デカルト
René Descartes ( 1596-1650 )

デカルトの肖像

デカルトといっても何のイメージも湧かない人のために写真を入れてみました。
(フランス・ハルス画 ルーブル美術館所蔵)


デカルト―近代的思考の定礎
        (「私」からの出発と機械論)

  1. 知識の基礎
    「書物による学問」から「世界という大きな書物」へ
    全ての知識は、感覚(直接の経験)か言葉(理性=推理の能力)に由来する、と考えられる。
    a) 感覚
    b) 推理(判断)―数学の証明
  2. 第一原理
    a) 方法的懐疑
    b) コギト(cogito ergo sum)
    c) 明証性の規則
  3. 精神と物質の二元論
    精神と物質は二つの独立した実体。精神の本質は「思考」、物体の本質は「延長(広がり)」。
    物体の本性は、感覚によってではなく、思考によって知られる。
    身体もまた物質であり、精密な機械である。
    松果腺;情念の分析(情念は、愛・憎・驚き・欲望・喜・悲という六つの基本的原子に分解される)
  4. 新しい道徳と暫定的道徳
    自然に関する学問(natural science)だけでなく、人間に関する学問(moral science)も、その基礎から作り直されるべきである。
    (時や場所を越えて通用する「理性の道徳」―それを理論化したのは、カントである。)
    四つの格律からなる仮の道徳

『方法叙説』(Discours de la Méthode)

第一章
良識( bon sens) はこの世で最も公平に分配されているものである。というのは、誰でもそれを十分に与えられていると思っているので、他の全てのことではめったに満足しない人々でさえも、良識については、自分が持っている以上を望まないのが普通だからである。この点で全ての人が誤っているということは、ありそうにない。むしろこれは次のことを証明している。すなわち、よく判断し、真なるものを偽なるものから区別する能力、これが本来良識または理性と呼ばれているものだが、これは全ての人において生まれつき相等しいこと、したがって、我々の意見がばらばらであるのは、我々のうちの或る者が他の者よりもより多く理性を持つから起こるのではなく、ただ我々が自分の考えをいろいろ違った道によって導き、また我々の考えていることが同一のことではない、ということから起こるのだということ、である。というのは、良い精神を持っているだけでは不十分であり、肝心なことは精神をよく用いることだからである。最も大きな心は、最も大きな善行をなしうるだけでなく、最も大きな悪行をもなしうるのであり、また、ゆっくりとしか歩かない人でも、いつも正しい道を取るならば、走っている人が正しい道から逸れる場合に比べれば、遥かに先へ進みうるのである。

私は幼少の頃から書物による学問で育てられ、それによって、人生に有益なあらゆる事柄の、明らかな確実な認識を得ることができると言い聞かされてきたので、それを学ぼうという非常な熱意を抱いていた。しかしながら、学業の過程を全て終えて、人並に学者の仲間に入れられるや否や、私の考えは全く変わった。なぜなら私は多くの疑いと誤りとに悩まされ、知識を得ようと努めながらかえっていよいよ自分の無知を露わにしたという他には、何の利益も得られなかったように思われたからである。

こういうわけで私は、成人に達して自分の先生たちの手から解放されるや否や、書物の学問を全く捨ててしまった。そして、私自身のうちに、あるいはまた世界という大きな書物のうちに、見いだされうる学問のほかには、もはやいかなる学問をも求めまいと決意して、私は青年時代の残りを旅行に用い、あちこちの宮廷や軍隊を見、さまざまな気質や身分の人々を訪れ、さまざまな経験を重ね、運命が私に差し出すいろいろな事件の中で私自身を試そうとし、至る所で、自分の前に現れる事物について反省してはそれから何か利益を得ようと努めたのであった。

四つの規則
こうしたことから私は、[論理学、解析、代数という]これら三つの学問の長所を兼ねながら、その欠陥を免れているような、何か他の方法を求めねばならぬと考えた。そして例えば、多くの法律があることがしばしば悪行に口実を与えるものであり、国家がわずかの法律しか持たず、しかもそれが極めて厳格に守られている場合の方が、はるかによく治まっているのであるから、私は、論理学を構成するあの多数の規則の代わりに、たとえ一度でもそれから外れないという固い不動の決心をさえするならば、次に述べる四つの規則で十分であると信じた。

第一は、私が明証的に真であると認めたうえでなくてはいかなるものも真として受け入れないこと。言い換えれば、注意深く速断と偏見とを避けること。そして、私がそれを疑ういかなる理由も持たないほど、明晰にかつ判明に、私の精神に現れるもの以外の何ものをも、私の判断のうちに取り入れないこと。

第二、私が吟味する問題の各々を、できる限り多くの、しかもその問題を最もよく解くために必要なだけの数の、小部分に分かつこと。

第三、私の思想を順序に従って導くこと。もっとも単純で最も認識し易いものから始めて、少しずつ、いわば段階を踏んで、最も複雑なものの認識にまで登って行き、かつ自然のままでは前後の順序を持たぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。

最後に、何物をも見落とすことがなかったと確信しうるうほどに、完全な枚挙と、全体にわたる通覧を、あらゆる場合に行うこと。

暫定的道徳
さて最後に、自分の住む家の建て直しを始めるに先立っては、これを壊したり、建築材料や建築家の手配をしたり自分で建築術を学んだり、その上もう注意深く設計図が引いてあったりする、というだけでは十分ではない。建築にかかっている間も不自由なく住める他の家を用意しなければならない。これと同様に、理性が判断において非決定であれと私に対して命ずる間も、私の行動においても非決定の状態に留まるようなことをなくするため、そしてすでにその時からやはりできる限り幸福に生きるために、私は暫定的に幾つかの道徳の規則を自分のために定めた。それは三つ四つの格率からなるものにすぎないが、それを読者にもお伝えしておきたい。

第一の格率は、私の国の法律と習慣とに服従し、神の恩寵により幼児から教えこまれた宗教をしっかりと持ち続け、他のすべてのことでは、私が共に生きてゆかなければならぬ人々のうちの最も分別ある人々が、普通に実生活においてとっているところの、最も穏健な、極端からは遠い意見に従って、自分を導く、ということであった。

私の第二の格率は、私の行動において、できる限りしっかりした、またきっぱりした態度をとることであり、いかに疑わしい意見でも、一旦それをとると決心した場合は、それがきわめて確実なものである場合と同様に、変わらぬ態度で、それに従い続けること、であった。どこかの森に迷い込んだ旅人が、あちらへ向かったり、こちらへ向かったりして迷い歩くべきではなく、いわんやまた一つの場所に留まっているべきでもなく、常に同じ方向に、できる限り真っ直ぐに進むべきであって、その方向を彼らに選ばせたものが初めは単なる偶然にすぎなかったかもしれぬにしても、少々の理由ではその方向を変えるべきではないのである。というのは、こうすることによって、旅人たちは彼らの望むちょうどその場所には行きつけなくとも、すくなくとも最後にはどこかにたどり着き、それは恐らく森の真ん中よりは良い場所であろうからである。上の格率において私はこういう旅人に倣おうとしたのである。


私の第三の格率は、常に運命よりもむしろ自己に打ち勝つことに努め、世界の秩序よりはむしろを自分の欲望を変えるように努めること、そして一般的に言って、我々が完全に支配しうるものとしては我々の思想しかなく、我々の外なるものについては、最善の努力を尽くしてなお成し遂げえぬ事柄はすべて、我々にとっては、絶対的に不可能である、と信ずる習慣をつけること、であった。


最後に、このような道徳の結論として、私は人々がこの世で携わる様々な仕事をすべて吟味にかけ、その中から最も良いものを選ぼうとした。そして、他の人の仕事については何も言うつもりはないが、私自身は、今携わっている仕事を続けるのが最も良いと考えた。それは自らの全生涯を自らの理性の開発に用い、自ら課した方法により、真理の認識においてできる限り前進する、ということである。


「哲学原理」(Les Principes de la Philosophie)

第1部
人間的認識の原理について

1 真理を探求するためには、一生に一度は、あらゆるものを出来る限り疑ってみる必要がある、ということ。

私たちは、まだ自分の理性を十分に使えないでいる子どもの頃から、感覚的な事物について様々な判断を下してきているので、多くの先入見ができてしまっていて、それに妨げられて真の認識ができなくなっている。そういう先入見から自由になるためには、一生に一度は、ほんの少しでも不確実だという疑いの見いだせるものについて、ことごとくこれを疑ってみようと努めるより他にないように思われる。

2 疑わしいものは偽であるとみなすべきである、ということ。

それだけでなく、最も確実で、最も容易に認識できるものを、明らかに見出すためには、疑う余地が有るものは偽であるとみなすのが有益であろう。

3 しかし、この懐いを実生活にまで適用してはならない、ということ。

しかしながら、この懐いは、真理の観想だけに限らなくてならない。なぜかというと、実生活においては、私たちが懐いから脱け出せないでいるうちに、行動すべき機会が去ってしまうことが実に多いので、単に真実らしいというだけのものでも受け入れざるをえないということも稀ではないし、のみならず、二つのうちどちらが他方よりも真実らしいか決まらない時でも、どちらか一方を選ばざるをえない場合さえあるからである。

4 なぜ私たちは感覚的な事物が真でないかもしれないと疑うことができるのか。

しかし今、私たちは、ただ真理の探究だけを志しているのであるから、感覚的な事物あるいは想像的な事物というものが果たして存在しているかどうかをまず疑ってみよう。というわけは、第一には、私たちは感覚というものが時に誤るものであることを知っているし、たとえ一度でも私たちを欺いたことのあるものに対してはこれをあまり信用しないのが賢明だからである。また一つには、私たちは毎日のように睡眠中に、実はどこにもありはしない無数のものを感覚したり想像したりするように思っているが、そのように疑ってみるならば、眠りと目覚めをはっきりと区別する指標はどこにも見当たらないからである。

5 なぜ数学の証明さえ疑うことができるのか。

私たちはまた、以前はこの上なく確実なものと思っていた他のものも、疑うことにしよう。つまり、今まで自明なものと思っていた数学の証明やその原理でさえも、疑うことにしよう。その訳は、一つには、このような明白な事柄においてさえ誤る人は多くいるし、また私たちには偽なものと思われるものを、最も確実にして自明なものと認める人が少なからずあることがしばしば見られたからでもある。更にまた、とりわけ、全能であり私たちの創造者である神が存在すると聞いているからである。つまり、私たちにとっておよそこの上なく分かりきったもののように見えるものにおいてさえも私たちがいつも誤ってばかりいるというという具合に、神は私たちを創造しようと欲したのかもしれないのである。前に注意したように、私たちが時として誤ることがあるということからして、そのようなこともあり得ないとは言えない。あるいはまた、仮に私たちは全能な神によって作られたのではなくて、私自身かあるいは他の何者かによって作られたのであると仮定してみるとしても、私の起源である創造者の力をますます少なく認めることになるだけ、いっそう私たちは不完全で常に誤るものであると信じざるを得なくなるであろう。

6 疑わしいものに同意することを差し控え、それによって誤謬に陥るのを避けることが出来る、自由意志が私たちにはある、ということ。

しかしながら、たとえ私たちを作ったものが誰であるにしても、また、その者がどれほど強力でありどれほど欺瞞的なものであろうとも、それにもかかわらず、明らかに確実でないものやまた解明されていないものを信じることを常に差し控え、かくして決して誤ることがないように用心することができる自由が私たちのうちにあることを、私たちは経験から知っている。

7 私たちが疑っている間存在しているのでなくては疑うということ自体ができないということ、そしてこれが、順序正しく哲学する場合に私たちの認識する最初のものである、ということ。

しかしこのようにして、少しでも疑うことのできるものはことごとくこれを退け、それを偽であると想定してみると、神もなく空もなく物体もなく、私たち自身にも、手も足もなく、体さえもない、と想定することはたやすいことである。しかしだからといって、このようなことを思考している当のものが、思考しているその時に存在していないと考えることは出来ない。したがって、「私は考える、ゆえに私はある」というこの認識は、順序正しく哲学しようとする者が誰でも出会う、あらゆる認識のうちで第一の、最も確実な認識である。

8 そこから精神と物体(身体)との間にある区別が認められる、ということ。

そしてこれこそ精神の本性、および精神と物体(身体)との区別を見いだす最良の道である。なぜなら、私たちの思考とは違った一切のものを全て偽であると想定する、その私たちとは一体何であるのか、と調べてみると、延長や形や場所や運動といった、およそ物体に属すると考えられるようなものは、私たちの本性には属さず、ただ思考のみがこれに属している、ということを私たちは明らかに見てとるからである。したがって、思考はあらゆる物体的なものよりも先に、かつまたより確実に認識される。というのは、思考するということはすでに私たちはこれを認識したのであるが、他のものについては私たちはこれをまだ疑っているからである。

9 思考とは何か、ということ。

私が思考という言葉で理解しているものは、私たちが意識しているときに、それらについての意識が私たちのうちにある限りにおいて、私たちのうちで起こる一切のもの、である。それゆえに、理解すること、意志すること、想像することだけではなく、感覚することも、ここでは思考することと同じである。そこでもし私が、「私は見る、あるいは私は歩く、ゆえに私はある」、といい、しかもそれが身体によって行われる視覚または歩行のことを言っているのだとしたら、その結論は絶対的に確実なものとはいえない。というのは、睡眠中にしばしば起こるように、目を開かず場所を移動せずとも、また、仮に私が身体というものを全く持っていないとさえしても、自分が見たり歩いたりしていると思うことは可能だからである。しかしながら、もしこれを、見たり歩いたりする感覚そのもの、あるいはそうした意識、という意味に理解するなら、この結論は全く確実である。というのは、この場合には、それは精神に関わる事となり、自分が見たり歩いたりしていることを感じたり思考したりするのは、ただ精神だけなのだから、である。


読書案内
デカルトの哲学に関心があるという人に、まず読んで欲しいのは、『省察』、特にその最初の二章、です。『哲学原理』で簡潔に書かれている内容が、息詰るような集中力で考えぬかれています。
(私も高校生の頃読んで、「あ、これだ!」と、ただひたすら感心した覚えがあります。本はちくま学芸文庫(山田弘明訳)などで買えます。)
デカルトの倫理学説は、『情念論』の一部や、書簡(特に1645年のエリザベト宛の書簡。中央公論社の「世界の名著」シリーズの『デカルト』に翻訳がある)によく表れています。
「仮の道徳」の方は、殆んどストア派ですから、珍しいものではありませんが、精神を幾何学的に分析してゆく方法には、独創的な所があります。(この延長上に、スピノザの倫理学が成立します。)
ともかく、デカルトについての理解なくしては、近代以降の哲学の正確な理解はありえません。そういう意味では、哲学を学びたいという人にとって、デカルトは必読です。


→三木清訳『省察』(青空文庫)

→村の広場に戻る