仏教(Buddhism)


原始仏教

ブッダ(Buddha=「目覚めた人」)の本名は、ゴータマ・シッダルタ(シッダッタ)、生まれは、シャカ(釈迦)族の王子である。
ブッダは29歳のとき、妻子を捨てて、修行の旅に出かけた。5/6年のあいだ、有名な先生の許を訪ねたり、苦行に耐えたりしたが、
ついにはそれらを捨てて、菩提樹の下で瞑想に入り、悟り(=菩提)を開いた。
「四(聖)諦」はブッダが最初に説いたと言われる教えの一つ(「諦」は「真理」の意味)。

仏陀の教説
四諦 1)苦―この世は苦しみに満ちている
         (四苦=生病老死、八苦=怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五蘊盛苦)
    2)集―苦しみには原因がある(→縁起)
    3)滅―苦しみをなくす事ができる(→解脱/ニルヴァーナ(涅槃))
    4)道―そのための方法がある
         (中道、八正道=正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
無我説
 では、ブッダの説いた、全ての苦しみの原因とは何か。
 それは、一言で言えば、「愛」である。自分のものではないのに、欲しがる邪な欲望を「渇愛」という。
 言い換えれば、全ての苦しみは、「自分の思い通りにならない」ことから生じる。
 そこには、「自分(のもの)」に関する根本的な誤解、根源的無知(=「無明」という)が横たわっている。
 そもそも、「私(=自分)」というものは存在しないのである。(資料1/2を参照)

ブッダの最期の言葉
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」
「わたしはいまお前たちに告げよう、――もろもろの事象は過ぎ去るものである(諸行無常)。怠けることなく修行を完成なさい。」
(中村元『原始仏教』 ちくま学術文庫)

(「法」はインド語「ダルマ/ダンマ」の訳。「法律」の意味ではない。元来は「自分を保つもの」という意味だと言われるが、ギリシャ語の「ロゴス」のように、「法則」「真理」「言葉」「存在者」といった広い意味を併せ持つ。ここでは、「私(ブッダ)の語った真理(の言葉)」という意味にも解せるが、もっと一般的に「この世界の法則=真理」と理解する方が、「あれがあるから、これがある」(縁起)というブッダの最初の説教の言葉に繋がって、よいように思う。
「島」は「洲」でもよい。海や大河の中の拠り所を意味する。また「灯り」という解釈も可能。漢訳は「自灯明」。)
ブッダは、「29歳で善を求めて出家」し、「人生の旅路を通り過ぎ」「齢80となった」後、最後の旅に出て、
「この世界は美しい」「精進せよ」と弟子たちに言い残して亡くなった。
(『ブッダ最後の旅』中村元訳 岩波文庫)

仏教の倫理
「うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。」
(『ダンマパダ』―引用は、中村元『原始仏教』から)
仏教の教えは、単純だ。曰く、
「善いことをせよ、悪いことをするな」
(「諸悪莫作、衆善奉行」)
悪い行為は、無意識のうちに、深いところで、その人の考え方を歪め、さらに悪い結果を生み出す。
例えば、君が試験でカンニングをしたとする。次に君は「みんな、やってる」とか「誰にも迷惑かけてない」とか呟いて
自分の行為を自分に納得させようとするだろう。
真面目にやってる人に、「いい子ぶりやがって」と毒づくかもしれない。
それは自分がやった悪い行為がいちばん君の魂を傷つけるからだ。
「生まれによって<バラモン>となるのではない。行為によって<バラモン>なのである。
行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。」
アリストテレスと同じように、ブッダも行動主義的立場で考えている。
「次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。
1)生きものを殺してはならぬ。
2)与えられないものを取ってはならぬ。
3)淫行を回避せよ。
4)他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
5)酒を飲んではならぬ。」
(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳)


大乗仏教

仏陀は紀元前5/6世紀に活動した実在の人物であるが、
紀元前一世紀頃から、様々な思想家によってその思想が発展させられると、
自分が苦しみから逃れるだけでなく(いわゆる「小乗仏教」)、他の人も苦しみから救い出すことが仏教(=大乗仏教)の目標となり、
真理を悟った者は全て仏陀だと言われ、さらに宇宙を支配する法則そのものが仏陀だと言われるようになる。
(「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわ)んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍の生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」(『ブッダのことば
スッタニパータ』中村元訳)
この言葉が示すように、ブッダは世間を捨て一人で修行する生き方を理想とした。しかし、それは誰にでもできることではない。
と言うか、世間から離れないと自由になれないというのであれば、それはまだ世間に囚われており、本当の意味での自由ではないとも言える。
「衆生病むゆえに、我病む」という『維摩経』における維摩の言葉は、自分が救われるためには、世間の人が救われる必要があるという新しい仏教の考え方を示している。)

大乗仏教の展開
A (初期=理論)
  空観(竜樹=ナーガールジュナ)―全ては「空」であろ、つまり他との関係の中で一時的に存在している、実体性のないものである。
   →「空」の思想を説いた、代表的な仏典が「般若心経」(資料3を参照)
  唯識(世親=ヴァスバンドゥ)―全ては心の働きである、無意識(マナ識・アラヤ識)を含めた「心」の分析
B (中期=形而上学)
  如来蔵―全てのものは清浄である
        (清浄である→汚れていない→自分中心の見方を離れている→それ自体において悟りを含んでいる)
  天台(『法華経』)―全てのものは、それ自体、真理=仏陀であるという本質を具えている(仏性)
  華厳(『華厳経』)―個と全体(一と多)はお互いを反映し調和している
              (一塵のなかに全宇宙が含まれている)
C (後期=実践)
  密教(空海)―マトリックス界とダイヤモンド界の統合、身意口(身体と心と言葉)における「入我・我入」(宇宙との合一)の方法、即身成仏
  浄土宗(法然・親鸞)―救済原理の出現(阿弥陀仏)、人間の弱さの自覚と悪人正機の思想、念仏という方法
  禅宗(道元)―私=宇宙のなかに存在する真理を現わし出すための、主体性と座禅という方法の徹底


資料1
原始仏典より

見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>に執着している。「これこそ真理である」と考えている。
或るものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものはそれとは異なったものとなる。なんとなれば、その(愚者の)考えは虚妄なのである[から]。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
有るものと言われる限りの、<色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるもの>であって、好ましく愛すべく意(こころ)に適うもの、―それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般には認められている。またそれらが滅びる場合には、彼らはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
(『ブッダのことば(スッタニパータ)』中村元訳 岩波文庫)

人々は「わがものである」と執着したもののために苦しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。
(同上)

どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁(よ)って起こるのである。しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない。
(同上)

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。―車をひく(牛の)足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。―影がその体から離れないように。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。
「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息(や)む。
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
(『真理のことば(ダンマパダ)』中村元訳 岩波文庫)


資料2
「空」の意味―『ミリンダ王の問い』より

「大王よ、…いったいあなたは、歩いてやってきたのですか、それとも乗り物でですか?」
「尊者よ、わたしは歩いてやってきたのではありません。わたしは車でやってきたのです」
「大王よ、もしあなたが車でやってきたのであるなら、<何が>車であるかをわたくしに告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「軸が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「輪が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「車体が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」

「しからば大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛(くびき)・輻(ふく)・鞭<の合したもの>が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「しからば大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。大王よ、車とはことばにすぎないのでしょうか? しからば、そこに存在する車は何ものなのですか?」
(『ミリンダ王の問い 1』 中村元・早島鏡正訳 東洋文庫)
(この対話は、直前の、ミリンダ王によるナーガセーナへの問いで始まる。
「あなたは誰か」という問いに、尊者ナーガセーナは、
「ナーガセーナ」という名で呼ばれているが、それは名前に過ぎず、そこに「人格的個体」は認められない、と答える。
それに対して、ミリンダ王は、誰がナーガセーナなのか、何がナーガセーナなのか、
髪の毛がナーガセーナなのか、心臓がナーガセーナなのか、脳がナーガセーナなのか、と
上のような仕方で問い詰める。
それに対するナーガセーナの反論が、上の対話である。
その結論は、
「轅に縁(よ)って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って…、『車』という名称・呼称・仮名・通称・名前が起こるのです。」
つまり、縁起(=関係性)によって存在するのであって、実体は存在しない、というのである。)


資料3
大乗仏典(『般若心経』(大本)中村元・紀野一義訳 岩波文庫)

このように私は聞いた。あるとき世尊は、多くの修行僧、多くの求道者とともに、ラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラクータ山(霊鷲山)に在した。そのときに世尊は、深遠な知恵のさとりと名づけられている瞑想に入られた。そのときすぐれた人、求道者アヴァローキテーシュヴァラは、深遠な知恵の完成を実践しつつあったときに、見きわめた、―存在するものには五つの構成要素がある―と。しかも、彼は、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見ぬいたのであった。そのとき、シャーリプトラ長老は、仏の力を承(う)けて、求道者アヴァローキテーシュヴァラにこのように言った。「もしも誰かある立派な若者が深遠な知恵の完成を実践したいと願ったときには、どのように学んだらよいであろうか」と。こう言われたときに、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラは長老シャーリプトラに次のように言った。
「シャーリプトラよ、もしも立派な若者や立派な娘が、深遠な知恵の完成を実践したいと願ったときには、次のように見きわめるべきである―《存在するものには五つの構成要素がある》と。そこで彼は、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないということである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ。実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。目もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。目の領域から意識の領域に至るまでことごとくないのである。
(覚りもなければ)迷いもなく、(覚りがなくなることもなければ)迷いがなくなることもない。かくて、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
それゆえに、シャーリプトラや、得るということがないから、求道者の知恵の完成に安んじて、人は心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、転倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去、現在、未来の三世にいます目覚めた人々は、すべて、知恵の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。知恵の完成の大いなる真言、大いなる覚りの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。
その真言は、知恵の完成において次のように説かれた。
 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
シャーリプトラよ、深遠な知恵の完成を実践するときには、求道者はこのように学ぶべきである―と。
そのとき、世尊は、かの瞑想より起きて、求道者・アヴァローキテーシュヴァラに賛意を表された。「その通りだ、その通りだ、立派な若者よ、まさにその通りだ、立派な若者よ。深い知恵の完成を実践するときには、そのように行われなければならないのだ。あなたによって説かれたその通りに目覚めた人々や、尊敬さるべき人々は喜び受け入れるであろう。」と。世尊は喜びに満ちた心でこのように言われた。長老シャーリプトラ、求道者・聖アヴァローキテーシュヴァラ、一切の会衆、および神々や人間やアスラやガンダルヴァたちを含む世界のものたちは、世尊の言葉に歓喜したのであった。
ここに、知恵の完成の心という経典を終わる。
(黒字の
中間部分が、通常の般若心経
シャーリプトラ(=舎利子はブッダの一番弟子みたいな人)と
「求道者(菩薩=「悟りを求める人」)アヴァローキテーシュヴァラ(観音=「世の中の声を聴く人」)の対話部分を取り出したもの


参考文献
原始仏教
中村元『原始仏教』(NHKブックス)
は、私も学生時代に読んだ、ロングセラー。この中に引用されている原文は、
中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)
中村元訳『真理のことば 感興のことば』(岩波文庫)
などで読める。それぞれ、『スッタニパータ』と『ダンマパダ(法句経)』等の翻訳で、
資料としては最も古いブッダの言葉が収録されている。

大乗仏教
「空」の理論については、
玄侑宗久『現代語訳 般若心経』(ちくま新書)
伊藤比呂美『読み解き「般若心経」』(朝日文庫)
は、分かりやすい『般若心経』の解説書。

華厳と唯識については
鎌田茂雄『華厳の思想』(講談社学術文庫)
岡野守也『唯識のすすめ』(NHKライブラリー)
辺りが、分かりやすいとは言えないだろうが、割と分かりやすい、華厳と唯識の解説書。

井沢元彦『逆説の日本史 6 中世神風編』(小学館文庫)の前半は、仏教の基本的な学説の紹介から始まる、日本における仏教思想の発展のコンパクトな叙述。


→空海(密教)
→親鸞(浄土宗)
→禅の思想

→資料集のページに帰る
→村の広場に帰る