三十分で解るドイツ哲学

雑誌が出ました。『楽園計画』第三号(双葉社)。団塊の世代向け。ドイツとか、環境問題とかに関心がある人は、よかったら、本屋さんで、覗いてみて、買ってくれると、いろいろ喜ぶ人も居そうですが。880円。(「ドイツ音楽概観」を書いたのは、もちろん私ではない。)


 冒頭から古い話で申し訳ないが、二十数年前、初めて筆者が上京して、いつ倒れても不思議ではない大学の寮に入ったとき、偶然同室になった先輩の本棚には、本屋から「パクッて」きたという、フーコーの分厚い翻訳書が並んでいたものである。彼の愛読書といえば、公平に言って、「がきデカ」が連載されていた『少年チャンピオン』だったり「あしたのジョー」だったりしたのだが、今思うと、まだアナーキーであることや難解であることに価値があると思われていた、古き良き時代であった。当時その先輩がよく口にしたのは、「もう古い」サルトルとか、フランスの「構造主義者」たちの名前だった。しかし彼らもまたヘーゲルやハイデガーといったドイツの哲学者たちからずいぶん多くのものを「パクッて」きていることに筆者が気づいたのは、それから何年も経ってからのことである。
 当時の「反体制」の大学生も、いまは中間管理職として企業を支えているのだろうか。「日本人は主張しないから駄目なのよ。俺ならガツーンって言っちゃうよ。うちの会社が動いているのは俺のおかげみたいなもんだよ、リストラしなくちゃいけないのは、まずうちの社長。」と、居酒屋で声高に語る今も「反体制」の柿沼さん(仮名)であっても、クリントン大統領の前で、私が世界を動かしているとは言えない。(俺、大学は独文だからさ、英語は弱いのよ。)しかし考えてみると、カントやヘーゲルが言ったのは、私が全宇宙を動かしているということだった。ただしこの場合「私」といっても俺一人じゃあ動かせないよ。俺でもあり君たちでもある「私一般」だよ。ついでに「私」というのは「私の身体」のことではないよ。なぜなら、私がこの忙しい時に飲み屋に足を運んでいるのは、私の精神が私の身体に足を運べと命ずるからなんだよ。従って私とは私の「意識一般」のことなのである。これをカントは「超越論的主体」と称するのであーる。証明終り。難しい話も終り。さあ今日はパーッと呑みましょう。

 という訳にはいかないのである。このように精神と肉体を分けて考える二元論は、いかにもキリスト教的考え方だ。『聖書』を開いてみよう。最初に天地創造の話がある。神が最初に、光、天と地、植物と動物、そして最後に人間を造ったことになっている。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』」とある。人間は「神の似姿(にすがた)」であり地上の支配者なのである。その次のページには、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」とある。「命の息」とは、語源的にも「霊」を意味している。つまり、人間の身体は土塊に過ぎない。せいぜい精巧な機械である。しかし人間は精神(霊)において神に似たものなのである。ここにキリスト教の人間観がよく表れている。欧米で外科手術や臓器移植が早くから行われてきたのも、こうした精神的背景があったからだという人も多い。近代哲学の、とりわけドイツ観念論の、中心テーマである「私」という存在も、神性を分かち持ち、神の地位にまで高まろうとする「私」であった。

 さて、ドイツ哲学といえば、まずカント(1724-1804)である。カントといえば、『純粋理性批判』であり『実践理性批判』である。ともに難しい本の代名詞のように言われることの多い本だが、根気よく最初から読んでみれば、意外に(あくまでも「意外に」だが)解りやすいうえに、私が生きている意味や、世界があることの意味が、実に謙虚に述べられていて、その禁欲的な理想主義に感動してしまったりするかもしれないのである。ここには「ただ一人で神の前に立つ」敬虔なプロテスタント精神が溢れている。我々は世界の究極(物自体)を知ることはできない。しかし自分が正しいと信じる行為をなす事によって、自分を見えざる神の国の一員にまで高めることができるのである。おお、おお。友よ、歓びよ!と、思わずベートーヴェンになってしまうのである。

 次にドイツ観念論といえば、フィヒテ、シェリングは飛ばして、ヘーゲル(1770-1831)である。ヘーゲルといえば『精神現象学』である。「体系」の哲学である。「弁証法」である。マルクスの先生である。しかしコレラで死んでしまった。悲惨である。
 ヘーゲルは、禁欲的なカントとは対照的に、森羅万象あらゆるものを哲学したが、その本領は、否定という関係性の分析にあった。私(=精神)は、まず身体(=物質)というその反対のものと一つのものとして働いている活動である。次に、私(=精神)は、他人(=他の私)と対立しながら労働によって世界を動かしている力である。労働は今ある世界を否定する力であるが、実は「私」の本質とは、ヘーゲルに言わせれば、この全てを否定する作用そのものなのである。
 この、反対のものが一つだというダイナミックな構造は「弁証法」と呼ばれる。「主体」ともヘーゲルは言う。「例えば、パソコンだよ、あれは明らかに素人を拒否してるね。絶対に俺がしたいことをやらせてくれないよ。すぐ止まっちゃう。あれを自分で使おうと思えば、「私」を捨てる。奴隷のように、パソコンさんの言うがまま、苦労するしかないよ。辛いよ。」ところが、半年後の今、柿沼さん(仮名)は、「かーんたんじゃねえか」と気分は健さんなのである。このように、敵同士だったパソコンさんと柿沼課長さんは、お互いが否定し合うことによって、新しい「パソコン課長」を生み出したのである。向かいの席の山下さんにも「お茶ください」とEメールを書くのは困りものだが、これが労働というものだ。
 ついでに、この、他の私でもある私(=我々)は、その絶対的な他者(=神)とも、同じではないが違うものでもない。この「同じ」と「違う」のどちらに力点を置くかによって、ヘーゲル学派はヘーゲル亡き後、右派と左派とに分裂してしまうのである。

 ドイツ観念論といえば、「私」を動かしているのは盲目の巨大な意志であるという、厭世的な世界観を説いたショーペンハウアー(1788-1860)も、恐らく実力以上に、有名だ。巨人の清原選手のようなもの(?)である。しかしこちらは正統的なカント主義者であり、ニーチェや、フロイトの「無意識」概念にも深い影響を及ぼしたりしていて、年俸4億円でも決して安くはないのである。

 さてそのヘーゲル左派から出たのがマルクス(1818-1883)である。マルクスといえば『資本論』である。マルクスは「仕事=私」というヘーゲルの労働観から出発した。「そりゃ、仕事は楽しいよ。仕事するなって言われたら、俺死んじゃうから。でも、ガツーンって言っちゃうけど、今度の会社の方針はよくないね。湯川さん(仮名)なんか面白くも無い仕事やらされて、責任取らされるてるし。辞めろって言ってるようなもんだよ。でも会社からお金もらわなくちゃ生きていけないんだから、サラリーマンって辛いもんだよ。」―このような柿沼さん(仮名)の嘆きを、万国の労働者の味方、我らが尊師マルクスは聞き給うた。師曰く、聞くがよい。かかる矛盾の根源は、「資本主義」というシステムにあり。
 師曰く、「商品」には二つの面がある。一つは、それを使って得られる自然な価値(=使用価値)、もう一つは、それが何と交換できるかという相対的な価値(=交換価値)である。(これを現しているのが、貨幣つまり金じゃ。)我々が生きていく上で大事なのは、もちろん使用価値である。空気も、愛も、友人も、本当に大事なものはみんなタダ(のはずだ)、と或る詩人も詠っておる。しかし資本主義では交換価値だけが価値を持つ。その上、交換価値がその商品の持つ自然な価値だと思わせるメカニズムが働く。資本主義とはそういうシステムなのじゃ。どんなに価値のあるものでも、売れなきゃ、意味無いじゃん、価値無いじゃん、なのである。えっへん。さて、労働力も一つの商品であり、しかも剰余価値(利益)を生む唯一の商品である以上、君たち労働者が、労働に歓びを見出せないとしても蓋し当然なのじゃ。尊師マルクスかく語りき。

 という訳で、ニーチェ(1844-1900)である。「超人」である。「神は死んだ」である。こちらが本家の『ツァラトゥストラかく語りき』である。ニーチェの多くの本は、短い断章の集まりであり、どこから読んでも構わないのは、忙しい現代人にとってまことに悦ばしい。これは本人が病気がちだったせいもあるかもしれないが、真実以外は一切書かないという自分への誠実さの結果である。体系=組織など嘘の塊だ、とニーチェは言う。今の自分を肯定せよ。家族だろうが、学歴だろうが、あるいは神だろうが、自分を支える根拠を、自分以外のものに求めるな、とニーチェは言うのである。今の君は本当に自分がしたいことをしているのか、自分を騙すな、と言われれば、もう十分に中年力(?)そなえた筆者など、少しタジタジとなるのだが、皆さんは如何でしょうか。

 さて二十世紀のドイツ哲学といえば、まずハイデガー(1890-1976)だ。ウィトゲンシュタインはイギリスへ行ってしまった。新カント派もフッサールの現象学も、ひとまず措いといて、ハイデガーだ。ハイデガー哲学のテーマは、ただ一つ、「存在」である。平たく言えば「ある」とは何か、である。「ある」ものが何か、ではない。ここは要注意。「ある」もの(=存在者)と、「ある」という事柄(=存在)とは、厳しく区別しなければならない。この二つを混同して、その上、精神ではなく物の存在を、「存在」の意味だと考えしまうと、「ある」という事柄が誤解される、とハイデガーは言う。むしろ「存在」とは、全ての「あるもの」をあらしめている働きである。(この働きの根源を、中世の神学者たちは「神」と呼んだ。)
 次に「ある」という言葉には、本屋さんに本「がある」という意味の「ある(現実存在existence)」と、これは万引きしてきた本「である」という意味での「ある(本質存在essence)」という二つの意味がある。(あちらの言葉では両方ともbe動詞。)哲学の歴史は、「何であるか」という本質存在だけを重視することによって、本当の「ある」の意味を平板化してきた、とハイデガーは言うのである。「存在」というこの単純で壮大な問いを、『存在と時間』を書いていた「前期」のハイデガーは、唯一「ある」ことの意味を問うことができる、人間の存在(=現存在)を通路にして、解明しようとした。おまけに前半しか書かなかったものだから、ハイデガーは「実存主義」だと誤解された。当然である。しかし「後期」のハイデガーは、オーソドックスな哲学のテキストを天才的な仕方で「解釈=改釈」することによって、哲学の歴史そのものを解体し再構築する作業に従事していたのであった。その影響力は今なお大きい。

 このハイデガーの弟子に、『真理と方法』で有名なガダマー(1900-)がいる。解釈学である。ついでに飛ばしてしまったが、新カント派の中には、カッシーラー(1874-1945)がいる。『シンボル形式の哲学』が有名だ。ここら辺りまでたった37分で詳しく説明しろと言うのは、申し訳無いが、皆さん、ちょっと図々しい注文ではないですか。

 さて、ドイツは悪名高いナチスを生んだ国でもあるが、社会哲学の分野でも、ヘーゲルとマルクスの伝統を継ぐ、フランクフルト学派を生んでいる。フランクフルトといえばソーセージだけではないのである。アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』、フロム(1900-80)の『自由からの逃走』、新しい世代では、コミュニケーション理論のハーバーマス(1929-)が有名だ。彼等は、フロイトの無意識の理論や社会学の理論をも活用して、硬直した権威を生む人間理性と社会構造の批判的分析を行った。人間の生活を不幸にしているものを個人と社会の内部から暴きだすのだ!

 良くも悪くも、このように生真面目で徹底的であるのがドイツ哲学の特徴だ。非常に取り付きは悪い。しかしそのラディカルな思索は、現代という時代について根本から考えようとする時には、今も多くのことを教えてくれる源泉であり続けている。


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