『戀(こひ)する娘の惱み』


「片戀を歎(なげ)く娘に」

 自分が思ふほどあの人は自分を思つてゐてくれなかつた、それでも自分はあの人を思ひきることが出來ないといふのは何故でせう。

 片戀ゆゑに自暴自棄となつた女性は、時に恐るべき邪道へと、自ら突進してしまふことがあります。所謂外面如菩薩内心如夜叉となつて、愛憎一如の相そのまヽ、他の愛の行路を妨げたり、或はまた哀(あはれ)な犠牲的自虐の生涯の終局を急いだといふ悲しい例は、これまでにも幾度か繰り返へされてゐます。片戀の惱みはそれ程、弱い女性の霊を、そして生活を苛酷に支配しました。

 しかし冷静に批判して見ますと、あなたの相手である彼には、彼の特殊な彼自らの性格や感情があつたはずです。彼はそれに應じて相手の女性を選んで行つたのです。今假りにあなたが押してかれと結婚することが出來たとしても、その將來の幸福を保證し得る者がありませうか。愛の合一なき結婚は何をもたらすか、おそらくあなたは今より一層の不幸を負はねばなりますまい。そしてなほかつ愛する彼をも不幸にする事です。それはあなたの望む事ではありますまい。

「戀を割(さ)かれし娘の惱み」

『戀とはそれ程にも青春時代の男女にとつて第一義的なものであらうか?』戀愛至上主義者の説くところを、無條件で受け容れようとする若い男女に對して、此の一つの疑問を提出して見たいと思ひます。

 思ひ思はれて幸福に添ひとげ得た二人が、生活といふ現實に直面して、思ひがけぬ幻滅の憂目を見、求めて居た愛の生活といふものから全然裏切られて、悔いと嘆きに日を送る惨めな愛慾の果(はて)を、歴史にも現實にも往々にして發見することがあります。

 薔薇の花は、美しきが故に刺(とげ)を持つ。戀もまたあの眞紅の花でないと誰が云ひ得ませう。戀に生きるためには、時にその刺にさされて血みどろに喘ぐことをも恐れない覺悟を持たねばならぬと云ひたいのです。此の覺悟を持ち、血みどろの苦杯をも敢(あへ)て辭さない程の決意が伴はない戀であつたればこそ、あなたはその戀を割かれてしまはなければならなかつたのだとは思ひませんか。その是非善惡を判斷するのは暫く預(あづか)りませう。割かれても、割かれても、生(いき)れば生きる道はあるものですから……。

  戀する勿れ乙女よ
  かなしむ勿れわが友よ
  戀する時と悲しみと
  何れか長き、何れ短かき

とは、一歩退いて守る消極的な女性の立場を美しく慰めたものでせう。

「初めて戀を知りし娘に」

 月に涙を催し、花に憂ひを新(あらた)にする乙女の時代の戀、殊に初戀は、青春の神經と感情を極度に支配する魅力をもつて居ります。これが戀といふものではあるまいか?と感づいた時は、出來る限り、壓迫され勝(がち)な理性を呼び醒(さま)すことが肝心です。でなくとも感情は奔馬のやうに狂ひ廻らうとして、はけ口を求めて居ります。此處で、自ら問ひ自ら答へて判斷を怠らない人は、人生の岐路に立つて迷はず、正確な目的に向(むか)つて進むことが出來るわけです。

 けれどもまた、餘りに逡巡し過ぎて、不自然に感情を抑壓しますと、その結果はいぢけ歪んだ性質になつて救ふことの出來ない精神的痼疾者となる恐(おそれ)があります。要するにまだ判斷の定まらぬ年頃にあるのですから、長上に打(うち)明けて、その判斷を求める事が一番安全であります。

 尚自分の愛情を相手に傳へるための申込(プロポーズ)を必要とする場合があるとしたら、女らしい淑(しと)やかさと美しさを失はないやうに深い心遣ひを忘れてはなりません。    

(續く)



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