戻る

Holocaust ――The borders――
Chapter:2

臣司――Shinji――   第3話


「矢環〜、やーたーまーきー」
 一課の隅の席を陣取る新米警部補の名を連呼しながら一人の刑事が姿を現した。
 捜査二課所属の刑事だ。
 ひょこっと顔を見せて、眉根を寄せてため息をつく。
「どうした?矢環なら奥の資料室だぞ?」
「ああ、あ、いや、ちょっとね、気になる情報があがったんだ。奴が担当している事件と、もしかすると関わるかも知れなくてね」
 そう言って彼はクレジットカードを見せる。
 銀色の、どこにでもある普通のクレジットカード。
 打ち出された数字が独特の陰影を浮かべ、蛍光灯の光を反射する。
「…?」
「この署名、いつかあがった参考人の名前なんだよ」

 “ヒイラギ ミノル”

 歪んだカタカナが、カードに書き込まれていた。


 レポートの束を脇に抱えて資料室から出た矢環は、ちょうど現場から帰ってきた木下とばったり出くわした。
「木下警部…?」
 だが、彼の様子はおかしかった。
 不機嫌そうな顔は変わらないが、矢環の言葉に一切反応を見せなかったからだ。
 声をかけたにもかかわらず彼はすたすたと一課に向かって歩いていく。
 矢環は慌てて彼についていきながら、彼に書類を差し出す。
「どうかしたんですか。…これ、病気のレポートです」
 病気、と聞いて矢環に目だけを向ける。
 ぎょろり、と睨み付けられているようで、矢環は首を傾げた。
 無言でレポートを受け取って、彼はすっと視線を走らせる。
――何があったんだろう
 矢環は木下のこんな態度は初めてではない。
 だが珍しい事だ。何故なら、こんな時は大抵の場合よっぽどの難事件であったり、事件そのものより内部事情で困っている場合だからだ。
 今回の事件は確かに難事件かも知れないが、この程度なら彼は悩んだりはしない。
 第一、まだ事件を担当して一日も経っていないのだ。
 眉をひそめたまま席について、ふと気がついた。
――そうか、もう一つあったな
 奇妙な物を見た時だ。
 昔から彼は異常なまでに論理的で、幽霊やオカルトに関する全てを否定する人間だった。
 宗教すら、その存在を認めていても神なぞ偶像に過ぎないとまで考える無神論者だ。
 だから――手品や奇術を目の前で見せられた時、こんな顔をしていた。
「鳩に豆鉄砲でも喰らわせるつもりですか?」
 書類越しに、もう一度木下に声をかけた。
 彼はレポートの上を走る視線を一瞬矢環に向ける。
「馬鹿野郎、くだらない事をぬかすな」
 と言いながらも木下は混乱を隠せなかった。
 答えた瞬間に戸惑いの表情を浮かべて、同時に彼は先刻の光景を思い出した。

 少女は、漂っていた。
 彼の目の前のビルの壁に沿って、微動だにせず服を揺らせていた。
 白い肌と澄み切った瞳、そして何より――群青の瞳。
 明らかに日本人の顔立ちをしているのに。
 髪と服に風をはらませる彼女は、そのまま落下してしまいそうな程。
 僅かに表情が動いた。
「あ」
 声が、でた。
 自分でも間抜けなぐらい、それは脱力していただろう。
 少女の姿をした砂人形が砕ける――まるで風に耐えきれなくなった砂上の楼閣が崩れ去るように。
 初めからそこには何も存在しなかった、とでも言うように。
 それは究極の予感――幻でも何でもなく、もう一度それを見ることがあるだろう、という――。
 溶け崩れたのでもなければ、幽霊のように消えた訳でもない。
 風に飛ばされて、砕けてしまったのだ――

――あんな物、どうやって信じろっていうんだ
 自分の目が信じられなかった。
 脳みそが狂ってしまったんじゃないか、そう感じていた。
 だから今一番信用できるものを、現実を見つめなければ精神をまともになんか保っていられそうにない。
 矢環の提出したレポートは、以前に頼んでおいた患者の記録だった。
 個人差はあれど、発症してから概ね一週間もしない間に回復、何事もなかったように元の生活に戻っている。
 そして、かなりの確率で回復後数日しないうちの外出中、無惨な死体もしくは行方不明になっているようだった。
――それも最初の三件だけ
 かろうじて肉片の遺伝子鑑定と血液型判定、予期される死亡時刻からそうであると判別しているに過ぎない。
 だがそれは今現在考えられる科学的根拠の中でも最も強い物だ。覆す事はない。
 だから信じるしかない。それにどういう間違いが含まれていようとも。
 特に、それ以上の詳しい情報もない。彼はレポートを皿のような目で見て、ぱさりと小さな音を立てて机に投げた。
――確かに今までにない大事件…といえるが
 警視庁指定の事件ではあるだろうが、これだけ派手な殺人を犯しておきながら、一切と言っていい程その証拠は残されていない。
 さらに同時期に起こった三件の殺人。
 これについては恐らく同じ犯人の起こした事件とは言えないだろう。
 刃傷沙汰、何らかの鋭い刃で大きく切り裂かれた死体。
 そして新たに発覚した二件の殺人。
 一つが少年六人及び警官二人を殺傷した――結局警官は手遅れだった――、今井上が担当している事件。
 一つが、自分の担当する殺人。
 何かが起こっているのかも知れない。
 全てに関連がないようにも、また逆に何か一つの出来事が中心にあるような――そんな錯覚。
 木下は唸りながら腕を組んだ。
――調べる必要がある、か?
 ふと顔を上げた時、矢環と目があった。
 何かを言おうとして、戸惑うようにやめた、そんな感じだ。
「どうした」
 いつの間にか一課の入り口にまでたどり着いていた。
 だが、彼はそれについて何かを言うつもりだった――訳では、ないようだ。
「いえ、その…」
 聞いても要領の得ない答えを紡ぎ、彼は少し視線をさまよわせる。
「また、かと言われると思うんですけど」
 いつの間にか、矢環の後ろにもう一人刑事がいた。
 木下も彼とは仕事をした記憶がある。捜査二課の、矢環と同時期に配属された警部補だ。
 書類に集中していたので気がつかなかったのだろう。
 彼は一課の入り口に立っていて、二人の行く手を遮るような形になっている。
 そう、彼が意図している訳ではないとしても。
「どうも」
 彼は挨拶して、片方の手に持っていたプラスチックのカードを見せる。
「実は、もしかすると関わりのある話かもしれません、と思ってですね」
 くるっと指先を弾いて、カードの裏側を見せる。
 クレジットカードの署名に、聞き覚えのある名前がカタカナで刻まれていた。
「ヒイラギ…ミノル?ミノルって、あのミノルか」
「それは判らないんですよ」
 彼の知る柊実隆は、高校三年生でありクレジットカードなど持つ事は出来ないはずだ。
 持っていても名義は違うはずだろう。
「今このカードを使ったカップルから事情を聞いてるんですけどね…厄介な事に、拾ったって言い張ってるんですよ」
「拾ったのだろうがどうだろうが、お前、それは詐欺だろう」
「いえ、問題は、このカードなんです」
 眉を歪める木下に彼は続ける。
「このカード、正規に登録されていて今まで入金が遅れた事はないそうなんですけど」
 そう言って書類を懐から出して見せる。
 コピーしたものらしく、白黒のコントラストがきつく、ギザギザの荒れた文字が目立つ。
「この住所は完全に架空のものでした。このカードを作成した『ヒイラギミノル』を名乗る会社員は、この世には存在しないんですよ」
 つまり。
 このカードを偽造した犯人が、自分の意図したとおりに使用していたとするのなら発覚は無かったかも知れなかった。
――これは綻びかも知れない
 落としたのか、盗まれたのかは判らないが、カードが不正使用されなかったなら犯人はまんまと偽造の罪を免れただろう。
「警部」
 矢環の視線を受けて、木下は軽く右手を挙げて答える。
「情報提供すまないが、もうその事件は俺達の担当じゃない。…出来れば、課長経由で署長に渡すべきかもな」
 そう言って、彼はその渋面に似合わない笑みを浮かべて見せた。
 二課の刑事が挨拶して去るのを見送って、二人は自分のデスクに着く。
「それで、矢環」
 木下は思いついたように声をかける。
「俺が頼んでおいたのはそれだけじゃなかったよな」
 ええ、と彼は頷く。
 机の上に置いている一枚のレポート用紙をつまみ上げて、ひらひらと揺すってみせる。
「これ、ですよね」
 それを木下に見せながら彼は言う。
「被害者の少年は鈴木圭介、櫨倉統合文化学院高等部二年生剣道部所属。ごく普通の三人家族で、兄弟はなし」
 淡々と鈴木少年の家庭環境を聞きながら、木下は思った。
 別段、どこにでもいるような少年の家庭。
 不思議でもない平凡な少年と、今回の殺人につながりは感じられない。
 もちろん駅裏に足をのばすようなことも――ないはずだ。
「――で、友人は?」
「特別。…ただ、彼の所属する剣道部の師範は駅裏にある大きな道場の道場主だそうです」
 木下が言葉を継ぐ前に、鈴木がその道場に通っていない事を矢環は告げた。
「家族が最後に彼を見送った日、ただ遊びに行くとだけ告げていたそうです」
「それじゃぁだめだ。話にならないな」
「ただ、ですね、彼らは前部長の楠隆弥に練習を見てもらっていたらしいんですが」
 彼は手帳を開いて読み上げる。
 楠隆弥、同高校三年生。昨日の夜出かけたきり帰ってきていないと言う。
「被害者は彼の事を慕っていたのは確かです。楠隆弥に奇妙な噂が立っていて、それに関与しようとしていた事が判っています」
 木下は僅かに目を見開いた。
「お前…あの短時間でよく」
 へへ、と笑うとちゃっと携帯を見せる。
「この間の学校に行った時にですね、ちょっと知り合いをつくったもので」
 にっと笑う彼を睨み付けつつ小さくため息をついた。
「お前ねえ」
「ちょっと、変に誤解しないでくださいよ」
「誤解じゃなきゃ何だって言うんだよ。…まあその辺は仕事抜きで話を聞かないといけないな」
 木下は笑いながら矢環の肩を叩き周囲を見回す。
「煙草、吸いに行くから付き合え。…続きを聞こう」
 喫煙スペースが定められているこの署内では、大っぴらに煙草を出す事さえためらわれる。
 しかし、四角い小さなスペースではそれが赦される。
 真新しい煙草はいい。
 パックを開けた瞬間に漂う薫り。
 銀色の包装を丁寧に開いた時の煙草の新鮮な香りはすがすがしさすら感じる。
 乾ききったフィルタを、人差し指で叩き出してくわえる。
 100円ライターを好んで使うのは、手軽さ故。
 こだわるなら紙マッチを、レストランから幾つも拝借すればいい。
 そんな物にお金をかける気はさらさらない――そんな現実主義。
「はい」
 それに、大抵自分の部下も100円ライターぐらいしか持っていない。
 煙草を吸わない警官が増えているせいでもある。
 なんとなくそれは署長のせいだろうなどと思っている。
 矢環も例に漏れず煙草を吸わない――が、そのせいか100円ライターの一番チープな奴を常備していたりする。
 彼の差し出すライターで火をつけて、木下は一度大きく煙を吸い込んだ。
「ふはぁ…」
 喫煙スペースは、喫煙者のための牢獄のように感じられる。
 だがその牢獄に顔を出す矢環にとっては拷問ではないだろうか。
「まず噂から聞こうか」
 矢環の表情に一瞬安堵が浮かぶ。
「…おい、何を安心してるんだ」
「ああ、いえ。噂って言うのは、その少年が駅裏で見かけられるって話でした」
 もちろんそれだけで関係があるというのは早計だ。
――だが完全に無関係とは言い難い
 少年が駅裏に行く十分な理由であるかどうか、それを言い切れないとしても今唯一とも言える接点だ。
 それに何故か気にかかる。
――そうだ
 先刻の梶原の話では、『制服で』来ているはずはない、と言う事だ。
「…そいつは、どんな格好なんだ」
「さぁ…そこまでは」
 ふむ、と唸って腕を組んで目を閉じる。
 ちりちりという音がする煙草を一気に灰皿に押しつけて、彼は立ち上がった。
「よし、矢環車を回せ。駅裏周りで聞き込むぞ」
「はい」
 楠隆弥という少年が、何故駅裏にいたのかなどはどうでもいい。
 だが、彼に巻き込まれた鈴木という少年――彼が、その少年を追って殺された。
 それだけでも十分調べるに値する出来事だろう。
 矢環の車の中で腕を組んで、彼は黙り込んでいた。
 だが、現場に着いてからも結局木下は終始無言だった。
 数台のパトカーが周りを取り囲むように駐車してあり、その中で何人かが作業している。
 木下はシルビアから降りると、難しい表情のまま煙草を一本取り出して火をつけた。
 大抵こんな場合不機嫌を通り越した場合が多い。
 すぐに矢環はうろうろしている刑事のうち、見覚えのある男を一人捕まえて聞くことにした。
「お疲れさまです。…何か、ここで起こったんですか?」
 胡散臭そうな表情を浮かべた彼は、しかし木下の顔を見て苦笑いして見せた。
「間抜けな質問をすると思ったら、矢環、お前か」
 後頭部をがりがりかいて、彼はため息を吐いた。
「殺しだよ。……また、な」
 そう言って崩れた家屋のような場所を指さす。
 瓦礫が――どうやら、それは黒い色をした木製の扉の残骸らしい――血まみれで転がっている。
 丁度血の入った風船をそこで破裂させたような情景だ。
「また『ミンチ連続殺人』だよ」
 発見された当初、梶原が襲われた物と思われていた。
 だが、血溜まりの中にいた彼と、血は全く別物――血液型が一致しなかった。
 数カ所の軽い打撲傷を負っていた梶原は、しかし完全に意識不明だった。
――状況が似通り過ぎている
 彼の血と一致しない血液の中にはぐずぐずの肉片が混じっていた。
 丁度、生きたまま人間を挽肉にしたような現場で、梶原は倒れていたのだ。
 梶原が意識を吹き返したなら、恐らくそのまま『ミンチ連続殺人』の被害者として連れて行かれるだろう。
 そして、今回の殺人事件に関しても『関連性』を疑われるに違いない。
――くそ、一体どうなっちまってんだ…
 木下と矢環はその端で、彼らの姿を眺めていた。
「木下さん」
 矢環の声に、木下は難しい顔を向けた。
「…まさかな」
 言いながら彼は後頭部をぼりぼりとかいてため息をついた。
 矢環が話す、先ほど刑事から聞いた事件の内容を流すように聞き、周囲の様子を呆れた表情で眺める。
「冗談だろ。…一体、一月の間に何人が殺されているんだ」
「今月に入っただけでもう十人ですよ」
 冷静に言う矢環に、鼻を鳴らして腰に手を当てる。
「馬鹿野郎、そのうち八人はこの間の奴だろうが。……『ミンチ』は終わりだと思っていたのにな」
 これでミンチになった被害者は四人。
 八つ裂きが三人。
 今自分が調べている不気味な死体に、この間の少年殺し。
 そして、原因不明の警官殺し。
 いくら何でも死に過ぎだ。
「矢環、聞き込みに回るぞ。……どうせ、俺達には関係のない所だ」
 不機嫌な声を上げ、彼は現場から離れる。
 この事件は彼には関係のない話だ。
 矢環は慌てて木下の後に続く。
「全く…ん?」
 ぼやきかけた木下の視界に、見慣れない光景が映った。
 だから初めは通りすがりの女性が顔を背けているのかと思っていた。
 パトカーの向こう側でうつむいているシックなスーツ姿の女性――彼女は井上だった。
「どうした」
 パトカーのボンネット越しに声をかけると、彼女は慌てて顔を上げて振り向いた。
 だが、青ざめた顔でふらっと姿勢を崩して、慌てて両手でパトカーに身体を預ける。
「情けないな」
「ええ…部下には見せたくない姿です」
 気丈に答えて、彼女は身体を起こした。
「仕方有りませんよ、あんな光景…男でも参ります」
「お前、ずいぶん平気そうだがな」
「一度見れば、私は慣れましたよ」
 慣れたくないけどもという言葉を飲み込んで答える。
「…だろうな。で、どうしてここに」
「担当している事件の容疑者を、このあたりに絞れたから…でも、まさかあんなのを見るとは思いませんでした」
 彼女が今担当している事件はこの間の少年、警官含め八人を殺傷した事件だ。
 木下は眉をつり上げる。
「ほぉ」
 彼の様子に、井上は子細構わずという風にわずかに小首を傾げる。
「『Hysteria Heaven』って名前の麻薬が、彼らの身体の周囲から検出されたんです」
 Hysteria Heavenというのはごく最近発見された変わった薬物である。
 『ほんのわずか小麦に混ぜて、一週間寝かせておくだけで』純粋なHysteria Heavenが精製できるという噂だ。
 だが条件がまちまちなのか、実際にはどれだけ真実なのか、ともかくこの薬は非常に安価に取り引きされていた。
 そんないい加減な薬であるにもかかわらず、下手な静注タイプより効果が絶大だから、だと言われている。
 だからこそ鑑識が全滅したのであり、人員不足に一課が泣きを見ているから木下達も名前ぐらいは知っていた。
「少年の体内からは発見されなかった。ですから、犯人は常習者かバイヤーと考えられます」
「なるほどね。後はこの辺りで虱潰しにあたるつもりだったのか」
 こくり、と彼女はうなずいた。
 木下は何度か小さくうなずくと、一瞬目配せするように矢環に視線を向け、言う。
「じゃあ変な噂は聞かなかったか?この辺を出入りしている少年の話」
 一瞬呆気にとられたように目を丸くする彼女だが、少し首をひねってうなずいた。
「ここ最近は若年齢層にも『薬』が蔓延しているらしいです。さすがに制服でうろうろしていないそうですけど」
 彼女は伏せたままの目をついっとわずかにあげる。
「……正確な情報が必要ですか?」
 木下は含み笑いをして肩を揺すった。
 決して嫌みではない程度に口元を歪める。
「参考に聞きたいだけだ。構わん」
 はい、と彼女は小さく答えると身体を起こした。
 先刻までの真っ青な顔が、今は充分持ち直していた。
「この辺りで、ギャングまがいの行為を行う連中同士でしょっちゅういざこざがあるそうです」
 年齢はまだ二十代で、やくざ程大きな組織でもないらしい。
 時にはやくざの中でも最も末端である事もある者もいるが、そんな者はごくわずかだ。
「一人、日本刀を持った少年がいるという話ですね」
 井上の言葉に思わず口元を歪め、彼は矢環に視線を向けた。
 木下は彼に楠隆弥の事を調べさせる事にした。
 簡単に指示をすると、彼は来る時に乗ってきたシルビアで先に署に戻っていった。
――さて
 『日本刀を持った少年』が果たして鈴木圭介殺害と関わりがあるかどうかは判らない。
 だが、竹刀を入れる袋を持ってうろうろしていたかの少年と、駅裏で目撃された楠隆弥がどうしてもだぶって見えた。
――時間が惜しい。少しでも聞き込んでおこう
 彼はそう思って歩き始めた。

 数件廻って、特にこれと言った収穫はなかった。
 あるバーの入り口で仁王立ちしていた男は、自分たちの事ではないと気づくと途端ほっとした顔でぺらぺらとしゃべってくれた。
「アレは刀じゃないから、問題ないんじゃないですか刑事さん」
 木下とて、捜査中自分の領分ではない所にわざわざ踏み込んだりしない。
 法的にも無理だ。
「ほぉ、と言うことはお前さん、あの少年の事を知っているのか」
 ボールペンをメモの上で踊らせながら、男の顔を見上げた。
 にやりと頬の筋肉を寄せる様は、どうにも見くびられているようで気にくわない。
「まぁな」
 言いながら、右腕の袖をまくって肘を見せる。
 そこには黒い痣が浮かび上がっていた。
 肘の下から肩に向けて、斜めに綺麗に残っている。
「ほれ、これが打たれた痕だよ。鞭みたいにみよーんって大きくしなってたな」
「なるほど。参考にしよう」
 片手をあげて挨拶を返し、彼は通りから路地へと足を向けた。
 いくつもの路地が交錯している地域に入ると、急に今まで見かけなかった坂道が現れる。
 これがくせ者だった。
 僅かな傾きや捻りが方向感覚を狂わせるのだろうか。
 乱雑に立ち並んだ建物は、見る方向によっては全く別物に見える。
 慣れていなければ迷うことは必然である。
――?
 そこに、緊張した耳の痛くなる静寂が漂ってきた。
 例えるなら、甲高い管楽器を鳴らしたような――そんな音。
 彼は眉を八の字に歪めて、音のする方向へと足を向けた。

  きり きりきりきり

 近づくにつれてその音はやはり大きくなり、脳髄に錐を突き立てているような歯がゆさを感じる。
 まるで――そうまるで、冗談かのように。
 彼の目の前で僅かに開けた場所が、視界に飛び込んで来た――

「…なんだ、お前ら。学校がある時間じゃねぇのか?」

 路地の広さは、車数台が入る程の交差点。
 彼の目の前には見覚えのある男女が、背を向けて立ちすくんでいた。
 少年――柊実隆が声に反応してゆっくりと振り向く。
「――刑事、さん」
 彼の肩を掴むような格好の少女は、ぎこちなく彼に連れてそのまま背中に着いていくようにして振り向く。
 まるで背中に隠れるような格好で。
「ん、どうした。俺は別に学校をサボる事に何を言うつもりも――」

  ざり

 刑事は唐突に心臓を掴み出されたような感覚に襲われた。
 声が出ない。
 視界が闇にかすれて消えていく。
 飲み込まれていく風景が陽炎のように揺らめく。
 脳が絞り上げられるように感覚が消失し、降り注ぐ光は全て形にならず。
 仰ぎ見る穹は渦のように中央を失い。
 突然崩れ落ちる足下。
 奇妙な浮遊感と喪失感。

 そしてそこで、意識がとぎれる。


◇次回予告

  腐った果物のように弾ける。
  「なんだ、お前らは」
  そんな尋常ではない出来事に、唐突に直面する青年――臣司。
  彼の前にも、あの少女が現れる。

 Holocaust Chapter 2: 臣司 第4話

 そうか。お前だったんだな――何度も、何度も自由意志を阻害してきた『存在』は
                                            そしてそこに一つの境が産まれる

      ―――――――――――――――――――――――


Top Next Back index Library top