カント
Immanuel Kant( 1724-1804)
―語りえないものについては、沈黙しなければならない。(ウィトゲンシュタイン)

カントの肖像


『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft 1781)

『純粋理性批判』は、科学の成立根拠を問うと共に、経験に基づかない「形而上学」を批判する試みである。
カントの学問の基礎づけは、百年前ならまだしも、現代の科学論として、あまり有効だとも思えないので、簡単に説明するに留める。
1)カントの言うことを理解するためには、まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。
感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。
悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。)
これに対して、ここで問題になっている「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を総合したものである。(カントの場合、推理といえば、殆んど三段論法を指す。ところで、カントは、当然知りませんでしたが、「膨張宇宙」とか「ビッグバン」とかいった理論を生み出すのは、悟性の判断(経験的データ)を総合する理性の働きだと思うのですが、カントに詳しい人、どうでしょうか?)

2)次に、分析的判断と総合的判断の区別、アプリオリ(a priori)な認識とアポステリオリ(a posteriori)な認識の区別を押さえる必要がある。
アポステリオリな(a posteriori=「より後のものからの」)認識とは、経験に依存する認識である。例えば「全てのカラスが黒い」かどうかは、実際に調べてみなければ分からない。従って、この知識は、たいてい、偶然的である。
これに対し、アプリオリな(a priori=「より先のものからの」)認識とは、我々の「経験」に依存しない(従って普遍的な)知識を意味する。例えば、「三角形の内角の和が二直角である」ことは三角形の本質から導かれる知識である。また直角三角形に関するユークリッドの定理は、どんな紙の上に(あるいは頭の中で)図を書いて証明してもいい訳だから、原理的に「経験」に依存していない。さらに一部(全部?)の論理的知識も、実際に調べる必要のない、普遍的に妥当する知識である。これらがアプリオリな認識の代表。

3)更に、述語の内容が主語に含まれるような判断を、分析判断という。例えば「赤いバラは赤い」という命題は「AはAである」という同一律の形をしているから、分析判断であり、それゆえアプリオリに正しい判断である。(現在では、論理学や数学の命題は、全て分析判断だ、と考える人もかなりいるが、「1+1」という主語を分析しても、「=2」という述語は見出せないので、カントは総合的判断だと考えている。)
総合判断とは、主語に新しい述語を付与する判断である。例えば「カントは生涯独身だった」という判断は、「カント」という主語に「一度も結婚していない」という新しい述語を付与している。(因みに「独身者は未婚である」という文は、よく例に引かれる分析判断の典型。)

さて、学問が新しい知識を生むなら、それは総合的判断である。そしてそれが普遍的に正しい認識であるなら、アプリオリな判断でなくてはならない。従って、自然科学などの経験科学は可能か、という問いは、「アプリオリな総合的判断はどのようにして可能か」という問いになる。

カント自身が書いた『純粋理性批判』の要約である『プロレゴメーナ(序説)』から、要点だけを取り出すと、
1 我々の認識の源泉は、感性と悟性(と理性)である。
2 数学の知識は、感性の能力である直観(純粋直観)において成立する、アプリオリな認識(総合判断)である。
3 自然の認識(物理学)は、経験的な世界を対象とした、アプリオリな総合判断であり、それは、直観によって与えられる多様な素材を、悟性が論理的なカテゴリーの統一へもたらすことによって成立する。
4 理性はそうした認識を総合する働きをする。しかし理性が、直観という地盤を離れ単独で、超自然的な対象(神、世界全体、魂)の認識(=「形而上学」)を生み出そうとすると、必然的に誤謬に陥る。
(例えば、「世界は無限である」という命題は、それを証明する議論を使って、そのまま「世界は有限である」という、反対の命題をも証明しうる。これを、アンチノミー(二律背反)という。)

従って、我々が認識しうるのは、感性という形式を介して与えられる「現象」だけだ、ということになる。その背後にあるかもしれない「物自体」は認識出来ない。(「私」という主観も、「現象」つまり直観の対象として与えられないから、「物自体」の範囲に属する。)
ここでカントは、デカルトのように、知識が成立するための条件を洗い出してゆくという方法(「超越論的」方法)をとっている。(これがプラトン以来の、哲学の一番オーソドックスな方法であろう。)
カントの死後一世紀を経て書かれた、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、論理学の知識は全く別物だが、方法も内容も、殆んどカントである。


参考
1)神の存在証明

存在論的証明
アンセルムスの証明(『プロスロギオン』)
「愚かな者は心のうちで神はないと言った」(詩篇)
しかし、<それより大いなるものは何も考えられないもの>と言われれば、彼もこれを知解するであろう。それが存在することを彼が知解しないとしても、彼の知性の中には存在している。
ところで、<それより大いなるものは何も考えられないもの>が、知性のうちにしか存在しないと考えることは、不可能である。
なぜなら、知性のうちにだけ存在するとすれば、それはまた事象のうちにも存在すると考えられるからだ。その方がより大いなるものなのだから。

形而上学的証明
2a) 自然神学的証明(目的論的証明)
アリストテレスによる証明
この世界には、秩序や目的がある。これを造ったものが世界創造者である神に他ならない。
2b) 宇宙論的証明
世界の偶然性による証明(ライプニッツ)
もし何か或るものが実在するならば、絶対的に必然的な存在者もまた実在しなければならない。ところが、少なくとも私自身は実在する。ゆえに絶対的な存在者もまた実在する。

アリストテレスおよびトマス=アクィナスによる証明
この世界の中で何かが動いているということは、確実な事実である。
動いているものはすべて、他者によって動かされている。(注)
動かされているものは、最終的には、自らは動かず他を動かすもの(不動の動者)すなわち神によって動かされている。
(注)「動く」というのは、通常我々が理解する、場所の移動ではなく、むしろ、一粒の種が木や花や実になるような、生成変化の動き(可能態から現実態への運動)を意味する。従って、神は全ての「運動」の目的(=原因)でもある。

カントの批判(注)

1 「絶対的に必然的な存在者」という概念は、「三角形は三つの角を持つ」という判断の持つ必然性とは、性格が違う。わたしが心の中で百万円のことを考えても、それがわたしの財布の中にあるとは限らない。
<ある>は、実在性を示す(=real な)述語ではない。(注)
(注)ハイデガーの項を参照。

2 面倒なので省略

(注) カントがここで主張しているのは、神は存在しないということではなく、神の存在を証明するのは不可能だということである。(これは逆に言えば、神が存在しないことを証明するのも不可能だ、ということだ。)カントは、後に、『実践理性批判』のなかで、実践の立場から、神の存在を要請し、さらに『判断力批判』のなかで、自然の合目的性について、肯定的に論じている。つまり、学問的には神の存在を証明することは不可能だが、もし神が存在しなければ、我々の正しい行動も、秩序正しい認識も根拠を失う、だから神は存在するはずだ、という立場を取っている。(これは、ウィトゲンシュタインの有名な、「語りうることは明晰に語りうる。語りえないものについては、沈黙しなければならない。」という命題と、非常によく似ている、と言うか、同じだ。)

2)アンチノミー(二律背反)

カントが挙げているアンチノミーには、四つがある。
1 世界は有限(時間的、空間的に)である。←→世界は無限である。
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている。←→単純なものなど存在しない。
3 世界には自由な原因が存在する。←→自由は存在せず、世界における一切は自然法則に従って生起する。
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する。←→必然的な存在者など存在しない。

最初のアンチノミーだけ取り上げると、
「世界は時間において始まりを持ち、空間からみても限界に囲まれている。」
というテーゼ(の前半)の証明は、次のようにして(背理法を用いて)行われる。
「なぜなら、世界が時間において始まりを持たないと仮定せよ、そうすれば、与えられたどの時点までにも永遠が経過し、従って世界における諸事物の次々に継起する諸状態の無限の系列が流れ去ったことになる。しかしながら、系列の無限性というのは、継続的な総合によっては決して完結されえないという点にその本質がある。それゆえ、無限の流れ去った世界系列というのは不可能であり、よって、世界の始まりは世界が現に存在するための必然的な条件である。これが最初に証明されるべきことであった。」(注)
逆に、
「世界は始まりを持たず、空間においても限界を持たない。時間という点からみても、空間という点からみても、無限である。」
というアンチテーゼ(の前半)の証明も、次のようにして行われる。
「なぜなら、世界が始まりを持つとしてみよ、そのときには、始まりというのは一つの現存在なのだから、それ以前に、物が存在していない時間が先立っていたことになるが、そうすれば、世界が存在していない時間が、つまり空虚な時間が先行していたことになる。しかしながら、空虚な時間においては何らかの物が発生するのは不可能である。……それゆえ、世界においては諸物の多くの系列が始まりうるが、世界そのものはいかなる始まりも持ちえない。それゆえ、世界は過去の時間という点からみて無限である。」

従って、カントによれば、正反対の結論が、どちらも証明され、どちらも否定されることになる。
言い換えれば、「世界は無限だ」と仮定したら、その逆の「世界は有限である」という命題が証明され、
「世界は有限だ」と仮定したら、その逆の「世界は無限だ」という命題が証明されることになる。
Aを仮定したら¬A、¬Aを仮定したらA、論理学では、これを矛盾と呼ぶ。
この矛盾の原因はなにか?
簡単に言ってしまえば、時間と空間というのは、それを介して対象が我々に与えられる感性の形式にすぎないのに、それを実在する対象の形式と思い誤ってしまう点に、こうした矛盾が生じる所以があるのである。
つまり「無限」を「実無限」として理解したらダメだということである(?)。
こうして、カントは、自らの立場を、「超越論的観念論」と呼ぶことになる。

(注)直訳しましたが、普通に読むと理解できないでしょう。「無限」という言葉の意味が、現代の用法とは違うからです。カント(あるいはカントが批判している形而上学者たち)は、「無限(unendlich)」という言葉を、文字通り、「終わり(end)のない」=「どんな限界(制約)も持たない」という意味で使っています。そういう意味では、ある時点で(その時点で終わっていますから)「無限の世界系列が流れ去った」というのは、矛盾しているわけです。


『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft 1788)

「理性」が本来の働きをするのは、実践(行為)の場面である。「行為せよ」という命令は、人間の内なる理性から来る。
「友人を助けるのは義務である」という一般的原則から、「田中君は大田君の友人である」、ゆえに、「大田君は田中君を助けるべきである」という行為が指示される。
ここでは経験から知識が導かれるのではなく、知識がアプリオリに経験を決定する。

0)アウトライン

『道徳形而上学の基礎づけ』
カントが目指すのは、純粋倫理学である。
「単に経験的であって人間学に属する全ての事柄から、完全に清められた純粋な道徳哲学を一度創り出すことが、この上なく必要である。」
「一つの法則が、道徳的なものたるべきであれば、必ず絶対的な必然性を帯びなければならない。」
「『嘘をついてはならない』という命令は、人間だけに当てはまり、他の理性的存在者には無関係であるというようなものではない。」
「それゆえ、義務の根拠は、人間性とか、人間が置かれている世界の状況とかのうちに求められるべきではなく、アプリオリに純粋理性の概念のうちにのみ、求められるべきである。」
「道徳的に善であるといわれるものは、法則に合致しているだけでは十分ではなく、さらにそれは道徳法則のために行われるものでなくてはならない。」

1)自律(Autonomie);自己決定と普遍化可能性―行為の形式

自己決定(自己立法)
自由な意志は存在する。人間は、全く自由である。
(「言うことを聞かないと殺すよ」と言われても、「言うことを聞かない」ことが出来る。というか、出来るから「殺すよ」と言って脅すのである。)
他者の命令に従って行為するなら、奴隷である。(=他律 Heteronomie)
自分が何をするべきか、それを決めるのは最終的には自分以外にはいない。

格率(Maxime)道徳法則(Sittengesetz)の一致
格率(格律);主観的(=個人的)行動の方針
道徳法則;普遍的法則 「全ての人は…すべきである。」
(例えば、侮辱されたら必ず復讐するということを、誰でも格率とすることは出来る。しかしこれは決して実践的法則ではなく、ただ自分の格率にすぎないものである。
なぜなら、もしもそれがあらゆる理性的存在者の意志に対する規則とされるならば、同一の格率において自己矛盾するからである。)

実践理性の定言命法
「汝の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように、行為せよ。」
(自分のポリシーに従って行動しなさい、ただし君が採用するポリシーは、いつでも、(全ての人が従うべき)一般的な法則を立てる際の原則としても通用するようなものでなくてはならない。)
(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)
(ここに言い表されているのは、
0)道徳は法則に従って行なわれるべきこと
1)自分で決めた法則に従って行為せよという、個人の自発性=主体性
2)その法則がもつべき形式としての、「普遍化可能性」(Hare)
という、ニ(三?)点である。2)をどう考えるかについては、難しい点がある。)
→ヘアの普遍化可能性の理論

2)自己目的―行為の動機

道徳的行為の動機は、(「好き」「嫌い」とか「自分の利益」とか)感性的なものであってはならない。
もしそうなら、(それは自己愛に基づく利己的な行為にすぎず)行為はその正しさの根拠を失ってしまうだろう。
「善い事だから、正しい事だから、すべきだ」、というのでなくてはならない。

1 道徳法則は、アプリオリなものでなければならない。
  もし道徳法則が経験的(=現実的)原理から導かれるなら、普遍妥当ではありえない。
2 意志の決定原理を、欲求の対象に求めるなら、それは全て経験的(=偶然的)であり、
  対象によって引き起こされる快不快の感情、つまり自己愛=自己の幸福、に基礎をおくことになる。
3 従って、道徳法則は、内容にではなく、意志の形式にだけ関係するものでなければならない。
4 他の目的の手段ではなく、道徳法則そのものを目的とする意志だけが、物自体である意志、自己により自己自身を決定する意志である。(意志の自律)
5 道徳的行為の動機は、道徳法則に対する(従って、また自己に対する)尊敬である。

人間は、感性界に属すると同時に、叡智界(理性の世界)にも属している。
理性に基づく行為は、人間のみならず、神や天使でさえも、全ての理性的存在者が、同じ事をするような行為である。
そこに人間の最高の尊厳がある。
(動物は感性界の住人であって、理性を持たない。だから、ただ本能=欲望に従って、行動する。そこに矛盾は無い。
一方、神や天使は、知性界の住人であって、肉体を持たない。だから、常にただ理性に従って、行為する。そこにも矛盾は無い。
これに対して、人間は、知性界の住人であると同時に、感性界の住人でもある。
だから人間だけが、自己内に矛盾を感じる。正しいことをするために、自分の欲望と戦わなければならない。そこに人間の真の偉大さがある。)

目的の国
「国とは、相異なる理性的存在者が共通の法則により体系的に結合されたものであると、私は解する。
理性的存在者は全て、その各々が自己自身と他の全ての者を、決して単に手段として取り扱わず、常に同時に目的それ自体として扱うべし、という法則にしたがっている。
一理性的存在者が目的の国において、普遍的に立法するものでありながら、彼自身それらの法則に服従してもいる場合、その理性的存在者は、目的の国に成員として所属する。それが立法者であり、しかも他のどの存在者の意志にも服従していない場合、それは目的の国に元首として所属する。」

「汝の人格の中にも、また他のどの人格の中にもある人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないというように、行為せよ。」

仮言命法と定言命法
「単位を取りたいなら、授業に出なければならない」とか「授業が面白ければ、出てやってもいいよ」とかいうような「もし…なら」という条件文を「仮言」命法と呼ぶ。道徳的行為は本来そうした性格のものではない。一切の条件抜きに、「そうすべきだから、そうすべきだ」という絶対的「定言命法」である。それでこそ我々は理性の国の一員たりえるのである。
感性界と英知界
しかしながら理性の国と、我々の肉体が現に住んでいるこの感性の国は一致しない。というより相反する場合が多い。我々はしばしば自己愛や感情の誘惑に負けて、正しいことをし損なってしまう。また、この現実の世界は、不完全なものだから、正しい行為が幸福な結果をもたらすとは限らない。「先生の訳は間違っています」と授業中に誤訳を指摘したりすると、先生から怨まれて後でひどい目にあったりする(笑)。

魂の不死と神の存在の要請
そこでカントは、理論理性の立場からは証明できなかった、魂の不死と神の存在を「要請」する。そうでなければ、個人の徳の完成も、また有徳な人のこの世での幸福も保証されえないから、である。
我々が見ることが出来るのは、感性の世界だけである。理性の世界は、直観の対象にはならず、目に見えない。しかし各人が理性に基づいて行為することによって、その存在が「示される」のである。

自由な意志による自己決定(=自律)の尊重、及び、その自由な人格を単なる手段としてだけ扱ってはならない―といったカント倫理学の根本命題は、基本的には、現代の倫理学でも根本原則として認められている。
また、一見分かり難い「定言命法」という道徳観も、道徳法則はその結果ではなく、それ自体において価値をもつ(つまり、それ自体において守られねばならない)という、一つの考え方を代表している。
更にまた、「道徳法則への尊敬」を道徳の動機とみる立場は、人間の自尊心(プライド)を尊重した考え方であり、すべてを自分の利益に還元して考えることが常識化した現代にあっては分かり難い立場ではあっても、よく考えてみると、人間の信念のあり方として正しい立場を示している(と思う)。

3)義務倫理

「当為(すべし)」を強調するカントの倫理学説は、「義務倫理(deontic ethics = deontische Ethik)」と呼ばれる。
個人の行為の内容は、あくまでも自分が決めるべきものではあるが、決めた以上は、自分も従わなければならないから、義務なのである。
カントは、絶対に従わなければならない「完全義務」と、強制はされない「不完全義務」とを区別する。
それらは、さらに、自分自身に対する義務と、他人に対する義務とに分かれる。
例えば、「自己保存」は自分自身に対する完全義務である。自殺は許されない。酒・煙草なども当然ダメ。
上述の「嘘をついてはならない」というのも完全義務だが、これは他人に対する完全義務である。「借金を返す」というのも同じ(サラ金の業者さんが聞いたら喜びそう)。
一方、「自己の向上(陶冶=育成)」は自分自身に対する不完全義務である。時間を無駄にせず、体を鍛え、よく勉強し、教養を高めよ、ということだ。
「他人を愛せよ」というのは、他人に対する不完全義務。ただし「愛」とは感情ではない(感情は命令され得ない)。他人を助け親切にしろということだ、とカントは言う。
これらの義務は理性的な存在者である人間の本質から導かれる義務であるから、その目的や利益を云々するのではなく、そうす「べき」であるから、そうすべきだという性格を持つ。例えば他人に親切にすべきであるという理由は、結局は自分が得をするからという自己愛に基づけられてはならず、端的に、それが正しいことだから、利己心を離れて考えればそうせざるをえないから、ということだ。

4)『実践理性批判』の問題点
いろいろあります(笑)。
1 「友人が殺人鬼に追われていて、匿ってくれと頼まれたのに、『嘘をついてはならない』という道徳法則に従って、追ってきた殺人鬼に友人の居場所を教える」のは、正しいだろうか?
(カントは正しいと言う。「嘘をついてはならない」というのは、完全義務であり、絶対に守らなければならない道徳法則である。確かに『聖書』も「偽証するな」と命じている。しかし、それはそんなにまでして守らなければならない「絶対的」な規則なのだろうか?また、『聖書』の「殺すな(見殺しにするな)」という命令に反しないのだろうか?)
或いは、また、「愛国心に基づいて、兄を殺したドイツへの戦争に行くか、それとも隣人愛の精神に基づいて、年老いて身寄りのない母の許に留まるか」(サルトル)といった、相反する二つの命令が課された状況で、一方を選ぶ理由を、カントは与えているのだろうか?

2 「友人が困っているから助けたい」と私が思ったとき、私はその友人が好きだから助けたいと思うのだろうが、カントに言わせれば、「好きだから」助けるという行為は、不道徳である。「好き」「嫌い」といった感情は、道徳的行為の原因であってはならないのだから。
この点に関して、カントの歳若い友人でもあった詩人シラーは、こういう詩を作って風刺した。
 「僕は進んで友人に尽くしているのだが、悲しいことに好きでそうしているのだ。
 そこで僕はしばしば思い悩む、自分は有徳な人間ではないのだと。」
 「そうだ。他に方法はない。君は努めて友人を軽蔑し、
 しかる後に義務の命ずることを嫌々ながら行うことだ。」
これはやや皮相な批判かも知れないが、感情や自己愛はそれ程「非理性」的なものなのだろうか?
こういう問題(感性と理性の矛盾とか、道徳的命令の対立とか、「絶対」とか)を、もっと正面から考えたのが、ヘーゲルである。


付録
カント先生に成り代わって、次の相談に答えなさい。(過去問より)

島耕作の人生相談
僕には大学時代からの友人がいます。彼とは出身が同じで、大学に入りたての頃、同じ県人寮に住んでいたので、知り合いになりました。彼が風邪を引いた時には看病もしたり、田舎から送ってきたミカンをお裾分けしたりと、友人として親切にしたつもりです。でも、彼はその後、寮を出てしまい、親しい付き合いはなくなってしまいました。
ところが、たまたま同じ会社に同期で入社することになり、また彼と同僚になりました。僕は友人として彼にいろんなアドヴァイスもし、いつも彼のことを気にかけていたのです。だから、彼が上司の愛人との浮気な恋に溺れているのを知った時も、彼のためを思って、敢えて上司にそのことを知らせたのです。
それを知った島君は、烈火のごとく怒りました。
「お前は親友を売ってまで、上司のご機嫌取りをして出世したいのか!」と。
誤解だよ、島君、それは、君を貶めようと思ってやったことでは、ないんだよ!
みんな、君のためにと思ってやったことなんだ!
実は、僕は、昔から君のことが好きだったんだ。だから、君に、少しでも僕のことを好きになってもらおうと、大学時代にもいろいろ努力し、就職の時もわざわざ君と同じ会社を選び、君に振り向いて欲しくて、会社でも今日まで精一杯努力してきたんだよ!それはみんな君が好きだったからなんだ!
え?こんな僕って「不道徳」ですか?
それは、僕がホモだからですか!?ホモってそんなにいけないことなんですか!?
(初芝電気 樫村)

『判断力批判』(Kritik der Urteilskraft 1790)

ここでカントは、前半で、芸術(美)の問題と、後半で、自然の目的論(合目的性)の問題を取り扱っています。詳細は省きますが、これによってカントは、第一批判と第二批判の間にある表面上の矛盾を解消した、と言われています。
前半の芸術論は昔(学生の頃)読んで非常に退屈した、というか下らないなあと思った、覚えがあります(実際、カントの『三批判書』の中では一番詰まらない箇所です)が、序文や後半は、十分読む価値があります。というか、カントに関心のある人は必読です。

『永遠平和のために』(Zum ewigen Frieden 1795)

現代の国際連合の理念を、いち早く提示した本です。
自然の配慮によって、人間は平和な状態を作り上げるように強いられる、とここでカントは言ってますが、
この「自然」とは、「運命」とも「(神の)摂理」とも、言い換えることが出来る、ともカントは言ってます。
(それは、後にヘーゲルが、「理性の狡知」と呼んだものに近い。)
→「戦争の倫理」の頁


読書案内
現代では、カントは倫理学の方が重要でしょう。しかし『実践理性批判』をいきなり読もうというのは無謀というものです。
物事には順番というのもがあります。まず『純粋理性批判』を読まないと! でもこれは大変です。
ですから、関心のある人には、『人倫(道徳)の形而上学の基礎づけ』、略して「じんづけ」、を薦めます。割と短いし、解りやすい。
解説付きで『プロレゴメナ』(略してプロメナ)と『人倫の形而上学』(略して「じんがく」)も入っている、中央公論社『世界の名著』シリーズ(略して「せかちょ」)の『カント』が、チョー便利、略して「ちょべり」です。(意味なく略してみました。)
『世界の名著』シリーズは、最近では、「中公クラシック」のシリーズで出ています。(→カント『プロレゴメーナ・人倫の形而上学の基礎づけ』
一般的な入門書は、新書だと、なぜか、これしかないようです。
石川文康『カント入門』(ちくま新書)
カント哲学の歴史的な背景に関しては、
ハイムゼート『カント哲学の形成と形而上学的基礎』須田・宮武訳(未来社)
辺りが、古典的な研究です。


→村の広場に帰る