アリストテレス
Aristoteles ( 384/3-322/1B.C.)
左がプラトン、右がアリストテレス(手前に寝転んでいるのは、ディオゲネス)
ラファエロ「アテナイの学堂」より
アリストテレスに関しては、
「プラトンのイデア論を批判した」だの、
「徳は中庸」だの、
「最高の理想は、真理を探究する、観想的生活」だの、
よく知られている結論だけ書いても、何か当たり前の(あるいは変な)詰まらない事を言っているのではないか、という気がすると思います。
しかし、そうではない、ということを(アリストテレスを知らない人に)解ってもらうのは、かなり大変です。
論理学から天文学や生物学まで何でも一人でやってしまった「万学の祖」ですし、その思考の粘り強さは比類がありません。
実体―「形相(eidos)」と「質料(hule)」
「形相 もともと、目に見える「形」を意味するギリシャ語エイドスの訳語で、ある一つの種類の事物を他のものから区別する本質的な特徴のことをいう。
アリストテレス以来、この語は質料あるいは素材と相関的に用いられる。
例えば、材木が家という存在の質料あるいは素材とすると、「家」の概念にかなった構造上の形や機能はその形相である。
それは家を建てる場合、その計画のうちに観念として存在し、素材を得て現実に存在するようになるもので、現実に存在する個々のものは、このように、形相が単なる可能態としての質料を限定することによって成り立つと考えられる。
こうして形相と質料の対立はまた、現実性(エネルゲイア)と可能性(デュナミス)の対立でもある。」(平凡社『哲学事典』)
アリストテレスにとって、本当に存在するもの(=実体)とは、まず、個体(個物)である。
個体とは、具体的に言えば、固有名を持つものや、いまここにある「このもの」であり、一個しか存在しないようなものである。
プラトンが、「イデア(=エイドス)」という言葉で表現した、存在者の本質を、アリストテレスは、「形相」と呼び(*)、それは質料と一体化した形でしか存在し得ないと主張する。
例えば、「人間」という本質は、例えば今ここにいるアリスとタレスという具体的な人間たちを離れては存在しない。
また、「三角形」の本質は、いまこの紙の上に描かれている「この三角形」の中に現れている。
緑の木の葉は存在するが、木の葉の緑など存在しない、と言ってもよい。
(「人間」や「三角形」といった普遍的なもの(=イデア)は、せいぜい「第二実体」である。)
それは、また「善さ」や「正しさ」に関しても同じである。
「善」とは個別的な行為において示されるのものであり、そうした個々のケースを離れて存在する「善さそのもの」など意味がない。
従ってまた「何が正しいか」という問いに、一般的に答えることも出来ない。
従って、それは(現実態においてしか存在しない、つまり)「大多数の人々が正しいと思っていること」を離れては、存在しないのである。
(この「思われていること」(ドクサ)から出発するのがアリストテレスの「弁証法」である。)
(*) プラトンは「イデア(idea)」、アリストテレスは「形相(eidos)」というのが世間の常識だが、そうした明確な使い分けは、実際にはない。問題は、それが「離れて(独立に)ある」かどうか、という考え方の違いである。アリストテレスの場合、単独の形相は、その「可能態(デュナミス)」においてあり、「現実態(エネルゲイア)」においてあるのは、質料との複合体である。
「善」の意味―徳の倫理(virtue ethics)
「人間の徳や人格や善き生活について哲学的に考察した『ニコマコス倫理学』のなかでアリストテレスがめざしたのは、情念を知性によって統御することだった。情念は、うまく使えば知恵となって人間の思考や価値観を導き、命を救う。しかし同時に情念は、いともたやすく道から外れるものでもある。アリストテレスも認識していたように、問題は情動そのものではなく、いかに適切な情動をいかに適切に表現するかにある。いま問われているのは、情動にいかに知性を持たせるか、街にいかにして安寧をもたらすか、地域社会にいかにして思いやりをとりもどすか、である。」
ダニエル・ゴールマン『EQ こころの知能指数』(土屋京子訳)
アリストテレスによれば、
「最高の善は幸福(eudaimonia)であり、良く生き良く行為することが幸福と同じ意味である、ということに関しては、ほとんどの人の意見が一致している。」(『ニコマコス倫理学』(第一巻)1095a14-22)
「幸福とは、徳(=卓越性)に従う活動(energeia kat' areten)である。」(同上(第十巻)1177a10)
「徳はある種の中間(mesotes)である。」(同上(第二巻)1106b20)
「人間は万物の尺度である、有るものについては有るものの、有らぬものについては有らぬものの」という、プロタゴラスの有名な言葉は、まず第一に「善い(=善くある)ことや悪い(=善くない)こと」が相対的であるということの、つまり道徳の多様性の、意識を表明している。人間が作り出した人為的な道徳=ノモス(法・習慣)はピュシス(自然・実在)と一致しない。すると、そうである以上、プラトンの対話篇(『ゴルギアス』『国家』)に見られるような、<人間社会の約束事(ノモス)に縛られず、「ピュシス」に従って行動すること、つまり自分の利益を追求することが、本当の意味で「正しい」生き方である>、とする一部のソフィストの主張も間違いではないことになる。
アリストテレスはこの対立をキャンセルする。アリストテレスにとって、「善」は「自然」に基礎づけられる。自己の自然(本性)を実現することが全ての存在者の使命である。そして人間の自然(=本性)とは、理性(ロゴス)に従う活動である。
であるから、ソクラテス=プラトンのように「徳(優秀性)は知である」というだけでは足りない。「徳は知であり、教えられる。何が善いことか知っていれば、人はそれを行い善い人になる。」というソクラテス=プラトンの思考の前提には、重大な問題がある。過度の飲酒や喫煙が体に悪いことは誰でも知っているが、「♪分かっちゃいるけど、止められない」(@植木均)というのも人間の本性である。「知っている」ことの意味が改めて問い直されなければならない。
―簡単にいえば、理論的(学問的)な「知」と、実践(行為)における「知」は、性質が違う。実践における「知」は、ただ単に「知っている」だけでは十分ではない。
大事なことは、繰り返し実行すること、つまり訓練と習慣である。人間を動かす衝動(=欲望)は、そうした実践知(プロネーシス)に導かれて、真の徳になる。(注1)
肉体においても精神においても、本来あるべき自己の本質を実現すること(例えば、優れた医者や、優秀な学者や、卓越した野球選手になること)、それが人間が目指すべき徳(=優秀性)であり、そうした自己実現の活動の中に幸福(=良く生きること)がある、とアリストテレスは言う。(注2)
「『人間にとって善とは、生涯を通じての魂の最高の最も優れた活動である』(1098a15-18)。…私の翻訳でも解説を必要とするが、「優れた活動」の代わりに「徳に適った活動」とする標準的翻訳はなおわかりにくく、誤解を招くおそれがある。ここでアリストテレスは、エウダイモニアの中核は道徳の則(のり)を越えぬ活動だと言っているのではなく、たとえ最も価値のある活動に捧げられた人生でも、そのやり方が拙劣であるならば、最も能率よく行われた場合に比べて価値が劣ると言っているのだ。もしもビリヤードが人間の最も価値のある活動だとしたら、第一級のビリヤード選手になることが最善の人生であるべきである。アリストテレスの挙げる例は、アウロス(葦笛)を吹くからには巧みに吹くべし(1098a9-10)、というものだ。」(J.O.アームソン『アリストテレス倫理学入門』雨宮健訳)
徳、すなわち「優れた性格とは、エウダイモンな人生、すなわち最も生きるに値する人生を生きる人間の所有するものである。もしも我々が、どのような人を道徳的に最も尊敬するかという質問の代わりに、自分の子供にどんな人になってもらいたいかという質問をするならば、我々の問題意識はアリストテレスに近いものとなる。親は子供を、努力しなくても正しいことが行える人間になるようにしつけるべきだ、とアリストテレスは考える。」(J.O.アームソン『アリストテレス倫理学入門』雨宮健訳)
「では、アリストテレスはなにを善の尺度とするのか。
ピュシスである。存在者はすべて己に固有のピュシス(自然、本性、実体)を持っている。このピュシスに従って活動するとき、存在者はよい。たとえば、いじけずに天をも摩するが如く亭々と聳え立つ杉は、よい。
では、人間の自然とは何か。
それは「ロゴスをもつ動物」ないしは「共同体的動物」という定義によって示されている。だから、人間的なよさは、まず動物的な存在相(諸々の欲望、肉体的健康、生存維持のための財貨の取得)において充実していることである。しかし、人間の本性は勝れてロゴス(知る能力、交わる能力)にあるのだから、人間は、隣人と交わり、互いにその存在を肯定(愛)しあって、共同体のつながりの中に自己の存在根拠を据えるとき、真の充足を得、真によき者となるのである。」(岩田靖夫『西洋哲学史の基礎知識』)
アリストテレスによれば、何か他のものの手段であるような行為は、不完全なものであり、真の行為は、「それ自身のうちにその目的(テロス=終り)を含んでいる運動(=活動)」(『形而上学』1048b22)である。
例えば、ダイエットして痩せようとする行為は、痩せるという過程のうちにある限り、目的(=終り)をそれ自身のうちに含んでいない。
だからそれは「運動(キネーシス)」あるいは「過程」に過ぎず、(完全な)「行為」ではない。
これに対して、「善く生きること」や「幸福に生きること」は、その過程が同時に目的であるような活動である。
(別の例では、「通学」は学校に行くための「運動(過程)」であるが、「旅行」は、それ自身が目的である活動である。)
こういう「活動」を、アリストテレスは、「現実態(エネルゲイア)」と呼ぶ。
(この区別は、文法的には、「完了型と進行形が同時に成り立つ行為」とそうでない行為の違いとして特徴づけられる。)
総じて倫理的行為とは、結果ではなく、それ自体が問題となる行為であり、自分の本性(本来の自己)を実現する行為である。
「…たとえあ本性的に落下するものである石が、たとえ千万度上方に投げられたからとて、上昇するように習慣づけられることはできないし、また火が下降するように習慣づけられることも…できない。
これらの倫理的な卓越性ないし徳は、だから、本性的に生まれてくるわけでもなく、さりとてまた本性に背いて生ずるのでもなく、かえって、われわれは本性的にこれらの卓越性(アレテー)を受けいれるべくできているのであり、ただ、習慣づけ(エトス)によってはじめて、このようなわれわれが完成されるにいたるのである。
…倫理的な卓越性ないし徳の場合にあっては、…まずそうした活動を行なうことによってわれわれはその徳を獲得するにいたるのであって、それは、もろもろの技術(テクネー)の場合に似ている。というのは、後者の場合にあっては、「それをなしうるためにはすでに習得していることを要するところのもの」をわれわれが習得するのも、われわれがやはりそれを、自らなすことによってなのである。たとえばひとは建築することによって大工となり、琴を弾ずることによって琴弾きとなる。それと同じように、われわれはもろもろの正しい行為をなすことによって正しいひととなり、もろもろの節制的な行為をなすことによって節制的なひととなり、もろもろの勇敢な行為をなすことによって勇敢なひととなる。」
(『ニコマコス倫理学』(第一巻)1103a20-b1 高田三郎訳)
立派なことをしている人を見ると、「いいカッコして評価を上げようとしている偽善者だ」と言って非難するバカがいる。こんな奴は、目先の誘惑に負けて、いい人の振りをすることもできない。
「狂人の真似とて大路(おほぢ)を走らば、すなはち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば悪人なり。麒(き=名馬)を学ぶは麒の類(たぐい)、舜(しゅん=聖人)を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」
(『徒然草』第83段)
(注2)
なぜアリストテレスなのか?
徳の倫理は、近代の倫理学説への批判として、アリストテレスに帰れと主張する。そこにはどういう意味があるのか?
その人の善い人生=幸福求めるという点では、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも広い意味で「徳の倫理」と呼ぶことはできるだろう。その中でもとりわけプラトンは、「善」の一般的な意味の探求という方向に重点を置いた。よい料理人、よい医者、よい野球選手、…それらに共通する「よい」という意味は何なのか。プラトンはそれを「イデア(形相)」と呼び、「善さ」の「イデア」があると考えた。いわゆるプラトンの「イデア論」であり、プラトン主義(プラトニズム)である。
これはキリスト教神学とも結びつき、その後の哲学や倫理学の方向性に決定的な影響を与えた。
一例として、近代の倫理学説の代表である功利主義を考えてみよう。功利主義は「善」の意味を、「最大の幸福」と定義する。古典的な功利主義では「幸福」は「快楽」に還元できる(=快楽主義)から、善なる行為とは最大の快楽をもたらす行為であり、したがって、個人の個々の行為の是非は、「最大幸福」という大原則から演繹的に決定されうることになる。
(もう一つの代表的な近代の倫理学説である、カントの義務倫理も、「善なる意志」という大原則から普遍化可能性を経て個々の行為の是非を導き出すというやり方をしている点で、方向性は同じである。)
これは「善のイデア」が個々の「善い」ものを決定するというプラトン主義に他ならない。
そのプラトンのイデア論を批判したのがアリストテレスである。
アリストテレスによれば、「善さ」は個々の「善い人」を離れては存在しない。よい料理人、よい医者、よい野球選手、…それらに共通する「善さ」というものはあるのだろうが、よい野球選手の善さとよい医者の善さは同じではない。天才イチローは天才外科医ブラック・ジャックにはなれない。
各人は自己の自然(=本性)に基づいて、自分の置かれた状況(共同体)の中で、あるべき姿の自己を開花させねばならない。それがその人の徳(=優秀性)である。
イデアはその具体的なあり方を離れては存在し得ない。
プラトンとそのイデア論に対するアリストテレスの批判の射程は、遠く近代の倫理学説にまで及んでいたのである。
共同体主義(communitarianism)
「人間の善」を考察する学問は、その前半が『倫理学』、後半が『政治学(ポリスについての学)』である。
古代ギリシャのポリスは、「都市国家」であり、一応「国」ではあるが、人口は数千人からせいぜい数十万人程度であり、
現代の基準で考えれば、地方自治体や各種の共同体とも解することができる。
ストア派のコスモポリタニズムは宇宙の法則(理性)に従うから、するべき行為に国も性別も関係しないと主張するが、
我々が生まれたときから教わって身につけている諸々のルールの多くは、理性だけではなく、共同体の伝統に根ざしている。
それを無視して、善い人生、幸福な人生を送ることは出来ない―という点を考えると、アリストテレスは共同体主義のパイオニアでもある。
付録
1)「優れた性格(アレテー)」について
(1) 優れた性格。正しい行いをしようと思い、かつそれを何ら心の葛藤なしに行えるような人の状態。
(2) 意志の強さ。不正への誘惑を感じるが、それに打ち勝って正しい行いをする人の状態。
(3) 意志の弱さ。不正への誘惑を感じそれに打ち勝とうとするが、成功せず不正をなしてしまう人の状態。
(4) 悪い性格。自ら進んで不正を行い、それに対して何の抵抗も感じない人の状態。
欲求 | 選択 | 行動 | |
優れた性格 | 善 | 善 | 善 |
意志の強さ | 悪 | 善 | 善 |
意志の弱さ | 悪 | 善 | 悪 |
悪い性格 | 悪 | 悪 | 悪 |
この四つの性向を現代社会の例で説明すると次のようになる。まず、第一の性向を持つ人は、交通渋滞のなかでも平静を保つことが容易にできる穏やかな人であり、第二の例は、怒りっぽいが自制することのできる人であり、第三の例は、怒りっぽいが平静を保とうと努力し、それに成功しない人であり、最後に第四の例は、あたり構わずののしり、わめきちらして何ら良心の呵責を感じない人である。
(J.O.アームソン『アリストテレス倫理学入門』雨宮健訳 より引用)
2)「徳は中間」の例
(過多) | (不足) | (適切) | |
(戦いにおける)恐怖と平然 | 無謀 | 臆病(弱虫) | 勇敢 |
快楽と苦痛 | 放埓 | 鈍感(無感覚) | 節制 |
金品の贈与と取得 | 浪費 | 吝嗇(けち) | 気前のよさ |
名誉と不名誉 | 傲慢 | 卑屈 | 誇り(自尊心) |
怒り | 怒りっぽさ | 意気地なし | 穏やかさ |
他人への態度(真実さ) | 自慢(虚飾) | 卑下 | 誠実 |
他人への態度(快適1) | 道化 | 野暮 | 機知 |
他人への態度(快適2) | 追従(機嫌とり) | 無愛想・無神経 | 好意的(親愛) |
「中間」は二つの極端(=悪徳)の中間と位置づけられるが、平均値を意味する、いわゆる「中庸」の説ではない。
アリストテレスは、「それ自体における」中間ではなく、むしろ「我々への関係において」の中間を考えるべきだと言う。
例えば、1000kcalでは足りなくて3000kcalでは食べすぎの場合、その中間は2000kcalである(=それ自体における中間)が、
トライアスロンなどの激しい運動をするアスリートにとっては5000kcalが適切である(=我々との関係での中間)こともある。
「然るべき時に、然るべき仕方で、然るべき程に、然るべきことを行う」のが「中間」であり、その意味では「中間」は「頂点」である。
上の表でも、中間とは、その場に応じた適切な行動をとりうることを意味している。
例えば、怒るべき時には適切な仕方で怒るべきであって、菅(かん)前総理のようにやたらと怒鳴り散らしてしまう人も困りものだが、そこで怒らない人も、後でぐじぐじと恨んだりして始末に終えないものである。
参考文献
アリストテレスの代表的な著作は、岩波文庫などで読めますが、プラトンに比べると、そう読みやすいものではありません。
哲学なら、『形而上学』(出隆訳) 岩波文庫
倫理学なら、『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳) 岩波文庫
『ニコマコス倫理学』(渡辺・立花訳)光文社古典新訳文庫
『ニコマコス倫理学』なら、文庫の下巻に入っている「愛について」(第八巻と第九巻)辺りをまず読んでみてはどうでしょうか。
(「愛」と言っても主に「友愛」ですが、分かりやすいし面白いし、ここだけでも読めます。)