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Holocaust ――The borders――
Chapter:5

冬実――Huyumi――   第3話


 実隆の声に治樹は振り上げた拳を止めた。
 つう、と彼と足下との間に糸を引く液体が、彼の拳の下で雫になって糸を切る。
 まるで油が切れた人形のようにごくゆっくりと顔を彼の方に向ける。
 瞳は濁り切っていて、まるで夢でも見ている人間のようにとろんとした貌で。
 多分あの瞳には実隆はおろか、なにも映っていないだろう。
「お前」
 実隆は言葉を失った。
 そこは血の海だった。
 一人の青年だったモノの上にぺたんと座り込んでいるのは、血にまみれた顔だが間違いなく治樹だ。
 そして惚けた彼の周囲には、同様に血を流していたり血で汚れた青年らが転がっていた。

 拳を止めるつもりはなかった。
 でも、周囲に満ちたいやな気配の正体らとは違う、色の違う物が近づいてきているような気がした。
 だから確かめようと顔を上げた。
 先刻までここにはいなかった人間がそこにいた。
――……ナツ姉の、彼氏…だったよな
 ぼやっとソフトフォーカスのかかっているような彼の視界に、見覚えのある青年が顔を歪めて立っていた。
 治樹にとっては特別でも何でもない男。
 でも。
――全然、いやな感じがしない
 だから、彼は拳を下ろした。もう上げている理由が思いつかなかったから。
 彼が口をぱくぱくさせて近づいてくる。
 でもまるで自分の耳ではないようにごうごうと血流の音のような物だけが聞こえている。
 ほかには何も聞こえない。
 聞こえていない。
 でも、彼はぺたりと座り込んだ彼を見つめて何か言っていた。
 その様子が奇妙なぐらい悲しくて、寂しくて、治樹は数回瞬いて体を起こした。
――痛い
 見れば。
 殴りすぎたせいだろう、拳にまみれた血に隠れてだが、骨が見えていた。
 もしかすると打撲と、骨折もあるかも知れない。
 急で無茶な動きだっただけに全身の筋肉も引き連れたり痛みが激しい。
「…ぃんへ行けよ、おい、聞いてるのか?」
 力強く彼が両肩を掴んだ。
 どう応えて良い物か判らず、慌てた素振りの彼をきょとんと見つめると、治樹は一度頷いた。
 判らない。判らないけど判る事は一つ。
――この人は、敵じゃない
 治樹はそのまま、まるで幽鬼のようにふらりと彼の腕から逃れると、ゆっくりと路地の奥へと歩いていった。
 それ以上声をかけても実隆の声に振り返ることすらなく、やがて見えなくなってしまった。
 実隆も追いかけていいものか判断できず、周りの惨状にも対応するべきか迷って背を向けた。
――救急車ぐらい、呼んでやろう
 彼の出した結論は、あくまで偶然を装うことだった。

 冬実は戸惑っていた。
 何も部活にも参加していない冬実が帰宅するのは早い。
 だから、いつも遅い治樹を出迎える。
「ハル…」
 どうしたの、とは言えなかった。
 全身から漂わせる血の臭いと、傍目からも判る内出血の痕、それは明らかに『自損』の傷だ。
 滴る程傷ついた拳に虚ろな目をして彼は玄関に立っていた。
「ただいま、姉ちゃん」
 何事もなかったように言い、へたりと玄関に座り込む。
 慌てて彼の側につき、彼女は両膝をついて彼の側に寄る。
「ちょっとハル、あなたこの格好」
 離れたところから明美の声が聞こえた。
「明美姉さん」
「どーしたの、玄関でそんなに騒いで。みーちゃんにしちゃ珍し…」
 玄関に顔を出して、彼女も口ごもるように黙った。
「……はるくん、それ、喧嘩の痕ね」
 明美の声に、治樹は一度顔を向けて、もう一度戻して靴を脱ぎ続ける。
「……うん」
 顔を上げる冬実と明美の目が一瞬合い、明美は頷いた。
 冬実が治樹の両肩をぽん、と叩いて彼の隣で靴を履き始める。
 顔を向ける治樹に冬実が微笑み、靴を脱ごうとする彼の手を押さえる。
「姉ちゃん」
「ちょっと待ってなさいね、保険証とお金を持ってくるから」
 そんな二人に明美が声をかけて、とことこと家の奥へと消えていく。
「病院で話は聞くから」
「姉ちゃん、あの、俺…」
 言いかけて、それでも治樹は言い淀んで戸惑う。
 冬実はさっさと自分の靴を履いて立ち上がる。まるで治樹を無視するかのように。
「ゆっくり話すわ。思ったより早かったから…まだはっきりしていないでしょ、自分の事が」
 再びぱたぱたと足音を立てて明美が現れる。
 冬実はお金と保険証を受け取ると頷いて、治樹の腕をとった。
「じゃ、行って来ます」
「痛、痛いよ姉ちゃん、自分で歩くからそんなに引っ張らないでよ」
 冬実が治樹を引きずるようにして出ていくのを、明美は眉を寄せて見送っていた。
――深刻…ね…
 彼女は両腕を組んで眉根を寄せた。
 そしてこの場に菜都美がいない事に感謝した。
 明美に見送られた冬実は、あんまり恥ずかしがる治樹の腕を解放して、彼を見つめながら歩いていた。
 隣、すぐ側で血まみれの拳を隠すようにして片手で覆う治樹は、時折冬実の方に目を向けるだけで何も言わない。
――変
 彼の態度。
 彼の『雰囲気』。
 冬実は彼に違和感を覚えていた。
「喧嘩」
 治樹は彼女の言葉にわずかに目を、彼女の視線と合わせる。
 その瞳の奥を見透かせるよう目を細め、彼女は――久し振りに表情を浮かべる。
 それは怒りではなく、もっと冷たくて堅い表情。
 澄まし顔というにはきつく、怒りというにはあまりにも穏やかな――あえて言うなら能面のような冷たい微笑み。
「どうだった?」
 治樹は質問の内容に戸惑う。
 何を答えさせようと言うのだろうか。
 『何』が『どう』なのだろう。
 でも彼女は何も言わず彼の言葉を待っている。
「……うん」
 答えるしかない。
「なんか、ぶっ飛んだみたい。急に…」
 そう。
 そう言えば大事な事を思い出した。
 彼は左手で自分の首筋をなでる。何かを突き立てられたような気がする。
 でもその記憶が、何故か白濁とした液体の中につけられたかのように。
 白く。
 ただ白くとしか記憶がない。
「……ハル?」
「あ、いや、姉ちゃん」

  どくん

 一瞬だけ、治樹は自分の動揺の仕方に驚いた。
――なんだ?この…感覚
 指先にまで力が入らない。
 彼女はさしたる表情の変化はない。なのに、何故か、妙にその貌に惹かれる。
 できれば――滅茶苦茶にしてみたい。
 彼女が泣き叫ぶような、そんな貌を見てみたい。声を聞きたい。
 そんな獣の感覚。
「な、何でもないよ。ちょっと…さ、まだ喧嘩してた興奮が冷めてないんだよ」
 判らない。でもその興奮とは違う、それだけは彼に確信できた。
 冬実は今の言葉が嘘である事はすぐに判った。
 帰宅した時には既に彼は完全に落ち着いていた。
――落ち着いていなければおかしい
 彼が『帰宅』したのだから、彼は『家族』の中に帰ってきたのだから。
 今だって冬実が側にいる。
 なら『正気に返る』事で興奮は覚めるはず。
「ハル」
 案の定、彼はびっくりしたように彼女の方を見た。
「な、何」
「ううん」
 彼女は答えて沈黙した。
――この子は、私に近い
 冬実の結論は出た。
 後考えなければならないのは、彼の処遇だろう。
 嬉しい反面、治樹のこれからの事を考えると僅かに心の隅が痛んだ。


 よぉく見ておけよ、お前の大切な姉ちゃんの悶える姿を。忘れられなくさせてやるぜ

 息も荒く、治樹は起きあがった。
 毛布毎はね除けた掛け布団が、勢い余って部屋の入り口付近まで転がっている。
 上半身を起こし、自分の頭を片手で押さえるような格好で、彼は息を整えようと必死だった。
 あれ以来、言葉が耳元で囁き続ける。
 病院で治療したはずの拳は痛みとは別の物で疼いて、まるで別の生き物のように鼓動を受ける。
――彼女を
 囁きは止めどもなく、耳を押さえようとも外から聞こえる訳ではないから。
――貪れ
 病院で冬実の横顔を眺めた時の感情、彼女に抱いたモノを理解してから、彼女の顔がちらついて落ち着かない。
「くっ」
 恋愛とか、そう言うレベルであればまだ誤魔化しも利くかも知れない。
 もっと根元的な次元での話。
 単純に、彼女がほしい。
 それがどういうことなのか判っているから、彼はぎりぎりと歯ぎしりをして頭をかきむしった。
「畜生」
 何故そう言うことになったのか――彼には、理解できなかった。

「――急ぎましょう」
 言われるまでもなかった。
 そして、冬実が担当する事そのものに意味が出てきた。
 だから明美は僅かばかり口元を引き締めると笑みを湛える。
「そうね。とりあえず警察と櫨倉で打てる部分は打っておいたから」
 本当はできる限り誰の手も借りたくはない。
 それにここまで追いつめられるなどとは、考えていなかった。
「…冬実、早すぎると思わない」
 それは疑問形ではない。
 疑問の形をとった肯定を促す構文。
 冬実は無言で頷き、ついと目を細めて――目の前の明美ではないどこかを見つめる仕草をする。
「あの子は、幾分も私に近い。覚醒も極端に急激のようで…姉さん、他にも何か、私には在ると思うんです」
「他に…」
 明美は首を傾げる。
 前例――少なくとも、彼女が伝え聞いた口伝の中には異常な成長を遂げた前例は、女性以外にない。
 これは女である方が適しているからだという推測以外は残されていない。
 たとえば、それは冬実のような感じだったのだろうと彼女は考えている。
 だが男性では覚醒する前後に兆候があり、一度覚醒するとそれが比較的不安定になるのが確認されている。
 周期をもっている女性の体と違い、ほとんど突発的な引き金に反応するようなモノだ。
「…何か、別の要因が覚醒を促す、と言うのね」
「それが何か、そして本当にそんなモノがあるのかは判りませんが。…恐らく」
 治樹の反応と対応、そしてあの奇妙な『感じ』。
――はっきり覚醒しきっていないみたいに…でも、あのにおいは
 それだけ彼の方が化物に近いのかも知れない。
 冬実は首を振って全てを否定する事にした。
「治樹は?」
「今、部屋です。きちんと眠れていれば良いんですけど」
 二人はそこで沈黙する。
 お互い何を言おうとしているのか、そのタイミングを計るように。
「菜都美姉さんには」
「言わない。…これは、同意見ね、『冬実』」
 冬実は小さく頷いて上目遣いに明美を見上げた。
 普段はおっとりとした印象の強い彼女の目が、僅かに吊り上がって超然と彼女を見下ろしている。
 名前で呼ぶ時は、いつもそうだ。
「できる限り関与しないように」
「明日以降の治樹の行動、注意するか、拘束するか」
 拘束という言葉に冬実の眉が動いた。
「まだ、早いのでは。姉さん」
 明美の顔が僅かばかり緩む。
――いつもの姉さんだ
 冬実が安心するよりも早く、明美は言葉を紡ぐ。
「みーちゃん、じゃあ、あと何とかしてくれる?」
「ええ、全部任せて貰えるなら。明日、帰ってきたら始めます」
 視線を時計に向ける。今、既に夜半を過ぎこれから更に夜が深まっていく。
 時刻としてはそろそろ限界だろうか。
「――今から」
「ええ。準備します。もしかすると明日は、ハルは学校に行かせない方がいいかも知れませんから」
 明美は頷くとにっこりと笑って見せた。
「任せるからね、みーちゃん」
 彼女の言葉に冬実は頷いて答えた。
 冬実は自室に戻る前に一度治樹の部屋の前でたたずんだ。
 物音一つしない。
 特別何かが動く気配もない。

  ぴぃん

 刹那、電灯がまるで突然電力を落としたかのように光量を落とす。
 その僅かな瞬きは、逆に闇を光であるかのように変える。
 彼女の周囲にある空気の流れですら、彼女にとって当たり前に判るように。
 僅かな、本当に微々たる変化は、彼女にもう一度呼吸を与える。
 耳に届く音、それは壁向こうで流れる空気すら捉える。
――呼吸音
 それは――丁度、幻であったかのように、元の風景へと変わる。
「――お休み、ハル」
 意識を集中しても、彼は眠っているようにしか感じられなかった。
 どうやら危惧していたような事はないようだ。
 これなら明日学校に行っても大丈夫ではないだろうか。
――なら、私は私のできることを
 教えなければならないことを教える。
 それは、真桜に生きる者として必ず迎えるものである。
 発作的に発生する『覚醒』は、いつどこでどう起きるのかは判らない。
 肉体的にある緊張状態におかれた場合、ほんの僅かなきっかけが引き金になる場合が多い。
 このため女子の場合は通常生理が起こる以降に発生する場合が多い。
 冬実のように『極端に』早い場合にはこの限りではないらしいが、男の場合はこれがいつになるのかは全く判らない。
 きっかけもヒトによって違う為に一概には言い切れない。
 だが、どちらにせよ人間の間で生きるのに『他人(ヒト)を衝動的に壊したくなる』ような『病気』では困る。
 だから、自分の事をまず知らなければならない。
 真桜の『覚醒』を果たしたものは、どうやってこの先を生きなければならないかを学ぶ。
 それも先達によって。
 通常親、さもなければ血縁のできる限り近しい者。
 明美は父が、菜都美と冬実は明美が、それぞれ教え込んだ。
 それは――簡単に言えば相手を容赦なく打ち据えるのだ。
 最悪の事態が起きた場合はそのまま、殺さなければならない。
 彼女が『用意』するのはそう言った実際の行動を伴う物と、教えるべき内容の事だ。
 本来で在れば準備する期間はもう少し合った方がいい。
 でも例になく早い彼を押さえ込むのは、もしかするともう差し迫っているのかも知れない。
 冬実は過去、自分に叩き込まれた『口伝』を思い出さなければならなかった。


  かたりかたり

 言葉に直すならそんな、硬質な木がうち合わされるような音が聞こえていた。
 もしくはもっと甲高く、丁度昆虫がきちきちと音を立てるような感じだろうか。
 イメージは断続的に視界の前で形を作り上げていって。
――ん
 そこは通学の途中にある川の側だった。
 でも時間がおかしい。真夜中も良いところ、真っ暗な闇の世界が広がっている。
――あれ、ここは
 ここにくる理由はない。第一、寝床から起き出した記憶もない。
 更に欠落した記憶は訴えかけてくる。
――俺はどうやってここに来た?
 勿論車でも、空を飛んだ訳でも、まして泳いだり地中を進んだはずはない。
 歩いた記憶すら欠けた今のこの状況下で、でもそんな冗談では済まされない。
――それに、なんだか…妙に
 視界が白い。まるで眩しいのか夢でも見ているのか。
 そう感じた瞬間、くらりと目眩のような物が襲ってくる。
 全身が脱力する。
 なのに逆に研ぎ澄まされていく感覚。
 それは空間に体を溶かし込んでいくようで、力が抜けた体は作り物のように動き始める。
 それが、意思であるとでも言いたげに。
 何も考えられない。
 体が動く。
 何も考えたくない。
 体は動く。
――そうだ
 鈴の鳴るような声が聞こえた。
 いや、そんな気がしただけだ、実際にはそんなはずは有り得ない。
 だって、もう耳には音なんか入ってこないんだから。
 ごぉという、自分の体内が立てる生命の音だけが耳朶を打ち続けているんだから。
 きりきりと絞り込まれていくように、体が立てる音が判る。
 指が動いた。
 肘が曲がる――筋肉が軋みをあげて力をためていく。
――あれ?
 それは思考の外側にある違和感。
 何故体の動きが、判るんだろうか。
 いやそうではなくて――もっと根本的に違う。
 なのに彼はそれが何なのかを思い出せない。
 判らない。
 白濁とした意識の波間に、理性の欠片のような物が僅かに浮かび上がって――そして、理性が外界を把握する。
 その瞬間だけ、僅かに自分が何をしているのかを理解する。
 そんな僅かに浮かび上がっている意識が漂う間、彼は自分が先刻とは全く別な場所にいる事に気がついた。
 真っ暗で据えたコンクリの臭いのする場所。
 日の光はないが、何故かそこに立ちすくんでいる事は判る。
「一応捕まえては来たが、どれだけ使い物になるのかは不明だ」
「使えるかどうかはあまり関係ない。……ふふ、ミノル、嫉妬じゃあるまいな?」
 ああ、と治樹は納得する。
 この声だ。
 さっき聞いたような気がした、あの鈴の鳴るような声はこの――女の子の声だ。
「黙り込むな。――こいつは、お前とかなり異なっていたから抽出した。…なに、実験するだけだよ」
 彼女の声が遠くなる。
 でも今度は先刻までのような『消える』感覚とは違う。
 むしろチャンネルとチューニングを変えたみたいに視界がモノクロに墜ちる。
 体が、今度は機械でも動いているような躍動を始める。
 そして意識が、冷たく白く細く絞り込まれていく。
――やれ
 そんな命令を受けたような気がした。
 同時世界が紅く染まる。
 意識では多分理解しているんだろう。
 でもそれでも、視界が訴える情報を意識は理解しようとしていない。
 ヒトの姿をした者。
 うつろな目でこちらを見返す者。
 数人――そう、精確にそれは三人の、同い年位の少年がいた。
 場所は8×8m程の小さなコンクリの空間。
 先刻の声の主は自分の後ろに二人。
 でも、それを攻撃してはいけない。
――まっすぐだ
 体は、覚えているのか滑らかに空間を滑り、床を蹴る。
 素早く上半身を反らせて――両腕を一閃。
 ほとんど動きもしない一人は簡単だ。それだけで肩の形が変わって壁際まで吹き飛んでいく。
 踏み込みざま体を捻り、隣の一人に向けて左足で蹴りかかる。
 これも簡単だった。それだけで体を逆のくの字に折り曲げると床を転がっていく。
 最後の一人、これに向き直っても彼は自分の事と状況を把握していないのか、ただひたすら天井を見上げていた。
 そこに。
 体を滑り込ませようとして――足下が滑った。
 ぬるりとした、水よりも濃い液体がそこに満ちていたらしい。
 油に足を取られるのと同じ条件で、治樹は踏み込み損ねて床を転がる。
 同時に、ざばっという音がして――目の前で、立ちすくんでいた男が弾けた。
「ふむ――こちらは使い物にもならないな」
「……言われたとおりに人選したからな」
 ぴちゃ、ぴちゃと液体の滴る音がする。
 体が、粘っこい。
 動きが突然鈍くなった気がする。
 治樹は自分の意識が再び明滅していくのを覚えた。
――これは夢だ
 意識は、正気が彼に訴えかける。
――こんなものは夢だ
 しかしそれは、もう一人の人間も同時に見つめる夢。
 脂ののった赤黒い液体に満たされた、まるでホラー映画の一場面のような部屋。
「――ミノル」
 先刻から聞こえていた鈴のような声。
 少女の声が、険のある言葉遣いでもう一人に声をかけている。
「なんだよ」
「お前、頭から被ったな。臭くてかなわない――さっさと水でも浴びて流せ」
 少女とは思えない程強気な声。
 だが男から反論が聞こえるよりも早く、治樹は意識を沈黙させていった。
――こんな夢、早く醒めれば……
 彼が意識を失うと同時に、再び彼の体はそこに起きあがっていた。
「――ふふん、面白いサンプルだ。……尤も、コントロールできるかどうかはこれからだがな」
 一人血の海にたたずむ少女は、自分の目の前にいるやはり血まみれの彼を見つめて呟いた。
「ミノルとぶつけるか――いや、調整が間に合わなければ『クスノキ』に殺らせるか」
 そのために奴らはいるんだ――彼女は含み笑いをコンクリの部屋に響かせて、天井を仰いだ。
 穹は、見えなかった。


◇次回予告

 「ここまでだ――化物」
  あの日の夢。
 「重政さん、お客さん、来るそうですよ」
  あの日の家――まるで日常が全て嘘だったかのように。

 Holocaust Chapter 5: 冬実 第4話

 お前の『弟』の、本当の兄貴だよ、隆弥
                                            薄皮一枚隔てた蜂の巣――毒か、蜜か。

      ―――――――――――――――――――――――


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