デリダ
Jacques Derrida (1930-2004)


デリダについては、あまり関心もないし、次から次と出る分厚い本も(ましてやフランス語などで)読んでもいないし、その生前には触れないで済ませようと思っていたのですが、
死後数年にもなり、20世紀の哲学者としては重要ですから、私が理解している限りのことを書いてみます。
(その性格上、出典は、80年くらいまでの初期のものに限られています。)

デリダの哲学の出発点は、ハイデガーでしょう。
ハイデガーはその「存在」に関する独自の視点から西洋哲学の歴史を解体し、
「存在」が主として「本質存在(essence)」の側から理解され、
それが精神の対象として主観によって措定されたものと見なされ、
人間の下で作り出され物象化された事物的存在として理解されてきたことを明らかにしました。
存在とは現われ出るものであるはずなのに、現われ出ているものが真理と見なされるわけです。
つまり存在は「いま目の前にあること」=「現前(Anwesenheit)」として誤解されてきたわけです。
これを受けて、デリダは「現前(présence)形而上学」であると哲学(とりわけフッサールの現象学)を批判します。

哲学的にというか、現象学的にというか、ありのままの知というものを考えてみると、
「私」が知っているのは、クオリアというか、自分の意識に現われて来ているがままの知覚だと考えられます。
例えば、目の前にあるパソコンや窓の向こうに見える木や家が、直接そこにあるものとして現われています。
そして通常は、それらは、私が見ていなくても変わらずに同一なものとして存在していると考えられます。
しかし、本当にそうか、と問うのが哲学です。
ヒュームによれば、例えば瞬きをして目をつぶる前と後では知覚内容は異なるのに、心の習慣によって同じだと思い込んでいるだけなのです。
(カントのように、「超越論的な主観の論理的な機能によって」と言ってみても、内実はたいして変わりません。)
人もそうです。今日の友人が昨日の友人と「同じ」だとなぜ考えられるのでしょうか。
十年ぶりに会った友人が「同じ」とは思えないなら、一週間ぶりに会った友人が「同じ」だとなぜ言えるのでしょうか。
それは、名前や類似性によって、「同じ」ものだと想定されているからだ、と言う他はないでしょう。
窓の外に見える木や家は、実際には、その表面しか見えていません。パソコンのモニターに映っている平面的な画像と同じです。
でも普通は、木は立体であり、見えていない裏側や内側があるものだと思われています。
そうした想定された同一性を基にして、知覚は与えられています。
(別の言い方をすれば、我々が見ている木や家の像は、蜂や犬が見ている像とは違っているはずです。
人間は脳が情報処理をした映像を見ているわけです。)
だから、元のものは同じだというのは、証明された真理ではなくて、一つの形而上学です。
先に「名前と類似性によって」と言いましたが、「似ている」ということは「同じ」でもあり「違う」ものでもあるということです。
そして言葉の同一性とは、ソシュールが示したように、他との差異に基づいて成立しているものです。
同一性の中には、差異性が含まれています。
と言うより、差異性に基づいて同一性が構成されているわけです。
そこに、デリダの言う、「差延 (différance)」の根拠があります。
「真なるものは、同一性と非同一性の同一性である」とヘーゲルは言いました。
それを運動として捉えるならば、「ずれていく働き」において、全ては成り立っていると言うことが出来ます。
デリダの言う「差延 (différance)」とは、「差異(différence)」に加えて、動詞「différer」の持つ「延期する」というもう一つの意味加えるためにその現在分詞形「différant」を合成して作られた造語です。
(続く―書きかけです―)

エクリチュール(écriture)
英語なら、writing、「書くこと、書かれたもの」を意味するが、デリダはそこに言語の根源的な機能を読み込む。
外国から本と共に文化を輸入してきた日本では、書かれたものを有り難がる傾向が今でもあるが、
プラトンを初めとする西洋の伝統的な思考の中には、聞き手の前で話された言葉(パロール)こそが、真理を伝達するものであって、
書かれたもの(エクリチュール)は二次的で魂の抜けた文字だと考える傾向がある。
デリダによれば、それは哲学的思考が、現前の形而上学に毒されているからでもある。
目の前で語りかけられる言葉(音声=ロゴス)の偏重、これを音声中心主義とデリダは呼ぶ。
それに対して、より根源的な「原エクリチュール」をデリダは対置する。


脱構築=デコンストラクション(déconstruction)

構築中(under construction)です。


参考文献
斎藤慶典『デリダ なぜ「脱‐構築」は正義なのか』(NHK出版)
デリダ自身による自分の生涯と哲学についての解説は
ジャック・デリダ『言葉にのって』林・森本・本間訳 (ちくま学芸文庫)


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