Holocaust ――The borders――
Chapter:2
臣司――Shinji―― 第4話
少し時間を遡る。
梶原は相変わらず店の前で眠りこけていた。
彼のいる通りが通称『駅裏』と呼ばれる通りの中心である。
――ん?
先程木下が来たが、彼が二度同じ場所を通るような事はない。
少なくとも、今まではなかった。
第一、靴音が違いすぎる。
梶原はここに住み着くようになって、かなり長くなる。
靴音を聞き分ける事は当然、できなければならない。
――珍しいな
彼は眠ったふりを続けて、薄目で通りを眺めた。
革靴のかつかつという堅い音と、ブーツ独特の堅さのある音ぐらいは聞き分けられる。
この足音はゴム製のスニーカーの靴底だろうか。
ぺたり、ぺたりと妙に間延びする足音が響く。
普通の足音ではない。
はっきり言って想像できない。どんな姿をした、どんな人間が来るのか。
そして――彼の四角く限られた視界の中にそれは現れた。
一見すると、猫背の男。
丁度影に入っているせいで、顔は見えない。
年の頃は二十歳か、そのぐらいだろう。
半開きになった口が見える。
――普通じゃない
たとえるなら夢遊病者か薬物中毒者が幻覚を見ながら歩いているようだ。
関わり合いにならない方が良い。
薬なら、ここで眠っている振りを続ければ何とかなるだろう、と目を閉じようとした瞬間。
じろり、と。
眼球の光が動くのが見えた――視線が合う。
――っ
半開きの口が僅かな意志の形に歪むのが、ありありと影絵のように浮かび上がる。
背筋をうつ寒気。
本能に訴えるような恐怖に、梶原は両足を一気に地面に引き付けた。
転がるようにして青年の足下を抜けて通りへと躍り込む。
破砕音
何が起こったのか判らない。
背中の方で聞こえた激しい音に、全身の血流が逆転する。
「う、うわぁああっ」
一気に迫り来る、アスファルトの地面。
思わず両腕を顔の前に差し出し、直後激しい痛みが両腕を襲う。
ぐるん、と身体が廻る感覚。
「ぐっ」
背中から押し出される空気に喉が無理矢理悲鳴を上げる。
風圧にもてあそばれるように地面を数回はねて、彼は呻きながら身体を起こす。
顔が、先刻まで自分のいた場所に向いていた。だが見慣れた風景は彼の目には映らない。
今まで自分がねぐらにしていた場所がなくなっていた。
背筋が悪意に震える。
視界に映る総てがまるで偽物のように、今までではなかったかのように。
崩れたバーの入り口に影を落とす青年は、背中を見せている。
今なら逃げられる。無職としてこの界隈で生きてきた彼の勘が告げる、
なのに。
――あ、足が動かない
太股の筋肉は痙攣するだけで思うように動かない。
ぎりぎりと音を立てるバネ仕掛けの人形のように首が、ゆっくりと彼の方を向く。
妙に不自然な程無表情で、焦点の合わない目を穹に向け、半開きの口に笑みを湛えて。
無様に地面で這い回っている男に対して、力を込めていないような動きで掌を差し出そうとする。
肩が引きつり、そのたびに指先が震える。
鎌首を擡げるように、狙いを定めようとするように。
そして、彼のねぐらを、バーを砕いた何かが梶原に向けられる。
どくん
――視線が
心臓にワイヤがからみつくような鋭い痛みが走る。
きりきりと、細い金属線が心臓を切り刻むように。
死が
総てがネガティブに映り込む。
呼吸が、止まる。
まるで水滴が、水面に落ちて広がるかのように――ぱっと真っ黒い闇が視界を覆い尽くした。
梶原はそれを最後の風景にして、ゆっくり意識を失っていた。
青年は、その路地裏で目標を見つけたという報告を受けていた。
目標――彼が、ここにいる本来の理由に眉をひそめつつもそこへ足を踏み入れていた。
――はん。そんなはずはないだろ
彼は呟きそうになった言葉を飲み込んで、改めて周囲の気配に意識をのばした。
駅裏と俗称されるその通りには、常に冷たい雰囲気が満たされている。
彼が過ごしてきた街並みと同じように。
でも、もうそれがどこでどんなところだったのなんか覚えていない。
くしゃりと軽い音を立ててポケットから写真をとりだした。
それに写されているのはスーツ姿の青年。いや、若いのは判るが年齢ははっきりしない。
服装のせいだろうか。二十代と言えばそうも取れるし、もっと若いようにも見える。
――あれだけ用意周到な「Ripper」がいつまでもここに残っているかよ
Ripper。
彼の持つ写真の人物。穏やかとは言い難い表情を浮かべて映る彼は、檻の中の獣のようにも見える。
彼はその名の通りの『切り裂き魔』として有名だった。
だがRipperは何より『素手』で切り裂くところから、その証拠を一切残さないと言われている。
写真を持つ指が震えて、みしりと音を立てる。
――殺してやる
青年の目が怒りに歪む。
それは血を吐きそうな程、意識が裏返っても忘れそうにないほどの怨念。
――殺してやる、後悔させてやる
思わず握りしめそうな写真を、自分の懐に戻すと彼は歩き始めた。
彼に与えられたのは、『裏切り者』であるRipperの始末、である。
その名を与えられた男は彼にとって特別な存在だった。
最も憎く越えるべき存在――奴を越えられないなら、今の自分の意味はないとまで彼は言い切るだろう。
彼に対する有り余る憎しみだけが、その青年の持ち得る方向性だった。
ただ奴の顔を見るたびに消し飛ばしたくなる。
そんな理不尽なモノが彼にはあった。
そのRipperが、日本で揉み消すには難しい程の事をしでかしたらしい。
正確に言えば警察を動かしてしまったというのだ。
それも反目した博士の手先になって。
――ふん…奴らしい終わり方だ
たとえそれが同僚だった、などとは誰にも言わせない。
同僚なものか。
『博士』の元で平等だった連中は、犠牲者以外の何者だろうか。
だからこそ奴――Ripperの立場が許せるわけがなかった。
それだけではない、彼にとっては。
そうでなければ、今頃既に反目した連中など一人残らず消し去っていただろう。
彼にとって奴は特別な存在でしか、あり得ないのだ。
人間の姿をした、凶悪な兵器。
それが彼とRipperのつながりでありまた――共通点だ。
純粋に生まれついて兵器であったか、あとから兵器に変わってしまったかの違いはあれども。
公的に、確実に、何の憂いもなく抹殺できるという、この任務には彼は感謝していた。
彼の名前は西森臣司、年は十七、まだ少年と呼んでもおかしくない歳だった。
「……?」
駅裏を歩くのは初めてではない。
青年はこの湿っぽい冥い雰囲気は嫌いではない。
後頭部から首筋にかけて、まるで電気に痺れたような感覚が伝わってくる。
この明らかな敵意や殺意の中にいられるから、退屈しない。
彼は口元に冥い悦びを湛えると、ゆっくりその視線を確認しようと足を止めて振り向いた。
だが、彼は思わず眉をひそめた。
「なんだ、お前らは」
青年の前に一人の少年がいた。
奇妙に虚ろな目。
焦点が定まっていない貌で、ただじいっと彼の方を見つめている。
それだけなのに、何故か圧迫感を感じる。
不安だろうか。
それとも、本当にやばいことだと身体が警告しているのだろうか。
それが唐突に。
本当にそれは僅かな躊躇、それが彼の判断を遅らせた。
そして、いきなり世界が紅く染まる。
なんだ。
臣司は思った。
振り返った時見えた獲物――奴らは、明らかに特異な症状を見せていた。
だからすぐに理解した。
だが、その理由は判らなかった。
こんなに赤い。
判らなかったから躊躇した。
何故躊躇しなければならなかった?
判っているなら行動すれば良かったのに。
そう思い返しながら、呆然として彼は立ちすくんでいる。
自らの両手を汚す赤い液体にまみれながら。
――どうして、こんな
彼は頭の中にある結論をどうしても理性的に受け止めていなかった。
見覚えのある光景、それは、『Ripper』が、いや、博士が行っていた事を裏付けるだけの出来事に違いなかった。
耳に届いたのは、水風船が弾ける音。
ぱしゃという、聞き覚えのある特有の音。
目の前で、人間の姿をしたものが、まるでいきなり形を失うようにして崩れ落ちた。
それは、今まで忘れていた液体の本性を思い出したコンピュータグラフィクスのようななめらかな動きだった。
人間が、液状に砕け散った。
それは彼にとって珍しくもない事象であったにもかかわらず。
それがあまりに簡単で、予想できたにもかかわらず。
何故か彼はそれが起きた直後ですらそれを現実として認識できずに立ちつくしてしまった。
そして、頭からその血を被ってしまった。
あの、触れてはならない血液に。
――俺は大丈夫だ
思わず頭に浮かんだ言葉に反論して、それでも身体は身動ぎするのが精一杯だった。
――大丈夫なものか
反論する声が頭の中に響いた。
「――!誰だ」
耳元で囁く声。
その声は聞き覚えがある。
忘れるはずもない。
「貴様!」
街角。
路地の、彼の正面にその姿があった。
まるで冗談でも見ているような、そんな気にさせる姿。
丁度写りの悪いテレビの画像のように、時折輪郭が崩れたりノイズが混じる。
少女。
長い青白い髪の毛を、ないはずの風に揺らせる群青の瞳の少女。
まるで死んでいるような白い肌。
そして、僅かに浮かべる笑みと血臭。
「どうして、お前はどこから俺を監視している!」
大きく腕を振り、彼は少女に向かって叫ぶ。
僅かに少女の表情に笑みが浮かびあがり、両腕でまるで水をすくうようにして前に手を差し出す。
臣司はその仕草を睨み付けるだけで、何も答えない。
一瞬少女の顔に影が差す。
形作られていた花びらが、力無く砕けて元の位置へと戻っていく。
「フン、俺が監視されている事ぐらいは判っている」
臣司は話さない少女に向けて大きく踏み出し、右腕を握りしめて叫ぶ。
いつでもその拳を打ち付ける用意がある、とでも言うように。
だが少女は何も答えず、僅かに目を丸くして一歩、後ずさるだけ。
「当然だろう!誰が頭を弄ったと思っていやがる!」
不思議に、それでも今ここでは彼と彼女の間には、大きな隔たりを感じさせない。
目の前にいるという不自然さ――それは、明らかに違うこと、なのだろうか?
ぶるぶると震える彼の拳は、やがて大きく開かれて再び真横に開かれる腕に。
「まだしらばくれるのかよ、柊――いや、真桜の親父よ!」
びくっと少女の身体が震え、大きく目が開かれる。
声なき声を紡ぐため、戦慄く唇がまるでただ数回開閉する。
臣司の表情は、ますます険しい物になっていく。
まるで、そう――彼女の様子を咎めるかのように。
「他に誰がいるっていうんだ、えぇ!貴様ぐらいしか考えつかないだろうが!」
少女の姿が大きくかすみ、また崩れようとする。
だが、ぶれたその姿が安定するかとおもうと、少女は小さく目を閉じた。
「誰?――そう、だな、そうか。……そうだ、もう一人、いたな」
祈るように両腕を胸の前で合わせて。
両掌を強く握り合わせる。
「ああ――違うな」
確信したような声で言う臣司に、彼女は驚いたように顔を上げる。
そして、眉を訝しげに寄せたまま静止する。
そのまま、ほんの僅かの間の静寂。
ぴちゃん
水が滴るような音が聞こえた。
同時に臣司は、口元に笑みを浮かべた。
「そうか。お前だったんだな――何度も、何度も自由意志を阻害してきた『存在』は」
頭から被っていた血、返り血は、いつの間にか彼の身体の周囲をよけるようにして地面へと雫になり崩れていく。
肩から指へ、そして地面へ。
まるでそれは、ビニールシートを被っていた彼が、それをゆっくりとはぎ取っていくようでもあり――血液が水銀のようにも見えた。
否、今確かに、血液とは違い異常なまでに粘性が低い雫が産まれた。
知られていないことだが、水というのは自然界では奇妙な性質を持つ。
表面張力の強さが強いのもその一つだ。純粋な物質ではかなり強い表面張力を持ち巨大な水滴を作る。
もしアンモニアを液化したならば、その水滴は砂粒のように細かく砕け散る。
今彼から滴っている血液は、水滴の比ではない――まるで、それは煙のように細かく、小さく――
「ふん、では」
気がつくと臣司の周囲には霧のように細かい飛沫が漂い始めていた。
まるでドライアイスが気化していくように。
その煙の中で、彼は僅かに眉を寄せた。
まるで何かを訝しがるように。
少女は両腕を大きく広げ、何かを訴えるように口を動かす。
「どういう、意味だ」
初めはただ霧が彼の身体を取り巻いているようにも見えた。
だが風もないのに濃淡を変えふらふらと漂うその霧は、丁度心臓の鼓動のようにも見える。
その中で、少女をにらみつけるようにして彼はぎりぎりと歯ぎしりしている。
やがてかみつくように彼は言う。
「――それが、どうかしたのか」
少女の顔から寂しそうなものが姿を消し、元の人形のような澄まし顔になる。
そして現れた時のように両腕を自分の両脇におろし、すっと胸を反らせた。
ただそれだけなのに、急に彼女が存在感を希薄にしたようにも感じられる。
そして同時に、まるで切り開くようにして紅い霧は臣司の周囲を流れて落ちる。
まるで、最初の液体の姿だったかのように。
「……こいつらは」
そして、その変化の代わりに、臣司の表情は険のある攻撃色のある物から警戒色の強い物へと変わる。
驚き――そう捉えても間違いではないだろう。
間違いなく臣司に変化が訪れている。
目の前の少女は先程のように必死ではなくただ風に――いや、吹いているはずのない風に髪を揺らせるだけ。
「お前は、敵なのか?」
悲しそうな表情を浮かべ、彼女はゆっくり首を振る。
無言――彼女の無言は、しかし無言ではなく、空気の振動として声にならないだけ。
決して彼女は訴えるのをやめようとしない。
大きく、自分の声が伝わらない事を補うように身振りを交えて。
「だから、俺に近づいてきた」
一瞬少女の姿が戸惑いを見せるように揺らぐ。
だがそれも一瞬のこと。
臣司は少女の仕草に口元を歪めて笑う。
「ハン、馬鹿らしい…が、お前が敵ではない事の方が重要だ」
ため息のように彼は呟いて片手を腰に当てる。
少女は僅かに笑みを浮かべてみせる。
「くだらん」
臣司が呟く言葉に少女が何か返事を返した。
彼は怖ず怖ずと彼女に手を伸ばし、少女は彼に一歩近づいた。
ほんの少しの沈黙と、間隙のような僅かな空白の距離。
一瞬だけ、少女が口元を緩めるのを、しかし臣司は気がつかなかった。
「 」
臣司が口を開いた。
少女が、それに応えた。
そして
音も光もない世界が、一瞬――
「……さようなら」
両腕で支える身体が、いつになく重い。
人間の身体というものは、意識がある時とない時で全くその重さを変える。
まだ両腕に温もりが残っているまま、彼女はゆっくりと腕の中で重くなっていく。
声をかけてももう返事はない。
口元を茶色く自らの血で汚したまま、彼女は冷たくなっていく。
ああ…
それはもう過去の話だ。
結婚した後の話だから数年前になるだろう。
あれは不幸な事故だった、と言われた。
そうは思えなかった。
土方春夏、当時二十一歳。
彼女が配属されてからはそれほど長くなかった。
それでも、彼女の事が忘れられない理由は何?
――なんだろうか
木下は、聞こえた声に対して思案を巡らせる。
「初めまして、土方です。これからよろしくお願いします」
――たしか変な噂があった部署だから緊張していたとか、そんな話をしていた
もちろんその噂の中心人物こそ木下にほかならならかったから、周囲の人間は冷や冷やどころではなかったという。
だが、明るくはきはきとした春夏は常に話題の中心にいた。
「木下警部補、私、警部補みたいな刑事がいるなんて思いもしませんでした」
あれは宴会の席でのこと。
また始まったか、と周囲は黙りを決め込んでいたのを、覚えている。
彼女はビールを両手でもって、にこにこと笑いながら彼に酌をしていた。
「おいおい、聞きようによっちゃ、悪口にしか聞こえないぞ」
木下は軽く流してグラスを一気に空ける。
む、と春夏は少し眉を寄せる。
どうやらかなり心外だったらしい。ビールを注ぐのを忘れたように、彼女は瓶を床に置いた。
「そんな、悪口じゃないですよ」
それまで明るかった口調が急に暗い低いものに変わる。
いつも明るく振る舞っているだけに、さすがの木下も言い過ぎたかな、と思った。
「私はっ」
きっとあげた貌は、酒のせいで上気した頬に潤んだ瞳。
思わず木下は飲んだ酒を戻しそうになった。
「大丈夫か、飲み過ぎだろ?」
慌てて彼女の右肩を鷲づかみにして、無理矢理立たせる。
遠慮のない視線が一瞬集まるが、木下はそれを無視した。
――何を言われるか判ったものじゃない
このまま放っておくよりはましだ。
そう思った彼は、そのまま無理に廊下に連れて行く。
「ちょっと、木下さん、私は」
それにほとんど反射的に反応して身体を捻る春夏。
だが、そのぐらいでは彼の手をほどく事はできない。
それに――彼を批判する為に喉まで出かかっていた言葉は霧散していた。
「飲み過ぎだろ?飲み過ぎた部下の面倒を見るのも、俺の仕事だ」
まるで放り捨てるように連れ出すと、廊下の入り口をぴしゃりと閉める。
すぐに彼の手から解放された彼女は悲しそうな貌を浮かべていた。
「でも、私は…」
「何を言うつもりだ?少なくとも、それで俺を困らせるような事ならやめてくれ。洗面所で頭を冷やしてこい」
そりゃ、ひどいな。彼女はきっとキミのことを好いていたんだろうに
響いた言葉に木下は眉を寄せた。
お前は――誰だ?
声を出したつもりで、思わず彼は顔をしかめた。
これは夢だろう――そう思い返す。
その質問は妥当じゃないな
そうだろうよ、彼は思った。
でもそれなら話は分かる
そんな言葉が聞こえたかと思うと、すぐに視界が変わる。
大きな事件がなく平和な昼食時の、休憩中。
「あー、先輩どうです?」
ある時を境に、彼女は木下のことを先輩と呼ぶようになった。
別に高校が同じだったとか、そう言う物ではない。
たまたまそう呼んだ時、彼が嫌そうな貌をしたからだ、と言うのが彼女の言い分だった。
「……ふぅん」
他の女性警官や若い警官がたむろしていると思ったら、彼女が占いをやっていたらしい。
「悪いが、俺はそう言うのを信じない主義でね」
「あー、でもよく当たりますよ」
素っ頓狂に声を上げた警官を見るや、後頭部を問答無用で張り回す。
「姿見ねぇと思ったら、矢環、お前こんなところで何してやがる!午前中に持ってこいって言った書類、できたのか?」
しまった、という顔をする矢環に、くすくす笑いながら胸を張る春夏。
「ほら、『近い時期の災厄』と『仕事上の失敗』が当たっちゃったね」
そして挑戦的に木下を見上げる。
おねだりをする子供――『ほら、やってあげるよ』というお節介な占い師。
「ちぇ。木下警部補も悪い占いが当たれば良いんだ」
「五月蠅ぇ、お前はさっさと書類を書いてこい!」
と言いながら、彼は渋々春夏の前に座った。
「たまたまじゃないのか?……俺が来るのはともかく、矢環の野郎も占いを当てたいが為に」
春夏は笑いながらカードを切って、彼の前で両手で混ぜ合わせる。
「そうですか?彼は結構根がどじなところ、ありません?」
「……結構言うね」
はい、と明るく応えながら彼女は手早く占いの準備を仕上げてしまう。
いつの間にか彼女の手元には大きめのカードがそろえて握られて、机の端でとんとんと軽く叩いて整えていた。
「じゃ、行きますね……」
気負わず、明るく。
木下の知る『占い』とはイメージが違う。
まるで簡単な手品でも見せられているように、何枚かカードが並べられていく。
複雑な文様が書かれた札が数枚並べられて、彼女は眉を寄せて不思議そうに考え込んでしまった。
「んー…これは」
彼の前でしばらくにらめっこしていて、いつまで経っても言葉にしようとしない。
多分、いい結果ではなかったのだろうか。
「どうした?どうやって読むんだ?この絵札は。どうせ信じていないんだから、言って見ろよ」
春夏はカードからゆっくり視線をあげ、上目で彼を見つめた後、言う。
「……近いうちに大きな失敗をします。これとこれで『取り返しのつかない失敗』になるんです」
と、カードの組み合わせを示す。
「ただ、こちらの意味が……ちょっと不吉なんですよ、生き死にに関わるような」
「馬鹿。この仕事をしてればいつかそんなこともあるさ。すぐ死ぬって決まった訳じゃないだろ?」
思えば。
春夏はこの時、引きつった笑みを見せていた。
眉を八の字によせ、笑っているように見えなかった。
そして。
事件は、その次の日の朝――
◇次回予告
「Halo確認。――はい、かなり低密度です。さほど時間もかからずに拡散します」
路地裏、目覚める木下。
入院を余儀なくされる彼の身体から、薬物が検出される。
そして事件は思わぬ方向へと進展する。
Holocaust Chapter 2: 臣司 第5話
疲れてるだろう?……少し休んだらどうだ
その先に見えるモノは何なのか
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