ウィトゲンシュタイン
Ludwig Wittgenstein( 1889-1951)

ウィトゲンシュタインの肖像

二十世紀の哲学を「言語論的転回」と特徴づける人は多い。その一つの中心にあるのがウィトゲンシュタインである。
ウィトゲンシュタインの哲学は、『論理哲学論考』に代表される前期哲学と、『哲学探究』を中心とする後期哲学とに分かれている。
両者は、ある意味で正反対の立場に立つものだが、一貫して「言葉とは何か」「意味とは何か」という問いに貫かれている。
簡単に言えば(あまり簡単ではないが)、前期では、言語が世界を写す「像」であるという前提から出発して、言語を論理的に純化する(それによって認識を明晰化し、更に認識の限界を示す)ことを目指したのに対し、
後期では逆に、言語をその多様な姿において考察し、言語は(それ自身以外の何かに根拠を持つものではない)自律的な出来事である、という観点にたどり着いている。


『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus)

序文から
「この本は、哲学の問題を取り扱う。そして―私の考えでは―われわれの言語の論理が誤解されているとき、そうした(哲学的)問題が問われる、ということを示す。この本全体の意味は、次のように言ってよいだろう。およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない、と。
それゆえ、この本は、思考に一つの境界線を引こうとする。…
その境界線はただ言語の中で、引かれることができる。」

「4.002 日常言語から言語の論理を直接に読み取ることは人間には不可能である。」

全体の構成
『論考』は、七つの根本命題から構成されている(一部省略)。
「1 世界は起こっていることの総体である。(*)
 2 起こっていること、すなわち事実とは、事態(事柄)が成立するということである。
 3 事実の論理的像が思考である。
 4 思考とは意味を持つ命題である。
 5 命題は要素命題の真理関数である。
 6 真理関数の一般的な形式は、〔 p,ξ , N(ξ)〕 である。
 7 語りえないことについては、沈黙しなければならない。」

(*)いきなり「世界とは…」と始まっているが、これは、言語と世界が同じ構造を持っているなら、世界の構造はこうなっているはずだ、ということを言っているにすぎない。
ウィトゲンシュタインによれば、「(複合)命題」の「意味」(=指示するもの)は「事実」である。「(複合)命題」(=複合文)は「要素命題」(=単文)から出来ている。(要素命題の「意味」は「事態(事柄)」である。)その要素命題とは、いくつかの「名」(=語)の結合である。(「名」の意味は、対象(物)である。)

言語と世界が同じ構造をもつなら、言語が命題の集合であり、命題は名の結合であるのと同じように、世界は事柄の集合体であり、事柄は物の結合であるはずだ。

A)「像」の理論
「像(Bild/picture)」とは、例えば、地図が土地の地形を写すように、あるいはまたレコード盤が音波を、音波が音楽を、さらに音楽が楽譜を写すように、対象との正確な対応関係を有する模像(モデル)のことである。
一見すると、対象とその像との間には、何の類似性もないように見える。レコード盤はビニールの板であり、楽譜は図が印刷された紙である。外面的には、どこにも似た点はない。
しかし両者の間には、一定のルールに従った、一対一の内的な対応関係が存在している。
「4.014 レコード盤、楽想、楽譜、音波、これら全ては互いに、言語と世界の間に成立する、内的な写像関係のうちにある。
     これら全てに論理的な構造が共通している。」

言語もまた像である。地図は土地の、レコードは音楽の像にすぎない。これに対して、言語は世界の全体を写し出す像である。
言語は、音声だったり、文字だったり、世界と何の関係もないように見える。しかし、世界と言語とは、同じ形式(=論理形式)を持つことによって、言語は世界の像として機能する。
例えば、「バラは赤い」という命題は、「そこにバラの赤い花が咲いている」という事実と対応している。そして「バラ」と「―は赤い」という「名」とそれらの関係は、「そこに咲いているバラ」と「そのバラの花の赤さ」と同じ形式を持っているはずなのである。
(ここでもウィトゲンシュタインの言い方は誤解を招きやすい。「バラは赤い」という「事実」が先にあって、次にそれを写す像である「バラは赤い」という命題が発せられるのではない。我々に最初に知られるのは、むしろ像の方である、―と言うか、像と事実の認識は同時である。)
「2.1513 像をまさに像たらしめる写像関係もまた像に属している。」

「2.1 我々は事実の像を造る。
2.12 像は現実の模型である。
2.13 像において像の要素が対象に対応している。
2.14 像は、その要素が一定の仕方で互いに関係するところに成り立つ。
2.141 像は一つの事実である。
2.151 写像の形式とは、像の要素と同じ仕方で物が互いに関係しあう、その可能性に他ならない。
2.161 およそ像が写像されるものの像となりうるためには、像と写像されるもののうちに、何か同一のものが存在しなければならない。」

B)「物」的世界観の解体
世界は、物の総体ではなく、ことがら(事実)の総体である」という
『論理哲学論考』の冒頭でいきなり述べられている世界像は、いくつかの前提から論理的に演繹されたものである。
1)意味の対象理論―言語の意味はその対象である。
  命題(*)は事態(ことがら)を、語は対象(物)を、「意味」する。
2)写像理論―言語は、世界と同型であり、世界の写像である。
  それは言語と世界が、同じ形式(=論理形式)を有するから可能になる。
言語と世界が同じ構造を持つなら、言語における「命題」に対応する「事実」が世界にあり、命題の総体が言語であるのと同じように、事実の総体が世界であることになるだろう。

(*)「命題」とは、語と語の結合である。例えば、「バラ」と「赤い」という語が結合して「バラは赤い」という(要素)命題を作る。
更に、要素命題と要素命題が結合して、「バラは赤い、または、バラは白い」という複合命題を作る。

C)論理形式
ところで、我々が「このバラは赤い」という言葉を発するとき、バラには何らかの色があるということが、既に前提になっている。その色が「赤」なのか「白」なのか「青」なのかは、そのバラを見るまでは分からない。たまたま我々が生きているこの世界では、バラは青くはない。それは偶然である(=「外的形式」)。しかしバラが何らかの色を持つことは必然である(=「内的形式」)。
またこのバラは庭に咲いていることも、花瓶に挿されていることも可能である。(両者を区別するのは、空間的な位置という「外的な」形式である。)
「2.012 論理においては何も偶然ではない。物がある事態の中に現われうるなら、その事態の可能性は物においてあらかじめ決定されていなければならない。」
以下同様の理由によって、可能な諸事態は繋がりあっている。
それを可能にしているのが論理形式であり、論理空間である。
我々が言葉を発するときには、おぼろげながらも言語の全体が予想されているということになる(=全体論wholism)。
(続く)

D)「擬似命題」の排除
論理形式そのものは言語の「対象」ではない。
(なぜなら、論理形式を示す「Aでない(¬A)」とか、「A または B (A∨B)」といった論理語は、この世界の中に、それに対応する「対象」を持たない。)
従って、論理について語る命題は、命題の形はしているが、「意味」のない「擬似命題」である。例えば、A∨¬A(Aである、またはAではない)というトートロジーは、Aという命題の内容(意味)を調べなくても、つまり「世界」の「事実」と無関係に、常に真である。論理の命題は、それに対応する「意味=事実」を持っていない。
同様に、宗教や道徳や哲学の命題も擬似命題である。
(ウィトゲンシュタイによれば「全ての命題は等価である」から、そのどれかに特別な価値を置く「…は善い/悪い」という倫理学の命題には「意味」がない。)
それらは、端的に言えば、「世界」の外にある。

「6.53 哲学の正しい方法とは、本来、語りうること以外は何も語らないこと、つまり自然科学の命題―だから哲学とは何の関係もないこと―以外は何も語らないこと、であろう。従って、誰かが形而上学的な事柄について何か言おうとしたら、その命題の幾つかの記号に何の意味も与えられていないことを、その人にはっきり示してやること、であろう。
6.54 私の(この本の)命題が役に立つのは、私の言うことを理解した人が、これらの命題を通って―その上に立ち―乗り越えて、終にはこれらの命題が無意味であると認識することによってである。(言ってみれば、登りきった後に、梯子を投げ捨てなければならないのだ。)
    彼はこれらの命題を克服しなければならない。そのとき彼は世界を正しく見る。
7   語りえないことについては、沈黙しなければならない。」

こうして『論理哲学論考』という本の命題自体が、擬似命題であり、本来は「語る」ことの出来ないものについて語っていたのだ、ということが明らかになる。(驚くべき結論!) ここに「自己破壊する哲学」という、『論考』の独特な性格がある。


ウィトゲンシュタインの後期哲学に関しては、まず下の『青色本』の冒頭の個所を熟読してほしい。

『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen)
 ―黒田亘編訳『ウィトゲンシュタイン』(平凡社)より

語の意味とは何か。
この問題に迫るためにまず、語の意味の説明とは何であるか、語の説明とはどのようなものか、を問うてみよう。
このように問うことは、「長さはどうして測るか」と問うことが「長さとは何か」という問題の理解に役立つのと同じ仕方で役立つのである。
「長さとは何か」「意味とは何か」「数1とは何か」等々、こういった問いは我々に知的痙攣を起こさせる。そういう質問に応えて何かを指差さねばならないのに、何もを指差すことができない、と感じてしまうのだ(いま我々が直面しているのは、哲学的困惑の大きな源の一つ、つまり名詞があれば是非ともそれに対応する何かを見つけ出さねばならない、という考えである)。
「意味の説明とは何か」という問いで始めることには二つの利点がある。それはある意味で、「意味とは何か」の問題を地上に引き戻すことになる。「意味」の意味を理解するためには、「意味の説明」の意味も当然理解していなければならないからである。簡単に言えば、「どういう説明であろうと、それによって説明されるのが意味なのだから、意味の説明とは何か、と考えてみようではないか」ということである。次に、「意味の説明」という表現の文法を調べることで「意味」という語の文法についても何かが明らかになり、意味と呼べそうな対象を探しまわる誘惑から君は解放されるであろう。
一括して「意味の説明」と呼ばれるものは、ごく大まかにいえば、言葉による定義と直示による定義とに分けられる。この区別がおおまかで一応のものにすぎないことは後で明らかになるであろう(おおまかで一応のものであるという、そのことが重要なのである)。言葉による定義は、一つの言語表現から別の言語表現へ導くだけであるから、我々を一歩も先へ進ませないともいえる。それに対して直示定義では、我々は意味の習得に向かって実質的に歩みを進めるように見えるのである。
しかしすぐ思いつく難点は、我々の言語の多くの語、例えば「一つ」「数」「でない」などには直示定義がありそうにないことである。
問題。直示定義そのものは理解を必要とするか―直示定義が誤解されるということもあり得るのではないか。
その定義が語の意味を説明してくれるのならば、その語を以前に聞いたことがあるかないかはもちろん問題ではない。その語に意味を与えることこそ直示定義の仕事なのであるから。そこで今「タブ」という語を、鉛筆を指差して「これはタブだ」と言うことで説明するとしよう(「これはタブだ」と言う代わりに「これは<タブ>と呼ばれる」と言ってもよかったのだ。私がこの点を指摘するのは、直示定義をするとは定義の対象について何事かを述定するほどだ、という考えを完全に取り除いておくためである。つまり赤色を或るものの属性として述定することと、「これは <赤>と呼ばれる」という直示定義との混同を避けるためである)。ところで「これはタブだ」という直示定義には、さまざまな解釈が可能である。いくつかの例を、用法が十分確定している英語の表現で示しておこう。この定義は次のような意味に解釈されうる。
  「これは鉛筆である」
  「これは丸い」
  「これは木だ」
  「これは一だ」
  「これは固い」等々。
しかしこれらの解釈はすべて別の語句言語〔word-language〕を前提している、という異議が出るかもしれない。だがこの異議が問題になるのは、「解釈」の意味を「語句言語への翻訳」に限る場合だけである。この点を少しでも明瞭にするために、二、三のヒントを挙げておこう。まず、或る人が直示定義をかくかくに解釈した、と我々が言うときに、何をその〔言明の当否の〕判定基準としているか、と考えてみるのである。私があるイギリス人に、「これはドイツ人が 'Buch' と呼んでいるものだ」という直示定義を与える場合を想像してみよう。大抵の場合イギリス人の頭には、 'book' という英語が浮かぶはずである。この場合我々は、彼は 'Buch' は 'book' を意味すると解釈した、と言うであろう。しかし、例えば彼が一度も見たことのないものを指さして、「これは<バンジョー>だ」と言うときには事情が違うであろう。彼が思い浮かべるのは 'guitar' という語かもしれないし、あるいは全く何も浮かんでこないかもしれない。その上で彼に、「ここにあるものの中からバンジョーを取れ」と命じたとする。我々が「バンジョー」と呼んでいるものを彼が取り上げれば、我々は多分、「彼は<バンジョー>という語に正しい解釈を与えた」と言うであろう。他の楽器を取れば―「彼は<バンジョー>を<弦楽器>の意味に解釈した」、と。
この場合我々は、「彼は<バンジョー>の語にかくかくの解釈を与えた」と言うが、それと同時に、彼のとる行為とは別に、解釈という特別の行為を想定しがちである。
〔‥‥〕
言語の働きにはある特定の心理過程が結びついていて、その過程を通してでなければ言語は機能できないように見える。理解する、意味する、という過程がそれであって、我々の言語の諸記号は、こうした過程を伴わなければ死んだも同然と思われる。さらに、これらの過程を引き起こすことが記号の唯一の機能であり、これこそ本来探求さるべきものであるとさえ思われる。だからこそ、名とそれが名指すものとの関係はいかなるものかと尋ねられると、それは心理学的な関係だ、と君は答えたくなる。またそう答える時、君はとりわけ連想の機構を考えることだろう。―我々は言語活動は二つの部分から成る、記号を操作する無機的な部分と、これらの記号を理解し、意味し、解釈し、思考する、といったような有機的な部分とから成る、と考えがちである。あとの方の活動はすべて心という奇妙な種類の媒体の中で起こるものとされる。その心的な機構がいかなるものであるか、よく分かっているとは到底いえないが、とにかく物質的な機構によっては生じえないようなことがこれによって生ずるのである。例えば思考(これも心的過程の一つである)は、現実と一致したりしなかったりできる。私は今ここにいない人のことを考えられる。たとえ何千里離れたところにいようと、もう死んでようと、彼のことを想像することができる。彼について何か言うとき、「彼のことを意味する」ことができる。「決して起こらないことを願望できるとは」―こう言いたくもなろう―「願望の機構は実に不思議なものに違いない」、と。
思考過程がこう神秘的に見えるのを或る程度抑える方法はある。それはこれらの過程の中の想像の働きを、すべて現実のものを眺める行為に置き換えてみることである。例えば「赤」という語を聞いて理解するときに、少なくともある種の場合には、心眼に映ずる赤のイメージが是非とも存在しなければならないと思われよう。だが赤の斑点を想像することを、赤い紙切れを見ることで置き換えてもいいではないか。違いは後の場合の方が、視覚像がずっと生き生きしているということだけであろう。色名が色班と対応づけられている紙をいつもポケットに持ち歩いている男を想像してほしい。君は、そんな色サンプルの表を持ち回るのはさぞ面倒だろう、連想機構こそその代わりに我々がいつも使っているものだ、と言うかもしれない。しかしそう言うのは見当違いである。また、それが真実でない場合もたくさんある。例えば君が「プロシャン・プルー」という特定の色合いの青を塗るように命じられたら、表をたよりに「プロシャン・ブルー」という語から或る色彩標本を見つけ、それを自分用の色見本にする、ということをやらねばならぬ場合もあるだろう。
我々の目的のためには、想像の過程をすべて、物を眺める過程とか、絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換えても一向に差し支えはない。また内語の過程をすべて、声を出してしゃべることや書くことに置き換えてもかまわない。
〔‥‥〕
だが記号の生命であるもの名指せと言われれば、それは記号の使用[use]である、と言うべきであろう。
かりに記号の生命(つまり記号に関して重要なもの)が、記号を見聞きするとき我々の心の中に作られるイメージであるとしても、先に述べたようなやり方で、先ずこの心的イメージを眼に見える外的な事物、つまり絵に描かれ、模型に作られたイメージで置き換えてみよう。書かれた記号はそれだけでは死んでいるというなら、描かれたイメージをそれに付け加えたものには生命がある、と言える道理もない。―事実、君が心的なイメージを絵になったイメージで置き換えたとたん、そしてイメージがその神秘的な性格を失ったとたん、文に生命を付与するものがそのイメージであるとは思えなくなる(じつのところ、この心的過程の神秘的性格こそ、君が自分の目的のために必要としたものなのだ)。
我々の陥りがちな誤りを、次のように言い表すことができよう。我々が探しているのは記号の使用であるのに、それを何か記号と並んで存在するものと決め込んで探している、と(この誤りの一因は、またしても、記号に対応するものを求めるというところにある)。
記号(文)はその意義を記号の体系、すなわちそれが属する言語から得ている。簡単に言えば、文を理解することは言語を理解することにほかならない。
文は言語体系の一部としてのみ生命を持つともいえよう。しかるに人は、文に生命を付与するのはその文に随伴する、神秘的な領域に属する何かである、と想像してしまう。しかし、記号に随伴するものが何であれ、それは我々とってやはり一つの記号にすぎないであろう。
(『青色本』 1-5ページ)

言語ゲーム
「すなわち、年長者たちが或るものの名を呼び、その音声に従って、身体を或るものの方へ動かしたとき、私は、そのものを私に示そうと思う際には、彼らはその発する音声によってそのものを呼ぶということを見て、覚えた。彼らがそのものを私に示そうとすることは、いわば万民共通の自然の言語によって明らかであった。そしてこの言語は、顔つき、目つき、その他四肢の動き、音声の響きからできていて、もの求め、手に入れ、斥け避けようとする心の動きを示すものである。このように、いろいろな言葉がさまざまな文句のうちにしかるべきところで用いられているのをしばしば聞いて、私はそれらの言葉がどのようなものの符号であるかを推知するようになった。そして私の口はそれらのしるしに慣れてきて、私はもう自分が心に思うところそれらによって告げるようになった。」
私の思うに、人間の言語の本質について、この文章は一つのはっきりした像を示してくれる。すなわち、言語に含まれている語の一つ一つが何らかの対象を名指しており、文章はそのような名称の結合である、というのである。この言語像のうちに、次のような見解の根源があるといえよう。すなわち、どの語も一つの意味を持つ、この意味と語との間に対応の関係がある、意味とは語が代表する対象のことである、というものである。
語の種類別については、アウグスティヌスは語らない。言語の学習をこのように記述する人は、おそらく「机」「椅子」「パン」といった名詞や人々の名前のことをまず思い、二番目にやっと或る種の動作や性質の名について考え、残余の種類の語については、なるようになると考えているのではないであろうか。
次のような言語使用のこと考えてみよう。私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。彼がその紙片を商人のところに持って行くと、商人は「リンゴ」と記された箱を開け、次いで目録の中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という語まで口に出し、それぞれの数を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。―このように、あるいはこれと似た仕方で、人は言語を繰るのである。―「しかしこの商人は、どこでどのようにして<赤い>という語を調べたらよいか、また<五つ>という語に対してどう反応したらよいか、をどうやって知るのだろうか。」―私はただ、いま述べた通りに彼が振る舞うと仮定している。説明はいずれどこかで終わるものである。―しかし「五つ」という語の意味は何なのか。―そういうことはここでは全く問題なっていない。どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題である。(『哲学探究』第一部一節)

右述べた哲学的な意味の概念は、言語の働き方に関する或る原始的な観念に根ざしている。しかしそれは我々の言語に比べて、より原始的な言語の観念であるともいえよう。
アウグスティヌスの与えた記述が当てはまる言語を一つ考えてみよう。それは建築家Aと助手Bとの間で意思疎通のために用いられる言語である。Aは石材によって建築を行う。石材には台石、柱石、石版、梁石がある。BはAが必要とする順序にしたがって、次々に石材をAに渡さなければならない。その目的のために、二人は台石、柱石、石版、梁石という語からなる一つの言語を使用する。Aはこれらの語を叫ぶ。―Bは教えられた通りに石材を持って行く。これを完全な原始的言語と考えよ。(『哲学探究』第一部二節)

後期哲学の解説
グレーリング『ウィトゲンシュタイン』(岩坂彰訳)より
「言語は言語ゲームの集合だというときにウィトゲンシュタインが力説しているポイントは、言語は単一の本質をもつものではないということ、一元的な理論によって記述され、解き明かされるような本質などないということである。したがって、言語の働きを理解するためには、まずその多様性を認識するところから始めなければならない。
ウィトゲンシュタインに言わせると、ひとたびこれを明確にしたなら、『論考』で考えたように「意味」をとらえるのが、なぜ間違っているのか理解できるはずなのである。『論考』では語の意味を構成する数多くのさまざまな言語ゲームのそれぞれにおいて、その表現に与えられる使用だとされるのである。「語の意味とは、言語のなかでのその使用である。」(『探求』43節)
『探求』の冒頭、アウグスティヌスの引用に続いて、ウィトゲンシュタインは『論考』で採用した意味の表示説に、なぜ本質的欠陥があると言えるのかを示している。この論証の概略は以下のようなものである。仮に語の意味が対象との表示的結びつきにあるとすれば、その結びつきは直示的定義、つまり対象を指し示すことによって成立するといえる。典型的な形としては、あるものを指差して、そのものの名前を口にするというやりかたである。アウグスティヌスはこう考えたと、ウィトゲンシュタインは見ている。
しかし、直示は言語習得の基礎にはなりえない。なぜなら、対象が名指されているということを理解するためには、学習者がその言語の少なくとも一部を、すでに自分のものとしていなければならないからである―最低でも、対象を命名するという言語ゲームを知っていなくてはならないからである。これについては以下のように説明できる。
英語を知らない人に「table」という語を教えるものとしよう。その語を発音しながらテーブルを指差したとする。さて、相手は、その物体の名が教えられているのだと、どうしてわかるだろうか。色や機能や表面の輝きが言われているのではなく、あるいは、その下にもぐり込めと命じられているのではないのだと、どうしてわかるのだろうか。
もちろんこの例では、学習者は自分の言語をすでに持っているわけだから、この言語ゲームが名づけのゲームであると正しく考える可能性はある。しかし、この学習者がはじめて言語を学ぶ場合は、このような知識は使えない。もし意味が表示的なものであり、直示的定義に依存するものであるなら、言語は最初、どのようにして学ばれ始めることができるのだろうか。
ウィトゲンシュタインが読者に望んでいることは、この直示的定義の批判を読んで、そこに次のような含みを読み取ることである。第一に、『論考』の理論と違い、名づけることは意味の基礎ではないということ。第二に、名付けるという関係は、音(あるいは記号)と対象との間で直示的な対応関係が打ち立てられるというような単純なことがらではないということである。名付けるという関係は、名前と命名とがわたしたちの言語活動の構成要素となるそのなり方との関わりで理解されなければならないのである。
(続く)


付録
ウィトゲンシュタイン先生のお言葉
『反哲学的断章』(Vermischte Bemerkungen)より

自分を騙さない事ほど難しい事はない。(1938)

嘘をつくより本当の事を言う方が、ほんの少し苦痛なだけである。甘いコーヒーより、苦いコーヒーを飲む方が、ほんの少しだけ辛いように。それなのに私は、どうしても嘘をついてしまう。(1940)

神は私にこう言われるかもしれない。「私はお前自身の申し立てによってお前を裁く。お前は自分自身の振る舞いを他人に見たとき、吐き気で身震いしたではないか。」(1951)

哲学者たちの言葉は、いわば窮屈すぎる靴のせいで、すでに歪んでいる。(1941)

哲学の競走で勝つ者は、一番ゆっくり走れる者、つまりゴールに一番最後に到達する者だ。(1938)
(スポンサーから一言――ゆっくり走りすぎて、ゴールに到達しなかった人は、勝ったと言えるのですか?)

神が人間をどのように裁くか、我々には想像できない。神がそのさい誘惑の強さと人間の弱さを本当に考慮するなら、一体誰を地獄に落とせるだろうか。しかし神がそれを考慮しないなら、この二つの力の結果として、人間に予定されていた目標が生じてくる事になる。つまり人間は二つの力のせめぎあいによって勝利をうるか敗北するか、そのために創られている事になる。しかしこれは総じて宗教的な思想などではなく、むしろ科学的な仮説である。
だから、宗教の領域にとどまりたいなら、戦うしかない。(1950)

マーラーの音楽が、私が思うように、無価値であるなら、問題は、彼が自分の才能で何をするべきだったか、ではないだろうか。なにしろこんなにまずい音楽を作るには、明らかに、一連の実に風変わりな才能が必要だったから。…(1948)

無信仰で憂鬱な、シューベルト。(1946)

言葉は行為である。(1945頃)

成功の上にあぐらをかくことは、雪山を彷徨っている時に休むのと同じくらい危険である。うとうとし始めれば、眠ったまま死んでしまう。(1939-40)

とても不幸な人間だけが、他人を哀れむ資格がある。(1945頃)

凡庸な物書きが気をつけるべきことは、不正確な生の表現を、正確な表現に慌てて置き換えない事である。そんな事をすれば、最初のひらめきが殺されてしまう。まだ生命があった小さな植物は、枯れて全く無価値となり、ゴミとして捨てられてしまいかねない。貧相でも植物のままだったら、何かの役には立っていたのだが。(1949)

人間をよく観察せよ。ある人間は他の人間にとって毒である。母が息子にとって、息子が母にとって、毒である、など、など。だが母は盲目であり、息子も盲目である。もしかしたら両方とも心にやましさを感じているのかもしれないが、だからといって何にもならない。子どもは悪い、しかし、子どもにそういうことは止めろと教える者はいない。親の馬鹿な甘やかしによって子どもは駄目になるだけだ。どうやって親にそれを解らせようか。どうやって子どもにそれを解らせようか。いわばみんな悪いのであり、みんな罪がないのだ。(1950)


参考文献
『論理哲学論考』は、なぜ文庫で出ないのか、長年の疑問でしたが、2003年に野矢訳が岩波文庫で出ました(ご同慶の至り)。
それ以外でも、中央公論社の「中公クラシックス」のシリーズで出ています(訳は「世界の名著」のシリーズで出ていた山元一郎訳と同じ)。
『哲学探究』の方は、全訳は、『ウィトゲンシュタイン全集』(大修館)か、黒崎宏訳『哲学的探求』(産業図書)でしか手に入りませんが、上で引用した抄訳なら、
黒田亘編訳『ウィトゲンシュタイン・セレクション』(平凡社ライブラリー)
で読めます(普通の人はこれで充分かも)。
私は、昔は『論考』の全訳と『哲学探究』の抄訳を収めた「ウニベルシタス叢書」(法政大学出版局)の『論理哲学論考』(藤本・坂井訳)をよく利用していました。
(紛失したのか、今手元にありません。)
ウィトゲンシュタインの本は、表面的には特に難しい所はありませんが、我々自身がウィトゲンシュタインが批判している常識的偏見に囚われたまま抜け出せないせいか、
その真意を理解するのは実はかなり困難です。
鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書)
野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(ちくま学芸文庫)

などの一読を薦めます。
また、文庫や新書でなくてもよければ、
黒崎宏『ウィトゲンシュタイン』(勁草書房)
は誰にでも勧められるスタンダードな概説書。
因みに、ウィトゲンシュタインという人は、人間としても「哲学者」らしい風貌を持った最後の人で、その伝記には風変わりな魅力があります。
藤本隆志『ウィトゲンシュタイン』(講談社学術文庫)
など、読み物としても面白いですよ。


→『論理哲学論考』(独英対訳)
→『論理哲学論考』(英訳)

→Wittgenstein Archives
(The University of Bergen)

→村の広場に帰る