マルクス
Karl Marx ( 1818-1883 )


次の説明は、『経済学-哲学草稿』でマルクスが書いている、労働の疎外論と、『資本論』の最初の個所(価値形態と商品の物神性)について述べています。(「30分で解るドイツ哲学」より。柿沼さん(仮名)というのは、コーヒーのCMで、クリントン大統領の前でガツーンと言うはずだった人のこと)。湯川さんというのは、タッキーと一緒にリヤカーを引いて、ドリームキャストを売り歩いていたりする実在の専務。ついでに「意味無いじゃん」というのは、明石家さんまさんが当時「明石家マンション」で流行らせたギャグ。尊師というのは、もちろん、麻原彰光の尊称。―今だともう全然分らないですね。あと、「ある詩人」というのは、谷川俊太郎さんです。)

 さてそのヘーゲル左派から出たのがマルクス(1818-1883)である。マルクスといえば『資本論』である。マルクスは「仕事=私」というヘーゲルの労働観から出発した。「そりゃ、仕事は楽しいよ。仕事するなって言われたら、俺死んじゃうから。でも、ガツーンって言っちゃうけど、今度の会社の方針はよくないね。湯川さん(仮名)なんか面白くも無い仕事やらされて、責任取らされるてるし。辞めろって言ってるようなもんだよ。でも会社からお金もらわなくちゃ生きていけないんだから、サラリーマンって辛いもんだよ。」―このような柿沼さん(仮名)の嘆きを、万国の労働者の味方、我らが尊師マルクスは聞き給うた。師曰く、聞くがよい。かかる矛盾の根源は、「資本主義」というシステムにあり。
 師曰く、「商品」には二つの面がある。一つは、それを使って得られる自然な価値(=使用価値)、もう一つは、それが何と交換できるかという相対的な価値(=交換価値)である。(これを表わしているのが、貨幣つまり金じゃ。)我々が生きていく上で大事なのは、もちろん使用価値である。空気も、愛も、友人も、本当に大事なものはみんなタダ(のはずだ)、と或る詩人も詠っておる。しかし資本主義では交換価値だけが価値を持つ。その上、交換価値がその商品の持つ自然な価値だと思わせるメカニズムが働く。資本主義とはそういうシステムなのじゃ。どんなに価値のあるものでも、売れなきゃ、意味無いじゃん、価値無いじゃん、なのである。えっへん。さて、労働力も一つの商品であり、しかも剰余価値(利益)を生む唯一の商品である以上、君たち労働者が、労働に歓びを見出せないとしても蓋し当然なのじゃ。尊師マルクスかく語りき。


『経済学-哲学草稿』(1844)の疎外論

前提としてのヘーゲルの≪労働≫観
労働は、本来、人間の本質の実現という性質を持つ。
労働者は、仕事=作品(Werk=work)のなかに、自己の本質が表現されているのを目にすることができる。
例えば、青木雄二氏の漫画家としての才能は、氏が腱鞘炎になりながら画いた名作『ナニワ金融道』のなかに現れているし、その中にしか現れていない。
自分に才能があると思っているだけで、何も作品を書かない漫画家がいたとしても、それはただの夢想家である。
労働が自己実現であるのは、
自己を忘れて対象に没頭し(第一の否定)、
それによって対象の外面性を否定し(第二の否定)、
対象に自分の精神の像を刻み込む、
その「否定性」が、人間の本質であるからだ。

1)労働の生産物からの疎外
「労働は単に商品だけを生産するのではない。労働はそれ自身と労働者を商品として生産する。」
「労働の生産物は、対象の中に固定化され事物化された労働であり、労働の対象化である。」

2)労働からの疎外
「疎外は、単に生産の結果においてだけでなく、生産の行為のうちにも、生産活動そのものの内部においても現れる。」
「労働者は、労働の外ではじめて、自己のもとにある、と感じ、
労働の中では、自己の外にあると感じる。
彼の労働は、自発的のものではなく、強いられたものであり、強制労働である。
そのため労働は、欲求の満足ではなく、労働以外のところで欲求を満足させるための手段であるにすぎない。」

3)類的(=人間的)本質からの疎外
「労働者は、ただわずかに彼の動物的な諸機能、食うこと、飲むこと、産むこと、さらにせいぜい住むことや着ることなどにおいてのみ、自発的に行動していると感じるにすぎず、そして、その人間的な諸機能においては、ただもう動物としてのみ自分を感じる。」

4)人間の人間からの疎外
「労働の生産物が労働者に属さず、疎遠な力として彼に対立しているならば、そのことはただ、この生産物が労働者以外の他の人間に属するということによってのみ可能である。
労働者の活動が彼にとって苦しみであるならば、その活動は他の人間にとって享受であり、他の人間の生活の喜びでなければならない。」
「従って私有財産は、…外化された労働の必然的な帰結なのである。」
(以上の訳は、城塚・田中訳『経済学・哲学草稿』岩波文庫 から)


マルクス/エンゲルス『共産党宣言』(1948)

「ヨーロッパには妖怪が出る――共産主義という妖怪である。

我々の時代、ブルジョワジー(富裕市民階層)の時代は、階級対立が単純化したという事実によって特徴づけられる。全社会は対立する二大陣営に、互に直接の敵として対立する二つの階級に、ブルジョワジーとプロレタリアート(労働者階級)に、ますます二分化して行っている。
ブルジョワジーは歴史上、最高に革命的な役割を果たした。
ブルジョワジーは、支配権を握ったところでは、全ての封建的な、家父長的な、牧歌的な関係を破壊した。人間を生まれながら上の者に結びつけている封建的な絆を容赦なく引き裂き、人と人の結びつきとしては、裸の利害関係、無情な「現金勘定」の外には何も残さなかった。…彼らは、人の値打ちを交換価値に解消し、特許状を与えられ正当に獲得された無数の自由を、一つの、良心のない商業の自由に取り換えた。

共産主義者は宣言する、これまでの全ての社会秩序が暴力的に転覆されることによってしか、自分たちの目的が達成されることはあり得ない、と。支配者階級は共産主義革命の前に恐れ戦くがよい。プロレタリアは、彼らを縛る鎖以外に何も失うものはない。彼らが手に入れるものは全世界である。
万国の労働者よ、団結せよ!


マルクス『賃労働と資本』(1949)
(そのうち書きます)


20/21世紀の資本論

マルクスが生まれたのは、200年前である。
『資本論』で分析の対象となったのは、18/19世紀のヨーロッパ社会であり、その後の世界の動きはもちろん考慮されていない。
マルクスによれば、資本主義が内包する構造的矛盾は、
a) 周期的に繰り返される経済恐慌、及び
b) 一部の富裕層と大多数の貧しい労働者への格差の拡大
という形で現れる。
1)その結果生じことになるであろう、労働者階級による共産主義革命―というマルクスの見通しは、
ロシアと中国という資本主義の未発達な国での社会主義革命という予想されなかった結果で実現し、
20世紀には資本主義(自由主義)と社会主義という二大陣営に世界を二分することになったが、
1990年頃になって起こった、ソビエト連邦の崩壊と中国の資本主義化(―象徴的事件としては東西ドイツの統一)によって
社会主義の実験は、結果として失敗に終わった。
2)20世紀の資本主義国家は、修正資本主義という方法でこの二つの困難を克服しようとした。
ケインズ等による修正資本主義は、
a) 公共事業に税金を投入して景気を活性化しコントロールする
b) 高度の累進課税と手厚い社会保障によって福祉国家を目指す
ピケティ『21世紀の資本』は、20世紀は格差が開かなかったことを分析で示したが、
その背景には、戦争の影響、資本主義社会の順調な経済発展(*)以外に、こうした社会主義的政策があった。
 (*)(労働者の)通常の賃金の上昇が(富裕層の)利子によって得られる利益を上回る場合には、格差は開かない。
3)1980年代から英米で実施された新自由主義(ミルトン・フリードマン)は、
a) 自由貿易の推進(規制緩和とグローバル化)、
b) 民営化による「小さな政府」、
を掲げ、社会主義的傾向を否定するによって、経済を活性化することに部分的に成功したが、
a) 2008年のリーマン・ショックなどの大きな経済危機
b) 21世紀になって急激に加速化している格差の拡大(一部の超富裕層への富の集中と中間層の崩壊)
といった資本主義が内包する構造的問題が、よりグローバルな規模で現れれるという結果を招いており、
資本主義の問題が依然として解決されていないことを示している。
その意味で、マルクスは今なお正しい。


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