倫理学7

第7回(5月31日)

J.S.ミルの功利主義と自由主義

今回は、J.S.ミルの功利主義と自由主義。

John Stuart Mill (1806-1873)

父は有名な経済学者の、James Mill。区別するために、こっちは、J.S.ミル

ついでに、WEIRDの倫理も。

 

前回の課題について

次のテーマについて、400字程度で、述べなさい。

「君は、アメリカをテロから守るCTUCounter Terrorism Unit)という

大統領直属の組織のメンバーです。

あるテロリスト・グループが核爆弾をアメリカに持ち込んで、君をこう言って脅します。

『おい、ジャック、お前がお前の上司を殺すなら、核爆弾は発射しないでやる。

でも、断って上司を殺さなかったら、核爆弾をロスに向けて発射することになる。

50万人が死ぬことになるぞ。ただの脅しじゃないぞ。』

君がジャック・バウアーなら、どうしますか?」

 

「功利主義では、50万人を救うためなら1人を殺してもよい」と書いた人もいるでしょう。

それは功利主義についてよく持ち出される批判の一つです。

「多くの人の幸福のためなら、少数の人を不幸にしてもよい。」

という理論が功利主義だ、と。あるいは、

「功利主義は個人の人権を無視する」、と。

 

古典的なものとしては、「トローリー・トラック問題」があります。

「君はトローリー・トラックを運転して、高速道路を走っています。

すると目の前の道路に、5人の作業員が体を縛られて寝ているのが目に入ります。

急にブレーキを踏んでも大型トラックは急に止まらないので、

このままだと5人を轢いて殺してしまいます。

でも君はハンドルを切って右の追い越し車線の方に車を移動させることはできます。

そうすれば5人の命は助けられますが、でも、こちらにも一人の作業員が寝ています。

ハンドルを切ると、この人を殺すことになります。どうしますか?」

この問題は、功利主義を批判するために作られたような問題です。

「5人が死ぬより一人だけが死ぬ方が、より幸福の量が多いのだから、

功利主義者は右にハンドルを切ることが正しいと主張する」

と言って、功利主義はダメだと結論づけられることが多いのです。

 

でも本当にそうでしょうか?

まず、「一人が死ぬ方が善い」と言っている点です。善いことではない。

作業員が死ぬことも、君が作業員を結果的に殺すことも、悪いことです。

でも、どっちがましか、といえば、他の条件が同じなら、

5人が死ぬより、一人が死ぬ方が、より不幸が少ないという点で、ましです。

「まし」であることを、よりよいと言ってもよい。

だから5人が死ぬより1人しか死なないことの方がよい、と言ってもよい。

それは常識的判断です。しかし功利主義も常識的判断も、

5人を助けるために、一人を殺してよいと言っているわけではありません。

無理にどちらかを選べと言われたら、

不幸が少なくなる方を選ぶ、というだけのことです。

臓器移植で5人が助かるとき、健康な一人の人を殺して

その臓器を5人に移植してよい訳ではないのと同じです。

功利主義では、目の前の状況だけを見て、幸福計算してはなりません。

(この点については、後で考えます。)

 

次に、ハンドルを右に切るという動作が入ってくることで、

君が意図的に一人の人の死を選ぶという決断を入れている点がこの問題のずるい点。

もし、目の前の道の上に1人、右の車線に5人、寝ているとき、

ハンドルを右に切って5人を殺すという人はいません。

では、道が左右に分かれていて、

左の道には5人、右に道に1人という場合はどうですか?

左にハンドルを切るという人がいるでしょうか。

どちらかを選ぶしかないとき、より被害の少ない方を選ぶのは当然です。

ハンドルを切るという動作をさせることで一人が死ぬことを選ばせるのがトリック。

そもそも、こういう状況で、普通、人は選べません。

普通の人なら、頭が真っ白になり、何も出来ず、5人を轢いてしまうでしょう。

 

課題の、ジャック・バウアーの場合ですが、

普通に考えたら、上司を殺しちゃいけません。

でも50万人が死ぬのを見ていてもいけません。

正解はありません。

現実的に考えられるのは、「殺したふりをして時間を稼ぎ、

その間に犯人を見つける」という妥協策くらいでしょうか。

そんな結果になるのだろうと思って見ていると、

テレビ(「24」)では、ジャックは、上司を拳銃で撃って殺します。

上司は死んでしまいます。

それが正しい選択だとは誰も言えませんが、

ジャックの場合、国民をテロから守るのが仕事です。

殺される上司もCTUの一員ですし、

プロフェッショナルとして、

ジャックは、するべきことをした、という評価はあると思います。

トラック問題でも、運転手がプロなら、

1)なるだけ多くの人の命を救う

2)その他の損害をできるだけ最小限にする

という方針で、ハンドルを右に切る選択をするでしょう。

 

アメリカやヨーロッパでの原則は、

「テロリストとは一切の取引をしない」、です。

いろいろな意味があるのでしょうが、もし一度取引をすると、それが前例になってしまい、

次々と違法な取引を要求されることになることが懸念されるからでしょう。

ジャックが要求に応じて上司を殺したら、

次には、大統領を殺せ、という要求が来るかもしれません。

上司も大統領も、一人の人間としては同じです。

50万人の命を救うためなら一人を殺してよい」というルールを認めたら、

大統領を殺していいことになります。

だから規則功利主義(以下、述べます)に従って、

そういう取引には応じてはならないわけです。

それに、取引すれば、犯罪者に利益を与えることにもなります。

あるいは、犯罪に加担するとも言えます。

もし断ってミサイルが発射されることになるなら、

最初から取引しないでミサイルが発射された方がいいかもしれません。

 

 

J.S.ミルの功利主義

1)規則功利主義

「5人を助けるためなら一人を殺してもよい」という功利主義の誤解について、

それは誤解だと言い切れるのが、ミルの功利主義です。

ミルは、事実上、規則功利主義の立場に立っていた、と言えるからです。

規則功利主義(rule-utilitarianism

というのは、ミルではなく、20世紀の功利主義者たちの言葉です。

ベンサムの行為功利主義(act-utilitarianism)は、ある行為の結果を幸福計算しますが、

ミルは、その行為が基づいているルールを適用した結果の幸福を考えます。

「5人を助けるために一人を殺す」という一回の行為の結果ではなく、

「5人を助けるために一人を殺してよい」というルールが認められた場合の結果を考えるのです。

一回だけの行為の結果ならば善いとされる行為でも、

その行為が基づいているルールを適用した結果が善いと言えないことはよくあります。

例えば、授業中に学生さんが私の財布(教卓の上に置いてあります)から一万円を盗んで、

それに私がまったく気づかなかったという場合、

私に関しては、状態は変わらないのですから、プラス・マイナス・ゼロ、

学生さんは、幸福がプラスαになったとすると、

結果として、この行為は幸福の量を増やしているから、

善い行為だということになるかもしれません。

でも、これは功利主義の間違った使い方の代表で、

目先の狭い範囲だけで幸福を計算してはならないのです。

限定的な場面だけで直接的な幸福計算をすると、

とんでもないことでも、善い行為だということになってしまいます。

 

規則功利主義なら、

「授業中に間抜けな教師の財布から一万円を盗んでよい」

というルールを実行した場合の幸福を考えます。

その場合、みんながより幸福になるとは言えません。

盗んだ学生の幸福と、盗まれた教師の不幸が同じで、±0 だとしても、

泥棒が横行して、おちおち授業もしてられないという状態は、

みんなの不快が増えて、幸福は減ることになるからです。

もし私が、自発的に、貧乏な学生に一万円のお金を渡し、

このお金で何か美味しいものでも食べて栄養をつけなさい、と言うのなら、

全体の幸福が増えて、さすがに上村先生は立派な人だ、

ハズキルーペ、だあ〜い好き、尊敬する、ということになるでしょう。

次回に扱いますが、貧富の差を縮めるのは、一般的に善い行為です。

問題は、手段である、盗むという行為のもたらす結果です。

一般に犯罪行為は、仮に当人が幸福になったとしても、

被害者はそれと同じだけ不幸になるのですから、せいぜい ±0 の上に、

周りの人たちは不快になりますから、功利主義では悪い行為です。

トラック問題でも、「5人を助けるために1人を殺してよい」というルールを実行したら、

そのルールは他の場合にも適用され、

五人の臓器移植の希望者を助けるために、健康な一人の人を殺してもよいことにもなります。

誰でもその一人が自分である場合を考えますし、

「無実の人を他の人たちの利益のために犠牲にしてよい」というルールは、

普通の人が持つ正義感に反します。

長い目で見て、幸福を増やすとは考えられません。

(こういう風に言うより、「人を殺してよい」というルールは

普遍化不可能だからダメ、と言う方が簡単です。

「五人の人を助けるために」と条件をつけても

ダメなものはダメだ、と。でも、これは、カント。

規則功利主義は、カント的な功利主義です。)

広い視野で世界全体の幸福の量がどうなるかを考えるのが重要です。

功利主義の大きな問題点は、格差を肯定することだと言われます。

例えば、一人の人を奴隷にして、多くの人が幸せになるなら、

それは功利主義では善いことだと判断される、とか。

それでは奴隷制度を認めることになります。

規則功利主義は、それを是正する理論だ、と言うことは出来ます。

(格差の是正については、次回。)

 

2)快楽の質的差異

ベンサムの出発点である快楽主義を、ミルも、一応は受け入れます。

『功利主義論』で、ミルはこう言います。

「功利性、すなわち最大幸福の原理を、道徳の基礎として受け入れる信条は、

行為は幸福を促進するのに比例して正しく、

幸福に反することを生み出すのに比例して悪である、と主張する。

幸福とは、快楽および苦痛の欠如を意味し、

不幸とは、苦痛および快楽の喪失を意味する。」

しかし次に、「快楽」についてベンサムは誤解している、と批判します。

人間のよき快楽とは、肉体的欲望の満足ではない。

ベンサムは、「幸福」と「欲望の満足」という、全く違う観念を混同している。

だから「豚の快楽主義」だと非難されることになる。

快楽主義は、飲食や性的快楽など、感覚的な快楽を重視すると思われがちだが、そうではない。

ベッドの上でスイッチを押すと脳に快楽物質が流れ快楽を感じる<快楽機械>

(というものがあるとして、これ)に繋がれたまま人生を過ごすことを望む人がいるだろうか。

夏の暑い日に炎天下で野球の試合をするなんて、暑いし疲れるし、汗だらけ泥だらけになるし、

苦痛以外の何ものでもないかもしれない。

しかし、野球が好きな高校生なら、甲子園で試合をしたくない選手はいない。

野球をやってよかった、と最高の快楽を経験するだろう。

人間が本当に幸福を感じるのは、豚のように食べて寝ている時ではなく、

自分の持っている高い能力を実現した時である。

その快楽もまた快楽であるとするなら、快楽には質的な相違があることを認めなければならない。

そして、どちらにより高い価値があるかは、両方を経験した者には、自ずから明らかだ。

より高い能力を行使することから、より高い快楽が生まれる。

「ある種の快楽は、他の種類の快楽よりも望ましく価値があるという事実を認めることは、

功利性の原理と完全に両立しうる。」

「満足した豚であるよりは、満足しない人間である方がよい。

満足した愚か者であるよりは、満足しないソクラテスである方がよい。」

人間は理想(や向上心)を持つからこそ、現状に不満を持つのであり、

本当の幸福を求めて生きてゆく。

 

簡単に言うと、カント的な考え方を功利主義に取り入れたのがミルの功利主義です。

ミルの方がいいという人もいれば、ベンサムの方がシンプルでよいという人もいます。

ベンサムとミル、どちらの功利主義がよいか、

それを決めるのは、ア・ナ・タ、です!

(そういうTV番組が、昔あったような気がする。)

 

J.S.ミルの自由主義

ミルは、功利主義者としてより、自由主義を提唱した人として、有名です。

『自由論』(On Liberty, 1859)において、

カントの個人の自律(「自由=自己決定」)を継承して、

妥当な自由主義社会の理論を提示しました。

その翻訳、『自由之理』(中村正直訳)は、明治五年(1872)に出版され、

明治期以降の日本の自由民権運動にも大きな影響を及ぼしました。

 

ここでミルが扱っているのは、「社会的自由」です。

第一原則

個人には可能な限り多くの自由が与えられ、個人の自由は最大限に尊重されるべきだ。

しかし、それによって社会が成立するためには、いくつかの条件が必要になる。

第二原則

人間が他の人間の自由を正当な根拠をもって制限しうるのは、

「自己防衛(self-protection)」という目的の場合だけである。

結論

他者に害を及ぼす行為でなければ、個人が何をするもの自由である。

これを「他者危害の原則(harm-to-others-principle)」といいます。

 

ミルはこう言ってます。

「誰でも、自分の行為において、社会に従わなければならない部分は、

他人に関わりのある部分だけである。

自分自身だけに関わる部分においては、彼の独立は、当然、絶対的である。

個人は自分自身に対しては、すなわち自分自身の精神と身体に対しては、

その主権者なのである。」

 

ここから、有名な、三つの自由が導かれます。

『自由論』にはこう書かれています。

1)内面の自由

「最も広い意味での、良心の自由。思考と感情の自由。

現実的および理論的な、科学的、道徳的、宗教的な、

すべての問題についての意見と感情の絶対的自由。」

つまり、何についても、何を考え、何を言ってもよい、という自由です。

ただし、その発言が他人に害を与える場合は、別です。

昨年、ネットでの中傷に傷ついて自殺したプロレスラーがいました。

人が何を考え、何を言おうと、それは自由ですが、

人を死に追いやるような、他者危害の発言は、許されません。

しかも匿名で自分を安全な所において言葉で人を殴るなど、最低です。

面と向かってなら言えないことでも、ネットでなら言える、というのがネットの怖い点です。

 

2)「好み(tastes)」および「目的追求(pursuits)」の自由

「自分の行為によってもたらされる結果を自分で引き受けるかぎり、」(=「自己責任」)

「我々の行うことが我々の同朋を害しないかぎり、」(=「他者危害の原則」)

「たとえ人が我々の行為を愚かであるとか、頑固でひねくれているとか、

間違っているとか、考えようとも、」(=「愚行権」)

「他人から邪魔されずに、自分の好きなように、

自分の性格にあった生活を計画・設計する自由がある。」

)が心(意識)の自由なら、2)は、意志と行動の自由です。

どんなことをしたいと思っても、またそれをするのも、自由です。

NHKの朝ドラ「エール」の主人公は、いまは銀行に勤めていますが

本当は音楽が好きで、作曲家として身を立てたいと思います。

でも音楽で生活するなんて、運よく成功した一部の人だけができることです。

銀行に勤めていれば、安定した生活が約束されています。

当然、親は反対します。

君が主人公の古関裕一くんなら、きっとこう言うでしょう(福島弁で)。

「僕は、音楽が好きだから、音楽で生活したいんだ。

もし上手くいかなくっても、自分のせいなんだから、誰も恨まないよ。

て、ゆーかー、銀行に無理やり行かされたら、俺、父さんを恨むかもしんないよ。

いーじゃん。誰にも迷惑かけないんだし、

て、ゆーかぁ、音楽でみんなを幸せにしたいんだし、

父さんは、僕を、バカだ、どうかしてるって思うかもしんないけど、

許してよ。」

いまなら誰でも言うような、この考え方は、ミルが定式化したものです。

いまでは、当たり前すぎて、誰でも納得せざるを得ない議論です。

「誰に迷惑かけるわけでもないんだから、

裕一には好きなことをやらせてやろう。」

と、最後には諦めて、父親も言うでしょう。

(ドラマでは一番反対するのは父親ではなく母親の菊池桃子です。)

 

3)個人間の団結(combination)の自由

「他人に危害を及ぼさないかぎり、

いかなる目的のためにも団結することも、自由でなければならない。」

団結と言うと、ちょっとアレですが、集まって何かをするということです。

秋葉原に集まって、地下アイドルを応援するとか、

Black Lives Matter」と言いながら、街中をみんなで歩くとか。

ここでも、他者危害原則が前提になります。

デモは自由ですが、そのどさくさに紛れて、略奪行為などしてよいはずがない。

また、マスクをせずに密集するという行為は、人にコロナウイルスをうつして

危害を与える可能性のある行為だと、私は思います。

 

明治時代には、1)思想と言論の自由、2)職業の自由、3)結社の自由、

みたいに言われました。すごく単純化すれば、そういうことですね。

 

昨年、これを書いているときに、世間で話題になっていた、渡部氏の不倫について、一言。

結婚しているということは、浮気はしないと約束していることになりますから、

妻の希さんを傷つけたという点で、彼がやったことは悪いことです。

また、女性を「性のはけ口」として扱ったと言われていますが、もしそうなら、

「他者を手段としてだけ扱うな」というカントの尊厳法則にも反します。

しかし、それは当事者たちが判断する問題なのではないでしょうか。

不倫相手たちに愛情がなかったというのは、他人が批判する問題でしょうか?

当人たちにしか分からないことです。

1)内面の自由)

相手の女性たちも暴力を振るわれたわけでもありませんし、

渡部氏が結婚していることを知らない人はいません。

お互いに自分の自由な意思で、二人が合意して行ったことなら、

他人が見て愚かなことでも、やってよいというのがミルの理論です。

3)愚行権)

多目的トイレに呼び出して不倫したと言われていますが、

1)その階の多目的トイレを利用しようとしている人がいないことをよく確認し、

2)5分くらいで済ませた、

というのですから、多分、誰にも迷惑はかけていません。

(→2)他者危害原則)

多目的トイレなのですから、何に使おうと自由です。

トイレで弁当を食べるより、ずっといい。

(私は着替えをするためにトイレを利用することがよくあります。)

いつも一万円渡したというのも、普通に考えれば、

「急に呼び出してすまないね、これタクシー代」

くらいの意味でしょう。

愛情問題は、個人のプライヴァシーの問題です。

むしろ他人のプライヴァシーに干渉する事の方が、悪いことです。

当人同士の問題は、当人たちに任せて、放っておけ、

相談されてるわけでもないのに、他人が余計な口出をするな、

というのが、自由主義者のとる正しい態度でしょう。

 

自由主義と功利主義は相性のよい理論です。

多くの人に多くの自由を与えれば、人は自分の幸福を求めて自由に活動し、

各人の満足が増えることによって、全体の幸福も増大するからです。

いま、ここに、人を鞭でしばき回すことに快楽を感じる女王様がいたとします。

また、女王様から鞭でしばき回されることで快楽を感じるブタ男がいたとします。

100年ほど前までなら、二人とも犯罪者として捕まったかもしれません。

この二人がネットで出会って、誰にも迷惑を掛けず、

「このブタ!」「ああっ、女王様っ!」とか言いながら、

二人とも幸せになる(ブタの快楽主義!)

そのどこが悪いのでしょうか?

(『功利主義論』の立場では柔らかに否定されますが、

『自由論』の立場では肯定されます。)

 

しかし本当に他人に迷惑をかけなければ何をするもの自由なのか、

よく考えると、単純に答は出ません。

続きは次回。

 

 

WEIRDな倫理(課題)

次のテーマについて、この家族を道徳的に非難するべきかどうか、400字程度で述べなさい。

「飼っていた愛犬が自宅の前で車にひかれて死んだ。

「犬の肉は美味しい」と聞いていたこの家族は、

死骸を切り刻んで料理して、こっそり食べてみた。」


→資料集

→村の広場に帰る