Holocaust ――The borders――
Chapter:2
臣司――Shinji―― 第6話
人間とは自らに制約を課している。
その制約に気がつくことは稀だ。
何故なら、超えたと思った壁は決して壁ではなく、岐路に過ぎない場合が多いからだ。
自らで課したはずの制約がはずせる人間も少ない。
もし『超越』したのであれば『今まで通りの事』もできなければならない。
だが事実――それを行えた人物は世界の歴史には登場しない。
もしかするとただ選択しただけ――すなわち、壁を超えたと思いながら新たな制約に自らを縛っただけに過ぎないからかも知れない。
だから人は求め続ける。自らが目指すべきものを。
「……」
風が吹き荒れている。
ビルの屋上からの景色はまるで岩砂漠と変わらない光景にも思えた。
地面を這うように流れている黒い雲の隙間に滞る残滓。
溶けた古い鉄の色。
濁ってそれがゆっくりと色彩を失っていくのを、彼は見つめている。
タイル張りの日に焼けた屋上は、一世代前のビルの雰囲気を感じさせる。
隅の方にさび付いてざらざらした物干し台が見える。
彼が立っている側には、球形の古びた給水タンクがある。
ただの一度だけ、彼の顔に吹き付けた風に顰めっ面を浮かべた以外は貌色を変えない。
迷いのない視線は、しかし決して純粋ではなくて。
――陽が沈む
何かが同居しているような濁りを見せながらも決してその意志を揺るがせる物を感じさせない。
混濁しない意識と、その明確な方向性。
それは、それを持つ事が出来るのは、決して後悔する事のない強固な想いがなければならない。
ぴぴ ぴぴ ぴぴ ぴぴ ぴぴ
彼は何度目かの呼び出しを開始した携帯電話を、懐から取り出した。
ぴ、という非常に簡単な電子音が耳元でがなり立てた。
同時に響く、ようやくつながったという焦りと怒りが混じる罵るような声。
だが彼はその言葉に決して反応する事もなく、皮肉った笑みを浮かべることすらしなかった。
「……もう俺は戻れないんだろう」
返事を待たず、彼はそれだけ一言言うと気軽にそれを放り投げた。
くるりと音もなく一回転して、ビルの縁に当たるとプラスチックの割れる独特の音が響いた。
――いかれた
彼は、同時に電子部品でも最も重要なものも一緒に砕けたのを知った。
何気なく視線を向けると、電話は縁でバウンドして落下しようとしていた。
僅かな放電。
バッテリーから空中へと無駄にエネルギーが漏出していく。
その非常に小さな力の流れを最後に、彼の知覚出来る範囲からそれは姿を消した。
何もない虚空へと。
ただビルの谷間へと。
それを何の感情もない目で見つめて、彼は風景に背を向けた。
コンクリートの埃と罅が足の裏を打つ。
はげたタイルが、コンクリとかみ合ってきしむ。
やがて彼の口元に笑みが浮かび――四角く切り取った闇の中へと彼は沈んでいった。
岡崎は電話を叩き付けるようにして切った。
――……出来損ないが
彼はいらいらしていた。
普段部下の前では見せないような険しい顔つきで、先程まで響いていた電子音を振り払うように首を振った。
はっきり言って失態としか言えないような事件だ。
初めは――そう、一番初めにはこんな事になるはずがなかったのに。
――予定外だ。矢環の回収にも時間がかかるだろうし
自分の周囲が全て埋められていくような気がする。
「畜生」
彼に似合わない言葉は喉を絞り尽くしたようなかすれた声で、部屋の中に染み渡った。
大学病院はあまりに閑かなところだった。
転院した木下待っていたのは窓のない部屋ではなく、ごく普通の個室だった。
事実上の実験動物扱いだとしても、ここはむしろ住み良いところだと言えるだろう。
転院してすぐ様々な検査を受けることになった。
カルテも全く新たに作成される――『奇病』、それも突然ミンチになって死ぬという病気だ。
「べつに、そう言う病気が珍しい訳ではありません」
検査の途中、気になった木下の質問に彼はそう答えた。
「有名な出血熱の類には、内臓から何から液状になってしまうものもあるんですよ」
勿論そんな危険な病気は簡単には流行らないようになってるらしい。
たとえばエボラ出血熱は嫌気性のため、体液接触でしか感染できない、とか。
それもアフリカの奥地に生息する一部の猿にしかない病気だった、とか。
人類が、それも世界の各地を行き来するうちにたまたま触れた病気――そう言う物が多いらしい。
「大抵の場合」
医者は続ける。
「発見が遅れたそんな『旧い』ケースは、大抵の化学薬物に耐性がありません」
変種が産まれるケースではそうは行かないが、ウィルスが薬物に一度も会わなかった為向こうも免疫がないのだ。
ただ症状の進行が早く薬での治療が間に合わなかったりする場合もある。
「今回……刑事さんが立て続けに同じ症状で倒れたとか、今ちょっと大変なんですよ」
「え?」
「駅周辺で、昨日何人も同じ病気らしい物にかかっててね。うちで抱えきれないぐらいで」
それでだろう。
納得はできるが、それでも一つ気になることがあった。
――矢環のことだ。
矢環には書類仕事の指示しておいたはずだ。
何故その意味不明な病気で倒れて――それも、駅周辺に出没して――いるのか。
「ただ、もし病気だとしても木下さんの場合はかなり軽度ですよ。酷い人は意識がありませんから」
一通り検査を終え病質に戻る前に、医者はそう言った。
高熱が出て、脈がおかしい患者が一番酷いそうだが、彼はかなり高齢なのでどれが病気の症状なのか判らないという。
「矢環…もう一人の刑事ってのは、どうなんです」
医者は眉を顰めて苦い表情になった。
その貌の意味を考えるまもなく木下は続ける。
「そいつは俺の部下だ。是非知っておきたい」
「それは……」
医者は難しい貌を続ける。
「酷いには、酷いです。彼も高熱が出て昨晩から意識不明です」
そう言うと渋い表情で首を振った。
「……原因を、追求するしかないんです」
研究者と医者を掛け合わせたような彼は、その若さの割には渋い表情を浮かべて拳を握りしめた。
それ以上は語らず、検査を終えた彼は病室へ向かうことにした。
――まだ自分は『疑い』の範疇なのか
しかし判りそうな物だ。
殺人か病気か、など。
木下はため息をついて後頭部をがりがりとかきむしった。
――柊実隆……お前は、何かを知っているのか?
警察病院より遙かに優れた施設。
清潔でそれでいて生活感を消さない程度の雰囲気は、患者を和ませる物があるだろう。
病室のドアの見た目も、無機質なものではなく木の板を張り付けた物になっている。
もしこの病院を設計した人間が意図していたとしたなら、彼は恐らくかなりのセンスを持っているだろう。
そこまで考えてから、扉を開いた。
「――!」
が、そこで硬直した。
自分のベッドが左手に見える。
右には小さなキャビネットと、天井から下げられたような棚がある。
見舞い人の為の椅子もある。
もしそこにいたのが署の人間だったらここまで驚くことはなかっただろう。
じわりと額に汗が伝う。
誰も寝ていないベッドの上を見つめる、あの少女は。
『………待った』
うつむいていた少女の顔がふい、と上げられて繊細な横顔が――彼に、向き直る。
人形のように白い肌。
異国の蒼い瞳に、意志の光はない。
そして体中に走るノイズ――
「きさ……」
『まず扉を閉めて、入ってきて貰えないか』
馬鹿丁寧な口調に、木下は叫ぶのをやめた。
そして思い出す。
自分が倒れた時に、誰かの声が聞こえたことを。
今目の前にいるこの少女だって、自分の中にしか見えていないのかも知れない。
――言うことを聞いて、話してみるべきか
このまま扉を開けたまま怒鳴ってもいい。
近くにいる看護婦がきて、少女が見えるのであれば問題ない。
――いや、それはそれで問題だ
木下は憮然とした表情で、言われたとおりドアを閉じて中に入った。
すると少女は穏やかな貌で笑みを湛える。
無邪気な――本当に邪気のない笑み。
『そのようすなら――私の声が聞こえているのだな』
一度だけしか彼女の姿は見ていなかった。
だが、あんな強烈な印象を与えられれば、嫌でも彼女の事は忘れない。
「それが、どうかしたのか」
『済まない』
顔を曇らせ目を伏せる。
その仕草に華奢な印象を受けるが、改めて非現実的な光景だと彼は感じた。
『しかしいつか巻き込まれる。せめて貴方がこちら側である事は良かったのかも知れない』
『こちら側』というと少女は目を細めて木下を見つめる。
その仕草を、木下はどこかで見かけたような気がする。
どこで、いつ――そしてそれがだれなのか判らない。
「こちら?何を言っている、それにお前は誰なんだ」
『誰?』
少女は小首を傾げて宙に視線を彷徨わせて、口元を吊り上げる。
『では貴方は誰?』
鼻にしわを寄せ、思わぬ回答に喉に息を詰める。
怒鳴りかかる直前の彼に、少女はさらに立て続けに質問を浴びせる。
『何のために生きているの?存在意義は?貴方が人間であるという証拠は?』
彼女の表情に揺らぎはない。
まるで本当に――いや、そもそも彼女という存在がなんなのかは判らないのだが――人形のように。
『木下憲一、警部補。身長172cmと日本人にしては大柄で、射撃は署内随一。どちらかというと頑固なんてプロフィールはいらない』
彼女は大きく両腕を開き、まるで神託を受ける巫女のように自分の胸の前で両手を重ね、祈りを捧げる。
『でもそう――もし私の言葉が聞こえるのなら、私は貴方の相似形と言えるだろう』
相似形。
どこか遠くで聞いたような言葉。
「相似……だと?お前が、俺の」
からからに喉が渇いていく。
自分が言葉を紡いでいる気にすらなれない。
『そうだ。以前は素質という言葉で誤魔化したようだがな』
「き……貴様……」
しくりと頭痛がする。
自分で見ている世界が、揺れるように戸惑う。
今のこの感情はなんだ。
怒りか?
悲しみか?
それとも――憎しみだろうか。
……さようなら
「俺に何をした」
『私が何かを行った訳ではない。貴方が望み棄却した事実が私という幻像――相似形になっているんだ』
そう言うと少女は僅かに苦笑いを浮かべた。
その表情は複雑で、まるで自嘲の笑みを浮かべているようにも見える。
でも――あまりにその姿は幼い。
『多分これが私の存在理由――作られた理由なのではないか』
彼女は初めて瞳の中に色を作った。
今まで閉じていた瞳を、まるで開いたように。
クリアに解放された、そこに覗く蒼い蒼い――一瞬、木下はその瞳の奥に穹を感じた。
『私が姿を持っているのは、偶然の産物。私にはプログラムされた行き先があるだけ』
シャッターが閉じるようにその穹が消える。
再び意志のない光を湛えた瞳が木下の顔に向けられる。
「――鏡」
木下の言葉に彼女は笑みで応えた。
『――よく、喩えてくれた』
そして少女は一歩退き、地面からゆっくり離れる。
音もなく、まるでワイヤーで身体を吊り上げられるように。
『この姿は媒介に過ぎない。だから、媒介の持ち主の元に返らねばならない』
発光するように白く。
背の窓に吸い込まれるように崩れていく。
『一つだけ伝えたい――伝えたかった』
もう輪郭のほとんどを失いながらも少女の声は確実に聞き取れる。
かすれることも、聞き取れないと言うこともない。
『――全燔祭が行われる――貴方は、祭司の側になったのだ――』
そして少女の姿は。
窓から溢れる光にかき消されるようにして。
窓へ吸い込まれるようにして。
砕けて。
消えた。
木下はまるで後を追うようにして病室の窓に駆け寄る。
乱暴に窓のサッシに指を這わせ、鍵を開けようとするのももどかしくけたたましく開く。
でも勿論、彼女はそんな事では追うことすらできず。
彼は、天を見上げた。
先刻まで日が差し込んでいたと思ったのは、やはり少女のせいだったようだ。
空を覆う濁った色の雲しか見えないのに、木下はそれでも何かを見つめるようにそれを見上げ続けた。
それでも 蒼穹は みえない――
◇次回予告
「ふん、この暇潰しが」
アジアへと飛んだミノル達は、これからの行動の準備を始める。
工場が息を吹き返し――彼女の言葉に、彼は過去を思い出す。
「私は――誰、何だろうか」
Holocaust Intermission:ミノル 2 第1話
当分お前を監視する飼育係だよ、化け物
化物と呼ばれる存在――
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