗ったような感触だ。
驚く暇もない――視界が急激に開ける。
異常なまでのリアル、それが夢とは思えず思わず息を呑む。
――どこ――だ?
そこは四角い部屋。
彼は薄暗い灯りの中で、立ちつくしている。
ぽたり ぽたぽた
先刻からしきりに顔を拭っている。
拭っても拭っても、絶え間なく流れ落ちてくるもの。
水よりも濃く、まるで塗料のようなそれは――一体何?
何の夢なんだ?
そもそも本当に夢か?こんなにもあまりにもリアルなのに――でも、嗅覚はない。
何で、この部屋はこんなに冥いんだろう。
そう、思った途端。
彼は弾けたように目を覚ました。
こちこちと時計が囀っている。
やけに耳につく時計の音。
まだ目覚ましには二時間近く余裕がある。
時計を見て、彼は慌てて自分の顔と首をなで回す。
汗などかいていない、それに長袖の室内着でも寒い位の気温だ。
脂がべとつくはずはない。
それに、ここは先刻とは――
がたん
彼は転がるように立ち上がって、大慌てで便所へと走った。
起き抜けで動かない体を、ばくばくと脈打つ心臓が押し出す。
無理矢理引きずられているようで、でもまた逆に急がなければ、裏返った胃袋が言うことを聞きそうにない。
結果、彼は便器に倒れ込むように身体を支え、思い切り吐いた。
げほげほとせき込み、足りない酸素を取り込もうと身体が呼吸を求める。
芳香剤の香りが鼻をついて、そのせいでもう一度吐きそうになって――落ち着いた。
強烈すぎるその匂いが、夢から――現実に引き戻してくれた。
無理矢理叩き起こされた心臓が、抗議のように鳴り続けても、今はそれが現実に引き留めてくれる。
――ここは、何もないいつもの朝の自分の家なのだ、と。
「ふう」
だから、べたべたの顔で、やっと息をついた。
早く起きたのは、凄く夢見が悪かったから。
洗面所で顔を洗い、口を濯ぎ、適当なタオルで顔と首を拭く。
特に髪の毛――滴る水など残らないように丁寧にふき取る。
時刻は五時をまだ回ったところ、普通ならまだ眠っていてもおかしくない時間だ。
――ちぇ、これじゃあ今日の午後寝ちまうだろうが
自分で自分に悪態をつきながら、彼はもう一度顔を洗って自分の部屋へと戻った。
彼の名前は柊 実隆(みのる)、高校三年生。
故有って、今の家族の御世話になっている。
家族の名前は楠(くすのき)、やはり一文字だ。
彼は児童養護施設にいた頃から名乗っていた名字を捨てる気になれなかった。
――唯一の彼の手がかりであり、生まれてから唯一持っていた財産だったから。
今から十七年前に酷い交通事故があった。
車および同乗していた人間の破損は著しく、とても人間であることを区別する事はできなかった。
事故現場のすぐ側、さほど離れていない草むらに彼はいた。
そして児童養護施設に引き取られて、幼年期を過ごしたが、ある時彼を引き取りたいと言う家族が現れた。
それが楠家だった。
彼の部屋の隣には隆弥(たかや)と言う名前の兄弟がいる。
のんびりした雰囲気が周囲を落ち着かせる、ムードメーカ的な男だ。
年は同じなのだが実隆は隆弥の事を『兄貴』と呼んでいる。
――兄貴の奴、起きなかったかな
何も文句を言わないタイプだから少しだけ心配する。
人が好すぎる人間で、少なくとも彼が感情をむき出しにして怒るところを見たことがない。
自己主張はするのに、決して他人の領域に踏み込もうとしないというのだろうか。
だからだろうか。気がつくと、彼はいつも人の輪の中にいる。
隣からはほとんど物音もしない。
普段から朝起きるのが苦手な彼だから、気にしても仕方ないのかも知れないが。
彼は大きく溜息をついて、部屋に戻ってベッドの上にごろんと横になった。
落ち着いた、といっても一度あれだけ激しく目覚めてしまうと、ちょっと眠れない。
よく朝早く起きてからの軽い運動は、目も覚めるし勉強や仕事がはかどるという。
――ちょっと、違うか
目覚ましがなるまでごろごろしていよう。
彼はゆっくり目を閉じた。
もう二度と、あんな悪夢などみたくないと思いつつ。
Chapter 1 実隆 ― Minoru ―
「だからそんな言い訳、しなくていいから」
「――――!だからっっ!」
勢いよく流れていく、通い慣れてしまった道。
アスファルトが堅くて冬の空気に締まっているようで。
スニーカーの叩く音も甲高く、朝の空の下を駆け抜けていく。
さわやかなはずの朝の街並みの中を、一組の男女が走る。
今まさに、彼らは遅刻寸前だった。
「ちくしょーっ、兄貴の奴見捨てやがった!」
実隆は顔を真っ赤にして叫ぶ。
一応隆弥の名誉のために言っておくと、彼は見捨てたのではない。
のんびりしているので気がつかなかっただけだ。
普段から寝坊する彼は、実隆に起こされても起きることなく結果遅刻する。
実隆は付き合いの良い方でもないので、起こすだけ起こすとさっさと置き去りにしてしまう。
だから、普通通りに起きた隆弥は(いつものように)とっくに実隆はでたものと思って出てしまったのだ。
ようするに、普段自分がやっていることが帰ってきただけであって、怒られる筋合いなど、ない。
――糞兄貴め、あとでこてんぱんにのしてやる
逆恨みも良いところだろう。本人、気がついていないが。
「他人のせいにしないほーがいいよ♪あとで困るの自分だよ」
隣で同じように駆けている少女が楽しそうに言う。
この併走(伴走?)しているのは体育会系帰宅部、人呼んで助っ人の御嬢こと真桜菜都美だ。
真桜という非常に変わった名前だが、紹桜流古武術とか正倉式(しょうそうしき)抜刀術などの古武術で有名な家柄だ。
中学の時には『暴君』の渾名で向かうところ敵なしの喧嘩屋だった。
御嬢様として育てられていたはずなのだが…
「くそ、お前は一体誰の味方だ!」
実隆は――どうやら、かなり頭に来ているらしい。
顔を真っ赤にして息を荒げながらも大声で隣の菜都美に叫ぶ。
ちなみに彼女が通学路が一緒なのは、特別な感情ではなく特別な意味のためである。
足を前に運ぶたび、彼女の短くも長くもない髪が上下に大きく揺れる。
丁度、鳥が羽ばたくように。
「えー♪そりゃ自分に決まってるでしょーが」
にかっと笑みを浮かべて、やけにさわやかに言う。
ちょっとたれ目気味の目が、笑うと更にたれて見える。
今を遡る事、おおよそ一年前。まだ菜都美が風紀委員をしていた頃の話だ。
どういう偶然か、彼女が遅刻取り締まりの当番で出ていた時にぎりぎり遅刻したのが彼だったのだ。
本当に偶然だった。
結局、説明すると長くなるが、ようするに遅刻するかしないかの賭が二人の間で取り決められているのだ。
それ以来一度も欠かさず彼の登校時間チェックをしているということだ。
それなら校門で待てばいいようなものだが、わざわざ彼の家まで赴いているのだ。
それもこんな、遅刻間際の時間にまで。
「さぁさ、さっさと諦めてしまいなさいよ」
にやにやと笑いながら言う彼女は、全然平気そうな顔である。
並んで走る実隆の方はぜいぜい荒い息をついているのに。
「うるせーっっ!誰がお前なんぞに土下座するかよっっっっ!」
にやにやしている彼女の貌に、実隆は更にかぁっと頭に血を上らせる。
全力疾走。
息もつかずに校門を抜ける――
きーんこんかーんこん きーんこんかーんこん
始業の予鈴が鳴り響く。
その中を地面を蹴立てて校門をくぐる。
もう人数はかなり少ないが、まだちらほらと生徒が残っている。
「ふう…」
これで、とりあえずの遅刻は免れたわけだ。
だが五分以内で教室に入らないと、HRが始まってしまう。
「ち、今日はその首つながったみたいね」
菜都美は息も上がってないという風で、両手を腰に当ててふんぞり返っている。
実隆はその様子を恨めしそうに見上げながら、両手を膝に当てて息をついている。
はっきり言って、完全に運動不足だ。
「余裕だな」
何とか声を出した彼に、菜都美は両腕で力瘤を作る格好になる。
「とーぜん。伊達に助っ人御嬢をやってないわよ。…それより、急いだ方がいいわよ?」
この学校は一年が一番西、三年は一番東の校舎で授業を受ける。
丁度菱形になった平べったい校舎があるとしよう。
この校舎は二階建てで、中二階が廊下になっていて全てつながっている。
正門が南を向いていて、この区画付近に厚生センターなどが密集している。
通称北区には、ご想像通り二年生が授業を受ける区画がある。
中央に教職員室があるという構造で、実は五分前に校門通過は既にその時点で負けを意味するのだ。
正規のルートでは昇降口から中央、そして東区へという形だからだ。
だが無論、抜け穴など幾らでもある。
特に実隆の教室は1F…つまり、地続きで教室に入れるのだ。
「珍しいね、ミノル、君が窓を利用するなんて」
実隆の上履きを取ってきた少年は溜息混じりに言う。
長髪を首の後ろでまとめた、ちょっと見は悪くない感じの男。
彼は上杉 鷹、タカマルと呼ばれている。
悪気があって呼んでいた訳ではないのだが、本人は非常に気にしていて辞める予定だったのだ。
「ごめん、ミノル。俺もう学校に行ったものと思ってたから」
いつも自分の出てくる入り口に、自分とは違う人を見つけたのは彼の功績である。
言うまでもなく、楠 隆弥その人だ。
仲のいい友人は彼を『タカ』か『クス』と呼ぶ――結果、区別のために鷹はタカマルと呼ばれるようになるのは、必然だった。
紛らわしいと言えば、紛らわしい。
ストレートなさらさらの髪に眼鏡、これで『僕』なら完璧だったのに。
眼鏡の奥で人懐っこい糸目が見つめている。
「…いいよ、兄貴。兄貴ほって行ってるのはいつもだし。…悪い、今度から声かけるよ」
実隆はなんか妙に悪いことをした気になって、素直にそう謝っていた。
「うん。ね、それよりさ…」
隆弥が声をかけて彼に手招きした時、丁度担任が入ってきた。
タイミングとしてはぎりぎりというところか。
「あとで」
実隆は手を振って答え、自分の席についた。
「何だよ、先刻何を言いかけてたんだ」
HRが終わるとすぐ、彼は隆弥の席へと急いだ。
隆弥も言いたいことを用意してたらしく、取り巻きが来る前に彼に手招きしていた。
「なに、大したことじゃない。今日、俺、目覚まし一発で目が覚めたんだよ」
――…何を言いたいのだろう。
一瞬実隆は眉根を寄せて思案した。
「それで」
「もしかしたら、何か目覚ましのなる前にあったのかな〜とか、思ってさ。知らない?」
そうだ。
ぴんときたものの、どう説明すべきか実隆は迷った。
――兄貴、こういう奴だったんだよなぁ
実は実隆が隆弥の事を兄貴呼ばわりするのには訳がある。
見た目も、生活態度も、話し方ものんびりした彼は、しかし実に意識が隅々まで届くのだ。
普段からのんびりおっとりなのは見せかけじゃないか、そんな風に思える程、細かいことに気がつく。
そして、彼の天然ボケっぷりは男の癖に見事としか言いようがない。
「今朝は…ちょっと夢見が悪くてね、妙に早起きしたんだよ、それじゃねーかな」
はぁ、と首を僅かに傾げ
「眠りの深い俺が目覚めたのに?」
むう、と唸ると実隆は僅かに頭を抱えて眉根をもむ。
「だから覚えてないんだろうが。全く。いつもより二時間程早く目が覚めたんだよ、だから…」
言いかけて、思った。
相談するのも良いかも知れない。
――あんな訳の分からない物、説明するのは難しいけれど
何もしないよりも良いはずだ。
ぼーっと実隆を見つめている隆弥。
その彼に、少し頷くようにしてみせるとますます彼は頭の上に?を飛ばし始める。
「あのさ、兄貴、俺、今朝変な夢見て醒めたんだよ。…それでどたばたしから、起こしちゃったんだと思う」
へぇ、と気のない返事を返すと、彼はにこにことした貌でずいっと身を乗り出してきた。
「どんな?がさつなお前が気にする程だ、相当の夢なんだろうな」
案の定、夢の内容の方が気になるようだ。
実隆は思わず眉根を寄せて彼を睨み返す。
「なっ……俺、兄貴の評価下げるよ」
はははは、と相変わらずのさわやかな笑みでさらりと彼の非難は流されてしまう。
「いいから続きを聞かせろよ」
隆弥は黙り込んでしまった。
真剣な顔で、何かを思案するように。
今朝、実隆が見た夢――あまりにその内容は猟奇的だった。
そして夢にしては異常にはっきりした体験―そうとしか呼べないほど、強烈な印象が残っている。
四角い、小さな部屋。
四畳半程の小さなコンクリで囲まれた部屋は筆舌に尽くしがたい光景に包まれていた。
否、筆舌にしたくない光景だ。
返り血がべっとりと弾けた壁。
その飛沫は、正体判らないようになるまで壁に塗り込められていて。
一言で言うと――黒い部屋。
生臭い臭いが立ちこめる嫌な部屋。
思い出すだけでも吐き気がする。
「そんな中で、どうして突っ立っていたんだい」
説明した中でも佳境にさしかかったところで彼は言った。
そう。
何故自分がそこに立っていたのか、それははっきり判らない。
「…まぁ夢だから、そんなのどれだけ整合性があるか判らないよ」
「そうだね。…まぁ、いいか。でさ」
ずい、と隆弥は身を乗り出して来る。
「それだったら例の話の方が俺は気になるんだけどね」
「…例の話?」
「昨晩うちの部屋で言ってたアレだよ。…家を出るって奴。どうせ本気なんだろう」
実隆は言葉に詰まって溜息をついた。
昨晩の夕食後、隆弥の部屋に訪れた彼は、これからの事について若干話をしたのだ。
それは卒業間近と言うのもあるが、決して悪くない成績なのに就職を希望している理由を彼が知りたがったからだった。
無論、だから大学受験も考えてないし、この時期だ、もう願書も間に合わない。
勉強だって間に合わないだろう。
理由は簡単――これ以上世話になるのが悪いから、だった。
『早く独立して、楽にさせたい』
夜も遅かったのでそれ以上追求もせず、その日は話を打ち切った。
「大学行くにしても、奨学金をもらえるほども成績は良くないし」
ふう、と溜息をついて彼の言葉に応えると隆弥は首を振る。
「今時高卒じゃ大変だぞ。それに、今更気にしてもなぁ」
「まぁね。でも元々…そのつもりだったんだし。あんまりいつまでもご厄介になっているのもなんだから」
「ふぅ。…まぁ、何度言っても俺の事を『兄貴』って呼ぶのをやめないしな」
諦めたような笑みで溜息をつく彼に少しだけ苦い顔を見せて実隆は頷いた。
「別にいーじゃねーか。詳しいことはまた昼に話すよ」
教師が近づいてきたのが見えて、彼は言ってすぐに席に戻った。
話をしたからだろう。
気が楽になると思っていたが、逆に記憶が鮮明になってしまう。
授業が始まってからも妙に夢の内容が頭の中をちらついている。
口に出した分だけ、思い出した分だけ、自分の肌の上を彷徨く偽物の経験。
皮膚の裏側にまで浸透してきそうな想い。
ふらふらと視線をさまよわせながら、かつかつという黒板を叩く音だけが耳に届く。
それが嫌で、思わず自分の腕につかみかかってしまう。
ぶるぶると震える。
震えても同じ――そこには何もなく、まして何かが変わるわけでもない。
ただ少しだけ落ち着いた。
今の肌の感触は、少なくとも記憶にあるあの鮮明な画像とは違う。
視界を覆い尽くしていた赤いものも今は見えない。
あれは、夢。
でも、そうとは思えなかったぐらいリアルで、だから…
だから、今の教師の言葉や黒板が、奇妙に歪んだ現実感を与える。
何故かそれは、不思議だった。
こちらの方が現実だったという――感慨にも等しい想いに打ちのめされるようで。
結局今日の授業は一切耳に入らなかった。
昼。
チャイムが鳴って、実隆は鞄から弁当を取り出して隆弥の席へと向かう。
昼食の弁当は、決まって母親(代わり)の里美さんが昔っから同じように作ってくれている。
彼女も細かいことまで気のつく人で、非常に芸の細かい弁当である。
とてもあの短い朝の時間に作っているとは思えない。
簡単なおかずではない。冷凍食品を一品も使わずに丁寧な弁当を作ってくれるのだ。
いつもの飾り気のない青い弁当の包みを開こうとして――ぽん、と肩に手を置かれる。
僅かに顎だけで教室の入り口を指し示す隆弥。
「ん…」
振り返る。
実隆はしかめっ面をして、顔を戻した。
糸目をほんの僅かに歪めて、笑みを浮かべる隆弥。
「はっはっは、早速尻に敷かれてるな。恐妻家になりそうだな」
「馬鹿」
彼が指し示した方向に、何故か落ち着かない顔をしてうろうろする菜都美の姿があった。
時々困ったようにこっちを窺うと姿を消して、再び顔を出す。
――なにやってるんだあいつは
とはいえ――間違いなくこっちを見ているし、教室に入ってこようともしない。
あんまり考えたくないが、行くしかないようだ。
「悪い、兄貴、ちょっと行って来る」
「断らなくても良いよ、お前の」
すぱこんっ
小気味良く実隆の右手が鳴る。
一瞬周囲の視線を集めるが、『いつものこと』とざわめきが戻る。
実隆の特技、「はりせんちょっぷ」だ。
彼曰く「微妙に掌をすぼめて、当てる瞬間にちょっと気をつかうんだ」という難しい技。
隆弥の頭の上で煙を上げる実隆の右手。
「五月蠅い、黙っとけ」
ふん、と鼻を鳴らして実隆は彼に背を向けた。
何故か隆弥はにこにこで彼に向かって手を振っていた。
――全く、少しは周りの目を気にしろよ
菜都美は教室の入り口付近でふらふらと行ったり来たりしている。
なんで、そこで困った貌をしているんだ、そんな風に思いながら彼は彼女に近づいていった。
他人からしてみれば、菜都美を待たせているようにも見えるだろう。
ひょいっと姿を現した実隆を――まるでタイミングよく見つけたかのようににっこり笑って迎える。
そして開口一番
「悪いわね〜ミノルぅ、ちょっとそこまでつき合ってよね」
いつものノリで言いながら僅かに首を傾げてウインクする。
実隆は思わず首を傾げそうになる。
菜都美は彼の様子に気づいたのか気づかないのか、立てた右の指をそのまま実隆の鼻先に突きつける。
「何よ、なんて貌してんの。全く…」
そんな事を言われた物だから、不機嫌そうな返事しか返せない。
「るせーよ。…わざわざ昼飯のこんな時間に教室の前で睨まれてりゃ、嫌にもなる」
「ばーか。睨んでるんじゃなくて目で合図してたの。全く、他人が聞いたらなんて思うか」
勝手な解釈だ、と実隆は思った。
――なんて思うかって、そりゃ決まってる。痴話喧嘩だよ
無論口にしない。そんな事したら、ますます泥沼だからだ。
でも実は、今更否定する材料もなく、実隆は彼女の公認の彼氏ということになっている。
本人達が気づいているかどうかは、ともかく。
「るせぇ…俺は教室の前で立たれる方が嫌だ」
ふーん、と少しだけ嬉しそうに覗き込むような気配。
視界の半分を、いつの間にか彼女に占領されていた。
思わず大きく後ろに下がって、仰け反るように両手を彼女に向けて大きく振る。
「こ、こらっ」
一瞬だけ彼の様子に目を丸くする。
「何慌ててんの。…変なの」
ふん、と溜息のように吐息を流して、彼女は腰に手を当てた。
だから。
――そう言えばこいつは、今の噂をどう思ってるんだろうか
そんな事を考えたりした。
「それでいったい何の用だよ。…わざわざ呼ぶぐらいだからそれなりに急ぎなんだろうな」
「そんなのもちろん。だって今週の話なんだから」
「え?」
あ、と少し顔を引きつらせる菜都美。
「…まぁいいや。…それで、一体聞きたい事ってなんだよ」
一瞬しまった、という風に顔をしかめて、素早く目を左右に走らせる。
あからさまにあやしい。
「こ、ここじゃぁなんだから、ちょっと」
急に声を裏返らせて、ぐいっと彼の腕をつかむ。
「お、おいっ」
駆け抜けるようにして彼を引きずりながら、彼女は無言で廊下を降りる。
北区の校舎から東へ向かうと講堂がある。
敷地の西に、体育館がある。
講堂と体育館の間に部室が立ち並んでいる。体育館周辺には武道系の部室があるためにかなり入り組んでいる。
人が隠れるには丁度良いような隙間の森――ちょっと見た感じではそうでもないのだが。
気がつくとその森の奥に立ちすくんでいた。
「…なんだよ」
ただし、この場所は曰くがある。
幽霊が出るだの、気が狂うだの、更にくわえると、喧嘩するためには非常に有効な場所だと。
「ちょっと、さ、あの。…人に聞かれちゃまずいのよ」
無論、この時間この場所、誰がいるわけではない。
放課後とはうって変わって、実は人が近寄るのをまるで拒む気配があるからだ。
「というよりも、あたしが聞きたいことが、丁度あんたしかいなかったってこと」
「はぁ?」
妙にぎこちなく、彼女らしくない歯切れの悪い解答。
あさっての方向を見て、もじもじとしている態度はどっかで見たような気がする。
それも随分と昔――
白くもやのかかった記憶を思い出しかけた時、割り込むようにして彼女の声が聞こえた。
「勘違いしないでよ、今週末、隆弥さん暇かな?」
「え?えええ?」
――少し整理しよう。
まず昼休みに、菜都美がわざわざ呼びに来た。
菜都美は、俺じゃなくて、兄貴に用事があったらしい――
実隆は完全に呆れた表情で、彼女の言葉を受けた。
「あのさ」
直接ではなくて自分に訊いた事が何より苛立たしかった。
何も自分に言う必要はないだろうに。
窺うような彼女の様子も苛々させる。
「……いつもなら教室に入ってきて呼ぶだろうに…今更と思っていたけどさ」
ばきばきと歯ぎしりして、彼は怒りの表情で彼女を見返す。
「何でそれで、俺なんだよ」
彼女にそれが通じたのかどうか。
あっけらかんと、変わらない調子で続ける。
「だから言ったじゃん。あんたしか訊く人いなかったから」
「だからぁ…」
苛々。
「素直に本人に訊くわけに行かなくて。…ね、どう?」
そんな事を言われて、両手を合わせてお願いされたところで素直に言うこともできない。
「知るかよ、そんな事。……知りたけりゃ直接聞けよ、馬鹿」
右手を大きく振ると、実隆は非難のような声を上げる彼女を背に、教室へと戻っていった。
とうに五分十分たったのに、隆弥は弁当の包みすら開けずにちょこんとそこに待っていた。
「あ、以外と早かったね、ミノル」
隆弥が声を掛けてくる。彼が悪いわけではないが、いがいがした心が引っかかって笑うこともできない。
「…五月蠅い」
小声で抵抗して、彼は自分の席についた。
隆弥は怪訝そうに顔を上げて、彼の弁当を右手でつまむ。
「ミノル」
弁当をひらひらさせて彼の名を呼んでも、実隆は向こう側を向いたまま机に突っ伏してしまう。
「弁当はやるよ、兄貴。…俺、今、食欲ない。兄貴は部活にでるつもりなんだろ」
隆弥は剣道部に所属していた。実力はこの校内では随一と言ってもいいだろう。
もう卒業前だというのに『稽古を付けてやるんだ』といって、毎日通っている。
笑えるのが朝練だけは無理だという事か。
昨年など主将も諦めていると言うぐらいの(ある意味)実力者だったらしい。
もっとも、今でも(そう、この時期に至って)主戦力というのだから笑えない。
「…ミノル」
珍しくマジな声の隆弥。
「里美さんに言いつけるぞ」
ぎくり
「ちょ」
慌てて机から身体を引き剥がして起きると、眉根を寄せて困った表情の隆弥が見えた。
彼は自分の右手を顎に当てて、うんうん唸っている。
「もらうのは全然いいんだけど、里美さんなんていうかなぁ」
ぎりぎり。
実隆は歯ぎしりする。
里美さん――要するに母親代わりは、非常に気にするたちの女性。
一介の息子(代わり)が弁当を残しただけで自殺しかねない程繊細――とは言わないが、そのぐらいの女性。
…もしくは残すといぢめられる事もある。
もちろん、実隆はそんな事は百も承知しているから、きちんと食べているのだ。
「…兄貴」
隆弥はにこにこして弁当を差し出して言う。
「そうそう、素直に食べなさい」
彼は人畜無害な表情で手招きして、自分の前に彼の弁当を置いた。
これには実隆も頭を下げるしかない。
――くそぉ
彼は無言で席について、弁当を受け取った。
隆弥――いや、楠家の風習らしいのだが、今のように自分の家族は名前で呼ぶようにするらしい。
彼にしても、母親のことを「お母さん」と呼んだ記憶はないと言う。
だから、実隆はいつまで――いや、逆に今の今まで、完全に家族として機能しているとは言い難い。
隆弥はその辺も心配だった。
――いつになったら、名前で呼んでくれるのかな、こいつは
差し出した弁当を悔しそうな顔で受け取る『弟』を見ながら、彼はそう思った。
それはあまりに唐突な提案だった。
だけど、彼にとっては唐突でも何でもなかった。
何故なら、それは却下すべき提案として、既に刻み込まれていたから。
だから、何の感情もなくそれを破棄すると自分の仕事に目を向けた。
放課後。
「よ」
突然ぎりぎりの背後から声をかけられて、実隆は飛び上がった。
「んなっっ……今度は何を笑いに来たんだ」
しがない帰宅部の彼は帰る準備をして、教室を出たばかりだった。
彼の背後には、昼食を乱した悪魔――菜都美がいた。
「笑いにって…」
彼女は何故かむぐむぐと口ごもると溜息をついて肩をすくめる。
「何でそこまで卑屈になるかな。もう。一緒に帰らない?」
にっこりとしか言いようのない笑みを浮かべて、彼女は聞いてきた。
受験戦争という言葉がはやったのはもう昔の話だ。
そもそも、真剣に自分の事を考えられる程落ち着いた高校生は昔程多くはない。
この高校の校風もそんな時代の流れに乗っているような自由な雰囲気がある。
隆弥の部活参加なんかはその最たるものだろう。
「ふん、好きにしろよ」
『助っ人』と呼ばれるのは、彼女が試合の際の穴埋めに活躍していたからだ。
あちこちの部活から引く手数多のはずの彼女は、何故かどの部活にも所属しなかった。
できないのか、しようとしていないのかは判らない。
「うん、じゃあ好きにするよ」
ぽん、と彼の背を叩く、そんな時の彼女の表情はすごく自然な感じがした。
でも笑っているのにどこか寂しそうで、彼は少し投げやりに声をかける。
「結局どこの部活にも――本気出してやることはなかったんだな」
わいわいと教室から飛び出していく連中は、運動部所属の連中だ。
サッカー、野球、陸上…一応一通りうちにはある。
武道と呼ばれる部活は特に多く、恐らく他の学校よりも多いだろう。
それも――この御嬢様の家のせい、いや、御陰である。
彼女がそんな武道系に入るはずもなく、結果今の状態である。
「…まぁね」
僅かに溜息を吐いて、彼女は長い髪をかき上げた。
校舎から校門へは最短距離。
運動部の連中は逆方向へと廊下を進んでいく。部室か、直接グランドの方へ向かうのだろう。
リノリウムの床をかつかつと、金属のスパイクが蹴立てていく。
「――ミノルは?」
すれ違っていく陸上部の一人から、彼に視線を移す。
実隆はじっと正面に目を向けていて、不機嫌そうな表情を崩さない。
「俺?まさか。…俺みたいに何にもできなくて、連むのも興味のない人間は部活なんか入らないの」
「ミノルが?嘘」
素っ頓狂に声を上げたものだから、実隆は眉を寄せてますます不機嫌そうにして菜都美を睨む。
ぱかん
そして手加減容赦のない拳が頭に入る。
菜都美は両手で頭を抱えて、涙目で睨み返す。
「何よ、痛いじゃないの」
「五月蠅ぇ、吠えてろ」
昇降口への階段を下りて、靴を履き替える。
朱に染まった夕暮れ。
昼間の熱気と、冷めていく空気の境目にあるこの時間、遠くで喧噪が聞こえる。
歓声のようなそれはどこかの部活だろう。
それらに背を向けて、二人は夕暮れの通学路に足を踏み出した。
同じように帰路に就く生徒達は、三年か、用事のある者だろう。
でもどれだけの人間が、将来を真剣に考えているだろうか。
「…」
菜都美は口を開こうとして、止めた。
彼女の前を、夕暮れの日差しを浴びながら歩く実隆。
何故か、急にそれが手の届かないところへと遠ざかっていくように見えて、声を掛けられなくなる。
――実隆…
もちろんそんなものは錯覚だろう。
遠近感のつかめなくなった背景を、彼が悠然と歩いていく。
「菜都美」
はっと、彼女は目が覚めたみたいに目を瞬かせた。
先刻までの非現実的な風景はかき消え、元の距離感が戻ってくる。
「お前んとこの治樹ってガキいただろ?あいつ元気か?」
治樹というのは菜都美の弟で、一番年下の姉弟になる。
彼女のところは四人姉弟で、上から明美、菜都美、冬美、治樹となる。
治樹は中学三年で真桜の四人姉弟の中で唯一の男なのだ。
「急ね。…元気だけど、なにか?」
元気すぎるけど、と言う言葉は飲み込んで答える。
実隆の言葉に含むよう物を感じたからだ。
「いや。この間喧嘩してたからな、ちょっと気になったんだ」
ぴくりと眉を振るわせる。
「喧嘩…あの子が?」
声色に緊張のようなものが混じったのを聞いて、実隆はちらっと彼女を横目に見る。
頬が引きつっている。
「なんだよ、確かあいつ中学生だろ?喧嘩なんか珍しくもないだろ」
女じゃあるまいし、と言いかけて止めた。
なんか、それを言うのは卑怯な気がしたからだ。
その代わり、彼女の反応を待ってみる。
しばらく無言で歩き続けて、困った顔のまま、彼女は言った。
「ごめん、あたし急ぐから」
「え、あ、おい」
見る間に彼女の姿は小さくなっていった。
呼び止めるのも、車が飛び出してくるのも構わずに。
――…全く、何過保護になってるんだか
中学生の喧嘩ぐらいであんなに心配そうな顔をして。
彼はそう思ったが、必死になった彼女の貌が妙に引っかかっていた。
菜都美も弟のことはともかく、昔は喧嘩っ早い性格で、女だてらにガキ大将をやっていた。
そもそも、彼女とのつき合いも長く、小学校の頃から暴れん坊だった彼女をたしなめるのが彼の役目だった。
何度か本気で殴り合いもしたことがある。
もっともそれは小学生までだったが。
中学に入っても、体格差があるはずの男子と対等に渡り合い、仲裁に入る実隆がいなければ被害が拡大する一方だった。
だが卒業直前、彼女は喧嘩を止めた。
喧嘩ができなくなったというべきだろうか。
――そうか
そんな時に、やっと思い出した。
――あの時か、あれは
菜都美が真っ赤な顔ではにかんでいたのは、その頃。
あの――時の事ははっきりとは覚えていない。
何故彼女がそんな顔を見せていたのか。
――同じ高校に行くとは思っていなかったからな
何となく心の中のもやもやははれた。
でも、だから菜都美のあの必死な表情を思い出して小さく舌打ちした。
彼の家――楠の家は、ごく普通の家だ。
どこにでもある、建て売りの二階建て住宅。
ちょっとだけベランダや出窓があって、実は内装も豪華っぽい。
どうやら家人の趣味らしく、小綺麗にまとまった調度類は暗褐色で統一されている。
庭も見慣れたものだが、手入れが行き届いている。
親父さんの趣味が庭いじり、いや、ガーデニングらしい。
「ただいまー」
玄関をくぐると、いつもの里美さんの明るい声が聞こえるはずだった。
だが、ざわざわと誰かの声がして、騒然とした感じの居間があるだけで――
「あ、おかえりなさい。寒かったでしょ、台所のポットお茶あるからね」
ばったりと、居間から出てくる彼女と鉢合わせた。
「はい、どうも」
何となく気まずくなって、とりあえず返事を返してそそくさと台所に向かう。
――なんか、変だ
先刻の彼女の表情。
気まずくなった最大の理由は――今、自分の母親が、ぎこちない笑みを浮かべていたから。
いつものような底抜けの明るさのある声ではなかったから。
菜都美にしても、今の彼女にしても心をざわめかせる。
――何かある…いや、あったのかな
それとも自分の変化だろうか。
妙に過敏になっている気がする。
卓の上にあるポットを取ると、彼は湯飲みに注いだ。
お茶専用のポットがこのうちにはある。お湯専用は電気ポットで、コンロの脇にある棚の上にある。
暑いときの冷蔵庫のお茶と同じようなものがほしい、という父親たっての願いだとか。
湯飲みから湯気が立ち、少し口に含む。
喉を通る暖かいお茶は、熱くもなくぬるくもない。
肩からぽっと暖まっていく。
――妙にのどが渇いている
とりあえず鞄から弁当の空容器を出して、卓の上に置く。
居間の騒ぎも気になるが、彼は二階にある自分の部屋へと戻ることにした。
今日はもう疲れた。
ベッドにごろんと横になって、彼は大きく溜息をついた。
――なんでこんなに振り回されなきゃならないんだ
今感じている不安が、不調が、何故か全て菜都美のせいに思えてくる。
あんな別れ方をして、母親は奇妙に含むところがあり。
気のせいなんだろうと思う。気のせいだとは気がついている。
でも、何故か苛々する。苛々を――止められない。
今朝、寝坊したせいもあり、苛々よりも眠気の方が強く襲ってきた。
今寝たら、夕食を逃すだろうか。
いや、ここの食卓に限ってそれは絶対あり得ない。
――呼びに、来るよな…
少しだけ眠ろう。
苛々だってそれで解消できるはずだから。
風。
いつもよりも早くいつもよりも強く、風が吹いている。
空気と一緒に風景が流れ去っていく。
とん、と軽い音が聞こえて、視界が更に流れていく。
軽い。身が軽い。
どこまでも遠く遠く遠くへと吸い込まれていくように身体が舞う。
風の流れが、まるで渦のように全身を取り巻いている。
たった一点の、狂いも惑いもない点へ。
スピードと全身が感じる歓喜に、心臓が破裂しそうだ。
顔まで引きつれて、笑っているのか――判らない。
ちりん
だけど、それはほんの一瞬で元に戻った。
今の今まで見えていたあり得ない風景が、まるで嘘のように。
時間を巻き戻したようにすぐに――元に。
同時に時間が還ってきた。
今までの無限に引き延ばされたような時間感覚では感じられなかった。
夜――蒼い蒼い夜が周囲に帳を下ろしている。
――ああ、いつの間にか夜になっていたんだな
感じられないはずだ。
夜がこんなに明るいとは。
そんなに悠長に考えてる暇はない
思考と行動が一致しない。
そのずれを感じた時――それが夢だと言うことに気がついた。
――なんだ…夢か
夢の中で夢であることに気がつくと目が覚める、という。
だが、夢の中の風景は続く。
視界がゆっくりパンしていく。
川――河川敷――住宅――車。
車の残骸のようなものが堆く積み上げられていて、今にも崩れそうな気がする。
本当は崩れないのかも知れない。だってあそこは――
視界が揺れた。
再び、あの加速度的な風景が――でも、今度感じているのは歓喜ではなく。
それは緊張。
戦慄、という言葉が似合う程陽気で、残酷な思考。
間違いなく純粋さを失った――狂気。
でもそれに委ねる快楽というのは――純粋さよりも、強烈な意志を持つ。
自らで選んで、それを選択しているのだから。
とん、とん、とん、と。
揺れている視界が定まっていく。
ここはあの、車が見えた場所。
まずい、と。
一瞬、自分ではない自分が思考する。
ここではやられる――殺られる?
何かが近づいている。
ずしゃ
兇悪な音が響いた。
多分、それは履いた革靴がたてた音。
原因は――普通なら耐えきれないほどの重武装をしているから――
視界にそいつが現れた。
正確には視界に納めたのだ。
誰あろう、自分が。
敵と認識した段階で、それ以上の判断は必要ない。
ただ殺すだけ
ただ――殺す?
「――十三の風の死者より通達する」
“Death of Wind notify ”
声が聞こえた。
凛とした、厳かな口調。
その紡がれる言葉は英語――Kingdom English。
「隠された眼はお前達の星々の中で息づく」
“The hided eye breath your solor system”
だ たん
突如意志とは別の方向に視界が引きずられていく。
ああ、だから――なおのこと、それが夢であると強烈に意識させる。
なのに、夢は覚めない。
影のような人が次々に歪む視界に割り込んでくる。
何かが動く。
ひゅん
空を裂く音が響いて、耳元をかすめていく。
怒り。
視界が一気に宙を舞い、人影に迫る。
残像
だが人影はすぐに消える。
悔しそうに影の飛んだ方向へと視線を移し、僅かに後ろに跳躍して――手には何かを握る。
それは、車のフレームの一部。
もう一度、今度はソレを構えて突進する。
「日記は存在する。雷の環は終焉を迎える」
“Diary is exist. High electric ring ended.”
影は地面を蹴って、車の残骸に跳ぶ。
顔が引きつれた。
にやりと笑ったようだ――思惑通り過ぎて。
声のする方向に目を――否、手に持ったフレームを投げた。
人影が、手にした物を宙にいる間に構え――それだけに飽きたらず、視界が急速に接近する。
暗くなる視界に、衝突の衝撃。
ご がん
影の足下が、今の――車に対しての体当たりだろう、それによって一瞬崩れる。
着地の地点が僅かにずれる。
「――!」
既に崩れてしまった体勢では、飛来する斧のようなフレームを避けることはできない。
僅か――コンマ何秒かの小さすぎる隙が、敗因。
確かに勝利を感じた彼は、口元に笑みを湛えて、風の唸りを聞いていた。
ひょう
いや――まだ、勝利は確かではなかった。
目の前で、男は一気に鞘を抜き放ち、地面――車に鞘を打ち付ける。
逆手で構えた刃を、フレームに向けて――一閃。
甲高い音と火花を散らせると、フレームは回転しながら彼を避けて後ろへと突き刺さる。
「やる…な」
ああ、初めて声が出た。
そう思った時、影の顔が――
「ご飯よ」
里美の声で目が覚めた。
「あ…」
眼前にどきりとするほど可愛らしい笑みを湛えた女性がいる。
里美さんだと気がつくのに、数秒を要した。
起こしてくれたのは嬉しいが、心臓が余計に高鳴っている。
「ふふふ、よく寝てるんだものね。疲れた?」
この辺はやっぱり隆弥と親子なんだと思い知らされる。
どこまで考えてやっているのか、時々判らなくなる。
すっと顔が遠ざかって、見慣れた彼女の姿に戻る。
部屋には明かりがともされている。
いつの間にか周りはずいぶんと暗く、時計は七時を指している。
「い、いえ…すみません」
いつも部屋まで呼びに来ない。
それだけ、深く寝入っていたと言うことだろう。
不思議に思いながら身体を起こして――全身が軋みを立てる程痛い事に気がつく。
寝起きだからだろう、妙に引きつる身体を無理に起こして、彼はそのまま食卓へと向かう。
食卓には、もう親父さんが座り食事を待っていた。
結構この辺は家族思いなところがあるらしく、優しい親父だと思う。
「…あれ?兄貴は?」
だがそこに隆弥の姿がない事に、彼は眉をひそめる。
親父、楠 重政の顔色を伺うように目を向けると、彼は目を閉じて首を振った。
「まだ帰ってきていない。部活にしては遅すぎるようだが――里美?」
実隆の後ろにいる彼女に声を掛けると、彼女は困ったように顔を歪めて、とてとてと廊下に出ていった。
電話をしてくるつもりだろう。
「ほんと、兄貴どっかで遊んでるんじゃねーだろうな」
ぶつぶつ言いながら、親父の左手に座る。
ここが、指定席。
向かい側に隆弥が座り、親父の真向かいが里美という並びである。
「ミノル、お前最近体調悪くないか?顔色が優れないようだが」
「んー…ちょっと夢見が悪くて、寝付けないだけだから」
そうか、と彼は心配そうに腕を組んで、しばらく唸る。
「悩み事でもあるんじゃないか。今更遠慮するなよ、金と女以外なら相談に乗ってやるから」
「親父…」
ふざけているのではなくて、これで本気なのだからたちが悪い。しっかり心配そうな顔をして、彼を見ているのだから。
実際、彼は今更遠慮するつもりはない。
する理由も、必然もないのだから。
ただ、この親子の雰囲気だけには我慢ならん。
「そのマジボケ、どうにかしてくれ。…頼む」
「自分の父親に向かってなんて口の利き方だ」
苦笑して実隆の肩をぱんぱんと叩いて肩をすくめる。
「こういう性分だ、仕方ない」
その時、里美が相変わらずのんびりして入ってくる。
「あの子、怪我で今病院に行ってるんだって」
「ほう、大事じゃなければいいが」
――怪我?
実隆は思わず叫びそうになった。
無論、そんなはずはない。
第一、学校で、部活をしているはずの兄貴だ。
そんな――はずは、ない。
「兄貴が?」
そーなのよ、と溜息をつくように里美は寂しそうな顔をする。
「隆弥ちゃん、いつ言っても怪我の時電話くれないから」
心配かけないつもりで大きな心配を掛けている良い例だろうか。
少し同情して溜息を吐く。
「…のんびりしてるから気づかなかったのかもよ」
言ってからフォローになってないと気がついても遅い。
「おお、そう言えばそうか」
ぽんと手を打つ父親。
「そうよ、実隆ちゃん、そうかも知れない」
驚いたように目を丸くしてうんうん頷く母親。
きりきりとこめかみに来る痛みに顔をしかめる実隆。
「あのねぇ」
思わず眉根を押さえて頭を抱えこんだ。
こんなのんびりした家族だから、こそかも知れない。
思わず実隆は疎外感を覚えて――それが何なのかは、判らない――溜息をついた。
「とりあえず、遅くなりそうだから夕食にしちゃいましょう」
里美の意見は非常に合理的だった。
丁度、食事を終えた頃、玄関から声が聞こえた。
「おかえり〜」
とてとてと里美が出ていくのを追うようにして、実隆も彼を出迎えた。
隆弥はいつもの学校に行く格好で玄関で靴を脱いでいるところだった。
「あ、里美さん、ただいま」
気軽に彼は振り返って、玄関に素足で登る。
――!
その瞬間、彼は素顔を玄関の灯りの中にさらした。
それが――実隆にとって、衝撃にしかならなかったことにすら、気がつかずに。
「ミノル、ただいま。たまには出迎えてくれるんだね」
彼は嬉しそうに言うと、実隆の肩を叩く。
――怪我をしたって…
確かに、実隆は怪我をしたらしい。
彼は右頬に大きな絆創膏らしきものを貼っていた。
医務室でもらえるようなものだ。
「怪我したって聞いてたから心配してたのよ」
「だから、死ぬほどやばければ電話するって」
――できないよ、死ぬほどやばい怪我をしてれば
実隆は条件反射的に思考する自分を恨む程――硬直していた。
自分の心音だけははっきり確実な音として首筋を叩き続ける。
離れていく里美と実隆の会話が、意識の外側へと消えていく。
――何で
人工的に区切られた闇へと彼らが埋没してしまっても、実隆は光の中から動けなかった。
――何で、夢の中で見たままの怪我をしているんだ――!
眠れない夜が訪れる。
時計が指し示している時刻は既に十一時を回っている。
眠れない――寝付けない。
そんな馬鹿なと思いつつ、決して譲ろうとしない、そんな、感じ。
そしてもう一つ、もし付け加えるのならば――何故、今、こんなにも不安を感じているのか。
こん こん こん こん こん こん
突然響いた扉の音に、彼は飛び起きた。
軋むこともなく扉が開き、はっとした気配がした。
「…兄貴?」
廊下の灯りに顔が隠れて、表情ははっきりとしない。
でも長いつきあいだ、そこに誰がいるのかぐらい、見えなくてもわかる。
「ごめん、寝てたか」
「いいよ、寝付けなかったし。…話、在るんだろ?」
少しの間躊躇う空気。
やがて、隆弥は扉を閉めた。
ぱちんという電気の弾ける音に続いて、蛍光灯が瞬く。
あっという間に闇は払われて、いつもの夜の部屋が現れる。
無機質な白い壁に、小さな机。
机の上に並ぶ教科書と文房具――それだけなら、全く持ってこれほど愛想のない部屋はない。
隆弥は彼の座るベッドの前にある、勉強机の椅子を引き出して座る。
「ミノル、大学に行かずに就職するとしてね…どんな職業に就くつもりなんだよ」
呆れた表情を浮かべて、彼は聞いてきた。
多分別に呆れているわけではないだろう。そう言う風に見えてしまうのだ。
「どうせうちの家族のことだから、別にお前がどうしようと何も言わないと思うし」
冷たい蛍光灯の明かり。
暗い青白い空間の薄暗さが、周囲に満ちている。
まるでブラウン管の中の世界のように、現実味がない。
「兄貴はそう言うだろうけどさ」
実隆は自分の両膝の上に手を組んでのせる。
「…やっぱり、俺達じゃ家族にはなれないか」
実隆が言葉を継ぐ前に、寂しそうな笑いを張り付けたまま先に彼が口を開いた。
急に重苦しい空気が、実隆の肺の中に満ちる。
息が、できない。
「あ、兄貴」
「あははは、冗談だよ。…ただなぁ、その代わりじゃないけどもしっかり理由を聞いてやる。さあ言え」
実隆は額を押さえ込んで歯をがじがじやって唸ると、がばっと立ち上がって人差し指を彼の額に突き刺す。
すぐ側だったのでのけぞってそれを避けながら、あははと乾いた笑いを漏らす隆弥。
「あーにーきーっっ、冗談だとしても言って良いことと悪いことがある、そこになおれぃっっ」
「…もうなおってますよ」
「ええいうるさいっ、この馬鹿兄貴がっっ」
ばしばし。
実隆は全力で否定する。
はりせんちょっぷの応酬である。
隆弥も判っているのか、適当に流して受け止める。
やがて、テンポが遅くなって、ぽてっと隆弥の頭の上で手が止まる。
「…兄貴、やっぱ俺狭量な奴なのかな」
隆弥はその手を取り除くようにつかむと、ぎりっとひねりあげる。
「いぃてってって」
「馬鹿、とりあえずお前、座れ。…まずはお前の理由を聞かせろ。…言ってるだろう」
ぱっと手を離す。
実隆は呻きながらベッドに座り込むと、恨めしそうに隆弥を睨んで、そしてしばらく逡巡するように沈黙する。
「俺、真面目な職につくつもりはない。できるだけ…その、枷のない仕事を探してる」
「……お前そんなに不真面目な奴じゃない癖に」
「黙れよ。…俺は、自分の血筋がいるような気がするんだ。まだ…その、じいさんとか、いとことかが」
実隆は孤児、ただその名前だけが唯一残されていた。
過去の状況も、人づてに聞いただけではっきり調べたわけでもない。
どうして名前が残っていたのか。
どうして自分だけ生き残ったのか。
どうしてその後、児童養護施設に入ったのか。
他に家族はいなかったのか。
――どの疑問も、彼を楠に改姓させることはなく。
「もしかして、日本の中にはいないかも知れない。それでも、俺は探してみる」
実隆は睨み返すように隆弥を見る。
彼は――胸に自分の腕を抱えるように黙り込んでいる。
「それじゃ…やっぱり、出ていくのか」
「とりあえず、ね。兄貴はやっぱり兄貴だし、この家族だって俺の家族だ。…でも」
「あーあー、わかったわかったって。…お前、やるって言ったら終わるまで辞めないだろう」
隆弥は肩をすくめる。
「昔からそうだったしな。言い出したらきりがない。いいか?無茶だと思ったらいつでも休ませてやる。…帰って来いよ」
隆弥は実隆が頷くまでそこにいた。
しっかり肯定の返事を聞くまでがんとして動かず、実隆が折れるように返事をすると、にっこりと笑い
「約束したからな」
そう言い残して部屋を出ていった。
その日は、何の夢も見なかった。
朝の目覚めも、まるで唐突な出来事のように瞼の裏側から訪れた。
――もう朝か
時計はまだ鳴っていない。
七時前――太陽が窓から差し込んでいる。
日差しが突き刺さるように目に入ったからだろう、と思うと彼は身体を起こして目覚ましを切った。
――とりあえず、バイトから始めないと
昨晩の話を、そんな風に考える。
フリーターという奴が結局一番自由なのだ。
それに、どこかに住む理由もない。
でもどこかにいるだろう自分の血筋を見つけて――そしてどうしようというのだろう。
自分で自分に疑問を向けても、その決心は揺るがないのに理由は見えない。
――本当の家族?
「おはよう、実隆ちゃん。よく眠れた?」
挨拶を返し、卓につく。
――そんなものは探さなくても、今ここに留まれば充分じゃないか。
いつものトースト。
コーヒー。
マーガリンを塗りながら、角っこをかじる。
――でもそれじゃ、だめだ
「隆弥ちゃんはまだねてるのね〜。もう、たまには起こしてあげないといけないね」
とんとんと軽い足音を立てて、里美は二階へと消える。
どうやら普段は起きてくるのを待っているだけのようだが…遅刻は良いんだろうか。
食後、コーヒーをすすっていると里美の足音だけが階段から聞こえた。
少し困った顔をしている。
こういう眉間にしわを寄せた表情というのは、隆弥とそっくりだったりする。
「……実隆ちゃん、先生に連絡お願いできる?」
「え?もしかして兄貴、何か?」
「熱が出てるのよ、今日はお休みするから」
最後の一口を飲み込んで、カップを卓の上に置いて頷く。
「判った、熱が出てるって伝えとくよ。…行ってきます」
重政と車を出すだの病院に連れて行くだの話を始めた食卓を、彼は背を向けて玄関に向かった。
その日は、それだけではなかった。
玄関の扉を抜けて門扉を見ると、いつもそこにある姿が見えない。
『おはよー』
いつもならそんな声が聞こえるはずなのに、脳裏には届くのに姿はない。
――あれ?…皆勤賞狙いの菜都美もいない
熱が出ようと風邪を引こうとインフルエンザだろうと学校に来ていたのに。
本来病気を持ち込むという意味ではそういう行為は非常に迷惑なのだが。
ともかく、門まで出ても彼女の姿はない。
時計を見ると――問題なく、時間はある。
――…くそ、何で気にしてるんだ
と思いながらも彼は一度彼女の家を経由する事にした。
これ以上非日常は勘弁したい――そんな気持ちの方が大きかった。
「休み?」
真桜家の玄関で、実隆は声を上げた。
真桜の家は、道場主とは言え普通の家だ。
古風な武術をしているからと言って道場も古風とは限らない。
今時の武道家なのかただ単に伝統より新しいものが好きなのかは判らないが。
真桜の道場は駅前のビルの七階に結構広いスペースを借り切っている。
「ええ、そうなの」
菜都美の母親も、朝見た里美のように困った表情をしている。
――偶然が続く。
どこかで、連鎖する偶然があると聞いたことがある。
そんな場合、それは偶然ではなく必然だったのだと――なんか、そんな話だった。
「熱でもあるんですか」
だからついそう聞いていた。
一瞬彼女の貌が戸惑うように揺れて、少しだけ首を小さく振った。
「そんな、深刻じゃないの。…心配してくれてありがとうね」
ふとこの言い方で実隆は気がついて慌てて頭を下げた。
――他人の事情を深く聞いちゃまずいよな
それも、女の子である。
適当な理由を頭の中で見繕って、菜都美は風邪で休んでいることにする。
「いえ、それじゃ、お大事にって伝えておいてください」
実隆はそれだけ言うと、さっさときびすを返して学校に向かうことにした。
さすがにこれ以上もたもたすると、学校に遅刻する。
彼女の家の門をくぐり、彼はふと気がついた。
――もしかすると、ただそれだけのために休んでいないのかも知れない
絶対に遅刻しない(させない)為に。
――んな馬鹿な
いくらなんでも思い上がりすぎだ、と自分で自分を馬鹿にして溜息を吐く。
久々の一人きりの登校。
以前は隆弥と一緒に登校していたが、隆弥が段々寝坊するようになってからしばらく一人だった。
菜都美との事件があったのが丁度一年と半年なので、もう随分久しぶりだろう。
――こんなに、時間長かったっけ…
せいぜい歩いても十五分程度。
距離にすればキロもないだろう、そのぐらい。
何故か今はその距離が妙に、長く遠いような気がした。
と と と と
その時、背中側から軽い足音が耳に届いた。
誰かが近づいてくる。
「よーっ、おっはよー」
そして聞こえるはずのない声が、聞こえた。
驚いて振り向く実隆の視界に、遠慮なく飛び込んでくる菜都美。
「おわっ…って、お前、病気じゃなかったのか?今日学校休むって…」
勢いよく彼の目の前で止まると、にっといつもの笑みを浮かべる。
「え?そんなこと誰が言ったの?」
実隆はしまった、と思いながら呆れて溜息をついた。
額に手を当てて唸りながらうつむく。
「………騙された」
「えー、人聞き悪いよぉ。勘違いしたって言って欲しいな」
「五月蠅い」
一応ながら心配した自分が馬鹿だった、と思いながら実隆は顔を前に向けて歩き出した。
「でもめずらしいじゃん、ミノルから誘いに来るなんて」
珍しい、ではなく初めて、だと表現すべきだ。
実隆はそんな細かいことをつっこむこともなく肩をすくめる。
――五月蠅い
自分が少しでも心配していたと気がついて、恥ずかしいのか理由がでっちあげられない。
結局、当たり障りなく話をそらすことにした。
「……まぁな。…そういえば、隆弥も休みなんだよって、お前は学校に行くんだったな」
と、笑いかけようとして――凍り付いた。
「どしたの?」
僅かにぎこちなく表情をごまかしたが、それ以上上手く笑うことができなかった。
右頬に、肌色の絆創膏がある。
最初は気がつかなかった――彼女は気にしているのか、化粧でもしているのだろう。
「いや、その、頬の傷」
あ、と目を丸くして恥ずかしそうに笑い、そして頭を掻いた。
「ちょっと、ね。ううん、大した傷じゃないし、大丈夫よ」
大した傷じゃない、と言っておきながら、かなり大きい切り傷だ。
――そんな、はず、ない
ついっと視線をそらせて、彼は自分に言い聞かせるようとする。
「何、心配してくれてるの?」
「うるさいっ!誰がお前の心配なんかするか!」
人間は、本当にどうしようもない時に話しかけられると本音が出てしまう。
あ、と気がついてももう遅い。
本当にそれどころじゃない――でも、今の反応は明らかに心配している人間の反応だ。
と、気づいた時には、本当にんまりと笑みを浮かべる幸せそうな顔があった。
舌打ちしてそっぽを向いて、彼は黙り込んだ。
――くそ、勝手に喜んでおけ
なぜか沈黙が続く。
一人の通学よりも何故か寂しい空気が漂う。
実隆の僅かに後ろで、菜都美はうつむき加減に彼の様子をうかがっている。
初めは嬉しそうに笑っていたのに、いつの間にか笑顔が消えてしまっている。
――全く…何を考えてるんだ
でも実隆も自分から声を掛ける気にはなれない。
「……ミノル」
結局沈黙を破ったのは彼女の方だった。
僅かに目を伏せて、視線を正面に固定したまま。
「何だよ」
再び沈黙。
彼女の貌を盗み見るように目を向けると、彼女も顔を上げた。
「今日、一緒に帰れないかな」
いつも遠慮もせずに背中から声を掛けるくせに、妙にしおらしく言う。
少なくとも、こんな時の彼女は何かを相談したいか、言いたいことがあるはずだ。
――それはよくわかっている
ふと優越感を感じて、少しだけ気をよくした。
ちらっと彼女を見ると――そわそわと、不安そうにしている。
「いいぜ。どうせ暇だしな」
予想外に。
彼女は、僅かに安堵の表情を見せただけで笑う事はなかった。
何となく無言のまま、居心地が悪くて彼は不機嫌な顔を崩さなかった。
菜都美と別れると、教室の机の前で誰かが鷹と話をしていた。
「…あ、ほら、柊が来たから聞いて見ろよ」
めざとく教室に入る彼を見つけた鷹が、くいっと親指で実隆を指す。
学生服の少年は――見覚えのある。
彼はくるっと振り向いて、安心したように僅かに微笑みを浮かべた。
「柊さん」
剣道部の主将、鈴木だ。
学年は言うまでもないが一つ下、夏前に剣道部主将を務めるようになってからもちょくちょくここには来ていた。
三年の癖にレギュラーから離れられない隆弥のせいだとも言える。
隆弥もおっとりした人当たりの良い性格だから、後輩の受けは良かったようだ。
「ああ…昨日のことか?」
家に来たこともあるので、彼も顔は良く知っている。
鈴木は眉を寄せたまま頷くと、思わぬ事を言った。
「ええ、いつも試合以外でお願いすることはないんですけども」
「……?何の話だ?」
「あれ?練習のことなんですけど…昨日連絡したら『明日にしてくれ』って言われたんで」
実隆は眉を寄せた。
「兄貴、昨日練習で怪我したって言ってたぞ。病院に寄ってたから遅くなったって…」
すると鈴木は目を丸くして首を傾げた。
「え?でも、三年になってから練習で姿を見かけたのは試合の前の週だけですよ」
「ちょっと待て、あいつ毎日…」
そう言って、実隆は黙り込んだ。
鈴木が、何の意味もなくこんな下らない嘘をいう理由はない。
むしろ『そういうこと』なら、黙っているものである。
あの隆弥が口裏を合わせるのを忘れていたとは思えない。
もし部活の振りをしてどこかに出かけていたのだとすれば、昨晩の怪我だって理由がつく。
でも。
「柊さん、俺そろそろ行きます」
実隆が黙ってしまったので、ますます困惑して鈴木はとりあえず退散することにした。
「…悪いな。あいつ今日は休みだから、今度にしてくれ」
鈴木が頭を下げて帰ると、実隆は席についた。
そして今度は鷹が机の前に立つ。
「クスの奴休み?」
鷹とは隆弥は決して仲がいいようには見えない。
だが結構良いコンビである。
彼と二人で連むのは決して珍しいことではないし、少し変わった雰囲気の友人だった。
「ああ。なんか熱があるらしい。…昨晩はどっかで怪我してくるし」
は、と言うと彼は顎に手を当てる。
「もしかしてあれかな、今流行の奇病」
「へ?」
「何でも、かかると熱が出て倒れるらしいぞ」
新聞やテレビのニュースでは、未だに原因不明の謎の病気だとされている。
この病気が発見されたのが隣町で、数日熱がでて寝込むがその後何事もなく快復するという。
ただしここ数日立て続けに彼らは失踪しているという。
「…まさか」
実隆は笑いながら肩をすくめる。
ふん、と鷹は腕を彼の机の上に置くと僅かに声のトーンを落として話し始める。
「あのさ、実は聞いたんだけどさ…駅の裏っかわ、暗い通りがあるのは知ってるよね」
言いながら少し周囲を見回して、更に声量を小さくしていく。
彼の表情は硬い。
「そこでクスが見かけられたらしいよ。何人かから証言をもらったから間違いない」
実隆は絶句した。
駅の裏側にある通りとは、無論それだけでは別に対した意味があるわけではない。
問題になるのは――わざわざ『駅裏』と呼称した時である。
ここの駅は繁華街が隣接しているだけでなく、入り組んだ路地をもっていて、地元の人間でもその構造を把握できないと言われている。
急な上り坂と乱立するビルで囲まれた小さな密閉空間。
警官であろうと襲われることがあるという――犯罪の温床と言われている。
もちろん最初はそうではなかっただろうが、過去にやくざが一帯を占めていた事が原因の一つと言われている。
「そんなとこで…」
「まぁ、柊が信じる信じないは別さ。小耳に入れておきたかったから」
実隆がきっと顔を向けると、慌てて彼は手を横に振る。
「鈴木には言ってないよ。そんな顔をしないでくれ」
そんなに恐い顔をしていたのだろうか。
すぐに謝って、彼は自分の席に戻る鷹を見送る。
――しかし
家に帰ったら聞いてみなければならないだろう。
もしかして倒れたことだって、何か関係あるのかも知れない。
午前中の授業も半ば、彼はずっと考え込んでいた。
そして昼休みになる。
――弁当
今日は隆弥もいないし、別段誰かと食べている訳でもないので机の上に弁当を載せる。
外に行こうか、と一瞬思ったが、外は寒い。
窓から外を覗くと、それでも結構中庭には生徒が見える。
雪が降りそうなぐらい寒いのに、良く外で食事をする気になれる物だ、と思いつつ弁当の包みを開こうとする。
「……?」
視線が、気になる。
――まさか
昨日の今日だが…と周囲を見回すと、案の定クラスの視線がちら、ほらと実隆とある一点に向かっている。
一点……は、教室の入り口付近だ。
――あの莫迦
目を向けると――案の定、菜都美が教室の前をうろうろしている。
彼は後頭部をぼりぼりとかくと、弁当の包みをもって彼女のいる教室の外へ向かう。
「あ」
くりっと振り向いた目の前に実隆がいて、彼女は驚いて目を丸くする。
態度としては可愛い物かも知れない、が。
「……昨日言わなかったか?教室の前を彷徨かれると困るって」
らしくない。
菜都美が、今の言葉に反論もせずにただ頷いて、黙り込んでしまう。
実隆は溜息をついて両手を腰に当てる。
「おまえ、なんか病気かなんかか?全然らしくねーじゃねーか」
「そう?……そ、かな。そうかも」
彼女はびくっと震えて、形のいい眉を八の字に寄せる。
にこにこと笑うその貌は、余計に痛々しく見える。
一瞬戸惑い、自分のそんな態度に逆に腹を立てて、彼はふん、と鼻息を荒くする。
「いいや、飯でも喰おうぜ。…屋上あたりで。詳しく話を聞いてやるよ」
屋上、とわざと言ったにもかかわらず、反応は芳しくない。
実隆は無言で彼女に背を向けてため息をついた。
はっきり言って、気弱な雰囲気の菜都美なんか見ていておもしろくも何ともない。
中学時代の『暴君』を見ているからなおそう思うのかも知れない。
――そう言えば、俺のことをミノルって呼ぶよな、こいつ
ふと目を向けると、案の定弁当が入っているのだろう、小さな鞄をもってうつむいたままついてくる彼女が見えた。
実隆は、他人の名前を意識して呼んだことがない。
家族である隆弥にしても、『兄貴』だ。
名前を呼ぶことに抵抗はない――事実、菜都美を名前で呼ぶ。
ただしおい、とかこら、とか代名詞以下の呼びかけで彼女を呼ぶことの方が多い。
「…外は寒いよな」
「冬、だもんね」
半ば挑発的に言っても反応は変わらない。
何故か、奇妙な会話になる。
わざとらしく聞こえる彼女の明るい声にまで彼は苛々と反応してしまう。
沈黙。
実隆は溜息を一つ、彼女に向けた。
一瞬惚けたような表情で菜都美は彼を見返す。
「お前、今日は本当にどうかしてるぜ」
ぱちくりと数回瞬くと、乾いた笑いを見せて実隆の肩を数回掌ではたく。
それも奇妙に力無く感じた。
「…屋上で話そうよ。こんな息苦しいとこじゃ、なくてさ」
何故か今の顔が、笑みが、それを見ただけで苦しいなどと下らない想いが脳裏を過ぎる。
そのぐらい、今の彼女は彼女らしくない、腑抜けた感じがした。
穹。
蒼穹は視界いっぱいに広がっていて、白い雲を率いて自らの存在を主張する。
でも、その存在は決して『存在』に非ず、見る物の認識こそが『存在』であると――誰かが言った言葉。
事実こうやって見上げていてもその底は知れず、永遠に遠くまで届くようで、決してそんな事はない。
物理的な限界もあるし、それにそれ以上に――そんな、無粋な感情を抜きにしても、青空には限界がある。
嫌いじゃないけど、好きになれない。
それは多分、そんなところにあるんだと、実隆は感じていた。
彼女が、話し始めるまで。
屋上は広かった。
思いの外、誰もいないし――そりゃそうだ、こんな時期にわざわざ屋上で弁当を食べようなどと思うのは酔狂だ――
何より、静かだった。
冬なのに風もなく、ただくすんだ青い空だけが彼らを迎えていた。
「寒いね」
最初に呟いた言葉がそれだった。
でも、その代わりそのおかげでそこには他に誰もいない。
中庭と違って遮るものもなく吹き付ける寒風。
日差しだけは変わらなくても、ここは寒い。
多分、これからも。
「ああ、寒いな。……何か文句あるか」
ぶんぶん。
菜都美は音を立ててもおかしくない勢いで首を横に振って、少し赤い顔で笑った。
……やっぱり、らしくない。
『五月蠅いわね、誰が屋上に行こうって言ったのよ』
そのぐらい反発してきてもおかしくないというのに。
だからわざわざ、『お前だって行こうって言ったじゃねーか』という科白まで用意しているのに。
「じゃ、ともかく約束だ、まず話してもらおうか」
彼らはとりあえず入り口のある小さな、屋上に飛び出したひさしのような下にしゃがみ込んだ。
菜都美はハンカチより大きな布を自分の座る場所に敷きながら、戸惑ったような顔でぱちくりと目を丸くする。
「え」
彼女が非難するより早く、実隆の方が続ける。
「屋上で話してくれるんだろ、ここなら息苦しさもないし」
先刻聞いた彼女の言葉をそのまま返す。
ぺたん、とそのまま座り込むと、覗き込むような上目で苦笑する。
「あは♪……」
許しを請うような視線が来るが…
「言うよな」
実隆はがんとして譲ろうとしない。
――そもそも、菜都美の方から言い出してきたくせに
今朝の事を思い出しながら彼女の様子を見つめる。
やがて菜都美は本当に泣きそうな顔を浮かべると顔を正面に向ける。
「……酷いな、ミノル…」
ぐす、とぐずつきながら彼女は弁当を取りだした。
四角い紙の箱に入った弁当は、どうやらサンドイッチらしい。
「それだよ。俺のこと、ミノルって呼ぶ女、お前だけなんだよな」
何を今更、そんな感じの顔をちらっと向けると、箱を開く。
箱の大きさに敷き詰められたサンドイッチが並んでいる。
「だから全校公認だっての。もう、今更呼び方変える気ないからね」
今度は実隆が絶句する番だった。
「お前」
「何。……ミノル、誰か他につき合ってるの?あたしじゃ駄目な訳?」
きっと吊り上げた目で睨む菜都美。
突然のことで頭が混乱している実隆は、とっさに対応できない。
実隆の反応に気をよくしたのか、てれっと笑って小首を傾げて言う。
「冗談だよ、そんなに目を丸くして見なくても良いじゃない」
冗談には聞こえなかった。だからこそ――でも、彼女は笑っている。
やがて彼の眉が吊り上がっていくのが見えて笑いながら少し腰を引いていく。
「ごめんごめん、意地悪だったよね、さすがに今のは。……て、ミノル、まさか本気にしたの?」
「馬鹿野郎っ」
ごずん
「いたいじゃないのよ!女の子に何すんのよ!」
「五月蠅いわ!ふざけるなこのぼけなすが!」
両手で頭を抱えて涙目で睨む彼女は、ふん、と鼻を鳴らして水筒の蓋を開いた。
小さなジャーになった水筒からは湯気が立ち上っている。
どうやら紅茶のようだ。彼女はそれを蓋に注いで、自分の手元に置く。
「……えっと、あたしの、ことだよね」
彼女は背中にある壁に身体を預けて、少し空を見上げた。
狭い、狭い狭い蒼い空。
こうやって覗くだけなら、灰色に濁った空に落ち込んでいくような錯覚を覚えるから、実隆は嫌いだった。
菜都美はぱくっとサンドイッチを一つかじる。
ちなみに実隆の弁当は一つの箱に、三分の一のおかずが入ったごくごく一般的な弁当である。
実隆も弁当の包みを開いた。
「…昨日のこと、なんだ」
すう、と急に消え入りそうになる。
一つ呼吸をおいて、先刻までの笑みがかき消える。
「とめたんだけど、さ。……ちょっと今、家の方で騒ぎになってるんだ、弟のこと」
自分の太股に乗せたサンドイッチの箱を見つめるようにうつむく。
風が止まる――なのに、空気が張りつめるように凍てつく。
肌を切り裂くような冷たさ。
何故か話を始めた途端に彼女の存在が軽くなったような気がした。
境目――そんなものが感じられたような、錯覚。
「治樹か」
こくん、と頷いてサンドイッチをかじると、紅茶を手にする。
咀嚼した後もしばらく黙っている。
その間に実隆は自分の弁当をかき込んでいく。
「……ミノル、恐いものってある?」
いつの間にか残りを口の中に放り込むと、菜都美は空を見上げていた。
実隆の答えを待たず、彼女は言う。
「すごくこわいもの。あたし、そのこわいものに普段は気づいていないの」
背筋をゆっくりと伸ばして反り返っていく。
空の流れる雲を追いかけているように。
「はは……だけどさ、一度気がつくともうだめなんだ。…しばらく、忘れらんなくてこんな感じ」
右手でサンドイッチをつまむとくるくると手元で回す。
やがてそれをぱくっともう一口かじって、頭を下げる。
音もなく髪が流れて、一瞬風に舞う。
「こわいもの、ねぇ」
何の話をしているのかよくわからなかった。
少なくともそれと治樹との関係はさっぱり判らない。
――判らなくても良いのかも知れない
彼女は誰かに聞いて欲しいだけなのだろう。
とても人には言えないような話。
「情けないよね」
両手で紅茶を包みながら、少し小首を傾げたままこちらを窺う。
弱々しい笑み。
少なくとも、こういう仕草をされると改めて彼女が『女の子』であることを認識してしまう。
「情けないことか?それは俺には判らないよ。俺に恐いものがあるのかどうか、それも今は判らない」
それより。
「……何で、こんな話を、俺に」
実隆の問いには真面目な顔をしてみせて、優しい微笑みを浮かべた。
それ以上聞いても多分無言だろう。もしかすると言いたくないのかも知れない。
だから、彼は顔を正面に向けて自分の弁当に取りかかる。
「治樹と関係のあることか?」
「全然関係がない訳じゃない。…直接は関係がないけどね」
彼女はサンドイッチの箱を折り畳んだ。
いつの間にか二人とも食事は終わっていた。
「…喧嘩の話か?そんな大げさな事」
「大げさって、ミノルっ」
実隆は最後まで言い切ることはできなかった。
思わぬ剣幕に押されて、驚いた表情を彼女に向ける。
菜都美は半ば身体を浮かした格好で、実隆を見下ろしている。
「あの子は……あの子はね」
ふるふると身体が震える。
やばい、と直感した時、彼女は顔をくしゃくしゃにしてそのままその場に崩れ落ちる。
「お、お…い」
顔を上げず、両手で自分の顔を覆い、無理矢理声を殺して泣き続ける。
突然の彼女の反応に、どう対応していいのか動揺してしまう。
周囲に人がいなくて良かった――まず、実隆は安心した。
――…何があったんだよ…
結局、それから菜都美は何も言わなかった。
もしかすると何も言えなかったのかも知れない。
昼休みの終了のチャイムが鳴る。別れ際に、彼女は『ごめん』と一言だけ呟いて背を向けた。
結局午後の授業も、全く身が入らなかった。
そして放課後、HRが終わって、部活の時間だ。
「おい」
荷物をまとめていると背後から声が掛けられた。
聞いたことはあるが聞き覚えのない――案の定、振り返るとなじみのないクラスメートが実隆を見ていた。
「先生が呼んでるぜ」
事務的に言うと、彼はさっさと立ち去っていった。
実隆は顔をしかめて弁当をそのままに、廊下に出てみることにした。
出ると、進路指導の先生の井口が立っていた。
――どおりで
担任の衛藤だったら先生ではなく『ゴリ』と呼ぶはずだからだ。
進路指導担当のこの教諭、スーツ姿にさえない顔をしているせいで、まだ何のあだ名もついていない。
それどころか――名前すら覚えられていないんではないかと錯覚する程だ。
「ああ、柊君」
井口は別段なんということもない風に声を掛けてきた。
「ちょっと、進路指導室まで来てもらえないかね」
「ここで、できない話なんですか?」
そもそも指導されるような真似はした覚えもないし、第一頼んだ記憶もない。
…大学に進学しない、という心当たりはあるが。
彼の態度は決して嫌みでもなく、特別強引なところがあるわけでもない。
一応提案してみる。
「んー…先方さんがなんて言うか判らないからね」
「先方?」
実隆の問いにはにこにこと表情も崩さずに頷く。
「ええ、お客さんが来てるんでね。わたしとしても是非君に話してもらいたいことなんだよ」
嫌な予感がした。
担任ではなく進路指導の教諭が、である。
なにも、そんな興味を持ちそうなことなんかそうそうあるはずもない。
彼の後ろについて進路指導室へと向かいながら、彼は鼻にしわをよせて井口の背を睨んでいた。
進路指導室に着くと、井口は入り口から脇に避け、指で彼に入るように示す。
ここは各教室からも離れ、ともすれば職員室からも離れているので密会にはもってこいの場所である。
だからと言うわけではないが、実隆は扉に手を掛けるのを一瞬躊躇した。
がらがら、と手入れのされていないサッシが音を立て、小さな部屋が視界に入る。
小さな部屋だ。こぢんまりした空間に二つの長机とパイプ椅子が数個おいているだけの、簡素な部屋だ。
「……柊君?」
そこに、数人の男と一人の女性がいた。男は二人。一人は右に座り、一人は奥で姿勢を正して立っている。
女性は左手にある椅子に座り、メモだろうか、書類を広げてペンを握っている。
「はい、そうですが」
女性はペンで、実隆の前にあるパイプ椅子を指し示してついっと視線をあげる。
「手間はとらせないわ。事情聴取させてもらおうと思って、呼んでもらったのよ」
年はまだ二十代というところか。
座っている不機嫌そうな男は四十代…立っている男もやはり二十代だろうか。
今の科白と、彼女の仕草でだいたい読めた。
――警察か
担任と校長には許可はもらっているだの、何だのどうでもいい前置きを並べると、女性は僅かに微笑む。
名乗りもせず――女性の刑事は話を続ける。
「二日前の夜、あなたはどこで何していたのか、教えてもらえないかしら」
一瞬夢の話が過ぎる。
「…あの」
まさか、とは思いつつ、声になっていた。
――あの夢で見た出来事……が、現実だったのか?
そんなはずはない。
第一――いや、でもそれを否定するだけの材料がない。
「いつぐらいの時間の話ですか?」
だから、一呼吸おいてまずそれを確認した。
女性は一瞬驚いたように目を丸くして笑みを浮かべた。
「そうね、夕方六時ぐらいから話してもらえないかしら」
二日前――夢を見た日の直前。
別に悪夢を見るような出来事はなかった。
「俺は部活に通ってるわけじゃないから、まっすぐ家に帰って…夕食を食べてました」
女性は小さくペンを走らせて、無言で頷く。
続けろ、と言うことらしい。
「その後、…風呂に入ってからあに…あ、同居人の部屋に行って進路の話をしていました」
「同居…ああ、楠隆弥君ね。そう?」
実隆は頷いて、僅かに眉をひそめてみせる。
「一体何の質問なんですか。警察の方ですよね、何か大きな事件でもあったんですか?」
ぞくりとした。
日本刀を持って佇む姿――それが、なぜか確信的に隆弥の姿をとる。
だが、女性の刑事は少し困ったような表情を浮かべる。
そして隣に座る厳つい顔をした男に視線を一瞬送ってから顔を実隆に向けた。
「もう少し、質問してから応えるわ。…それでいい?」
女性は笑い、ペンの頭をとんとんと紙の上で数回弾く。
だが実隆はそれに肯定も否定もしなかった。
そのせいだろうか――不機嫌そうな顔をした男が、のそりと身体を動かす。
「君」
事務的な話しかしたがらないような、そんな嫌な表情だ。
公務員というか、高圧的な警官に良くある態度で彼は口を開く。
「そのとおりだ。だから、君には協力する義務がある」
「だっ」
「最初に言っておく、我々は誰も信用しておらん。三秒後にはお前を被疑者と見なすかも知れない」
二の句が継げなかった。
がたん、と男のパイプ椅子が音を立てて、やっと我に返った。
いつの間にか指導室が逃げ場のない檻に変わっている。
追いつめられた獣の気持ちがよくわかる――そんな、気分。
「いいかしら」
頷くしかなかった。
少年は不機嫌そうな顔をして、部屋を立ち去った。
どうも手応えのない捜査になってしまった。
手がかりぐらいはと思っていただけに期待をくじかれた気分である。
「はぁ」
椅子に腰掛けた男――木下憲一は今年で警部になって四年、『ある意味』でもベテランの警部である。
一課の中では殺人事件のみを担当していると言っても過言ではない。
「全く手がかりなしとはね」
隣に座る女性は新任の警部補で、今回の事件担当が初仕事となる。
名前を井上淳子。
いきなり初めっから類を見ないような事件に当てられてしまって、非常に可愛そうだった。
本人そんな素振りは一切見せないが。
「警部」
後ろに立っていた若い男は真横ぐらいの位置まで来ると声を掛けてくる。
まだスーツが場違いに見えるような彼は、これでももう警官になってから六年になる。
「何だ矢環」
彼は矢環伸也、二六才。大卒の新米警部補である。
「やっぱりいきなり聞き込んだところで効果はありませんね」
「五月蠅い、これが俺のやり方だって言ってるだろうが」
不機嫌そうに木下は言うと立ち上がる。
一瞬胸ポケットに手が伸びるが、考え直してその手をズボンのポケットに入れる。
さすがに高校の進路指導室でたばこはまずいだろう。
「一旦帰るぞ。さすがに目撃情報だけじゃこっちも打つ手が少なすぎるからな」
どうせ、その目撃情報とやらも信憑性に欠けるのだ。
「はい。…せめて写真でもあれば良いんですけど」
それは、今の彼を犯人扱いするような発言かも知れない。
でも、できることならその方が簡単で楽なのだ。
それは判っている、だからこそ。
だからこそ、地道な捜査の単純な苦労が目の前に見えるのだ。
矢環はすぐに返事をして外で待つ教師へ話に行く。
井上が書類をまとめるのを横目に見ながら彼は不機嫌そうに眉を吊り上げる。
――まず、間違いのない情報なのにだ
鼻息荒くして窓の外を覗く。もう夕暮れ、夜の時間が迫っている。
丁度昨晩の事、惨殺死体が発見された。死体は損壊状況が激しく、無惨な状態でとても人間であると判別できなかった。
既に腐敗臭もただよっており、何故こんな状態の死体を発見しなかったのかは判らない。
腐敗の状況からして、十二から二十四時間以上経過しているのは確かだった。
場所は町外れにある廃墟――恐らく過去には何らかの店だったのだろう。
死体のあった地下室は打ちっ放しのコンクリートで、その隅々にまで血が付着していた。
まるで、わざわざ塗ったくったかのように。
だからこそ判らなかった。
目撃情報も、この死体の情報もすぐにあがらなかったということが、だ。
これだけの惨状ならば、少なくとも犯人は全身血まみれになる可能性が高い。
すぐに聞き込みに回った彼らは、簡単にすむと思っていた、が。
結果は惨憺たる物だった。
誰一人として、一日前にそんな惨状を作ったはずの犯人の姿を見ている者はいなかった。
無論、悲鳴も聞いていない。
凶器は不明。人間をここまで刻んでしまうには、それなりの刃物が必要なはず。
なのに、それらしい遺留品はない。
肉体の損壊が激しすぎて、使用された刃物も特定できない。
むしろそのためにここまで刻み尽くしたかのようで、不気味さを感じる。
遺留品もない、情報もない――そんな無茶な事件がそこにはあった。
まだ新聞にすらなっていない事件だが、報道管制をひいているわけではない。
訳が分からないからだ。
ただそんな事件があったと思われる晩、少年の姿が近くを通っているらしいというのを確認した。
それが柊実隆らしき姿だったと、言うのだ。
「そう言えば、どこからの情報だ」
井上は顎に右手を当てて小首を傾げる。
「たれ込みです。直接電話を受けたわけではないので誰かは判りませんが」
彼女は電話を受けた際のマイクロテープを資料から出すと振ってみせる。
どこの誰かも知らない匿名の情報…わざわざそんな物を確認に来なければならないのだからますます苛々する。
「……何度か確認したよ」
数回繰り返して聞いた。もう充分だ。
木下は肩をすくめてみせる。
矢環が頭を下げながら部屋に入ってきて、会話は中断する。
「よし、帰るぞ」
押しが足りない。
もう一歩、証拠をそろえなければ。
「しかしあんな猟奇的な…殺人を、少年が犯すでしょうか」
尤もな質問に、木下は溜息をつく。
「最近はわからん。親が平気な顔で幼子を殺したり、少年が強姦殺人をするような時代だからな」
ぼりぼりと後頭部をかいて彼は寂しそうな目をする。
あんまりに残虐な、殺意という言葉すら知らないような低年齢の犯罪者達。
breakdown innocenceと呼ぶには年齢を重ねているというのに。
――他人の痛みの判らないガキが生まれすぎてるんだ
校門を出て、彼はやっと安心して懐に手を入れた。
くしゃり、と柔らかい紙の感触。
あと二本しか入っていないパックから一本つまみ出すと、安物のライターで火をつける。
くすんだ煙が立ち上り、やっと心を落ち着かせてくれる。
「酷い…話ですね」
木下のたとえ話のような言葉に真剣な感想を述べる。
彼は片目を丸くして、彼女を見返す。
「君も可愛そうだよな。着任早々、こんな事件に」
言いかけて、皮肉った顔を矢環の方に向き直る。
「…お前もな。警部補就任早々、ご愁傷様だ」
矢環は苦笑して車にキーを差し込む。
がしゃり、と一斉に鍵が開く。
「仕方ないですよ。私は初めてじゃないですけど…」
と、彼は井上の方を向く。
いかにもエリートという風の井上は目を丸くして僅かに顔を振る。
その仕草は日本人よりも米国人に近いかもしれない。
「私も初めてじゃないですよ。確かにこんなに酷いのは初めてかも知れませんけどね」
「堂に入った話しぶりだったぞ。俺でもああは話せない」
にっと笑みを浮かべながら、彼は後ろの席に乗り込む。
井上が助手席に乗り込むのをまるで構えていたかのように、矢環は素早く車を発進させた。
『今日、一緒に帰れないかな』
彼は、いらつきをできるかぎり押さえ込んだ。
もう薄暗い。
まさか、待っているとは思えないが、自分の教室と彼女の教室の前を通り、昇降口に向かう。
人気のしない下駄箱で靴を履き替えて、昇降口を出る。
音を立てて風が彼の側を通り抜ける。
『とめたんだけど、さ。……ちょっと今、家の方で騒ぎになってるんだ、弟のこと』
誰の姿もない。
夕日を等の昔に通り越して、既に暗がりになりつつある人気のない校舎を抜ける。
校門までの僅かな距離に人が見えない。
声を掛けられるかとも思ったが、菜都美の姿どころか教師の姿すらもうここにはなかった。
――やっぱり帰ったか
昼食の時突然泣き始めた彼女。
どういう経緯があったのかは判らないが、それが治樹に関係のあることには違いない。
治樹はつい先日駅裏で喧嘩をしていた。
路地の裏で、数人に囲まれていた。
彼がそれを見つけたのは本当に偶然だった。別に、野次馬とかそういう趣味は彼にはない。
駅裏から、一人の青年がぼろぼろの姿で飛び出してきたのだ。
いや、言葉通り飛び出してきたのだ。
地面に叩き付けられるように転がった彼は、顔をぐしゃぐしゃにして、痣と血にまみれていた。
――酷い
彼は思わず、その路地の向こう側にいる存在を知りたくなった。
地面に転がる息も絶え絶えの男を見て、ここまでできる存在を知りたくなった。
多分、今までに一度もそんな事はなかったはずだ。
――知らない
いや、そうじゃない。
彼は記憶の端に引っかかるものを覚えながら、路地裏へと視界を移動させた。
「はははははははははは」
乾いた笑い声があがる。
感情のこもらない、ただの呼吸音のような声が聞こえる。
緊張感の切れた路地裏、少年はまだ拳を振るっていた。
目は虚ろで、目の前にあるものを正しく認識しているようには思えない。
鈍い音が続く。
間違いなく被害者は既に意識を失っている。
「こら、坊主、何やってやがる」
だから声を掛けた。
あの時の治樹の様子は尋常ではなかった。
恐らく、状況から一対十は遙かに上回る人数だったはずだ。
治樹は何も言わなかった。
壊れかけた拳を治すために病院に行った程度だった。
喧嘩なんて生やさしいものじゃなかった。
あれは殺し合い――いや、一方的な殺戮に近い。
警察には連絡が行ったのだろうか。
ただ、家族に絶対言わないだろうから、ただ柔らかく『喧嘩』とだけ菜都美に伝えた。
それが――一体何を引き起こしたのだろう。
菜都美は泣いていた。
――騒ぎになってるって言ってたよな
どういうことだろうか。
人の家のことだから――何故か、胸騒ぎがする。
やめておこう――それは興味本位とは別の感情で。
やめたほうがいい――本当にそうだろうか。
二重にひしめく自分の理性と常識。
一瞬自分が二人にダブっているような気になって思わず頭を振った。
――俺らしくない、行こう。行って確認すればいいだけの話だろうが
菜都美の家は、自分の家に帰るのとは実は方向が違う。
彼は腕時計を眺めて溜息をついた。
もう、とうに五時を回っている。
今からまっすぐ帰ったって、いつもよりも一時間以上遅い。
言い訳を考えながら、どうせ数分のことだと菜都美の家へ向かうことにした。
人気のない夕暮れの通学路。
元々商店街から離れている上に、住宅地の真ん中にある学校のせいか人通りも少ない。
学校は僅かに丘にあるので、見下ろす風景に住宅地が見える。
時々子供のはしゃぐ声がして、走り去っていくのが見える。
もう夕食の時間だ。きっと家路についているのだろう。
買い物帰りの母親らしい、自転車に乗った女性。
そんなごく普通の風景が薄闇に沈んでいく。
流れていく風景、日常の臭い。
もう少しすれば星が見えるだろう。
下り坂、ふとそんな気持ちになって空を見上げた。
だが、今日はあいにく曇り空だった。
ざわざわとざわめくものが脳裏の奥をかすめる。
言い知れない不安。不安の理由が多すぎて、どれに対してなのかわからない。
もう一度大きく溜息を吐く。
――…全く…
言わない方が良かったのかも知れない。
菜都美は、中学以来喧嘩に弱い。
血を見ることすら嫌いになっている。
でも、長いつき合いの仲で泣き出したのは今回が初めてだった。
泣かされかけたことがあっても、彼女が泣いたところは見たことはない。
――ん
彼は静かな住宅地からやけに騒々しい気配を感じた。
獣の気配、とでも言うのだろうか。
あってはいけないもの――何故か直感でそれがやばいものだと思う。
ざわざわと心がささくれ立っていく。
喧嘩を目の当たりにした時のような殺伐とした気分。
それが――不意に目の前に現れた。
ざかっっ
地面を蹴立てる音。
彼の目の前でだが――それは思わず身体を止めてこちらを窺っていた。
距離にして、数メートル。
時間が急に引き延ばされたように感じる沈黙。
手を伸ばせば届きそうな暗闇。
四つん這いでそれは退く。
夜闇に輝く双眸は煌々と彼を見つめている。だから、夜行性の動物かと思った。
それは動物ではなかった。
一瞬思考が跳ぶ――ありえない、と。
前傾姿勢で彼を睨みあげている貌、地面に立てる腕、何よりその体躯――それは明らかに人間だった。
「お前」
びくっと体を震わせると、突如跳躍した。
その動きや脚力はやはり人間ではない――なのに、今跳んだ瞬間彼の身体が見えた。
同時に薫る 死と血の 臭い
彼は自分のすぐ側を通る時に全てを確認した。
Tシャツを着た獣なんているだろうか。
スニーカーを履いた四つ足の大型獣なんかいるだろうか。
なにより――
「治樹っっ」
彼が走り出した途端、治樹らしい姿は一瞬振り返り、地面を蹴った。
――!
まるで映画か何かを見ているような気がした。
車で弾かれてもあんな風に跳ぶことはない。
治樹は大きく宙に舞うと、目の前の家の屋根に音もなく着地した。
「……嘘だ」
実隆は頭が真っ白になりそうになった。
治樹は人間を遙かに超越した動きで、文字通り獣のように屋根づたいに飛んで行ってしまった。
方向は判る。
あれは、彼の――真桜の家だ。
――行けば判るかも知れない、なにか
酷く嫌な予感がする。
今の治樹の姿を見ても判る。恐ろしく良くないことが起きている。
でもそれが何なのか――今は理解すらできない。
だから足を進めるしかなかった。
心ばかりが焦って、足がもつれそうになる。
こんな時ばかりは普段から走って鍛えておけばよかったと後悔する。
――毎朝走ってるってのに、な
今は行くしかない。
それから十分もしないうちに、彼女の家が見えた。
何故か光が見えない。二階にも居間にも。
まだ時刻は夕食時のはず。
嫌な予感と同時に人気がないことに気がついて、妙な安堵感を覚えた。
よく見れば車もない。家族で出かけているのだろうか――そこまで想像して首を捻る。
――じゃぁ、先刻見た獣は?
たとえあれが治樹ではなく、謎の獣だとして、あんな動きをする動物がいるだろうか。
途端に自分の記憶が曖昧に消えていきそうになる。
それは確かに、不自然だ。あまりに超越的すぎる幻だった。
そう否定したくなる自分と心が打ち鳴らしている警鐘。
同時に、今の自分に何ができると考えて、踵を返すしかなかった。
留守と判る他人の家に押し入るのか。
いや、そんな事なんかできるわけがない。確たる証拠のない譫言を頼りに何かできるはずがない。
――譫言
じゃぁ今のは何だ。
目がおかしくなったとでも言うのか?――
でも、戸惑いも恐怖も感じていない。
あれだけ、普通では信じられない光景を見ながら、彼は動揺すらできない。
ふと気がついた。
そう、これを見るのは初めてではないはず。
初めて――そう、彼は夢の中の光景を思い出した。
――…まさか
警察に呼ばれた。何かの捜査の対象にされた。
そしてあの、河川敷近くにあるスクラップ工場での出来事。
――確かめてみよう
星は見えそうにない薄曇りの夜空。
めき
麻縄をねじるような音がして、激しい呼吸が続く。
それ はお れ じゃない
途切れかかる意識の流れ。僅かな間でも気を緩めると、身体が動く。
気を抜く――スパークする火花が目玉の裏側でしつこく鳴り響いているようで。
その火花のせいで、何度も何度も視界が白く濁る。
ふりほどいても、突然身体が重くなるように言うことを聞かない。
丁度、徹夜明けの眠気の中で無理に起きようと必死になっている感覚に似ている。
意識が墜ちて、記憶を削りながら身体を動かす――何故。
なぜ?――今逃げなければ、殺してしまうから。
どこかで誰かが嘆息する声が耳に届いた――ような、気がした。
本当は違ったのかも知れない。
でもほかのかき消えそうな小さな雑音とは違い、かすれかかった音程の中でもそれだけはやけにはっきり耳朶を叩く。
「興味深い結果だ。……この素体の反応は、予期していた物とは全く違う」
何故それが聞こえるのか――それだけは何故か耳元で囁かれているのと変わらない。
おかしい。
今自分がどこにいるのか、夢でも見ているように曖昧で。
「最高のサンプルパターンだ……ミノルとはまた違う」
鈴を鳴らしたような甲高い少女の声。
凛としたその声は、何故かスピーカを通したようなざらざらとした声になって耳に届く。
――誰――だれだ
ぴくり、と声の相手の表情が変わった。
そう、見えてもいない相手の顔が変わるのが判った。
説明できない感覚で――
その時、不意に全身が痙攣した。
激しい痙攣に思わず身体をすくめて、初めて自分が地面にうずくまっているのが見えた。
がたがたと全身が震えている。
何に震えてるのか――彼はただ必死になって地面を蹴った。
それは間違いなく畏怖の感情。
敵わぬ力をもったものに対する本能的な拒絶反応。
脅え、という名前の殺意――いまここにいてはいけない、いたらころされる――
――なぜ こんなことに
治樹は記憶の中を探り続ける。
自分の身を助けるために地面を転がるように駆け抜けながら、何があったのか思い出そうとする。
少しでも気を抜けば白い闇に落ち込んでいきそうな脳髄を叱咤して。
――俺は――
数日前 菜都美の顔 白い しろい そして注射器 かこまれ た そこは血の海で
断片的な記憶が脳裏をかすめる。
はっきりしない単語の羅列のような記憶。
そもそも今何をしようとしているのか、数秒前の記憶ですら曖昧だというのに。
頭の中が真っ白になる。意識が飛ぶ――いや、僅かにそれだけは残っている。
手の感触を楽しむ。
薫る香を慈しむ。
それが自らの恐怖を和らげてくれる――だから更に振り上げる。
恐ろしいものが消える。
手の中でただの肉塊に変わる。
何かの作業に没頭するように――ただひたすら腕を振り上げ、足を振り抜く。
笑い声が聞こえた。
それが自分の笑い声だと気がつくと目が覚めた――醒めない方が、よかった。
いつからそこにいたのか、そこは見たこともない地下のバー。
砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶、砕けた酒瓶
酒瓶が砕けている。
そこにあるものを、それ以外に認識できなかった。
真っ赤な地面。
コンクリートの壁が、ただれた赤黒いものに染まっている。
くだけている
それがにんげんであったものだと思うと、罪悪感と同時に大きな安堵感がわき上がってくる。
だから、人間であるかれはそのばをたちさろうとする。
愉悦を覚えた彼の方は、全身を大きく振るわせる。
もっと暴れたい、と――
バーの扉は次の瞬間爆発するように弾けた。
木片は登り階段に散らばり、その煙の中を弾丸のように影が大きく跳躍する。
階段の一番上で、彼は更に跳躍した。
とりあえず ここから離れたい
明らかにその動きは人間を凌駕したものであることにも気がつかず。
彼――治樹は身体の動くままに身を任せて自分の家に急いでいた。
無意識のうちに、帰巣本能のように。
周囲に感じる恐怖の元から離れようと必死になって。
あと数歩。
あと数回跳躍すればもう――
その時、それと出会った。
警戒を解かずに地面に降り立ち、相手を睨みあげる。
恐怖にまみれたこの殺意を振るうべきだろうか。
畏怖に脅えるこのふるえを教えるべきだろうか。
――必要ない
何故か、先刻まであったものはこの――目の前の男からは感じられない。
戸惑い。
何故同じ人間を――ヒトの姿をしておきながら違うのか。
――ああ、そうか
理解する。
目標を変えるために地面を蹴り直し――彼は更に自分の家へと急ぐことにした。
先刻の男が追いかけてくる。追えるはずなど、ない。
彼は自信を持って跳躍すると、一瞬だけ彼の方を振り返った。
唖然とした表情で何か叫んでいるが、もうその叫び声も、耳には届かない。
届こうとしない。
自分の家へ――
もう疑いようはなかった。
ここで何かがあったのだ。
――切り崩したみたいに
確か、夢の中の風景と同じ。
スクラップ工場を河川敷の土手から見下ろして、彼は胸の中がざわざわとざわめくのが判った。
自分の家からはかなり遠い場所だが、もう彼に躊躇はなかった。
もう人気のない工場にゆっくり近づいていく。
あの時の鮮明な記憶を引きずり出すように、頭の中に戦いを再現していく。
――あれだ
人間以上の何かが、その怖ろしい怪力でぶん投げた車のフレーム――投げつけた相手は無事だった。
日本刀のような物で斬りつけたからだ。
切り落とされた破片は――そう、そこだ。
彼が向けた視点の先に、同じように斬りつけたような疵が残っていた。
全く記憶通りに。
記憶とは違う――それは、途中で夢から覚めたからだと思った――車の崩れ方。
それはむしろ、この車の山が崩れるような何かがあったという証拠だろう。
――兄貴
確認しなければならない。
彼はそのまま自宅へと急いだ。
母が心配そうに実隆を迎える自宅は、昨晩と様子が変わりようがなかった。
夢ではない――いや、今までが夢だったのかも知れない。
「遅かったじゃないの、何かあったの?」
玄関で出迎えてくれた里美は心配そうな顔で実隆に声をかけた。
奥の食卓ではもう夕食ができあがっているようだ。
香ばしい油の匂いがする。
「……うん、ちょっと先生に呼び出されて」
靴を脱いで玄関に上がると、まず聞かなければならないことがあった。
「夕食できてるから、まずご飯にしましょう」
「兄貴は?」
彼女の顔が曇る。
右手をやがて、口元まで寄せて言う。
「あの子、急に様子が悪くなったので先刻病院に連れて行ったわ」
「え?」
里美が顔を曇らせてくるっと背を向けるのを、実隆は黙って追いかける。
台所までの短い廊下。
「様子が悪くって…」
「判らないの。顔の怪我のせいかもしれないけど、昼頃まで退いていた熱がまた出てきて」
破傷風かも知れない、と彼女は言って自分はキッチンに向かう。
卓につくと、家族全員の分の食事はあるものの、重政の姿はない。
「父さんが一緒なの?」
「車で運んでもらってね、今ついてもらってるから」
炊飯器からご飯をよそい、彼の前までもって来る。
なすとジャガイモを煮込んだもの、焼き魚、みそ汁という純和風な夕食。
「……そうなんだ」
大根おろしにしょうゆをかけながら、違和感を感じる。
自分が感じていた世界と、今ここにいるというちぐはぐにずれた感覚。
夕食の味付けは決して悪くなかったはずなのに、どんな味も感じられなかった。
「実隆ちゃん」
里美の声に、ふと我に返る。
自分の母親は、にこにことした表情で彼を見つめている。
「心配しなくても大丈夫よ。きっと」
ちくり、と胸の奥が痛む。
だからこの人には決して心配させたくない――隆弥だってそう思っているはずだ。
「うん」
答えて、彼は食事を終えた。
ずしゃ
地面を砕く音。
それが見事な破砕音であると意識する前に、再び全身を跳躍させる。
――人外の領域
そこへと足を踏み入れた瞬間に、それは人間とは認識できなくなる。
認識されなくなるのではない。
「中立たる灰色のものは地獄を語り、おお偉大なる主の目は今こそ地上へと」
"Gray others talking of hell. Eyes lie landing."
何かの詩の一節だろうか。
高らかと唱えられる言葉は闇夜を貫くようにして響き渡る。
正確に発音される英語が、どこからなのかは見当もつかない。
しかし、地上を這う者はそんな事はお構いなしに方向を見定めていた。
次の獲物――人間の姿は、風に乗り匂いとして確実にその場所を教えてくれる。
彼にとって、その獲物は決して難しくない位置にいた。
小刻みに地面を跳躍し、ジグザグと方向を変えて近寄っていく。
揺れる。
地面と同時に、風景が揺れる。
――畏ろしい
その時の彼は、間違いなくその存在に対して畏れていた。
絶対的な強大な力――違う。
その存在が恐ろしいのだと彼は知っている。
脆弱な身体、薄氷のような精神、薄紙の皮膚に弱い骨格。
決して丈夫とは言えない生命体――人間。
殺そうと思えば、ほんの僅かに力を加えるだけで良い。
それを、何故あんなにもがちがちと強力な力で攻めきるのだろうか。
何故完全に武装して殺すのだろうか。
でも――
彼は間違いなくそれを畏ろしいと感じていた。
高らかに詠唱を続ける人間は、稲妻のように予期せぬ動きを繰り返し近づく存在を見つめていた。
今から数分前、住宅街から河川敷へと誘い出した個体は、予定通りのコースを辿っている。
連絡から想像していたよりも素早く、今までに見たことのない程その身体能力は高いようだ。
ぞくり、と背筋に氷を押し当てられたような感慨にふける。
――一年前に屠った天狗に匹敵する
小刻みな跳躍、その合間に人間は全身を捉えていた。
見覚えのある小柄な身体は中学生の男子――これも情報通り。
間違いなく目標の個体だ。
――……真桜の者か
ただ、それは彼の記憶にある、ある特定の個人として認識できた。
人影は躊躇いもなくただ淡々とその事実を確かめる。
高速で闇の中を動き続けるその姿を捕らえる瞬間、彼の頭の中にある記憶がまざまざと蘇る。
「下らない技術者共が、ずたずたの散文を解析する」
"Deadly engineers analyze texts hashed."
その間にも彼は決して詠唱を忘れない。
奴を拘束するための言葉を。
自分の唱えている文章に意味など必要ない――ただその言葉の羅列こそが大切なのだから
「病気であれ、うそつきは地下に横たわっていた」
"Keep ill, liar lain yard of underground."
即座に組み合わさっていく単語。
それは期待されているよりも上手く彼の口から滑り出し、相手の意識よりも奥深くへと突き刺さる。
意識にではなく――この世界の、彼らを取り巻く空間を。
しゃぁああああああ
甲高い音が鳴った。
鞘走る刃が立てる特有の音――硬質な白木と、剃刀のように鋭い刃が立てたきしみの音。
人間は右手で自分の身長ほどもある刃を握りしめていた。
左手に、白木の鞘を構え、月の光を弾きながら夜の闇を一条切り裂く。
じゃ、と兇悪な声を上げる刃は間違いなく真剣で、彼の周囲に刈り取られた草を巻き上げていく。
刃を嘗める光が深く、薄くその刃の下にこもっているような艶やかな輝きに変わる――それは鉄独特の重み。
鉄の刃だけが返す光の輝き。
日本刀――美しい波目が刃の上に施された、非常に値打ちの高い一振りに違いない。
今はそれが、十キログラム近くはあるそれが美術品の域から確実に逸脱して彼の手元で唸る。
ばしゃ
地面から身体が離れる感触。
同時に手応え。
彼は地面に身体をしたたかに打ち付けながらも器用に腕を捻り、刀を保護しつつ鞘で身体を叩きおこす。
妙な格好で立ち上がりながら、更に刀を構える。
その途端、血の匂いが濃厚になる。
――残念だ
声になるのは、唱え続ける忌みの言葉だけ。
彼はそんな行動から完全に独立した思考でそう感じていた。
――人間あれば、『枠』に収まってさえいれば見逃したものを
見逃す、そう思考して思わず口元を吊り上げる。
見逃さなければならない。
人間ではない存在を。
何故?言うまでもない。
それをなくしてしまえば今の自分の存在意義がなくなるではないか。
今こうやっている自分が、意味がなくなるではないか。
でも、自分は人間ではないならば排除しなければならない。
そんな二律背反。
背筋がぞくぞくする。
ヒトの姿を押し込めながらその中にヒトに対する殺意を持つ獣――『化物』を狩る悦びに。
でも彼は表情にそれを表せない。
声に震えも許されない。
だから詠唱を続けながら斬りかかる――まるでそのために存在する機械のように。
彼の詠唱を飾るのは血。
糸を引くような粘っこい液体。
体液。
血飛沫。
罪悪感なんかそこに存在しない。
欲望と呼べるものもない。
ただ刻む。
刻み続けるため腕を振るう。
その存在が今まさにここにあったことを否定するためだけに。
たとえ人間として存在し、戸籍も住民票もあったとして。
警察の目が届いているはずのこの場所で。
今まさに、人間であったはずのものは彼の目の前で肉塊へと姿を変えた。
何故かそこは夜の河川敷だった。
実隆は自分の記憶の食い違いと、あまりに唐突な風景の変化に気がついた。
これは夢なんだ、と。
夜の風が吹きさらして、彼は河川敷を見下ろしている。
どこまでも続く冥い闇の奥から音が聞こえる。
ざざぁ、ざざぁと漣のような細かい震えが彼の視界を覆っている。
風の足音は月明かりの草むらを揺らし、その姿を明確にする。
アスファルトの地面は堤防の上にあり、なだらかな斜面を下れば芝生の敷き詰めた河川敷がある。
その向こうに、膝まで埋まる程の背丈の草が生えている。
幅にして――そう、陸上競技のトラックぐらいなら飲み込むだろう。
考えるまでもない。幼い頃ここでよく遊んだ記憶があるから。
家から程なく離れた線路を横切る川の河川敷だ。
最近ここに来ることはないし、なによりこんな夜中にここに来たことはない。
来たっていいことなんかないからだ。
だから、住宅街の外れにあるここは人気は少ない。
それが普通だ。
かつかつというアスファルトを叩く音と同時に、視界が動いていく。
――歩いている
そういう事らしい。
視界がゆっくりと移動していく。
何を追っているのか、それでも視界は河川敷のある一帯を納めたまま。
凝視している先を、彼はもう一度追うことにした。
音が――見える。
違う、風景に映るものに音が感じられるのだ。
音などない。
ないはずなのに、いや、耳が風を受ける音が聞こえる。
そう感じた途端――
剣戟
それは決して嫌な感触ではなかった。むしろ心地よい。
争いの気配
それは極めて自然。
飢えという名の欲望が、生という名の執着に襲いかかる。
だがそこにはそんな当たり前の争いではなく、人為的な強力な意志を感じた。
ぴりぴりと電気が走るような緊張感。
実隆は夢と知りながら、目をこらしていく。
地面を蹴る。跳ぶように走る。ジグザグとある一点に向かう
姿が見えた。
その機械的で無機質な身体の捌き方は、目標のある場所を容易に特定させる。
ただ立ちすくみ、近づいてくる気配に動じようともしない
だが目に見えるような絶対不敗。彼は動きもせず相手を押さえつけているような錯覚を覚えさせる。
たとえるなら、蟻地獄に墜ちていく蟻の姿を見つめているような。
「……面白い」
実隆は驚いた。自分の声が漏れたことに。
――ちがう
彼は思わず声を出そうとして、やはり声にならない事に気がつく。
違う、これは夢の中の誰かの視点なのだ。
そう思った時、ぱしゃっと閃光がひらめいた
怪訝そうに先程の視界に意識を向けると、突然の暴風に思わず顔をしかめて…
彼は確かに今、河川敷にいた。
まるで今目が覚めたように。
どこからか聞こえてくる踏切の音。
川の流れが、水を砕く音。
夢の光景の続きが。
しかし夢と違うのは、思いの外近くで繰り広げられていたことか。
きらんと月光が強烈に輝いたと言う風に見えた。
月の輪が、血飛沫を呼んだ。
液体の叩き付ける音を聞いた。
そこに――二日前、夢の中で見た姿が白刃を振るうのが見えた。
獣じみた叫び声をあげて大きく退く姿。
容赦なく、男は間合いを詰める。
そして再び一閃。
獣はその一撃で弾け、大きくもんどり打って背中から倒れた。
「治樹!」
思わず声を出していた。
それが――彼を刺激する。
ひゅ
白刃は間違いなく実隆の方へと向けられた――そう感じた。
――治樹
縦に真一文字、恐怖に歪んだ治樹の顔が縦に滑るのが見えた。
間違いなく即死だろう。
その様子が一度リフレインされて、実隆は身体を硬直させていた。
蛇に睨まれた蛙のように。
だが実際に刃は、彼の方には向けられていなかった。
男は真横に首を向けて睨んでいるだけだというのに、右手の刀を向けられていると錯覚してしまう。
彼を硬直させたまま、青年の目の前で治樹はさらに寸断される。
絶命を確認するかのように一度その様子に一瞥をくれ、もう一度顔を向ける。
その、奇妙にも思える無機質な動きで。
「……ミノル」
一瞬の迷い。
実隆はその声を聞いて、思わず我に――そして、油断をした。
気がつかなければよかった――だから。
「あ…にき?」
それが実隆の硬直を解いた。
だが結局、そのせいで彼は逃げることなくそこに呆然と立ちすくんでしまった。
きりきりという音を立てそうな程奇怪な仕草で隆弥は怪訝な顔を振る。
「………またか、やはり殺しておけば良かった」
淡々と事実を述べる声を、実隆はまるで別物のように感じた。
目の前の男はそう言いながらくるりと身体をひねり、間違いなく実隆を射程距離に納める。
頬の切り傷。
ばさっとさらさらの髪の毛が夜風に舞う。
――信じたく、ない
実隆が口を開く暇など与えない。
一瞬、彼の身体がぶれる。
空気をつんざくような音
実隆は、そこで初めて獲物になった事に気がついた。
本能的に身体をよじり、大きく跳躍する。
急速に離れていく地面。
――?!
嘘だ、と考える暇などない。
慌てて身体を丸めて――肩口から地面に強打する。
うめき声を漏らしながら数回転がると、弾けるように起きあがる。
なにが起こったのか、考える暇など――ない。
――逃げなきゃ
ぴりぴりした気配が追いすがってくる。
つい先刻まで見ていた映像と、何が違う。
背中を振り返りたい。
そこには何もないと信じていたい。
――……なんでこんなことになるんだ
判らない。
先刻まで夢を見ていたはずなのに。
つい今先刻まで、ベッドで寝ていたはずなのに。
こんなに生々しくて、残酷な夢があるものか。
こんなことが現実であってたまるものか。
獣のように疾駆する夢、その獣を狩ろうとする者が出てくる夢。
そう、それはそれだけの夢じゃなかったのか。
それが現実であるはずがない。これだって、全力で走ってるつもりできっと夢なんだ。
いつ何処で現実と夢が入れ替わったのか判らない。
ただ、もう情けないことに息をあげて地面を這い蹲る事しかできない非力な存在。
今背中から聞こえてくる美しい英語の旋律は、夢の続きを奏で続ける。
なのに、あの時夢の中で立ち合っていた自分と、今の自分とでは力量に差が絶対的にある。
それは嘘だ
「ひ、人違いだっっ」
全力で叫ぶ。
息が上がる。
――何故今こんな目に遭わなければならないんだ!
そんな想いなど無視した韻が彼の周囲を飛び交い始める。
ざか
地面を蹴った。
明らかに人影が、殺意をもって正面に姿を現した。
「く」
大きく横に飛ぶ。
人間の脚力で。
ひゅう
文字通り切り裂くような閃光が彼を一閃しようとする。
だが、かろうじて身体を捻ってそれを避ける。
ぶぅん
油断する暇はない。
彼が意識する間もなく、身体が跳ね上がる。
腹部の激痛と、バランスを取ろうとする身体の反発で痙攣する。
後ろに残した足での回し蹴り
胃の中身が逆流してくる。
「ぐぶ」
無意志の音が喉から零れた。
真っ白になった意識を、背筋に走る痛打が叩き起こす。
その一瞬の判断。
――逃げなきゃ、殺される
その反動で起きあがろうと身体を捻って、
勢いよく迫ってくる地面
――!!
バランスを失ってしまった。まるで今までもっていた荷物を捨てたようなそんな感覚。
慌てて腕をつこうとして――びしゃ、と何か嗅いだことのある液体が顔にかかり、同時に地面が側頭部を叩く。
突き出しているはずの腕は地面をすり抜けて――いや。
――うでがない
首の痛みに顔をしかめつつ、その直後にそれ以上の鋭い痛みが自分の上腕から流れ込んでくる。
無意識に振ってバランスを取ったはずの腕が、ない。
身体は捻ったまま地面に転がったのは恐らく、起きあがった直後に切り取られたからだろうか。
「なっ」
恐くなって大きく後ろに跳躍する。
今まで彼のいた空間を、刃が一閃する。
「兄貴っ!正気になってくれ!俺だ!」
ともかく叫んだ。
叫んでも無駄かも知れないという思いを捨てて、それでも地面を蹴りながら。
訳の分からない英語の韻律が続く中、一瞬彼の動きが止まった。
実隆の声に反応したのだろうか。
月の灯りの下で、彼は無表情のまま双眸を向けている。
あれは言葉なのだろうか。
動きの止まった彼の姿を見ながら、実隆は続ける。
「何故殺そうとするんだ!急に…俺だ、実隆だよ!」
喉を絞る程の大きな声で。
枯れても良い、そう思う程、今ここで死ぬぐらいなら。
「理由?」
ぱたりと詠唱が止んだ。
ほんの僅かな狂いもなく紡ぎ出されていた言葉が止み、冷たい空気の音が耳をなで上げる。
彼の言葉のすぐあとには何もなく、ただ無表情な隆弥の貌だけが異常に印象深く。
「…お前はわたし達ではない。以上の理由から消去する。それが役目だ」
全く感情のない、聞き覚えのない隆弥の声が告げたのはしかし――絶望という名の最後通牒。
彼の詠唱と同時に、彼は再び動き始めた。
その時時が止まった。
脳裏に声が走る。
その声を理解するだけの時間、彼の視界が完全に停止する。
何をしている、ミノル!遊んでいないで還ってこいっ
がばっ
実隆はベッドのシーツを大きく跳ね上げて起きあがった。
はぁはぁと荒い息をついて顔を大きく震わせる。
「……ゆ……」
言葉にならずに続けて、顔をくしゃりと崩して自分の両腕で身体を抱きしめるようにする。
――腕が、ある
先刻隆弥に切り落とされた腕が、ある。
こちこちという秒針の音。
荒く呼吸する自分の気配だけが部屋に満ちている。
悲劇的な悪夢――そうだろうか。
「夢だ、夢だったんだ、夢…夢」
時計の指している時刻は午前一時。
とうに真夜中は過ぎた時刻。
――そうだ
ベッドから降りて、彼は隣の部屋に確認に行くことにした。
今この目で隆弥を見なければ信じることもできない。
自分の腕があっても、それだけでは眠ることもできない。
無論、眠っている彼の姿がなければ眠れない。
だから、扉の鍵がかかっていれば、とそんな事を考えてしまう。
がちゃり
だが無情にも鍵はかかっていなかった。
真っ暗な隆弥の部屋には、光は一切入っていない。
実隆は足音を殺してゆっくりと部屋の中に入る。
扉は大きく開き、廊下に差し込んでいる星明かりを部屋の中に導き入れて、何とか部屋を照らそうとする。
僅かなそれだけの灯りに照らされて、ベッドのふくらみは小さく上下している。
――兄貴…
実隆の暗闇に慣れた目に、間違いなく眠っている隆弥の姿が映る。
寝息も聞こえる。
「兄貴……」
くらり、と視界が傾げる。
もう耐えきれなかった。
安堵と共に来る怒濤のような眠気は、彼を引きずり込んでいった。
次の日の朝。
「おはよ」
実隆は里美の驚きの声で目が覚めた。
朝の早い時間に彼の部屋に来た里美は、隆弥の熱を計りに来たのだった。
隆弥のベッドの下でうずくまって眠っているのだから、驚きもするだろう。
そのまま言い訳もせず身繕いをして、着替えて朝食を摂った。
いつものようにコーヒーとトースト。
変わらない朝食の風景。
そして、玄関をくぐって里美に挨拶をすると、門柱の側に彼女がいた。
幾度となく繰り返してきた毎日と同じように。
「…ああ、おはよう」
昨日の態度が嘘のように、いつもの笑顔を浮かべて。
実隆は言いようのない怒りが蠢くのが判った。
「隆弥さんは…」
「熱。お前の言ってた今週の話って、まず無理だぞ」
だからつい、声がとげとげしく荒くなる。
隆弥は里美の声にも反応せず眠りこけていた。
熱は三十八度を下がる見込みもなく、今日も学校は無理だという。
だから結局、丸一日以上隆弥とは話をしていないことになる。
「ああん、アレは…もう、ちょっと、待ってよ」
そのせいでもないのだが、今日はいつもよりもかなり早い。
この調子で歩けば普段よりも十分以上も早く学校に着く。
見れば丁度通学の時間帯で、何組も同じ学校の生徒を見かける。
「聞かないの?」
ひょこっと嬉しそうに真横から顔を覗く。
実隆は少し嫌そうに顔を背けるだけで何も言わず、歩き続ける。
そして、思い出したようにぼそっと呟いた。
「……そうだな、お前元気そうだな」
不機嫌に返事を返す彼に、菜都美は小首を傾げる。
「そりゃ………あ、そうか」
小さく呟いて、彼女はばつが悪そうに黙り込む。
昼の話はともかく、放課後一緒に帰ろうと言ったのは彼女だ。
「でもミノルも遅かった」
反撃のつもりか、僅かに口をとがらせて言う。
昨日の夕方の事を思い出して、実隆は肩を小さくすくめる。
「判ってる。悪かった」
投げやりで淡泊な彼の態度に菜都美はむっと顔をしかめて、自分より一歩先にいる彼の隣に並ぼうとする。
でもあっさり追い抜きそうになって、慌てて足を止める。
いつもならそんなことはないと言うのに。
菜都美は形のいい眉を寄せて、怪訝そうに実隆の横顔を見る。
「……ミノル?」
彼は、ゆっくりと顔を上げる。
じっとその顔を見つめて、実隆が顔を反らせようとするのを両手で捕まえる。
「こら、何するんだ」
「んー、隈めっけ」
菜都美は何故か嬉しそうに呟いてにっと笑みを作る。
その様子にかっとなって、乱暴にその腕を払いのける。
わざとらしく驚いて、それでも菜都美は悪びれる様子もなく言う。
「寝不足でしょ。凄く元気ないよ」
「放っとけ。…言っとくがお前のせいじゃないからな、気にするな」
ちぇ、とつまらなさそうに呟くのが聞こえて、実隆は肩をすくめた。
――どこまでが夢だったのだろう
まだ自分でも判別ができない。
だから恐かった。
もし隆弥が目覚めて、いつものようにのんびり挨拶していたならまた違ったかも知れない。
昇降口で菜都美と別れると、彼は教室へと向かう。
いつもと同じはずなのに、同じではない感覚。
いつもの廊下が、急に空恐ろしいモノに見えてきて――身体からも緊張が抜けない。
――体調悪いのかな
まだ廊下にはちらほらとしか生徒は見かけない。
窓から、多くの人間が見える。
まるで襲いかかってくるかのように、緩慢な動きで。
何故かその光景から思わず眼を逸らそうとして、首が痙攣したように引きつってしまう。
――痛ててて
首筋の激痛に手を当てて、硬直した筋肉をほぐす。
ざわざわと、教室がざわめいているのに気づく。
自分の教室までなんて遠いんだ――そんな感慨に、背筋がぞくりとする。
自分の精神を支配するような感情、それが水音を立てる水疱のようにたぷたぷと満たされていく。
現実が乖離していく。
自分と、世界とに。
それは初めて感じる、現実との違和感。
この感情は多分、他の誰も感じたことのない感情なのではないだろうか、と思う。
禍々しい自分と境目。
何故今自分がこうしているのかも判らない。
何で、こんなにもこの廊下が禍々しく怖ろしく見えるのか。
それがおかしい――丁度肌の上に一枚薄皮が乗っている、そんな感覚で捉えられる。
気のせいか、空気が異質に張りつめていく――
「よ」
たっぷり、十秒以上の間が空いた。
のどがからからに渇いている。
息を荒くして、後ろの人影を睨んでいる。
背中を叩いた本人の方が目を丸くして、廊下で立ちすくんでいる。
驚いたはずの実隆は、彼から二メートル近く離れた場所で腕を震わせて身構えていた。
「……お前、リアクション大きすぎ」
唇が震えて、口が思い通りに動かない。
タカマル――そう、目の前にいるのは仲のいい友人のはず。
――そうだ、タカマルだ
ぎしりと自分の中で動く歯車をかしめる。
「そうか?挨拶代わりだよ」
力無く声が出る。
でもそれが精一杯だった。身体の奥底から来るふるえだけはどうしても押さえることができなかった。
今朝菜都美と会った時とは明らかに違う――奇妙な感覚。
教室までの距離、タカマルと歩きながら話を続ける。
「隆弥、まだ休み。結構重症っぽい?」
ちき
まるで脳髄の中に蟋蟀(こおろぎ)が住んでいるかのような感触。
肌の下を蠢き走り回る虫螻どもの感触。
「多分。今朝も起きる気配なかったから」
答える声が震えていたりしないか、その色が普段と違わないかを疑りながら。
ちきり
額から頭頂、こめかみからおとがいへ。
びりびりと、ちくちくと痛みが走る。
「何だよ、あいつ結構頑丈なのにな〜。そいえば怪我してたんだよな」
会話の間に割り込んでくるような感情の流れ。
ちき ちき ちき
機械とは違う、何かがつながったり切れたりする音。
歯切れの悪い脳神経が摺り切れていく。
「酷いのか?一体どんな怪我…ん?どした。気分でも悪いの?」
きり ちきちき
「う、いや、…そうだな、ちょっと悪いかも知れない」
「お前までもかよ。病気をうつされたんじゃないか?」
笑うタカマルの顔が、何故か酷く歪んで見えた。
自分の教室に入るとそれは一層酷くなった。
――臭い
異臭。
何故か、普段嗅ぎなれているはずの教室の匂いが耐えきれない程不快。
机の周囲に群がる――いや、そこは動物園ではない。
檻の外に放し飼いにされた獣達が一斉に振り向いたような――
「おはよ」
クラスメートの挨拶に簡単に返して、自分の机にへたりこむ。
自分の感覚が鋭敏になったみたいに、普段気がつかないような事に気が滅入る。
関係のないことのはずなのに、ぴりぴりと痛む。
何故か、今ここにいることが――
――恐い?
嫌悪感。
机にも触れたくない椅子に座りたくない側にいて欲しくない
彼は、それを何とか抑え込んだ。
そんなあまりに不自然な感情を気のせいにして、彼は全てを飲み込んだ。
案の定、授業は身に入らなかった。
黒板から零れるチョークの粉。
てかてかになでつけた髪から薫る脂の匂い。
何もかもが――いらつく。
なにもかも なくなってしまえば いい
彼は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「すみません、気分が悪いので保健室で寝てます」
保健室は誰もいなかった。
誰の気配もしなかった。
だが、そのぐらいで実隆は落ち着こうとも思えなかった。
むしろここでは逆に落ち着かない。
臭いが――怖気の走る臭いがする。
不快な臭気と、空間に残留する気配は隠しようがない。
きりきりきり ちきり
声にならない悲鳴を上げて頭を抱え込む。
――耐えられない
扉を開いたままできびすを返して、彼は走り出した。
――どこだ
どこか落ち着ける場所。
それは何もなく、ただ彼だけがいられる場所。
そこに、 は絶対に来ない、いない所。
――どこ…
右手で顔を押さえ、頭を抱え込む。
ふと、まだ午前中の授業の最中であることに気がついた。
それなら間違いなく部室の付近は無人のはずだ。
中央の昇降口で靴を履き替えて、そのまま入り口と反対側の扉を抜ける。
一年と二年の教室が収まる校舎に挟まれた空間は、野球部の為のグランドになっている。
その狭い空間を、まるで隠れ住む者がこそこそと逃げるように、端を歩いていく。
人気のない球場は寂れていて、酷く自分が場違いなところにいるように錯覚する。
でも。
何故か、今は吐き気を催す程それがさわやかな気がした。
そのまま校舎を伝って敷地の奥へと向かう。
こちら側はあまり人気もないし、何より自然が多い。きっと青空を見つめていれば少しは楽になるはずだ。
その提案は異常なまでに彼の心に共感した。
今までにキャンプやアウトドアに興味がなかったと言えば嘘になる、が、特別好きな訳でもない。
だから不思議だった。
――こういう日もあるのかな
どうせ教室をでてしまったのだ。何処にいても同じ事。
彼は何故か気が楽になって、裏手側から草の絨毯になっているであろう小高い学校裏へと急ぐ。
校舎と、目指す坂の中程、小さな建物が並んでいる。
野球部の部室他――先日、菜都美と話をした体育館側とは反対側にある球技系クラブの部室だ。
講堂の方は学生も朝礼以外では式典がない限り使用しないので、この周囲ともなると、この時間は誰もいない。
いない――はずだ。
たばこの におい
だから、授業をさぼっている人間もここに集まりやすい。
その時の実隆はそれをすっかり失念していた。
何の気なしにその領域に足を踏み入れて、初めて気がつく。
粗野な声と、悲鳴のような声。
両方とも、子供の声――高校生の、男の声だ。
「んぁあ?チクってたのは判ってんだよ、お前がタレコミ屋だってこともな」
その声に背筋がびりびりとしびれた。
不用意に煙草の煙を吸い込んでしまう。
ますます脳髄が白く白くしろくしろくシロクシロク――
「ち、ちが…」
少年は数人の高校生に囲まれている。
どうやら一つか二つも違わないのかも知れない。
同じような格好をして、同じようにここにいるのだから、仲間かも知れない。
その、取り囲んでいるうちの一人が、こちらを指さして何か言った。
どくん
白い白い意識の情景に、一つの結論が映し出される。
その結論は何故か兇悪な、自らの紅い未来。
手を出すなと誰かの声が聞こえた気がした。
その未来から逃げなければならないと思った。
コロ――せ
取り巻きが、一人を残してみんなこちらを振り向いた。
ゆっくりと近づいてくる。
間違いなく――
ツギ ノ エモノ ハ オマエダ
見つかった。
言い知れない気配が彼の周囲を包み込む。
足が震える。
指先まで自分の内側から漏れる怖ろしさに満たされていく。
先程まであふれかかっていた感情は、その直後に堰を切った。
地面が踊る。
一瞬の視界の変化――先刻まで自分の遙か遠方、百メートルは向こう側にあったはずの景色が目の前にある。
驚きの視線が、彼の方へと向けられる。
気にしない。
気にならない。
そのまま恐怖の対象――人間へと右腕を振るう。
唯一背中を向けた、もっとも油断している愚かな存在へ。
勢いよく、思いっきり。
拳を打ち付ける瞬間、手首から肘、そして肩へと快哉が伝わっていく。
びくびくと筋肉が震え、その快感にたまらず左腕を全身で振り回す。
反時計回りに回転しようとしていた男は、倍以上の勢いで振りかぶられた拳に強引に弾かれる。
たとえようのない音がした。
拳から、今度は一気に後頭部、頭頂へと電撃が走ったような感じだった。
「は、はは、ははははははははははは」
だから思わず笑い声が零れた。
自然――肉体が呼んだ自然な笑い。
獣じみた、あまりに人間からかけ離れた狂気の笑い。
その声を聞きながら先程までの犠牲者は、自分を壁に押し当てていた男が冗談のように目の前で一回転するのを見た。
誰かが来た事は、周囲の奴らの動きで知ることはできたが、まさかいきなり全て無視して自分の目の前で何かが起こるとは思わなかった。
そして確かに聞いた――骨が、骨によって砕ける音を。
まるで横にぶれるかのように顔全体を引きずって、真横に回転しようとする男を。
へそのあたりを中心にして、まるでサーカスの見せ物のように、立ったまま身体が真横に一回転する。
何かの液体をまき散らしながら。
それが、のれんをかき分けるような絶対的な力で真横に弾かれてしまう。
多分死んだのかも知れない――あまりに極端にくの字に身体を曲げて、それは少年の右手へと転がって動かなくなった。
「はぁははははは、はっはっはっはっは」
彼の目の前にはその代わりに一人の、どうやら高校生らしい人間がいた。
どうやら、と言ったのは、その様子が尋常ではなかったから。
「やろっ」
彼の背中側に、今転がった地面に男の取り巻き連中がいる。
六人。全員が全員、武道系クラブをかじって止めた程度のだらしのない連中だ。
それが手にナイフを持ち、振り向いて襲いかかってくる。
まだ笑いながら背を向けている。
――危ない
とっさにそう思って彼は目を閉じて耳をふさいだ。
そして彼は思っていた。
少なくとも、今起きている出来事は、自分のために起きているんじゃないと。
――いつ殺されるか判らない
その事態だけは把握していた。
まるで扇風機のファンのように回転した男があまりに哀れで、おかしすぎて笑いを止められなかった。
か きぃん
多分それは金属を金属が弾く時の音。やけに鋭敏になった聴覚と感覚がそれを本能的に教えてくれる。
一、二、三…六。
地面とゴムが立てる靴音を確認して、彼は悠々と振り向く。
「ははは、ひゃはっ」
襲いかかってくる人間の動きはあまりに緩慢だった。
右手方からのびてくる、ナイフを持った腕を僅かに右の手刀で弾く。
ほんの一センチも軌道はずれなかった、のにそのナイフが目指していた彼の右肺には届かない。
ひゅん
瞬時に握り込まれた右拳は、さらなる快哉を求めて男の眼前へと滑り込んだ。
「はっ」
ご り
腕を捻り、骨をこじる音を拳で感じる。
同時に地面を蹴る。
左にいる男へと身体を滑らせるように。
彼は右腕のナイフを振りかぶっていた――愚かにも。
がら空きの脇へと滑り込んだ身体を、右回転にねじる。
その時奴の腕をつかむのを忘れない。
肘から下が耐えきれずに回転して地面へと転がろうとする――それを、実隆は許さない。
回転しながら左足を逆方向へと裏回し蹴りの要領で打ち付け、顔面を砕く程の勢いで振り抜く。
ごきり
肘の関節が外れる音が響いた。
強制的に身体を反対側へ叩いたために完全に男の腕はねじりあがっていた。
人間がまた一人壊れた。
そのたびに、抗えない快楽が彼の脳髄を揺さぶる。
ここまできて、やっと少年達の貌に怯えの色が走り始める――もう遅いのに。
いまさらもう遅いというのに、少年達はそこで怯え始めた――今までとは、全く逆に。
滑稽だった。
何故今までこんな連中を畏れていたのか、それすら判らないぐらい。
恐ろしい怖ろしい畏ろしいから――排除する。
その先にある安寧が、彼を刺激する――快楽へと。
だから繰り返し繰り返す、拳を振るうというその行動を。
目の前の人間を壊すと言うことを。
まるで、理解する事を忘れたかのように、ただ本能がそう告げている事を知るように、繰り返す。
「はは――ははははっはっはっはっは」
笑い声をあげる。
両腕の快哉が、彼を突き進める。
怯え――面白い
震え――可笑しい
こんなにも畏れを振りまく連中が、壊れてしまうのが楽しい――
「なにやってんのよ!」
その声が聞こえた。
その声は、彼の真後ろから聞こえた。
何故か聞こえた。その時、何故聞こえたのか理解すらできず、彼はゆっくりと振り向いた。
――その時もし彼の貌を誰かが見ていたのであれば、多分それは泣き顔だったのだろう
彼の視界には、一人の少女がいた。
確かに、その時間そこにいることは不自然な少女だ。
もちろん、一緒にいたはずもない。
いきなり背後に現れたのだ――菜都美が。
「な――つ、み」
最初の音が口をついて出て、初めて彼は何を言おうとしていたのか気づいて、一文字ずつ区切って発音した。
と、同時に。
今彼の目の前にいる少女の事を認識した。
「菜都美」
確かめるようにもう一度、彼は呟いた。
彼女に、ではなくそれは自分に向ける言葉。
「早く、こっち」
彼女は眉を吊り上げて怖い貌をしていた。
ずんずんとすぐ側まで近づいて、彼の腕を思いっきり引っ張って立たせると、引きずるように山へと向かった。
何の気なしに、彼は周囲を見回した。
自分の状況を確認するために。
一瞬判らなくなった自分の状態を確かめるために。
――そして。
地面には数体の少年だったものが転がっていた。
たしか、つい先刻まで人間の姿をしていたはずだ。何故なら、ぼろ切れのような制服を着ているから。
一人は顔も首も区別できない程腫れ上がり、腕があさっての方向を指して奇妙にねじれている。
一人は真横に、とても曲げられない程折れ曲がり、白目をむいて泡を吐いている。
とても言葉にできない情景。
先刻まで生きていた、営みのあった場所とは思えない惨状。
その向こう側に唯一呼吸をしている――哀れな、気絶した少年が倒れていた。
「あ、ああ、あ」
「黙りなさいっ」
声を漏らした実隆を叱咤して、更に強く腕を引く菜都美。
「早く、人のいないところへ行くわよ、惚けてないで!」
小さく音を立てて、彼女に肩を借りるようにして引き寄せられる実隆。
彼は、自分の受けた同様よりも、今見た情景よりも。
力強い彼女の叱咤の声とは裏腹に震える彼女の方が印象的だった。
だから、何も言わずにそのまま一緒に坂道へと向かった。
学校の裏側に位置するススキの原。
そこは学校に隣接する山へとつながっている。
最近特に宅地開発の波に飲まれて禿げ山になりつつあるものの、まだまだ自然と呼べる光景が残っている。
山の一部を削った部分に、ススキを植えたのはこの学校の初代校長の考えだという。
根が細かく、土を堅く締めるには適度な草だとの判断だそうだ。
今では体育館や新しく建てられた講堂や部室の御陰で影になってしまいがちだが、知っている人間は良くここに来る。
日当たりも良く、昼寝には最高の場所だからだ。
だが今は、まるで建物に隠れるようにして菜都美と実隆が並んでいた。
冷たい風が当たらないように、と言うわけではない。
実隆は訳が分からなかった。
つれてこられたのは確かだが、菜都美は何も言わずに彼を座らせて、自分もその隣に座っていた。
以来何も言わないのだ。
ただじっと風景を眺めている貌が寂しそうな、何故か苦しそうな貌に見えた。
それを見ていると切なくて、実隆も視線を向けられなくなった。
――結果、何をするわけでもなく二人はそこに座り込んでいる、という訳だ。
彼は先刻までの自分を思い出そうとして、酷く興奮していたことしか思い出せなかった。
真っ黒い、としか表現できない意識がそこにあった。
高揚した身体ももう収まろうとしている。
まるで自分の身体ではないような、浮ついた感触が消えていく。
火が消えて、全てが冷めて凍てついていくように。
白んでいた風景に闇が戻ってくる。
明るすぎた場所――カメラの絞りを間違えたような風景から、元通りの風景へ。
音のない場所――いつの間にかかさこそという小さな虫の足音まで戻ってきた。
そこは――いつもの学校。
「落ち着いた?」
声をかけられて、彼は現実に戻ってきた。
学校の裏にある山肌で、隣り合わせに腰を下ろした彼女を思い出した。
「……うん」
思いの外優しく感じた彼女の声に、彼は安堵の溜息のような声を出した。
素直な子供のように。
――今朝から感じていたものも、忘れてしまったようにすっかり元通りに感じた。
今側にいる彼女からは、そんなものは一切感じないから。
「なんか、今朝から妙だったんだ」
「……そうね」
何故か顔を見せるのは恥ずかしくて、学校の方に顔を向けて。
「凄く敏感になったみたいに。…思わず人を殺してしまいそうになる程」
「……うん」
それだけしか、言葉にならなかった。
菜都美の言葉を待っても、いつまで経っても帰ってこなかった。
なんとか口を開こうとしても、それもできなかった。
「否定してくれないんだ。……やっぱり、さっきのは本当の事か」
返事はない。
代わりに、彼女は背中から突然腕を回して――抱きしめた。
後頭部にこつんと当たる気配。
菜都美の額だろうか。
「怖かったよね」
母親に抱かれているような気分で、彼女の声に耳を傾ける。
「でも、大丈夫だから。何があったとしても、大丈夫。あたしもいるから」
言いながら彼女はきつく腕に力を込める。
「自分を見失いそうになっても忘れないで」
まるですり抜けていくものを必死になってつなぎ止めているように。
「お願い」
最後は、彼女はかきむしるように彼にしがみついていた。
泣いていたような気もする。
でも、その記憶も曖昧ではっきりしない。
ただその時、遠くで聞こえる救急車のサイレンが耳に残っていた。
それが、実隆の高校生活の最後を告げる鐘の音のようで、実隆は急に寂しくなった。
午後の授業は受けなかった。
気がつくともう夕暮れになっていて、多分大騒ぎになっているんだろうと思いながら校舎を眺めていた。
菜都美も、付き合いよく彼の隣にいた。
「俺達、莫迦みたいだよな」
頷く彼女を横目で眺めて、実隆は溜息をついた。
「菜都美、お前、知ってたのか」
ただ確認するだけの作業。菜都美が頷くだろうと思っていた。
でも菜都美は頷こうとせず、戸惑いの表情で彼の方に顔を向けた。
「判らなかった。――特別な人間なんだって、そう思ってた」
多分、と彼女は息を継ぎながら途切れ途切れに話す。
「あたしにとって特別なんだって。気心知れたって言うか…でも、そうじゃなかった」
それは落胆したような声。
『そうであって欲しかった』んだと、実隆は口を堅く閉じる。
「はは、あたし何言ってんのかな。…あ、いい、忘れて。ちょっとした気の迷い」
止めようとして差し出した手を彼女はすり抜けて、スカートをぱんぱん叩いて立ち上がった。
一歩後ろに下がって、彼から離れるように。
「元気になった?喧嘩の後始末はあたしがしておいたから。もう行くよ、遅くなるしHRまでさぼっちゃったし」
戻らなきゃならない。
それは本能の強迫観念。
今菜都美を引き留めるのは、『危険だ』と囁く。
――お前も戻るんだ、人間に
まるで自分の意志ではないように。
『人間』という響きが、まるで他人の言葉のように心の中に満ちていく。
「――そうだな。そうだよな、そのうちクラブの連中が来るし」
「そうそ。噂になったら大変だよ」
「何言ってやがる、俺達がどんな噂されてるのか知ってるのかよ」
へっへーん、と菜都美は元気に笑って答えた。
「そーだったらいーなって、思ってたよ♪」
彼女は叫ぶように言い残して、実隆に背を向けた。
「じゃあ明日ね!絶対遅刻しないよーに!」
一瞬くるっと振り返って叫び、彼女は走り去っていった。
――…あの、莫迦野郎
一瞬どきっとした自分に毒づいて、彼は自分の教室に向かった。
「おかえり、実隆ちゃん。学校から連絡あったわよ、さぼったの?」
玄関をくぐって、ばったりと心配そうな顔に出くわしてしまう。
電話の子機を握っている所を見ると、電話を終えたところだったようだ。
――しまった
言い訳も考えずに帰ってきたせいで、彼女の貌を見て罪悪感にさいなまれる。
「あ、いやその…気分が悪かったんだ」
電話がどこからなのか――それは、ほぼ想像通りだったようだ。
彼女は電話を充電器に置きながら小首を傾げる。
「でも保健室からもいなくなって。…本当に心配したのよ」
学校には『帰ってきて病院に行った』と連絡してくれたらしい。
この辺は機転のきく人である。
叱る、というよりもその困ったような心配顔に胸が締め付けられる。
「気分が悪かったのはホントだよ。保健室でも気分悪かったから外で涼んでたんだ」
それでもすらすらと言葉がでた。
――自分の身体では、ないかのように。
「こんな寒い日に?」
それにしては都合の悪い嘘だ。
真冬もいいとこ真冬である。『涼む』という言葉がいかに不自然なことか。
案の定、彼女は訝しがって眉を寄せる。
「……まさか、なっちゃんとかと悪い事してたんじゃないでしょうね」
ぎくり
正確には違う。が、彼女の名前を聞いた時、脳裏にあの出来事がよぎる。
「ま、それこそまさかだよ。そんな事してない」
両手を大きく振って否定しながら、動揺を何とか誤魔化す。
――もし、そうだったらその方が良いのかもな
殺人。
あの少年達が死んだのかどうか、それは判らない。
菜都美が何故あそこにいたのかも、理解できないのだから。
今になって、自分のしでかした事を思い出して後悔する。
既に後戻りできないのではないか――それであれば、彼女の言う通りの方がどれだけましか。
――まだ人間としては、考えられる行動だろうから。
「ほんとにー?実隆ちゃん結構女たらしっぽい雰囲気あるから」
ころっと彼女の表情が変わる。
無事な彼の姿を見たからだろう――目が、興味津々と輝いている。
こうなっては何を言っても――たとえ、それがなんであろうと――聞きはしないだろう。
「なんですかそれは」
胸をなで下ろしつつ、額に冷や汗を浮かばせる。
ふふふと笑いながら彼女は台所の方へと向かう彼女を追って、彼はため息をついた。
「もうすぐ夕食できるから、お茶でも飲む?」
入り口で振り返る彼女に首を振ると、鞄から弁当を出そうとして顔を曇らせる。
「あ…」
昼前に保健室へ向かって、それから夕方まで何も食べていないことを思い出した。
あけた鞄に手をいれたまま間抜け面で硬直する実隆。
弁当は中身がぎっしり詰まったままだ。
とことこと里美は近づいて、鞄を覗き込みながら笑う。
「あらあら。本当に気分が悪かったのね。お弁当を食べていないことを忘れるぐらい」
そしてひょいと弁当をつまんで、彼の顔の高さに差し上げて揺する。
弁当の向こう側で里美の人の良さそうな笑みが見え隠れする。
「お夕食、どうする?」
「……ごめんなさい。お弁当を食べます」
にこっと笑うと、彼女は実隆の頭を撫でる。
「じゃ、今日のお夕食はラップして明日の朝か、お弁当にしてあげる」
「すみません」
彼女の後ろを追って、実隆は台所に入る。
里美はてきぱきと弁当を開くと、少しずつ皿の上に載せて行く。
時々匂いを嗅いだり首を傾げながらラップをして、電子レンジに入れる。
プリセットの時間を選択してスイッチ。
ぶーんという特有の音がして、ライトの中で皿が回る。
冬だから大丈夫よね〜とか言いながら、お茶の準備を始める
「兄貴の様子は?」
「熱は下がったみたいよ。でも明日まではかかるみたいね。お医者さんもそう言ってたわ」
里美はレンジから離れて鍋の様子を見ながら席に着く。
そして、湯気の立つポットからお茶を注いで実隆に差し出す。
「ありがとう。そうか…」
目が覚めていたら、話をしたい。
昨晩の、悪い夢を否定してもらいたい。だから、彼は複雑な表情をしていた。
頭が真っ白になる感触
さもなければ、あれをどうにか――夢だと思いたくて気が狂いそうになる。
自分でも、夢が夢でないような不自然な感覚を覚えている。
夢の中での出来事のようなあの感覚。
人を殺そうとする、感情。
あの夢のせいだと思いたい。
――だからだろう
ふとそう感じた。
人間を殺そうとする自分を否定しようとするから夢の中にいるような気がするのだ。
意識との乖離は、自己否定から始まるものである。
アナクロなベルの音が、彼を再び現実へと引き戻した。
ガラス越しに見る、現実に。
「はい、できた。冬だからほとんど痛んでいないし、充分食べられるはずよ」
ことりと小さな音を立てて、元弁当は彼の前で湯気を立てていた。
「いただきます」
考えれば…
――いや、考えるのはよそう
きっと後悔する。だから、今はとりあえず夕食にしよう。
暖まった弁当はいつも食べる昼食よりも美味しかった。
少し熱いぐらいのお茶を飲みながら、居間のテレビを眺める。
「嫌な話よね、変な病気が流行ってるんですって」
昨日聞いた気がする。
テレビのテロップに映る『今世紀最大の奇病』という文字が、うねうねと踊っている。
「へぇ。兄貴もそれじゃなきゃいいけど」
里美の溜息が聞こえた。
まずいことを言っただろうか、と彼が手を口に当てたが、里美の表情は別の感情を映していた。
心配というよりも、訝しがっている感じがする。
「大丈夫よ、隆弥ちゃんは。だって、症状が一致しないもの、一つも」
いたって平気というよりも、むしろ何かを思考しているという感じの表情だ。
――どうかしたんだろうか
病気ではないと確信している割には、晴れた顔ではない。
「…じゃ、いいじゃない」
ぱちくり、と不思議そうに実隆を見返す里美。
「あれ?…なに、私変な顔してた?」
「うんしてたしてた」
実隆が答えると、あははと笑って手を振る。
「ごめんなさいね、ちょっと考え事してたから。気にしないでね」
実隆は頷くようにして、弁当を一口口に入れた。
ニュースはもう別の事件を映し出していて、病気の話はこれっぽっちも触れていなかった。
食事を終えると、彼は風呂に入ってから自分の部屋に戻る。
階段をてくてくとと登りながら、軽い鞄を自分の肩越しに握りしめる。
――今世紀最大の奇病
熱が出て寝込む。でも、すぐに回復して何事もなかったような風になる。
数日以内に失踪する。
直前までいなくなるような形跡は一切なし、まだ一人として死体も発見されていない。
それだけ聞けば病気の関わりはないようだが、ここ数日の失踪者全てがこの奇病にかかったものらしい。
病気の原因も分からなければ、失踪も不明。
だからだろう、いつの間にか『呪い』だの『魔術』だのオカルトな話まで出てくる始末である。
――兄貴…大丈夫かな
ふと、隣にある隆弥の部屋の扉を見る。
気になる時は確認するに限る、と、彼は自分の部屋に鞄を放り投げて彼の部屋を覗いた。
真っ暗。
扉の隙間から漏れる灯りだけが部屋を嘗める。
「…ん」
人が動く気配。
それだけでも安心して、実隆は溜息を大きく吐いた。
「ミノルか?」
出ていこうと思って身をひいていたのを、彼は足を止めて再び部屋へと戻す。
真っ暗な部屋だ、顔も見えていないはずだ。
「ミノルだろ?里美さんなら電気をつけて入ってくるだろうし、重政さんだったらまず声をかける」
動く気配がして、部屋の中の灯りがついた。
さっと暗いカーテンが流れて、閉め切られた部屋が急に露わになる。
電灯の真下に彼は立っていた。
締め切った淀んだ空気に、彼も僅かに顔をしかめていた。
「窓を開ける。部屋の入り口に突っ立ってないで、手伝ってよ」
彼は笑いながらそう言った。
窓を開けて雨戸を戸袋にしまう。
星空が見える。住宅地の中央でこれだけ星が見えるなんてことは珍しいだろう。
「起こした?」
「いや、丁度目が覚めたところだから気にすんな」
風の音が、部屋の中の淀みを一気に洗い流していく。
寒いぐらいに。
「大丈夫なのか?兄貴、熱が出てたって」
さすがに肌寒さを感じた実隆が言い、窓を半分閉める。
隆弥は電灯の下で素顔をさらしている。
柔らかい微笑みを浮かべた顔を。
「ああ、さすがにもう大丈夫だよ。ちょっと大きく切ったからだろうね」
うーん、と伸びをしながら応える。
そして、まだ絆創膏を貼っている自分の頬をとんとんと指で叩く。
「師範代、真剣で斬りかかってくるんだから。ふざけてるだけならともかく、本当に切られるとは思わなかった」
『え?でも、三年になってから練習で姿を見かけたのは試合の前の週だけですよ』
後輩の鈴木の話を思い出して、実隆は僅かに筋肉を硬直させた。
――斬りつけられたのか?
「真剣って…」
隆弥は笑いながら自分のベッドに座る。
その様子に、何の不自然さも感じられない。
「うん、剣道部に来てもらってる師範のね、道場にあるんだ。……これは内緒にしてくれよ」
「え?」
「家には学校のクラブに顔を出す事にしてるからさ。……本当はね、駅にある道場に行ってるんだよ」
実隆は思いっきり溜息を吐き出しそうになった。
何のことはない、タカマルが見たのもどうやらその道場に向かう途中か、帰りのことだろう。
――そうだよな、兄貴だからな
一瞬でも疑っていた自分に少し毒づいて、気づかれないように胸をなで下ろす。
――だから
そう、それに、あの時腕を切り落とされたのに元に戻っていた。
目が覚めると、汗だくで自分のベッドにいた。
あり得るはずのない可能性を否定できて――やっと、彼は安堵した。
「剣道部の連中にも話してない。…まぁ、試合前には稽古を付けに行ってるけど」
隆弥は自分のベッドに腰掛けて、膝の上で両手を組んだ。
「その話だけど、鈴木が来てたぜ。休んでたら無駄だけど、一応言っとく」
机に腰掛ける実隆に隆弥は右手を挙げて応えて、くたびれたような安心した表情を浮かべる。
「結局剣道って面白くてやめられないんだよ。まぁ、この時期になってからだと二年が育たないし」
「この剣道莫迦」
実隆の鼻先に音もなく指が現れる。
隆弥が人差し指を突きつけたのだが、その動作が全く見えなかった。
――もし彼がナイフを持っていたら
間違いなく、今鼻をそぎ落とされていただろう。
そんなタイミングだった。
反応しきれずに思わず目を丸くする彼に隆弥はにやっと笑ってみせる。
「ほら、何でも正直になって打ちこんでみろって。一つぐらい好きなものがあった方が良いぞ」
しかめっ面で応えると、実隆は彼の机の椅子をとって座る。
酷く疲れた。
人から突きつけられた噂や、自分で勝手に見た夢の御陰で振り回された。
隆弥の話では刀傷の深さによっては、それが原因で熱が出る事もあるという。
動けないほどではないが、安静にした方がいいらしい。
傷口からの感染症の恐れもあったので、診察を受けて学校に行くのは見合わせたらしい。
「じゃぁ病気でもなかったんだ?」
「そうなるかな。…なんだよ、不満かよ」
むっと顔をしかめてみせる隆弥に、実隆は鼻で笑うと言う。
「莫迦、逆だっての。折角心配してやってるのになんて言いぐさだ」
実隆の言葉に肩を揺らせて笑い、彼はひょいっとベッドの頭の方にある棚に手を伸ばす。
そして何かをつかんで実隆に投げる。
「おっと」
受け止めて――革の感触に、それが財布だと判る。
「コンビニで飲み物とお菓子買って来てよ。俺は暇だし…少し話でもしよう」
「ああ。…おごり?」
「何だよ、お金持ってるだろ?自分で払ってよ」
「ちぇ。じゃ行って来る」
隆弥ののんびりした声に送られて、実隆はとんとんと一階に下りる。
普段から二人は勉強中におやつを食べることもないし、夜食も食べない。
おやつというのは里美がわざわざ買ってくるか、食べたいものを用意する事ぐらいしかない。
料理好きな里美は自分でケーキを焼く事も多い。
だから、菓子の買い置きのようなものはこの家族にはないのだ。
食べたい時に、食べたいものを買ってくる。
それは二人についても同じだった。
――お茶ぐらいだったら、いくらかあるよな…
ちょっと台所を振り返って見て、彼は玄関へと向かった。
最近、住宅街にもコンビニができることがある。
それはきちんと区画を分けたものではなく、順次拡大していった住宅地であることが多い。
ごくまれに、そうでもない場所で見かけることもあるが、店舗を持つには敷地が狭いと困る。
残念なことに、彼らの住む家は初めから住宅地を考えて作られた地形だ。
そう言う事情もあり住宅地の外れにまで行かなければならない。
駅まで出るなら自転車がいるが、コンビニまでなら歩いてで良いだろう。
彼はそう思って門をくぐった。
本当に色々なことがあった。
ほんの数日なのに、一週間分の事件に巻き込まれたという感じだろうか。
奇妙な夢を見て、その妙な夢の中で隆弥を見て。
隆弥に殺されかけて、何かの事件の参考人にされて。
――でも、それもきっと夢の一部に違いない
どこからが夢で、何処までが現実なのか、それをはっきりさせられない。
曖昧な意識。
でも今一つだけ確かに言える事は、隆弥はやっぱり関係ないという一点だけだ。
それだけでも嬉しかった。
コンビニで買い物を済ませた彼は、そう解釈した。
店の前についた時から、奇妙な視線を感じ始めたのだ。
だがその視線は消えるどころか気配をより一層強くする。
――誰だ
全身をなめ回してくるような、獲物を見据える視線。
少なくともその視線には好意的な物を感じる事はできない。
刑事ではないと思う。刑事なら、こんなに悪意ある視線を無遠慮にぶつける事はないだろう。
――ならば
一瞬、自分の思考に躊躇した。
気のせいではないのか。
何に敏感になっているのか。
――疲れてるんだろうな
さもなければ神経が過敏になっているんだろう。
そう思いこもうとした。だが、気配はだんだん強くなる一方で、消えるどころではない。
それに無意識に逃れようとして、足が自宅とは反対方向に伸びる。
――なんだ
それは実感として、物理的な圧力まで感じる。
道の脇の、街灯の影に何かが潜んでいるようなそんな想像まで鎌首をもたげてくる。
――っ、くそっ
この謎の追跡者を振りきってから家に帰ろう。
思いこみかどうか確認するためにも、振り切れるかどうか試そう。
駅の方なら路地も多い。逃げるには不都合が少ない。
相手も土地勘のある連中が来ているはずだから、注意した方が良い。
――だったら
古くからある土地よりも、最近できたばかりの場所の方がいい。
駅裏みたいに古くからある場所よりも良い――
――!
気配の質が、突然変わる。まるでそれまでの思考を読んでいたかのように。
気づかれたと悟ったのだろうか。
――来る
簡単に行きそうになかった。
視る気配から、明らかに攻撃的な意志を持った気配へ。
動きが変わる。先刻までの小さな人の気配から、墨汁で気配を溶かして流したような漠然とした『殺気』へと。
その純然たる殺意の塊に――居場所のはっきりしない殺意に背筋が凍る。
丁度草食動物が自らが獲物になった瞬間を知るのと同じように。
いつでも どこからでも 牙をむく事ができる
捕食者が獲物を自らの顎に捕らえた――そんな、背筋を走る悪寒。
実隆はコンビニの袋を下げたままアスファルトを蹴った。
取り囲み始めるその殺意に。
追いつめられ追われる事は初めて――いや、初めてじゃない。
ただ純粋に殺意と呼べるものを持った『隆弥』に追われた時と同じ。
だが紙をシュレッダーにかけるような彼の殺意とは違う。
もっと生命的な、肉食動物が気配を殺して食料を狙うような、そんなしたたかさを感じる。
追ってくるものは得体の知れないモノ――少なくとも、それは夢で見たあの隆弥とは違う。
追われているのは自分――夢の中で彼が追っていた化け物とは、絶対的に違うひ弱な生物。
――比較にすらならない
アスファルトの上を滑り落ちていく風に、『意志』と言う方向が与えられる。
今そこに残した身体よりも早く、意識は地面を蹴る。
一瞬にして闇の路地が、大きく視界を後ろに過ぎっていく。
ひゅ ごう
耳元をつんざくような聞き覚えのある音。
いつの間にか闇が流れ去っていく。
一度見た風景。
それを肌で感じている。今までに感じた事のない程の肌の引きつれる感触。
耳朶を叩く風圧――それはまるであの時の夢のように。
「ひっ」
転がるように受け身をとる。
突然自分の視界に割って入ってきたのは――自転車。
今、それを大きく跳ねるようにして避けた。
――!?
そんなはずはない。
自転車に乗る女は驚きよりも怯えを呈した表情を浮かべていた。
「ひ」
悲鳴を上げて背を向けると、よたよたとペダルをこぎ走り去っていく。
アスファルトの上で一回転して立ち直った彼は、それを呆然と見送るしかなかった。
――今、何が起こった――?
どくん どくん どくん
心臓が、痛い程鳴り響く。
自分の心臓の音なのに、ヘッドホンステレオで聞いているようなそんな妙な感覚。
――俺は…
ぎりぎりとバネ仕掛けの人形のように、自分が走ってきたはずの道を振り向く。
だが、『先刻までいたはずの場所』は、既に判らない程遠ざかっている。
――ここ、は…
そんなに速く走った訳ではない。
今息切れすらしていないし、アスファルトで一回転して受け身をとったのに、身体には痛みを一つも感じていない。
ゆっくりと周囲を見回す。
いつの間にか走り込んでいた路地裏。
ここがどのくらい奥にある場所なのか、それも判らない。
自分を狙っていたはずの殺意ももう微塵にも感じられない。
それが――逆にこの暗い路地裏に溶けて隠れてしまったかのようで、全身の血の気が引いていく。
――逃げなければ
時刻はもう午後八時を過ぎようとしている。
逃げられたのだろうか、逃がしてくれたのだろうか。それとも、今まさに狙われているのだろうか。
少なくとも今自転車が入ってきた方向は、何もないのだろうか。
――信じるしか、ないか
実隆はゆっくり周囲を伺いながら立ち上がった。
かさり、と未だに握りしめていたコンビニの袋が音を立てる。
そして苦笑した。
――なんて言い訳をしよう
ふと顔を上げると、川に沿って走る道が見えた。小さなコンクリートの橋も架かっている。
先刻走り去っていった自転車はもう見えない。
月明かりが差し込んでいるので真っ暗でもないから、彼はその道を進む事にした。
ふと、彼は足を止めた。
水音
水滴が落ちる音が聞こえた。
ぽたり、ぽたりというような音だ。水面を叩いたり、川に何かが落ちた音ではない。
真後ろで聞こえた音。
それが何故か心臓に染み渡ってくる。
同時に――足が凍り付いたように動かなくなる。
金属音。
有り体に言ってそれは、自転車が倒れる時に立てる音だった。
からからというタイヤが空回りする音がしている。
――何だ
やがて静寂だけがここへと戻ってくる。
ビルの影を這い登っていく闇――路地の向こう側に見える川沿いの道がやけにくっきりと見える。
一歩足を動かす。
ズボンの立てる衣擦れの音が上着を伝って聞こえてくる。
いつの間にか握りしめていた拳が汗ばんでいる。
縦に長く延びた穹が今、この闇を縦に切り裂いていて――星穹でできたビルのようにも見える。
このまま走れば助かる――今振り向かなければ殺される
同時に全く逆の意識が浮かび上がり、彼は思いっきり歯を食いしばった。
意を決して振り向く。
見えるのは、路地の入り口と自転車が逃げ去っていった方向。
白々しく映える路地の向こう側で、闇が入り口のように開いている。
何故かその向こう側は見えない。
実隆は音を立ててつばを飲み込んだ。
――逃げなければ
振り向かない方が良かったのだろうか。
そのまま歩いていけば逃げられたのだろうか。
まるで惹き付けられるように、一歩足を踏み出すと――もう止められなかった。
闇から抜け出して、月明かりの路地から再び闇へ。
そして――
そこに充満するのは生臭い脂の臭い。
嗅いだ覚えはある。
夢の中で。
だから容易に想像できた。
奥は袋小路になっていて、灯りは見えない。
想像できる――足は止まらない。
何がこんなにも臭いを放っているのか――
「久しぶりだな」
その時、唐突に真後ろから声をかけられた。
躊躇なく振り向いた彼の視界に、いつの間にか男が立っていた。
灯りのない路地裏にも人の姿を切り抜いたような影が浮かび上がっている。
どくんと心臓が跳ね上がり、きりきりと締め付けられるような感覚に、脂汗が滲む気がした。
その姿が、口元を歪めて笑う。
邪悪な笑み。
それは星の灯りだけを身体にまとい、殺気を放っている。
どこの誰ともあずかり知らぬ殺人鬼ではない。
もっと――そう、懐かしい気配。
だから彼は後ずさりした。
後ろはもう――ないのに。
退がるしか、今思いつかなかった――あまりにも大きすぎる衝撃のせいで。
「……やっと目が醒めたのだろう?」
音もなく近づく影は、間違いなく先刻から彼を追っていた姿。
気配を間違うはずもない――たとえ、その顔を見間違えていたとしても。
「ほら――振り向いて見ろ、お前のために用意した、歓迎の挨拶だ」
ぬるり、とした足の裏の感覚。
餌場に追いつめられていく獲物。
――嘘だ
そう思いたい。
でも、勝手に気圧されて足は後ろへと動く。
奴は一歩、無造作に彼を――押す。
踏ん張ろうとしても足に力は入らない。
柔らかいモノを踏む――考えない。考えたり見たりしたらきっと気がふれる。
奴は無言で、ただその気配だけで彼を後ろへと――押す。
「誰なんだ」
それでも出た声は以外にもしっかりしていたから、妙に安心できた。
奴の威圧感がなくなる。まるで、急に姿を消したかのように。
そして、彼は自嘲をするように苦笑を浮かべ、やがて気の抜けたような声で言った。
――その聞き慣れた声で。
「俺か?――ああ、俺の名前は、柊 ミノルだ」
――それは、闇。
無機質な少女が携帯電話を片手に持っている。
その後ろで男が無言で側に控えている。
それだけなら、二人は他人のように見える。
男はまだ、かなり若い。
それなのにかなり死線をくぐってきたのだろうか、穹を見つめる眼には油断を感じられない。
だから年齢不詳――少なくとも、高校生以上の年齢であることは確かだろうが。
くたびれたペインターズボンに革のジャケット。
そのさまは、丁度丈夫な皮のシースに納められたナイフのようで。
――だから、少女には巨大な剣を与えられていた。
その剣は彼女が扱うには大きく見える。
でも少女は誰よりも上手くその剣を扱える。
彼女の右腕よりも、何よりも確実に。
間違いなく彼女の敵をしとめる。
「よくやってくれた。
御陰で助かった。後始末は任せて欲しい。
ああ、殺したのは間違いなく人間ではなかっただろう?
……今私の手元にいるのは、まだ実験中の素体だ。
ビジネスはビジネスだ。…お互い詳しくつっこんだ話を聞きたくないだろう。
まだ命は惜しい。互いにな。
ふん、不用意な話だ。ああ、確かにそうかも知れないし違うかも知れない。
口の利き方には注意した方が良いぞ。
ふん?その口では、私もいつばらされるのかわからんな。
冗談だ。最近の若造は冗談も聞き分けられないか。
だがお前達にとってはそれで充分な理由なんだろう。
だから――いや、おっと、話が過ぎた。
ああ、我々はこの辺で撤退させてもらうさ。
もう充分だからな…次にまた、会うことがあれば殺し合う時かもな」
殺伐とした会話が流れた後、彼女の手元で携帯電話は電子音を立てて電源が切れた。
「――行くぞ、ミノル」
少女は自分の剣に声をかけた。
剣は何の反応もせず、ただ彼女の後ろについて歩き始めた。
◇次回予告
「私としては、以前のお前の方が面白かった」
ミノルの存在理由。
少女は鈴を転がしたような声で残酷に呟く。
「お前を壊すことができるのは、私だけだ――」
Holocaust Intermission ミノル 1第1話
でもだとするならば、この記憶はいったい何の記憶なんだ
わたしはだれなのか
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