倫理学10

10回(6月21/22日)

 

続・環境倫理

「環境倫理」というと、ゴミはリサイクルしましょう、とかいう話だと思う人もいるでしょう。

違います。「個人の自由」の制限という、もっと原理的な話です。

環境庁が7月から施行したレジ袋の有料化なんて、何の意味もないと私は思います。

以前からレジ袋有料の、西友とかOKとか、ありますし、放っておけばいいんです。

環境庁の実績をアピールするためだけの、無駄な法律としか思えません。)

今回は、地球全体(有限)主義(globalism)と世代間倫理。

ついでに、リサイクル(笑)とディープ・エコロジー。

地球とか人類全体とか未来の世界という観点から見た場合に、

個人の善い生き方は、どういう風に考えられるか、という話です。

 

前回の課題

君は環境庁長官、小泉進次郎です。レジ袋の有料化について、清水化学工業から、

次のような意見が届きました。環境庁長官として見解を述べなさい。
「1.ポリエチレンは理論上、発生するのは二酸化炭素と水、そして熱。ダイオキシンなどの有害物質は発生しない。
.石油精製時に(ポリ)エチレンは必然的にできるので、ポリエチレンを使用する方が資源の無駄がなく、エコ。

ポリエチレンは石油をガソリン、重油等に精製した残り・余りもの。
.ポリ袋は薄いので、資源使用量が少量で済む。
.ポリ袋は見かけほどごみ問題にはならない。目に見えるごみの1%未満、自治体のごみのわずか0.4%。
.繰り返し使用のエコバッグより、都度使用ポリ袋は衛生的。
.ポリ袋はリユース率が高い。例)レジ袋として使用した後ごみ袋として利用
さらに、環境省のデータでは海洋プラごみの容積で見ると、ポリ袋は全体の0.3%。」

 

無茶な課題を出してしまいましたが、回答は、二つあります。

一つは、正論。

「仰る通りです。

レジ袋は、石油のごみをリサイクルして作られている、エコ製品です。

海の汚染も、ペットボトルに比べれば、ほとんど害はありません。

ポリ袋を使う方がエコだということが、よく分かりました。

レジ袋の有料化なんて、間違いでした。

余計な法律なんか作ってしまってすみません。」

人としては、これが正しい。

そもそも法律なんて必要最低限のものに留めるべきです。

もう一つは、環境庁長官として、公式見解を繰り返すことです。

「仰ることは、ごもっともです。よく検討させていただきます。しかし、

海のプラスチックごみを減らすため、ああたら。

国民に環境への意識を、こうたら。」

社会人としては、こちらの方が正解かもしれません。

環境庁のやってることを長官が否定してはいけないですよね。

あと、力業で、この二つを矛盾なく統合するという夢のような方法もありますが、

まあ、厳しいでしょう。

 

 

「人類の危機」レポート

さて、環境倫理。コロナ・ウイルスは、環境問題に似てます。

個人個人のどうでもよいような行動が、世界全体の危機を生む一方、

自分だけでは無理で、社会全体でなければ解決できない問題でもあります。

社会全体の幸福のためには、マスクをしない権利なんて認めない。

地球全体の環境保全のためには、個人の自由の制限も仕方がない。

似てますよね。

 

環境問題は、前世紀の70年代ころから、世間の注目をひく問題になってきました。

1970年頃は、日本では高度経済成長が終わって、その負の遺産として

「公害」と呼ばれた、企業による環境破壊が現実的な問題として表面化してきたのです。

当時の東京は、今の中国の北京のように、空気は濁っており、川の水は臭くて、

今から見ると、酷い環境でした。呼吸器系の病気も多かった。

家庭や工場の汚水が、そのまま川に流され、車や工場の排ガス規制も緩かったので、当然です。

それらを少しずつ改善していった結果、今の、まあまあの環境があります。

 

世界では、ローマ・クラブによって提出された『人類の危機レポート』(1972)が、ショックを与えました。

『成長の限界』と名づけられたこのレポート(ウィキペディア「成長の限界」amazon)は、

二十一世紀前半に人類の成長は終わる、というショッキングな結論とともに、

環境問題への取り組みが緊急の課題であることも、人類に警告しました。

もちろん、今となっては、間違っている箇所も少なくありませんが、

その基本的な主張は、今でも考えるべき課題であり続けています。

例えば、アルミニウムや鉄や石油など、天然資源がどれほど使えるかを計算すると、

どれもせいぜい50年程度、という結論が出るのです。

(計算の仕方には、現在の埋蔵量を年間使用量で割る、単純な方法と、

使用量がどんどん増えていくことを加味して計算する方法と、二通りあります。

どちらにしても、主要な天然資源は21世紀初めに枯渇するのです。)

そして、それ以上に興味深いのは、資源の枯渇など気にしなくてよい、という結論です。

資源がなくなる前に、地球環境の悪化で、人類は成長を止めることになるからです。

環境問題ファースト。それがこのレポートのもう一つの結論です。

 

この本は、30年後に改訂版が出されました。それが、『限界を超えて』(1992 amazon)です。

ここで新しく打ち出されたのが、

オゾン層の破壊への取り組み

持続可能な成長のシステム

です。後で述べます。

 

共有地の悲劇

先週まで、主として扱ったのは「自由の倫理」でした。

個人の自由を認めることが、社会の活力を生み、社会全体の幸福(=最大幸福)をもたらす

という考え方が、基本でした。

しかし、そうはならないケースもあります。

共有地の悲劇というモデルを考えてみましょう。

ある村で、農民たちが牛を飼っています。村の共有地は誰でも自由に使えます。

 

「合理的な人間として、各々の牧夫は彼の利得を極大化しようとする。明示的にあるいは暗黙のうちに、意識的にあるいは無意識に、彼は次のように自問する。「私の群にもう一頭加えると、私にいかなる効用が生ずるか」。この効用は、正負それぞれ一つずつの成分からなる。

一 正の成分とは、一頭の牛の増加という要素である。牧夫は、増えた一頭の売却による利益をすべて手に入れるから、正の効用はほぼプラス1である。

二 負の成分とは、その一頭のために付加された、「過度の放牧」という要素である。しかし、過度の放牧の効果はすべての牧夫によって負担されるから、決断を下そうとするある特定の牧夫に対する負の効用は、マイナス1の数分の一にすぎない。

これらの効用の成分を加算して、合理的な牧夫は、彼が取るべき唯一の行動はもう一頭を群に加えることだ、と結論づけることになる。そして、もう一頭、もう一頭……と。しかしながら、共有地を分け合っているすべての合理的な牧夫が、このような結論に達するのである。(中略)共有地についての自由を信奉する共同体において、各人が自らの最善の利益を追求しているとき、破滅こそが、全員の突き進む目的地なのである。共有地における自由は、すべての者に破滅をもたらす。」

(ギャレット・ハーディン「共有地の悲劇」桜井徹訳;『環境の倫理』所収)

 

環境汚染や人口問題に、こうした「共有地の悲劇」の実例が見られます。

地球温暖化とか、資源の枯渇とか、誰も自分に責任があるなんて思いません。

いま、海洋資源(魚です)の枯渇が心配されています。

マグロとかサンマとか、あと数十年で絶滅するという報告があります。

昔は、サンマなんて日本人以外はあまり食べませんでしたから、たくさん獲れました。

でも和食が世界に広まったこともあり、マグロやサンマなども食べる国が増えました。

公海で魚を獲るのは自由です。中国の漁船など、根こそぎ獲っていきます。

中国に止めてくれと言っても、止めることはありません。

日本こそ、これまで山ほど獲って来たじゃないか、と言われるだけです。

(ここでコロナのどさくさに紛れた中国の海洋進出について書くのは自制します。)

 

ちなみに、ハーディンは、これに続いて、

「われわれが今認識せねばならない、もっとも重要な必要性とは、

出産ということに関わる共有地を放棄することの必要性である。」

と言っています。

「出産ということに関わる共有地」と言われても、ピンと来ないでしょうが、

人口問題のことです。

子供を生む権利は、個人の自由の最も基本的なものの一つです。

それを制限しなくてはならない、と言うのです。

 

「もし世界が100人の村だったら」というかつて世界を駆け巡ったメールがあります。

(その原型は、『成長の限界』の著者の一人、ドネラ・メドウズの論文です。)

そこではこう言われています。

20人は栄養不足で、1人は飢え死にしそうですが、15人は太りすぎです。

この村の全ての富を、6人が59%持っていて、74人が39%を持ち、20人が残りの2%を分け合っています。

この村の全てのエネルギーのうち、20人が80%を消費し、80人は残りの20%を分け合っています。

一年で、村では1人が死にますが、一年で2人が生まれます。

ですから来年は村人の数は101人になります。」

 

環境問題の一番大きな原因は、人口問題です。

いま地球上に、73億ほどの人間が生きていますが、人口は毎年1億人ほど増え続けています。

地球は、それだけの乗組員を乗せられるほどの大きな船ではないかもしれません。

 

救命艇状況

ついでに、ハーディンの議論をもう一つ見てみましょう。

豪華客船タイタニックが沈没して、100人もの人が溺れて助けを求めているとします。

そこに一隻だけ、救命ボートがあります。

乗れるのは20人で、あと何人かは乗れるとします。

どうすればいいでしょか?

考えられる選択肢は、次のどれかでしょう。

 

1)  ヒューマニズムの立場から、全員乗せる。

人間の尊厳とか平等とか、考えると、これが正解。

でも、救命ボートは転覆し、ほぼ間違いなく、全員が死ぬことになるでしょう。

)  できる限り多くの人を乗せる。

次善の策は、これです。

でも、船が転覆したり、水や食料が足りなくて、全員が死ぬ危険性もそれだけ高まります。

1)と同じくらい危険です。

)  定員いっぱいまで乗せる。

乗客の安全を確保するためには、2)より、こっちが善い。

でも、誰を選ぶのか、という問題が生じます。早い者勝ちなら混乱状態に陥るでしょう。

他人を押しのけてでも乗ろうとするような人が助かることになるかもしれません。

4) 利他主義や功利主義的立場から、人々の良心に訴え、乗る人を選ぶ。

つまり、各人の良心に訴えるわけです。みんなが納得してくれるのが一番よい。

でも、そうすると、性格のよい利他主義者が犠牲になり、性格の悪い利己主義者が生き延びることになります。

倫理的な観点からは最悪の結果かもしれません。

5) 今乗っている人だけに限り、これ以上乗せない。

可能な解決策は、これしかない、とハーディンは言います。

誰を選ぶか選択ができない以上、これ以上誰も乗せない、ということです。

 

ハーディンの結論が正しいかどうか、私は疑問に思います。

実際には、3)になるでしょうし、

(今世紀のうちに人口は120億人ほどになり、それ以上は増えないだろうと考えられています。)

4)も功利主義者なら、なるべく多くの命を救うという観点から、

生き延びる可能性が高くなる者を選んで乗せるべきだ、と考えるかもしれません。

そうすると体力のある大人や、子どもを生む若い女性が優先されるかもしれません。

(トリアージの話を思い出してください。)

 

これは誰に生き延びる権利があるのかという問題ではありますが、

そもそも、人口問題とこの救命艇問題は、うまく重ならないのでは!?

現実には、先進国の人口増加は止まっています(日本では減っています)し、

発展途上国も、現在では人口が増加していますが、

今世紀中に増加は止むと考えられています。

人口が増えるのは、生まれる子供の数が多いからですが、

生活水準が向上し、医療と教育が普及し、幼児死亡率が下がれば、

おのずと子供の数も減っていくことが予想されるのです。

だから上の選択肢なら、2)か3)です。

宇宙船地球号の場合も、船が転覆しないように、

世界中で協力して対策を考えていくしかないのではないでしょうか。

そうした地球規模の対策も、少しづつ、行われてきています。

 

環境問題の二つの対策

成功した例と、たぶん失敗している例を見ておきます。

(1)オゾン層の破壊

オゾンはO、酸素O2が紫外線を吸収して、オゾンになります。

成層圏にあって層を作り、紫外線から生物を守っています。

フロン・ガス。知ってますか?

昔は、冷蔵庫やエアコンの冷却材として、あるいはいろんなスプレーに、大量に使われました。

安定した物質ですから使い勝手はよく、人体には無害です。

でも安定した物質ですから、分解されにくく、地球には有害でした。

成層圏に集まってオゾン層に穴を開けたのです。

南極の上空に、大きなオゾン・ホール(→ウィキペディア「オゾンホール」)があります。

これが増え続けると、紫外線が吸収されず、生物にダメージを与える結果になります。

紫外線はDNAを破壊します。生物には有害です。

幸い日本人は少ないのですが、白人には多い皮膚ガンの原因になります。

そこで、カナダのモントリオールで世界会議が開かれ、

モントリオール議定書(1987)が採択されました。

ィキペディア「モントリオール議定書」

先進国は1996年までに、フロンガスの製造・販売・使用を撤廃。

発展途上国も、2015年までに撤廃。

その後の会議で、代替フロンも規制されています。

その後、オゾン・ホールは、縮小しています。

中国でオゾンが放出されているという報告もありますが、大勢に影響はないようです。

  

(2)地球温暖化

いまlこれを書いている7月7日には、九州で大雨が降り続いて、各地で被害が発生していますが、

毎年のように、何十年かに一度というレベルの災害が、あちこちで起こってます。

異常気象による被害は、世界中でおこっており、その原因として、地球温暖化を疑わない人はいないでしょう。

COによる地球温暖化の対策は、

京都議定書(1997年)ウィキペディア「京都議定書」

(京都議定書では、最大のCO排出国である、アメリカと中国が不参加なのがまず問題。

CO2の排出権の売買を認めたのも、金を払えば出していいことになるから、大きな問題。)

パリ協定(2015年)ウィキペディア「パリ協定

がその代表です。上手くいっているとは思えません。

もう説明はいいでしょう。リンク先を見てください。

 

 

世代間倫理

「うちのお父さん、頭チョー古いから、高校生はバイト禁止、男女交際禁止、とかゆってるの」

それは、世代間倫理とは関係ありません。

というか、昔は親と子で、倫理観が違ったものだけど、

最近は、親と子で、倫理観や価値観があまり違わない、と言われています。

――だから、それは、世代間倫理とは無関係だって言ってるのに。

現世代は未来世代の生存に対して責任を負う」という立場が、世代間倫理です。

『成長の限界』でも言っているように、我々は資源をどんどん使っています。

もし我々が、自分たちの世代で石油を使い尽くし、次の世代には、

石油でしか動かない自動車というゴミの山しか残さないのであれば、

あるいは石油を燃やしすぎたせいで、地球温暖化が激化し、地上に住めない、ということになれば、

それは未来世代に対する犯罪行為だ、と言いたくなるでしょう。

その未来世代は、まだ生まれていないかもしれません。

存在していない人の権利など、誰も考えてくれません。

「最大多数の最大幸福」と功利主義者が言っても、

今の自分達の最大幸福を考えますから、未来世代の幸福は、考慮に入りません。

だから「最大期間にわたる、最大多数の最大幸福」という修正が必要です。

もう存在しない過去の人に対しても、我々は倫理的義務を感じます。

まだ存在しない未来世代に倫理的責任を感じない理由もありません。

まだ存在しないとしても、子供や孫の世代の幸福を考えないでよい理由はないのです。

 

これを実現する方法の一つが、「持続可能な(sustainable)」自然の利用という原則です。

 

石油の埋蔵量

1972年の『成長の限界』では、石油の埋蔵量は4550億バーレル、可採年数は31年です。

その41年後、2013年の時点で、世界の可採石油埋蔵量は、16881億バーレル、

これをこの年の採掘量(316.8億バーレル)で割ると、可採年数は、53.2年になります。

石油はなくなるどころか、埋蔵量が増えています。

そして、この後、アメリカでは、「シェール石油」革命が起こり、埋蔵量はさらに増えることになるのです。

石油はもう無くなったはずのアメリカが、今では石油を輸出しています。

昔考えられていたよりも、石油は豊富だったのです。

でもだからといって、このまま石油を使い続けていい、というわけではないでしょう。

資源は有限だから、いつかは無くなる。

では、どうすればいいか。

自動車は電気自動車に置き換えていくしかないでしょう。

そして、エネルギー源を、少しずつ、太陽光発電とか、風力発電とか、自然エネルギーにシフトしてゆくのです。

具体的に言えば、石油を使うとき、石油税という税金を取ります。

そのお金は、ソーラーパネルの開発費や製造料に回します。

そうして100年後に石油がなくなった時には、代わりに電気自動車が走っている、という風に変えていくのです。

 

持続可能なシステム

 

『限界を超えて』では、経済学者のハーマン・デイリーが定式化した、

持続可能な(sustainable)資源の利用の条件を採用しています。

ゆっくり読んでください。

 

1)再生可能な資源(土壌・水・森林・魚など)の利用に関しては、その再生速度を超えてはならない。

  (例えば魚の場合、残りの魚が繁殖することで補充できる程度の速度で捕獲すれば持続可能である。)

2)再生不可能な資源(化石燃料・鉱石・深層地下水など)の利用に関しては、再生可能な資源を持続可能なペースで利用することで代用できる速度を超えてはならない。

  (石油を例にとると、埋蔵量を使い果たした後も同等量の持続可能なエネルギーが入手できるよう、石油使用による利益の一部を自動的に太陽熱収集器や植林に投資するのが、持続可能な利用の仕方ということになる。)

3)汚染物・廃棄物の排出に関しては、環境がそれを吸収・同化できる速度を超えてはならない。

(ドネラ・H・メドウズ+デニス・L・メドウズ+ヨルゲン・ランダース『限界を超えて』茅陽一監訳より)

 

自分で考えれば分かるでしょうから、細かい説明は省きます。

 

「リサイクル」は、環境問題のキーワードの一つです。

1)2)の資源を再生させることであり、3)のゴミ問題を解決する鍵の一つでもあります。

 

地球は、物質的には、閉じた有限なシステムです。

(エネルギー的には、解放システムです。えっ、e=mc? 物質とエネルギーは同一?)

その中で自然のサイクルが循環しています。したがって、

() 自然のサイクルで循環するものは自然の手に任せる。

() 自然のサイクルに乗らない人為的廃棄物は、人間の手で再びサイクルに乗せる(=リサイクルする)必要がある。

() 人間の手によってもリサイクルできないようなゴミは、入り口の段階で防止する、つまり、最初から使わない。

 

リサイクル先進国ドイツの環境政策はこうした原理で動いているように見えます。

プラスチックのようなリサイクルしにくい素材には高い使用料が科せられるし、

プルトニウムのようにリサイクル不可能なゴミを生む原子力発電は、最初から使うのを止めよう、という方針です。

廃棄物が勿体無いから再利用する、というのではなく、

最初から再利用できるものだけを使用する、という原則が根本にあるように思えます。

 

 

ディープ・エコロジー

 

環境問題を踏まえると、個人の倫理は、どうなるのでしょうか?

ノルウェーの哲学者、アルネ・ネス(Arne Naess 1912-2009)が代表者。

1972年の第三回世界未来会議での講演

「浅いエコロジー運動と、長期的視野の深いエコロジー運動」

The Shallow and the Deep, Long-Range Ecology Movement

で、ネスはこう言います。

従来の環境思想は、考えが浅かった。エコロジーといっても、浅いエコロジーだった。

最近盛んになってきたリサイクル運動や地球温暖化の防止など、我々が行っている環境保全への働きかけは、

1)大量生産と大量消費に基づく豊かな生活を維持しながら自然環境を保全することは可能であり、

2)継続的な経済成長は良いものである

という暗黙の前提の上に成り立っている。

つまり、現在の豊かな生活水準を保ちながら、それを出来るだけ長引かせたい

というのが「持続可能性」という主張であり、

リサイクルしているのだから大量消費してもよいのだという言い訳が「リサイクル」運動である。

それが上手くいっていないのは、現在の豊かな生活を前提にしている、その出発点に問題があるからだ。

自分の生き方そのものが変わらなければ、未来はない。

人間を中心にして自然環境との共生を目指す<浅い>エコロジーの思想に対して、

人間中心主義を否定するのが、<深い>エコロジー、ディープ・エコロジー(deep ecology)である。

 

1984年にネスとセッションズ(Sessions)によって作られた、

ディープ・エコロジーのプラットフォームは次のようなものです。

 

ディープ・エコロジー運動の基本原則(Platform

(一)地球上の人間とそれ以外の生命が幸福にまた健全に生きることは、それ自体の価値(本質的な価値、あるいは内在的な固有の価値といってもよい)を持つ。

この価値は、人間以外のものが人間にとってどれだけ有用かという価値(使用価値)とは関係のないものである。

(二)生命が豊かに多様なかたちで存在することは、第一原則の価値の実現に貢献する。また、それ自体、価値を持つことである。

(三)人間は、不可欠の必要を満たすため以外に、この生命の豊かさや多様性を損なう権利を持たない。

(四)人間が豊かにまた健全に生き、文化が発展することは、人口の大幅な減少と矛盾するものではない。

一方、人間以外の生物が豊かに健全に生きるためには、人間の数が大幅に減ることが必要になる。

(五)自然界への人間の介入は今日過剰なものになっており、さらに状況は急速に悪化しつつある。

(六)それゆえ、経済的、技術的、思想的な基本構造に影響を及ぼすような政策変更が不可欠である。

変革の結果生まれる状況は、今日とは深いレベルで異なるものになる必要がある。

(七)思想性の変革は、物質的生活水準の不断の向上へのこだわりを捨て、生活の質の真の意味を理解する(内在的な固有の価値のなかで生きる)ことが、おもな内容になる。

「大きい」ことと「偉大な」こととの違いが深いところで認識される必要がある。

(八)以上の七項目に同意する者は、必要な変革を実現するため、直接、間接に努力する義務を負う。

(アラン・ドレングソン/井上有一共編『ディープ・エコロジー』井上有一監訳より)

 

人間の数を大幅に減らす、とか、自然への介入を止める、とか、

たぶん、菜食主義だろうし、エアコンなんか使うなって言われそうだし、

ラディカルすぎて、ちょっとついてゆけない、という気がするかもしれません。

それはそうです。人間中心主義の否定ですから。

 

環境倫理には、ちょっと宗教的なところがあります。

「神」ではなくとも、「地球」「宇宙」「生の流れ」といった絶対的な価値を前提にするからです。

だから、例えば、真摯な仏教徒なら、こうした考え方に違和感はないかもしれません。

 

また、現実的に、どこまでできるのか、という疑問もあるでしょう。

でも、前回も言いましたが、倫理の問いでは、できるかできないかはひとまず置いて、

今の自分と別の立場に立って考えてみるというのも大事なことです。

 

次回は、ニーチェと神の死、ついでに、アンスコムの徳の倫理。

 

 

課題

「共有地の悲劇」を防ぐ方法について、具体的に考えなさい。


→資料集

→村の広場に帰る